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2014年7月

2014年7月27日 (日)

「軍師官兵衛」 第26-29回 中国大返しに向けて話が緻密化している

 ここ数回の 「軍師官兵衛」。

 信長→秀吉、という権力の移譲のきっかけとして、本能寺からいかにして秀吉が毛利と和睦をはかり、中国大返しという奇跡の大逆転を行なったのか、という点に話が集中し、見る者を飽きさせません。 これまでの大河でさんざん見てきたはずの中国大返しも、ことその実質的な立役者である黒田官兵衛が主役ともなれば、主君の秀吉のモチベーション以外の点でかなり細かい描写が可能なために、あらためて、いやかなり新鮮に見えるのです。

 しかしながら不肖ハシモト、今年の大河については官兵衛が荒木村重に囚われるまではどお~も話がつまんなくて、このブログのコメント欄でもブチブチ文句をたれておったのでございます(笑)。
 その、どうにも浅い描写ばかりが目立っていた脚本は回を追うごとに鋭利さを増し、毛利方をどう説き伏せたのか、という論理に至って幾重にも構築され、見る者を納得させるに足る凄みを感じさせる。 諸所気になる点はあれど、大満足の域に達しているのです。

 また、中国大返しの内幕が詳細に語られる新鮮さと相まって、織田信長と明智光秀の"大河恒例行事"「本能寺」 の 「待ってました」 的な安心感も、並行して語られる。 その点において、「黒田官兵衛の視点から語られる今年の大河」 の、まさに独自性が開花したと言っていい気がします。

 この 「江口」 信長 と 「小朝」 光秀。

 これまではどお~にも不満を持って見ていたのですが(過去記事コメント欄参照)、本能寺に向けて回を追うごとに両者ともよくなるよくなる。

 信長はそれまでの 「坂本龍馬チック」 だったさわやかさが私の不満の中心だったのですが、それがどんどんと当時の 「朝廷中心信仰」「仏教勢力の政治的圧力」 といった日本社会に対して齟齬をきたしていく。
 その段階において、信長の持っていた覇権のスケール感が孤独感を増して狂気に見え始め、日本を飛び出して世界に移行していく様を、江口サンはきちんと表現していた。
 まあ最期はちょっと 「アレアレ」 という感じでしたけど(笑)。 でも全体的には尻上がりによくなっていったと思います。 しかしおかしいな。 信長が死ぬとき、江が出てくるはずなんだが…(笑)。

 光秀も小朝サンの 「まるで落語家の自分が場違いにいるような」 戸惑いをそのまま光秀の戸惑いに重ね合わせて見ることが出来、結果秀逸なキャスティングだったと思わざるを得ません。 小朝サンにこれほどの演技力があったとは、失礼ながらとても意外でした。

 今回の中国大返しの話をより説得力あるものにしたのは、高松城の水攻めにあったのではないか、という気が個人的にはしています。

 第26回、ここの城主である清水宗治に対して最初の和睦を申し入れた官兵衛。
 彼の説得の材料は、「『命を無駄にするな』 というのは私のおじいちゃんの教えでして」 というものでした(笑)。
 土牢から脱出した官兵衛はそれまでになくブラックなイメージが先行していたのですが、この清水宗治に対する説得の材料というのはいかにも弱かった(笑)。 「官兵衛、まだまだブラックの途上だぞ」 と感じた(笑)。
 しかし信長の死を知ってからの官兵衛の動きというのは、ここらへんの論理の脆弱さがほとんど見られない。 つまり、「高松城攻略を開始してからも、官兵衛は日々成長を続けていたのではないか」、という気を見る側に起こさせるのです。

 ここで私がいかにも惜しい、と思うのは、最近 「暗すぎて問題のあるゆるキャラ」 で有名になった、鳥取城の 「渇え(かつえ)殺し」 が大胆にカットされてしまったこと。

 ゆるキャラ 「カツエさん」 の由来は、官兵衛が仕掛けて秀吉が実行した鳥取城の兵糧完全シャットアウト作戦。 鳥取城の人々は人の脳みそまで食ったというなんとも残酷極まりない飢餓に追い込まれたわけですが、これをきちんと描いていれば、官兵衛がどうして土牢からの脱出以来ブラックになっていったのかをきちんと見つめることが出来たのではないか、と感じるんですよ。

 同時に、ここらへんのブラック極まりない官兵衛のあり方と、いまのところ生まれたばかりである次男、要するに黒田長政の弟である熊之助ですが、彼が早死にしてしまうことと、物語的に結び付けるアイディアも考えられたのではないか、という気がする。 つまり官兵衛に 「渇え殺し」 という重い荷を背負わせ、罪悪感と共に生かしていくひとつの材料です。 「自分が死なせた鳥取城の人々の怨念が、熊之助を殺させたのだ」、とかいう話もできそうじゃないですか。

 人は、いくら戦国時代であろうと、自分のしたことに対してある程度の罪悪感というものは抱いていたのではないか、という気がするんですよ。
 いまBSで再放送されている 「独眼竜政宗」 では政宗の犯した非人道的なことにもきちんと目を向け、そこから彼自身に葛藤させている。 それがドラマの 「きれいごと感」「おためごかし感」 をどれだけ軽減してくれることか。

 それに、「そこまでしてしまう官兵衛」 を描くことで、官兵衛についてきた家臣たちの動揺とか 「それでも私はついていく」 とか、そこらへんの揺らぎも表現できる。 秀吉の官兵衛に対する見方の変化もそこで表現できてしまう。 のちに自ら死んだあとに誰が天下をとるか、という話になったときに、「黒田官兵衛だ」 と答えたという、「秀吉の逸話の素地」 がそこで出来るし。
 物語を作る上で、「鳥取城の渇え殺し」 というのは、とても可能性を秘めたおいしい素材(不謹慎な表現ですが)だと思うんですけどね。

 ただ、鳥取城の件がなくても、ここ数回のこのドラマはそれをほぼ補っているように感じます。

 第27回 「高松城水攻め」 では、高松城を水没させるために土嚢によって堤を築いていくわけですが、この冒頭で官兵衛は 「俵一俵につきいくらいくら」 という費用を秀吉に耳打ちしている。 秀吉はその金額の多さにアタフタしてしまうのですが、「カネなんて使わなければただの石くれと同じ」 という論理で押し切ってしまう。
 この、「使うべき時にカネを惜しげもなく使う」、という発想が中国大返しの際の炊き出しやら松明やらのバックアップ体制のプレ・ショウ的な導入になっているし、さらにこの堤完成に至る過程がそのまま、人心の掌握とか足軽雑兵たちのチーム・プレーの成長、結束を促進させ、偶然にもそれが、中国大返しの機動力にそのまま受け継がれる結果をもたらした、という理論を構築しています。
 この、「中国大返し成功の裏に高松城の水攻めあり」、というドラマの理論にはシビレます。

 ただまあ、これだけ大掛かりな野外セットを作ったというのに、肝心の水攻めのシーンはちょっとあっさりしてたと思う(笑)。 ジオラマまで作って気合入ってたので、期待してたんだけどなー(笑)。 まあホントに水攻めなんてしたら水が何トン必要か分からんし、それこそポセイドン・アドベンチャーみたいな一大スペクタクルになってしまったでしょうけどね(笑)。

 また、この同じ回では徳川家康役として、寺尾聡サンが初登場。
 この人の存在感たるや。
 「軍師官兵衛」 に、もっとも強力な助っ人が加入した、と感じました。
 ここでの家康、ちょっと眇め気味であり(これって差別用語…だとすればお詫びします)、世の中をちょっと拗ねながらやぶにらみしている、という油断ならない人物を演じています。 第29回 「天下の秘策」 では光秀を恐れて伊賀越えをするのですが(ここでも 「江」 は出てこなんだぞ…笑)、本多などの家来に励まされるものの、やはりどこか自暴自棄風。 実に家康という人物を勉強されてからスタジオ入りしているな、と感じざるを得ません。

 そして、26回で 「おじいちゃんの教え」 で清水宗治説得を見事玉砕した(笑)官兵衛は、水攻めでネを上げた毛利方の使者として和睦を申し入れてきた安国寺恵瓊、そして小早川隆景を、「毛利方の交渉の要」 として利用しようとし始めるのです。
 ここらへんの切り替えが実に世間を読んでいる、というか、状況をつかめるようになったな官兵衛、という感じがする。 恵瓊に対しては、徐々にその関係性が濃くなるという 「ドラマとしての布石」 を打っている点も見逃せません。

 官兵衛の折衝ポイントは、「清水宗治の処遇」。 信長が出陣となれば、どうしても清水宗治は命を差し出さなければならない。 しかし毛利方は義を重んじるから、それだけはどうしても呑めない。
 要するにここが毛利方の和睦へのネックとなっているのですから、「宗治を織田方に寝返えさせる」、という手段によって、信長の勘気を和らげさせようと官兵衛は画策するのです。

 これは清水宗治の忠孝の気性を考えるとうまくいく可能性の低い折衝なのですが、ここで小早川隆景と恵瓊には 「敵方に黒田官兵衛あり」 という印象がだいぶ強まる、という効果がある。
 小早川たちの説得に果たして宗治は拒絶をするのですが、ここで興味深かったのは、清水宗治が小早川隆景から拝領した太刀を、その忠孝の証しとして大事に考えていることが分かったこと。
 これは、同じように最初のお目通りの際に信長から太刀をもらった官兵衛の心のなかに、松寿丸の一件(官兵衛が裏切ったと断じて信長が松寿丸を殺そうとした件)以来くすぶっているモヤモヤとした感情と、対をなしている。

 見て分かるように、松寿丸の一件以来、官兵衛は信長に対して、以前のように心底傾倒している、という態度を見せなくなっています。 牢から出てすぐ信長に謁見した時も、松寿との再会を喜ぶだけで、信長の謝罪に恐れ入るとかいう素振りは露ほども見せなかったし、秀吉と共に聞いた信長の世界進出の話に対しても、どこか空々しく持ち上げるだけ。

 鳥取城の話をカットしたことが残念なのは、牢から出た官兵衛が、その後残虐性を前面に出したことがもしかすると 「信長の政策の残虐性をわざと体現させている」「信長の印象悪化操作をしてある意味で復讐している」、というように考えられないか、つまり官兵衛の残虐性の 「言い訳」、と言ったらナンですが、背景が説明できたのではないか、と思うからなのです。

 第28回 「本能寺の変」 で官兵衛は、信長暗殺の報を誰よりも先に受け取ります。 ここで善助に 「毛利には絶対に知られてはならぬ」 などと言っておきながら、その足で夜分遅くに恵瓊を訪ねてバラしちゃうし、「なんなんだよコレ」 とか思っていたのですが。

 第29回 「天下の秘策」 では、そのからくりが詳細に語られることとなったのです。 この官兵衛の繰り出す策には、見ていてシビレました。

 官兵衛がまず先んじてしたことは、「毛利に知られぬように網を張って情報流入を防げ」 ということ。 そのうえで恵瓊を訪ねているのですから、「毛利には知られたくないが、恵瓊には報せたい」 ということ。

 これってどういうことなのか。

 つまり官兵衛は、恵瓊の 「フィクサーとしての欲求」 を利用しようとしたんですよ。
 これには唸りましたね。
 恵瓊が本当にしたいと考えているのは、毛利のために裏で動くことじゃない。 「天下を裏から動かしていきたい」、という欲求なんですよ。
 官兵衛はかつての恵瓊との語らいのなかで、「秀吉と毛利が手を組めば、天下も夢ではない」 と話していたことを忘れなかったのです。 そこから官兵衛は、恵瓊のなかにある中核となる欲望に気付いていた。

 恵瓊が協力するとなると、恵瓊にとっても信長の死というのは小早川に知られたくはない事項となる。 恵瓊は毛利の獅子身中の虫にフォームチェンジして(笑)、強引な和睦に手を貸すこととなるのです。
 恵瓊は清水宗治に接触。 結局宗治の忠誠心に負けて、宗治ひとりの首を差し出すことで和睦の折衝ポイントを見い出します。
 これを直ちに小早川に報告。 小早川は拙速な和睦の話に警戒感を募らせますが、ここに現れたのが官兵衛。 「信長さまの出陣が決まってもうすぐ来るから、もうのんびり和睦の話をしてはいられない」 という理屈で話を進めようとする。 「すべては天下のためだ」、と。
 小早川は 「天下のため」 という言葉にやや乗ってきますが、ちょっとここらへんの理屈が弱いように感じる。 しかし恵瓊が共に進言することで、小早川に対する援護射撃になっているし、それなりの説得力にも通じていることは見逃せません。

 ん~シビレル(笑)。

 恵瓊との密談の前に官兵衛はきちんと秀吉に信長の死を伝えるのですが(第28回)、取り乱す秀吉に官兵衛は 「天下取りの好機が来た」 とそそのかします。
 官兵衛を演じる岡田クンが 「このセリフが言いたくてこのドラマに出た」 と言っていたほどの見せ場でしたが、私が注目したのは、ここを境として、官兵衛も秀吉も、「表向き」 上様(信長)の仇を討つ、明智を倒して弔い合戦をする、という、兵士たちへの強力なモチベーション(動機)に問題をすり替えることに舵を切ったことです。

 ん~このキタナイところ、シビレます(汚いっつーと誤解されそうですが)。

 確かにこの時点で、明智を討つことだけで天下の情勢を秀吉自身に振り向けることは難しい。
 しかし信長の仇を討つということが、どれだけ秀吉の世間に対する認知度を上げていくことか。
 「今やっておくべきこと」 を着実に遂行することが、未来への扉を開くのです。 夏の扉も開きます。 フレッシュ、フレッシュ、フレーーーッシュ(笑)。

 清水宗治は切腹を果たすのですが、小早川が信長暗殺の報を知ったのはその直後。 これってドラマのタイミングだと思うのですが(笑)、時すでに遅し。
 直後の小早川との会見で、小早川が信長暗殺の情報をつかんだことを知った官兵衛は、「ここは戦場でござる。 戦場で味方の不利になるようなことは話さぬのが当たり前」 と一笑に付し、さらに秀討伐のために引き返す秀吉軍に、追い討ちをかけると脅す小早川に、決定的な話をするのです。

 「今、もっとも天下に近いのは羽柴秀吉様!

 必ずや天下をお取りいただく!

 今ここで事を構え遺恨を残すか、それとも恩を売り、ともに乱世を終わらせるか!

 毛利の行く末を選ぶは、あなた様でござる」

 「官兵衛、わしを試すか?
 …
 『毛利は天下を望んではならぬ』。 それが亡き父、元就の遺訓だ。 もとより我らには、版図を広げる野心はない。 羽柴殿と和議を結び、本領が安堵されたいま、大義なき者につき、世を乱すことは、毛利にとってなんの理もない」

 つまりここで毛利との完全な利害の一致を見たわけなのですよ。 だから 「天下のため」 ということも、その利害の一致のためには大事な大義名分、ということに姿を変える。 小早川隆景は兄の吉川元治が激高することにも歯止めをかける。 いずれも利害の一致、ということ以上の利は働かないからなのですが、ここで清水宗治の切腹に懸けた遺志というものが大いにものを言ってくる。

 ああ~なんと重層的な理論展開であることか。 これでこそ大河ドラマ。

 長政も後藤又兵衛と再会して、「ジャイアント・リターンズ」 の準備は着々と整いつつある模様。 まあクライマックスですからね。 期待は高まります、って、もう今夜の放送か~(早ぇぇな…)。

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2014年7月20日 (日)

「あすなろ三三七拍子」 第1回 消えゆくものへの挽歌なのか、若者へのリトマス紙なのか

 柳葉敏郎サンが、リストラ要員から応援団長として西田敏行社長の出身大学に 「出向」 する、というドラマ。
 この、とんでもなく奇想天外なこのドラマ、原作が重松清サン、ということが唯一の希望かな、と思いながら見はじめました。

 作り話のひとつのコツとして、「あり得ない人物があり得ないシチュエーションに遭遇する」、というエッセンスがありますが、この物語はまずそれが生命線のひとつである、と言える。
 そもそもいくら社長が自分の出身校の応援団を潰したくないと考えても、それをリストラ要員に任せようとする時点で経営者としてはかなりイケてません。 つまりリストラリストが出来るほどリストラ要員が存在するコストダウン必至の会社で、大学に行かせる金プラス給料まで払おうというのですから、何をかいわんや、でしょう。 ここを見る側が容認できるかもまず問題ですが、いちばんの問題はこれを見る視聴者が、オッサン達の精神論についていけるかどうかなのだ、と感じる。 ギバチャンが応援団長、ということにどれだけ視聴者を食いつかせる要素が含まれているか。 かなりこれは賭けだな、と感じました。

 そして見はじめから感じる齟齬感。
 つまりキャスティングがどうもちぐはぐだ、ということです。
 ギバチャンって、応援団OB役の西田敏行サンやほんこんサン、反町隆史サンなんかより、イメージ的によっぽど応援団員らしいんですよ(笑)。 そもそもギバチャンの芸能界への出始めが、「一世風靡セピア」 という応援団チックな集団でしたからね。 その彼がほとんどノンポリ感覚でヒーヒー言いながら応援団の特訓につきあっている、というのが、どうも違和感がある、つーか(笑)。
 感覚的に考えれば、ギバチャンはOBの側に回って、場違いな応援団でヒーヒー言ってるのがほんこんサンならしっくりくる気がする(笑)。 でもほんこんサンじゃ菊地桃子クラスの女性を奥さんには出来んだろうし(笑)。

 ただ最初に感じた齟齬感でもっと大きかったのは、世代間に横たわる壁みたいなものでした。
 確かに私が大学生だった30年ほど前でも、応援団というのはかなり特殊な世界だった。 そこに入ろうなんてやつは友達のなかでも一人としていなかったし、当時から絶滅危惧種のリストに入ろうか(いやまだうちの大学の応援部は巨大だった)、という感覚であったことは確かです。
 しかしその応援団に入る前の導入部から、ギバチャンと家族や職場の若い世代とは、決定的に相容れない断絶が横たわっている。 私たちの世代がこだわったり大事にしようとしてきたものが、若い世代にはもはやどうでもいいことと化している。

 その実態は茫洋としているのですが、たとえばギバチャンの娘が連れて来たカレシのイトシ…じゃなかった(ギャグが固定化してますがな)風間俊介クンがミョーに父親に馴れ馴れしいとか、上下の立場などまるでないかのように振る舞う点であるとか、男女の付き合いに対しても歯止めが利いていない点であるとか。
 つまり彼女の父親に会う時なんていうのは、自分の生き方じたいを見直すくらいの覚悟が必要だったわけですよ昔は(笑)。 「オレの娘と付き合うなんて100年早い、君は何になりたいのかね、どういう人生を送りたいのかね」。 そういう父親の無言の圧力というものがあったわけですよ。 金髪になったイトシはそのこと自体を考えてない(笑)。
 それに彼女と付き合う上でも障害が昔はかなりあったけれども、いまは電話のひとつをかけるのもみんなケータイですぐだし、LINEとか意思の疎通が非常に楽できめ細かく出来る。 乗り越えなければならない壁がない点で、恋愛もとてもフリーになり過ぎてるきらいはないでしょうかね。

 若い世代の間ではもうKYという概念は固定化されちゃって、まわりに合わせることで 「ものごとにこだわる」 という気概そのものが育つ余地がなくなっている。 「意味のないことはしない、つまんないことはパスする」。
 この 「応援団」 というのは、それとは全く対極の位置にあるんですよ。 根性とか実態のない精神論にこだわりまくっているし、そもそも応援にこれほど形式ばったことをやることに意味があるのか、と言い出すと、「いや、意味なんかありません」、となる。 いまの世の中、応援する対象(応援される野球部などのスポーツ選手)にしてみればスポーツはシステマチックに分析され尽くして、自分のモチベーションを高めるためにどうしたらいいのかが科学的に解明されている。 精神論の及ぶ範囲は 「声援によって後押しされた、やる気が出た」 というレベルまでで、「応援団が昔ながらの形式ばった応援をしても、自分のモチベーションに関係してるかどうかは甚だ疑問」、という立場でしょう。

 でも、一見まったく無駄、と思えるようなことでも、それを一生懸命やるということで、人の心を動かすことはできるんじゃないか。 そしてそれは、システマチックに慣れ過ぎた現代の若者にも、通じるのではないか。
 この物語の眼目はそこにある気がする。
 そしてそこに、このドラマが見る者の心を動かす鍵があるのだ、と感じる。

 反町サンとかほんこんサンも、応援団で青春のピークを迎えてから、社会に出ていろんな蹉跌と遭遇してきたと思うんですよ。 でもそれを乗り越えてこれたのも、大学の応援団時代に培った、「気合と根性」。 いわば自分の人生の舵を取ってこれたのも、この応援団が思想的な故郷になっているからなのであり、だからこそ、廃部寸前のこの応援団を存続することに、尋常ならざる熱意を抱いているのです。

 じっさい、雨のなかでエールを送り続けるギバチャンを見ていて、心を動かされた人もいるのではないか、と思いますが、私が見ていて感じたのは、「応援団なんて突飛なシチュエーションでなくても、世の中あまりにも理不尽な状況で働かなければならないオトーサンたちが、いかに多いことか」、という、寂寞感とか怒りとかがないまぜになった感情でした。
 若い人たちにとって、ギバチャンが遭遇するいろんなことは、コミカルに感じたかもしれない。 このドラマはコメディドラマだと感じたかもしれない。
 でも私たちオッサンにとってみると、ギバチャンの置かれている状況は、笑うに笑えない。
 しかも若い人たちにそれが伝わっているのかという徒労感もついてまわる。 視聴率も、芳しくなかったみたいだし。 見てくれる人がいないと、こんなに虚しいドラマというのも、ない気がするんですよ。

 でも見てほしいよな。 特に若い人には、「意味のない根性とか、なにソレ超ウケル」 などと言ってスルーしちゃうような人たちに、このドラマを見て 「意味のないことの意味」 を考える契機になってほしいな、という気はするのです。
 でなければ、このドラマはただの 「消えゆくものへの挽歌」 になってしまう。 日本人は根性とか根拠のない精神論を捨てて、なんでも効率的にものごとを片付けてしまう、無味乾燥としたつまんない民族になってしまう。 そんな気もちょっとしたりするのです。

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「HERO」 第2期 このシリーズ初めて見たんですけど、その角度からの感想です

 26.5%という、「今どきの」 ドラマにしては驚異的な数字を叩き出した、続編の第1回。

 そのファースト・シーズンや続編の映画に関しても今までノーチェックだったので、個人的には今回初めての視聴になります。 だから初回の終わりに 「Special thanks児玉清」 のクレジットが出ても、特に感慨がない。 ただ児玉サンが主人公の久利生公平(木村拓哉サン)に託していた思いは後学習しました。 いままでのシリーズを見てきた人にとっては、さぞかし感慨深いものがあったと思います。

 そしてやはり、そこかしこにこれまでのシリーズの後処理が行なわれている感覚。 こうした配慮はそれまでついてきた視聴者をないがしろにしていない、という点で好感が持てました。 おそらく26.5%という数字は、「あのあとどうなった」 という視聴者が多かったことによるものだろうと思う。 ドラマはそれに、きちんと答えた、という気がします。

 全体的なドラマの空気としては、「かなりオチャラケが入った、昔ながらのフジテレビの 『楽しくなければテレビじゃない』 路線だな」、ということは感じました。 出演者が丁々発止で軽口を叩きあう。 無駄なセリフがかなり多い(笑)。 でもそのノリで見る側を弛緩させておいて、シリアスなセリフとの緩急で見せる。
 そのセリフの組み立ての目的はそんなところだろう、と感じたのですが、いかんせんシリアスな場面が無駄な軽いセリフの膨大さに埋没してしまって、こちらの心の鐘を強く打ち鳴らさない傾向にはある、そんな気はしました。

 おそらく第1回のいちばんシリアスなシーンは、事件があった居酒屋で久利生公平が 「とりあえず起訴、という見切り発車のような形で裁判に持ち込むことは間違っている(大意)」 と語るシーンだったと思います。
 しかしそこで引き合いに出される、冤罪での長期間勾留とかいう話には、もうちょっと深みが欲しいような気がした。

 だけど、これはこのドラマを初めて見たことの障害かな、という気もする。
 つまり、ドラマのとっかかりから、「どうして事件を警察ではなく検察が取り仕切っているのか?」 という点がとても引っかかっていて、「警察が証拠を挙げられないような案件を検察で調べてもどうにもならんだろう」 という気持ちがあったため。
 警察でどうしようもない案件を裁判に持ち込もう、というのは、そりゃ単なる検察の横暴であろう、と。 久利生公平がそこを突っついてもしょうがないんじゃないのかな、と。

 あとから調べると、どうもこの久利生公平という男は、その服装やしゃべり方はもとより、「検察が捜査権を縦横に駆使している」 という点でかなり型破りな男である、らしい。
 おそらく児玉サンは彼のその点をとても買っていたのでしょうね。
 でもドラマを見ている時点ではそのことが分からないので、「なんか検察がすごく出しゃばっている」 という印象はずーっとありました。

 あと気になったのは、第1回ドラマの中心にあった 「時効」 という制度。 なんかすごく不勉強で申し訳ないんですが、「時効制度ってなくなったとか、ニュースでやってなかったっけな~」 というのが引っかかっていて。 勘違いなら非常に申し訳ございません。 あんなに堂々とドラマでやってんだから、まだあるんでしょうね(自分もとんだ恥さらしだなそーなると)。

 とりあえず見る側をじりじりさせるような展開で、時効なんてどこ吹く風、みたいに行動していく久利生公平。
 結局のところ、時効3日前の暴力事件が発生しなければ宝石強盗事件も根本的な解決には結びつかなかったわけで、そのドラマ的な展開をラストで久利生公平自身に 「ラッキーだったじゃん」 と自虐させるのは面白かったですね。 「見る側のツッコミをかわしてるじゃん」 というか。

 それと第1回で印象的だったのは、久利生公平になんとなく漂っている哀愁、でしょうか。

 いままでのシーズンを見たことがないので、ファーストシーズンでのコンビだった松たか子サンと、どのような関係だったのかは私も知りませんでしたが、このセカンド第1回でその関係は随所でつまびらかにされていた。
 彼女と行く道が別れ、そのままになってしまった、ということが、久利生公平の背中に哀愁となって蓄積されている。 木村クンはそんな男の寂しさを、とてもよく表現していたのではないか、という気がするのです。
 出だしのセリフから 「ヨロシコ」 とか、外見や態度にちっとも若者から成長していない部分を感じながらも、彼の一見成長していない人生のなかでも、なにかに傷つき、蓄積疲労している部分がある。 そんなことを感じたりしました。

 視聴率の良さが、そのまま内容の良さに関連しているわけではないことはおうおうにしてあるんですが、私が引っかかるのは、これをフジテレビが55周年ドラマと位置付けていること。
 26.5%に欣喜雀躍してるしこの局(笑)。
 まあなんつーか(笑)。

 セカンドシーズンで新たなパートナーとなった北川景子サンに関しては、ドラマ上あまり重要な立場にはなり得ないだろう、という予感はします。 つまり松たか子サンの代わり、ではなく、松たか子サンとの関係への橋渡しをしそうな。
 第1期に出ていた阿部寛サンが今回出てないのは仕方ないけど、出てたらスゴイだろうな。 松サンも阿部サンも、出てきたら面白いだろうに。 そうなったら視聴率ガッポガッポですよ、フジテレビさん(笑)。

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2014年7月15日 (火)

「おやじの背中」 第1回 行間を読むことの愉しみ

 1話完結オムニバス、共通のテーマが 「父親の背中」。 テーマが固定しているという点で変則的ではあるが、かつての 「東芝日曜劇場」 を彷彿とさせる今回のドラマです。
 いつ以来なのかと調べてみたんですが、もう21年ぶりらしい。 「東芝日曜劇場が1話完結をやめる」 というニュースを聞いたことを、昨日のように思い出します。
 そのときの自分の気持ちも、かなりはっきり憶えている。 「歓迎すべきことだ」。
 つまり、なんか敷居が高かったんですよ、当時の 「東芝日曜劇場」 って。
 1話で完結してしまう、ということは、つまり50分程度の話で語り尽くさねばならない。
 そうなると、必然的に演出には、「削ぎ落とす」 という行為がつきまとうことになります。
 当時の私(1話完結時代が終わったのが28歳でしたが)は、1話で簡潔にまとめられた話を読み解く、という作業が少々面倒くさかった。 どうしても難解に感じるし、さらに 「見たい役者を1回しか見ることが出来ない物足りなさ」 というものもつきまとっていた。
 1話程度で終わってしまう物語だから、スケール感もぐっと狭まったものになる。 必然的に市井の人々のちょっとしたこぼれ話が中心となる。 それも敬遠の理由のひとつでした。

 正直言って、今回も 「オムニバスだ」 と聞いて、少々気後れしたことは確かです。
 苦手なんですよ、オムニバスって。
 しかも脚本家も出演者も、1話で終わってしまうには少々惜しい人たちばかり。
 倉本聰サン?山田太一サン?三谷幸喜サン?豪華すぎ。 つーか連続もので見たい。

 正直なところを申せば、倉本サンとか山田サンとか、少々時代とずれちゃったような感覚が、近作の単発ものを見ていて思っていたので、連続ものは無理かな(山田サンなんかは連続ものは引退、と明言しているし)という感じですが、脚本家の大御所であることは疑いがない。

 その山田太一サンが 「東芝日曜劇場」 の連続もの第1作だった 「丘の上の向日葵」 を書いてから、もう21年。

 ウィキでその年表を見たんですけど、まさにその1年目は全部見てましたね。 東芝が経営不振に陥ってメインのスポンサーを降り(「サザエさん」 のメインスポンサーを降りたのも同時期だったかな)ただの 「日曜劇場」 と名前を変えてからも、日曜午後9時はTBSにチャンネルを合わせることが多かった。
 連続ものに移行してから 「日曜劇場」 のひとつの顔になっていたのが田村正和サンの 「カミさんの悪口」 シリーズ。 かなりハマって見てましたよ。 「パパはニュースキャスター」 とか 「うちの子にかぎって…」 とかの時代から、田村正和ファンですからね(まあ初期から、というわけでもないのでそんなに自慢するよーな話じゃないが)。

 その田村サンが父親で、松たか子サンが娘だったのが、今回の第1話。 脚本は 「ちゅらさん」「泣くな、はらちゃん」 など私も好きな作品が多い、岡田惠和サン。
 「木曽オリオン」 とか、この人ってもしかすると単発ドラマのほうがいい味出すのかもしれない、と思っていたので、今回の出来は想定内でした。

 この第1話を見ていて感じたのは、「ト書きが目に浮かぶような話の運びだなあ」、ということ。

 ビートルズの 「ヒア・カムズ・ザ・サン」 が流れるなか、ふたり分のお弁当を作っている娘。

 そこに起きたばかりの父親がやってきて、お弁当を見ることを軽く拒絶する。 「ああ、お弁当の中身が分かっちゃうのが嫌なんだな(笑)」、ということが分かる。

 しかしこの親子、どういうわけか、「圭さん」「瞳子さん」 と、名前で呼び合っている。 ちょっと奇妙。 でも、やんごとなき教養あふれる家庭なんかでは、こういうパターンもあるのかも。 とても上品な雰囲気で朝食をとる父娘。

 すると、テレビで流れている 「パニック障害」 の話に、にわかに娘の目が釘付けになる。

 気を遣ってその場を離れる父親。 どうやら娘にはパニック障害に極度の関心があるようだ。 でもその時点ではよく分からない。

 そして会社で事務の仕事をしている娘。 どうやら父親の職場と目と鼻の先にあるみたいだが、会社の窓越しに父親と遠くから意思疎通しているみたい。

 どうもこの父娘、恋人どうしみたいだな。

 会社の同僚(バカリズムサン…ってこの人の名前なの?…ピン芸人なんだ、知らなかった)から言い寄られる瞳子。 この同僚の話の進め方もちょっと性急でヘンだけど、なんか必要以上に求婚を拒むのを見て、「この子、なんかヘンかもしれない」 と見る側は感じ始める。

 外食の約束がフイになって自宅で食べることにした父娘。 そのときのホタテ?があたったのか、倒れこんでしまう父。 救急車。 病院で話を聞く娘なのですが、なんとなくうわの空。 「大丈夫ですよ」 と父親を入院させたまま帰されたはいいものの、変に落ち着かない。

 ここで見る側はようやく、「そうか、やはりこの娘が、パニック障害なのだ」 という結論に落ち着くわけです。

 すると。

 その発作をまるで予知していたかのように、父は病院を抜け出してパジャマ姿のままでタクシーを拾い、パニック障害がピークに達した娘を抱きしめる。

 まず、「名前同士で呼び合う奇妙な父娘」 という関係を見せて見る側の興味を惹かせ、「パニック障害」 というキーワードでその視聴を継続させる。 その間はっきりとした説明は一切しないで、ただその雰囲気だけで見せていく。

 まるでドラマ全体が、すべてが書かれていない小説の、行間を読み解いていくような作業なのです。
 だからオムニバスというのが苦手だったんですが(笑)、こういうのもたまにはいいな。

 そしてこのドラマ、見る側にその感じ方が丸投げされている点で、見る側の心のありようまで、問うてしまうという、鏡のような 「こわい」 ドラマでもあると言える。

 ドラマが進んでいくにつれて、このふたりの父娘の関係は、ややもすれば近親相姦的である、という危ないラインに差し掛かっているようにも見えてくる。
 しかしそこを 「娘(あるいは父親)に対する思いやり」 という点で括ってみれば、そこには切ない感情があふれかえっていることに、気付くはずです。

 話の後半、どうしてこの父娘が互いに名前で呼び合うようになったのか、その理由が明かされます。
 その理由をつまびらかにされたとき、見る側に横たわっていた、「なんか危ないな、この父親と娘」 という感情は、払拭される気がする。

 たしかに妻が事故で死んだことへの代替行為なんですよ。 父親にとっては。 娘を妻の代わりみたいに接してしまうのは。
 しかしそのきっかけは、自分の母親が目の前で自分をかばって死んだ、というショックからパニック障害を抱えてしまった娘が、それを回避するために 「母親がやっていたように」 父親を名前で呼ぶ、ということをはじめたのがきっかけなのであり。
 父親は娘のその対処方法に、自らの妻を失った寂しさを委ねてしまったわけなのであって。

 でも、それではいけない、そのままではいけない、ということも、この父娘は分かっている。

 だからあえてウソをついてまで、「自分はほかの人とデートです」 ということをお互いに言ったりするわけでしょう。

 そしてそのお互いの気持ちが一緒なことを理解したとき、父と娘は思い出したように、台所で笑い合うしかないのです。

 子離れ。親離れをしなければいけない、と互いに思っていながら、それがとても辛いことであることもじゅうぶん理解している。 母親を失って二人三脚で生きてきた父娘なれば余計にその思いは強い。

 1年後、あっさりと娘には彼氏が出来てしまいます。 古臭いものが好きで魚料理が好きで、ジミ~な性格の娘が、同じ価値観の男性と出会ったのです。
 ここで父親は、娘を彼氏のもとにただあたたかく送り出してやらねばならない。
 しかしそれは、代替行為によって長いあいだ妻のような役割を果たしてきた娘との別れを意味するのであり、即時に 「妻との第二の別れ」 であることを意味してもいる。

 それがこの父親を、さめざめと泣かせるのです。

 なにも娘に恋愛感情を持っていたから、泣いているわけではない。

 こういうことは、説明されて納得するべきものではありません。 感じるものだと思います。

 だから難しいんだよな、オムニバスドラマって(笑)。

 人に対する目が温かく優しいものであるか、下世話なものであるか。

 これを見て感じることは、そのままそれが、自分自身のこれまでの生き方を映し出してしまうという点で、繰り返しになりますが、「まことに怖いドラマである」、とも言えるでしょう。

 ただこのスタンスは、第1回だけなのかもしれませんね。

 坂元裕二サンが仕掛ける第2話は、どのような話になるのでしょうか。 楽しみな大人のドラマが始まった、という印象です。

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2014年7月12日 (土)

「同窓生~人は、三度、恋をする~」 第1回 柴門ふみ氏と田渕久美子氏の共通点

 柴門ふみサン原作、田渕久美子女史脚本で、アラフォー男女4人の恋を描く、「同窓生」。

 むかし同じ柴門ふみサン原作で 「同・級・生」 というドラマがありました(1989年)。 安田成美サン、緒形直人サンが主演。 トレンディドラマの帝王石田純一サンも出てた。
 このドラマ、「Mother」「それでも、生きてゆく」「最高の離婚」 といった傑作を書いてきた、坂元裕二サンの初脚本ドラマだったらしい。 ただしトレンディドラマ全盛のその時期、私はいちばんドラマを見てない時期でしたので、そのドラマは未視聴。

 ただ 「同・級・生」 の原作は読んでます。
 そのあとがきで、たしか柴門サンは 「同じ年代の男女が対等の立場で恋をすることを避けたがっている」 当時の風潮に対してモノ申す、みたいな感覚でこの作品を描いた、と綴っていました(間違ってたらゴメン)。
 同じ時代を生きてきたどうしが、恋愛をすることを避けたがっている。
 それって現代にも立派に通用している話かもしれない。 年の差婚ってよく聞きますしね。 だから 「同・級・生」 の続編が出来たのかな(登場人物は違うけど)。

 女性の側にとってみれば、いまの世の中、ダンナに経済力があるということがますます重要化してきて、ある程度社会で成功している年配の男性と結婚するのがそのまま将来への安心感につながる、とか。
 まあ、勝手な憶測ですが。

 その思想的な背景はそれとして、今回の 「同窓生」 に出てくる登場人物たちは、私が20年以上前に読んだ 「同・級・生」 のなかの登場人物たちと、行動パターンが似通っている。

 つまり主人公の男(「同・級・生」 では鴨居クン、「同窓生」 では柳健太)が、過去に囚われ続けるウジウジした性格を引きずっている。
 そして相手役の女性(「同・級・生」 ではちなみ、「同窓生」 ではあけひ)が、相手の男の気持ちを知ってか知らずか奔放な振る舞いをして、相手の男の気持ちをかきまわし続ける。
 これらの行動パターンは捉え方によっては、柴門ふみマンガで展開した恋愛ドラマの典型であるようにも思えます。
 だから見方によっては、古臭くも思えてくる。
 バブルの時代のトレンディドラマに出てきた登場人物たちが、そのままなんの成長もしないまま、アラフォーを迎えている。 重ねたのは、ただ結婚と子供の誕生、というお定まりのコースだけ。

 その 「古臭さ」 はかなり今回、視聴者を選ぶのではないか、という気もします。
 「そう言えばバブルの時代、私たちはこんなに恋愛のことをマジメに考えていた」、という人にとっては、トレンディドラマの懐かしさと共に、ある種自分を振り返りながらの視聴になるかもしれない。
 現実のシビアさに揉まれてしまった人にとっては、こういう 「いまだに恋愛に蹂躙されている40代」 というのは気持悪くも思えてくるような気がする。

 まあ私はアラフィフなのでそれを客観的に見てしまうわけですが(笑)。

 でも年代からいって、「同・級・生」 を見ていた人たちって、いまアラフィフなんじゃないのかな~(笑)。

 ちなみにその 「同・級・生」 には、私のホントの同級生、クラスメイトも出演していたんですが(笑)。

 私は 「同・級・生」 のドラマは見てなかったけど、今回あけひを演じる稲森いずみサンなんかを見ていると、「こういう女、いるよな~」 と思ってしまう(笑)。
 なんかどっか鈍くて(笑)、どこかカワイ子ブリッコで、しかもその子はその子なりになんか悩んでいて、結局その子に自分の恋愛感情を根こそぎ持ってかれちゃうような。
 その子に悪意はないんだろうけど、その子のきまぐれでかなり気持ちがひっかき回されちゃう。
 同性には徹底的に嫌われる(笑)。
 「計算高い女」 と思われちゃうと、こういう子は悲惨ですね(笑)。

 そしてこのドラマの脚本家である、田渕久美子氏。
 「江」 では当ブログでもさんざん田渕女史の悪口を書いたんで、この人が脚本、と聞いただけで身構えてしまうんですが(笑)。
 「江」 の論調というのは、まさにこうした男女恋愛のカテゴリーに属しているんですよ。
 その視点はいかにもバブリーであり、「萌え」 的であり、ミーハーの域を出ない。

 意外にもその作風が、柴門ふみサンの、まあ悪い言いかたですが、「ちょっと前に流行した」 恋愛論と、奇妙に合致している。
 このおふたりの語り口が、妙に相性がいいんですよ。

 これって褒めてるのかなけなしてるのかな(たぶん後者の度合いが大きい…)。

 でもその相性の良さが、ドラマとしては好循環を生んでいる。

 つまり、ハマる人はハマる。

 私も性格的には、かなり過去に執着して、ウジウジ考えるタイプの人間ですから、井浦新サン演じる柳健太には、なんとなく感情移入してしまう。

 それに、チャラ男を演じる松岡昌宏サン。 いたよな~、柴門マンガに、この手の男(笑)。 そういう懐かしさで見てしまうと、チャラくてクサイのも気にならない(笑)。

 そのチャラ男が不倫承知でアタックするのが、板谷夕夏サン。 「ファースト・クラス」 では徹底してクールな女性編集長の役をやっていたので、今回独身行き遅れマンション購入に血道を上げるこの正反対のキャラが小気味よい。 松岡クンのいきなりのキス攻撃は、「ねえだろそんなの」 という感じでしたが、でも松岡クンはバブル時代のチャラ男の権現様ですからね(笑)。 そのキス攻撃に、平手打ちで反応する板谷サンのリアリティのほうがまさった(笑)。
 それにしてもこの松岡クンの妻が三浦理恵子サンか。 「ファースト・クラス」 に続いてライバル同士、ってわけですね(こういう見方もチャラいと言えばチャラい)。

 で、確かにこのチャラ男が 「人生リセット」 とか 「人生三度恋をする」 とか言い出すと、「なにをチャラい現実逃避してるんだ」 とか 「三度だろーが何度だろーが別にいいだろ」 と思うんですが(笑)、リアリティないのが逆に面白い、というか(笑)。

 リアリティなさ過ぎて笑えないのが 「若者たち2014」 だったわけですが。

 こちらのリアリティのなさのほうが、まだバブルを引きずっている、という点で、「若者たち2014」 より見ていられるんですよ。 「若者たち2014」 のリアリティのなさは、現代の若者たちと対極のところにあるから耐えられない。 それはそれでアンチテーゼという意味合いもあるのかもしれないけれど、「見ていてウザい人たち」 を 「見せよう」、という工夫がない点でドラマとして失格だ、と思うのです。

 どうも 「若者たち2014」 を引きずっちゃうな(笑)。 つまりそれだけウジウジ考えちゃうんですよ私も(笑)。

 とりあえず 「信長のシェフ」 と競合してしまう形ですが、できるだけ両方とも追っていきたいなァと思っているワタシです。

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「信長のシェフ」 Part2 第1回 深夜枠だからよかったこともあるわけで

 2013年の1-3月期に深夜枠で放送されていた 「信長のシェフ」 の続編が、ゴールデン枠で登場。 特に 「シーズン2」 とか 「新」 とか題名についてないので、ここではPart2として取り扱います。
 それにしても前回は、ネットで見る限りかなり高評価だったと思われるこのドラマ。 その人気のわりに再登場まで1年半というのはなんか長い気がするけど(まあ私みたいなオッサンにはあっとゆー間だが)、たぶん時代劇だからそれなりの準備が必要だったのかもしれません。
 それと、原作がまだ終わってないのもあるけど、おそらくPart3もにらんでいる。 今回の初回を見て推測できるのは、このシーズンはおそらく高嶋政伸サン演じる武田信玄(ひいては吉太郎アンチャン、じゃなかった、賀来賢人クン演じる勝頼)との戦いがメインに据えられるのではないか、ということ。 となると本能寺まではまだまだの行程。
 「妻はくノ一」 みたいに、原作がかなり長そうなのに(読んでないから知らん)第2シーズンですぐに 「最終章」 とか、いさぎいいことしなさそう(テレ朝引っ張るでぇ~引っ張るでぇ~)(なお 「妻はくノ一 最終章」 は、当方まだ視聴中です)。

 ゴールデン枠に移動だから、あらたに出てくる俳優さんもそれなりにグレードアップしてる印象はあります。 ただ印象としては、「大河に出そうでなかなか出てこない、なんか大河の当落線上にいる」 人たちが多い気もする(失礼)。 信玄をやる高嶋政伸サンも、なんかこのところ大河にはご無沙汰だなァという気もするし、前シーズンで不思議に出てこなかった信長の正室・濃姫を今回演じる斉藤由貴サンも、大河っていうと出てそうで出てない。 しかし信長のミッチーにしても、濃姫にしても、今年の大河よりはこっちのほうがハマっているような…(重ねて失礼)。

 それと武田信玄、と言えば大河の 「風林火山」 でその信玄を演じた市川亀治郎…じゃなかった猿之助サン(どうも猿之助というと、スーパー歌舞伎の先代のほうが未だにイメージ強くて…)。 なんか大河に出そうで出てこないですよね。
 対照的に前シーズンで確か壮絶な最期を迎えた森可成、かれを演じた宇梶剛士サンが、まるでその演技を買われたかのように今年の大河 「軍師官兵衛」 に抜擢され、そのイメージを引きずった清水宗治を演じているし(いや、2年に1回くらい大河に出てるなこの人)。
 あと、Part2第1回で非常に印象的な演技を見せてくれた笹野高史サン(松永久秀役)。 この人は大河にはちょくちょく出ている印象だけど、でも 「天地人」 で豊臣秀吉をやってから、もう5年もご無沙汰なのか。 あ、これらの情報はみな、ウィキ見ながらやってますんで(笑)。

 出てくる俳優さんもそうだけど、このドラマはそもそもが 「タイムスリップ物」。 現代のシェフが戦国時代でどのように現代風の料理を再現していくか、が見せ場の中心にあります。
 おそらく作り手の意識を考えたとき、「『JIN』 の二番煎じ」 というのと、深夜枠というのとで、そんなにリキがこもった作り方をしていなかった。
 でも、そこそこに力の抜けた、その抜け加減がよかったわけですよ。
 主役がジャニーズの若手の人だし、豊臣秀吉がゴリサンだし、明智光秀はゴローチャンだし。 これがもし大河だったらバッシングの嵐だけど(笑)、そういうスタンスで作られているんだな、というのがキャスティングで分かるから。
 けれども見る側に緊張を強いてこないその作りのなかで、ストーリーはわりと何層にも重層的に構築されていて、その意外性がなかなかに楽しめた。

 今回の第1回でもその片鱗は確かに受け継がれています。
 たとえば松永久秀の心の奥底を探れと信長に命じられ、久秀から献上された1億円もしようかという茶壷を利用する主人公のケン(玉森裕太クン)。 そこに現代風な、あつく熱した鉄皿を使った料理を絡める。 ちゃんと料理がうまく絡んでいるし、茶道具という当時の戦国武将たちに好まれた材料も抜け目なく取り込んでいる。

 久秀の前に運ばれた、火傷しそうな鉄皿の前で、茶壷を持った信長はわざと転びます。
 でもこれはケンが考えた策。
 ここで久秀は茶壷などそっちのけで信長をかばったように見せ、自らの忠誠心をことさらに強調する。
 周囲の者は久秀の忠誠心に感心するのですが、それは久秀の思惑通り。
 しかし信長とケンだけは、久秀が信長をかばうのと同時に、高価な茶壷を安全な場所に払い落したことを種明かしし、久秀のさらなる心中をつまびらかにしていく。
 久秀は、信長と茶壷を同時に選択する、油断のならない男だ、ということです。

 結論に向かって、話に枝葉をつけて肉づけし、見る者を左右に揺さぶってから、その結論へと導く。
 キャスティングと裏腹な、こうした重層的な話の運びが、このドラマを 「意外と面白い」 と思わせる要因だと思うのです。

 また、顕如を演じる市川猿之助サンの存在も重要だと感じる。 「軍師官兵衛」 では眞島秀和サンがストイックな高僧を演じているのとは対照的に、こちらの顕如は女に目がなく(笑)、健啖家(単にスイーツ好きかな)で、信長を殺そうと策を巡らせる抜け目のない人物。 この 「ブラック顕如」 のブラックぶりがドラマを引き立たせていることは間違いない。

 けど、やっぱりこれって、深夜枠でやってたからその意外性が引き立っていたわけで。
 これがゴールデンになっちゃうと、一部の人をのぞいてキャスティングの脆弱さは露呈していくし、「B級」 で良し、お咎めなしとされていたさまざまな部分で厳しい目にさらされる。
 特に志田未来チャン。
 彼女は男の世界では生きていけないから男のふりをしている、という設定ではあるのですが、主人公ケンのおそらく本命になるであろう恋人、という可能性をいつも秘めている。
 しかしドラマはどちらかと言えばジャニーズに遠慮したかのように、ケンの恋人役になりきれず、まるで狂言回しのような役割に堕してしまっているんですよ。
 これが深夜枠では 「まあいいか」 という感覚だったのが、ゴールデンになると 「なんなのこの人」 みたいに見えてくる。
 逆に言えば志田未来チャンは、ものすごく微妙で難しい役をやっている、とも考えられるのですが。 でもなんか、中途半端に見えちゃうんだよな~。

 Part1との違いを感じたのは、明智光秀以外にも信長を狙っている者がいるのではないか、とケンが悩むところ。 けっして史実通りにする必要はないのですから、明智以外の者によって信長が討たれる、というパターンも模索できるこの展開は、緊張感が出てよろしいですね。

 ナレーションをやっていたのは、Part1では来宮良子サンでした。 しかしご承知の通り、亡くなってしまったために今回は杉本るみサン。 意外と来宮サンみたいな声でしたね。

 第1回みたいに2時間スペシャル、みたいなことをやられると、「そんなにごたいそうなドラマでもないだろうに」 とか思っちゃうんですが(みたび失礼)、Part1のように楽しませてほしい気はいたしますね。
 それにしても2時間は、オッサンにとってはしんどかったぞ。

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