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2014年9月21日 (日)

「花子とアン」 8/18-9/20 「最後にします」 は撤回します(笑)

 ここ数週の 「花子とアン」 は、ラストに向かってかなり内容的に持ち直している気がします。
 確かに太平洋戦争、という大きな題材を抱えているのだから、あだやおろそかな気持ちで物語を進めるわけにもいかないだろうし、それは当然ではあるのですが。
 前回のこのドラマのレビューで、当ブログの筆者は 「もうこのドラマのレビューはこれっきり」 と宣言しました。 だけどここ数週のこのドラマについて書きたい、という気持ちに抗えなくなりました。 ここに、前言を撤回させていただきます。

 「花アン」 について最近、いろんなところでこれを書いた脚本家の中園ミホサンが言及している。 それによると、半年間の物語の全体的な構成は、NHKのスタッフによってあらかじめ細かく考え抜かれていたらしい。 「いい加減な自分の性分じゃこんな細かい計画は立てられなかった」 みたいなことをおっしゃっています。

 その構成だと物語があと1カ月、という段階で、ずいぶんと遅きに失した感はあるのですが、このドラマの題名のかたわれである 「赤毛のアン」 のアン・シャーリーに、主人公の村岡花子はついに出会うことができました。
 そのアン・シャーリーの生き方が、村岡花子の生き方とシンクロしていき、物語の多少の齟齬を洗い流していくさまは、やはり見ていて清々しいものを感じる。
 特に、「アン」 の翻訳をしていた花子のもとに、幼い日のはな(の幻影)が現れて 「アンとあなたはとてもよく似ているのよ」 と、チビはなチャンと話を交わすシーン。 演出的にちょっとこそばゆくもあったのですが、とても感動的で、なんかじわーっと泣けてきた。 こういうのが見たかったんだな。

 過去の自分と対話し、自らの人生を振り返る。
 そこで気付くのは、いろんな失敗も回り道も挫折もしたけれども、自分の人生の中で、無駄だったものって、ホントにあったんだろうか?という思い。 というより、自らの人生を、否定的に感じたまま人生を過ごしていくことに、建設的な意義なんかほとんど持ち得ない、という思い。
 そして自らの人生を、曲がりなりにも肯定的に捉えたとき、自分の人生の中で出会ってきた、人でもいい、本でもモノでもいい、それらすべてに感謝したくなる、という思い。

 そんなチビはなチャンとの対話に加えて、ラジオに復帰した花子が自らの人生をインタビューされて語ったシーン。 話が出来過ぎてるかもしれないけれど、花子が父親への思いを語ったその番組を聞きながら、花子の父は息を引き取ります。
 確かに予定調和通りで安易に話を畳もうとしているきらいはあるかもしれません。 でも、自らの人生を振り返り、過去と対話しながら、花子がたどり着いた結論には、私は共感できるのです。
 いわく、「曲がり角の先には、もっといいものが待っている。 それを信じて、一歩一歩前に進もう」。

 でもこれは、一方的に自分のやったことに対して責任がない、「してしまったことはしょうがない、過去にこだわることに意味なんかない」、ということではない。

 「花子とアン」 の主人公は、日中戦争から太平洋戦争へと時代が向かっていくなかで、ある程度の葛藤を抱えていた、とはいうものの、戦争協力の一端を担ってしまいます。 このドラマは、そこのところをとても微妙なタッチで描いている。 見方によればそれって、「きちんと描いていない」、ということにもなるのですが、「時勢によって流されてしまう危険性」 というものを却って鋭くとらえた、というようにも感じるのです。

 つまり、このドラマでの花子は 「兵隊さんが頑張っていらっしゃるのは立派で尊い」「皆さんも自分の命をかけて働いていらっしゃる兵隊さんたちを見習って、立派な人間になりましょう」 と、ラジオを通じて、次世代の子供たちに向かって結果的には訴え続けていたことになる。

 これって戦争の真実を知らない、世間知らずのお嬢さんだからこうなってしまった、そう言えるだろうか。

 いや、「日本が持つ当然の権利を犯す者たちと戦うことは尊い」「大変な時だからみんな好き勝手なことはせず、我慢すべきは我慢して、頑張ろう」 というのは、今だってじゅうぶん通用する理屈だと思うんですよ。
 ここで 「戦争というのはどんな理由があってもしちゃイカン」、と言い切るのには、よほどの勇気が必要だ。
 却って頭のいい人ほど、国際情勢とか相手国の悪いところとかがよく見えるから、「戦争もやむなし」、と考えてしまう傾向にあるような気がします。
 そして 「戦争というのはどんな理由があってもしてはならない」 なんていうのは、オコチャマが考える理想だ、などと見下したようなことを考えてしまう。

 このドラマは、時局についてそんなに突っ込んだ表現をしていません。 戦争に反対する側の、宮本や蓮子の動きも、具体的には何ひとつ指し示していない。
 しかし重要なのは、「みんな頑張ってんだからそれに協力しない者は日本人じゃない」、みたいな、「空気読めないヤツ(KY)はアホ」 みたいな、変な仲間意識なのではないか、ということ。 それをこのドラマでは、村岡家に石を投げる子供たちによって、花子の仕事部屋にズカズカ入り込む婦人会の人々によって、表現しようとしているだけにすぎない。
 「非国民!」 と石を投げるその石は、今ではネットのなかでたった数行の意見の、膨大な集約(炎上)に取って代わっているのではないか。

 花子は時勢に流されていくなかで、「こんな暗い世の中だから、子供たちに夢を与えよう」 という自らの役割を自覚しながらラジオの仕事を続け、結果的に蓮子と決別してしまいます。
 そして蓮子の息子である純平が戦死してしまったことで、その関係の破綻は決定的なものになってしまう。
 花子は自らのやったことの重大さに、ここで気付くことになるのですが、このドラマは花子の後悔ってやつを、あまり突っ込んで表現しません。 戦争という嵐が残していった惨状を、妹のかよの悲しみや、兄の吉太郎の憔悴に向き合いながら、実感するのみなのです。

 そしてそこには常に、アン・シャーリーの思いが、花子の行先を照らしている。 「曲り道を曲がった先に、何があるのかは分からないの。 でもそれはきっと、とてもいいことだと思うの」、という、アンの言葉です。

 確かに、物語を進めるうえで重要な段階をスッ飛ばしている、という、ドラマ自体の傾向は未だにあると思いますよ。 ご都合主義みたいなものも感じる。 花子の父親が倒れ、三姉妹がそろって帰省したその場に、行方知らずだった吉太郎が偶然帰ってくるとか、先に指摘したように、花子の父親がラジオを聞きながら死ぬところとか、大きな英字辞書を抱えながらよく避難できるよなとか、花子の両親だけヤケに年とってるとか(笑)。

 でも重要なのは、「取り返しのつかないことをやってしまった人が、そのあとでどうやって生きていくのか」、ということなのではないでしょうか。 ここ数週のこのドラマの主眼は、今のところそこにある気がする。

 今週は、いよいよ最終回。 さんざん文句も付けましたが、「赤毛のアン」 に引きずられて(笑)途中リタイアすることもなく見られた、というのは、結果的にはよかった気がします。

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コメント

リウ様
ごきげんよう。

なんやかんやのうちに、このドラマも残り1週間になってしまいましたね。

史実だと、村岡花子さんは、むしろ積極的に大政翼賛体制に協力していたようなのですが(そこには、女性の社会進出という側面もありますので)、ドラマの中の花ちゃんには、そんなしっかりした意志は望むべくもなく(笑)、時代の大きな波に飲まれるかたちで、戦争に加担していく。これって、実は、当時の大半の人が辿った道筋ではなかったかと、思います。

幸か不幸か、それまで、ふわふわした描かれ方をしていた「花ちゃん」だったからこそ、私は、あの蓮子様との決別の場面に、やりきれないリアリティを感じてしまいました。

それと、「カーネーション」では、いままで朝ドラの戦争描写では描かれることがなかった、糸子の「魂の死」というものを表現していましたが、あそこまで強烈ではないにせよ、妹のかよまでが、はなの書斎に押し入って、大事にしていた洋書を燃やせと迫るシーン。あれも怖かったです。

戦争が、人と人を分かつのは、何も死を以てだけではないというのが、よく分かるエピソードでした。

でも、そういうかよも戦後、「王子と乞食」の原書を「おねえやん、よく残してくれて」と言って有難く押し戴くわけですが・・・・・
「どの口が言うとんじゃ!」と一瞬思っちゃいましたけどね(笑)。

次の「マッサン」は、「花子とアン」とほぼ同時代で、しかも日本に嫁いだスコットランド人の女性がヒロインですからね、戦時描写は、更に過酷になるんだろうなぁ・・・

Zai-Chen様
コメント下さり、ありがとうございます。

花子が主体性のない人物として描かれていたからこそ、リアリティが発生した、というZai-Chen様の意見に賛同いたします。 これって、まるきり私と同じだから。 炎上覚悟で蓮子のような激しい戦争反対の表明(その、激しい戦争反対の描写も、なかったんですけどね)が出来るかどうか、甚だ怪しい。 やっぱり空気を読んでしまう。

これはネット社会で揉まれてこうなってしまったんですが、そんな 「物分かりのいい」 ことを学習してしまう前の私をもしお知りになりたかったら、このブログのホントの最初の記事(詩)をご覧ください(と、さりげなく宣伝…笑)。 イスラムだろーがなんだろーが関係なく、批判しまくってます(笑)。

「花アン」 の戦争描写については、実に市井の単位でしか行なっていない。 これは、生ぬるいと言えば生ぬるいのですが、戦争の真実なんて、フツーに生活している程度では全容なんて分かりはしませんよ。 みんな長いものには巻かれろ、が国民性なのですから。 その怖さを感じることが出来ただけでも、このドラマは成功だったのではないか、という気がします。

戦争の描写については、戦後30年くらいがリアリティのうえでは限界だったのではないか、という気はします。 特に近年の戦争物を見ていて感じるのは、若者に圧倒的にリアリティがない。 もう、別世界の人間だ、と感じることが多いのです。

だから 「マッサン」 で、もし戦争の描写をしたとしても、それはうわべだけの描写になってしまうのではないか、という気はします。

「八重の桜」 で鶴ヶ城での攻防は、迫力があったと思うけれど、リアリティがあるかどうかは、当時の人でなければ判別できませんしね(笑)。

もう、何を言ったらいいのやら。

このドラマは、登場人物が生きた人間になっていない。
この人物がここでこんなことを言うはずがないとか、ドラマで登場していなかった時間をどう過ごしていたのかとか、引っかかってばかり。

このドラマの作り手には、モデルとなった人、蓮子も含めて、への尊敬の念がまるでなかったのではないかと、思います。

リウ様がおっしゃるような見方もできなくはありませんが、そのように見えないのは視聴者のせいではないと思います。

ぽいぽい様
コメント下さり、ありがとうございます。

ドラマの見方にも、さまざまな見方があると思います。 ですので、私も自分の意見を押し付けるつもりはありません。

ドラマを見ていて、どこで我慢が出来なくなるか、ということも千差万別かもしれません。

たとえば私は、これの前の朝ドラだった 「ごちそうさん」 をリタイアしているのですが、いちばん見ていて嫌だったのが、問題を無理やり作っている点でした。 勝手に不用意にぶっ壊して、勝手に理屈をこねまわして仲直りしている。 でもそれで我慢できなくなるのは、私だけなのかもしれない。

今回、最後まで視聴が続いてしまったのは、文中にもあるとおり 「赤毛のアン」 に引きずられたからなのですが(笑)、ぽいぽい様のご指摘の通りのこと(この人はこんなこと言わない、とか、急に出なくなったり急に出てきたり、とか)、たびたび感じていましたです、ハイ。

でも、たぶん花子のどことなくぼんやりしているところとか、他人がみんなお膳立てしてくれるところとか、そういうところが自分と共通しているかも、なんて思ったのが、視聴をなんとなく続けられた原因だったのかもしれません。

事実と照らし合わせながら考えると、これほどフィクションの割合が高いドラマもない気がする。
両親が甲府にいるのも、兄妹の話も、花子の戦争協力の度合いも、全部作り話でしょ。

それが即ち 「登場人物に対する尊敬がない」 ということになるんだ、と思います。

ただ、私も途中から、あんまりマジメに見なくなったから(笑)。 マジメに見続けると、ホント気になるところだらけのドラマですよね(笑)。

今週分はまだ見てないのですが、「どうして最後まで見ちゃったのかな」、という点も、自分ではまだよく分かっていない部分があります。 もしかすると、最終回を見終わって、なにか書くかもしれませんし、「この程度のドラマだったか」、と、書かないかもしれません。

長文の返信、失礼いたしました。

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    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
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    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
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    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

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    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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