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2014年9月

2014年9月30日 (火)

「マッサン」 第1-2回 長縄跳びの、輪に入れるかどうか(追記:第1週の感想、コメント欄に書きました)

おことわり 「麦の歌」 について、少々書き足しました。

 朝ドラ史上初の 「外人ヒロイン」 となる、このドラマ。 その女性の故郷は、まるで話題作りに一役買ったかのような独立投票のニュースが最近あった、スコットランドです。
 
 第1回の冒頭、昭和46年(1971年)の時点で、老いた主人公マッサン(玉山鉄二サン)の妻であったその女性、エリー(シャーロット・ケイト・フォックスさん)は、亡くなっている。 この、エリーの遺影の、屈託のない澄みきった笑顔を見ていたら、なんか早くも涙がじわーっと…(笑)。 早い、早いっつーの(笑)。

 そして主題歌の、中島みゆきサンの歌へ。 こないだの 「オールナイトニッポン月イチ」 で話しておられましたが、「私の歌が朝っぱらから、いーんでしょーかね~?」 というご本人の懸念通り、これが重たい(笑)。 泣かせる(笑)。

 「なつかしい人々 なつかしい風景 その総てと離れてもあなたと歩きたい
 嵐吹く大地も 嵐吹く時代も 陽射しを見上げるように あなたを見つめたい
 麦に翼がなくても 歌に翼があるのなら 伝えておくれ故郷へ ここで生きてゆくと
 麦は泣き 麦は咲き 明日へ育ってゆく」(「麦の歌」)。

 この歌詞がエリーの立場で書かれたことは自明ですが、なにも国際結婚でなくても、住み慣れた土地を離れ、家族とも疎遠になる花嫁の気持ちに置き換えることもできる。 「嵐吹く大地」 や 「嵐吹く時代」 も、きちんと今の私たちに当てはまるように、書かれている。
 「麦」 というのは、このドラマがウィスキーのことを扱っているからの物言いではありません。
 いわば 「踏まれることで育っていく」、私たちのことなのです。
 そしてその麦は、「ここで生きてゆく」、という覚悟、決意を歌っている。
 それが、私を泣かせるのです。
 やっぱり朝っぱらから、重たいぞ(笑)。
 さすがみゆきサン、といったところです。

 そのみゆきサンが 「マッサンと言えばさだまさし」 とラジオで言っていたように、私もこのドラマの題名を最初に知ったときは、「さだまさしかよ」 と思いました(笑)。 さだサンがまっさんと言われるようになったのは、ずいぶん昔ですけど、たぶんイメージがグレープとか 「関白宣言」 のころのインテリ風な時代には、言われてなかった気がする。 その話は置いといて。

 みゆきサンの感動的な歌が流れるクレジットタイトルを見ていたら、なんか配役に 「早見あかり」、の文字が。 えっ、こないだ 「アゲイン!!」 の記事で、話題にしたばっかりだったんですが…。 なんだ、ももクロ卒業して、苦労してないじゃん(いや、そうでもないらしいが…)。
 ただ、「アゲイン!!」 の記事ではあえて書かなかったんですが、この子あんまり演技がうまい、と印象ではなかったんですよ。 それにあの応援団長だったから魅力的に見えたんであって、バージョン変わるとどうなるのかな、と思った。 うーん、今回は、ちょっと微妙かもしれない。 でも、「アゲイン!!」 で思い入れは私の胸に刷り込まれてますんで。 応援したいですね。

 1-2回のストーリー的な印象から言うと、どうもトリッキーな展開だな、という感じかな。
 最初から主役のふたりはラブラブで、いきなりスコットランドから帰国して、実家に帰ってきたらマッサンの様子がおかしい。 実はエリーに 「家族はこの結婚に大賛成」 という嘘をついていたから、というのが第1回。 おおっ、ずいぶん端折るな、最初の出会いからやんないのか、と思ったら、第2回でそこまでの過程をマッサンの妹の早見あかりチャンに語る、というからくりになっていた。

 こういう、時系列があっちゃ行ったりこっちゃ行ったりするのは、朝ドラをご覧の舅小姑たちは(先の 「花アン」 の記事も含めて、みたび失礼)嫌うんだよな(笑)。 ドラマに集中しなければならなくなる。

 さらにちょっと混乱するのは、スコットランドでの言語設定が、字幕になったり吹き替えになったり、一定していない部分。 年輩の方に分かりやすくしようとして、却って分かりにくくなってしまった気もするし、エリーがどこで日本語を覚えたのか、ということを、ドラマを見ていて考えさせてしまう。

 そういった点で、ドラマに対する 「とっつきにくさ」、というのは、あるんじゃないかな、と感じました。 たとえて言えば、長縄跳びの輪の中に、入れるかどうかの緊張感がある気がする。
 「花アン」 はそれに比べると、かなり敷居が低い作りだった気がするんですよ、全体的に。 入り込みやすかった。 視聴率がよかった、というのも、実はそんな点に理由があったのではないか、と 「マッサン」 を見てあらためて感じました。

 あとは、どちらかというと今まで屈折した役柄が多かったように思う玉山鉄二サンが、かなり自由奔放な次男坊、というまっすぐな役というのにも、ちょっと私としては、戸惑っているかもしれない。

 ただ、やはりこのドラマの生命線は、エリー役のシャーロットさんにかかっている気はします。 彼女、とても表情の作り方がうまい気がするんですよ。
 いきなりガイジンを抜擢、というので私みたいなオッサンが思い出すのは、その昔むかしに 「熱中時代・刑事編」 に出ていた、ミッキー・マッケンジーさんですね。 このドラマがきっかけで、主役の水谷豊サンと結婚しましたっけ(ご存知のようにその後は離婚、水谷サンの現在の奥さんはランちゃんですが)。
 シャーロットさんにも、なんか 「一生懸命」 というのと、イメージ的に 「澄み切っている」 という点で、ミッキーさんに共通したものを感じる。 早くも私のなかの好感度は、良好であります。

 そしてマッサンの母親が、泉ピン子サン。 先のコメント欄でも書いたのですが、好感度を無視したこういう役どころに挑むピン子サンの度胸は、今の空気を読み過ぎる時代のなかでは、見習う部分が大きい、と私は感じます。
 そんなピン子サンが 「外人との結婚なんて、許さん」 とけんもほろろに言い放ってしまうほどの 「国際結婚」 に対する壁。 これは現在では想像もできないほどの厳しい壁だったと思うんですよ。 私なんかも子供のころ(さっき言った昭和46年くらいですね)は、外人さんを見るのは非常に珍しくて、たまに出くわすとじろじろ見てたよーな気がする(笑)。 それが大昔で、しかも地方、ということになれば、その壁は、いかばかりなものか。

 さらに、日本酒造りの家から、どうやってウィスキーを作るという夢を実現させていくのか。 ストーリー的な興味は、尽きることはありません。 ひょっとすると、大化けしてしまう可能性も、秘めているような気がする、今度の朝ドラです。

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2014年9月28日 (日)

新宿事務所、どうにかなりませんかね

 最近ラジオを聞いててドキッとするのが、司法書士法人新宿事務所のCM。
 「カードローンキャッシングの払い戻しは新宿事務所…」。 という、あのクラーイCMです。 なんとかならんか。 暗すぎる。 聞きたくない。 正直不快です。 これが、ラジオも広告収入が激減していることもあってか、大量に流れているのがたまらん。

 別にただ暗いなら笑い話でもいいんですけど、数年前までは 「代表は18歳で世界一周しちゃった(19だったっけな…)、あのアベリョウ!」 みたいなすごいラテン系のCMだったから、その落差にイライラするんですよ。 払い戻しの支払期限が迫っていることは分かりますよ。 でも聞き手を脅すような暗いCMって、いかがなものか。 これじゃ平成に入ったころに深夜テレビで大量に流れていたサラ金のCMと、さほど変わんない気がする。 アタシャ今でも 「ラララむじんくんラララむじんくんララララ」 とか 「ヤリヤリクリクリヤリクリクリ」 とか、たまに口をついて歌っちゃうことがある(ダイジョーブかオマエ)。

 とにかくどーにかしてくれー。 早くカードローン払い戻しの支払期限が来ないかな…(後記 この記事がきっかけだとは思いませんが、その後、なんとなーく口調が明るくなったよーな気がする…慣れちまったのかな…笑)(それに追加後記 最近また元の暗い口調に戻った気がする…返金期限が近付いて、せかしているのか?…2015年4月)(さらに追加後記 最高裁で返金期限の10年が来年であることを強調したバージョンが出てた、と思ったら今度はヤケに明るいバージョンも併用…言ってる内容は一緒で元のラテン系のノリ…どっちにしろ不快…笑…2015年6月)。

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夏ドラマの視聴経過(「同窓生」「アゲイン!!」)

 一昨年の入院以来、仕事の多忙も相俟って、まともにドラマを見ていられない、という状態が、どうも続いています。 仕事が終わるとバタンキュー。 コメントを下さる皆様からの返信をしているあいだにまた眠くなり、寝たらまた仕事の時間、という悪循環が続いております。
 見ることのできるドラマも、だから激減。 ここ数クール、第1回目を見てその感想を書き、あとは全然見ない、という根性のないことをやっております。 「半沢直樹」 でさえ、第2部から見てない。 「リーガルハイ2」 も最近よーやく見たていたらく(笑)。 堺雅人サンのドラマ、疲れるのが多いんだ(笑)。

 そんな私がお伝えする、夏ドラマの視聴経過の惨状(笑)。

「同窓生」

 夏ドラマで唯一最後まで見たのが、「同窓生」(笑)。
 (笑)、と書いてしまいましたが、(笑=カッコワライ)、という出来のドラマでした(笑)。 脚本は問題作 「江」(笑) の、田渕久美子女史。 相変わらずカッコワライをやってくれました。

 どうしてそんなどーでもいいドラマを見たのかというと、他記事のコメント欄で書いたんですけど、「信長のシェフ」 と時間帯がダブってまして、W録画が出来る私の録画機でも、どちらかを最良画質(DRモード)で録らなければならなくなったため、「たとえためても最後まで見なきゃならないだろう」 という 「信長のシェフ」 を劣化画質のほうにして、「同窓生」 をDRモードで設定してしまった。 そのためにすぐに見ないとHDDの容量がすぐなくなってしまうので、「同窓生」 を毎回急いで見ていた、とこういうわけでして(あ~説明が面倒)(で、肝心の 「信長のシェフ」 をまだ第1回しか見てない…)。

 そんな 「(笑)」 なドラマをどうして最後まで見てしまったのかというと、結構懐かしい匂いがしたからかな~(笑)。 作りが昔のトレンディドラマっぽかったんですよ。 バブリーで。
 で、途中からあけひの夫のエグザイルの人がかなりエキセントリックなDVモードになってきて(録画画質じゃないですよ…笑)、「ずっとあなたが好きだった」 の冬彦さんみたいになるかなーと期待したんですけど(笑)、そんな度胸など作り手にあるはずもなく(いや、それやったら冬彦さんって言われるのは目に見えてるし…笑)。 最終回は妙に神妙になってしまって、「オレはあけひのいい思い出として残りたいんだ」 みたいな姑息さがチラチラ…(笑)。

 いや、途中までは、不倫の切なさとか苦しさとかがよく表現できていたとは思うんですが、なんか途中から、どうも主人公たち4人の気持の歯止めが利かなくなっちゃったみたいで。 そこからはもう、自分勝手の大押し付け大会。 かわいそうなのは、大人の都合で振り回される、健気な子供たち。 最終回はさすがに、2倍速で見ました。 つまり、もう最終回の前の回で、グダグダの極致になってしまって。 あとは結末だけ分かりゃいいや、という感覚で、2倍速。
 ARATAサンも最初のうちは 「こういうヤツ、いるよなー」 という感じだったんですけど、途中からの、ストーリーの崩壊現象に抗うことが出来ず、結局クリーニング屋を畳んでアメリカに…うーん、非現実的。 みんなそれぞれの道を歩み始めるんですけど、みんな 「あり得ない」 の権化みたいな結末で。 特に説得力がなかったのが、松岡クンがアラフォーで建設会社をやめて医師になるとかいう…(ハハ…)。 いや、松岡クンは医者の息子で後継ぎを期待されていた、というから、途中までは医者になる勉強をやっていた下地はあったと思うんですよね。 しかしそれにしてもね…。 後のみんなも、この世知辛いご時世に、独立開業とかしちゃってるし。 ん~、バブリー(笑)。

 でもすごく、愛すべきダメドラマだった、そんな気がします。 昔はこういう展開のドラマ、多かった気がするな~。 いったんインターバルを置いて5年後とかに落とし所を作るとかね。 悪く言えば古臭せぇぇーーっ(笑)。 いや、それが懐かしくていいんですよ。 ドラマのなかのみなさん、どうぞお幸せに…(笑)。 子供たちがグレなきゃいいけど(笑)。

「アゲイン!!」

 実はこのドラマ、関東地方ではまだ最終回までやってないんですが、なんか見ちゃいました。 久保ミツロウサンのマンガ原作。 深夜ドラマなので、地方ではやってないところもあるか、と思います。 30分程度のドラマだから、楽に見れちゃって(笑)。 どうも腰を据えて見るようなドラマを後回しにしている傾向がこんなとこにも出ちゃってます。

 「週刊少年マガジン」 で連載が始まったころに、一回読んだのですが、なんか続きが気になってて。 で、アマゾンの書評を見たらどうも途中からグダグダらしくて、「久保ミツロウはタイムトラベルものをやらないほうがいい」 とまで書かれていた(キツイな…)。
 そういうのをどうやってきちんとドラマ化するのか、と思っていたけど、深夜枠で時間も30分程度、というのがいかにもその書評の評価と合致している感覚。 でも深夜枠って、時々野心的なものがあるからな…。
 で、これが見てみると、意外に楽しめた。

 たしかにかなりラフな作りで、マンガ的な表現、例えば集中線とか、擬音とか、そんなのが実写画面にかぶったりする。 エッチさが強調されていたり、中途半端にコメディタッチだったり。
 それに、主人公が応援団を潰さないようになんとか奔走したりするんですが、その方法もマンガ的に画期的なものではなくて、なんとなく 「ちょっとソレジャナイ」 的なフツーさに満ち溢れていたり。 ただそれって、却ってリアルに思えたりするんですよ。 誰もが納得できる、頭のいい、冴えたスーパー解決方法なんて、それこそマンガ的じゃないですか。 学生のときなんか、みんな 「ちょっと違うんだよなー」、なんて違和感を抱きながら、みんなで決めたことをやったりしたものですよ。

 けれど私がこのドラマを見ていていちばん感じるのは、応援団を率いる、女団長の早見あかりチャンに対する、「作り手全体の尋常ではない熱意」。

 この、早見あかりチャンはももいろクローバーZに前にいたらしくて、そこを卒業したあと、ソロで頑張っているらしい。 '80年代の女子がみんなメイクしていたような、力強く太いまゆ毛がとても印象的な女の子です。
 原作の久保ミツロウサンはこの、早見あかりチャンをイメージして女団長のキャラクターを決めたらしく、いわば今回は、「原作者の願いがかなった」 逆輸入キャスティング。
 それと、やはりAKBなんかでも卒業した人は苦戦するように、ももクロを卒業してからの彼女は、どうもグループ時代に比べれば脚光が当たらない。 それをなんとかバックアップしよう、という、スタッフの熱意が感じられる。 このドラマは、限りなく彼女を光らせるために作られている、と言ってもいいくらいな気がする。

 だから作品の質なんか二の次。 早見あかりチャンが魅力的に見えれば、それでいい。 今の彼女を、そのまま焼き付けておきたい。 そんな思いが、画面に充満しているんですよ。

 そしてもうひとつ、主役の男の子に対する作り手のシンパシーも、尋常ではない気がする。 演じるのは、ジャニーズWESTの藤井流星クン。 彼がそもそもどういう顔立ちなのかは分からないが、このドラマのなかではマンガの主人公と同じ、金髪にマユゲなし(眉毛もキンパツ?)でかなり癖のある風貌になっています。
 この今村金一郎、その風貌のために、最初の高校生活では全く孤独で自堕落。 それが高校卒業式の日に、3年前の高校の入学式の日に、同級生の女の子と一緒にタイムスリップしてしまう。 そこから完全に無意味だった自分の高校生活を変えてやろう、と、以前から気になっていた女団長のいる応援団に入ったりする。

 これは全くの想像ですが、作り手も 「あの頃からやり直せたら」、という気持ちの強い人なのではないか、という気がする。 その自分の思いを、今村金一郎に託しているような気がするんですよ。

 ドラマの質は二の次で、そういう作り手の熱意が、ドラマに対する吸引力を高めていく。 そんな好例だと思うのです。

その他

 あと夏ドラマで見続けているのは、ナシ(笑)。 「あすなろ三三七拍子」 も 「アゲイン!!」 と同じ応援団ものでしたが、かぶってたけどこっちはまだ第1回しか見てない(笑)。 なんか痛々しさが前に来ちゃうんだよなー。 「芙蓉の人」 も、第1回を見たきり。 「HERO」 も 「おやじの背中」 も同じ。 どうも見ると疲れそうなヤツを後回しにしたまんま、というケースが多すぎる。

 「昼顔」 というのが夏ドラマのダークホースだった気がしますが、これ、第1回の冒頭、主人公の上戸彩チャン(チャン、という歳でもないのかもう…)が万引きをする、というシーンで、もうアウト。 ダメなんだよなー、こういうの。 イヤなんだよなー、こういうドラマ。 でも視聴率が上がったということは、面白かったんでしょうね。

 「家族狩り」 も話題になってましたけど、なんか空気が合わなくて。 第1回を見ただけですね。 ただ、「半沢直樹」 あたりから、TBSのドラマに対する情熱が回帰している、という印象はあります。 「ドラマのTBS」 が復活しつつある、という気がしますね。

 てゆーかー(笑)。

 まだ春ドラマもきちんと見てないしー(ハハ…)。

 テレビドラマの感想が主体のブログ失格です(面目ない)。

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2014年9月27日 (土)

「花子とアン」 最終回まで見て

 NHKの朝ドラというのは、非常に特殊な環境に存在せざるを得ない宿命にあるのではないか、と最近強く思います。
 つまり、「朝の出勤時間前の慌ただしいなかで月-土で毎日15分、決まった時間に放送される」 ということ自体が特殊である、ということ。
 これは1週間分に換算すると、主題歌の部分や前回のダブりを差し引いてだいたい1時間20分くらいの、日本のドラマとしては最も長尺のペース配分となる。 しかもそれが、半年間続くわけです。 日本一ハードなドラマ作りといってよい。
 そこである程度のクオリティを視聴者が求め始めると、作り手にとって難易度は桁違いに膨らんでいく。
 しかも視聴状況が状況なだけに、いっぽうで細かいところまで目が行き届く視聴者がいると同時に、極めて不完全な視聴のしかたをしている人も、かなり存在しているんですよ。

 さらに、生活に非常に密着するタイプのドラマであるからこそ、15分ごとの視聴でアラを見つけては、登場人物や演出の方法、脚本のあり方、果てはすべてを取り仕切っているNHK制作に至るまで、かしましく叱りつけ論じたがる舅小姑みたいな(失礼)視聴者が、とても多い気もする。

 たしかに、重箱の隅をつつき始めるとキリがない題材である、とも思えます。 私などは、「カーネーション」 という、まさにNHK朝ドラにとって奇跡のような作品と巡り合ってしまったことが、その後の視聴に大きな影響を及ぼしてしまっているのですが、作り手としてはもうちょっと、「ちゅらさん」 みたいな、おおらかさを内外に発信できるような朝ドラを作りたいのではないか、という気もする。
 でも一見いい加減でおおらかそうに見えて、実はとても緻密だった 「あまちゃん」 のような作品が出来てしまうから、これも困りものなのであって(笑)。
 結局は、脚本家の力量に頼らざるを得ない、というのが、実状なのではないか、という気がします。

 制作サイドにとってはその人選を、それまでの実績で測ることは当たり前ですが、特に朝ドラの場合、NHK総合やNHKBSで短いドラマを担当した脚本家に、人選を絞っている気はするんですよ。 クドカンなんかは例外ですが。
 今回の中園ミホサンに関しては、「はつ恋」 での成功が最も大きかったのではないか、という気がします。 「下流の宴」 というドラマもありましたっけ。

 ところがこの、1週1時間20分で半年間、というドラマを書きあげる、というのは、今の日本の脚本家にとって、とんでもない荒行なのであって(これは大河ドラマにも言える気がする)。 たぶんそれをこなせる力量を持つ日本の脚本家って、ホントに5本の指で数えられるかどうか、という少なさなのではないか、という気がするんですよ。

 今回のこのドラマを見ていて、その難しさというものを、とてもよく理解できた気がします。
 まあこれは、遠回しに 「花アン」 の批判をしているのと同じなんですが(笑)。

 まず、この膨大な長さのドラマについて、すべての登場人物がなにをやったのかとか、なにをしゃべったのかとか、どういう性格であるのかとか、そのとき年齢は何歳であるのかとか、完璧に俯瞰し把握していなければいけない、と思うんですよ。 それはそれは細かく。 そこに一貫性がないと、たちまち茶の間の舅小姑(再び失礼)たちの餌食になる。

 そしていかに、登場人物たちに、自然に語らせるか。 セリフが説明に陥ったり、妙に脚本家の考えをそのまま反映させたりすると、「不自然だ」、とまたすぐ一刀両断される。

 また、キャスティングにも重大な判断が必要になってくる。 ちょっとでも意にそぐわないと、「演技がヘタだ」 とか 「アヒル口ばかりして」 とか、それこそ坊主憎けりゃ袈裟まで憎くなってしまうのが、朝ドラの背負っている重たすぎる宿命、と言っていい。

 さらに今回のドラマは、モデルに当たる人が明確に存在している。 全くのフィクションなら素通りされるところが、「事実と違う」 と事情通から批判される要素も背負わねばならない。 今回、花子の家族に関してはかなり大胆な脚色が加えられましたが、これはほとんど資料が残っていなかったことを逆に利用したのでしょう。 しかしそれをするには、大きな 「想像の翼」 が必要だ。

 そしてこれは、場合によるのですが、今回みたいに視聴率がいいとですね、また余計な嫉妬を買うことになるんですよ。 「どうしてこんなダメドラマが支持されているのか」、ということについて怒る人が、どうにもこの島国には多い。 そりゃ内容と評価って、一致しないのが世の中ってもんですからね。

 そう考えますとですね。

 私がもし朝ドラの脚本を依頼されたら、「て~~~~っ!とんでもねえこんだ!」 ですよ(笑)。 誰が好きこのんでそんな地獄を味わいたいもんですか(まあそんなことはないから…笑)。

 でもやはり、任されるとなったら、脚本家のかたはどうぞ上記の点はお覚悟なさってもらいたいですよね。

 制作サイドはもしかして、「ちゅらさん」 のようなおおらかさで朝ドラを制作したいのではないか、という私の先の指摘は、最終週に出てきた、茂木先生を見ての感想です(笑)。
 いや~、すごかったな(笑)。 ドラマをぶち壊しまくり(爆)。 そこでドラマが止まっちゃうんだもん(笑)。 花子の養女の美里があんなに怒ったのもむべなるかな(笑)。 あれは茂木先生演じた出版社の社長が、「アン」 の原稿を読みもせずに突っ返した、ということではなく、茂木先生の演技に対してあれだけ怒ったんでしょうね(ちゃうちゃう…爆)。 あれは朝ドラ史上最大の 「事件」 クラスのキャスティングだった気がする(笑)。 いや~、このドラマでいちばん笑いました。

 そういう、制作サイドが 「ちょっと弛緩したい」 という個所は以前にもありましたよ。 花子の息子の歩クンが亡くなった直後の、吉太郎兄やんと醍醐お嬢様をくっつけようと画策する猿芝居の回とか。

 最終週でも、細かい部分で気になるところはずいぶん散見しました。 それだけワキの甘いドラマだった、ということはできるのですが、いちばん見る側に伝わらなければならなかったのは、花子と蓮子の友情の回復、という点だったのではないか、という気がします。

 ひとり息子の純平を失って抜け殻になったままの蓮子を立ち直らせてほしい、と宮本から依頼された花子は(宮本がなにも最愛の蓮子を励ましたりしてネーダロ、というのは置いといて)、意を決して(それまで何もしなかったのに宮本から頼まれたから行くのかよ、というのは置いといて)蓮子に会い、土下座して詫びます。
 そのとき蓮子は、「私も同じだったのよ」 と、純平を最後に送り出すときに笑顔で見送ってしまった後悔を語るのです。 涙なんかとうに枯れていたと思われたのに、また流れる滂沱の涙。 花子は蓮子を抱きしめることしかできません(152回)。

 花子は歩が死んだときに付き添っていてくれた蓮子のことを話し、「息子を亡くした」、という思いを共有することによって、蓮子との友情を取り戻します(だったらさっさと会いに行けばよかったじゃん、というのは置いといて)。

 花子は蓮子をラジオに出演させ(まず蓮子の承諾を得てからだろう、というのは置いといて)、息子を亡くした母親の思いを語らせます。

 「もしも、女ばかりに政治をまかされたならば、戦争はけっしてしないでしょう。 かわいい息子を殺しに出す母親が、ひとりだってありましょうか。 もう二度と、このような悲痛な思いをする母親を生み出してはなりません。 もう二度と、最愛の子を奪わせてはならないのです。
 戦争は、人類を最大の不幸に導く、唯一の現実です。
 最愛の子をなくされたお母様がた。 あなたがたは、独りではありません。 同じ悲しみを抱く母が、全国には大勢おります。 私たちは、その悲しみをもって、平和な国を作らねばならないと思うのです。 私は、命が続く限り、平和を訴え続けてまいります」(153回)。

 ここで展開される反戦思想というのは、今の私たちにとってみれば、とても幼稚なものであるのかもしれません。
 しかし、戦後70年近く、日本が戦争をしてこなかったのは、こういう、絶望に近い悲しみが原点にある、私はそう思うのです。
 「戦争なんて、もうこりごりだ」。
 その思いがなければ、平和なんか築けない。

 焦土と化した国土や、人心を見て、私たち日本人は、まず自分たちの反省をしたんですよ。 こういうことは、もう二度としてはいけない、と。
 それが、「反省は、もうじゅうぶんした」 だの、「なんで親やその親たちがしたことをいつまでたっても反省せにゃならんのだ」 だの、「自分たちから」 言ってはいけない、私はそう思う。 たとえ相手が政治的プロパガンダで反日を言おうとも。

 花子と蓮子の友情の回復と同時に最終週で描かれたのは、「赤毛のアン」 がようやく出版された、ということ。
 このドラマで私ががっかりした最大の点は、「赤毛のアン」 の取り扱いが非常に希薄に思えたところでした。
 何度も当ブログでは書いたのですが、内容の重点からいけば、このドラマの題名は 「花子と蓮子」 であった。
 「アン」 の翻訳をするのに、これだけ苦労した。
 「アン」 を出版するのに、これだけの苦労をした。
 そこらへんの描写は、とても不十分だった気がします。
 いつの間にか6年もたってるし。
 いつの間にかスコット先生、死んでるし。
 いつの間にか村岡印刷が図書館になってるし。
 子供たちは一部成長してないし(笑)。
 花子は老眼鏡が必要なのかどうなのか分かんないし(たぶん忘れてても読めたんでしょう…笑)。

 そりゃ、いろんな出版社のセットを作るのは大変だから、いろんな出版社に持ち込んだ、という話ができなかったんでしょうけど。 でも 「カモメがどうとか」 という翻訳の苦労話みたいなものは、もっとできたんじゃないのかなあ。

 まあ、当事者になってみないと、そこらへんの話の付け足しとか削除とかの事情は、分かりかねます。

 いずれにしても、朝ドラというのは大変なんだなー、というのが、とてもよく分かった今作でした。

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2014年9月21日 (日)

「花子とアン」 8/18-9/20 「最後にします」 は撤回します(笑)

 ここ数週の 「花子とアン」 は、ラストに向かってかなり内容的に持ち直している気がします。
 確かに太平洋戦争、という大きな題材を抱えているのだから、あだやおろそかな気持ちで物語を進めるわけにもいかないだろうし、それは当然ではあるのですが。
 前回のこのドラマのレビューで、当ブログの筆者は 「もうこのドラマのレビューはこれっきり」 と宣言しました。 だけどここ数週のこのドラマについて書きたい、という気持ちに抗えなくなりました。 ここに、前言を撤回させていただきます。

 「花アン」 について最近、いろんなところでこれを書いた脚本家の中園ミホサンが言及している。 それによると、半年間の物語の全体的な構成は、NHKのスタッフによってあらかじめ細かく考え抜かれていたらしい。 「いい加減な自分の性分じゃこんな細かい計画は立てられなかった」 みたいなことをおっしゃっています。

 その構成だと物語があと1カ月、という段階で、ずいぶんと遅きに失した感はあるのですが、このドラマの題名のかたわれである 「赤毛のアン」 のアン・シャーリーに、主人公の村岡花子はついに出会うことができました。
 そのアン・シャーリーの生き方が、村岡花子の生き方とシンクロしていき、物語の多少の齟齬を洗い流していくさまは、やはり見ていて清々しいものを感じる。
 特に、「アン」 の翻訳をしていた花子のもとに、幼い日のはな(の幻影)が現れて 「アンとあなたはとてもよく似ているのよ」 と、チビはなチャンと話を交わすシーン。 演出的にちょっとこそばゆくもあったのですが、とても感動的で、なんかじわーっと泣けてきた。 こういうのが見たかったんだな。

 過去の自分と対話し、自らの人生を振り返る。
 そこで気付くのは、いろんな失敗も回り道も挫折もしたけれども、自分の人生の中で、無駄だったものって、ホントにあったんだろうか?という思い。 というより、自らの人生を、否定的に感じたまま人生を過ごしていくことに、建設的な意義なんかほとんど持ち得ない、という思い。
 そして自らの人生を、曲がりなりにも肯定的に捉えたとき、自分の人生の中で出会ってきた、人でもいい、本でもモノでもいい、それらすべてに感謝したくなる、という思い。

 そんなチビはなチャンとの対話に加えて、ラジオに復帰した花子が自らの人生をインタビューされて語ったシーン。 話が出来過ぎてるかもしれないけれど、花子が父親への思いを語ったその番組を聞きながら、花子の父は息を引き取ります。
 確かに予定調和通りで安易に話を畳もうとしているきらいはあるかもしれません。 でも、自らの人生を振り返り、過去と対話しながら、花子がたどり着いた結論には、私は共感できるのです。
 いわく、「曲がり角の先には、もっといいものが待っている。 それを信じて、一歩一歩前に進もう」。

 でもこれは、一方的に自分のやったことに対して責任がない、「してしまったことはしょうがない、過去にこだわることに意味なんかない」、ということではない。

 「花子とアン」 の主人公は、日中戦争から太平洋戦争へと時代が向かっていくなかで、ある程度の葛藤を抱えていた、とはいうものの、戦争協力の一端を担ってしまいます。 このドラマは、そこのところをとても微妙なタッチで描いている。 見方によればそれって、「きちんと描いていない」、ということにもなるのですが、「時勢によって流されてしまう危険性」 というものを却って鋭くとらえた、というようにも感じるのです。

 つまり、このドラマでの花子は 「兵隊さんが頑張っていらっしゃるのは立派で尊い」「皆さんも自分の命をかけて働いていらっしゃる兵隊さんたちを見習って、立派な人間になりましょう」 と、ラジオを通じて、次世代の子供たちに向かって結果的には訴え続けていたことになる。

 これって戦争の真実を知らない、世間知らずのお嬢さんだからこうなってしまった、そう言えるだろうか。

 いや、「日本が持つ当然の権利を犯す者たちと戦うことは尊い」「大変な時だからみんな好き勝手なことはせず、我慢すべきは我慢して、頑張ろう」 というのは、今だってじゅうぶん通用する理屈だと思うんですよ。
 ここで 「戦争というのはどんな理由があってもしちゃイカン」、と言い切るのには、よほどの勇気が必要だ。
 却って頭のいい人ほど、国際情勢とか相手国の悪いところとかがよく見えるから、「戦争もやむなし」、と考えてしまう傾向にあるような気がします。
 そして 「戦争というのはどんな理由があってもしてはならない」 なんていうのは、オコチャマが考える理想だ、などと見下したようなことを考えてしまう。

 このドラマは、時局についてそんなに突っ込んだ表現をしていません。 戦争に反対する側の、宮本や蓮子の動きも、具体的には何ひとつ指し示していない。
 しかし重要なのは、「みんな頑張ってんだからそれに協力しない者は日本人じゃない」、みたいな、「空気読めないヤツ(KY)はアホ」 みたいな、変な仲間意識なのではないか、ということ。 それをこのドラマでは、村岡家に石を投げる子供たちによって、花子の仕事部屋にズカズカ入り込む婦人会の人々によって、表現しようとしているだけにすぎない。
 「非国民!」 と石を投げるその石は、今ではネットのなかでたった数行の意見の、膨大な集約(炎上)に取って代わっているのではないか。

 花子は時勢に流されていくなかで、「こんな暗い世の中だから、子供たちに夢を与えよう」 という自らの役割を自覚しながらラジオの仕事を続け、結果的に蓮子と決別してしまいます。
 そして蓮子の息子である純平が戦死してしまったことで、その関係の破綻は決定的なものになってしまう。
 花子は自らのやったことの重大さに、ここで気付くことになるのですが、このドラマは花子の後悔ってやつを、あまり突っ込んで表現しません。 戦争という嵐が残していった惨状を、妹のかよの悲しみや、兄の吉太郎の憔悴に向き合いながら、実感するのみなのです。

 そしてそこには常に、アン・シャーリーの思いが、花子の行先を照らしている。 「曲り道を曲がった先に、何があるのかは分からないの。 でもそれはきっと、とてもいいことだと思うの」、という、アンの言葉です。

 確かに、物語を進めるうえで重要な段階をスッ飛ばしている、という、ドラマ自体の傾向は未だにあると思いますよ。 ご都合主義みたいなものも感じる。 花子の父親が倒れ、三姉妹がそろって帰省したその場に、行方知らずだった吉太郎が偶然帰ってくるとか、先に指摘したように、花子の父親がラジオを聞きながら死ぬところとか、大きな英字辞書を抱えながらよく避難できるよなとか、花子の両親だけヤケに年とってるとか(笑)。

 でも重要なのは、「取り返しのつかないことをやってしまった人が、そのあとでどうやって生きていくのか」、ということなのではないでしょうか。 ここ数週のこのドラマの主眼は、今のところそこにある気がする。

 今週は、いよいよ最終回。 さんざん文句も付けましたが、「赤毛のアン」 に引きずられて(笑)途中リタイアすることもなく見られた、というのは、結果的にはよかった気がします。

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2014年9月14日 (日)

「妻は、くノ一~最終章~」 最終回まで見て

 かなり遅れましたが、去る5月から6月にかけてNHKBSで放送されていた、このドラマの感想文を書きます。

 朝ドラに出たヒロインは、それが秀作であれ、駄作であれ、その後を応援したくなる。 これは、NHKの朝の連続テレビ小説をこのブログが始まってから、毎作フォローするようになった私の偽らざる思いです。
 それは途中リタイアした作品についてもあてはまる。 正直に打ち明けると、今回の 「妻は、くノ一」 に出ていた瀧本美織サンが朝ドラに主演していた 「てっぱん」 は、リタイアしていました。 まあ、ただ単に、見ている暇がなかったのですが。

 去年放送された 「妻は、くノ一」 では、その彼女が忍びの役として登場し、相手役に市川染五郎サンが配された。 立場的には染五郎サンが主役のドラマですけどね。
 その染五郎サンが演じるこの物語の主人公は、気が弱くて天文学好きな学者タイプで、およそ時代劇の主人公としては似つかわしくないインパクトの弱い主人公であり。
 でも、その主人公が、忍びとして遣わされた瀧本美織チャン演じるこの 「いつわりの妻」 に心底惚れて、さまざまな障害をいかにも頼りなげではあるが、乗り越えていく。
 「てっぱん」 の 「あかり」(美織チャン) を見守ってきた茶の間の父親(笑)にも、「この男なら亭主にしてもOK」 とゴーサインが出る男なのでした。

 物語的に言えば平戸藩藩主・松浦静山という実在の人物を、海外進出を実行に移そうとする進取の気風を兼ね備えた軸として配し(演じたのは田中泯サン)、それを阻もうとするお庭番(要するに忍び、隠密)との綱引きを見せながら、その外周でこの話を展開させた。 その構造的な面白さが、このドラマの生命線である、と言えます。

 こうした、朝ドラヒロインを守りたい層と、「時代劇にしてはちょっと毛色が変わっている」 という興味とが折り重なって、このドラマは支持を得、続編も作られたのでしょうが、正直言って 「最終章」 というサブタイトルを最初に知ったときには、ちょっと肩透かしを食らった気分でした。 しかも全5回。 前作が8回もあったし、しかも原作も結構長編ぽい。 なのに5回で全部終わらせちゃうのかよ、というガッカリはありました。
 原作ではアメリカにわたって云々という話みたいだから、おそらく日本を脱出するまでしかやらんだろうし。 果たしてその読みは当たったのですが、こうして5回を見終わってみると、やはり物足りないというか、続編が見たくなるというか(笑)。 いや~、やらんだろう(笑)。 アメリカロケしなきゃならんし(笑)。 いや、「山河燃ゆ」 でも染五郎サンのお父上である松本幸四郎サン(当時の染五郎)が頑張っていたことだし(笑)。 日本でだって、やろうと思えばできるさ!(笑)

 で、この 「最終章」 を見始めてすぐに感じたのは、「どうも話がまどろっこしい」、ということでした。 これじゃ5回にする必要もないんじゃないか、という。
 特に話のスピード感と面白さが失われた最大の要因が、雙星彦馬(染五郎サン)の名目上の 「年上の弟」 である雁二郎(梶原善サン)が、早々に織江(美織チャン)を狙う暗殺者に殺されてしまったことだと感じる。

 この雁二郎という男、かなりとぼけた人物で、彦馬に対して慇懃無礼な物言いをするコメディの部分を受け持っていただけでなく、その実静山の忍びの者で、とても頼りがいのある人物だったのです。
 その彼がドラマ序盤でいなくなってしまった、ということは、ドラマをスピーディーに進める駒がいなくなってしまった、ということ。
 離れ離れになってしまったままの彦馬と織江を結び付ける要員がいなくなり、ドラマはいきおい、減速を始めます。 静山の娘である静湖(マイコサン)とか、雁二郎を殺った刺客に殺されかけた織江の命を救う魚売りのつる(松尾れい子サン)とか、前作との差別化を図ろうとして登場した人たちの話が、見ていてかったるいんですよ。
 これは前作において、女隠密の関係が、忍者の話だけあってスピーディーであり、命のやりとりをしていた緊張感がドラマを思い切り引き締めていたことと、ちょっと対照的である。

 この空転を避けるために、織江はこの続編において、彦馬を常に監視しければならなくなります。 特に物語終盤に差し掛かると、静山の海外渡航計画は否応なく進行していくため、織江はほぼ彦馬につきっきり(笑)。
 けれどそれが、終盤にかけてのドラマの盛り上がりにおおいに寄与することになる。
 つるや静湖の存在も、彦馬と織江の大団円に向かって徐々に脇を締め、結果、薄っぺらな物語に堕してしまう危険性を排除した。

 特にマイコサン演じる静湖は三十路の行き遅れのお姫様キャラで、雁二郎の抜けた穴を途中から埋める埋める(笑)。 このゴーマンキャラの静湖がなんとも情けない彦馬に惚れてしまう、というのが面白かった。 そして彦馬の織江への思いを解し、織江が腹違いの妹であるということを知ったときの、このお姫様のなんとも頼もしいことよ。 どうも原作では、このお姫様のサイド・ストーリーが作られている模様。 続編やるなら、アメリカ編もいいけど、このお姫様が主役のそのお話でもいいな(笑)。

 この続編の面白さがどこに帰着するのか、というと、「タイムリミットを設けている点」 だったと感じます。
 なんのタイムリミットかというと、松浦静山主導のもとで拵えられた 「天竺丸」 という遠洋航海可能の船が、外洋に向けて出発する日。 「抜け忍」 という宿命を前作で背負わなければならなくなってしまった織江が、江戸幕府の法度に抵触せずにその生を全うするには、それ以上の禁を犯してこの国を脱出するしかない、というロジックです。
 これは性格的にいうと 「宇宙戦艦ヤマト」 の 「地球滅亡まであと○○日」 という面白さに通じるものだし、「エイリアン」 の第1作でノストロモ号爆発まであと何秒、というラストに向かう数分間のクライマックスに似たものを感じます(蛇足ですがあのフラッシュ攻撃は、ポケモンショックの走りだったよーな気がする…笑)。

 しかしながらいっぽうで残念だったように思うのは、「抜け忍」 という題材の面白さに、あまり展開が見られなかったこと。

 「抜け忍」 といいますと、私なんかの世代だとすぐ思い出す(もっと上の全共闘世代ならなおさら)、「カムイ外伝」 というかなりの傑作が存在しています。 これは分かる人には説明不要ですが、要するにカムイという忍者がその組織から抜けたために、「忍者をやめることとはすなわち死」 という忍者界の掟によって、追っ手の忍者たちとストレートに、あるいは虚々実々に、命のやりとりをするという、白土三平氏のマンガの金字塔であります。

 この、「抜け忍」 としての宿命が織江を追いこんでいくわけですが、これがようやく最終回になって、「浜路」 という織江の母親の友人(中島ひろ子サン)の自らの身の処しようによって、やっと面白いレベルに到達する。
 しかし 「カムイ外伝」 に心酔した私などは、却ってそれが災いして、「ひょっとして瀕死の織江を助けた魚売りのつるも、追い忍なのではないか?」 と勘ぐっちゃって(笑)。 あったんですよ、「カムイ外伝」 にも、「スガルの島」 という同じよーな話が(笑)。 確か松山ケンイチクンと小雪サンで映画化されて、それがきっかけで二人が結婚したとか(話がずれとるぞ、話が)。

 ともあれ、その最終回は、それまでのまったりとした話の流れが全部収束しつつ展開を早めていって、老いたパパス(松浦静山)が意外な強さを見せつけた末、大ボス、ラスボス、というテレビゲームみたいな盛り上がりを見せて(ラスボス、つまりラストのボスは言わずと知れた、川村様)、大団円へと向かっていくのです(うーんドラクエ的)。 やっぱり我慢して全部見なければ、この最終回のカタルシスは、得られないでしょう。 しっかし松浦静山、強いわ。 途中の回では大オーゲサ芝居もしたし(笑)。

 このドラマは殺陣も素晴らしかった。 まあ、ごまかすためではあるけれども、たいていが暗い画面の中で殺陣は展開するのですが、変なワイヤーアクションとか、興醒めする類のものは一切排除。 忍者も絡みますから、普通のチャンバラとは違うこともかなり冒険して出来るのに、これはすごいと思うのです。

 それにしてもホントに、回数が短いのがこれほど残念なシリーズもない気がします。 マイコサンの 「姫は、三十一」 やんないかな(笑)。

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2014年9月13日 (土)

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」 あれから14年も経ったのにオマエってやつは…

 金曜ロードショーでエヴァ新劇場版の3作目、「Q」 をやってたんで見ました(遅まきながら)。 2014年現在、今んところこれが最新作、ということになりますかね。

 で、比較的分かりやすくてエンターテイメント性が前面に出ていた前作の 「破」 と比べると、これがワケ分かんなさ全開。
 とにかく観る者すべてを振り落としまくりのロデオぶりで、逆に 「エヴァ=分かりにくい」 という 「らしさ」 は如実に出ていた、とは思いました(笑)。

 今回の 「Q」 を見てつくづく感じたのですが、この作品はコアなファンほど絶望に叩き込みたくて仕方ないらしい(笑)。
 特にオタクレベルのアニメファンに対して、特定の主義主張が向かっているように思えるんですよ。 「なにが『萌え』だよ、お前らいつまでアニメとかキャラに依存し続けるんだ?」 と叱咤しているような。

 と同時に、この作品は未だにエヴァから卒業できない庵野監督自身の、「開き直り」 とも言えるスタンスを有しているように見える。

 かつて庵野監督は自分が作ったエヴァを、「オナニーショウ」 と自虐しました。 旧劇場版のころです。
 つまり自らの深層心理にある恥ずかしい部分を惜しげもなく晒して、自らの中に潜む幼児性とか、モラトリアムの強迫観念を 「作品」 として昇華しようとしていた。 そしてそれは巡り巡って、エヴァに依存する、「大人になりきれないオタク」 に対する攻撃へと転化した。 近親憎悪みたいな感覚でしょうか(あくまで個人的な感想ですが)。

 庵野監督がどうして新劇場版を作ろうとしたのかを考えると、おそらく 「エヴァは儲かる」 という経済的な理由もあったでしょう。 新しいコンテンツを考えても、それが受け入れられる可能性には常にリスクがついてまわる。 特にアニメ制作というのはいろいろ大変ですから。 だったら観客の見込めるエヴァを使い回ししよう、と。

 それと、これは 「モノの作り手」 としてのとても便利な理屈なんだけれども、「この作品にきちんとケリをつけよう」「この作品を21世紀にも視聴に耐えうるものにしよう」、と。
 旧劇場版までのエヴァというのは、庵野監督みずからの幼児性に対する、自らのひとつの答えであった、と思うんですよ。 それは同時に、「大人になりきれない」 観客たちへのひとつの答えでもあった。
 しかし自分がいざ大人になってみると、この答えというのは、極めて狭義的で自己完結の域を出ない。
 いろいろと人とのあいだに壁を作ったりウジウジと悩みまくったりしても、結局それは他人から見れば 「気持悪い…」 んだと(「気持悪い…」 というのは、旧劇場版でアスカがシンジにつぶやいた、最後のセリフです)。

 で、再出発したエヴァですが、いざ始まってみると、旧劇場版のときと同じような反応がまるで判を押したように立ち上がる。
 謎に対する膨大な考察、膨大な感想、膨大な批判。
 却って現代では、旧劇場版のときと違ってネットが発達してますから、そういう観客たちの感想のうねりというのは、もうあっという間に拡散するんですよね。

 新劇場版というのは、その情報伝達の早さにも対峙していく必要性が生じている。
 庵野監督は、「序」 で 「この映画は単なるリメイク」 という静かな立ち上がりをしておいて、 「破」 で娯楽性に徹して観客を弛緩させたものの、「Q」 においては急転直下してそれまでの状況を完全にスポイルし、謎をどんどん増やしていって不可解な単語を羅列し、「見たくない人は見なくていい」「ついてこれる人だけどーぞ」 という過激な方向転換を展開している。

 これはある意味、「自虐的な傲慢さ」 を撒き散らしている、と言ってもいい気がします。
 どうせなにをやっても先まわりされて考察されまくる、ならもっともっと謎を増やして分かんなくしてやれ(笑)。 どーせ回収不能なんだから(言い過ぎか…笑)。 作品中で解説なんかするから考察されるんであって、だったら映画の中で説明すんのもやめよう(笑)。 きちんとケリをつけようと思って新劇場版も立ち上げたけど、よく考えたら完結なんかしないほーがいーじゃん(笑)。 いろいろリニューアルすればフィギュアも売れるし(笑)。

 まあ私も調子に乗って憶測しまくりしてますが(爆)。

 「Q」 においてそのいちばんの被害をこうむったのが、主人公の碇シンジ君であります(笑)。 彼は急転直下に至ったその経緯について、ほとんど何も知らされないまま、物語は鬱な方向に大きく傾いていく。

 この 「Q」 の最大の特徴は、前作から14年がスッ飛んでいる、ということです。 けれども、エヴァのパイロットたちは、「エヴァの呪縛」 という作用によって、14歳のままなんですよ。
 だからアスカもマリも14歳なんだけれど、精神的には28歳になっている、という感覚(ただマリに関しては、よく分からん…笑)。
 だけど、碇シンジ君はその14年のあいだ初号機に取り込まれて云々で(よー分からんが、コールドスリープみたいな感じ?…笑)まるきり体も精神も14歳のまま。

 私は思うのですが、今回 「Q」 の碇シンジ君というのは、自虐の末に少年のまま置き去りにされた、モラトリアムの残骸、なんですよ。
 確かにいつまでたってもアニメから卒業できない、少年の心を持ち続けたい、という願望のようなものは自らのなかに残されている。
 でももはや時代そのものが、高齢化と逆行するように、精神年齢だけが取り残されてガキっぽい社会を成熟させつつある。 「大人になれない碇シンジ」 というのは、実は分別もつけることが出来ない、大人になれない我々のなかで、「若さを失わない自分」 の自虐でもある。

 今回の 「Q」 を見ていて強く感じたのは、庵野監督の、キャラに対する距離が、とても遠くなっている、ということでした。

 アスカ(綾波レイはどうなのかな、彼女は再生を繰り返しているから)が14歳の体のまま28歳になっているというのも、逆説的な心と体の乖離を裏付けている設定なのだけれども、彼女たちに対する庵野監督自身の視点というのも、とても冷たい気がする。 以前はアスカもレイも、監督自身の分身、という感覚だったんですが、いまは物語を進行させるための、単なる人形、という、そんな 「遠さ」 を感じるんですよ。
 しかしそれ以上に、14歳のままで 「あのとき」 に取り残されている碇シンジ君に対して、庵野監督は徹底して冷たい。 監督は碇シンジを、苦々しく思っているのではないか。

 この、庵野監督が碇シンジに対して抱いている 「苦々しさ」 の象徴が、「Q」 で私がいちばん印象的に思った言葉、「エヴァの呪縛」 なんじゃないかな、と感じます。

 どちらもエヴァから離れられない。

 いつまでたっても、ガキみたいな煩悶に囚われて、物語を紡がなければならない。

 それには、ある種の 「開き直り」 という姿勢がなければ、完遂することが難しい作業なような気がする。

 私たちはだけど、いつまでたっても終わらないこの物語に、いつまでたっても成長しない碇シンジに、すでに愛想を尽かしています。 「もう今更どーでもよくなってきた、どーせいつまでたっても終わんないし」、と。 「ちゃんと終わらせるのが制作者たちの義務ではないのか?」 とまで考えがちだ。

 でも、心にどんな残骸を抱えていようとも、一歩一歩前に進まなければならない。

 どんな物語であろうと、「死」 によって解決する魂などあってはならない。

 それは 「死」 を万能視する考えからすれば、「単なる願望でしかないよ」 ということになるのかもしれないけれど、私たちはもう、すでにあまたの 「死」 によって生かされ続けていることに、気付いてもいいのではないだろうか。

 この 「Q」 という作品は、東日本大震災で制作が延期された、という経緯を持っているらしいけれども、その大震災だけでなく、戦争で死んでいった人たちによっても生かされ続けているし、なにしろ生き残った人々(先祖)によって、私たちの 「生」 が存在している、ということは確かだと思う。

 「Q」 のラストでとぼとぼとお互いを支えながら歩いていくこの物語の登場人物たち。
 そのキャラに対する庵野監督の目は、もうすでに登場人物たちと同じ目線には立っていないのかもしれないけれど、「それが人の世の生業なのだ」、という諦観を、私などは感じ取ったりするわけです。

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