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2014年9月13日 (土)

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」 あれから14年も経ったのにオマエってやつは…

 金曜ロードショーでエヴァ新劇場版の3作目、「Q」 をやってたんで見ました(遅まきながら)。 2014年現在、今んところこれが最新作、ということになりますかね。

 で、比較的分かりやすくてエンターテイメント性が前面に出ていた前作の 「破」 と比べると、これがワケ分かんなさ全開。
 とにかく観る者すべてを振り落としまくりのロデオぶりで、逆に 「エヴァ=分かりにくい」 という 「らしさ」 は如実に出ていた、とは思いました(笑)。

 今回の 「Q」 を見てつくづく感じたのですが、この作品はコアなファンほど絶望に叩き込みたくて仕方ないらしい(笑)。
 特にオタクレベルのアニメファンに対して、特定の主義主張が向かっているように思えるんですよ。 「なにが『萌え』だよ、お前らいつまでアニメとかキャラに依存し続けるんだ?」 と叱咤しているような。

 と同時に、この作品は未だにエヴァから卒業できない庵野監督自身の、「開き直り」 とも言えるスタンスを有しているように見える。

 かつて庵野監督は自分が作ったエヴァを、「オナニーショウ」 と自虐しました。 旧劇場版のころです。
 つまり自らの深層心理にある恥ずかしい部分を惜しげもなく晒して、自らの中に潜む幼児性とか、モラトリアムの強迫観念を 「作品」 として昇華しようとしていた。 そしてそれは巡り巡って、エヴァに依存する、「大人になりきれないオタク」 に対する攻撃へと転化した。 近親憎悪みたいな感覚でしょうか(あくまで個人的な感想ですが)。

 庵野監督がどうして新劇場版を作ろうとしたのかを考えると、おそらく 「エヴァは儲かる」 という経済的な理由もあったでしょう。 新しいコンテンツを考えても、それが受け入れられる可能性には常にリスクがついてまわる。 特にアニメ制作というのはいろいろ大変ですから。 だったら観客の見込めるエヴァを使い回ししよう、と。

 それと、これは 「モノの作り手」 としてのとても便利な理屈なんだけれども、「この作品にきちんとケリをつけよう」「この作品を21世紀にも視聴に耐えうるものにしよう」、と。
 旧劇場版までのエヴァというのは、庵野監督みずからの幼児性に対する、自らのひとつの答えであった、と思うんですよ。 それは同時に、「大人になりきれない」 観客たちへのひとつの答えでもあった。
 しかし自分がいざ大人になってみると、この答えというのは、極めて狭義的で自己完結の域を出ない。
 いろいろと人とのあいだに壁を作ったりウジウジと悩みまくったりしても、結局それは他人から見れば 「気持悪い…」 んだと(「気持悪い…」 というのは、旧劇場版でアスカがシンジにつぶやいた、最後のセリフです)。

 で、再出発したエヴァですが、いざ始まってみると、旧劇場版のときと同じような反応がまるで判を押したように立ち上がる。
 謎に対する膨大な考察、膨大な感想、膨大な批判。
 却って現代では、旧劇場版のときと違ってネットが発達してますから、そういう観客たちの感想のうねりというのは、もうあっという間に拡散するんですよね。

 新劇場版というのは、その情報伝達の早さにも対峙していく必要性が生じている。
 庵野監督は、「序」 で 「この映画は単なるリメイク」 という静かな立ち上がりをしておいて、 「破」 で娯楽性に徹して観客を弛緩させたものの、「Q」 においては急転直下してそれまでの状況を完全にスポイルし、謎をどんどん増やしていって不可解な単語を羅列し、「見たくない人は見なくていい」「ついてこれる人だけどーぞ」 という過激な方向転換を展開している。

 これはある意味、「自虐的な傲慢さ」 を撒き散らしている、と言ってもいい気がします。
 どうせなにをやっても先まわりされて考察されまくる、ならもっともっと謎を増やして分かんなくしてやれ(笑)。 どーせ回収不能なんだから(言い過ぎか…笑)。 作品中で解説なんかするから考察されるんであって、だったら映画の中で説明すんのもやめよう(笑)。 きちんとケリをつけようと思って新劇場版も立ち上げたけど、よく考えたら完結なんかしないほーがいーじゃん(笑)。 いろいろリニューアルすればフィギュアも売れるし(笑)。

 まあ私も調子に乗って憶測しまくりしてますが(爆)。

 「Q」 においてそのいちばんの被害をこうむったのが、主人公の碇シンジ君であります(笑)。 彼は急転直下に至ったその経緯について、ほとんど何も知らされないまま、物語は鬱な方向に大きく傾いていく。

 この 「Q」 の最大の特徴は、前作から14年がスッ飛んでいる、ということです。 けれども、エヴァのパイロットたちは、「エヴァの呪縛」 という作用によって、14歳のままなんですよ。
 だからアスカもマリも14歳なんだけれど、精神的には28歳になっている、という感覚(ただマリに関しては、よく分からん…笑)。
 だけど、碇シンジ君はその14年のあいだ初号機に取り込まれて云々で(よー分からんが、コールドスリープみたいな感じ?…笑)まるきり体も精神も14歳のまま。

 私は思うのですが、今回 「Q」 の碇シンジ君というのは、自虐の末に少年のまま置き去りにされた、モラトリアムの残骸、なんですよ。
 確かにいつまでたってもアニメから卒業できない、少年の心を持ち続けたい、という願望のようなものは自らのなかに残されている。
 でももはや時代そのものが、高齢化と逆行するように、精神年齢だけが取り残されてガキっぽい社会を成熟させつつある。 「大人になれない碇シンジ」 というのは、実は分別もつけることが出来ない、大人になれない我々のなかで、「若さを失わない自分」 の自虐でもある。

 今回の 「Q」 を見ていて強く感じたのは、庵野監督の、キャラに対する距離が、とても遠くなっている、ということでした。

 アスカ(綾波レイはどうなのかな、彼女は再生を繰り返しているから)が14歳の体のまま28歳になっているというのも、逆説的な心と体の乖離を裏付けている設定なのだけれども、彼女たちに対する庵野監督自身の視点というのも、とても冷たい気がする。 以前はアスカもレイも、監督自身の分身、という感覚だったんですが、いまは物語を進行させるための、単なる人形、という、そんな 「遠さ」 を感じるんですよ。
 しかしそれ以上に、14歳のままで 「あのとき」 に取り残されている碇シンジ君に対して、庵野監督は徹底して冷たい。 監督は碇シンジを、苦々しく思っているのではないか。

 この、庵野監督が碇シンジに対して抱いている 「苦々しさ」 の象徴が、「Q」 で私がいちばん印象的に思った言葉、「エヴァの呪縛」 なんじゃないかな、と感じます。

 どちらもエヴァから離れられない。

 いつまでたっても、ガキみたいな煩悶に囚われて、物語を紡がなければならない。

 それには、ある種の 「開き直り」 という姿勢がなければ、完遂することが難しい作業なような気がする。

 私たちはだけど、いつまでたっても終わらないこの物語に、いつまでたっても成長しない碇シンジに、すでに愛想を尽かしています。 「もう今更どーでもよくなってきた、どーせいつまでたっても終わんないし」、と。 「ちゃんと終わらせるのが制作者たちの義務ではないのか?」 とまで考えがちだ。

 でも、心にどんな残骸を抱えていようとも、一歩一歩前に進まなければならない。

 どんな物語であろうと、「死」 によって解決する魂などあってはならない。

 それは 「死」 を万能視する考えからすれば、「単なる願望でしかないよ」 ということになるのかもしれないけれど、私たちはもう、すでにあまたの 「死」 によって生かされ続けていることに、気付いてもいいのではないだろうか。

 この 「Q」 という作品は、東日本大震災で制作が延期された、という経緯を持っているらしいけれども、その大震災だけでなく、戦争で死んでいった人たちによっても生かされ続けているし、なにしろ生き残った人々(先祖)によって、私たちの 「生」 が存在している、ということは確かだと思う。

 「Q」 のラストでとぼとぼとお互いを支えながら歩いていくこの物語の登場人物たち。
 そのキャラに対する庵野監督の目は、もうすでに登場人物たちと同じ目線には立っていないのかもしれないけれど、「それが人の世の生業なのだ」、という諦観を、私などは感じ取ったりするわけです。

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コメント

リウ様
おはようございます。

実は、私、エヴァはテレビシリーズも旧劇場版も未見でして、今回の「エヴァ祭り」が初体験という・・・
そのおかげで、「序」「破」は、「おお、結構ちゃんとエンタメしてんじゃん」と思いながら観ておりました。あくまで、「序」と「破」についてのみですが(笑)。

で、「Q」ですが、ちょっと大友克洋さんの「AKIRA」に通じるものも感じてしまいましたね。
つまり、人間が制御できないものを「覚醒」させたことによる、カタストロフィー。その鍵を握っているのが、成長することを止めた子供達、という点で。もっとも、「AKIRA」の方は、サイズと中身だけ子供のままで、その外見は、成長を通り越して残酷なほど「老化」していましたけど。

正直、「AKIRA」の方も最後どうなったかよく覚えてない(家に全巻揃ってるんだから読み返しゃあいいんですが)んですが、「Q」も、最後のあのテロップは何ですか?続くっちゅうことなんでしょうか?続くんでしょうね。この先、まだ、二商売、三商売はできそうなので。

思うに、「登場人物の成長」という要素を放棄し、状況のみをエスカレートさせていく作劇手段をとった時点で、行きつく先は、このような混沌とした世界になっていくのかあ、と。その点は、まさしく「AKIRA」も同じだったと思います。

ところで、リウ様。ドラマの「アオイホノオ」はご覧になってませんか?
島本和彦さんが大阪芸大生だった頃の、自伝的マンガをドラマ化したものですが、その中に出てくる若き日の「庵野ヒデアキ」、安田顕さんが演じられていますが、その再現度ハンパありません。あと、浜田岳さんのヤング岡田トシオのキャラの立ち方も素晴らしい。

今期のドラマで一番楽しめたのは、案外これだったりします(笑)。

投稿: Zai-Chen | 2014年9月16日 (火) 10時08分

Zai-Chen様
コメント下さり、ありがとうございます。

「アオイホノオ」 は、残念ながら見てませんです。 テレ東の深夜ドラマというのは、毎回思わぬダークホースなので私も極力フォローしようとしているのですが、今回は島本和彦サンの原作、という点でちょっと見送ってしまったかな。 島本サンの作る話というのは、だいたいこんなもん、みたいな刷り込みが激しいんですよ(「炎の転校生」 にその昔ハマり過ぎた、という経緯もあるんですが…笑)。

つーか、まだ前のクールのヤツを完全に消化してない状態ですし(「妻は、くノ一」 のレビューを今ごろしてる状態ですから…笑)。

「エヴァ祭り」 の意味が今回分かんなかったんですが(だって新作劇場公開やるわけでもないのに…笑)、いずれにしてもテレビで放映されるのとは少しずつバージョンが違う?という気にはさせました。 1.0とか3.0とか3.3とか、なんかよー分からんけれど(笑)その都度違うんですよ。 今回宇多田ヒカルサンのエンディングテーマもカットされてたし。

つまり、4部作で終わる(Qの次で終わり)という、当初の予定を破棄したのかな?みたいな。

「AKIRA」 はエヴァに比べればはるかに分かりやすい、現代クールジャパンマンガの祖、みたいな位置に今は在るような気がしますね。 最後どうなったんでしたっけ。 ペイパーバックみたいな単行本だったので、雑誌と間違えたうちのオカンに捨てられまして(笑)。 たしかデコピンが巨大化してアキラが呼応して金田が最後まで生き残ってバイクでネオ東京を突っ走るとか…だったよーな?(記憶がいーかげんだ…笑)

このマンガ、東京オリンピックの年を予言していた、とか、最近話題になりましたよね。

投稿: リウ | 2014年9月17日 (水) 12時45分

「ヲタクに成り切れないオトナ」には凄く良い作品だったのかも。そう思いました。

投稿: | 2016年9月 7日 (水) 12時41分

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