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2014年11月

2014年11月19日 (水)

高倉健サンのこと

 おそらくこの人は、こういういなくなりかたをするんだろうな、という私の予想通りに、この世から去って行きました。 葬儀の類一切なし。 密葬が済んでもう肉体がこの世から消滅してから、その死が発表される。 我が国の役者のなかで最高ランクでありながら、けっして出しゃばることなく、飾ることなく、ひっそりと。

 そしてその死が公表され、私たちは騒いでいます。 でもこのニュースが大きく取り上げられるほど、私は胸の中にもやもやしたものがたまっていくような気がします。
 それは、騒げば騒ぐほど、自分たちが凡人である、ということを思い知っていく、というような気持ち。 自分たちの関心が、とても世俗的なものにまみれている、と自嘲したくなるような茫漠とした気持ち。

 「不器用ですから」 という言葉は独り歩きしてしまって、健サンを象徴するような言葉になってしまったけれど、これは自分の持てるすべてを、役者という仕事につぎ込んだ人でなければ出てこない言葉。 「不器用」 という言葉には、とても深い努力が潜んでいるんだ、と思う。
 すべての雑音を自分から遠ざけ、ただ役になりきることに集中する。 そして仕事が終わると、その存在を完全に世間から遮断してしまう。

 私などは軽々しく、その姿勢を 「ストイック」 と呼んでいたのですが(2012年9月9日付 「プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健スペシャル」 気さくな求道者→ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2012/09/post-1948.html)、今思い返してみると、「全力で仕事をすること」 を自らに課していた、「全力への殉教者」 という気もしてくるのです。

 だからその出演作が公開されると毎回大きな話題を呼び、最後まで現役感を持続させることが出来た。 そして最後まで、みんなから慕われた。 健サンに傾倒する人たちすべてが、健サンを自分の心のよりどころとして頼ることが出来た、と思うのです。

 私もそのひとり。
 だから今は、なにを書いても自分の平凡さ、愚鈍さを痛感するしかない。
 頑張ってないもの。 健サンほどに。

 数多くの健サンの映画の中で私がいちばん好きなのは、「駅 STATION」 ですね。
 どこがよかったのか。 それは今は、ちょっと語りたい気分ではありません。
 だからこの映画が公開された当時、この映画の脚本の倉本聰サンが健サンについて書いたエッセイを、ここに再掲してみます。 無断掲載となってしまいますが、このエッセイって今、たぶん埋もれちゃってると思う。 もし問題があれば、お手数ですが当ブログにご連絡ください。 直ちに削除いたします。 「家庭画報」 1981年6月号からです。



 健サンのひとり言        倉本聰


 昨年健サンの大学の先輩に当たる俳優、山本麟一氏が死んだ。 山本氏は最後まで健サンのことを弟のように想い可愛がり、そして健サンも麟さんのことを先輩先輩と最後まで慕った。
 その麟さんが旭川で営んだ酒亭 「侍」 の店内の壁には若き日から今日までの健サンの写真も所狭しと貼り並べられている。 任侠シリーズの花田秀次郎からアサヒビールのコマーシャルポスターまで。
 それらの写真を見ていると、健サンの顔が年々歳々ぐいぐい変わっていることに気付く。
 良い顔になっている。
 どんどん深みを増している。
 役者の 「現役」(註:傍点付き)ということについて、僕はひとつの定義を決めている。
 「現役」 とは 「現在変わりつつある」、そういうことだと僕は信じている。
 名人上手といわれる人でも、変わらなくなったらおしまいである。 それはもう退役した、いわば晩年、余生に過ぎない。 しかしひとたび名声を克ち得たスターと呼ばれる人たちの中には、退役する人が多いのも事実である。
 仕事は続けている。
 だが実際は退役している。
 もはや自分を変革しようとせず、過去の名声をしっかり守るのみ。
 そういうスターが圧倒的に多い。
 だがそうでない人々もいる。
 過去の名声をこそ自らの敵とし、過去に克たんと懸命に闘う、いわば守備的人生でなく攻撃的人生を生きる人々である。
 口で言うのはたやすいが、これは現実には極めて苦しい。
 自らの過去を敵とするには、まず失敗を重ねなければならない。 失敗を恐れては何も出来ない。 大胆に過去をふっ切らねばならない。 過去の名声が大きければ大きい程、自分の敵は強大になる。 挑戦するには激しい勇気が要る。 変革よりは過去をなぞってぬくぬく生きた方が数段楽である。
 健サンはスーパースターである。
 にもかかわらず現役である。
 スターとしてではなく役者として己を常に変えようと闘っている。
 他人に言えない、頼れない闘い。
 その闘いが健サンの顔を、年々歳々変えて来ている。

 健サンにはまるで少年のような、可愛らしさと素朴さがある。
 健サンは実によく映画を観歩くが、批判は語らない、感動のみを語る。 それも言葉の多い人でないからいくつかの短い言葉にしかならない。 シナリオ風に書けばこうなる。
 「感じましたねぇえ」
   (長い間)
 「たまらないスねぇえ」
   (長い間)
 「参ったなァ」
   (長い間)
 「許せないスねぇ!」
   (長い間)
 「すいませんお嬢さん、コーヒーもういっぱいいただけますか?」
 そして僕らはコーヒーを飲み過ぎる。
 しかし。
 批判を語らず感動のみを語る、これは学ばねばといつもぼくは思う。
 世に創作家と批評家がいるなら健サンや僕は創作家の側である。 今や一億総批評家、他人の作品を批判し、くさすことがまるで自らを高めるかのように切って切って切りまくる御時勢のなかで、僕は創る側の人間である以上、批判するより感動すること、溺れることをこそ大切だと思う。 感動することから創意は生まれるが批判することから情熱は湧かない。
 健サンの短い感動の言葉は、僕の中に新たな相違を触発さす。

 今、僕らは東宝で映画を創っている。
 「駅(STATION)」 という作品である。
 一昨年の夏から去年の春まで、健サンのためにこのシナリオを書いた。
 北海道のいくつかの駅舎をメイン舞台にした三部作である。
 北海道では今鉄道が縮小され古い駅舎はどんどん消えている。 その消えてゆく古い駅舎に健サンを立たせてみたいと思った。
 高倉健には北海道が似合う。
 何処に売れるという当てもない、健サンだけが知る作業だった。 二月の半ばにやっと書き終え、そっと健サンに読んでもらった。
 健サンは読み終え、そして一言、
 「参ったなァあ」
 と言ってくれた。
 その一言が僕の去年の、もっともうれしい事件であった。    (了)



 自分に力がなくて、倉本聰サンのエッセイを載せるしか芸がない私でありますが、このエッセイの中に書かれていたことは、当時高校生だった私の心肝を染めたはずだったのに、私は今、創作家ではなくただの批評家になり下がっています。 このままドラマの感想ブログを続けていいものかな。
 あと気付いた。 どうして私が人の名前のあとに 「サン」 とカタカナ表記で敬称をつけるクセがついたのか(笑)。 倉本サンの影響だった(笑)。 ともかく。

 高倉健サン、さようなら。

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2014年11月15日 (土)

「世田谷ナンバー」 、世田谷区民の私の見解

 来る11月17日から、車のプレートナンバーで 「世田谷」 があらたにご当地ナンバーとして発足するそうです。
 私は世田谷区民ですが、結論から先に申し上げますと、「イラン子と砂」、あ、いや変換間違えた、「要らんことすな」(笑)。 今までの品川ナンバーでええやん(なんで関西弁なのだ)。

 まあ、ほかの地域の人にはどーでもいい話ですけどね。

 だいたい自分、世田谷に住んどいてナンですけど、「世田谷」 なんて、田んぼに谷の世の中、じゃないですか(笑)。 確かに世田谷は等々力渓谷とか谷はあるし、昔はそりゃ田んぼだらけでしたよ。 今も畑多いし(激減はしてますけどね)。 そもそもここは田舎ですっていう由来の地名だと思うんですよ(笑)。

 最近越してきた人は世田谷と言えばブランド力があるとお考えになるのかもしれませんが、もう半世紀近く住んでる私としては、「世田谷なんか田舎だよ」 という意識が強うございましてね。
 そのコンプレックスを払拭してくれてたのが、「品川」 ナンバー。

 だいたい字面から言っても、「品川」 って、すごくすっきりしてるじゃないですか。 なんか記号的なオブジェにすら思える。
 それに比べて、「世田谷」 ったら、三文字で、プレートナンバーにすると、どうにもせわしない。 美しくないんですよ。 しかも田んぼに谷の世だし(そこにこだわるねどうも)。

 こういう重要なことをね、区民(少なくとも私)がまったく知らされないまま決まっちゃって、それが強制だというのだから頭にくるんですよ。 反対のいちばんの原因はそこかな。

 これを勝手に決めやがった連中は、どこでアンケートを取ったのか 「賛成派が多数を占める」 だとかね。 そりゃ賛成派の人たちばかりに訊きゃ多数でしょうよ。 大手企業にだけアンケートを取りゃ、そりゃボーナス上がってるでしょうよ。 ボーナスがそもそももとから出てるでしょうよ。 ってなんの話だ、とお思いでしょうが、構造が一緒なんですよ。

 そしてとくに変える必要がないのに、それを法律で変えて強制してしまう。 これも、今回の国会解散の話とまるで一緒じゃないですか。 解散なんか、する必要ないでしょうに。 もともと景気が悪きゃ消費税10%は先送りしますよって話なのに。 なんとかこれで自分たちの心証をよくしてもっと勢力を拡大しようって腹がスケスケなんだよ。 その前にやることあるだろ。 定数是正しなきゃ憲法違反レベルだ、っていう最高裁の判断が出そうだってのに、その憲法違反をあえてまたここでやろうとするアホさ加減。 すべては自分たちの保身でしかない。 テメーラの食いぶちが減ったらコトだから定数是正なんか、次の国会に先送り。 いや、永遠に先送り。 やる気ないんだもん、アイツラ。 だいたいこないだ内閣改造したばかりじゃん。 スゲー無駄なことしてませんかね。

 なんの話だ、とお思いでしょうが、構造がまったく一緒なんですよ。 ウンザリしますね。 こういう 「上から目線の大きなお世話の押し付け」。

 はっきり言えば、私ももともと生まれだけは福島ですし、根っからの世田谷区民というわけじゃない。 親が両方福島ですしね。 だから、「世田谷よりは品川」 なんていうのは、田舎モンの発想だってことは、分かってるつもりですよ。 こないだ所ジョージさんもラジオで世田谷ナンバーに文句言ってたけど、所サンにしたってもともと所沢の 「所」 ですから(笑)。 田舎モンの見栄みたいなもんですよ、要するに。 勝手なのも承知してるし、矛盾してるのも承知してます。

 でもこういうことを勝手に決めちゃって、そして強制っていうのは、あまりに乱暴じゃないですかね? すごく政治的な匂いがするのが、とてもイヤ。 これじゃ新車買えないじゃん(笑)。 目黒とか品川に引越せばいいって? いやいや、もう半世紀住んでますもんね。

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2014年11月10日 (月)

「マッサン」 第3-6週 予定調和を拒絶する朝ドラ

 おことわり この記事、第5週までの分を途中まで書いていたのですが、どうにも先週じゅうに完成することが出来ず、あろうことかそこにさらに第6週の分をつけたして作成しています。 ですので論旨が多少おかしなところもあるか、と存じますが、ご了承ください。



 この物語でひたすら感心するのは、とりわけマッサンのウイスキー造りに絡んでくるエピソードに、朝ドラ特有の予定調和、というものがほとんど見られない、ということです。 つまり問題がいっときは解決したように見えても、根本的な事態の打開にまでなかなか通じていかない。
 特にウイスキー事業が株主会議にかけられ、エリーの機転で解決するかと思いきや、そんなに簡単にはいかなかった第5週(「内助の功」)の厳しさ。
 見ていて数年前まで同局でやっていた、「プロジェクトX」 の匂いさえ感じました。
 そして第6週で展開する、「生きるのが不器用な男の陥る落とし穴」。
 半分人情話、コメディタッチで展開する週でしたが、その奥底には現代人に共通する限りない問題意識が隠れている。 そして結局、たまった家賃の支払いについても、根本的な解決に至っていない。 すべての事象はきりもみ状態を保ちながら、ある部分は解決し、ある部分は解決しないまま、問題が未来に持ち越されていく。 これは私たちの人生においても、同じだと思うんですよ。

 これは、さすがにマッサンという男性が主人公のドラマだから、ということが大きいのですが、男性が主人公だからあくまでビジネス偏重の難解な骨太の物語になるのか、というとそうではない。
 ここで物語を、朝ドラの主な視聴者層であると思われる、家庭を守る主婦の視点にまで押し下げているのは、紛れもなくマッサンの妻のエリーの存在によるものでしょう。
 そのエリーの視点は、大正時代の日本人なんかよりよほど西洋化している価値観の中にいる、現代の女性たちの視点に近い。 だからエリーの目でマッサンの奮闘ぶりを見ていくと、どれだけマッサンが日本男児として、日本人の夫として、日本特有の会社組織の一員として、我が国の男どもがいかなるアイデンティティのなかにいるのかが、如実に分かる構造になっているんですよ。 エリーの目を通して、難解なビジネスの物語が分かりやすくなる構造。

 しかも第5週までの物語の中で、マッサンの勤めた会社社長の娘・優子(相武紗季サン)の姿を通じて、その男性中心社会の中で翻弄されてきた、日本女性のアイデンティティまで描写した。 どうもここらへんのストーリーは脚本家のオリジナルっぽいんですが、女性の自立心の芽生えまで絡める書き手の力量には、目を見張ります。
 優子だけじゃない。 マッサンのライバル的存在、鴨居(堤真一サン)の会社で働く企画広報担当?の女性とか、赤玉ポートワインのあの有名なポスターのモデルの女性まで生き生きと描かれているし、エリーの井戸端会議のおばちゃんたちに関しても、関西女性の逞しさをきちんと押さえることを忘れていない。

 第6週に入り、マッサンが住吉酒造を辞めてからは、このおばちゃん目線でドラマが展開されたように感じました。 第5週まで 「プロジェクトX」 をやっていたマッサンはいきなり、「この…甲斐性なしのビンボー人っ!」(by音無響子) になってしまうんですよ。
 この振れ幅というものが、とても効果的なのです。 いわば、硬軟を取り交ぜて話は進行していく。
 ここに関西のおばちゃんたちが絡むから、金銭的な窮状を極めていく話が、じめっとならない。

 物語全体の骨太感というのは、おそらくドラマの書き手(脚本家)が男性であることが大きい。
 これを数年前の傑作 「カーネーション」 と比較すると、このドラマは女性が書き手だったのですが、「カーネ」 の場合、家庭内工業の家族間での関係をシビアに描くことによって、女性にしかできない 「仕事の大変さ」 の表現に成功していた。 さらに女性にもよく理解できる、ファッションの変遷をドラマに絡めることで、それは継続されていった。
 それに対して、「マッサン」 はきちんと、事業計画から資金計画、株主会議までを順を追って説明し、「商売が成立する、ということとはどういうことなのか」 をかなり正面から描いている気がします。 しかしそれが、「ハゲタカ」 に代表される、NHK土曜ドラマのビジネスライクな話に傾倒していかないのは、やはりエリーが歯止めをかけているんですね。

 「半沢直樹」 なんかでは、シビアなビジネスサイドの話を、コミカルな上戸彩チャン演じる奥さんが弛緩してくれて、ドラマとしての調和を保っていた気がするのですが、今回のエリーはその役割をもっともっと拡大しています。
 仕事がうまくいかなくて涙にくれるマッサンを、「大丈夫、大丈夫」 と受け止めるエリー。
 次男坊でおそらく甘えたがり、猪突猛進タイプで思い込みが激しいタイプと思われるマッサンにとって、エリーは自らの人生に欠かすことのできない、より重たい存在なのです。 ここ数週展開しているドラマを、第1回目で後年、マッサンより先に、すでに亡くなっていたエリー、という視点から見ると、なんかもう泣けて仕方ないんですよ。 この先エリーが亡くなっちゃうときは、どんだけ涙腺が崩壊すんだろうと思うと、その日が来るのが怖い。

 第3週、第15回。

 この週は、マッサンの蒸留酒の実験が進行していくのと、エリーが上手にコメを炊いておいしいご飯を作れるようになること、が同時進行で描かれる巧妙なストーリー展開でした。
 エリーは散々いけずされた優子にコメの炊き方を伝授してもらうのですが、そのときに優子は日本の男性について、こう語ります。

 「まあ、(日本は)ええ国と言えばええ国やね、特に男の人にとっては。

 ええ嫁いうんは男にとって都合のええ女のこと。

 お台どこ(ろ)、炊事、家の事ちゃあんと出来て、いつも男を立てて。 それが日本の男が求める、ええ嫁やねん」

 これに対してエリーは、夫婦というのはパートナーだとマッサンは言ってくれた、フィフティ・フィフティだと答えるのですが、ここでのやり取りがやがて優子にとっても 「男と女ではなく、家と家との結婚というのは、どういうことなのだろう」 という疑問の出発点になる、と同時に、エリーにとっても、「マッサンも建前上は夫婦は対等だ、と言ってくれているけれど、実は日本の古くからの考えに、まだ囚われているのではないだろうか」 という疑問の出発点になっている。

 ちなみにこのとき初めて、優子の指導によってエリーはきちんとお米を炊くことが出来たのですが、ドラマ序盤でこういうエピソードをきちんと正面から描いた、というのは結構重要だと思います。
 なにしろ、ご飯というのは日本人の基本ですからね。 エリーが 「どうしても日本人になる」 と決意したことのいちばん最初のハードル。 まあ、日本人が銀シャリを食べるようになったのはなんか歴史が意外と浅くて、近代に入ってからですけど。
 その、おいしく炊けたお米をエリーがマッサンに食べてもらおうとしたとき、マッサンはウイスキー造りの資金計画で多忙を極めてしまい、気持ちが擦れ違っていく。

 この 「夫婦の気持ちの擦れ違い」 パターンは、実は第6週まで尾を引きずる息の長い話になってしまうのですが、ここの第3週の時点でエリーの葛藤は、まだ 「マッサンに自分の炊いたご飯をおいしいと言ってもらいたい」 というレベルでしかない。 この問題はマッサンとエリーのケンカがご近所を巻き込んで大騒ぎとなり、エリーはキャサリン(濱田マリサン)から、「この国で本当に生きていく覚悟」 を迫られる(第3週18回)。

 「そんな男とは、もう別れ!

 日本人どうしやと世間体もあるし、離縁された女は一族の恥さらし言う人もおって、なかなか別れられへんねやけど、あんた、関係ないやん。

 やっぱり無理やったんと違うか。 男がえばっている国で、嫁はんになるんは。

 よう考えて、自分で決めや。 誰に押しつけられたわけでもなく、自分で選んだんやからな」

 これは初期段階から、大変に厳しいプロットだと思う。 キャサリンは国際結婚のなんたるかをよく知っているからこそ、あえてエリーを冷たく突き放している。 エリーにはもともと覚悟が備わっていたから、キャサリンの忠告というのは、自分の覚悟を改めて再認識する機会になっているんですよ。
 でもこの段階では、マッサンが優子から 「エリーがどないな覚悟でこの国に来てるのかを知らんわけがなかろう」 と言われて心を入れ替える、ということで解決している。 マッサンはエリーに詫び、めっこ飯を食うことでその週はメデタシメデタシ、となるんですが、これが第4週、5週となるとさらに難易度レベルが上がっていくんですよ。 ふつう 「夫婦の擦れ違い」 なんて問題は、その週で解決して終わり、みたいな感じなんですけどね。 このドラマが予定調和を拒絶している第1の要因です。

 しかしコメの芯が残ってしまうめっこ飯ですが、蛇足ながらこれはコメをといでからすぐ炊いてしまったのが原因でしょう(笑)。 最低10分から15分程度は放置して水を吸わせないと(笑)。 「はじめチョロチョロ半パッパ」 は単に火加減の話なので、そのほかにもいろいろと段取りがある炊飯の奥の深さを、ここではユーモアを交えてさりげなく語っている。 エリーが日本人になっていくにはまだ油断はできない、ハードルがこの先も待ち構えていることの予告的提示。 その語り口のテクニックにも感心します。

 お節介を言えば(笑)、「赤子泣いてもフタ取るな」 の後に、藁(わら)を少々火にくべれば、程よいオコゲが出来て香ばしくなります。 炊飯ジャーの場合は、炊飯が完了して保温になったときに、もう一度炊飯スイッチを10秒かそこら入れれば同様の効果が期待できる(最近の電子制御の炊飯器はどうなのかな)。
 そーゆー変なウンチク要らんか(笑)。

 ちなみにこの 「フタを取る」 という行為。 エリーは待ちきれなくてフタを取ろうとし、優子はフタを開けてしまったことで、お見合いという日本の風習のなかで小さくもがこうとする第4週のストーリー(「破れ鍋に綴じ蓋」)へとつながっていく。 エピソードが連関していく話に、きちんと昇華しているのは見事です。

 第4週で優子は祖父の守谷長五郎(中村嘉津雄サン)が持ち込んだお見合いをすることになります。 エリーはここで優子の表情に陰りがあることに気付き、田中家の真っただ中に口出ししていく、という行動に出る。

 こうした 「ヒロイン出しゃばりの構図」 というものは朝ドラ視聴者のあいだでは特に嫌われるストーリー展開なのですが、このドラマ、そこにあえて切り込んでいるきちんとした明確な意図が見える。 エリーに出しゃばらせないと、優子の自立願望が頭をもたげないから。
 エリーはいわば、あえて問題を提起して対象者に従来自分が縛られていた常識を疑わせる、「役割」 を演じるわけです。
 それは優子が英文タイピストとして外で働きたい、という夢を持っていることを知ってしまったことが大きい。 「夢を食べて生きていける」。 エリーははからずものちにマッサンに言うことになるのですが、マッサンの夢について日本にやってきた、人が夢を持つことに大きな希望を見い出しているエリーだからこそ、あえて取ってしまう行動なんですね。

 井戸端会議のおばちゃんたちの情報によって、エリーにはきちんと、「愛のない結婚」 であるお見合いが日本の常識なのだ、という認識がある。 マッサンにも、「他人のわしらが口を出しちゃいけんの」 と、きちんと釘を刺されている。 でも 「それに流されていいんだろうか」。 エリーの問題意識は、そこにある。
 だから優子が結局、そのお見合い相手とのあいだにある種の信頼関係を築くことが出来たとき、エリーはそれ以上の介入をしないんですよ。

 「うち、だんだん考えるようになったんよ。 エリーさんが 『どうして?』 って思うこと、なんでうちは思わへんのって。
 もしかしたら、いつの間にか、自分の心にフタをしてきたんじゃないかって」(第4週、22回)

 優子のなかに起きた 「常識を疑う心」。 このドラマの語り手がいちばん言おうとしていることなのではないか、という気はしますね。
 そのきっかけが、エリーという異文化との交流によって巻き起こっている。 エリーの存在によって、井戸端会議のおばちゃんたちも、自分たちの文化についてどういう意義があるのかを考える機会になるし、もちろん優子や田中社長、マッサンに至るまで自らの意識を変革するよすがとなっている。 このドラマのいちばんのポイントって、今のところそこにある気がします。

 そんな、「日本人としての従来の発想」 を外的要因から揺さぶられている人たちと対極をなしているのが、元来から柔軟な発想で動いている鴨居です。
 第4週、夏場に突然ワインの入ったビンが爆発する、という事故が続発し、鴨居商店が売り出している太陽ワインは品質の良さからそのようなことが起こらなかったにもかかわらず、風評被害によって売り上げに壊滅的な打撃が出ることになります。
 そこで鴨居がまず行なったのは、太陽ワインの製造元である田中社長の住吉酒造の技術者であるマッサンに、その安全性を実証させること。 そしてそのマッサンを連れ出して、ひたすら得意先回り、という地味な作業を繰り返す。 いつもの背広姿みたいな偉そうな格好では聞いてもらえんと、家電量販店みたいなハッピを着て(笑)。

 こういうなりふり構わない行動力が鴨居の大いなる魅力であることをあらかじめ提示しておいて、その草の根戦術が無効であると悟ったとき、鴨居はマッサンを意図的に加えて社内ミーティングを開き、迅速に次の行動に打って出る。
 この並外れた行動力と柔軟な発想は、社員にもその精神が浸透していて、次々と新しいアイディアが出てくるのですが、その呼び水になったのが、マッサンの発言。
 こういうフレキシブルな会社というのが、伸びるんですよ(笑)。
 赤玉ポートワインのあの斬新なポスターを知っている身としては、そのポスターが多少の演出を加えながら、どのように誕生していったのかを見るワクワク感というのがある。 まさに 「プロジェクトX」 ですよ。 赤玉ポートワインのヌードポスターというのは、その後のサントリーがその広告力によって業績を伸ばしていく、まさに原点とも言えるモニュメントなのです。

 そのポスター制作が決まった会議の後、鴨居はマッサンに言うのです(第4週、22回)。

 「ものを突き動かすのは、切り替えの速さや」

 「じゃったらなんで、わしをここに呼んだんですか」 とマッサン。

 「中身の話すると思たからや」「えっ?」

 「この手の話し合いは、事務方だけが騒いでもあかん。 あらゆる方向からの物差しが必要なんや。 職人いうか、造り手の生の声を聞かな、ええもんはできまへん」

 いいリーダーというのは、組織をわざとかきまわして、空気を入れ替えてやる必要性を分かっている。 そして、社員たちの発想を受け止めて実行に移していく度量と、決断力。
 こうした鴨居の強引な手腕というものにさんざん文句を言っているマッサンなのですが、それをエリーに語る口調というのは、あくまで熱い。
 ただ、赤玉ポートワインがモデルであるドラマ中の太陽ワインの製造に関するごく初期の時点から、マッサンと鴨居のあいだには、製品の品質についての決定的な溝というものが、横たわっている。 日本人の口に合うようにいろんな甘味料やら混ぜている鴨居と、あくまで本物にこだわるマッサンの職人肌。 それはおそらく、この先ウイスキー造りにおいても、鴨居とマッサンを決定的に分かつ根本的な要因になるでありましょう。
 これを序盤のワインの段階からきちんと描いている、というのにも感心します。 ドラマの内容に対する、仕込みと熟成というものが、すでに成立している印象を受ける。

 マッサンがこだわっている、「本物のウイスキー」 という命題が、マッサンの首を徐々に締め始める、というからくりも、すでに第1週から仕込まれている。
 マッサンの父親(前田吟サン)も、蒸留酒作りに欠かせないスチルポット製造を依頼される泉谷しげる似の(笑)やかん職人、佐渡(佐川満男サン)も、誰も本場のスコッチウイスキーをうまい、と言った者がいないんですよ。 スコッチウイスキーを飲んで感動してるのは、マッサンだけで。 ウイスキー製造を推進しようとしている田中社長でさえ、ちゃんと飲んだことがあるのかな?という雰囲気だし。 田中社長のビジョンというのは、もしかしたら 「将来日本の西洋化がもっと進めばウイスキーの需要は必ず増大する」 というものでしかないのではないか、という気さえする。

 田中社長が鴨居に対して持っている劣等感というものも、確実に描いているというのもこのドラマのすごいところだと思います。

 「わしもな、時々思うねん。 わしとあの社長と、どこがいったいちゃうのやろうと。

 学校もわしのほうがええとこ出とる。 酒の知識も負けてへん。 そやけど今見てみい。 あの社長は、ピカピカの運転手付きの車に乗ってるがな。 わしゃ錆びた自転車や。 なんでやろ…。
 わしも早よ、世間で流行りの商品を作りたい」(第4週、24回)

 
 学歴も上なのに鴨居には敵わない。 その器量の狭さを実に分かりやすい方法で指し示していたのは、臨時株主会議でウイスキーの製造が認められるか、というところまでこぎつけたときに、マッサンの行きつけの 「こひのぼり」 で 「今日はワイのおごりや!」 とぶち上げたときに、「いやいやここにいるお客全員ちゃうで」 とやったエピソードだった気がする(笑)。

 話は前後します。
 エリーの 「お節介」 によって、いったんは縁談を断った優子でしたが、ワイン爆発の余波というのはまだくすぶっていて、銀行員で海運会社の社長の息子である先方との結婚を断る、ということが、すなわち住吉酒造の倒産に直結する事態へと、発展してしまいます。
 優子は会社の一大事に自分は自分のやるべきことをしなければいけない、という決意で、縁談を受ける。
 いっぽう太陽ワインのポスター撮り。 鴨居とマッサンが襖の細い隙間から見守るモデルの女性が、だんだんと和服を肩から下へとおろしていき、ついにはヌードになってしまう過程は、NHKにしてはかなりの冒険。 こちらのほうがドギマギしてしまう。
 その撮影後、カメラマンが鴨居との10年越しの約束を果たした、という話を聞いたマッサンは、鴨居に言うのです。

 「わしゃ…誤解しとりました。 鴨居商店は、大将が独裁者みたいにふんぞり返って、思いのままに操られとる人らの会社じゃ思うとったんです。

 じゃけど、ほうじゃなかったんですね。

 ほんまに自由で、新しい意見でも、ちゃんと認めてもらえる場所じゃいうことがよう分かりました」

 鴨居は答えます。 「会社でいちばんの財産は、人や。

 人間が成長せなんだら、会社も成長でけへん」(第4週、23回)

 そのさい鴨居からヘッドハンティングの誘いを受けるマッサンでしたが、逡巡したあげく、その誘いを断る。 これをエリーに何の相談もせずに決めてしまったことで、またマッサンとエリーはケンカになるのですが、ここでのケンカの段階は、ただのすれ違いだった第3週のケンカよりもちょっとレベルが上がっている。

 「そんな大事なこと、なんで(私に)相談もせずに決めちゃうの?」

 「わしの仕事の話じゃ。 それに、ほとんど最初から断るつもりじゃったし」

 「断る? どうして? もっとしっかり考えるべきじゃない?」

 「エリーは、鴨居商店に行ったほうがええ思うんか?」

 うなずくエリー。 マッサンは、田中の社長には留学までさせてもらった恩がある、義理と人情を大事にする日本人の気持ちなど、どう説明したって分からない、と言ってしまいます。 エリーは激高します(第4週、24回)。

 「分かるよ!

 …分かる。

 『ギリ』『ニンジョウ』、…その言葉、知らないけど、ボスや優子さんにお世話になったこと、大切、それは分かる!

 だけど、それでも、もっと考えたほうがいい。

 大将のところで働いてるマッサン、楽しそうだった。 大将の話するマッサン、うれしそうだった」

 「そがなことは…」

 「分かるよ! だって、…マッサンの嫁さん…でしょ?

 マッサンと一緒に、悩む、考える。 それは私の仕事!

 なのにマッサンは、私が外国人だから分からないって!

 ユー、メイクミーフィール、ソー 『悲しい』! ソー 『寂しい』! マッサン! 大将が私を(ポスターのモデルにしたいと言って)馬鹿にしてると言ったけど、

 いちばん、

 私のこと、バカにしてるのは、

 マッサン!」

 そして目の前で、襖をピシャリ! 出た~、天の岩戸じゃ~っ!(がはははは…また 「めぞん一刻」 ネタだった…笑)。

 冗談はさておいて、ここでのケンカの原因は、マッサンの凝り固まった閉塞的な国際感覚なのであり、夫婦の他愛ないすれ違いとは、一線を画している。
 マッサンはスコットランドでその自由な空気に次男坊の奔放的な性格が合致して馴染んでいたけれども、いざ日本に帰ってくると、男がエバっていればいい日本の空気が居心地いいと、感じてしまっている。 そしておそらくマッサンの念頭にあるのは、「郷に入っては郷に従え」、という価値観なのではないか。 だからこそマッサンはスコットランド時代、その土地に馴染もうとしたのかもしれないし。

 エリーの価値観というのは、恩義のために自分の人生を狭めてもいいのか、というところに重点がある。 そして夫が十二分にその力を発揮できる所で働くのが、いちばんだと思っている。 より功利主義的である、とも言えるのですが、慣習とかで結婚を決めている日本式のやりかたをいちおうは理解しながらも、やはり異を唱えずにはいられない、それが私の持っている信条だから、という側面がある。

 というわけでマッサンとエリーの冷戦状態が続く第5週に突入していくわけですが、この週のメインストーリーが、また侮れない。
 優子の見合い話がそこに絶妙に絡みます。 田中社長とマッサンが推し進めようとするウイスキー事業計画に、優子の見合い相手の父親(国広富之サン)が関与しだすんですよ。 こうなると、これがフィクションとかいうのはとうにどうでもいい話になって、脚本家の構成の周到さに、ただひたすら舌を巻くしかなくなります。

 第5週冒頭、エリーは独断で鴨居のところへ、マッサンを会社に入れてほしいと頼みに行きますが、鴨居はそれを断る。 エリーの単独行動をここで問題にすべきではない。 エリーの行動基準というのはいかにも西洋的な合理主義に基づいているのですが、それを正す鴨居の言葉が、この第5週を動かしていく、鍵となってくる。

 「あいつ(マッサン)は、猪突猛進のイノシシや。 いっぺんこっちやと決めたら、まっすぐにしか走らへん。 な?

 曲がることも、引き返すこともしない。 夢に向かってまっしぐら。

 あのイノシシは、自分から、険しい山道を選びよった。 住吉酒造に残っても、ウイスキーが作れる保証はない。 そやけど、住吉で走り続けると決めた。

 ほなエリーちゃんは、内助の功を果たさなならん。 力いっぱい走るしか能がない夫を、陰で支えるんが、内助の功や」(第5週、25回)

 ウイスキー事業の最初の障壁となるのが、「鴨居商店が太陽ワイン製造のため自社工場を建てる」 という情報。 太陽ワイン製造は田中商店の命綱ですから、これを決められてはウイスキー造りそのものに関わってしまう。 田中社長は鴨居商店に直談判に赴きます。 頭を下げる田中社長。

 「社長…頭上げてください。 わては亀山を引き抜こうとした男や。 そんな男に頭を下げて、悔しゅうないんですか?」

 「悔しいです! 今も…今までも、悔しい思いをしてきました」

 「それでも頭下げはるんは、会社のためですか?」

 「違います。

 大将です。 鴨居欣次郎です。

 わしはいつか、大将を超えたい…」「超える?」

 「ウイスキーです。 ウイスキーだけは、大将よりわしが、先に造らせてもらいます!」

 田中社長の劣等感と夢を、よく描写していると思いますよ、ここは。 自社工場の話は立ち消え、ウイスキー事業に追い風が吹き始めたと同時に、田中はマッサンを伴って、小口の株主のところにウイスキー事業を認めてもらおうと、奔走しだす。
 しかし大株主である守谷が次の障壁になってくる。 それを、見合いの打ち合わせで来たところに、マッサン自身が直接頼み込むことで田中社長、優子の援護射撃ももらい、なんとか臨時株主会議までこぎつけることとなる(第5週、27回)。
 しかし次に待ち受けていたのが、先に書いたように、「ウイスキーって、ほんまにおいしいの?」 という問題。 いくら本格的なウィスキーを作っても、売れなければお話しにならんのです。

 物語のかなり初期から仕込んできたこの話題。 ここでさらにキャサリンの 「煙臭い」、優子の 「薬臭い」 という部外者の認識を盛り込んで、ナレーションでその原因が泥炭(ピート)にあることを説明していきます。

 「ウイスキーの香りを決めるのが、このピート。 麦芽を乾燥させるときにつく、独特のスモーキーフレーバーこそが、スコッチウイスキーの特徴です」。

 そのナレーションにかぶる、泥炭の製造過程。 これをまるで巣鴨のとげぬき地蔵のように体になすりつけてありがたがるマッサン(笑)と、「くさいくさいくさい!異臭騒ぎが起こる!」 と消火してしまう事務方の矢口(白井晃サン)。 燻製、という技術自体は確かに当時の日本にもあったのでしょうが、「煙の匂い、スモーキーフレーバーを楽しむ」 という素地がない、という決定的な文化の差を、ここで明確化する。

 うーん。 ドラマの組み立てがとても理詰めだ、と感じます。

 そして事あるごとにマッサンの邪魔をしようとする矢口に、物語は 「経営的な理由」 をつけてクレバーな説明をそれまでしていたのですが、その意図の底には 「お前がキライやから潰したる」 というおおもとの原因を残していた。 これはある意味、クレバーな理由をつけられるより、説得力を伴っている。
 もっとも、矢口はマッサンと田中社長の、ヘッドハンティングの際の信頼関係回復を、つぶさに見ていた。 そこに嫉妬心というものが見え隠れするのも、うまく出来てるよなあ、という感じがするのです。
 矢口はのちにマッサンに、「お前は生まれてくる国と時代を間違えたんだ」 と吐き捨てています(第5週、30回)。 おそらく矢口は、自分の夢を諦めて、経理なんかをやっている。 だから無邪気に夢を追いかけるマッサンが、妬ましかったのではないか、ということまで考察できる。 ひとりひとりの性格づくりにも、手抜かりがないなあ、という感じです。

 さて、スコッチウイスキーの独特のにおいについて、刺身の臭み抜きという物語の仕込みをしておいて、開かれた臨時株主会議でマッサンピンチ!というときにエリーがスコットランドの料理を出し、「料理に合う酒」 としてアピールする、という話の持っていきかた(第5週28回)。
 「スコットランドの料理じゃなあ、日本の料理と合わなあかん」 という守谷にきちんと焼き魚を提供し、ハードルを次々と飛び越えていくストーリー展開は、小気味よささえ感じる。
 ここで見ている側は、「内助の功」 がこの第5週の副題なのだから、これでエリーの内助の功が見事に発揮され、問題は解決し、いよいよウイスキー事業が本格的に始まるのか、と思う。 それが 「朝ドラ」 がたいてい辿る、予定調和ですからね。

 しかし、ここで最後のハードルに、マッサンとエリーはつまづいてしまうのです。 伏兵は、優子の見合い相手の父親だった、国広富之サンです。
 承認が見送られた最大の原因は、投資から商品化に至るまでの期間が5年という長きにわたる、ということ。 ここに、ビン爆発のあおりを食らって脆弱化した経営の余燼が、まだくすぶっていたこと。
 株主ではない国広サンの発言力がどうしてここまで重要性を帯びたのか、というと、ウイスキー事業をやめなければ、優子と自分の息子との結婚も白紙にする、という強い態度に出たから。 ドラマのストーリーとしては、よくここまで八方ふさがりにしたよな、というほどの完璧さだと思いました。

 さらに、将来の希望に向かって突き進む積極性と、リスクと常に向き合わねばならない慎重性。
 株主たちのその、気持ちの揺らぎというものまで、このドラマは描写したのです。
 やるなあ。

 そしてウイスキー事業を諦められないのであれば、マッサンは会社を辞める。 そこまで結婚の条件として持ち出されてしまう。 完膚なきまでの敗北です。 ここまでするか(第6週、29回)。

 優子はエリーのところに、「政春さんが会社を辞めたくないのなら、それで自分の縁談が破談になってもいい」 と告げに来ます。 近視眼的なドラマの作り手であれば、けっして優子の気持ちまでは気が回らない。 優子は自分が道具であることをここではっきりと自覚し、自暴自棄とすれすれのところでなんとか自分を保っているのです。

 優子の気持ちをマッサンに伝えるエリー。 マッサンは自嘲気味につぶやきます。

 「わしが間違うとんのかのう…。

 わしが 『ウィスキー造りたい』 言うとるせいで、みんなを振り回して、みんなに迷惑かけて…。

 諦めたほうがええんかのう…」

 マッサンに近づくエリー。 「違う…違う。

 マッサンは、間違ってない。

 スコットランドで、一生懸命頑張った。

 お父さんとも約束した」

 「じゃけど…」

 「ダイジョブ。 大丈夫!

 人生は、冒険。 アドベンチャー。

 私、夢、食べて、生きていける」

 「夢を食べて?」

 「フフッ…。 マッサンの夢があれば、私、生きていける。

 どんなことでも、我慢できる」

 「エリー…」

 「マッサン。 日本で、初めての男になる。 世界一、うまいウィスキー造る男になる」

 ここでエリーが歌い出すのは、「ゴンドラの歌」 です。
 このドラマでは、中島みゆきサンが冒頭で歌っているように、「歌に翼が生えています」。
 つまり、歌がマッサンとエリーの人生を、下から支えるよすがとなっている。
 これまでも、のちの 「麦畑」 の歌をはじめとして、「蛍の光」「峠のわが家」 などの歌が、効果的にふたりの人生を導く翼となっていました。
 「命短し恋せよ乙女、朱き唇褪せぬ間に」 という 「ゴンドラの歌」 はもともと、優子が自らのなかの葛藤を吐き出すような性格を帯びていた。 そして自らの思うままに恋に生きよ、と訴えるその歌が、エリーの心をとらえる、という性格を帯びていた。

 ところがここでは、「命は短いのだから、自らの思うままに精一杯生きよ」、という意味を伴って、マッサンの心を打つのです。 「熱き血潮の冷えぬ間に、明日の月日のないものを」。 それは、ウイスキー造りへの情熱を失うな、という意味を伴って、マッサンの心を動かすのです。 男泣きに泣く、マッサン。

 このダブルミーニングには、参ったなあ。 とても高度な物語だ、と思いましたよ。
 しかも、スコッチウイスキーに合う料理を株主会議で提供して、マッサンのピンチを救った、ということよりも、実はこうして、マッサンが失意にいる時に、マッサンを信じて励ました、ということこそが、「内助の功」 であった、という結論。 参りました。

 そして第6週。 仕事を辞めたマッサンが、前述の通り 「甲斐性なしのロクデナシ」 に豹変します(笑)。
 そこに、ご近所づきあいの話を絡めながら、第6週の副題 「情けは人のためならず」 という結論を導き出すのですが、第5週の話の緊密さに比べると、一息ついたかな、という感じはいたしました。

 しかし、「ロクデナシモード」 にフォームチェンジするマッサン(笑)の変身ベルト、すなわち精神的な要因については、実に細かく描写していた。
 これを見ると、「どうして引きこもりになってしまうのか」 とか、現代人の病理まで説明できる気さえしてくる。

 第6週冒頭、エリーはからの米びつを持ってきて、「やっぱり、夢だけじゃ、食べていけまへんな」(笑)。 いたずらっぽくマッサンにしゃべって、ちょっと大見得を切ってしまった先週の自分の言葉を訂正するんですよ(31回)。 用意周到だなあ。

 2か月のあいだ、職を転々としてきたマッサン。 面接の日の朝に、鏡を見ながら営業スマイルの練習をするのですが、おかしくもないのに笑えない。 まずこれが第1点目(笑)。
 出がけに、心配するエリーに 「今度こそ長う続けられる仕事じゃ思うんじゃ」。 こういう、強がりで当てのない言葉を言う。 ここで2点目の減点(笑)。
 「私も仕事探そうかな」 と切り出すエリーに、「働いて金を稼いでくるのは男じゃ!」。 つまらん男尊女卑に囚われて、ここで3点目の減点(笑)。
 で、早々に帰ってきてどうして面接ダメだったかを訊かれると、「どうも自分に向いとらん」。 仕事つーもんはですね(笑)、多少自分とそりが合わんでも、なんとか辻褄をつけてやるもんなんですよ(笑)。 はい4点減点(笑)。
 キャサリンたちからおすそわけをもらっても、「食い物恵んでもらうほど落ちぶれとりゃせん」「武士は食わねど高…高楊枝じゃ」(どーしていったん言いよどむ?…笑)。 妙なプライドで、減点5点目(笑)。
 そして 「どうして朝飯がこれだけ?」。 現状を把握しとりません。 それどころか、現実から逃避の傾向さえ見られる。 6点減点。

 キャサリンはそんなマッサンに言い寄ります。 「このままずるずる仕事始めたら、ウイスキーのことは諦めなあかんようになるて、そない思てんのやろ?」

 私もそうだったから言いますけど、「自分には大きな夢がある」 なんて考えだすと、ほかのことをやるのに、とても消極的になってしまうんですよ。 「こんなのは、オレのしたいことじゃない」「こんなことをするために生きてるんじゃない」。
 だからキャサリンのこの言葉には、かなりドキッとしました。
 生きていくためには、なりふり構ってらんなくなる時が、いつかきっと来る。
 マッサンは米びつがカラになってもまだどーにかなる、と思っているから、すごく始末が悪い、と思いますよ。
 どーにかなる、と思うのは、実家に泣きつくという最後の手段が残っているから。
 以前当ブログで実際の引きこもりの人と議論したことがあったのですが、やはり私が考えてしまうのは、「引きこもりは、引きこもれるから引きこもる」。 親がいるから引きこもれる。 いくら気まずく食事をしても、親に部屋まで食事を持って来させても、気まずいのはその時限りです。 結局はずるずると、自分の無気力に負けていく。

 そして限りない自己嫌悪に陥って、ますます外に出ていく勇気というものがなくなっていく。

 でも、「無気力」 とか 「外に出る勇気」 とか、そんなものは自分を縛る呪文でしかないんだ、と思うんですよ。
 私はそこから抜け出したから、それらの言葉が呪文だ、と今は感じる。
 抜け出せたのは、働かなきゃどーしょーもなくなったから。 そうなると、もう自分の夢がどーとか、言ってらんなくなるんですよ。

 マッサンは 「ウィスキーの仕事なら」 とウイスキーを売る店で働きだすのですが、そこで売ってるウイスキーは、要するにまがいもん。 ウイスキーに対してかなりのプライドを有しているマッサンは、自分の会社で売っているウイスキーに、我慢がなりません。 それを求めに来た客に 「こんなもんは買わんほうがええ」 と言う始末で、即刻クビ。 当時はたぶん解雇予告から1か月の猶予とかないから(知らんけど)、文字通り即刻クビだったんでしょうね。

 私は思うのですが、マッサンも現代の引きこもりと、まったくの紙一重の位置にいたんじゃないか、と。
 つまり、いくらくすぶっていても、そういう 「内にこもるエネルギー」 がたまっている人は、何事かを成し遂げる大いなる可能性も、逆に秘めているのではないか、と。
 要は、それが内から外へ、いかにして逆転するか、なんですよ。
 それはおそらく、待っているだけでは実現しない。
 這いつくばって、這いつくばって、明日を信じて泥まみれになるしかない。

 この第6週の後半は、風邪っぴき騒ぎで終始したので、もうこれ以上の解説は不要だ、と感じます。
 そのメインストーリーのそばで、広島の亀山酒造がまた、ドラマに絡み始めています。
 どうにも用意周到だねこのドラマ。 唐突な登場とかがない。

 まあそんな感じですか。

 なにしろもう、書き疲れました(ハハ…)。

 私も何かを信じながら、こうやって苦しみ抜いて、生きているんだなあ、と思います。

 しかしどーすんのかな。

 いや、マッサンとエリーじゃなくて(笑)、こういうしんどいレビューは、もう終わりにしたいんですが(笑)。

 でもやっちゃうんだろうな、たぶん書きたくなれば。

 なにしろそうするのが好きだから。

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2014年11月 9日 (日)

近況報告(ちょっと、武者修行に行ってまいりました…笑)

 10月19日以来、新しい記事をアップ出来ておりません。 私の書く記事に期待している、という奇特な(失礼)かたがもしいらっしゃるのだ、とすれば、大変申し訳ないことであります。 もしいらっしゃれば、の話ですが(ハハ…)。

 そういったかたたちに向けて、今回は弁明の報告をさせていただきたく存じます。

 最近しばしば打ち明けておりましたが、一昨年の入退院以来、体力的にかなり落ちた感じで、しかもそれと同時に、仕事のほうがかなり忙しくなっております。 ここで詳細を語るのは本意ではありませんのでこれ以上くどくどは申しません。 当然、ブログの更新頻度は低下いたしました。

 ただここ数週、あらたな記事は書いてはいるんですよ。 しかしアップまで至らない。 自分に高いハードルを設け過ぎなのかな、とも思うのですが、もともと大した文章書く人間じゃないし(笑)。 そうなると不思議なもので、気楽にアップ出来なくなってくる。 なんとなくスランプ状態に陥っている感じでしょうか。 スランプなんて、ご大層なものじゃないですが(笑)。 なにを大物ぶっとるんだ。 気楽に自分の書きたいものをアップすりゃええじゃないの。

 そこでちょっと気分転換も兼ねて、先週は武者修行に行ってまいりました。 Macca Go Go Goという、ポール・マッカートニーファンの集うサイトであります。 「橋本リウ」 名義で、かなり長いコメントを投稿し続けました。
 当ブログにおいても、「ビートルズ」 というカテゴリはあるのですが、いかんせんアップの頻度が少なくて固定的な読者がいない感触がする。 そこにいくとマッカ様のサイトはコメント欄がとても充実していて、コメンテイターどうしで意見のやり合いをしたり、とても刺激的なんですよ(もし私のコメントを読みたいかたは、Maccaと橋本リウでご検索下さいまし)。

 そちらのサイトの管理人様は、コメント返信もかなり淡白です。 でも、淡白だからと言って、これ以上コメントしてもしょうがないし、という気分に不思議とならない。 それはやはり、コメントする側がポールの音楽についてもっと深く論じあいたい場を求めているからなのでしょうが、そういう人たちを受け止める度量というものが、管理人様に備わっているのだ、と感じるのです。

 当ブログでは、もともと不文律の取り決めとして、「コメントしたかたには、できるだけそのコメントと同程度の長さで返信しよう」、という方針でやってまいりました。
 そしてそれが思わず、当ブログのひとつの長所となった気がします。 拙い記事本文よりも、コメント欄のほうがよほど充実している、という現象です。 私もいただくコメントで触発を受け、本文で書く以上のことをよほど返信で書いてきた、そんな気もする。

 ですのでこの方針は変えないつもりでやっていこうと存じますが、ちょっとキツイときは、淡白な返信でも構いませんでしょうかね? なんて訊いて、反応がなかったらそれこそマヌケですが(この質問に対する反応がないみたいなので、見事にマヌケです…笑)。

 ところでアップ出来ない記事の報告ですが、今のところ 「マッサン」 のレビューをかなり苦心して続けております。 アップできないと月-土で展開するドラマだから、記事の内容自体がどんどん古びていって、なんか収拾がつかない状態になっています。 うまくいけば本日(11月9日)じゅうには上げたいのですが、2、3日がタイムリミットなのではないか、と感じております。

 あとは、「山賊の娘ローニャ」 ですね。 これも書きかけで止まったまま。

 ろくすっぽ記事も出せないのに今後書きたい、と感じているのは、「昨夜のカレー、明日のパン」 かな。 第2回を予約録画の関係で見逃してしまったので、最終回を見てから全体的な印象を書くしかないかな、と感じております。

 それとこれもNHKBSドラマになってしまって地上波しか見られないかたには申し訳ないのですが、「ダブルトーン~2人のユミ」 という30分ドラマについても、なんか書きたい気がする。 これ、結構面白いです。

 「ごめんね青春!」 は、なんか今夜(11月9日)放送の第5回、15分拡大版をぜひ見てくれ、というクドカンサンの話なので、「昨夜のカレー…」 をDRモードにしてダブル録画です(笑)。 両方同じモードで予約録画してるから、こないだの日本シリーズで延長のとき途中で予約がブッタ切られて、しまいの20分かそこら見れなかったんだよな~(笑)。 次の回見たら、なんか平田満サンと風間杜夫サンが共演してた(笑)。 ナビゲイターの観音菩薩の言うとおり(笑)、まあだいたい流れは予想できたけど(笑)。

 そんな感じで~す。 軽いねどうも…(笑)。

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