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2014年12月

2014年12月30日 (火)

ちょっと空耳アワー(ツイッター風)。

 今年(2014年)後半FMでよく聞いた、ワン・ダイレクションの 「スティール・マイ・ガール」。 サビに向かう部分が 「あの~あの~あの~…チクショウ…」 と聞こえるんですが…(笑)。 どうでしょう。

 それと、今年の新人バンドの代表、マジックの 「ルード」。 「no matter what they say」 の後ろで聞こえるコーラスが、「なぎらっサン」 って聞こえる(笑)。 「なぎらっサン、なぎらっサン」(笑)。 「タモリ倶楽部」 の常連であるなぎら健壱サンが出てくる絵を想像しちゃう(笑)。

 あと、題名分かんないけど、「ワダベンワダベン」 って聞こえるっていう曲(後記 分かりました、メーガン・トレイナーの 「オール・アバウト・ザット・ベース」)、私は 「馬鹿でぇ~」(どっちかって言うとバガデー)って聞こえる感じ。 「余るん?バカで、バカで、な、デブ」(笑)。 どうでしょう(こういうのはyou tubeでもコピペしないと分かりにくいんですが、やり方が分からん)。

 「タモリ倶楽部」 に投稿しようにも、あそこ本名でないと受け付けてくれないからな~(笑)。

2014年12月28日 (日)

ビートルズは今年(2014年)、ポールを含めて完全に金ヅル状態

 今年(2014年)も、ビートルズに関する話題は尽きることがなかった。
 これはとりもなおさず、彼らが未だに世界一のスーパーバンドであることの証左なのだが、その話題のほとんどは、長年のビートルズファンにとって苦々しいものばかりであった。

 まず日本にとってのいちばんの話題は、やはり5月のポール来日公演の中止であろう。 この公演初日に行った私も、モロにこの影響を受けた。
 しかしあとになってみると、「中止になったまさにその場に居合わせた」 ということ自体が、なにかとても貴重な体験をした、と考えている。
 結局のところ、ポールの病気は腸捻転だったらしい。 これについては最近、ポールから来年(2015年)再来日の約束がされたことの報道があったので、こちらはもう、当然行く心構え満々である。 仕事を休んででも行く(笑)。

 再来日のスケジュールとしては、また東京ドームとかお決まりの会場が報道されているが、私としてはなんとしても、次は野外でポールを見たいと熱望している。
 そもそも中止になった国立競技場が、ポールの来日公演にとって初の野外となる予定だった。
 野外ともなれば、「007死ぬのは奴らだ」 でのお決まりである、火薬を使った演出も派手さを増し、花火が上がり放題のものすごいものになるであろう。

 しかし同時に再来日の会場として取り沙汰されているのが、日本武道館の公演である。
 これについては今年(2014年)、その料金の高さがかなりの話題に上った。
 これは武道館のキャパが1万人しかないことに興行的なネックがあることが問題なのだが、最高で10万円、というその値段はおそらく、金持ちしか相手にしていない商売と言われても仕方なかろう。
 これはその歴史的価値から言っても、それくらいボッてもいい気もするのだが、そもそも高い料金で自分たちを見せる、ということについては、ビートルズの精神とおよそ大きくかけ離れている、と言わざるを得ない。

 かつてジョン・レノンは、「安い席の人は拍手を、高い席の人は宝石をジャラジャラ鳴らして下さい」 と言い放った。 お高くとまっている客の多かったロイヤルコンサートでの強烈な皮肉だ。
 つまり、武道館公演を10万円もの値段を出してポールを見る人に対しては、「宝石をジャラジャラ鳴らして応援してください」、ということが、ビートルズの精神として叶っていることなのだ。

 しかし、ここまでビートルズが伝説化し、ポールの年齢なども考えると、客席の料金が高騰することは、むしろやむを得ないこととも言える。
 それに、長年ビーファンをやっていれば、それなりにお金のやりくりもできるというものだ。 自分へのご褒美に、という考え方自体が私は嫌いだが(笑)、自分の努力の対価として高い料金を出してポールの武道館公演を見ようという人を、私はけっして非難するものではない。 ジョンが皮肉ったのは、札束にモノを言って本当に自分たちを観たい人たちを蹴散らす金持ちたちの傲慢に対してだったからだ。

 問題なのは、そういった事情もみんな計算し、高い料金を吹っ掛けてくる、プロモーターとか、ポールやビートルズを取り巻く連中である。

 実は、私が苦々しく感じているもっとも核心の問題がこれだ。

 今年(2014年)、ビートルズはアメリカ上陸、および日本に紹介されて爆発的な人気を獲得してから、50年という佳節にあたった。
 それに便乗するかのごとく、EMIから販売権を譲り受けたユニバーサルミュージックは 「USボックス」「JAPANボックス」 といったボックスものを乱発。
 私が最も苦々しく感じているのは、このユニバーサルのアコギな商売なのである。

 かつてEMIでVol.2まで出ていた企画モノ、「キャピトルボックス」 は今回の 「USボックス」 とまるきり意趣を同じくするものだが、当時アメリカで発売されたラウドミックスやエコーかかりまくりバージョンをそのまま再現し、さらにステレオヴァージョンとモノヴァージョンを2イン1にした、今にして考えるとかなり良心的なボックスセットだった。 さらにジャケットの作りもいい加減で(笑)、「これぞアメリカ流」 という皮肉を図らずも演出していた気がする(極めつけはボックスセット自体の作りで、気をつけないとCDを出すときにかなりヤバかった…笑)。

 しかし今年出された 「USボックス」 は、その音源を2009年リマスターのものと統一させた(「JAPANボックス」 も同様の措置が採られた)。
 これはこのボックスの価値自体を大幅に下げる所業である。
 ユニバーサルは、これをかなり意図的にやっているフシがある。
 こうすれば、のちにかつてのEMIバージョンに準拠したボックスが、もう一度作れる、そんな意図を感じるのだ。

 ポールのCDの売り方も同様である。

 ポールについてはEMI時代にも前科があるのだが、去年出されたレーテストCDである 「NEW」 を、ヴァージョンを変えながら3種も売り出した。 しかも完全な後出しジャンケン方式。 これは紛れもなく、ファンを裏切る行為でしかない。 完全なものがあとから発売されるのであれば、それだけを買うに越したことがないではないか(しかも一番最後の完全版と目されるものも、実質的には完全版ではなく、結局全部網羅するには3種買わねばならない)(厳密には2種、最初のだけ買わなきゃいいのか)(いや、ジャケットの体裁が違う…やっぱり3種だ…笑)(AKB方式が業界を浸透して、同じものを買わせるということに罪悪感がなくなっているのではないか?)。

 オリジナルに少々違うものをいちいちつけて、同じものを3度も買わせる。
 いくらなんでも薄汚すぎる。
 これが、ユニバーサルの商売なのだ。

 こうなってくるとポールのアーカイヴ・シリーズというのも 「同じものを買わせる」 一環に見えてきてしまうのだが、今年の11月に発売された 「ヴィーナス・アンド・マーズ」 では、なんと音飛びの不良品まで売りつける暴挙に出た。 しかも現在のところそのフォローは一切ない。 あのなぁ。 いい加減にしろよユニバーサル。 0コンマ何秒かなんて問題ないとでも思っているのか? さんざん発売延期させて、しかも値段までつり上げたあげくにこれだ。
 回収して正規のヤツを賠償するなんて発想自体がないんだろう。 あとからコソコソ正規のヤツを発売して、もう一回それを買わせる魂胆なんだろう。 我慢ならない。

 このユニバーサルのダーティ・ビジネスは年末も滞りなく行なわれた。
 すなわち、ビートルズのCDの高音質盤(SHM-CD)リリースである。
 さらにはジョン・レノンのSACDもリリースされた。

 同じものを手を変え品を変え売り続ける。
 マニアはこれを買い続けるしかない、という因業につけこんでいるのだ。 良心のかけらさえ見当たらない。

 私はもうとっくに見限ったのであるが、確かにもう増え続けることのないミュージシャンの音源を買わせるのは、この方法しかなかろう。
 しかし本当のファンが望んでいるのは、もっと本丸があることを、ユニバーサルは知る由すらないのではないか。 いや、知っててじらしとるのだろう。 フザケンナ、と言いたい。

 今年行われるはずだった武道館公演に関しても、20歳以下の人は1500円とか、いかにもよさそうなことをブチ上げていたが、これは実は、こうしたアコギな商売に乗せられ彼らの音源を買いまくるマニアを増やそう、という魂胆が根底にあることは間違いない。 こういう発想は、ユニバーサルだけでなく彼らの取り巻き全体からあふれ出ているのだ。

 いい加減にしろよ、どいつもこいつも。

 来年(2015年)のポールの公演が、いったいどのくらいの目ん玉飛び出る値段になるかは分からないが、せめて客席くらい選べたらいい…のだが、そんなことは無理無理無理無理………(ハハ)。
 2013年の東京ドームでS席だったにも関わらず、いちばんうしろの壁のほうが近い席に座らされ、一緒に歌ってたら 「うるさいよ!」 とまで言われた最悪の東京公演の、リベンジをさせていただきたいものだ。

2014年12月26日 (金)

「クリスマスの約束2014」 今年は約束の 「y」 くらいでしたが…(笑)

 出演ミュージシャンたちによる井上陽水サンの 「最後のニュース」 で幕を開けた、小田サンの入魂音楽番組 「クリスマスの約束」。 「原子力」 という言葉がまるで予言のように使われたこの曲をやる、ということは、今年の 「クリスマスの約束」 は社会的なメッセージ色の強いものになるのか、と思っていたら。

 ここから2時間の番組中、ほぼ1時間40分くらいは 「2001」 からのこの番組の総集編。
 まあこの番組を録画したものは何度か見ていたのですが、久しぶりに見たから結構新鮮で、特に気にはならなかった、と告白してしまいましょう。
 とりわけ2009年のJ-POPの巨大な叙事詩、「22'50''」 は何度見ても圧巻のひと言で、これはたぶん、日本のミュージック・シーンにおいて後世まで語り継がれるべき 「一大事件」 と呼べるモニュメントである、と断言したくなります。 何度見ても泣ける。

 この組曲はおそらく、参加した人たちがレーベルを超えて多岐にわたることや、著作権上の理由から、CDとか配信になる可能性はゼロであるといえます。 すなわちこの曲をエラソーに流せるのは(笑)TBSだけ、ということになる(笑)。 番組のディレクターか何か知らんが、この組曲の制作過程で 「これをやる目的が分からん」 とかほざいていたところを当のTBSが流すのも、実に出来レースの印象がぬぐえないのですが、どうも今年の 「クリスマスの約束」 の、総集編的な 「放り投げられた」 感の後ろに、「小田サンとTBSの間で何かがあったのではなかろうか」 という勘ぐりを挟み込む余地が生まれてしまった気がする。

 ただ、 「22'50''」 がひとつのピークとして、その後のこの番組の存在意味を失わせつつある、ということも同時に感じるのです。

 今回の 「総集編」 でも語られていたように、番組当初、小田サンの呼びかけにゲストとして応えてくれたミュージシャンは、ただのひとりもいなかった。
 それは13年前当時、もはや21世紀になっていたにもかかわらず、前世紀のような 「テレビに対する不信」 であるとか、ミュージシャンどうしのあいだにあった壁、自分の歌に対する独自性へのこだわり、自閉性みたいなものが、いまだに厳然とあった、ということを提示していた。
 その壁が氷解していったのは、それは小田サンがこの番組を辛抱強く継続していったことに主な原因があるのだけれども、これって先に掲げた、ミュージシャンたちがそれまで持っていたこだわり、というものが氷解していった過程なのではないか、と思うこともあります。

 その根底には、ミュージシャンたち自身が、他人とコラボレートすることによって何かを得たがっている、現状のミュージック・シーンに対する閉塞感を打破したいという欲求の発露があったかもしれない。
 そのためには、自分の中に存在していた、ミュージシャン特有の強力なATフィールドをこじ開ける必要があった、と。

 ただこの、「22'50''」 みたいな巨大なコラボレートがその後、ミュージック・シーンに根付いているか、というとそこまでには至っていない。
 「クリスマスの約束」 には、もしかするとそんなミュージック・シーンのカオス的な融合が宿命づけられているのかもしれない、そんな気もするのです(オーゲサか)。

 そして長~い総集編が終わってよーやく始まった 「クリスマスの約束2014」(笑)。
 ゲストは細野晴臣サンです。
 はっぴいえんどの曲をやるのかな、と思っていたら、チャプリンのスタンダード・ナンバー、「スマイル」。 ちょっと肩透かし。
 細野サンというとこの、はっぴいえんどとYMOという、超メジャーなバンドの構成員であったことは小田サンから触れられていましたが、ワタシ的にはこの人は、ベースギタープレイヤー。
 小田サンがいちばん最初の 「クリスマスの約束」 でたった一人で演奏した、「ひこうき雲」 をはじめとして、ユーミン初期のアルバムを強力にサポートしている、という印象が大きくて。
 だから絵的には小田サンがあらためて 「ひこうき雲」 を歌って、細野サンがそのバックであの印象的なベースを弾く、というのが見たかったな。

 ただ、やはりこういう総集編みたいなのを流されるとですね、「この番組の目的とか、役割って、もう終わったのかな」、なんてさびしい気にもなるんですよ。
 まあ今年はこれでイイですから、来年また、じっくりと楽しめる番組を期待します。
 ある意味では、完全に紅白歌合戦などよりも、日本のうた歌いたちの本気というものを垣間見ることのできる番組なのですから。

2014年12月23日 (火)

「軍師官兵衛」 最終回まで見て

 岡田准一クンが主役を演じた今年(2014年)の大河ドラマ。
 年間を通じて感じたことは、岡田クンがこちらの予想以上に、主役としての存在感を残した、ということでした。

 ドラマでは彼のまわりに大男が揃っていたせいか、彼の背の低いのが目立っていた時もあったのですが、けっしてその存在が埋もれてしまうことがなかった。
 特に凄みが際立つようになったのは、なんと言っても仲間由紀恵のダンナいや違った(笑)荒木村重に捕えられてから。 長い土牢生活の末に出来た、およそジャニーズにはあるまじき顔あざのメイクと、そして片足の自由が利かなくなった外見もさることながら、心にも何か重く暗いものを沈殿させてしまった演技が、特に光っていた気がします。

 ここまでの演技が出来る人であれば、ジャニーズ事務所の意向に背くような、端役みたいな形でも、もっと野心的な大作ドラマに積極的に出ていい気がする。 とかくジャニーズの息がかかっていると、カッコよくなければダメだとかいう理屈でカッコいい職業とかさせたがるように思うのだけれど、彼は冒険すべきだと思いますよ。

 しかし。

 岡田准一クンの実力がいかんなく発揮された反面、物語の質としてはどうだったかな、という気はします。 要するに、脚本の話になります。

 このドラマで脚本がいちばんうまくいっていた時期は、まごうことなく高松城の水攻めから中国大返しに至る経緯だったと思います。
 それまで語り手が仕込み醸造してきた設定が最大限に生かされる状況になり、息をもつかせぬ展開となった(これについては当ブログ過去記事 「中国大返しに向けて話が緻密化している」 を参照→ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2014/07/26-29-51a7.html)。

 このブログで前回レビューした(遠い昔…笑)荒木村重が道糞改め道薫となり、天下人となった秀吉やその場に居合わせた官兵衛、茶々、石田三成らを 「ここにいるのはみんな戦国が生んだバケモノ」 扱いした回にも、その余燼は残っていた。 荒木村重をどうしてここまで引っ張るのかな、と思ったら、こういう使い道を最後に残していたんだ、と(これも過去記事 「荒木村重の使い道」 を参照→ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2014/08/29-33-9faa.html)。
 この回がどうしてすごかったのかというと、主人公アゲをしがちな大河ドラマの中で、官兵衛まで否定的な扱いをした、ということです。

 その傾向はしばらく続いて、官兵衛の息子長政が宇都宮を討ったときにも生かされていた気がする。
 長政が幼少のみぎりから又兵衛に対して持っていた劣等感から、文より武を重んじる性格を形成していったことが土台となって、長政の宇都宮に対する短慮へと導くその手法。
 この語り手は、結構淡々と地味な物語をするクセに、ずいぶんと手の込んだ堅実な技巧派なんだな、と感じたりもしました。

 ただ、話がよく出来ている、と感じたのはそこまで。

 秀吉の天下取りが達成されてからの、官兵衛と秀吉の間に生じた微妙な距離感について、この物語の語り手は石田三成の存在に、その原因を求めてしまった。 石田三成を、語り手が徹底的なワルモノに仕立て上げてしまったことが、結果的にドラマを薄っぺらくしてしまったように私には感じられるのです。

 同時にドラマをつまらなくしたのは、権力を手にした秀吉がステレオタイプ的に傲慢になっていくその過程。 秀吉を演じた竹中サンは昔自分が演じた秀吉とは違うダーティな秀吉を楽しんでいたように感じるのですが、それはそれで興味深かったとはいえ、同時に、秀吉の内面にある弱さとか細かい心の動きを表現する場が封じられてしまった。 何かあると悪魔みたいに 「ガハハハハ!ヒャハハハハ!」 ですからね(笑)。 それを見ておねが 「権力を持ってしまうと、人はこうまで変わってしまうのか…」 と嘆くのですが、「そこで終わりかよ」 と感じてしまう。

 このドラマには、かなり意図的に秀吉の生母である市原悦子…じゃない(笑)大政所が出てこないし、秀吉の妹であった旭も出てきませんでした。 この人たちを出してしまうと、秀吉の人としての情が表に出てしまうからです。
 このドラマでの秀吉や三成みたいに人間の一面だけを強調して一方的にワルモノ扱いしてしまうと、物語は途端に重厚さを失う。 まるで一昔前の勧善懲悪ものの時代劇と同じチープさに陥ってしまう気がするんですよ。
 その人がそこに至るまでには、それなりの事情がある。
 そこを描かないと、「憎たらしいよなコイツ、なんとかしろよ」 みたいな感覚でドラマを見る側の感情が終わってしまう。

 こうなると、それにまるで呼応するかのように、主人公である官兵衛の考えが、読みにくくなってくるんですよ。

 というか、それにつられて官兵衛の心の動きも、かなり描写が浅くなってしまう。
 とりあえず秀吉に煙たがられても、いちおうは諫言はする。
 しかしそれは、中国大返しの真の主役であったこのドラマでのこの男の、対処法というにはちょっと遠慮がちに見えるんですね。
 このドラマの第1回冒頭で出てきた北条氏降伏交渉にたったひとりで向かった、おそらく官兵衛一世一代の見せ場にしても、なんか話の流れ的に、最初に家康が交渉に当たるべきだ、と言ったら家康が 「それは黒田殿がよろしかろう」 というのでしょーがなく行きました、みたいな形で(笑)。

 ここはジャニーズではないけれども、岡田クンを最大限にカッコよく見せなければならない場面でしょう。 少なくともこの北条氏説得に当たるまでの駆け引きには、もっと神経を使うべきだ、と思いましたね。
 たとえばここで家康が交渉を辞退する理由とは何なのか。
 そして官兵衛がそれを引き受ける理由とは何か。
 そこについて登場人物たちに語らせれば、ネゴシエイトとしての話が緊密化し、物語は格段に重厚さを帯びる。
 ここをあっさりとやられてしまうと、先ほど申したように 「しょーがないから行きました」 みたいに見えちゃうと思うんですよ。

 で、この北条氏説得での官兵衛の武器が、「命を大事になされよ」。

 これは第1回から連綿と続いた、このドラマでのテーマだと感じるのですが、この理屈で北条氏を説得した官兵衛を待っていたのは、秀吉の非情な処遇だったわけですよ。 少なくともこのドラマにおいては、黒田官兵衛にとっていちばん大事な部分である 「命の使い道」 について、完全に秀吉から否定された瞬間なのですから。

 ここはドラマにとって、官兵衛が秀吉を見限る最大のポイントだ、と感じました。
 しかしこの描写が、またあっさりとしていて。

 もともとこの、「命を大事に」「命の使い道」 という主題の設定には無理があった、と私は考えています。
 だいたいにおいて黒田官兵衛については、ダーティなイメージがついてまわっている。 このドラマではかなり意図的にスルーされた、渇え殺しの一件に象徴されるのですが、「命を大事に」 なんて言えた立場じゃない、と私は思うんですよ。

 秀吉への大きな失望が、その後の九州制覇への大きな動機となっている、と私はドラマを見ながら考えたのですが、ドラマはそこの部分をあえてクローズアップしません。 官兵衛はいつからか不敵な笑みをたびたび浮かべるようになり、気付いたら挙兵していた(笑)。

 しかしここで反故にされてしまっているのは、「命を大事になされよ」 という一点。 命の使い道を九州での挙兵に求めたのかもしれませんが、そもそも命を大事になんて考えてたら、戦そのものが出来ないんですよ。
 官兵衛(もうこの時点では如水なのですが、官兵衛で統一します)はこの挙兵に当たって、牢人や農民まで駆り出している。 どこが命を大事にしているのか分かりませんが、戦国とはそういうものなのだから仕方がないのです。

 さらにこれは 「荒木村重の使い道」 のコメント欄ですでに指摘したのですが、ここにきて黒田軍の兵力に関する描写、設定の甘さが露呈してしまった。
 すなわち、黒田二十四騎とも称された官兵衛の忠臣たちが物語当初からごっそり削られ、たった三人という設定にされたことです。
 これが24人も頼りになる手下がいたなら、九州という広大な土地を制覇しようという気に官兵衛がなるのもじゅうぶん理解できるのですが、たった3人でどーせいというの?みたいな。

 つまり、かなり無謀な戦いをここにきて仕掛けている、という感がぬぐえなかったんですよ。

 結局官兵衛が頼みとしていた東軍と西軍の戦いは長期化することなく(関が原のたった一日で決まってしまったんですから)、官兵衛の九州制覇はスゲーマヌケなあだ花となってしまったのですが、ここもこの物語の語り手はきちんと描写することがない。 善助が苦渋の表情でやってきて 「すべて終わりました…」 と書状を官兵衛に手渡すと、官兵衛は観念したように落胆して、それで終わり。
 もうちょっときちんと描いたらどうなんだろう、と思いますよ、ここは。
 「もっと長引くかと思ったのに…」 とか。
 どうして官兵衛が、これで九州制覇をやめちゃうの?みたいに思えてしまう。

 秀吉が天下を取ってからのこのドラマは、そういう、「ここ一番でこのセリフがないとなんだかよく分からなくなる」 ということの連続だったような気がする。 肝心なセリフが抜けてる感覚。
 それを言ってしまうと野暮になる、というケースは確かにありますよ。
 でも、あまり 「黙して語らず」 では話の的がぼやけてしまう。

 ここでは官兵衛にあらかじめ 「石田殿と家康殿との戦いはしばらく続くであろう」 とか展望を語らせることだってできたはずですよ。 官兵衛の目論みが破綻したのは、豊臣家の跡目争いが急速に収束してしまったことに原因があるのですから。

 結局最終回では、官兵衛を家康に謁見させることで話をまとめようとしたように思えます。
 つまり、家康も官兵衛も、戦のない世を作り出すということにおいては、目的が一緒だったのだ、ということと、官兵衛自身に 「自分は天下を狙っていた」 ということを告白させ、それを私利私欲という次元に貶めた。
 貶めたかどうかは論議が分かれるところだと思いますが、少なくとも私にはそう見えました。
 「今まで自分は戦で負けたことはなかったが、初めて負けた」 と官兵衛自身が言っていたのですから。 それは官兵衛が九州で起こした戦が、たとえ天下を取るためとはいえ、それが自分の欲望から出たことの告白にほかならなかった。 天下とはそういうものではない、と。 天下のための天下である、みたいなよく分からん禅問答みたいなことを家康は語っていましたが(だったっけな…笑)。

 ただ、最終回では気になる点が散見されたとはいえ、きれいにまとまった気はいたしました。 死の2か月ほど前に官兵衛が長政と善助を呼んで(どうして善助だけだったのかは分かりませんでしたが…笑)長政に 「お前は父を超えた」 とねぎらい、善助に自分の兜を託す場面とか、死の間際での妻・光とのやり取りとか、告白しますけど、泣けましたもん。

 まさに、終わりよければすべてよし。 ストーリーがうまくいかなかったところは、如水という名に免じて、水に流しましょう、と(笑)。

 そして水が流れ去った後に残ったものは、岡田クンの存在感。
 結局命の使い道をあやまたず、役者としての力量を燃焼したのは、岡田クンだったのだな、と。

 パソコンの調子が悪く、ここまで書くのにだいぶ悪戦苦闘いたしました。 書いても書いてもエラー、リクエスト・トゥー・ラージ(リクエストが多過ぎ)…(笑)。

 記事はだいぶ過疎化すると存じますが、長~い目で見守って下さいまし。

このブログに来てくださる方々へ

 「高倉健サンのこと」 以来、1か月以上記事が途切れております、このブログであります。

 ただ今回は、過去に何度かお休みをいただいたような事情ではないので、「休養宣言」 自体が出せない感覚で本日まで来てしまいました。
 理由は、簡単に言ってしまえば 「スランプ」。
 記事を途中まで書くことは書くのですが、うまくまとまらない。
 結局、現在5、6本くらい書きかけの記事がたまっております。

 そこに来て、先週長期間パソコンを離れていたあいだに、どうもパソコンの具合が悪くなりまして。
 文字入力をするのにいちいち設定し直さないとかな入力にならず、入力してもエラーになってしまう。 かなり不便してます。 まあ6年使っているパソコンなのでもう買い替え時なのかもしれませんが。

 1か月以上も予告なしにお休み状態だというのに、アクセス分析を見ますと、この拙ブログに通ってくださる方々がまだいらっしゃるということには驚きます。 あらためて、感謝申し上げます。
 ただまあ、とっくに愛想は尽かされていると思うのですが(ハハ…)。

 いずれにしても、ブログ自体をお休みするつもりはなく、まだまだ続けていく所存ではあります。
 長い目で見守っていただけると、ブロガーとしても助かります。 今後ともよろしくお願い申し上げます。

 追記 この記事のあと、ちょっと奮起して、入力エラーと戦いながら記事を連発しております(笑)。 つくづくいい加減なヤツですね、私も。

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BOOKS

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上

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     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ記事より抜粋)。 この上巻ではビートルズの祖先から遡ってリバプールで人気に火が付き始めたところまでが書いてあります。

  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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