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2015年1月

2015年1月24日 (土)

「デート~恋とはどんなものかしら~」 第1回 「理詰め」 の向こう側

 「リーガルハイ」 の古沢良太サン脚本の恋愛コメディ。 さすがに面白かったです。 「月9」 という古い先入観にとらわれていた、私の予想をはるかに超えて(笑)。 個人的には、今年の冬ドラマのなかではナンバーワンかな~。
 カタブツの権化で婚期を逃している杏サンと、ニートでこちらも結婚できない長谷川博己サンが、結婚目指してデートをする、というドラマです。 ただオープニングで流れるザ・ピーナッツの 「ふり向かないで」 はこのテーマにぴったりなんだが、いかんせん編集しまくりでズタズタ(笑)。

 主人公をこの、杏サンと長谷川博己サンのふたり、とすると、このドラマでは 「リーガルハイ」 の古美門(堺雅人サン)がふたりいる、という感覚でしょうか。 つまりふたりとも知識が膨大で、一般人が陥っているさまざまな常識のウソ臭さを、その進み過ぎた合理性で見抜いている。
 けれども古美門はその合理性を、ただひたすら自分がエバリたいのと(笑)他人に対する軽蔑と啓蒙によって、世の中に積極的に関わりたがり、人の上に君臨したがっていたのに対して、このふたりはただひたすらそれを自分のなかに押し込めている。 そこが決定的に違う気がします。

 なぜなら合理性に基づいた先進的な考えっていうのは、時を外せば異端つーことですから。 そうした考えはたいていは、誰からも相手にされることはない。 だからかたや杏サンは、国家公務員のリケジョとして完璧な仕事をこなしながら他人と交わることもなく、どこか煙たがられているし、かたや長谷川サンのほうは世間それ自体と隔絶してニートと化している。

 でも、その 「リケジョ」 とか 「ニート」 というレッテルを、ふたりとも拒絶しているんですよ。
 もっとも 「リケジョ」 なんて早いうちに死語と化しそうですが(笑)、依子(杏サン)が 「リケジョ」 を拒絶するのは、「STAP細胞のアノ人と私とは違う」、と思っていたからかもしれないが(笑)、そうしたレッテルをつけて分別したがる一般人の安易さと、そこに潜む周囲から自分への、「ひそやかな侮蔑」 を感じるからなのだろう、と思う。

 巧(長谷川サン)のほうもやはりそうで、自分は 「ニート」「引きこもり」 ではない、「高等遊民」 である、という自覚の上に生きている。
 「高等遊民」 と聞くと、夏目漱石の小説(「それから」)のなかで、主人公が自らを称していたことを思い出します。 「ああ明治時代からニートっていたんだなァ」 と思いがちだけど、いやー。
 みずから金銭的利益を生み出さない人間が親をはじめとしたさまざまなものに寄生する、というのはですね。 これは人類が余剰資産を持ち始めた時点から始まっているものと思われ(笑)。

 それはそうと、巧は知識を膨大に習得することによって 「フツーのニート」 と自分との差別化を図っている気がする。 さらに第1回を見た限り、彼はネットに依存していない。 つまり自分の考えや批評眼が、外部に毒されない自分自身のものであるオリジナルなもので構成された、そんじょそこらの知識人とは違う、というプライドを持っている自覚がある、と考えられる。

 でもそういう 「ひきこもりの自尊心」 って、個性的だろうが凡庸だろうが、実はとても井の中の蛙、っていうケースが多くて。

 たとえば巧が依子との 「第1回お試しデート」 の最中に寺山修司の詩とか映画のなかのセリフとか、ことさら自分のボキャブラリーを披露しても、すごく場違いなんですよ。 で、自分の持っている膨大な知識なんかはクソの役にも立たないことを、ここで巧は身をもって体感していくわけですが、このドラマの変わった設定が、ここで生きている気がする。

 つまり巧と依子が、お互いの持つ合理性において、価値観がぴったり合致してしまった、という(笑)。 だから場違いな寺山の詩なんかを、依子は却って新鮮だと受け止めてしまったりする(笑)。

 しかしこの、巧がニートや引きこもりではなく、高等遊民である自覚に立っていることは、はたから見ればどこも変わんないんだけど(笑)、結構重要な気がします。
 だってフツー、自分が無収入なのに結婚しようたあ思わんですよまず(笑)。 で、国仲涼子サンとか周囲のごり押しでデートなんか、引っ込み思案のヤツにそもそも出来るはずがない(笑)。
 そしてそのデートの当日、片親である母親(風吹ジュンサン)からなんの衒いもなく、2万円なんか頂戴しないって(笑)。 フツーのニート、引きこもりというのはですね、自分が稼いでないから、親からお金をもらうことにエラク躊躇するもんなんですよ。 んで、いくらやっても無料のネットにばかり依存する(笑)。

 極めつけはですね、この第1回のラストで、巧が依子を 「新しい寄生主」 と考えていることが明らかになったこと。
 フツーの引きこもりだったら、こういう積極的な宿主探しというのは絶対しない。 親が死んでミイラになっても届け出せずに親の年金をもらおうとするケースがありますが、ニートの行動パターンとしては結構あれは説得力がある。 つまりいつまでたってもズルズルと、消極的なんですよ。 成り行き任せ。 現状のままでいたがる。

 そういった積極性が見られる時点で、巧というのは意識的に、「高等遊民」 カテゴリに自分を置きたがっている気がする。

 しかしですね、何度も言いますが、はたから見りゃ同じなんですよ。

 さて、巧と依子が、その合理性において価値観の合意を見てしまった場面は、第1回の白眉でした。

 依子の父親(松重豊サン)に依頼されてこのふたりのデートを尾行することになった鷲尾クン(中島裕翔クン)の横やりが入り、船から落っこちそうになってしまった巧。 船長を交えてのシーンです。

 船長 「まあ、何はともあれ大きな事故につながらなくてよかった。 今後は気をつけてください」

 依子を連れて船長室を出ようとする鷲尾。 息も絶え絶えの(笑)巧が呼びとめます。

 巧 「ま、ま、ま、待ってください。 あの、僕はけっして、体目当てなんかじゃなくて、真剣に、つきあいたくて…」

 鷲尾 「いい加減にしろよ(略)どうせ常習犯なんだろ!」

 巧 「(激昂して)僕を買いかぶるなよ! そんなこと出来るわけないだろ! 普通に付き合ったこともないのに!」

 依子 「…付き合ったことないんですか?」

 巧 「(ひとりごとのように)詐欺師まがいのナンパ師に見られるよりマシか…。 (開き直って)ああ、そうですよ、僕は生れてこのかた35年、女性と付き合ったことなんかありませんっ!」

 船長 「一度もないの?」

 巧 「ないよ! 悪いか!!」 船長 「(気圧され)いや…」

 鷲尾 「見え透いた嘘を…」 巧 「嘘じゃないっ!」 依子 「ではやはり異常性癖…」 巧 「違います! …もっ、もうこの際だから、ぜっ、全部正直に言いますね。 僕は、小説や映画やマンガやアニメの世界が好きで、現実の女性にあんまり興味がないんです。 人と接するのも苦手なんです!」

 鷲尾 「じゃあなんでデートなんか…」 巧 「友人に、『女性とつきあえば人生が変わる』って言われて、半ば強引に…。 でも、やっぱりダメでした。 もう、デートが苦痛で苦痛で仕方ない!

 (ひざまずき)藪下(依子)さん…。 僕は確かに、あなたのことを、『痛い女だ』 って言いました。 そのことは謝ります。 もうすいませんでした。 この通り、本当に痛いのは僕なんです。 僕が痛い男なんですよ! 僕なんかにつき合わせてしまって、すいませんでした…」

 鷲尾 「…まあ、事情は分かったけど、結局好きでもないのに好きなフリしてたわけだろ? 根本的に間違ってるよ。 好きだから付き合う、好きだからデートをする。 そうでなければ相手に失礼だろ?」 しぶしぶうなずく巧。

 船長 「まあ~いろいろあるでしょうが、これもいい経験になることでしょう。 ではっ、本日は、ご乗船、まことにありがとうございました。 お気をつけて」

 とまとめに入る船長を制する依子(笑)。

 依子 「谷口(巧)さん、謝る必要はありません。 私も同じだからです」 船長 「そろそろ時間がね…」 無視する依子(笑)。

 依子 「私もあなたのことを好きではないのです。

 …いえ、最初は、好きだと思いました。 数ある男性の中から谷口さんの資料を見たとき、なぜだかむしょうに胸がときめいたんです。 『ああ、一目ぼれとはこういうものか』 と思いました。 ですが、こうしてお会いしてみると、まったくときめかない。

 はっきり分かりました。 私あなたのデータにときめいていたんだと」

 巧 「データ?」

 依子 「(結婚相談所の資料を取り出し)ほら。 1979年7月23日生まれ181センチ67キロ、好きな数字ばっかり!」

 巧 「すっ、数字?」

 依子 「全部素数なんです!(なんだソレ…笑) こんなに素数が並ぶなんて、奇跡ですよ! 宇宙の真理が潜んでいるようでワクワクします!

 (我にかえって)…いつもこうなんです。 生身の人間には興味がもてないんです。 …私も、痛い女なんです。

 楽しいふりをしてはしゃいでましたが、やはりダメでした。 デートなんて何が楽しいのかさっぱり分からない」

 巧 「(同意して)…本当ですよね。

 みんな、よくこんなこと普通にやれてると思いますよ」

 見つめ合い、笑い合うふたり。 気が合ってんじゃん(笑)。
 船長が再び退船を促します(笑)。
 「ハイッ、ご乗船ありがとうございました、もう次の出航の準備をね…」 無視して遮る鷲尾(笑) 「依子さん、大丈夫ですよ。 依子さんもいずれ素敵な男性に出会って恋をする時が来ます」

 依子 「そうかしら?

 恋をしたいなんて全然思わない」

 同意する巧 「僕もそうだな」

 抵抗する鷲尾(笑)「恋をすることは大事なことで、人間的にも成長できるし」

 依子 「しないと凶悪犯罪に走る?」 鷲尾 「えっ?」 依子 「社会学者が言ってました」 巧、バカにしたように 「はっ! いい加減なことを言うヤツがいるもんだ。 そんなのは全くのウソです。 なんの関係もありません」 依子 「そうですよね…」

 巧 「そうですよ。

 恋愛なんかしたってなんの成長もしませんよ。 むしろそんなのにうつつを抜かしている連中ほど精神的次元が低いと僕は思いますね」

 依子 「同感です。 やれ合コンでどうした、元カレがどうしたと、ほかに語りあうことはないのかと思います」

 巧 「もうクソのような連中だな」

 依子 「人生にはもっと大事なことがたくさんあります」

 巧 「その通りです。 教養のないバカ女なんかと付き合うヒマがあったら本の一冊でも読んでるほうがはるかに有意義だ」

 依子 「幼稚なバカ男と付き合う時間なんて貴重な人生の浪費でしかない、もっと価値の高いことに使うべきだわ」 ヤケに意見の一致を見ていくふたり(笑)。

 我慢できずに鷲尾(笑) 「待った! 価値が高いとか低いとか、ないとかじゃなくて、恋をするっていうのは素晴らしいことで…」

 横から入る巧(笑) 「出た出た出た」 不愉快そうな鷲尾(笑) 「なんだよ…」

 巧 「レベルの低いテレビドラマやガキ相手の映画ばかり見て育ったんだろう。 現代の幼稚な文化に毒されるとこういうのが出来上がるという典型例だ」

 鷲尾 「なんだよその言いかたは…」 巧 「藪下さん。 本当に痛いのは僕らじゃない。 彼のような人種ですよ」

 鷲尾 「僕が間違ったことを言ってるか!」

 巧 「恋愛なんてものはな、性欲を美化した表現に過ぎないと芥川龍之介も言ってるよ!」

 鷲尾 「恋愛をしなければ結婚だってできないだろ!」

 巧 「本来恋愛と結婚は別物だ。 昔は家と家が勝手に決めるのが普通だった。 結婚式当日に初めて顔を見たなんてケースも珍しくなかった」

 鷲尾 「そんなのは不幸な時代の話だろ! 相手を自分で選べないなんておかしい!」

 割って入る依子 「そうかしら? その頃は今よりはるかに離婚率は低かったはずよ」

 鷲尾 「そ、それは、いろんな原因が…」

 依子 「恋愛結婚が増えるに従い、未婚率と離婚率が増え、出生率が低下しているこの現実をどう説明するんですか?」

 鷲尾、言葉に詰まる(ガンバレ鷲尾…笑)。 船長が申し訳なさそうに割って入る(笑)。 「すいませんがもう次の出航が…」 巧が船長に訊きます(笑)。 「船長、あなた、ご結婚は?」

 船長 「う、うちは、大恋愛の末に結ばれたよ」

 それ見たことかと鷲尾(笑) 「素晴らしい」 しかし船長(笑) 「でも、2年前に離婚した…クッソオ~っ!…」 腹痛え(笑)。

 巧 「フランスの哲学者モンテーニュはこう言っている。 『美貌や愛欲によって結ばれた結婚ほど失敗をする。なんの役にも立たない』」

 依子 「共感します。 私、かねがね結婚とはお互いが有益な共同生活を送るための契約に過ぎないのではないかと考えていました」

 巧 「真理ですね。 フランスの哲学者サルトルとボーヴォワールが提唱したものもまさにそれです!」

 依子 「私、間違ってませんよね?」

 巧 「間違ってない。 恋愛なんてクソの役にも立たない。 結婚は契約です」

 依子 「契約という明確なルールを遂行することは誰よりも得意だという自負があります」

 巧 「素晴らしい。 むしろ下らない恋愛に左右されないあなたや僕は、本来最も結婚に向いていると言えますね」

 戸惑いまくりの鷲尾(笑) 「えっ? 何? ちょっ、ちょっと待った。 れっ、冷静になりましょう、依子さんっ。 お互いに、好きじゃないんですよね?」

 依子 「好きじゃないわ」 巧 「僕も好きじゃないな」 あの…(笑)。

 鷲尾 「ですよねっ」

 依子 「身長や体重は変動するから必ず素数になるとは限らない。 そう考えると何ひとつ、魅力のない人物にしか見えない」

 巧 「僕の理想のタイプはヘプバーンと原節子と峰不二子とメーテルを足して4で割った女性なんだけど、どこにもかすってない!」

 依子 「明らかに好きじゃない」

 巧 「好きじゃないね」

 鷲尾 「ですよねっ」

 依子 「でも結婚ならできそう」 巧 「できるね」 鷲尾、宮尾すすむみたいに(笑)「できるわけないだろっ愛情がなきゃ!」

 依子 「愛情などという数値化できない不確定要素を基盤に人生を設計するなんて非合理的よ。 その点私と谷口さんなら感情を排除し割り切った契約を結ぶことが出来る」

 巧 「ベストマッチかもしれませんね」

 鷲尾 「いやいやいやいやおかしいって」

 巧 「ためしに結んでみます?契約」

 依子 「やぶさかではありません」

 鷲尾 「待った待った待った! ジョーダンですよね?」

 依子意に介さず(笑) 「問題は、双方が納得できる契約内容が作成できるかということなんですが」

 巧 「なんとかなるんじゃないですかね」

 依子 「何事も努力ですから」

 巧 「ええ」

 鷲尾 「マジで結婚するの?」

 依子無視して(笑) 「では今後は結婚に向けての協議を積み重ねるということで」

 巧 「その方向で進めましょう」

 鷲尾絶叫(笑) 「絶対おかしいって!! お互いに好きじゃないんですよね?」

 巧 「うっとおしいヤツだなっ!」

 依子 「好きかどうかは関係ないと言ってるでしょう!」

 鷲尾ボー然(笑) 「ええ~…。 (船長に同意を求める)おかしいですよね?」

 船長、満を持して

 「お前ら、早く帰れよッッ! 頼むからッッ!」

 …。

 も~お腹がよじれました(笑)。

 ここのシーンのセリフを改めてじっくり読むと、ところどころ論理がおかしいとも思うのですが(笑)、これを矢継ぎ早にポンポンやられると、有無を言わさぬ妙な説得力が伴ってくる(笑)。 それは確かに 「リーガルハイ」 方式なのですが、これぞドラマの醍醐味。

 「昔は恋愛結婚なんか少なかったのに離婚率が低かった」 とか、そりゃ家と家とのしがらみがあったし我慢してたんだよ、恋愛という方式が自由だから、別れる自由度も上がるんだよ、という理屈ですよね、普通。

 これは、「そのように捉えたいから、別角度からの考察を意識的にシャットアウトしてしまう」 という現象そのものだ、と思うのですが、このふたりの理詰めの契約恋愛は今後どのようになっていくのか。 そこで展開する独自のマシンガン解釈というものがとても見たい。

 「意識的な思考遮断」 という点で興味深いのは、依子にまるで憑いているように時々現れる、依子の死んだ母親(和久井映見サン)です。
 父親が松重豊サンで、母親が和久井映見サン、というと、懐かしい朝ドラの傑作 「ちりとてちん」 なんですが(「ごちそうさん」 の杏サンと大阪朝ドラつながりでもある…笑)、それはそうとして、第1回のこの母親の行動パターンを見ていると、私どうも、この母親が本当のユーレイである気がしないんですね。

 つまり、本当のユーレイであるならば、母親は娘のデート相手の素性をリサーチするだろうし、さらにその男(巧)の本心を知っているはずである。 でもそれがない。

 で、考えたんですが、この母親って、依子が、自分が結婚しないことで親不孝した、という罪悪感を回避し遮断するために意識的に作り上げている彼女自身の妄想なのではないか、と(罪悪感の象徴、という点では 「ごめんね青春!」 の森下愛子サンに似ている気もする)。

 それにしても和久井映見サンが依子の母親なら、風吹ジュンサンが巧の母親。 この組み合わせは東日本大震災直前のドラマ 「四十九日のレシピ」 なんですよね。 「四十九日のレシピ」 では、立場が逆で風吹サンのほうが死んでるユーレイの役だった。
こういう 「ドラマ好きの琴線」 を局側は、意識してやってんのかな。

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2015年1月21日 (水)

「流星ワゴン」 第1回 思いが通じることって、難しい

 時空を行き来できるワゴン車に乗って主人公が過去にさかのぼり、未来に起きた取り返しのつかないことを修正していくドラマ。 と聞くと、なんか前クールのドラマ 「素敵な選TAXI」(フジ)そのまんまじゃん、と思っちゃうのですが、調べてみたら重松清サンの原作はそれよりずっと前。 パクリは 「選TAXI」 のほうだった(笑)。 もしかするとフジテレビがこの作品のドラマ化をリークして油揚げをさらおうとした?

 油揚げとさらうといえば同じ重松原作ものの 「とんび」 ですが(うまく話がつながったぞ…笑)、今回のドラマはテーマが父と子の不器用な情愛という点で、タイムトラベルをミクスチャーした同じカテゴリの作品、といえる。
 父と子、と書きましたが、子のほうは西島秀俊サン、父のほうは香川照之サン。 って、同年代じゃん、ということになりますが、香川サンのほうは西島サンとは逆に、吉岡秀隆サンの運転するワゴン車で未来へ送り込まれたような形。 だから西島サンの父親なのに若いです。 ただその本チャンの本人のほうは、第1回の舞台では70を超えた老人であり、明日をも知れぬ病にかかっている(香川サンが特殊メイクで演じています)。 けれども香川サンの場合、同一人物がその時間軸にふたりいるのに、どちらかが消えてしまうことがないんですね。 それに比べて、西島サンのほうは過去(1年前)にさかのぼっているというのに、本人がふたりいるわけではない。 1年前の西島サンはどこかに消えちゃっている。 ここらへんの設定が少々混乱します。

 まあ、タイムトラベルものというのは矛盾がつきものですから、そこはあえて突っ込まないことにして。

 タイムトラベルものというと、「素敵な選TAXI」 でもそうでしたが、結構コンパクトにものごとが解決しちゃったりしますよね。 1話完結程度で。 そりゃそのなかでも紆余曲折がないとドラマとして面白くならないから、ある程度はいろいろありますけど。
 でも今回のタイムトラベルものは、どちらかというと 「JIN」 タイプのように思えます。 たとえ表面上でいったんは解決したかに見えても、物事がうまくいかない根本の根っこ、というものが存在していて、運命というものがアリ地獄のようにずるずると本来あるべき方向に引っ張られていく。 その根本をどうにかしないと、主人公の西島サンが心から安心できることにならない。

 だからなのか、このドラマ全体には 「過去にさかのぼったからってそう簡単にものごとうまくいくかよ」、みたいなシリアスな空気が充満しています。 なにしろ西島サンのテンションが、「MOZU」 に近くて(笑)。 そりゃ、自分がリストラされるのも女房に三下り半突きつけられるのも自分の息子が荒れちゃうのも自分のせいかもしれないけど、そんなに眉間にシワ寄せながら 「セカイノオワリ」 みたいな演技しなくても(笑)。 番組途中で 「ラ王」 のCMに出てきた西島サンが同じテンションだったけど(笑)。

 西島サンがシリアスになるにはそれなりの理由がついてまわっているんですが、その人格形成に多大なる影響を及ぼしたのが、父親の香川サン。
 この人かなりガサツで乱暴者、サラ金なんかを生業にしちゃったもんだから息子の西島サンは子供時代いじめに遭いまくり、ねじくれまくったあげくが先に書いたていたらくなんですな。

 だからこの、西島サンのタイムトラベルに父親の香川サンがくっついてまわる、というのは、父と子のわだかまりを解くために物語設定上必要なんですな。

 親子間の意思の疎通がうまく出来ない、というのは、これは私もそうなんですが、気楽に話し合える親子ならそんなことはないのかもしれないが、自分の経験上、自分の理屈を親に理解してもらうのは、これは至難の業でして。 本気でぶつかれば分かりあえる、なんて単純なものではないんですよ。 説教じみたことなんか砂が水を吸うようにきれいになくなっちゃうし、価値観が違うと自分の納得する幸福でも正義でも、親には通じない、子にも通じない。

 結局は言葉がいかに無力なのかを痛感することが多いのですが、それって親子に関係なく、ほかの人に対しても同様ですよね。 人と人なんか、理屈じゃ通じないことだらけだ。

 その点で、このドラマの第1回は、本気でぶつかることの虚しさをよく表現していたように思います。 そのうえで、百万の言葉よりも、父が子に託した思いだけが、子が父にしがみつこうとしていた思いだけが、その体温だけが、伝わっていく。 そのことをうまく描写していたように思います。

 香川サンは特殊メイクを使った老人役(70代)も含めて、西島サンの子役時代(なんかヘンな表現だな)の、父親の若き日(おそらく30前後)、そして時空を超えて西島サンと行動を共にする40代半ばの3世代にわたって同一人物を演じています。 ヤクザな父親の暴れっぷりは、やはり見事。 あまりにブッ飛んだキャラなので(笑)タイムスリップした当初、チンピラ相手に殴る蹴るの暴行を見たとき、「これってなんか夢の中の出来事みたいだ」 と、西島サンと一緒に錯覚してしまったほど。 ホントにやってたなら軽犯罪法に引っかかりまくりの立ちションしまくりだし(笑)。

 吉岡秀隆サンはまあ、いつまでたってもシロート臭さが抜けない不思議な役者さんなんですが(笑)、それが彼の味になっているのがすごいな。 初回はなんかただのガイド役みたいな感じだったけど、この人をこのままで終わらせるわけはないだろう、とにらんでいます。 役名が橋本、っていうのがどうも…(笑)。

 初回は2時間SPで、録画したヤツを見るのにちょっと勇気が要ったけど、なんか引き込まれてイッキに見ちゃったな。 つまり、面白いドラマである、ということなんでしょう。 これまで見てきたいろんなもののごちゃ混ぜみたいな感じだけれど。

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2015年1月19日 (月)

桑っちょの不敬事件について

 サザンオールスターズの桑田サンが、年越しライヴで行なった一連の行動に批判が集まり、本人が謝罪する騒動に至りました。
 そのこと自体については、「まあやり過ぎちゃったかな」 という程度のことしか申せませんが、桑田サンがそのような行動に至った背景は、私なりになんとなく解説できるかな、という気はしています。 まあ的外れかもしれませんけどね。

 特に今回の行動のなかで、勲章に対する不敬、という点においては、桑田サンが多大なる影響を受けているビートルズ(とりわけジョン・レノン)と、吉田拓郎サンが原点にある気がする。

 ビートルズは1965年にM.B.E.勲章というものを本国でもらったのですが、それをジョン・レノンはビアフラ紛争にイギリスが介入したことに抗議して、1969年だったかに返還しています。 ビートルズのなかで勲章を突っ返したのは、ジョン・レノンのみ。

 M.B.E.勲章自体はイギリスでは最も初歩的な勲章じゃなかったかな。 もともとの授与理由というのはビートルズが世界的に有名になって外貨を英国にもたらした、ということだったらしいけれど、当時はロックバンドみたいなチャラチャラしたのが受章したのが初めてだったので、軍人であるとか過去の受章者からかなり突き上げがあったらしいです。

 ジョン・レノンがその勲章を返還したことについて、よしだたくろう(当時ひらがなでした)サンは1973年に 「ビートルズが教えてくれた」 という曲の中で取り上げています。 まあ、この曲の作詞者は岡本おさみサンだったんですけどね。 よしだたくろうがこの内容の曲を歌うことに意味があるのだ。

 歌詞を一部無断借用してみましょう。

 「勲章を与えてくれるなら 女王陛下からもらってしまおう
 女王陛下はいい女だから つきあってみたいと思う
 それも自由だとビートルズは 教えてくれた
 くれるものはもらってしまえ ほしいものはモノにしたい
 その代わり捨てるのも勝手さ もらうも捨てるも勝手さ」

 こういう一連の 「勲章に対するイメージ」、というものが、ビートルズとよしだたくろうに心酔した者にどのような影響を与えるかは、推して知るべきでしょう。
 まあ、今回の勲章に関する不敬に関して、「そりゃ桑田とジョン・レノンとは次元が違うだろう」 ということになるのかもしれません。
 けれど、ジョン・レノンにしたって勲章を返還するときの理由として、ビアフラ紛争とベトナム戦争のことを引き合いに出すいっぽうで、同時に当時の自らのソロ・シングル 「コールド・ターキー」 がチャートを落ちてきたからそれにも抗議する、とか(笑)いうのもあって。
 これって英国流ユーモアかもしれないけれど、そこにはジョン・レノン自身の 「別に国から褒めてもらう必要なんかねーよ」「勲章もらってありがたがっている連中と俺は違うんだ」 という気持ちみたいなものも、垣間見える気がするんですよ。

 ジョンにとって勲章返還の理由は、なんでもよかった。
 ただ当時彼が本腰を入れていた 「戦争に抗議する、平和を訴える」、という手段のひとつとして勲章返還を利用しただけであって。

 そこには立派な理由も存在するかもしれないけれど、国から褒められたまんまでいると好きなことも国に対して言えないんじゃないか、という彼の危惧も読み取れるし、それをごたいそうな理由で返還しようということに対して、彼独特の恥じらいもあったような気もする。

 ビートルズが壊してきたのは、こうした既成の慣習であるとかしがらみであるとか、エラぶってる大人たちの大事にしているものだったように思う。

 勲章というのは、いわば自分のしてきたことを国から褒められる、ということでしょう。
 それは確かに、今までの自分の頑張りに対してのご褒美である、栄誉あることなのだろう、と思う。
 しかし裏を返せば、そういう人たちって国に税金たんまり納めたんじゃないのかな? まあそれだけじゃダメだろうけど、そこに国にとって何らかの意義が認められれば、国はその人に対して勲章をあげよう、となるわけであろうと思われ。
 そうなると、どこかで政治的なにおいもつきまとってくる。 今回の桑っちょの受章だって、安倍サンが自分の人気取りのために決定したのかもしれないし。
 もともと桑田サンの、サザンやソロのアルバムまでちゃんと聴いている人なら分かるが、桑っちょ、かなり政治に関してはラジカルな意見の持ち主ですよ。 「紅白」 の項で書いたけれども。 「汚れたキッチン」(アルバム 「ヤング・ラヴ」 のなかの1曲) の歌詞をちゃんと読んでみましょう。 「音楽寅さん」 でも、ビートルズの 「アビイ・ロード」 を全曲もじった 「アベー・ロード」(当時第1次の安倍政権だった)で、右派から左派から大政党から小政党に至るまで、政治家全部を揶揄してるし。 桑田サンは、政治全体に対して不信感を持っている気がするんですよ。 それは我が国の圧倒的多数派を占める無党派層のスタンスそのものでもある。

 だからって軽率な行動を擁護できるわけでもないんですが(ハハ)。 桑っちょ、やるなら 「アベノミクスに反対して」 勲章返還せんかい、つーか(笑)。

 でもそういう精神の遍歴というものが、おそらく桑田サンに作用してるんじゃないか、ということだけは、ここで解説できるような気がしたわけです。 繰り返しますが、的外れな解説かもしれませんけどね。

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2015年1月17日 (土)

「アイアングランマ」 第1回 二大女優の空気の張りつめ合い

 大竹しのぶサンと室井滋サン。 この日本が誇る二大女優ふたりが、外交機密を取り扱う特殊捜査官の元バディ(最近この言い回しよく目にしますね、相棒というところか?)だった、という 「一見あり得ない」 設定の、NHKBSプレミアムドラマ。
 しかし 「どこにでもいるオバチャン」 が諜報活動をしていたというのは、考えてみれば 「ありそうな話」 でもあるわけで。 目が鋭くて隙がなくてまわりを注意深くキョロキョロ観察してたら、そりゃかなり怪しいでしょ(笑)。 「私はスパイ」 なんて触れまわってるようなのは、スパイ失格なのであって(笑)。

 このドラマの生命線というのが、実はこの 「ありそうでなさそうで」 というところにあることを、この実力派二大女優は 「役者としてのカン」 で嗅ぎ分けているのではないか、と感じます。
 でなければ、こういう、ともすれば 「二大女優の無駄遣い」 に堕してしまいがちな 「荒唐無稽」 なドラマに出演しようと決断しないのではないか。
 それほど、「二大女優のダブル主演」 というドラマは題材が難しい気がします。 私がさっと思いつくのは、岩下志麻サンと桃井かおりサンの激突だったかな~。 映画 「疑惑」 ですね。
 どちらも演技に関してはメンツがあるわけで、それを組ませるとそりゃ火花が散る、ってもんでしょう。 「女の戦い」 はかくもスリリングで見る者を惹きつけるのです。

 このドラマに関しては大竹しのぶサンがご自分のラジオ番組で結構前から言及していたので、結構前から興味深くは思っていました。
 そのなかでは室井サンが食事を用意してくれたとか何かと面倒見がよかったとか、ずいぶんと撮影現場を室井サンが引っ張って和気藹々と撮影が進んだみたいなことを言ってましたが、じっさいに出来上がったものを見ると、やはりすごいんですよ。

 なにがすごいって、ドラマの中にぴんと張りつめている、緊張感。 関東地方は冬で空気が乾燥してるけど、触ったら静電気でビリッと来そうな張りつめた空気。
 やってることは半分コメディが入ってる。 丁々発止も見ていて面白い。
 でも、そこにお互いを押したり引いたりしている、格段に高度な演技の駆け引きが行なわれている感覚。
 それが、設定が 「ありそうでなさそうで」 という奇妙なバランスだからこそ、成立している。 言ってみれば、「シーソーの上で綱引きをしている」、という感じ(笑)。

 この奇妙なバランスを思い切り後押ししているのは、のっけから始まる326作の絵本 「段ボールマン」 であったり、NHKにもかかわらずハチャメチャに多い下ネタだったりするわけですが、ワタシ的には 「なんかこの人見んの、ひっさしぶり~」 という羽場裕一サンや、斉藤晴彦サンだったりします。 昔はよくドラマで見てたんですが。 こういうキャスティング、狙ってんのかそれともただ単に私だけが久しぶりなのか、分かんないんですが、なんか奇妙な気持ちに拍車をかけるんですよ。 ますますドラマのリアル、というものを考える隙間が、このキャスティングで埋まっちゃう気がする。 326(ミツル)サンもワタシ的にはご無沙汰してたなー。

 こういうアンリアルを思い切り引っ張ってエンタテイメントにまで押し上げているのは、室井サンと大竹サンであることは自明です。 いわばアンリアルの楽しさが、思い切り凝縮されている。

 それにしてもSMプレイで、しのぶサンにグンパンいっちょで縛られてた羽場裕一サンが実は学校の校長で、「恥ずかしいことはやめましょう」 とか生徒に訓示してたのは腹抱えました(笑)。

 全6回なのですが、もっと見たい気がするぞ。

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2015年1月15日 (木)

「○○妻」「残念な夫。」 第1回 一見同じ土俵の同時間帯ドラマ、でも実は…

 かたや日テレの 「○○妻」 は完璧な妻(柴咲コウサン)。 かたやフジテレビの 「残念な夫」 はダメな夫(玉木宏サン)。 題名とさわりの設定だけ見ると、夫婦生活というものに題材を求めた、同じ土俵のドラマのように思えます。 しかも放送時間がガチで同じ。 「妻」「夫。」 対決か、と思ったんですが、フタを開けてみるとその中身は全く違うものでした。

 「○○妻」 のほうは脚本が遊川和彦サン。 この人を当ブログでは 「壊し屋」 と呼んでおりますが(笑)、なにしろ当初の設定をぶち壊すのが大好きで(笑)ぶち壊すことでものごとの本質を追究していく、という手法をよく採用する。
 その手法がいちばん当たったのが同じ日テレで数年前大ブレイクした 「家政婦のミタ」 でした。 今回の 「○○妻」、第1回を見る限り、非常に正直に言ってしまえば、「ミタ」 の二番煎じという印象。 柴咲コウサンは 「夫」 の東山紀之サンのために、ほぼパーペキな 「妻」 を演じている。 いてほしい時に後ろを振り向けば音もなくそこにいる(笑)。 ミッションコンプリートすると(笑)どこからか鐘がゴ~ン(笑)。 笑える。 「家政婦」 松島菜々子の再来だ(笑)。

 遊川脚本にもうひとつ共通しているキーワードは、「人間不信」 でしょうか。 ものごとの本質を追究していくから、人間の表面を飾り立てている見栄であるとか嘘みたいなものを、ハンマーでガンガン叩いてぶち壊し、そこに潜む本音というものを暴き出していくのです。
 そしてパンドラの筐の奥底に、かすかに光り輝いている 「良心」 みたいなものを表現することに、かつては長けていた気がするんですが、なんか最近その手法にも飽きたのか(笑)完膚なきまでに救いようがないストーリーを考え出すようになった気がする(笑)。

 その代表例がNHK朝ドラの 「純と愛」 だったんじゃないのかな(あまりに救いようがない展開なのでつらくて最後まで見てないんですが)。
 これ、遊川脚本と朝ドラの視聴者層が、文字どおり 「最悪の相性だった」 という証明になっちゃった気がするんですが(笑)、朝ドラの視聴者層って、人間の本性なんて見たかないんですよはっきり言って(笑)。 つーか、人間の本性はそうかもしれないけれど、それをどうやってリカバリーしていくかのほうに重点が置かれてないと、離れて行っちゃうんですよ、朝ドラの視聴者層というのは。 遊川サンって、最後の最後までぶち壊しまくり、最後まで解決させませんからね(笑)。

 今回の 「○○妻」 でも、ヒガシクンのお母さんの面倒を誰が見るか、という時に姉弟揃って見苦しい押し付け合いをしたりする場面にその傾向が顕著に出ていたのですが、私がもっと 「ユカワの絶望」 を感じたのは、筆を折っている著名な作家がニュースキャスターであるヒガシクンのインタビューで語っていた言葉でした。
 いくら一生懸命世の中に対して啓蒙しても無駄だと悟った、とかいう意味の言葉をその作家は語っていたのですが、ヒガシクンはニュースキャスターとしてその絶望に敢然と異を唱えるのだけれど、それがとても虚しく聞こえるような方向に、遊川サンはストーリーを構築している。
 そしてその作家をテレビ出演させた柴咲サンの手段が、どうも強迫的なものだったようだ。 はたしてその作家は、ヒガシクンが熱を込めて語ったジャーナリストとしての気概を目の当たりに見ながらも、それに感心したふうでもなく、不機嫌な表情のまま、テレビ局の楽屋を後にするのです。

 そして第1回の終盤、このヒガシクンと柴咲サンの夫婦生活が、実は入籍を伴ったものではなく、3年ごとの契約によって成立していたことが明らかになる。

 このドラマはですから、「夫婦生活」 というカテゴリには属さない、人間の本性に迫ろうとしている 「ユカワパターン」 の展開形(「ミタ風」 )、ということになりましょうか。

 かたや、「残念な夫。」

 ドラマのパターンからいくと、「○○妻」 も 「残念な夫。」 も、コメディが入ってる、という気はします。
 ただ 「○○妻」 は溜めて出すタイプ(笑)。 「残念な夫。」 は連弾タイプ(笑)。 早送りも駆使され、かなりポンポンとスピード感のあるセリフの応酬があります。 正直字幕が所々おっついてなかったな(笑)。

 「残念な夫。」 というからには玉木サンが残念なのでしょうが、実は妻のほうの倉科カナチャンも結構残念が入っていたりする。
 夫婦揃って残念に見えるのは、どちらも 「自分はこれだけのことをやっている」 という被害者意識で相手のことを見ているからで、あえて遊川サン流に喝破すると、「どちらも自分の人生がいちばん大事であるがゆえに、自分以外の立場に立って考えられないんだ」、ということになりましょうか。

 それまで理想的な夫婦だったのが、子供が出来てから様相ががらりと変わってしまった、というのがこのドラマ。
 確かに子供ひとり育てるのには何千万もかかるようなご時世であり、そのためには自分の趣味や自分の時間をある程度子供に捧げなければならない。 自己犠牲を強いられなければなりません。
 今はパソコンだのスマホだのなんだのかんだのと、人ひとりが何かを楽しもうとすると、それだけで人生終わっちゃうくらいの楽しみにあふれています。 これは2、30年前から比べると、確かに雲泥の差だと思う。
 その結果、子供を育てる、ということに昔よりもずっと 「自己犠牲」 がついてまわっちゃってる気がするんですよ。

 子育てというのは我慢の連続ですから、それを夫婦で分かち合っていかなければならない、というのは当たり前に思えるのですが、社会的なシステムはずっと旧態依然のまま。 どうやって自分の子供に愛情を注ぎながら、世の中にあふれかえり膨れ上がっている 「この世の楽しみ」 を享受できるのか。
 このドラマがそこまで見据えているかどうかは分かりませんが、やはり主演の玉木サンは 「のだめカンタービレ」 に出ていただけのことはある。 この人のコメディセンスに引っ張られてドラマが展開すれば、面白いものになりそうな気は、いたします。

 かくてタイプのまったく異なったふたつのドラマではありますが、やはりドラマというのは人間の本質を見つめ直す性質を帯びていますから、究極的には同じ、と言ってもいいのかもしれません。

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2015年1月12日 (月)

「中島みゆきのオールナイトニッポン月イチ」 紅白の舞台裏、そのほか

 おととしの4月から始まったこの番組も、2015年年明けはじめの今日の放送で、22回目。
 日曜の27時、すなわち月曜日の夜中3時からの放送で、本来ならばラジオ局はお休みの時間帯。 ニッポン放送にしてもこの時間はメンテナンスのため休止だったのですが、そこをこじ開けてのなんとなくムリヤリっぽい形で、最初のころは 「こんなのいつまで続くのかな?半年くらいかな?」 と思っていたのですが、ずいぶんと息の長い放送になりつつあります。
 まあ月イチだからいいのかな、みゆきサンにとってもニッポン放送にとっても。

 今回の放送での注目は、なんといっても去年(2014年)の 「紅白歌合戦」 の舞台裏についてでしょう。 リスナーからの投書では、コアなみゆきファンのかたがたは、みな自分のことのように緊張しまくっていたみたいです。 その投書に 「麦の歌」 を生で聴ける、ということで 「ナマムギ」 という表現があったことにウケるみゆきサン。

 楽屋でモニターを見ていたのかとか、何を食べていたんですかとかいう投書もあった気がしましたが、楽屋にテレビは置いてない、という話。 本番直前までメイクだの段取りだのリハーサルだの、かなりせわしなかったところにいきなり本番の声がかかって、そのまま突入、という形だったみたいです。
 本番が終わるとスタッフがやってきて 「よかったよかった、なにもなくて」(笑)。 「なにもしでかさないことがよかったのかよ」 みたいな(笑)。
 みゆきサンの出番の直前は福山雅治サンだったらしいですが(見てたのに覚えてねえなァ~…笑)、その福山サンの歌が結構静かな曲で、それで心が落ち着いたそうです。 「福山サンによろしく」 とのことでしたが、福山サンもニッポン放送でオールナイトやってるから、おそらくスタッフによって伝言されることでしょう。

 「紅白の感動をもう一度」 ということで、ここで 「麦の歌」 もかかったのですが、「ちなみに 『マッサン』 では、今年に入ってから2番の歌詞が流れております」 とちょっと宣伝。 「マッサン」、ここんとこ見てねえなー。 どんどんたまってくぞ(笑)。

 紅白の話題はこの程度でしたが、それにしても冒頭に書いたとおり、「オールナイト月イチ」 はよく継続しているものだ、と感じます。 みゆきファンにとっては至福の時間をいただいている、という感覚。 願わくばずっとずっと続けてもらいたいものです。
 実は日曜の21時から、FMのNACK5では松山千春サンも生で(一部1週間遅れの地域もあるそうなのですが)1時間番組を放送している。 同じ時間帯、私は内容がユルイ 「大竹しのぶの寝ちゃダメだよ!」(ニッポン放送)を聞くことが多いのですが、これなんとかなんないかな。 「大竹しのぶのオールナイトニッポンゴールド」 が終わっちゃって、しのぶサンはこの時間帯にコンバートされたんですけど、勘弁してよ、って感じで。 千春サンの番組ずっと聞いてたのに。 なにしろこの時間帯、普通私は仕事が入っているので、両方聞くわけにもいかず困っているのです。

 ただ、しのぶサンの番組が割り込んでくる前は、日曜の夜勤は月イチだけど千春サンとみゆきサンのラジオ番組を聞いていたわけです。
 その感慨、ったらなかったな。
 自分の高校時代をすごく思い出して。

 千春とみゆきのオールナイトニッポン。 懐かしすぎます。 そのおふたりの放送を、こうして時間を置かずに聞けるなんて。 そんな時期が続いていたわけです。

 今回月イチで復活しているみゆきサンのオールナイトニッポンは、昔は深夜1時から3時までで、最後の10分間くらいはしんみりとした話になり、みゆきサン自身の曲をかけながら番組が終わったものです。
 今回もいくぶん落ち着いた話にはなるものの、最後は次に始まる番組の告知をして、オールナイトニッポンのテーマ曲、「ビター・スイート・サンバ」 で終わる。 ちょっとその形を、さびしく思っているワタシなのであります。

 なお、今回は成人式、ということで1981年のアルバム 「臨月」 の中から、「成人世代」 がかかりましたが、このころは私もみゆきサンにどっぷりつかっていた時期で、なんだか感慨もひとしおでした。

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2015年1月11日 (日)

「銭の戦争」 第1回 返せる奴だけが金を借りる資格がある

 えー、なんと申しましょうか。 超零細企業をやってる筆者には、かなり 「見たくない」 種類のドラマでした(笑)。 身につまされる、と申しましょうか(笑)。

 証券会社のエリート社員だった草彅剛クンが、親の会社の経営破綻でいきなり借金まみれになってしまう、という話で。
 この、小さな工場を営んでいる父親(志賀廣太郎サン)の会社。 大きな銀行からはもとより、サラ金から闇金にまで金を借りまくっている。 零細経営者の立場で申し上げますと、「どうしてそこまでになってしまったのか」 という原因がまず知りたいんですよね(笑)。 草彅クンが孤軍奮闘するのがドラマのメインなんですが、まずそっちに興味がある(笑)。

 いちおうドラマの中で説明はされていました。 「新製品の開発」 のための借金だったと。
 でもそれだけなのかな。
 まあ、違法な取り立てを行なう貸金業者の、「次々とアラを見つけては金を取り立てる」 ということがドラマの中核をなすのであれば、あまりその借金の原因について詮索するのは無駄なことなのですが。
 ただ、なにしろアッチャコッチャから借りまくり過ぎている。 まず会社がお金を借りる場合、最初はなんといっても銀行からの借金になるのですが、それを返せない上に運転資金を転がしながら自転車操業を続けていくうちに、雪ダルマ式に借金が膨らんでいった、というのなら納得できる。 しかしここまで無節操に借金しまくれるもんなのかな?という気がするんですよ。
 まず闇金なんかに関わった時点で銀行からは厳しいチェックが入るような気がする。 そうなると、会社にとっては、最もイメージダウンを食らうわけです。 つまり信用ゼロ。 銀行が黙っているはずがない気がするんですけど(知りませんよ、そこまでなったことがないから…笑)。

 そこまでの借金、となると、なんかほかにも原因がありそうな気がする。 例えば第1回ではいい人キャラだったけど、専務が遣い込んでいたとかね。 何かに騙されていたとかね。

 だいたいですね。 借金なんかする人は、返せる当てのある人しかしちゃイカンのですよ。 それをここまで無節操な借金というのはどうもね…。 父親の回想を見ていても、そこまでいい加減な人とは思えないんだが…。

 ただこのドラマの一種の救いは、草彅クン演じる 「元」 になってしまいましたが証券マンが、ドラマのなかでも出てきたけど、たった2日でかなり無茶なノルマを達成できてしまうほどの能力を有していること。 それに彼、アホみたいに記憶力いいし(笑)。 彼自身が巨大な資産価値ある人物だ、ということが、救いなんですよ。
 まあ、でなきゃドラマがドラマらしく動いていかないんですけど(笑)。 自己破産して終わり、ですもんね(そんなに簡単でもないのか?)。

 それにしても、原作が韓国のコミックだけあって、設定がいろいろと韓国チックであるのは、見ていて懐かしいです。
 なにしろ数年前までは、韓国ドラマ見まくってたからなァ。 あまりに見すぎて飽きちゃって、ここ数年全く見なくなったけど、なにしろ韓国ドラマというのは、日本のドラマより、かなりドラマチックで振り幅が大きいんですよ。 しかも国民性を反映してか、登場人物がよりファナティックである。 悪人はより悪人らしく、そうでない人はそれなりに…(ん?…笑)。 主人公がイケメン俳優だと、本命の女性と飛び入りの女性の二人が出てくるし(笑)。
 それらの設定をみな踏襲しているのが、懐かしいんですね、私にとっては。

 ただ、渡辺篤郎サン演じる闇金業者も、なんか韓国ドラマの悪人レベルからいうと、なんとなく悪に徹してない感じ。
 でもそこが渡辺サンの狙いどころなんだろうけど。 ゆるキャラっぽいクセして、ホワイト工業だったっけか、その借金に絡んでそうな重要書類を保管していたみたいだし。
 母親(木野花サン)の手術代を強奪していった連中が、正統な韓国ドラマの悪役ですよね(笑)。

 草彅クンのもうひとつの強み、というのが、落ちぶれるまで付き合っていた彼女(木村文乃サン)の祖母(ジュディ・オングサン)がなんとかファイナンスの社長だか会長だか、娘の手切れ金に1000万円ポンと出すくらいの資産家である、ということ。 草彅クンの男気からいって、この人の世話に一方的になる、ということは考えにくいけれども、ギヴアンドテイクのビジネスパートナーとしては成立しそうな気がする。 木村文乃サンとその祖母は、ドラマとしてかなり 「使い道がある」 気がしてます。

 それにしても草彅クンは、どうして父親の仕事を継がなかったのでしょう。 そこに至るまでのさまざまな引きずられた影であるとか、純朴な少年の心をどこか捨てている男を、彼は今回も、見事に演じていた気がします。

 ただ、借金の話とか、母親が倒れちゃうとか、父親が自殺しちゃうとか、新年早々(でもないか)かなり暗い話で、それでなくとも冒頭に書いた通りなので、見続ける勇気があるかどうかは未知数です。

 でもねー。 ちょろっと出てきた小林薫サンとか中居クンとか(えっ?いたのか?…笑)、予告で出てきた津川雅彦サンとか、気になるんだよなー。
 草彅クンの恋の行方はどーでもいいが…(大島優子チャンか…)。

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「花燃ゆ」 第1回 文字に命が生まれ、無名の人に命が宿るとき

 視聴率が13パーセントで大河史上3番目の低さとかなんとか。 相変わらずメディアの物差しってのは、旧態依然としていますけど。 でもワンセグ視聴者数とか録画率とか全部考慮に入れたら調べんのスゲーメンド臭そうだし、まあいっか(笑)。
 ただ、13パーセントにしかならなかった理由は、第1回を見てなんとなく理解できるような気がしました。
 話がヤケに観念的、論理的、なんですよ。

 長州藩直轄の明倫館という、会津の日新館みたいな塾を中心として、幼き日の松陰や子供たちが学ぶ論語などの言葉。 それらは字幕を追っていてもかなり難解で、まるで別の国の言葉のように聞こえる(まあ、漢文だし)。 普通これだけ意味不明の言葉が続けば、ちょっと堪え性のない人ならば 「なんだか分からん」 とチャンネルを変えてしまうことでしょう。

 そもそも、このドラマはNHKの宣伝によると、「イケメン大河」「セクシー大河」 であったはず(笑)。 それが、蓋を開けてみれば 「哲学する大河」 でした、ですから。
 確かに開始早々は主人公の杉文が成人後の井上真央チャンで登場して、松陰主宰の松下村塾のイケメン塾生たちに 「ご飯ですよ~!」 ですから、「ついにイケメン大河、ホームドラマ大河が始まったか…」 と、少々ゲンナリしたんですが、時代を遡って文が少女時代になると、「哲学する大河」 に突然シフトチェンジする。 その変わり身の早さには、「なんだなんだ?」 という感じで、少々戸惑いました。

 それにしてもこの、井上真央チャンの少女時代を演じる女の子なんですが、「どこから見つけてきたんだ」 とただひたすら感心するばかりのソックリサンで(笑)。 「八重の桜」 のチビ八重ちゃんとか 「軍師官兵衛」 の岡田クンにどこが似てるのか?的な男の子が、まるで比較にならないレベルの瓜ふたつさ。
 しかもこの女の子が、単なる真央チャンのソックリサンで終わらず、きちんと演技できているのがまたすごい。
 ただまあ、文だけは少女なのだけれど、兄の松陰も伊勢谷サンだしのちに夫となるヒト(エート名前は…笑)も大沢たかおサンだし、その点は 「功名が辻」 で仲間由紀恵サンだけ最初子役だった違和感を思い出させます(だったっけな?…笑)。

 無駄話はしてらんない。 なにしろ話が、難解なのだ(笑)。 本題に入ります。

 この2015年大河のクレジットタイトル。
 装飾的なメインタイトル 「花燃ゆ」 の書が立体的に組み合わさり、二匹の鹿が式神(「千と千尋の神隠し」 に出てきた、ヒト形をした紙みたいのがありましたよね、アレです)のような黒い影となって、まるでゼロ戦の空中戦みたいな動きをしながら、墨汁のようにはじけていく。

 かなり印象的なタイトルバックです。 この式神たちの 「空中戦」 は、これからこのドラマの登場人物たちが出会うであろう 「人生の戦い」 を象徴すると同時に、「書」 という文字、言葉の葛藤を意味しているのではなかろうか。 「墨汁のようにはじける式神」 というのは、もしかすると書、言葉の守護神であり、登場人物たちが、これから始まる新しい時代に対して揺れ動く思想を象徴しているのかもしれない。
 そんなことをふと考えたのです。

 それは、幼き日の松陰が叔父の玉木文之進(奥田瑛二サン)の厳しい薫陶のなかで、わけも分からず詰め込まれていた漢文が、まるで映画 「マトリクス」 のメインタイトルのように頭の中から流れ落ち始める、大河ドラマのなかでは極めて珍しいと思える精神世界の具現化を図るCGを見たときに、結実したように感じました。

 そのシーン。
 松陰(寅次郎)が少女時代の文に語るシーンなのですが、回想のなかで幼き日の自分と対話し葛藤し、弁証法的なステージアップに辿り着く、という複雑な構造で、ドラマとしてはかなり難解な手法を起用している。
 見ている側は漢文の意味なんかすっと頭に入ってこないし、寅次郎がどうやって悟達の境地に入っていったのかもよく分からない。 こういう話についていけるかって、そりゃ視聴のパーセントも低くなろうかと(笑)。

 でも要は、フィーリングの問題であって(笑)。

 そのシーンを再現してみましょう。

 児童虐待なんかどこ吹く風、なにかっていえばブン殴る奥田のとっつあんのせいで顔中アザだらけの幼き寅次郎。 「至誠にして動かざるはいまだこれあらざるなり、至誠にして動かざるは…」。 テンパって考えているうちに、書物から文字がこぼれ、流れ落ちていく妄想に囚われます。 「逃げた逃げた。 本の中の文字からな」。 回想する、伊勢谷寅次郎。

 幼少の寅次郎 「――人の性の善なるは、なお水の低きにつくがごとし。 人に善ならざるものあるなく、水に下らざるものあるなし」

 回想する寅次郎 「人の本性は、善。 …本当か?

 ならばなぜ叔父上は俺を殴る?
 なぜ誰も俺を助けてくれん?
 なぜ己を捨てねばならん?

 …星が降るように、いくつも 『なぜ』 が降ってきた。

 己とはなんじゃ? 公とは?

 なぜ学ぶ? なぜ生きる?」

 幼少の寅次郎 「――学は則ち三代これを共にす。 みな、人倫を明らかにする所以なり。
 人倫…。 人の正しい道…」

 回想する寅次郎 「そう。 本にはなんて書いてあった?」

 幼少の寅次郎 「命を知らざれば、以て君子たることなきなり」

 回想する寅次郎 「それから?」

 幼少の寅次郎 「命に非ざるなし。 その生を順受すべし。
 …命…天命…」

 回想する寅次郎 「それから?」

 幼少の寅次郎 「至誠にして動かざるは、いまだこれあらざるなり。
 至誠…まごころ!」

 回想する寅次郎 「それから? "あの人"はなんと言うとった?」

 幼少の寅次郎 「(刮目し起きあがる)」

 回想する寅次郎と幼少の寅次郎 「(声を合わせ)知りたい、知りたい、知りたい…!」

 (略)

 場面は寅次郎が文に言い聞かせるシーンに戻ります。

 「そのとき初めて分かった。

 本は、文字ではない。
 本は人じゃ!

 開けば触れることが出来る。 ほかの人の考えに。
 江戸におる人にも、外国におる人にも、
 とうの昔に亡(の)うなった人にも、出会うことが出来る。

 同じく悩んで、同じく答えを見つけようとした誰かがおって、教えてくれる。 その人の目で見た世の中の…人生のあらゆることを…教えてくれる。

 生きるに迷うとるんは、自分ひとりじゃないことを。

 おかげで兄は天命を受け入れることが出来た。 人と出おうて、兄は変われたんじゃ」

 ここで見ている側にとって大事なのは、幼少の寅次郎によって次々と発せられるシチ難しい漢文を理解することではないはずです。 結局今(と言っても当時のですが)の寅次郎も昔の小さい寅次郎も、たどり着いたのは 「知りたい、知りたい、知りたい」 という 「知識欲」 だと思うんですよ。
 回想するほうの寅次郎が言っていた 「あの人」 とは誰なのか。 文脈からいけば、それはボーリョクオヤジの(笑)奥田のとっつあんではなく、その漢文を書いた中国の思想人たちであるはずです(下らんことをさも大発見みたいにして騒いでいるようで申し訳ない)。 文字の洪水から逃げた小さい寅次郎が、もう一度本を読もうと踵を返すのは、「本(=あの人)に会いたい」 と願ったから。

 この場面が 「ワケ分からん」 なりに感動的に思えるのは、「今の自分と昔の自分を対話させる」 という、ドラマ上の 「松陰の心のなかに生じた葛藤、逡巡を再現する」 再構成の仕方が理由に思えます。
 そこでは現在の自分がリード役となって、「それから?」 とたたみかける。 そして 「松陰の行動を生涯にわたって突き動かしていた動機は、『知りたい』 という欲求だったのだ」 ということを見る側に納得させる。
 それを見る側が理解することによって、ワケ分からん漢文を習っていた松陰と、現在の私達と、「知りたい」 という欲求において何ら変わることはないのだ、という作り手の主張が見えてくる気がするのです。

 そしてこのシーンがとても印象的なのは、文字が本から離れ、流れ出し、幼い寅次郎の頭上から 「星が降るように」 降り注ぎ吸い込まれていく画像処理です。
 その瞬間、幼い寅次郎にとっても、見ている側にとっても、文字は 「ただ意味もなく頭に詰め込む記憶するだけのもの」 から、生命あるものへと大きく転換する。
 見ている側にとってはさらに、「これって自分と同じじゃん」 という、同化作用を促されることになる。
 文字に生命が宿る瞬間に、難しい漢文をそらんじていた150年前の人間が、自分たちと同じ勉学の苦しみの中にいたことを理解することによって、当時の人々がはじめて生き生きとよみがえる。 そんな効果を伴っているように思えるのです。

 それにしても2年前の 「八重の桜」 と比較するとき、会津藩の人々と長州藩の人々のあいだの 「知識欲」 の差がここまで印象的に描かれている図もないのではなかろうか、という気がします。

 そもそも物語の出だしからいって、藩が直轄する塾を描いていて好対照的。 しかし、学んでいることは一緒でも、会津の日新館での教えの中には 「ならぬものはならぬ」 という、「有無を言わさぬ道理」 が教えの根本にあるために、会津藩の人々には新しい価値観を受け入れる土壌が育たない。
 それは自分たちを律する手段としては、間違っているとは言い難いと思います。 いつの世でも、親が子に道理を教える時は、有無を言わさぬと決まっておるのだ(笑)。 「人の迷惑にならない」 であるとか、「人を傷つけてはいけない」 であるとか、それらは理屈じゃないでしょう。 「人からされて自分がイヤなことはするな」、ということです。
 でもそれは、人の世のルールを教え込むには力を発揮するのだけれど、「既成の価値観の中で生きよ」 ということも同時に意味している。 会津藩の悲劇というのは、幕府への忠誠、という、既成の価値観に殉じてしまった部分にあるのだけれど、その思想の根本が、「ならぬものはなりませぬ」 だった気がしてくるんですよ。

 ただこのドラマが、そこを狙ってかどうかわからないのだけれど、軍事教練を最初に描いている点で 「八重の桜」 と一緒のような気がするし(よう覚えとらんが…笑)、それを指揮する兄を見守る妹、という点でも 「八重の桜」 と対をなしているように思える。
 そして 「八重の桜」 でも 「花燃ゆ」 でも、ふたりの兄 (山本覚馬と吉田寅次郎)のあいだに流れている問題意識が、同じなのではないか、という気持ち。

 それでも新進の思想を取り込む土壌、という点においては、「ならぬものはならぬ」 というフタがないために、長州藩のほうが先んじていた。 それをこのドラマでは、のちに文の夫となる小田村伊之助(大沢たかおサン)(調べました…笑)を同時に描くことによって表現している気がする。

 伊之助は寅次郎と同じように、幕府によって禁じられている 「危険思想の本」 禁書を携えています。 それはやはり 「知りたい」 という欲求によってなのですが、伊之助と寅次郎に共通しているのは、黒船が来航する前にもかかわらず高い、西洋列強の海外進出に対する危機感です。
 その禁書を伊之助は落としてしまう。
 それを文が拾うことから、ドラマ的な展開がなされていくわけですが、これらはおそらくみなフィクションじゃないかと感じます。 知らんけど(笑)。
 でも文がそれを拾うことで、伊之助と寅次郎が劇的に出会う場を演出し、杉文というほぼ無名に近い人物をドラマの中で意味のある人物に仕立て上げることに、成功している。

 文が伊之助にその禁書を届けようとして明倫館に忍びこんだところを捕まってしまい、「この本を持っていたのは誰か」 という大問題に発展してしまう。 文はDV奥田(笑)の逆鱗に触れて家からほん出され、そこに寅次郎がやってきて先ほどの回想を説くのですが、その翌日に明倫館でDV奥田は(リングネームかよ)塾生たちに 「こねぇなよこしまな本を読む人間がおる。 名乗り出ろ」 とぶち上げます。 そこに手を挙げたのが寅次郎。

 「質問がございます」

 「なんじゃ?」 とDV奥田(だからね…)。

 「孫子の兵法に、『敵を知り己を知れば百戦して危うからず』 とありますが、その意味は?」

 「『戦において、相手の力、味方の力を正しく知れば、けっして敗れることはない』」

 「山鹿素行先生は、先知を重んじました。 先知とは何か、お教え願いたい」

 ただの威張り腐ったボーリョクオヤジなら 「ワシを試すのか!」 と憤るところですが(笑)、DV奥田(連呼に他意はございません…笑)はきちんと答えるんですね。

 「先知とはすなわち、『先に知れ』 ということじゃ」

 「ならば問います。

 この明倫館では、なぜ敵となるかもしれん異国のことをもっと学ばせようとしないのです」

 「この国は、皆がそれぞれ役目を果たすことで太平を保ってきた。 (立ち上がり)目新しさに心奪われ、異国にかぶれ、皆が勝手な行ないをすれば、いずれこの国は終わる! 野蛮な西洋の考えに染まっていいはずがない!」

 「(立ち上がり)たとえよこしまな本を読んだとしても、己の頭で考えれば、なにが良く、何が悪いか、人は分かるはずです!

 己の頭で考えることが出来る者は、かぶれも染まりもしません。

 ただ覚えるだけでなく、考えること! それを教えてくれたんは、叔父上です!

 それに、その本はよこしまな本などではありません。 (叔父が持っていた本を取り)これは、幕府が禁じた本。 ですからこうしましょう」

 本を破り捨てる寅次郎。 その場に駆け付けた、伊之助も文も、息を呑みます。

 「無駄です」 懐から、同じ本を取り出す寅次郎。 「どこにでもあります。

 ここで止めても、日本国中にあふれます。

 なぜ皆が、禁じられた本を読もうとするんか。

 知りたいからです。 学びたいからです。 変えたいからです。

 今までの学問じゃ、もう日本国は守れん!

 本当に、こん国のことを思うものは知っとる。 死に物狂いで学ばんにゃ、こん国は守れんと!」

 激高する叔父を尻目に、伊之助を促す文。

 「せわぁない(大丈夫)」

 「えっ?」

 「独りやないよ」

 小田村伊之助という人物を、このドラマはもらい子として学業に挫折した人間として描いていました。 だからこそ伊之助の屈辱、苛立ち、はちきれんばかりの向学心を、見る側は共有することが出来ていたのです。 そこに 「あなたはひとりじゃない。 同じ考えを持っている人が、目の前にいるのだ」 ということを諭す役割を、このドラマは杉文、という無名の人物に求めた。 塾生たちにブチ上げる寅次郎。

 「皆に問いたい。

 人は、なぜ学ぶのか?

 私は、こう考えます。 学ぶのは、知識を得るためでも職を得るためでも、出世のためでもない。 人にものを教えるためでも人から尊敬されるためでもない。

 己のためじゃ!

 己を磨くために、人は学ぶんじゃ」

 その弁を感動して聴いていた伊之助が、名乗り出ます。

 「恐れながら!

 その本、私が持っていたものにございます!」

 色をなす指導者たち。 頭を下げる伊之助。

 「ですがこの本は、島国である日本国が何をなすべきか、教えてくれています。 禁書だからという理由だけで中身も読まず、葬ろうというのは、学ぶべき者の正しい姿ではありません。

 (塾生たちに向かって)人は、なぜ学ぶのか。

 お役に就くためでも、与えられた役割を果たすためでもない。
 かりそめの安泰に満足し、身の程をわきまえ、この無知で、世間知らずで、なんの役にも立たぬ己のまま生きるなど、ごめんです!

 なぜ学ぶのか。

 この世の中のために、己がすべきことを知るために学ぶのです!

 私はこの長州を…日本国を守りたい。

 己を磨き、この国の役に立ちたい。

 そのために学びたい。

 …まだまだ学びたい!」

 歩み出る寅次郎。 「私も、同じ考えにございます!」 同志を見つけた喜びに見つめ合う寅次郎と伊之助(BLじゃないよ)。
 このシーンで繰り返される、「なぜ学ぶのか?」 という問い。
 これはこれから受験をしようとする人たちにとっては、かなり重要な問いかけになるのではないか、と感じます。

 この一件はお殿様(毛利元親、北大路欣也サン)預かりになって元親さんお決まりの 「そうせいそうせい」 につながっていくのですが、これくらいの一件でお殿様が出てくる不自然は別として(笑)、この一連の流れは長州藩の中に流れる、ある種の 「風通しの良さ」 をしっかりと描写していたように思うのです。

 そしてそこに、無名の 「杉文」 という女性をしっかりと息づかせることに成功した。

 冒頭の数分間を見て 「あ~あ、やっぱりイケメン大河かよ」 と思った私の思いは、かようにいい具合に裏切られたのですが、どお~も不安はある(笑)。 なにしろ今年の大河ドラマ、脚本が2人体制ですから。
 まあそこが、特色の違いが出て面白くなる、という期待にもつながってはいるのですが。
 とりあえず第1回は、かなりよく出来たドラマだ、とひたすら感心いたしました。







 …







 あ~あしんど(爆)。 こんなレビュー、毎週してらんないな(笑)。

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2015年1月 4日 (日)

2015年冬ドラマ、私の注目(だから、ちゃんと見ろっての)(最近の視聴経過と2014年ベストドラマもね)

 正月休みを利用して去年(2014年)のたまりにたまっていたドラマを見倒しているんですが、まだかなり残っています(ハハ…)。 早いものでもう今晩から仕事なのですが…。

 だいたい、見るのがメンド臭そーなのは敬遠してます(笑)。 いちばん敬遠したくなるのが 「MOZU」(笑)。 だって残酷シーンが多いんだもん(笑)。 良質のドラマなんですが。
 人が殺されるとか事件がどーとか、見たくないんですよ。 当ブログの読者の方々ならばとっくにご承知でしょうけど。 テレ朝のドラマってそういうのが多いから、滅多にレビューしない。

 「MOZU」 は巷間漏れ伝わるところによると、どうも完結編が映画で出るとか?
 さんざんWOWWOWとかで遠回りしたクセして、それかよ、みたいな。 だからシーズン2までしっかり録画してあるけど、最後まで見て未解決だったら…という思いもあります。

 で、夏ドラ秋ドラ構わず見てるんですが、結構見進めているのが 「今日は会社休みます。」。
 「大河ドラマ女優」 の肩書きがついた綾瀬はるかチャンがドラマ復帰第1作に選ぶだけのことはある。 かなり周到な脚本だ、と感じるのです。 ただ、周到なわりには、男性経験なしで30迎えた主人公(綾瀬はるかチャン)がいきなりふたりの超イケメンにアプローチされてしまうシチュエーション自体が、あり得ないかも(笑)。

 あと残念だったのが 「ごめんね青春!」。 最終回だけ録画機の不具合で録れてなかった。
 どーにかしろよこのブルーレイ。 アッタマ来た(ハハ…笑)。 不具合多過ぎ。 「停電のため録画できませんでした」 だって。 停電してるワキャネーだろつーか。
 最終回の前の回まですごく面白かったし、とても期待していました。 気楽に視聴出来たドラマなので、結構リアルタイムで追ってました。 「あまちゃん」 ほどではないけど、クドカンドラマの及第点は大きくクリアしてたと思います。 主人公の錦戸亮クンの情けなさぶりと、相手役の満島ひかりチャンの 「演技しすぎる感」 が見事にドラマの内容と合致してた。

 夏にやった再放送とは知らずに見ていたのが、「ダブルトーン~二人のユミ」。
 NHKBSだったんですが、30分番組だったので、これもすぐに見終わりました。
 あるときから名前が同じふたりのユミが、互いの1日を再現した夢を見始める。 するとひとりのほうのユミが、近々死んでしまうことが明らかになっていく、というドラマでした。
 まだ去年録りだめしたほかのドラマを全部見ていないのですが、今のところ私の個人的な2014年ベストドラマは、これです。 まあ、サスペンスが主体の、事件が入り混じったようなドラマだったんですが。

 ホントに権威がないんですが、今のところ私が考える、2014年のドラマ順位は。

 1位 ダブルトーン~二人のユミ(NHKBSプレミアム)
 2位 ごめんね青春!(TBS)
 3位 銀二貫(NHK総合)
 4位 ブラック・プレジデント(フジ)
 5位 花咲舞が黙ってない(日テレ)

 このうち2位、4位、5位については、ドラマを作っている人たちが、ホントに楽しんで作っているんだろうな、という感じでした。 つーか、見ていて重苦しくないのがよかった?(笑)

 で。

 今年(2015年)最初のドラマ群なんですが。

 どうしても最初に気になってしまうのは、坂元裕二サン脚本ドラマでしょうか。 フジテレビ木曜10時、「問題のあるレストラン」。 主演、真木よう子サン。
 どうもかつての 「最高の離婚」 路線なような気がするのですが、「Mother」 あたりのテンションって、どこ行っちゃったんでしょうか、とは思う(笑)。 まあもともと、そんなにすごい脚本家さんとは思ってなかったのですが、あの頃は(ハ!)かなりのクオリティのすごいドラマ連発してたなー。 1月15日スタート。

 NHK木曜時代劇の 「風の峠~銀漢の賦」 にも注目します。 主演が中村雅俊サンと柴田恭兵サンだからなァ~。 私くらいの年代だと、おふたりとも日テレ日曜9時の刑事ドラマ、という感覚なんですが、共演はしてなかったのかな。 1月15日スタート。

 TBS日曜劇場枠では、「流星ワゴン」。 重松清サン原作で主演は西島秀俊サン。 それに香川照之サン、とくれば 「MOZU」 なんですが、今回はSFタッチの人間ドラマらしい。 まあ、重松サンが原作だから。 吉岡秀隆クンが出るのか。 1月18日スタート。

 1月6日スタートのフジテレビ火曜10時枠、「銭の戦争」 は、韓国の人気コミックのドラマ化、ですか。 主演は韓国とくれば草彅剛クン。 とりあえず見てみます。

 あと注目なのは、NHKBSになってしまいますが、「アイアングランマ」。 フツーの主婦が元特殊捜査官とかいう、私の食指が動かない事件モノではあるのですが、主演のふたりのメンツがすごい。 大竹しのぶサンと室井滋サン。 このネームバリューだけで見たい、と思ってしまうのですが、いかんせん事件モノだしなァ…。 もっと別な種類の見たいですよね、せっかくこういう演技派女優が共演するのなら。
 1月10日スタート。 土曜10時。

 1月31日、とスタートは遅いのですが、NHK土曜ドラマ 「限界集落株式会社」 も面白いかも。 反町隆史サンが主演で農業がテーマらしいです。 「あまちゃん」「銀二貫」 で若手注目株の、松岡茉優チャンも出るし。

 脚本が野島伸司サンで、子役(チビ八重ちゃんです)が主演の 「お兄ちゃん、ガチャ」 ってなんなんだ(笑)。 しかも深夜枠だし。 いわゆる 「ガチャガチャ」 で理想のお兄ちゃんを引いていくって、下らなそうで見てみたいかも(笑)。
 日テレ土曜24時50分から。 1月10日スタート。 厳密に言うと11日?

 あとはまあ、いつものように、とりあえず片っ端からドラマには予約録画をかけていきます。 見るのは年末かもしれないけど(爆)。

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2015年1月 2日 (金)

「山賊の娘ローニャ」 前半まで見て

 宮崎駿監督の息子、という代名詞が生涯ついてまわりそうな、宮崎吾朗氏のテレビアニメ初監督作品。 去年(2014年)の10月から放送が始まって、年末までで物語の半分を終えたところです。
 主人公は、山賊夫婦のあいだに生まれた娘、ローニャ。 ま、題名そのまんまなので説明の必要がありません。

 宮崎氏は今回、「ジブリを離れて武者修行」、ということだったらしいですが、題字はジブリのプロデューサー、鈴木敏夫氏が作成してるし、そもそも制作協力にジブリが名を連ねている。 プロデューサーはこのところジブリとは密接な関係が続いている、カドカワドワンゴの川上量生氏。 まあ、アニメーションスタッフだけがジブリじゃない、ということでしょうか。

 吾朗監督が採用したのは、3DCGアニメーションという手法。 これを作成しているのが、ポリゴンピクチュアズという会社で、だからジブリじゃないよ、武者修行だよ、とは言える(笑)。
 この3DCGは、コンピュータを駆使してキャラクターのデータを作成し、そこから立体的な 「リアルなお人形」 状態のCGを作ってから、それをわざと手描き風のマンガの描線に戻す。 要するに、立体的に見えるものを、わざわざ輪郭だけの二次元に戻している、ということです。

 今回は主に人物だけがCGデータになっているようで、背景は従来のアニメと同じ、手描きによって成立しています。
 アニメというのは、本来手描きのマンガを動かそう、という発想から出発しているから、これはデジタルな手法で、わざわざ今まで私たちがあまりにも見慣れてきた、アナログなアニメのお約束で見せようとする、「先祖がえり」 とも言えるアプローチなんですね。

 この3DCGのメリットをこの番組を見て考えたとき、まず 「髪の毛の形を複雑に出来る」 とか。 「複数の人物の動きをコントロールできる」 とか。 「複雑な表情が出来る」 とか。
 いちばん感じるのは、「動きの速い場面でリアル感が増す」、ということでしょうか。
 特にローニャが吹雪の中で身動きが取れなくなってしまった回に、その効果の凄みを感じました。

 身動きの取れないローニャに、頭部だけが人間の女である妖鳥、「鳥女」 が襲いかかる。
 この、長い髪をした鳥女が、羽ばたきながらローニャをいたぶる場面は、とてもじゃないが、かなり優秀なアニメーターでも動画にするのは不可能だ、と感じました。

 ただ、「複雑な作業が出来る」 と言っても、人物の表情に関しては、表情のコンピュータソフトのパターンでやってる感じで、全体的に見ても、どうも血が通っているように見えてこない。
 手描きのアニメに関しては、最近の量産型のアニメでも変にパターン化されてつまらない動きをすることが多いのだけれど、ジブリレベルの動画技術と比較すると(比較したくなくてもしなければならない土俵に立ってるし)「コンピュータなんか、手描きに比べたらまだまだ」 ということを再確認してしまうんですよ。
 特に弱点を感じるのは、ローニャが上を見上げたときの造形が、なんかヘンだ、ということ。 これはコンピュータパターンで妥当なあごから首の輪郭になっているのかもしれないが、どうも変だな、ということはモニターを見れば普通すぐに分かりそうなもんです。 それを修正するにはおそらく、ポリゴンデータから刷新しなければならない。 なんかメンド臭そう。 だから修正しないのかもしれない。

 顔の表情だけは手描きにならんもんかな、ということはたびたび感じます。 どうも声の表情と顔の表情に齟齬があるときが多い気がする。 アクションが派手なのに、ヤケに目の表情だけが死んでいるような違和感も時々感じるし。
 やはり、人間の手が入らないと、ダメな部分ってあるんですよ。 機械の限界を思い知らされることが多いです。

 ただその、背景についてはかなりすごいことになっている。 たぶんこれ、全部手描きなんでしょうが、森の風景から山賊たちの住み家である古城、それらが深い雪に包まれる場面に至るまで、「となりのトトロ」 も真っ青な背景が連続する。
 要するにジブリ映画レベルなんですよ。 毎週量産型のアニメには到底出来ない芸当だ。

 惜しむらくはその、芸術的な背景の、特に水が登場する部分に水のCGが使われていること。 それは 「毎週放送型アニメにしては」 確かに驚くべきレベルの水の表現力なのですが、背景がリアルすぎるから、却って稚拙さが目立ってしまう。
 つまり、なんか「水」 じゃなくて 「ジェル」 が流れているような錯覚に陥るんですよ。 こういうのは単純に、白い線だけで済ませられるのに、という気がします。 まあ滝壺とかの表現があるから難しいだろうけれど。

 そして、肝心の内容についてです。

 物語の序盤に最も強く感じたのは、「話が冗漫」、ということでした。 けっしてテンポのいい話、とは言えなかった。
 たとえばローニャが初めて森にひとりで出かける、といった回は、森でいろんなものを見て、ただローニャが笑っているだけ(笑)。 「スゲーな、これだけで1回作っちまったよ」 と思ったのですが(笑)、おそらくそれらの回で吾朗監督が見せたかったのは、今しがた私が指摘した 「背景の素晴らしさ」 ではなかったか、と思うんです。 大自然の素晴らしさを、ローニャと共に楽しみ味わってほしい、というような。

 しかしアニメの観客のスタンスというのは、それが子供であってもアニメオタクであっても、「次に何が起きるのか」、といったワクワクによってなんですよ。 どんなに素晴らしく、完成に時間をかけた背景であっても、アニメを見る人の興味というのは、「絵が動く、人が動く」、ということが中心なんだと思うのです。 吾朗監督はそこのところで、ちょっと外している。

 この、ローニャが初めて森に出かけた回を見たときに、「宮崎駿監督であれば、おそらく絵コンテの段階で絶対ダメ出しをしただろうな」、と感じました。
 そして、「オヤジなら、どのようにこの回を作っただろうか」、ということも同時に考えました。

 宮崎駿監督なら、もっともっとローニャをいたぶったであろう、と(笑)。
 森へ行くとき、このアニメのローニャは常に裸足です。
 つまり小さい頃からずっと裸足でいたから、足の裏の皮がきっと分厚いんだろう、という(笑)ことをこちらに想像はさせるのですが、それでもやはり、山賊の砦である城の中と森とでは、状況が違います。
 宮崎駿だったら、そこに気付かないはずがない(笑)。 宮崎駿演出であれば、城を出た早々、絶対ローニャは裸足の足の裏を怪我してしまうことでしょう。
 そして川を飛び越える時も、絶対に失敗させます(笑)。 それ以外にも、いろんな失敗をさせるはずです。

 でも、吾朗監督がそこを描かないのは、かなり意図的に思える。
 というのは、吾朗監督は原作にあくまで忠実に、というスタンスで絵コンテを構成しているからであって、ローニャがここで、さほど森で失敗をしないことが、のちのちの大きな失敗につながっていく、ということまで意図しているからなのではないか、という気がするのです。 のちのちの大きな失敗、というのは、先ほど話に出た、「吹雪の中で身動きが取れなくなってしまう」、という出来事です。

 それに対して宮崎駿というアニメーターは、おそらく 「子供がこう動くことによってどのような結果を導いていくのか」、ということを常に考えている。
 それゆえに、原作に忠実などということはけっして考えず、ローニャを失敗させ続けるだろう。

 子供が失敗をおかし、どういうアクションを取るのか。

 その動的な面白さが、宮崎駿の興味の中心だからです。 「子供はこうでなくてはならない」、という思いが、宮崎駿にアニメを作らせるからです。

 この、「子供に託す思い」 という点で、宮崎親子は決定的に別のアニメーターなのです。

 「もし宮崎駿ならこうする」、という話は私の妄想による論評なので、本当はどのようになるのかは知る由もありません。
 ただ、吾朗監督がこだわる 「原作に忠実に」 という点を、父親はおそらく真っ向から否定するだろうな、ということは、なんとなく感じる(駿サンとは長~い付き合いですから私も…笑)。

 「原作に忠実に」 という点でもうひとつ私が気になっているのは、ローニャのしゃべりかたについてです。

 ローニャはあらくれ山賊どもの中で育っていながら、「~だわ」「~よ」 とすごく女の子言葉を多用するんですよ。 教育によろしくないようなしゃべりかたを絶対しない。

 これを 「子供の生き生きさを奪っている」 という発想で見てしまうと、すごく不自然に感じてしまうのだけれど、13回くらい見ていると、ローニャの表情のロボットみたいな動きと相まって、なんかこのアニメ独特の味のように思えてきてしまうのが、不思議なところではあります。

 このアニメは、第1回から山賊、という職業を肯定的に描写していません。 確か第1回では盗もうとしながら失敗していた。 山賊たちの悪行は、かなり意識的に描写されません。 それは問題の先送りであると同時に、「肯定的に表現していない」 ことなのだ、と私は思う。

 そもそも山賊なんて、要するにドロボー、ということですからね。 これについて私は、この問題はローニャが大きくなるに従って大問題に発展していくのではないか、と考えているのですが、今のところローニャは 「他人のものを断りもなしに奪い取る」 という認識には達している。 そして前半の終わりの第13回時点では、「だから別にそれを自分が勝手に持ち出しても同じことだ」、という一種の開き直りにも近い、免罪符的な認識を示している。

 これから始まる後半で、「悪いことをやっている山賊、という職業」 を今後どのように、アニメとして決着させていくのかには、興味があります。
 彼らは羊や鶏なども飼い、自給自足できる能力を有している。
 人のものを強奪しなくても生きていけると思うのですが、そもそも彼らの砦である古城も、他人様のものであるがゆえに(城を奪還しようとする兵隊がいますよね)、おそらくそこからも出ていかねば、きちんとした決着、というわけにはならないでしょう。

 それにしても。
 先ほどの話に出てきた鳥女。

 妖精とか、異形の者がしばしば登場するこの物語にあって、ひときわ異彩を放つ極めてインパクトの強い存在です。

 「彼女」 たちはいったい、どういう運命によって、修羅と畜生の生命を定められ、生きてきたのでしょう。

 なにしろ 「彼女」 たちは、みなしゃべれる。 人間の言葉を解するのです。 しかもなんか、個体差がない。 みな同じ顔をし、髪は無造作に長く、狂女みたいな表情を崩さない。

 かなり怖いですよ。 私がもし年端もいかない子供だったら、ションベンちびっちゃいますよ(ハハ)。 「鳥女が出てくるから、ボクこのアニメは見たくない」 って駄々こねちゃうくらいの恐ろしいキャラです(笑)。

 そしてもうひとり気になる、茫洋としてつかみどころのないキャラが、ローニャの母親のロヴィスなんですが、これは論じる機会がまたあればそのときに語りましょう。 つかみどころがないがゆえに、大きな海のような存在感を発散させています。

 いずれにしても、幼児からローティーン向けにこれだけ丁寧に作ってあるアニメというのは稀少です。 願わくば、これを見て父親がもう一度奮起されんことを…(巷間そのような噂は伝わってまいりますが…笑)。

 後記 この記事、かなり前から書き進め、温めてきたものなので、多少論理の変遷から矛盾する点があるかもしれませんが、どうぞご了承願います。

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2015年1月 1日 (木)

去年(2014年)の 「紅白歌合戦」

 ブログ開始以来、「紅白歌合戦」 については大々的に取り上げてまいった気がいたします。
 特にツイッター風の実況中継。
 残念です、去年(2014年)は紅白の勝敗がつくまで、近親の者とずーっと画面を見ておりました関係上、実況が叶いませんでした。
 ただ、書いていることと言えば十年一日。 なにを提言しても虚しいのでやめました(笑)。
 まあ、話題だけの歌番組ですから。

 一緒に歌おうとかいうのが去年の紅白のテーマだったらしいのですが、いまのこの国に 「今年流行った歌」、とかいって一緒に歌える歌なんかないでしょう。 まあ、朝ドラの2曲とレリゴーくらいは少々分かる。
 サブちゃんがいなくなってますます幼稚化、というのが2014年紅白の全体的な印象でしたね。 ほとんど曲なんか聞いてませんでしたね。 金爆が断髪式をしたりとか、メージェーが動かないのがオカシイ、とかそんなことしか興味がなかった。

 しかしその浮かれた気持ちが途切れ、時が止まったような一瞬があった。

 中森明菜サン。

 この、お祭り騒ぎが主体の紅白のなかで、もう何年ぶりかに、生で彼女を見た。

 場所は外国、歌うのも新曲。

 それは確かに、紅白の浮かれた空気とは逆行する彼女の挑戦だった。

 こういう場合は 「ミ・アモーレ」 とか 「飾りじゃないのよ涙は」 でしょう、という酔客(私みたいな…笑)の意向を無視し、「自分は現役なんだ、自分の未来を見せるんだ」、という 「ツッパリ」 を、彼女はあらためて見せつけたのです。

 なんかこれで、2014年の紅白は決まったな、という気がしました。

 中森明菜のいた2014年紅白。

 その直後だったか、AKB48が出てきたんですけど、48人だろうが100人だろうが、束になっても中森明菜の存在感をかき消すことはできなかった。
 昔はひとりで賄えていたアイドルのキャパシティを、今は48人もいないと賄えない。
 ひとりのアイドルの中に存在していたカワイさであるとか、引きずっている影であるとか、セクシーさであるとか、そんなものを分業制にしないと賄えないのって、どうなのかな。

 そしてもう1組、サザンオールスターズ。

 カウントダウンライヴの会場から中継でしたが、ここでも彼らの取り上げた曲は、つい最近の曲。 しかも 「ピースとハイライト」 は、自分たち日本人の国際感覚を、そして戦争のない世界を問う社会派的な曲。 外見上は浮かれたカウントダウンライヴでありながら、彼らの訴えていることは、あくまで重い。

 ここでも、紅白の性格を考えると、「いとしのエリー」 とか 「希望の轍」 とか 「栞のテーマ」 じゃないのかな、という気はするんですが(もし演ってたらワタシ、確実に泣いてたでしょう)、彼らも 「自分たちの今」、を選んだ。

 そして最後に、中島みゆきサン。

 一緒に歌いましたよ、ハイ(笑)。 朝ドラでやってるところだけは歌えた(笑)。 エリー役のシャーロットが涙ぐんでいましたが、私もなんか感動したなあ。 今回はみゆきサン、間違えずに歌えていたようです(一緒に歌ってたからよー分からんが…笑)。

 朝ドラ 「花子とアン」 の寸劇から、出演者が大量に司会の吉高サンのところに乱入、というのは、その前の年の 「あまちゃん」 を踏襲していました。
 なんか伝サマ役の吉田鋼太郎サンまでいたぞ(笑)。 出るかこの場に、というか(笑)。
 まあこれで吉高サンが泣いてしまう、というのはお約束の感もあったとはいえ、いいもんだな、とは思いました。

 こないだ健サンが亡くなったときに 「駅STATION」 をあらためて見たのですが、健サンと倍賞千恵子サンが肩寄せ合って見るその年の紅白で、八代亜紀サンの 「舟歌」 がとても印象的に流れる。 これは紅白を強力な道具として使いこなす倉本聰サンの面目躍如とも言うべき場面なのですが、なんかその年の紅白の1曲目も映画で流れていたんですよ。 石野真子サンの 「ジュリーがライバル」。 私忘れてて、これがちょっと意外だったんですが、この 「ジュリーがライバル」 が八代亜紀サンの 「舟歌」 の導入に、とても効果的な役割を果たしている、と感じたんですね。

 アイドルが歌うチャラチャラした曲があって、じっくり聞かせる曲がある。 夜がふけていくごとに、雪のように降り積もっていくその年1年の思いがある。

 紅白とは、そんなものなんだろう、と感じるのです。

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