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2015年3月29日 (日)

「マッサン」 最終回まで見て

 おひさしぶりでごんす。

 NHKのドラマにかかる予算がどれくらいなのかは知らないのですが、とかく 「朝ドラ」 と 「大河ドラマ」 という二枚看板に関しては、セットが少ない、という拘束によって物語に閉塞感が生まれる、という病根があるような気がします。
 この 「マッサン」 においても、前半の大阪編では会社と自宅以外の場所はほとんど居酒屋 「こひのぼり」、後半の北海道編でも熊虎さんの 「ニシン御殿」 に舞台の重点が置かれていました。

 その 「場面の貧弱さ」 を補おうとするとき、どうも作り手というのは 「登場人物の恋愛話」 で場をつなげようとするらしい(笑)。 「マッサン」 で特に重要視されたのは、マッサン夫婦の養女であったエマと熊虎さんの息子、一馬さんの 「戦争のさなかの恋」 であったのですが、この恋愛がエマにとってどのような影を残しているのか、ということは、ドラマの中での課題として結構重要なことのように感じるのです。
 しかし最後の2週間で出てきた成人時代のエマは外国暮らしのなかでマイクという青年を見そめ、「彼とはパートナーであって結婚する気はない」、とマッサン夫婦に宣言する。 それは考えようによっては一馬との悲恋を引きずっている、とも思われるのですが、どうしてそこをエマにきちんと語らせないのかな。 その、ほんのちょっとした配慮のなさが、このドラマを連関性のないブツ切りの印象に貢献しているように感じるのです。 これは 「セットが少ないから」 みたいな言い訳が通用しない段階の話です。

 「セットが用意できない」 という言い訳が聞こえてきそうに感じたもうひとつの話。 大阪時代にマッサン夫婦に鴨居の大将から託された大将の息子、英一郎。 かれはマッサンに影響されて、マッサンが退職したあと鴨居商店の造るウィスキー作りを担ったのですが、急死してしまう。 駆け付けたマッサン夫妻に、鴨居の大将は 「いつか世界一のウィスキーをマッサンが作れたら、英一郎の墓前に供えてくれ」 みたいなことを言って(記憶が曖昧…笑)、マッサンは涙ながらにそれを約束するのですが、いざその段になってみても、マッサンの記憶からは鴨居の大将との約束はきれいさっぱり消えていたみたいで(笑)。 墓参りくらいさせろっての(笑)。 墓のセットなんか、どーにでもなるじゃろうが(笑)。

 こういうの、見るほうは結構覚えているんですよ(健忘症でもない限り)。
 ドラマとしても、かなり重要なファクターじゃないですか。
 このドラマには、ウィスキー造り半ばで倒れた戦士がふたりいます。 この英一郎と、先ほど話に出たエマの恋人、一馬です。 このふたりを散々劇的に扱っておいて、なんつーか、アフターケアが万全じゃないんだな。 結構冷淡。

 そのこともあるのですが、この 「マッサン」 というドラマ、「日本で初めて本格的なウィスキーを造る」 という男の話であるはずなのに、ことウィスキーに関してはストーリー的にほとんどツッコミがなかった印象がある。

 つーのは言い過ぎですが(笑)。

 ウィスキーに関してかなりのツッコミがされている、と感じたのは、マッサンが最初にウィスキー作りに邁進し始めた大阪の住吉酒造でのプレゼン。 ここでウィスキーを 「煙臭い、薬みたい」 という出資者たちを納得させるために、マッサンもエリーも奮闘するのですが、ここらへんのやり取りはかなり面白くて、「いや~、『プロジェクトX』 も真っ青」 と感じました。
 しかしウィスキーに関してよく出来ている、と感じたのはここまで。

 そのあとマッサンは、ウィスキーに馴染みのない日本人の舌と格闘していくことになるのですが、ドラマ的にはここ、かなり重要な柱だ、と私は思うんですね。
 ドラマでは、マッサンの広島での家族はもとより、「こひのぼり」 の人々、北海道でマッサンが試飲させた客のほぼ全員が、ウィスキーを受け入れないんですよ。
 ここまで 「ウィスキーそのものが日本人に合わない」 ということを強調しておいて、「どうしてウィスキーが日本人に受け入れられるようになったのか」 を、このドラマはまったくと言っていいほど無視している。 「最初イミテーションみたいな 『飲みやすい』 ウィスキーで地ならししておいたから、いつの間にかみんなが飲むようになったんじゃろう」 みたいな論調だった。

 でもそれって、もっと立体的に理由を見せる責任が、ドラマとしてあるんじゃないか。 私にはそう思えるのです。 「こひのぼり」 や出資者たち、北海道の人たちが 「これ、呑みやすいじゃん、ウィスキーっていいじゃん」 みたいな場面を作るとか。 結局三級酒 「余市の唄」 が完成したときに問屋の連中や洋酒オーソリティのオール巨人サンに受け入れられたのがドラマとして最初だったけれど、それってもうウィスキー自体が日本人に十分浸透したあとだったし。
 戦争中に海軍がマッサンとこのウィスキーを御用達にした、という過程も、おそらくウィスキーを日本人の舌に浸透させた大きな要因であったように感じるのですが、ドラマとしては海軍の軍人さんたちに 「味なんかどーでもいーんだ」 なんて語らせるのであれば、「君たちのウィスキーは意外と兵士たちに評判だ」 くらいのことを語らせちゃってもよかったんじゃないか。

 いずれにしてもそのような場面がないために、どうして日本人の嗜好に合わないのに、マッサンは 「会社としての」 採算を度外視して自分の舌にしか合わない独りよがりのウィスキーを作り続けるのだろう、という疑問が見ていて離れないんですよ。
 最初それは、鴨居の大将によって 「猪突猛進」 という理由で説明できた。 マッサンはひとつのことにこだわるあまり、まわりがまったく見えなくなる、という 「職人」 としての気質を持っているがゆえなのだ、と。
 しかしそれが、自分の会社を持つようになってからも続くようだと、「マッサンは自分の人生から、自分の犯した失敗から何を学んどるんじゃ」 という感じになってくる。
 結局マッサンが自分の心を本当に入れ替えたのは、シベリアから帰ってきたマッサンの甥である悟が 「ウィスキーにホンモノとかニセモノなんかあるわけはない、自分がシベリアという地獄から生還してきて初めて呑んだ三級のウィスキーが、自分にとってどれほどの慰めになったか」 とマッサンに食ってかかったことが直接の原因になっている。
 ちょっと遅すぎじゃないの?みたいな(笑)。

 このマッサンの甥の悟、このドラマにおいてウィスキー造りを担っていく戦士のもうひとりとなるのですが、そのあとの動静がこれまた希薄でして(笑)。 まあ役者さんが童顔でいらっしゃるから、年取ったらあまり前に出せないという事情もあったんでしょうが(ないか)、最後の2週くらい、ほとんど出番がございませんでしたね。 この悟はマッサンの養子になったようなのですが、この悟の家族よりもエマとマイクのほうがよほど出ずっぱりだった。

 このように、登場人物がいきなり出ずっぱりになったり、急にまったく出なくなったり、というのは気になるところではありましたが、そうした近視眼的な部分はさておいて、そこで作り手が何を訴えたいのか、ということには注目していきたい、と思うのです。

 最後の2週でエマとマイクの恋愛がクローズアップされたのは、ひとつにはエマの中にある恋愛に対する傷跡を表現するためだったと感じるのですが(それについてセリフの説明がなかったことは置いといて)、「結婚」 に踏み切れないのは、異世界に対して挑戦していこう、冒険しようという気持ちをエマが恐れているからだ、ということを作り手は導きたがったのではないか、と。

 エマの自由恋愛的な発想は、昭和30年半ばでは結構早いように感じるのですが、ドラマではエマの先進的な思想が、かなり早い段階から育まれていたことをきちんと描写していた。 自分の考えをきちんと話す子であったし、戦争は悪い、ということを表明できない世の動静を憎んでいたフシもある。
 自分がマイクと結婚しない、というのも、「お母さんたちも結婚式しなかったでしょう?」 という表向きの理由以外に、「結婚という契約に縛られる自分」 というものを拒絶するのは、自由意思の発露である、という意識があったからだと思われる。
 でもそれは、自分の中にある恐れをごまかすための言い訳なのだ、と。

 エリーがこのドラマの中で度々口にしていた 「人生は、アドベンチャー」 というテーマが、ここでエマの人生に大きく関わってくることで、このドラマのテーマは、より深遠化している。
 会社を辞めてフリーランスになることで、エマを養っていけなくなるのではないか、という不安で、マイクはエマとの結婚をためらっていた。 そんなマイクに、エリーは 「挑戦、冒険」 という言葉で背中を押してあげるのです。

 私だって、明日のコメに困るような生活を強いられた時もある。 でもそれがなんだっていうの。 これも冒険のひとつだ、と考えれば、苦しみさえも楽しみのひとつに変わるのだ。 人生は、いろんなことを経験するからこそ、面白いのだ。
 夫婦生活に安定なんて求めちゃダメ。 不安がなにもなくて結婚する人なんか、いないのよ。 新しい世界への恐れに、小賢しい言い訳なんて考えちゃダメ。

 これは、なにも結婚生活に限らず、広い世界に漕ぎだすことの不安に勝てない人々に向けての、メッセージなのである、と感じます。

 そして、この物語がウィスキー造りに対して、ちょっとばかりツッコミが足らなかった部分の種明かしも、最後にしてくれたような気がします。
 いわく、「エリーはウィスキーの味なんか、最初から最後まで、よく分からなかった」(笑)。

 エリーは最初の住吉酒造でのプレゼンでこそ、マッサンに協力して 「本格的スコッチウイスキーのスモーキーフレーバーに合う料理」 を振る舞ったりしたのですが、その後はマッサンが苦しみながら造り出すいろんなウィスキーを試飲しては、特におもだった感想を言うこともない。
 その代わり、エリーは 「ダイジョウブ、ダイジョウブ」 とマッサンに言い続けます。

 ドラマを見ている人は 「またエリーの 『大丈夫』、バカのひとつ覚えが始まった」 と感じたのかもしれないけれど、「大丈夫」 と心に言い聞かせ続けることの重要性を、そうした人たちは本当の意味で理解できないのだ、と思う。
 エリーがどうして 「ダイジョウブ」 を連発したのか、というと、それはエリーにとっても自分を励ます言葉だったんですね。
 エリーにしたってウィスキーの味が分かるわけじゃない。 なのに、マッサンの苦しみを理解しなければならない。 そんなとき、「どうしよう、大丈夫じゃない」 と考えてしまったのでは、マッサンも自分も、パニックに陥るだけである。

 だからこその 「ダイジョウブ」 なのである。

 エリーが病に倒れてからの描写も、このドラマはかなり主観的に進行していきます。

 ドラマを見ている側からいうと、エリーがま~た倒れた、マッサンはなにをしとるんじゃ、なんで天海医師は家族を呼びつけ話をせんのじゃ、悟親子はどこにいっとるんじゃ、病名はなんなんじゃ、などといろいろかしましく詮議したがるところなのですが、このドラマの登場人物たちは、そういう外野からの 「常識的なツッコミ」 とは無関係に、「人が死ぬのは、自然の生業なのである」 という流れに沿って動いていくのです。

 こうした、「世俗的な常識」 から乖離した展開はしかし、「それもひとつの人生なのではないか」、という気を私に起こさせます。
 どうして病気を治そうとしないのかとか、告知の仕方がおかしいとか、それらはすべて現代的な常識の上に立っている価値観なのかもしれない。

 「人生が冒険なのだとすれば、死ぬこともまた、冒険」。 病床のエリーは、マッサンにこうつぶやきました。
 死ぬことさえもワクワクのひとつになってしまうと、「病気を治すのは常識、家族がきちんと病状を知ることは当たり前」 ということが、吹っ飛んでしまう。
 「生も歓喜であれば、死もまた歓喜なのである」。

 そしてエリーに死に別れたマッサンが、また再び歩き出すきっかけを作ったのも、またエリーでした。
 「マッサンの夢は、ウィスキー。 エリーの夢は、マッサン」。 エリーは自分の死後に託した手紙に、こう綴ります。
 「夫に人生を捧げることが夢なのかよ」、という気もしなくはないのですが、「それのどこがいけないのか?」 と問われたとき、「自分の夢だけを第一義に考える」 という現代の風潮自体が間違っているような気もしてくる。 「その人にとってのいちばん、その人にとっての 『大好き』 を、他人が決めることはできない」。

 ストーリー的にはいろいろツッコミもしたくなるドラマでしたが、最終週は私、ほとんど泣きながら見てました。 いいドラマでしたよ。

 最後に蛇足のようですが、北海道編でマッサンの大きな力となる森野熊虎さん。 彼は会津藩の生き残りであり、会津に対して愛憎入り混じった感情を有していた。 そして彼の義理の弟である進サンも、会津に対する偏見の中でリンゴ作りを戦っていた。
 皮肉なことに、なんだか一昨年の大河ドラマ 「八重の桜」 よりもよほど、明治以降の会津人たちをきちんと描写していたような気がします。

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コメント

私はエマの初恋を2週間引っ張ったのが蛇足に思いました。前半はエリーの掘り下げに絡めていくのでむしろ上手かったのですが後半はもうマッサンと一馬の技術継承を通じての疑似親子(正確には「一馬と二人の父」でしょうか)を軸に据えるべきなのに、この週はマッサンが一番、影が薄かった…。
栄一郎、一馬、悟のラインは結構、重要で栄一郎の残した原酒を前に三人だけで語る場面、一馬の大麦で造った原酒を前に三人で語る場面がリンクしてマッサンの夢に若者達の託してくれた想いがブレンドされていく事は示されていると思うし「栄一郎の墓前云々」は外野の脳内補完でええんじゃないかと。
ただ少女時代のエマを前に出し過ぎた事(後、ピン子の退場を後半まで引っ張った事など)等の皺寄せで終盤が駆け足になってしまい悟が割を食ってしまったのが残念。最終回は近年の朝ドラの中でもトップの出来栄えなだけに惜しい。

>風間杜夫氏
1986年「白虎隊」では松平容保でした(笑。

お久しぶりです。
種明かしではないのでは?
エリーがウィスキーに合う料理を作ったということは、ウィスキーの味がわかっているとしか思えないのです。

ウィスキー造りを描かなかった。だからウィスキー造りのことをよく調べることもしなかった。
主役のマッサンは、たぶんウィスキー造りが95%くらいの人物だと思う。それでウィスキー造りを描かないとすると、かなり希薄な人物になってしまう。その人の夢が私の夢という人物も、当然影が薄い人物になってしまう。
ものすごく難しい条件でドラマを作ったのですね。
でも視聴率が高いから成功なのでしょう。

巨炎様
長いブランクだったのに、何事もなかったかのようにコメント下さり、痛み入ります。

「要らん話が多過ぎる」 というのはとても感じてましたね。 その理由を考えた末に辿り着いたのが、冒頭の 「セットの制約」 です。 昔の話だから、容易にロケハンとかでいい場所が見つかるわけでもない。 となると、限られた場面で150回くらいの話を続けるためには、主人公周囲の下世話な恋愛話とか、親が死ぬとかの話を導入せざるを得なくなってしまうのだろう、と。

しかし 「カーネ」 も同じ条件だったはずなのに、そういう縛りをほとんど感じなかったけど(比べちゃダメか…笑)。

「カーネ」 は小道具がよかったのかもしれませんね。

しかし 「カーネ」 でも 「マッサン」 でも、おおいに気になったのはドラマに出てくる 「文字」 のフォント。 いかにもパソコンから安易に見つけてきたみたいで、すごく違和感がある。 「カーネ」 の場合はオハラ洋装店のある商店街の奥にある店の看板(床屋だったかなァ?)、昭和3、40年代のクセに現代のようだったスポーツ紙の紙面。 「マッサン」 では 「太陽ワイン」 のハッピのロゴとか、「リンゴ汁」 のフォント。 パソコンに頼ってないで手書きでやれよ、と言いたくなる。 ほかの小道具が念入りなだけに、すごくその手抜き感が目立つ。

「墓参り」 に関しては、やはり脳内補完ではイカン、と僭越ながら思います。 墓参りだけでなく、退職金をポンと出して企業同士の切磋琢磨を狙った大将との、その後の邂逅がないのもよくない、と思う。 これはやはり、「お話」 としてのひとつの礼儀である、と思うんですよ。 「あいつら他人の恩も分からんと、自分勝手にやってるよな」 という感想が導き出されてしまう。

巨炎様とは久しぶりだったので、長々と書いてしまいました。

うぴぱぴ様
誰かと思って検索したら、P様でしたか。 お久しぶりです。 コメント下さり、ありがとうございます。 ブログ主がナマケモノなのにチェックしていただき、恐れ入ります。

うーん、どうでしょう? エリーはもともとスコットランド人だから、それまでの経験則でウィスキーに合う料理を理解していた、とも考えられないでしょうか? 親たちがウィスキーを飲むときによく食べていた料理、ということで。

不可解だったのは、このドラマではウィスキーをほぼ全員がストレートで飲んでばかりいたこと。 スコットランドではどうだったのか分かりませんが、アルコール度数的にもかなりキツイ酒でしょう(笑)。 ドラマのなかではハイボールの元祖を鴨居商店が編み出したみたいな描写もありましたが、マッサンはそれを拒絶していたとはいえ、「氷入り」「水割り」 という妥協くらいはできたのではないか。

ストレートでウィスキーなんて、私もようできませんよ(笑)。

また、やってしまいました。
お手数をおかけして申し訳ありません。
反省して、今度からPではなく“ぼいぼい”のほうで、わすれなければ行きたいと思います。

いくつか前のときから朝ドラ不信に陥っています。
私から見ると不振続きなのですが、世間的に好評みたいで。そうすると私の見方のほうがおかしいのかと。
その割り切れない疑問に答えがないものかと、こちらにお邪魔させていただいている次第です。

マッサンは自分のウィスキーの味が受け入れられないことにずっと悩んでいたわけなので、妻がその味をわかって夫をサポートしているのか、わかるフリをしてサポートしているのかというのは話の筋道としてかなり大事なことであり描きどころなのではと思います。私は、むしろ分からないことを伝えていたほうが、早く受け入れられるウィスキーに辿りつけたのではないかと思います。それをどうでもいいように描いてしてしまうから、ウィスキーの物語としても夫婦の物語としても中途半端になってしまうのではないでしょうか。

まあ、終わったドラマなので、いつまで言っていてもしかたありませんね。

セットの制約と恋愛話の関係については、次の機会にコメントできたらと思います。

ぼいぼい様
訂正コメント、ありがとうございます。 そんなに気になさらないでください。 ハンドルネームの間違いなんか、よくあることです。

IPアドレスとかいうのが変わらない限り、ブログのアクセス分析ツールというものでこちらで探索は出来ますので、もしハンドルネームを間違えても大丈夫です(笑)。 まあ、ほかのスマホとかPCでアクセスされると分からないですが。

ところで私も、「あまちゃん」 以降の朝ドラは大した作品がない、と感じております。
それでも視聴率が 「あまちゃん」 よりいいではないか、というのは、これは単に 「勢い」 の問題なのでしょう。 内容が良くなければ、視聴率も近い将来それなりにリンクしていく、と思うのです。 いまは 「ゲゲゲ」「カーネ」「あまちゃん」 といった傑作で視聴者層が厚くなりましたが、人気が出るのはピークを過ぎたあと、というのはドラマだけでなくてもよくある話ですよね。

それと重要に思えるのは、特に総合の最初の放送が 「あさイチ」 と連動しているところ。 有働アナとイノッチの生の感想が入り、時には有働アナが号泣モード、というのが大きい気がします(柳澤サンのミもフタもないコメントも…笑)。

ウィスキーの味についてのぼいぼいサンの意見はなるほど、です。 まあ、エリーが 「ワタシウィスキーの味ワカラナイノ」 なんて最初から言ってしまったら、マッサンのモチベーションもかなり低下することはあると思いますが(「わしゃなんのために世界一のウィスキー目指しとるんじゃ?」 な~んて…笑)。

リウ様
こんばんは。

ご無沙汰しております。

実は、「カーネーション」の小道具や衣装って、結構、「マッサン」にも登場しているのですよ。
妹・すみれの早見あかりちゃんが来ていた着物が、糸子が娘時代によく着てた黄色地に携帯電話文様?の柄のやつだったということに始まり、酒井若菜さん(散髪屋の女将さん)が授業参観のとき、これも糸ちゃんが初めて来た洋服、根岸先生と一緒に心斎橋まででかけたときに来ていたワンピースを着ていた。そして、戦時中は、御禁制の金糸を隠した生地で糸子がこさえたエプロン(確か、ハルおばあちゃんがしていました)を、エリーが着用していたとか。これは、金色の髪、青い瞳ゆえに迫害を受けていた当時のエリーの身を思うと、中々意味深なものがありました。
それと、これは未確認ですけど、チビ糸ちゃんが洋裁にハマるきっかけを作った、あの「ドレムの人形」がマッサン邸に置いてあったという目撃例も、ツイッターではチラホラ出ていました。

まあ、偶々と言われればそれまでですし、NHK大阪らしい「始末」?の精神の表れなのかもしれません。しかし、その構成の緻密さ、物語の深さなどでは無論及びもしないのですが、「マッサン」というドラマ、どこかで「カーネーション」を意識していたのではないかなあと思う次第です。
それは、ラスト2話を観ると、特にそう感じました。また、濱田マリさんが演じる役どころ、その立ち位置にも、通じるところがあるのかな、と。まあ、エリーは絶縁されるようなことはやらかしませんでしたがね(笑)

確かに、色々突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めるドラマでした。近頃の朝ドラ視聴者からは一番指摘を受ける「立ち聞き」も、堂々としていましたし。
けど、そうした脇の甘さやアンバランスさを遥かに凌駕する熱量に引っ張られて半年間、楽しみに観させていただいた、という感じです。まるで「マッサン」のキャラそのまんまのようなのですが(笑)

少なくとも私にとっては、大変愛おしい「朝ドラ」であったことは確かでした。「ロス」という点では、「カーネ」や「あま」より、麦ロス、いやあえてエリーロスの方が大きかったもしれません。


「カーネーション」からの試行錯誤もあるのではないかと。「カーネ」も後半に入り理解力が追いつかなくなった人がネット上で結構、批判しています(制作側が意図的にそういう風に作っているのですが)が、それが顕在化はしてません。何故なら元々、朝ドラを深く観ない層には主人公が殴られたり戦争等の「重い」描写がない戦後編の方がとっつき易く視聴率が高かったため。

これが反映される形で続く高視聴率だったのが「梅ちゃん先生」なわけで、「ごちそうさん」は大阪NHKが「あま」からの揺り戻し、「カーネ」⇒「梅」の再現を狙って事実、それは当たった。

「マッサン」は劇中で試行錯誤されているように、そこからさらに玄人志向の視聴者と大衆視聴者の擦り合わせを意図していたように思います。インターネットがライフサイクルの中心にある視聴者は皆がそうだと思いがちですが必ずしもそうではない。プロジェクトX的な骨太なドラマを誰もが喜ぶかといえば違う。
夢ばかり見ているボンボン、駄目男ぶりをマッサンが露呈した失業編(ただ、ここを3週に纏めれば早苗の退場は年内でキリが良かったのですが)を視聴率最低値として後に行くほど上昇したのですから成功作の部類ですよね。

Zai-Chen様
コメント下さり、ありがとうございます。 こんな、たまーにしかアップしないブログをチェックしていただいて、まことに恐悦至極です。

みなさんよく観察してますね(笑)。 私も 「はて、この小道具、どこかで見たような?」 と思うようなことはありましたが、まさかそこまで 「始末」 が行き届いているとは。

シャーロットはどうも、仕事のないアメリカより日本で働くことを選んだようですね。 ブロードウェイの役を射止めて?エリーのイメージとはかけ離れた小悪魔的なショット、というのもネットで見た気がするのですが、日本で仕事をするとなれば、もう少し日本語を勉強した方がいいかもしれません。

というのも、私は耳が悪いので字幕付きでドラマを見ることが常なのですが、なんかエリーのセリフ、「字幕ではこう書いてあったけどホントにしゃべってたかなァ?」 と思うことがしばしばあったので。

シャーロットの演技については、最初はとても目を見張るものがあって、「さすがアメリカ、末端の役者でもここまで技量がある」 とかなんとかブログにも書いたような気がしますが、だんだんとフツーの演技になってきたよーな?(笑)。 もしかするとプロットのいい加減さに 「このホンならこの程度の演技」 とか考え始めたのかな?なんていぶかしく思ったことが、正直言ってありました。

でも最終週にエリーが亡くなってから直後の 「朝イチ」に出てきたシャーロットは号泣してましたよね。 自分の死ぬ演技なのに(笑)。 「ああ、自分の思ってたような手抜きはシャーロットにはなかったんだ」 と胸をなでおろすような気がいたしました(通訳の人も泣いてた…笑)。 私も最終週は泣きどおしだったなァ。 本文にも書きましたけど。

アメリカには 「映画に出るクラス」「ブロードウェイに出るクラス」「テレビに出るクラス」 と役者に厳然たる順位があるらしいですが、シャーロットほどの役者なら、じゅうぶん 「テレビクラス」 で通用すると思いますね。 「24」 は無理かもしれないけれど、「LOST」 とか 「ダメージ」 とか(笑)。

巨炎様
コメント下さり、ありがとうございます。

なにをもって 「成功」 とするのかは議論が分かれるところですが、確かに視聴率の面では成功した、と言えるでしょうね。

私はこのドラマをある意味で引っ張っていたのは、やはり中島みゆきサンのテーマ曲だったように思います。 前半では1番、後半では2番、という棲み分けも功を奏していた。 麦畑というのはドラマの性質上どうしても本編で必要なロケではないか(特に一馬の手に入れた特殊な麦が育つ描写とか)、と私は思うのですが、これを毎回オープニングで流すことでロケの省力化に貢献した(笑)。

朝ドラの視聴者層を考えた場合、やはりプロジェクトXよりもホームドラマの比重を高めないと、という強迫観念はあるのかもしれません。

リウ様

こんにちは。
脚本家の力量不足のため、往々にして終盤がグダグダになる朝ドラにおいてマッサンはそのような印象を受けませんでした。
むしろ中盤に引っ張りすぎたせいか時間が足りないと思わされました。

皆さんが言われているように、このドラマは突っ込みどころ満載にも関わらず秀作と評されているのは、終盤でも失速しなかった制作陣の気合いと力量を感じられたからではないでしょうか?

ただ、プロジェクトX的な部分に期待していた私としては、最終週に泣けなかったのが残念です・・

リウ様、お早う御座います。
御無沙汰でした。

「マッサン」終了し「古き良き時代症候群」を患いました。
「まれ」は、未視聴で冷却です。理由は……、

①平成物は世界観がミニマムに過ぎて、時代背景の
 重厚感に欠ける。

②其れに併行して、波乱万丈系の展開に乏しい。

③父親等々、男性キャラの「愚か者」描写が目立つ。
 ヒロインの「ハードル」的役割を果たして欲しい。

「花アン」の嘉納 伝助氏も、マイルド描写されてますが、
実際には威厳と裏腹の、暴力的な側面も有った筈。
其処に踏み込めなかったのは、昨今の朝ドラ演出の限界
でしょうか。
「愚者」で無い、男性キャラ陣の強化に期待です。
以下の拙文、リウ様の見識をお待ちします。

平成系朝ドラ・リクエスト>
※危険な薫りのする社会インフラ建設で崩壊する
 地域の人間関係。勃興、落魄の対比。
ハードならば○○廃棄物処理場、レーダー。
ソフトならばダルク、累犯者更生施設等々。
建前容認、本音忌避の施設を巡る人間ドラマ。

※ヒロインの試練
友人、兄弟姉妹との細やかな擦れ違いが、
後々に不可逆の悲劇を生む。

※世俗の欲望に一線を引く智者・賢者キャラ
おそらくは、俗欲者揃いのレギュラー陣に対して、
アンチのポジションに立つ「市井の隠者」キャラ。
平成の鴨 長明、吉田 兼好役。一服の清涼剤。

尼僧、民芸職人等々。
過去の「風のハルカ」猿丸氏が近いか?

※マイノリティー属性の主人公
同性愛者、手話・車椅子を使用 etc。

※最終兵器
若年者VS年長者の対立構造をドラマに組み込んだ際、
衆に驕る年長者キャラ及び視聴者層に対して、
敢えて媚を売らず、喧嘩を売るネタを投下する。
曰く「貴方たち、其れで良いのですか?」と。

ノブ様
コメント下さり、ありがとうございます。 なんかみなさん、休止状態の当ブログに再集結してくださり、誠にありがたく思っております。

泣けませんでしたか~。 私はどちらかというと、いろいろ展開に不満もあったけれども、最終週ですべてチャラ、という感じでしたね。

特にノブ様のおっしゃるプロジェクトX的、ビジネス面でのツッコミが希薄だったのはやはり私も不満でした。

マッサンが出資者を騙してウィスキー造りを陰で続けたくだりであるとか、採算が取れるかどうか未知数のウィスキーに全作業を集中して、リンゴ汁の生産を中止するくだりであるとか、もっと納得のいく話が見たかったものです。 その点では 「グダグダじゃん」 という感じがします(笑)。

でも、見事にマッサンとエリーの純愛物語、で締めましたから、その点では満足してます。

M NOM様
お久しぶりです。 コメント下さり、ありがとうございます。

私も 「ちりとて」「あまちゃん」 以外の朝ドラ現代ものって、あまりきちんと見たことないなァ。 「てっぱん」 はいいところまで行ったんですが最後までたどり着けなかったし。

確かにダメオヤジ、ダメ男って朝ドラの 「てっぱん」 設定ですよね(笑)。 このところ時代ものが続いたので、「まれ」 はなんとなく私も敷居が高くて、まだ1回も見てません(録画はしてございますが)。

暴力を公然とやったのは 「カーネ」 の善作ぐらいなもので、それでも直截的表現は避けられてましたね。 朝ドラ中心視聴者層である主婦のみなさんの溜飲を下げるための設定だと感じます。 あまりに完璧な父親、旦那なんかが出てきたら、それこそ朝ドラヒロインの好感度に影響してくるような(笑)。

M NOM様の提案とはちょっと違うと思うのですが、「純と愛」 というのはそうしたアンチテーゼを狙った朝ドラだった気がします。 ただ遊川氏の脚本というのは設定が奇抜すぎて、そこが受け入れられないとドン引きの世界ですから(笑)。

いわく、「主人公に感情移入できない」 とか、「どうしてハッピーな解決をしないのか」 とか、最近は視聴者が必要以上にドラマを癒しの道具にしたがりすぎるきらいがあるように感じます。

「感情移入できない」 というのは、登場人物が自分と考え方、常識の範囲が違うからで、自分と同じところを見つけて癒されたがる反動のひとつでしょう。

「どうしてハッピーエンドにしないんだ」 というのは、そうでもしないとここまで見てきた 「自分」 の苦労が報われないから。 「現実は厳しいんだ」 なんて、ドラマを見てもう一度かみしめたくない、自分かわいさの発露でもある。

そんな人たちは、「純と愛」 みたいな容赦ない現実的なドラマなど、見たくないんですよ。 だからそんな人たちは、原発の現実など見ようとも思わないし(カンケーないから)、犯罪を犯したものが罰を受けるのは見たがるけれど、更生するところなんか見たいとも思わない。 自分にゃ優しく、他人には嗜虐的ですからね。 「それでいいんですか?」 なんて、朝ドラ風情から問われたくないんですよ。

「カーネ」「あまちゃん」 のようなの、もう一度見たいものですね(期待はしてないです…笑)。

毎日見るように放送しているのだから、毎日見られるような内容という制約は送る側にも見る側にもある。
毎朝、出勤前にややこしいことを言われても。
決してそういうドラマを望まないのではなく、そういう条件ではということなのだと思います。

私も録画派だったら、もう少し番組にやさしい言い方ができたかも。
カーネーション、毎日見てませんでしたか?

ぼいぼい様
コメント下さり、ありがとうございます。

「カーネ」 は全話、当然のごとく見ておりましたが、このところの朝ドラというのは、「全話見せよう」 という気概があったような気がいたします。

というのも、本日 「まれ」 をようやく見たのですが、「これって飛び飛びで見ても結構大丈夫だよね?」 みたいに思えたので。

でも私が記憶している限り、朝ドラって基本、こういうパターンが多かった気がします。 特に現代ものは。 「あまちゃん」 が現代ものにしては特殊過ぎただけで。

朝の片手間、別に真剣に見てなくてもいいドラマ、というのも、逆に朝ドラを作るうとする側の 「縛り」 になっているのかもしれません。

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    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ記事より抜粋)。 この上巻ではビートルズの祖先から遡ってリバプールで人気に火が付き始めたところまでが書いてあります。

  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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