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2015年5月

2015年5月24日 (日)

「まれ」 第2-8週 トリッキーな展開にひそむもの

 NHK朝ドラ 「まれ」 は、第1週を見た限りでは堅実な作りかな、と思われたのですが、第2週以降はかなりトリッキーな展開が続いている気がします。
 まあ、振り返れば、第1週の物語開始時から主人公一家が 「能登に夜逃げしてきた」 ということからして、少々人を食ったような始まりでした。 「夜逃げ」 ってねアータ、みたいな(笑)。
 で、父親が夢追い人でその夢のために家族が不幸になってきたもんだから、娘のまれは夢が大嫌い、堅実な人生を望んでいた。
 しかし父親の血か、地方公務員になり堅実な人生の軌道に乗ったかと思われたまれはフランスでパティシエとして活躍していた祖母の姿を見て、自分も世界一のパティシエになろう、と一大決心し、能登を離れて横浜でパティシエの見習いになるのです。

 この物語を展開するうえでいちばん難しいのは、いかにしてまれを 「堅実第一」 の檻から解き放つかだった、と思うのですが、そのきっかけとなった母方の祖母ロベール幸枝(草笛光子サン)を限りなく常識外れにすることによって、作り手はまれを半ば強引に 「堅実の世界」 からはじき出した。
 ここで重要に思えるのは、堅実な人生に対して根本的に我慢が出来ない父親の 「血」 と、お菓子作りに人生を賭けた祖母の 「血」 を、まれを突き動かすモチベーション(動機)としている部分です。

 興味深いのは、まれの将来的なパートナーになるであろう(だって字幕の色が違うんだもん…笑)クラスメイトの圭太もまた、祖父弥太郎(中村敦夫サン)の 「血」 によって漆職人の世界に足を踏み入れている、ということ。 ここには圭太の父(板尾創路サン)の、「漆が体質的に合わなくて挫折した」 というもうひとつの 「思い」 が入り混じっていることには注目したい。 おそらく圭太の父親も、漆がかぶれるなんてことがなければ、弥太郎の元で漆職人として働いていたはずだろうから。 その道を断念して地方公務員になった、ということによって、息子の圭太にはある種の複雑な思いが 「血」 として注入されている。 まれの夢にも圭太の夢にも、三代にわたる 「念」 が込められている、と私は考えています。

 ところがこのドラマ、そうした用意周到な設定をあまり重要視していない。 冒頭に申し上げたように、ドラマ自体が 「堅実な作り」 から逸脱して、トリッキーな展開を欲し、かなりごちゃごちゃとした混沌状態に身を置きたがる。

 その端緒が能登でお世話になる桶作文(田中裕子サン)の 「文ちゃんクイズ」 だったんですが(笑)、内容は忘れたけど(笑)ドラマの中でいきなり田中裕子サンが 「文ちゃんクイズー!」 とかいって桶作家がいきなりアメリカ縦断ウルトラクイズの会場みたいになるんですよ(笑)。
 「15分のドラマの中で1回はなるほどな人生訓が語られる」 それまでの堅実な作りがここで一気に瓦解(笑)。 「なんだよコレ」 と画面に向かって突っ込んだんですが、こういうのってなんか以前、自分は途中挫折しましたけど、多部チャンの 「つばさ」 でよく見た気がする(笑)。
 かようなトリッキーな展開は、まれが能登を離れてたどり着いた 「横浜編」 で、さらに加速しています。

 「主人公が家族のもとを離れ、ひとりで生きていく」 とき、あらたな舞台にはなんか、突飛なシチュエーションが必須なんでしょうかね(笑)。 まれがたどり着いた横浜の中華街の裏路地にあるデッドスポットみたいな場所にたむろする、なんか胡散臭そうな人たち(笑)。 「ちゅらさん」 で主人公えりぃが東京で過ごしたアパートも変人揃いだったけれど、「まれ」 ではその度がさらに強められている印象がします。

 いちばんの変人は、まれが働こうと決心した、ケーキ屋のチーフパティシエ(小日向文世サン)。 とにかくこの人、人格的に破綻している(笑)。

 スタッフから 「シェフ」 と呼ばれているこの男、ものすごいケーキ作りの巨匠なのに、なにしろ自分の気に食わないことがあるとすーぐに店を閉めちゃう。
 その 「気に食わないこと」 には、特に一貫性はなし(笑)。 「どうすると小日向サンが我慢できなくなるのか」 なんて真面目に考えるだけ損です(笑)。 ま、とりあえずプライドが傷つけられると店を閉めたがる、つーか(でも一貫性はない…笑)。

 そのほかにも、このシェフの妻であり占い師であるりょうサン、そのふたりの子供で 「高等遊民」 的生活をしている(笑)柳楽優弥クン、かなり強烈なキャラです。
 これらの登場人物たちは、物語をリアルから遠ざけ、真面目にドラマを見ようとする人々の気持ちを挫くようなところがある。
 でも私個人としては、そのアンリアルな設定が却って物語にメリハリをつけて面白くしているように感じます。 彼らは中途半端なアンリアルではないがゆえに、リアルに対して奇妙な味付けをしてくれる。 フツーでない状況のほうが、主人公まれの感情を引き出しやすい、という利点もあるような気がします。 ま、それってドラマの常套手段ではあるのですが。

 夢とか志とか、最近のNHKドラマ二大看板は人生の目的作りをヤケに視聴者に押しつける傾向がございますが(笑)、これを積極的に否定する理由はないとはいえ(笑)、「夢」 だー 「志」 だーとしつこく言われればウザく感じないこともない(どっちなんだ…)。

 結局夢も志も、なにが重要かと言って、「積極的に、自分の人生に自分が関わる」、ということなんじゃないかな、と感じます。
 特に今回の朝ドラヒロインは、何事にも物おじせずにぶつかっていくことの連続です。
 それははたから見れば傲慢のそしりも受けかねない危険な所業ではあるのですが、なにも言えないよりも言ったほうが人生が開けていく場合もある。
 それで失敗しても、それが糧になっていくのだ。
 失敗を恐れず、貪欲に失敗せよ。

 なにも言わないことで、物事がうまく収まることを私たちは経験上すっかり身につけていますが、それで鬱積していくものは確実にある。 そうしたモヤモヤを抱えている者にとっては、まれの一見傍若無人そうな生き方、というのは 「場をかき乱す者」 としてとてもウザく感じるのです。
 その、誤解を恐れずに言えば 「鬱屈している私たちの代表」 となっているのが、今回まれが働くパティスリーのなかでの 「イジワル役」、陶子(柊子サン)なのではないでしょうか。 彼女は常に、まれのやることにイライラしている。

 このドラマを読み解くうえで重要だな、と私が考えているのは、まれを強引に堅実な公務員の仕事から引き剥がしたロベール幸枝の言葉。 彼女は世界一のパティシエになるために幼い藍子(常盤貴子サン)を捨てて渡仏、その後のこともあって藍子から徹底的に嫌われていたのですが、いきなり能登に現れて、孫のまれの中に潜んでいるケーキ作りへの夢を敏感に察知し、勝手にまれの勤める市役所に、まれの辞表を出してしまう。 そのときのシーン(5月8日、35回)。

 藍子 「どういうつもり? 勝手なことしないでよ!」

 幸枝 「本人がやりたがってんのよ。 見てれば分かるでしょ? 気がつかなかったの?」

 藍子 「私の家族に手を出さないで。 自分の力でやっと手に入れた家族なのよ。 都合よく現れて、ひっかき回さないでよ!」

 幸枝 「家族だから鳥かごに閉じ込めておくつもり? だから徹(大泉洋サン、まれの父親)だってどんどんつまらない男になっていく」

 藍子 「どういう意味よ?」

 幸枝 「夢だけが取り柄の男だったのに、あなたの顔色を見て、まあコソコソしちゃって」

 藍子 「徹さんはね、何度も失敗してるの。 ダメな人なの」

 幸枝 「ダメにしたのはあなたでしょ?」

 藍子 「はあ?」

 幸枝 「この20年間、徹はよく言ってたわ。 『藍子はオレがどんなに失敗しても待っててくれる。 見守っててくれる』って。 そんなふうに逃げ道を用意して甘やかすからあんたダメなの。
 あなたはね、懐の広い女のふりをして、徹を飼い殺しにしてるだけ。
 徹の夢をいちばん信じてないのは、あなたじゃないの?」

 藍子 「あなたには家族は分からない。 家族なんて、要らないんだもんね。
 だったらどうして…愛せないなら、どうして産んだの?」

 身じろぎもしない幸枝。 立ち去る藍子。

 憔悴する幸枝に、その場のやり取りを聞いていた文、田中裕子サンが 「あなたがその都度なにも説明しないからみんな傷つくのではないか」 と助言するのですが、幸枝は 「なにを言ったって言い訳になるから」 と答えます。
 そのとき文は 「一日一回の名言」(笑)。 「言い訳がダメな時もあるわいね、人生には」。

 ここで私がうまいなあ、と思うのは、藍子に 「どうして私を産んだの?」 と詰問されてからの、草笛光子サンの無言の表情です。 そこには、それまでの自分の奔放な人生に対する後悔の念とか娘に対する申し訳なさ、孤独や悲哀が余すところなく表現されていた。 この演技は、セリフだけでは到底伝えることのできない境地だと思います。 名優ここにあり。

 トリッキーな展開の中で私が唯一印象に残っていたのがこの回でした。
 だからこのドラマのトリッキーさに、自分がついていけてる気がする(笑)。
 つまり、不完全な言葉によって私たちは互いに生きている、ということを思い出させてくれるからです。
 思いを伝える時、自分はこの言葉がいちばんいいと思って言うのだけれど、それはけっして完全な言葉ではない。 相手に思いがきちんと伝わってこそ、それは完全な言葉になる。
 そして自分の生き方が、いつも必ずしも最良の生き方ではない。 夢に向かって突き進むとき、それが最良だと思ってしまうかもしれないけれど、実はどこかで、少しずつ私たちは、間違えながら生きている。 でもそれが、人生なんだ、と。

 かなり抽象的な論議になってしまいましたが、そう思いながらこのドラマを見ていると、許せてくるものが結構あるんですね(笑)。 能登のゴスペル隊としょこたんの 「能登半島」 は見ていてイライラするけど(爆)。

 だから小日向サンも、「なにかを得るためには何かを捨てなきゃならない」 みたいにエラソーなこと言ってるけど(笑)、彼の生き方も必ずしも最良、ではないんですね(見てりゃ分かるが…笑)。
 不完全な者たちが、不完全な言葉によって互いの人生を生きていく、そのたどり着く先はどこなのか。 私は結構、このドラマを楽しんで見ています。

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2015年5月 5日 (火)

「ベルサイユのばら」 新作発表、アニメ再放送で盛り上がってる…

(初出時より若干加筆いたしました)

 アニメ 「ベルサイユのばら」(1979年作品) の再放送(NHKでは初めての放送だから、再放送とは言わんのかな)が、明日(5月6日)18時30分からNHKBSプレミアムで開始されるのですが、それに合わせたように 「10分でわかる 『ベルサイユのばら』」 とか、10年ほど前に放送されたアーカイヴスとか、昨日はNHKで番宣に近いようなことを結構やってました。

 アーカイヴスはその番組自体が去年(2014年)の11月に放送されたものらしくて、その時点で話題になっていた、40年ぶりの単行本最新刊11巻(小生まだ未読)のことが取り上げられ、ゲストでご出演だった原作者の池田理代子サンもそこで 「まだこの作品については描きたいものがある」 と話していました。
 その言葉どおり、つい1か月前くらいか、オスカルの出生についての続編がマーガレットに掲載されたようです(こちらも未確認)。 つまりまあ、これはもし単行本になるとすれば、12巻、ということになるでしょうか。

 「ベルサイユのばら」 の単行本は愛蔵本や完全版など、かなり種類があるのですが、私にとってはやはり、最初期のマーガレット・コミックス。 1975年頃、宝塚で上演された 「ベルばら」 ブームの際に、なぜか田舎に全巻置いてあったのを読んでハマったのが最初なのですが、「ベルばら」 と言えばもう10巻、というイメージなんですね。
 本編の最後が9巻で、たしか途中で終わって(物語はちゃんと終わってるが、単行本にするには枚数が少なくて)、なんか短編が付け足されて収録されていた(「白いエグモント」 だったっけな?)。
 そして10巻と言えば 「黒衣の伯爵夫人」。 これは今で言うところのスピンオフで、本編とは関係ない話でした(こっちに併録されていたのが 「白いエグモント」 だったかな?)。

 つまり 「ベルばら」 って、9巻未満なんですよね、本編が。 それもそのはず、本編の連載期間はたったの2年(厳密に言うと、2年に満たない)。
 あれほど世間にインパクトを与え、後世にまで影響力を及ぼしているマンガの連載が、たったの2年、というのは驚異的です。

 最近発表された新作については、前述の通り私、未読なのですが、アーカイヴスで出ていた11巻の表紙であるとか、そのイメージショットとかを見る限り、池田理代子サンが嘆いていたように、筆力の衰え、というものは個人的にやはり気になるんですね。

 そりゃ、最初の 「ベルばら」 を描いていたときは、池田サンは20代前半。 いまは還暦をお過ぎでしょうから、筆力の衰えというのは隠しきれないものがあります。
 ただ外伝みたいなものは結構コンスタントに出ていた気がするし、朝日新聞で 「ベルばらキッズ」 という、番外編ギャグマンガみたいなのをやってましたよね。 だから、そんなにブランクというものはないような気もするんですが、やはり3頭身位のマスコットみたいなオスカルたちを描くより、きちんと描くのは大変なようです。

 これは、オールドファンにとってはいろいろと複雑な心境になる問題を孕んでいます。
 アンドレ、こんな顔じゃないだろーとか、画面の構成力とかに物足りなさを感じるとか。
 物語に関しては、本流から外れた要素が強いので、新作が出ることにはやぶさかではありません。
 ただ読者というものは勝手なもので、どうしても 「あの頃と同じ絵」 を望んでしまうんですよね。

 池田理代子サン本人は、アーカイヴスでも語られていたように、まだまだ 「ベルばら」 について描きたい題材が残されているようです。 しかしネックは自分の体力だ、と。 誰か 「ベルばら」 の驚異的なファンで、なおかつ当時の池田理代子サンの画風をそのまま再現できる、という人がいらっしゃったら、連載当時のレベルで描き継ぐことが出来るんでしょうけど。 同人の奥行きが深くなっても、こういうシステムが出来上がらない、というのはもったいない気もするんですが。

 「ベルサイユのばら」 を最初に読んだ小学5年くらいのとき、はじめはかなり抵抗があったことを覚えています。 人生最初の少女マンガ体験でしたからね。
 なにしろ瞳は星がキンキラキンだし、花ショイしてるし(いまの少女マンガではあまり見かけない気がするけれど、よーするに意味もなくバックに花が満載、ということ)。

 けれども同時に、その画面がかなり自由なのには驚きました。
 少年マンガばかり読んでいた自分にとって、場面転換の枠線がない、またはモノローグが縦横無尽に挿入される、というのはカルチャーショックに似た感覚で。
 つまり、少女マンガというのは、少年マンガのリアルな時系列ルールを逸脱した、心象風景的な画面構成なんですよ。 1ページが1枚のキャンパスのように。

 多くの 「ベルばら」 フリークがそうであったように、私もオスカルには強く惹かれました。 女性であるにもかかわらず、男性として、軍人として生きることを強いられたそのかなしみ、葛藤が心をつかんだのです。 「男装の麗人」、というとマンガ的な源流では手塚治虫氏の 「リボンの騎士」 があるのですが、私テレビアニメにそんなに興味がなくてですね。
 現代の感覚で振り分けてしまうと、ジェンダーが云々、という話になってしまうのでしょうが、オスカルの場合持って生まれた意識的なものではなく、単に父親のジャルジェ将軍に 「そう育てられたから」 というものでしかない、牧歌的な理由によっています。
 しかし、フェルゼンへの一方的な思いやアンドレとの愛の成就に至って、この物語全体には 「倒錯的な愛」 の匂いが充満していく。
 これは少年マンガしか読んでこなかった自分にとって、とても刺激的な内容でした。 のちに読んだ 「トーマの心臓」 のような同性愛的な少女マンガより、ショックは大きかったなー。

 オスカルの存在に関してはもっと論じたいところですが、それは別の場に譲ることにして、小学校5、6年程度の少年にとって 「ベルばら」 でいちばん 「萌え」(笑)なのはロザリーでしたね(ハハハ…)。 春風ロザリー。 しかしこのキャラは、女性には不評なんだろうなー、と漠然と感じます(笑)。

 いまこの作品を思い返すに(手元に原作がないのがもどかしい…買おうかな)、「ベルサイユのばら」 という作品は1972年ごろの時代の空気も、確実に吸収している気はするんですね。
 つまり、「恋愛至上主義」。
 当時は60年代安保闘争の敗北が決着しつつある情勢で、結局残りつつあった思想が、「ラヴ&ピース」 だった気がします。 「結婚しようよ」(よしだたくろう)「神田川」(かぐや姫)「あなた」(小坂明子) に共通するものが、「政治を語るより愛に生きよう」 という時代の流れであったように思うのです。
 宝塚で上演された 「ベルばら」 の主題歌だった?「愛あればこそ」 に、ビートルズの 「愛こそはすべて」 のパクリみたいな部分がありましたよね、確か(笑)。 「愛…愛…愛」 とか。 あれはまさに、時代の 「恋愛中心」 的な流れと共に、「ベルサイユのばら」 という作品全体に貫かれている思想を見事に表現した歌だったように思うんですよ。

 今回 「アーカイヴス」 を見て、池田理代子サンが学園紛争に加わっていた、というのを知って、やはり池田サン自身にも、そうした政治→恋愛へのぶり返しがあったんだろうな、ということを感じました。
 物語はフランス革命が舞台ですから、弁証法的な価値観が支配しているんですが、主人公たちはすべからく、「愛」 の情熱の中に身を投じていく。 その過程が1972年当時の空気と重なるのです。 ちょうどジョン&ヨーコも、ラジカルな政治闘争にラヴ&ピースで立ち向かっていた時期です。

 もうひとつこの物語の特徴としては、「滅びの美学」 の世界を踏襲している、ということ。
 ちょうどこの連載が終わる1、2年後には、「あしたのジョー」 の矢吹丈も闘いきって燃え尽きていくのですが、星飛雄馬が燃え尽きたのはこの連載の1年前だったと思います。 このマンガが少年マンガの影響を受けているかどうかは分からないけれど、日本人の 「散りゆく桜」 を愛でる刹那的な志向に合致しているんですよ、オスカルの生き方もアンドレのそれも。
 これは2010年代の現代ではあまり受け入れられなくなってきている価値観のように感じますね。 なんか今日びのドラマに対する反応でも、主人公が死んじゃったりすると批判が起きたりする(あからさまに 「○○妻」 のことを言ってますが…笑)。
 でも1970年代当時は、まだ玉砕的なものに対する一種の憧れみたいなものが存在していた気がする。 「ベルばら」 は、そうした時代の空気も確実に捉えて、社会現象にまでなったと思うんですよ。

 それが満を持して、つーか連載終了から5年以上たって、ようやくアニメ化されたんですね。 1979年に。 いまの感覚で言うと、ずいぶん遅いような気もしますが、結構このマンガ、週1のアニメにするには、描くべき線が多過ぎるんですよ。 「キャンディ・キャンディ」 なんかに比べると、かなり描き込みしなければならない。 だから当時も、「よくアニメ化できたな」 と思いました。 オスカルだけだって、髪の毛描いてるだけで疲れんのに(さてはお主、描いたな…笑)。

 このアニメ、冒頭の、棘だらけの薔薇に蹂躙されたオスカルの絵柄からして、かなりの傑作でした。
 オスカルの声は田島令子サン。 最近では 「デート~恋とはどんなものかしら」 で煮られた蛇のペットの太郎と一緒に出てましたよね(もしかしてこの蛇の名前、アンドレの声をやってた志垣太郎サンとの関連で…いや考えすぎだ…笑)。
 ただ、私にとって田島サンと言えばやはりオスカルの声やってた人、であり、田島サンにはいつもリスペクトを感じてきました。
 まあ、このアニメも、振り返ってみると出崎統サン(演出)のカラーが濃いなー、つー感じで(笑)。
 「エースをねらえ!」、「あしたのジョー2」 と、もうなんか、みんなおんなじ作風ですよね(笑)。
 で、オープニングテーマとエンディングテーマが、これがまたよくて。
 「♪くーさーむらーにーなーもーしーれずー」(笑)。

 最後は雑談みたいになってしまいましたが、オープニングとエンディングだけでも見て懐かしみたい気分でいる、ハシモトなのであります。

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