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2015年6月

2015年6月14日 (日)

「ちゃんぽん食べたか」 青春、という 「もどかしさ」 について

 NHK土曜ドラマの 「ちゃんぽん食べたか」。 2013年にNHKBSプレミアムで放送された、さだまさしサンの小学校時代を描いた自伝的ドラマ 「かすていら」 の、青春編です。
 その前作 「かすていら」 の脚本は羽原大介サン。 単なる憶測ですが、羽原サンはこの 「かすていら」 の成功によって、朝ドラ 「マッサン」 の脚本家に抜擢された可能性が高い。 それほど 「かすていら」 というのはよく出来たドラマだったのですが、どうも予約録画がうまくいかないことが多く、当ブログではフォローいたしませんでした。 ただ、再放送などで見ることは見ました。

 今回その続編、ということで同じ羽原サンが脚本か、と思ったのですが、「結婚できない男」「梅ちゃん先生」 の尾崎将也サンに交代。 この人、阿部寛サンとの3部作を書いている頃は結構好きな脚本家だったのですが、朝ドラ 「梅ちゃん先生」 ではミソがついた、というか(笑)。 ただ去年の、ブラック企業の社長を題材とした 「ブラック・プレジデント」 はよく出来ておりました。

 で、その尾崎サンの 「ちゃんぽん食べたか」。 どうも 「マッサン」 と 「梅ちゃん先生」 の比較論がそのまま当てはまってしまうような出来のように感じます。 よく言えば牧歌的、ではあるのですが、なにか画面に緊張感がない、というか。

 しかしこれは、あくまで傑作 「かすていら」 との比較、という観点によるものです。 「かすていら」 はさだサンのご両親、そしておばあちゃんが主体で動いていくドラマであるために、ある意味さだサンの少年時代を描きながら、大人の厳しい世界の論理を的確に表現していた。 さだサンの 「転宅」 という歌をご存知なかたなら、ある種の懐かしさを感じつつ納得が出来る世界観でしたね。

 その 「転宅」 において、「初めて負けた親父」 がおばあちゃんに 「負けたままじゃないだろう」 と言われるのをそのまま転写したのが、「かすていら」 の第1話だった(副題が 「お引越し」。 「転宅」 はその、文語的表現ですね)。 そしてさだサンの親父(遠藤憲一サン)の就職放浪期が家族に色濃い影を落としていくことが、物語のメインでした。 そんな生活が厳しい中で、さだサンの母親(西田尚美サン)はさだ少年のバイオリンのお稽古ごとをやめさせない。 親族会議でそれを咎めるさだサンの親戚に、いまは亡き今井雅之サンがいたものです。
 そして戦争を大陸で過ごし引き揚げてきたおばあちゃんの、厳しくもたくましい物事の捉え方が、ドラマに大きな感動と太い安心感を与えていた。 このおばあちゃんを演じた佐々木すみ江サン、また私の中に印象的な演技がひとつ加わった感じでした。

 今回の 「ちゃんぽん食べたか」 では、そのご両親やおばあちゃんがドラマに果たしていた大きな役割が、ほぼごっそり抜けています。 つまり、さだ少年は生まれ故郷の長先を単身で出て、東京の下宿先でバイオリンのプロを目指すことになるからです。
 両親、特におかあさんの期待というプレッシャーからある意味解放されているさだ青年(菅田将暉クン)は、東京で拡散していく、自分の興味と格闘しなくてはならなくなる。
 ここで重要に思えるのは、そのおかあさんの期待、というものが実はそんなに厳格なものでないこと、そして 「かすていら」 の最後でさだ少年に才能を見い出した、東京の著名な音楽家だったか、その人のレッスンを 「レッスン代が払えない」 ためにランクの低い講師(岡田義徳サン)に鞍替えしていること、そしてそもそも、音楽系の高校に入れなかったこと。
 さだサンがバイオリンに対して集中できないような要素のすべてが、そこに潜んでいる気がするのです。

 もともと、ちゃんとバイオリンのレッスン代を払えない、ということは、親父さんの仕事の不安定さに起因している(笑)。 「かすていら」 では、売血に至ってしまう親父さんの人生でありましたが、それでもドラマは親父さんを責めるような描きかたはしていなかった。 でも 「ちゃんぽん食べたか」 では、なんでも大事なことは先送りしたがる、面倒なことを回避したがる、そしてあえて楽観視したがる、親父さんの悪癖が表面化している気がする。 ただエンケンサンの出番は極端に少ないので、そこらへんは最小限の表現になってはいますが。
 親父さんは職を結構変えているのだけれど、ドラマを見ていると、その移り気さ加減が息子のさだサンに影響を与えている部分も微妙に見えるのが、面白い。

 で、その、さだサンが人生の早い段階から味わっている蹉跌に挫けそうな自分を叱咤する役割で出てくるのが、前作 「かすていら」 でさだサンの少年時代を演じた大八木凱斗クン。 ドラマでは 「昔の自分に責められる今の自分」 という構図を使って、自らの中にある葛藤を表現していることになります。 これがまた、コミカルで 「梅ちゃん先生」 を彷彿とさせるやり取りなのですが、ドラマに独特な味を出している気がします。

 その、高校生のさだサンが向き合っているもの。
 それは自分の将来であり、自分の本当にやりたいことは何か、であり、そして恋愛である。
 それらはすべて茫洋としていて、今すぐにはつかめないもどかしさが、常に付きまとっている。
 そのモヤモヤを、さだサンはバスの停留所をゴロゴロ動かすことで解消したりするのですが(犯罪行為)(笑)、これって同じ尾崎将也サン脚本の 「白い春」 でもあったよなァ~、というか(笑)。 確か阿部寛サンが停留所を転がして、エンケンサンが直してた、みたいな?(もう忘れた…笑)。
 ともかく、尾崎脚本のこのドラマは、「かすていら」 に見られるような、親子の情愛、というドラマとしては構造力がもとから保証されているような題材を離れて漂流する、「青春のもどかしさ」 というものの表現に、ある程度成功している気がするのです。

 ドラマでは岡倉洋子(森川葵サン)という、ちょっと不良っぽくて言動がキツイ女の子が、さだサンの気になる異性、という形で出てきます。 彼女はほかの男の子から言い寄られることがイヤでさだサンを好き、などとデタラメを言ってしまうのですが、そのこともあってかさだサンはこの子に興味を抱いていく。 その、自分を曲げない凛としたところに惹かれているわけですが、ん~、この子の役を演じている森川葵チャンがですね、また微妙に、そんなにとびきりの美人とも言えない、というか(失礼)。
 だからさだサンがこの子に対して持っている興味、というものが、本当に恋愛感情であるのかどうか、ということもとても茫洋としている。
 結局第3話で、岡倉洋子は女優になるために高校をやめてしまうのですが、彼女はそのあいさつに、さだサンの下宿先にやってくる。 そして自分がどうしてこういうキツイ性格になったのかの種明かしをしてくれるのですが、いろんなものに目移りしているさだサンを見ているのが楽しかった、とも告白します。

 これって恋愛感情、というわけじゃないでしょうね。 でもどこかで、「もっと積極的に、もっと無神経に 『好き』 と言えたなら」、飛び越えられる壁だったのかもしれない。

 ドラマでは同時に、昭和40年代の高校生活で展開される、いまのデジタライズされて乾いた関係とは異質の 「友情」 が描かれたりする。 さだサンは友人の家で夕食をごちそうになったりするのですが、そうした他人同士との垣根の低さ、というものも同時に描写されている。
 第3話ではさだサンの相棒でのちにグレープを結成することになる、吉田政美サンとの出会いが描かれましたが、このふたりがロックのバンドコンテストがきっかけで出会う、ということは、グレープ時代からのさだファンとしてはちょっとした感慨を誘うものであります。

 つまりふたりとも、なんか最初はプログレッシヴロックを目指していたらしいんですよね。
 それがご承知の通り、グレープというのはモロ、叙情派フォークでしたからね。
 要するに、ふたりとも自分の違う意向で生きていたことになる。

 最近のさだサンの曲、「君は歌うことが出来る」 を聴いていて思ったんですけど、「さだサンがもともとやりたかったのは、こういうロック系の歌だったんだろうな」、と。

 その原点を垣間見ることもできるのが、私のようなグレープ時代からのファンにとっては、また興味深くもあるのです。

 ちなみに、「ちゃんぽん食べたか」 というのは、長崎弁で 「食べたい」 ということであって、「食べたか?」 という意味じゃない、というのは、まあ見ていて分かりますよね(笑)。
 さだサンも、ラジオ番組や 「生さだ」 でたまに、「ちゃんぽん食べたかぁ~~っ! 皿うどん食べたかぁ~~っ!」 と叫んでました(笑)。

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2015年6月 6日 (土)

「Dr.倫太郎」 多重人格なのは夢乃なのか脚本なのか(笑)

 堺雅人サンが来年の大河クランクイン前、という時間制限のもと 「半沢直樹」 の続編を蹴っぽって決めた、と推測される(笑)「Dr.倫太郎」。
 先が気になって結構毎週きちんと見てしまうのですが、当初 「花子とアン」「ドクターX」 の作者である中園ミホサンが脚本をやっていた、それに途中から別の人が加わっていますよね。

 それに気付いた頃からかな、なんか話がちゃんとつながってないぞ、という気がしてきたのは。

 このドラマで中核になる、芸者の夢乃=明良(蒼井優チャン)という多重人格の患者さんがいるんですが、その子に診察に来るときはその置き屋の母親代わりである余貴美子サンと一緒に来るよう、主人公である精神科医の日野倫太郎(堺雅人サン)は申し渡していたはずなのに、次の回になるともうシレッとひとりで診察室に来ていたり、1000万円必要だ、と泣きついてた夢乃の実の母親である高畑淳子サンが次の回になるとそのこと忘れてるようだったり。 倫太郎の悩み相談をしている同じ精神科医のエンケンサンも、倫太郎の後釜になるなんてことを裏で承知していながら倫太郎と何事もないようにフランクに付き合ってるし。
 ほかにも、明良は芸者の仕事なんか向いてないのに、どうして芸者の時間になると都合よく夢乃に人格交代できるのかが説明されていない。 これってあとで解明する予定もないでしょう。 これって細かいことだけれど重要だと思うけどな。

 こんなことは論ずる以前の問題なんですが、このドラマを見ていて感じるのは、「どうして堺サンはこういう、話の筋書きに不用心なドラマに出演しようと決めたのか」、ということです。

 ドラマの批評サイトでは、時々役者さんに同情し気を遣ったような論調が見受けられます。 いわく、「このようなひどいドラマに出ている○○サンがかわいそう、気の毒だ」、というような。 けっしてあなたのせいじゃない、悪いのは制作だ、脚本だ。
 でもまあ、その役者さんにとっては仕事ですし(笑)。 どんなひどいドラマでも、そこで全力を尽くすというものが、それが生業、というものだと思うんですよ。 役者でなくてもどんな仕事でも、同じですよね。 「その仕事、つまんないからやらない」 と言えるのは、よほど生活に困らない人だけが出来る所業だ。

 でも、堺サンには 「半沢直樹」 の完結編、という大仕事があったはずですよね。 来年大河クランク前にこれを決めとかないと、もう来年の秋クール(10-12月期)まで待たなきゃならないですからね。

 私の推測ですが、堺サンは 「半沢直樹」 を前作と同じような路線ならば、もうやりたくないんじゃないかな、と。
 だってあのドラマからですよね、世の中、やたらと土下座がブームになってしまったのって。
 コンビニの店員に難癖つけて、土下座させてそれをネットに公開する。
 「半沢直樹」 は私、あまりにも人気が出てしまったせいで見る気が失せ(笑)、確か今年に入ってから最後まできちんと見たのですが、このドラマ、香川照之サンに堺サンが土下座をさせるまでの、ほぼ一直線のドラマなんですよね。 それをこれでもか、これでもか、というくらい大げさな、それこそシェークスピアの大悲劇とか歌舞伎の見得とかに通じる顔芸的な演出であおりに煽りまくったあげくの。
 だからこそ、そのあと土下座が、いわゆる 「よくない流行」 としてかなり尾を引いてしまった。
 堺サンはその悪しき流行に、拒絶反応を起こしたのではないか。

 で、堺サンが出演を決めたこのドラマ、最初の数回は比較的バランスがよかったのですが、ここに来て些細な部分ですが話はつながんないし、とてもグダグダになってきた感が強い。 たぶん堺サンも、最初の数回だけ出来上がっていた脚本を読んで決めんたんでしょうけど。

 でも、このような脚本でも、役者さんたちは一生懸命熱演しています。 特に二重人格、という、少し間違えれば誤解を生んでしまうような難しい役どころを、蒼井優サンはうまく演じている、と感じます。
 そしてもうひとり、その母親役の高畑淳子サン。 あまりに過激で、画面から不快感がプンプンと臭ってくるような過剰な演技です。 それで毎週見る気になるようなところもある。

 だからでしょう、私がこのドラマを見ていていちばん強く感じるのは、「夢乃の二重人格なんかより、倫太郎はまず、この母親を優先して治療したほうがいい」 ということなのです(笑)。 彼女絶対、精神を病んでますよ。 ギャンブル依存だけじゃない。 彼女こそ、なんとかすべきです。 倫太郎は自分の母親を侮辱されたからそのことを意識的に回避している気がしますね。

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