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2015年7月

2015年7月26日 (日)

「天皇の料理番」 自分の思うがままに生きよ、だが自分のために生きるな

 かつて堺正章サンが主役を務めた 「天皇の料理番」。 今回と同じTBSで日曜の午後8時、つまりNHKの大河ドラマの裏番組でしたが、当時かなり夢中になって見ていたものです。

 しかしながら、もう35年前のドラマになってしまうので、その詳細についてはもう、記憶の彼方。 まあだいたい、出来の悪かった主人公が次第に出世していく小気味よさ、そして出てくる料理の素晴らしさ、なんてのは記憶にございます。
 あと今回柄本祐クンが演じた辰吉、これをデビュー間もなかった明石家さんまサンが演じていたのですが、その辰吉が今回よりはるかにどうしようもなく惨めな役であった、ということ。 私にとってさんまサンの印象が強烈に焼き付いた最初でした。
 それから、今回小林薫サンが演じていた宇佐美コック長。 これは財津一郎サンでしたが、あのコミカルな 「キビシーっっ!」 の人がかなりのコワモテで、とても衝撃的だったこと。 ナレーションの渥美清サンにしても同様で、自分にとってコメディ畑の人がマジメに何かをやる、というインパクトというものに、初めて出会った作品だった、そんな記憶があります。

 そしてもうひとつ。
 とにかくこの、主役の秋山篤蔵、という男の、息苦しさ。

 つまり彼は若い時から大変奔放で、しかもなにかって言やすぐに問題を起こしてしまう。 彼、とても怒りっぽいんですよ。 今回のドラマのなかでもたびたび取り沙汰されていましたが、要するに 「癇癪持ち」。
 このことについては今回のドラマを見るまですっかり忘れていました。 しかしすぐに思い出した。 30年以上前、ドラマを見ながら次は篤蔵がなにをしでかしてしまうのか、見ていてとても息苦しかったことを。

 しかし堺正章サンは、彼独特のユーモア感覚みたいなもので、その息苦しさをギリギリの線で緩和していたように思う。
 今回この、秋山篤蔵役に挑戦した佐藤健クンは、その点でとてもストレートに役に没頭していた気がします。 「仮面ライダー電王」 の頃から彼を見てきた印象を言うと、彼の演技はとてもマジメ。 そしてとても器用。 ともすれば器用貧乏に陥る危険性を常に孕みながら、演技に対する一途さでそれをカバーしてきた感がある。 この点においては満島ひかりチャンと似通ったようなところがあるが、ひかりチャンはどことなく情熱的な天才肌みたいなところがあって、時折演技に対する一途さに溺れてしまいそうな危険性があるのに対して、佐藤健クンの演技には、いつもどこか自分を客観的に見ている冷静さみたいなものがある。

 そんな比較論は置いといて、そういう真面目な佐藤健クンが秋山篤蔵を演じたとき、マチャアキバージョンで感じていた息苦しさを今回、私は余計に感じてしまったのです。 結果、視聴も第2回で止まったまま。 根がイーカゲンですから、レビューも書かずにこのまま済ませようと思ったのですが(笑)、リクエストを頂きましたので一応…(笑)。

 それで視聴を再開してみると、今度は佐藤健クンの老け演技が気になってきた(笑)。 いや、老けというより年上演技、かな。 なんでこんなにドス効かせたがるのか、みたいな(笑)。 先に書いた 「演技が器用」 ということが、ここでアダになっちゃってるかな、みたいな。

 でもなにしろドラマ自体の出来がいいし、篤蔵の妻を演じた黒木華サンとか、小林薫サンなどの演技に引っ張られながら、ようやく最終回まで見ました。 で、内容についての感想です。 物語の詳細についてはほかのドラマブログに全面的にお任せいたします(笑)。

 このドラマを一本貫いていた核心は、やはり 「真心」 でしょう。 これは比較的容易に分かるのですが、その真心、という中心核を裏で支えてきたものは、「励む」 ということだろうと思うのです。
 篤蔵の兄で早くに亡くなってしまう周太郎(鈴木亮平サン)から言われた 「励めよ」 という言葉は、ドラマの中で何度も、篤蔵に語りかけられます。
 このドラマでは毎回、冒頭の俊子(黒木華サン)のナレーションで当時の社会状況が並行して語られたのですが、当時の日本人全体が持っていた 「世界の流れに後れをとった後進国の日本を、なんとか世界に追いつき追い越せ」 という上昇志向のうねりを、うまく秋山篤蔵にもリンクさせる、秀逸な構成だったと感じます。 つまり 「励め」 という周太郎の意向は、当時の日本人全体の意志でもあった。

 もちろん篤蔵がそこに至るまでには、「自分の本当にやりたいもの」 にぶち当たる必要があった。 これは35年前のドラマでも鮮明な記憶として残っている、カツレツとの出会いだったのですが、自分のやりたいものを見つけてからの篤蔵は、もうただひたすら、「励みまくる」 んですね。 なにかって言やメモを取る。 分からないことは徹底的に調べようとする。

 なかでもドラマの視覚的効果で今回いちばん印象的だったのは、篤蔵、いや佐藤健クンの包丁さばきが格段に進歩していくこと。
 ドラマ開始前にゲスト出演した 「チューボーですよ!」 では、「もと篤蔵」 の堺サンに完全に勝ってました(笑)。 もう20年もキョショーをやってる人にですよ(笑)。
 これは佐藤健クンの 「演技に対する生真面目さ」 が最も成功した事例だろうと思います。 つくづく 「なりきる人」 なんだなあ。

 その篤蔵のいちばんの強み、というのは、宇佐美コック長から教わった、「真心」 ということが中心にあることです。 自分のいちばんやりたいものを見つけると、まずは自分のことばかりになっちゃいそうなんですが、篤蔵の思いの先には、「お客様」 が控えている。 「お客様が喜んでいただけるように誠意を尽くす」 ということが前提にあるからこそ、どんな危機的状況に自分が陥ろうとも、篤蔵は強いのです。

 それが一回、瓦解しかけたことがある。 華族会館をクビになって働き出した 「バンザイ軒」 で自分が考案した本格的カレーが売れなくなって、元のカレーに戻したときです。
 篤蔵はなにをやらせても全然ダメ、という危うさがあった昔より、これはイカンなあ、と思いました。 その、いちばんダメな時期を見計らったように(笑)、よりによっていちばんイカン時期に(笑)宇佐美が 「評判の本格カレー」 を食べに来るんだなあ。

 客の舌が肥えてない、と吐き捨てる篤蔵に宇佐美は 「あのカレーは腐ってる」 と強烈な一撃。
 「カレーが腐っているのは、お前の性根が腐っているからだ」

 「自分は精一杯の真心を込めました! けど、その真心が通じませんでした! どんなに手を尽くしたからってえ、猫には味が分からんでしょう!」
 「オレは客だ! 客に言い訳する料理人がどこにいる! 客をバカにする料理人は、大バカ者だ。 なおかつ、バカにした客に、バカにした料理を食わせる料理人には、…もう言葉もない」

 そんなヤツはとっとと辞めたほうが、みんな幸せだと宇佐美は言い残して、その場を去ります。

 篤蔵が 「真心」 の本当の意味を悟ったのは、ここからでしょうね。 そんな篤蔵のフランス行きに背中を押したのが、周太郎兄やんだった。 もうじき死ぬであろう自分の遺産相続分をフランス渡航の資金に換えたのです。

 ここで注目したいのは、「篤蔵の夢を応援する」 とかいうご立派な動機ではなく、これは自分の生々しい欲望なのだ、と周太郎が手紙で吐露する部分です。

 「俺はこの不条理を、幾千幾万という人がいるなかで、自分が病にかかってしまったことへの不条理を、未だに呑みこめていない。
 取り立てて悪いことをしたわけでもない。
 ごく普通に生きてきた自分がなぜ、病に襲われねばならなかったのか。 運命を呪っている。

 俺は存外に生臭い男だ。
 このままでは、世を呪い続けてあの世に行くことになろう。

 けれど、それは、あまりにも不幸で、情けない。

 だから、お前の夢を、一緒に追いかけさせてほしいと思った。

 篤蔵。 この世に生まれ、職もなさず、家もなさず、何事もなし得ることなく終わっていくであろう俺に、誇りを与えてほしい。
 俺の弟は、帝国一のシェフになったと、それは俺のおかげでもあると、胸を張らせてほしい。

 その金は、俺の生々しい欲望だ。
 かろうじてまだ生きている、その証だ。

 篤蔵、パリへ行け。 俺の命を抱いて、飛んでくれ」

 
 このドラマはここで、「自分の中にある勝手なもの」 を 「人のためになる崇高なこと」 に置換する手段を取ることで、深みを与えることに成功していると感じます。
 煩悩は、自分の中にあるだけではただの煩悩で、自分をダメにする有害なものに過ぎないのだが、それは 「他人のため」 という目的を持った時点で、「善い事」 へと一気にすりかわる。 この価値観の逆転は、見ている者の精神を、さらにひとつ上のステージにあげてくれるものでした。

 後半のこのドラマの大きな屋台骨になったのは先ほども書いたように黒木華サンだったのですが、あえてここは言及しないで(笑)、最終回に至るまでの、篤蔵と昭和天皇とのことをちょっと書いてみようかな、と思います。

 この物語のもうひとつの眼目として、「昭和天皇の戦争責任」 という問題が重く横たわっていたような気がいたしますが、側近だからこそ突っ込めない部分があったことは理解できます。
 篤蔵が昭和天皇を擁護したいと考えるその中心的な記憶に、晩餐会の食事に肉を縛る糸が昭和天皇の皿にだけ残っていたことに対し 「ほかの人ではなくてよかった」 と寛大なお言葉を頂いたことをドラマは布石として残した。 つまりドラマの最後の最後まで、昭和天皇がそのとき何を言ったのかを伏せておいたのですが、前のドラマでもやってたのか、そのエピソードは自分の記憶にあったので、個人的には効果が薄かった。 知ってることがアダになるのは残念です(ハハ…)。

 個人的に面白かったのは、バンザイ軒の主人の佐藤蛾次郎サン。 印象的な役がまたひとつ増えました。 あと、その女房役だったのか?(笑)高岡早紀サン。 いかにも美人局気味の(笑)危うさで篤蔵を誘惑してくるところなんぞ、「ゲンセンカン夫人」 を見ている感じでよかったな~(笑)。 後半ミョーに毒がなくなったのがつまらなかった(宮内省御用達を迫る毒があったか?…笑)。

 あとはフランス編のフランソワーズ。 なんか芳本美代子サンみたいな(笑)。 「マッサン」 のエリーとは言わないけど、もうちょっとなんとかならなかったのか(笑)。 いや、でも彼女もいい味出してましたよ。
 けっして美人とは言えなかったけれど、いかにもロートレックの絵に出てきそうな歌手、という感じでした。

 黒木華サンについては、後半泣かせていただきました、とだけ申し上げておきましょう。 いや、もともと古風な日本女性という外見だから、なんかどこか、ずるいよな~みたいな(笑)。 彼女が良すぎたせいで、最終回がなんか付け足しみたいになってしまった(笑)けど、最終回の意義は大きかった、と思います。

 いずれにしても、やるべきことを真心をこめてきちんと励めば、ちゃんとした立派な料理、だけでなく、多くの人の視聴に耐えられるちゃんとしたドラマも出来る、という好例でした。

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2015年7月18日 (土)

「表参道高校合唱部!」 第1回 いじめる側の汚れた心、それに立ち向かう澄んだ歌声

 いきなり告白から始めますが、私中学校のときに、臨時で合唱部に入っていたことがございまして。 合唱コンクールに出るのにメンツが足りなくて半分帰宅部が駆り出された(笑)。 けれどももともと遊び半分でやってた元の部活のほうが何やってたんだか今思い出せないのに、合唱部のことは未だによぉ~く覚えてる。 NHKの合唱コンクールとか、いまだにやってるのをたまたま見ればずーと見ちゃうし。

 で、今回の合唱部のドラマもしぜんと目が行っちゃうわけですが。 キャストの中に最近までさだまさしサンと一緒の高校に行っていた(笑)森川葵チャンがいたのも見る動機のひとつ。 なんかこのコ、飛び抜けた美人じゃないけど、印象に残ったんだよなー。 あ、そのドラマ 「ちゃんぽん食べたか」 では、すでに彼女は退学しています。

 で。

 結論から申し上げます。
 いまのところ、今年の夏ドラマの中で、なんだかんだの神田沙也加で(笑)いちばん心を揺さぶられたドラマだった。
 ついでにその神田沙也加チャンもドラマに出てるのだが(チャンという歳でもないか)、いちばん合唱に近いはずの彼女がいちばんそれを邪魔するような立場にいる、という設定も興味ひかれる。

 ネット批評ではあのドラマに似ている、あの映画のパクリだとか、ネガティヴな意見も散見されるけれども、そのどれも見てないので(「グリー」 は第1回だけ見たけど、どうも好きになれなくてリタイア)まあ自分にとってみたらラッキーだった、というか。

 話はそれますが、この、いろんなドラマや映画を見倒している、というのも良し悪しでしてね。 あれに似ている、などと考え出すと、途端に興醒めしたりするけれども、無知であることが逆に感動に正直につながっていく、そんなケースもままある、と思うんですよ。
 例えは違うけれども、昔の歌謡曲って、外国の曲のパクリが結構多かった。 でもそれはそれで、知らないで感動していたっていう記憶は、大事にしていきたい。 オリジナルをたどることも重要ですけど。

 で、ドラマの内容ですが、香川県から東京の表参道高校に転入してきたヒロインが廃部寸前の合唱部を立て直す、というお話であります。
 この主人公を演じる芳根京子チャン。
 私まったく記憶になかったのですが(笑)、どうやら 「花子とアン」 で仲間由紀恵サンの子供役をやってたり、こないだ始まった 「探偵の探偵」 で冒頭いきなりストーカーに殺されてしまう北川景子サンの妹をやってたりしたらしい。 ただそれなりに端役では出ていたものの、主人公としては初の抜擢。
 で、まあその知名度からいうと朝ドラのオーディションで合格した、というレベルの、強引に言えば 「無名の新人」 です。 こういうのはフレッシュでよろしいです。 ほかにもTBSの宣伝文句によると、次世代の若手俳優が多数出演、とのことです。

 さらに中身に対して言及していきます。

 冒頭、香川県を離れていくヒロインに、ヒロインの所属していた合唱部の 「涙そうそう」 が別れの曲として歌われます。 その澄んだ歌声に、冒頭からオッサンはウルウルモード(笑)。
 しかし転校してきた早々、ヒロインは廃部寸前の合唱部と、陰湿ないじめに直面することになる。 済んだ歌声に癒されていたオッサンは、その極端な描き方に、ちょっと見るのをやめようかな、とまで考えてしまいました。

 このいじめの描き方。
 階級制とかKYとか、まあ、正直言ってよくあるパターンではある。

 しかしいくらパターン化していても、やはり人がいじめられるのを見るのはイヤなものです。 私が学校に通っていた頃って、ドン臭いヤツとかナマイキなヤツに対する軽蔑はあったけれども、いじめそのものはなかったですから、理解できないんですよ(そー言えば先輩から、あいつはナマイキなヤツだって目をつけられてた…笑)。

 私がいじめられる立場にいたらどうしてたかな。 おそらく逆ギレしたと思います(笑)。 何かやられたら、犯人なんかを探すのはもどかしい。 教室内の全員に対して暴力振るったか、もしくは暴れまくっただろうな(血の気が多かったんですよ…笑)。 後先考えない無謀なヤツでしたから。 「アイツはナマイキなヤツ」 と認識されていながら、いじめが及ばなかったのは、おそらく些細な段階から、結構逆ギレしてたんでしょうね(え~、もう記憶がございません…笑)。

 その血が騒ぎ出すんでしょう、ドラマなんかでこういうパターン化されたいじめを見ると、いじめる側に対してものすごい殺意みたいなものを感じてしまう(ハハ、ハハ…)。

 いまその勢いでここに書いてしまいますが、いじめをする人間というのは、どんなに顔がキレイでも身なりが立派でも、その心は醜い。
 心が醜い人間は、どんな生物より下等である。
 心が醜い人間を、私は心の底から軽蔑し、最大限の言葉で唾棄してやる。

 人というのは、心のありようがすべてなんですよ。 そいつがどんなに人望が厚かろうが、チヤホヤされていようが、そいつは最低の人間以下のイキモノなのだ、と。

 それを今回のドラマで地を行ってるのが吉本実憂チャンなのですが、彼女が演じるタレント気取りのリーダー格の女生徒が、裏で手を回したりさまざまな汚いことをやっているのは、ドラマ的には私も感じた 「憤り」 のベクトルで見る側を引っ張っていく要因には、確かになっている。

 けれどもそれ以上に私を惹きつけるのは、いじめられる側であるヒロインの、心のありかたに対してなのです。

 彼女はテンパると 「10秒ジャンプ」 といってその場でジャンプし続ける(笑)。 (笑)、と書きましたが、やってることは突飛でも、ネガティヴな思いに煮詰まってきた頭の中の澱をふり払うには最適な行動らしい。
 そしてそれを伝授したおじいちゃん(平泉成サン)の言葉が、またふるっている。

 「ヘコんでる時間が、もったいねえもんな」。

 落ち込んだりしているヒマなんかない。
 つまり、これはいじめをするとかいじめられるとかの次元を乗り越えて行け、とするひとつの心のありかたに関する提起なのです。
 人をいじめるとか、そんなことに拘泥されることの、なんと愚かなことよ。 そんなヤツには、勝手にやらせておけばいい。

 そしてヒロイン、香川真琴(香川県から来た香川、だから覚えやすい…笑)の最大の武器は、合唱という、「自分のやりたいこと」 が明確に定まっている点です。 だから落ち込んでるヒマなんかない。 自分を強くするものは、なにかに向かって突き進もうとする、その何かを見つけられることなのだ。
 ヒロインの味方になってくれる男の子(志尊淳クン)も言っています。
 「みんな自分の好きなことなんてよく分かってねえから、オマエのことが羨ましいし悔しいんだ」。

 彼はトッキュウジャーだったらしいですが(笑)、どうも今回、不治の病にでもかかってるよーな? 番組HPを見ると、どういう経緯か分からないけれど、吉本実憂チャンも志尊淳クンも、合唱部に入部するらしい。

 そして活動を認めてもらうために実演をしようとする真琴たちなのですが、吉本実憂チャンの陰謀によって合唱部入りした森川葵チャンが直前逃亡。
 しかし土壇場で、真琴は森川葵チャン抜きで合唱を始める。 実は真琴が実演に選んだ歌は、ネットで森川葵チャンが覆面アイドルとして歌っていた曲なのです。 ここでドラマが、現実よりもバーチャルな世界のほうが居心地がいい、という現代的な問題にまで切り込んでいるのが興味深い。
 その歌声に惹かれるようにステージに上がっていく森川葵チャン。 実演は成功の裡に終わるのです。

 これらの葛藤の中で苦悶する森川葵チャン、「ちゃんぽん食べたか」 のときにはあまり感じなかったのですが、表現力がこれから成長していく可能性をとても感じました。

 そしてそれ以上に素晴らしいのは、ヒロイン真琴を演じる芳根京子チャン。
 とてもじゃないけど、主役として華がある、とは言えないフツーの女の子なんですが、真琴の生き方に引っ張られてどんどん輝いていく、そんな 「若さが持つ化学反応」 みたいなものを感じさせてくれる。

 あとは、この合唱部を落ちぶらせてしまった顧問の城田優サンの抱えている事情とかに焦点が当たっていくはずですが、いずれにしても合唱の持つ魅力がメインに据えられていることは強みです。

 それにしても、こうしたにわか仕立ての合唱部というのはですね、自分の経験上申しますが、まーずここまで素晴らしくはならないですよ、短期間で(笑)。
 私たちも貧弱なままで臨んだ合唱コンクールで、箸にも棒にも引っかからなかったもんな~(ハハ…)。

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2015年7月12日 (日)

2015年夏ドラマ、いちおう今週見た分についての感想

 今年の夏ドラマでは、特に主演の人に対して、「あまり見たい役者がいないなァ」 ということを感じています。
 そのなかで最も 「出てくる役者で客を呼び込むタイプ」 だと思われたのは、フジテレビ水曜22時の 「リスクの神様」。 脇役に吉田鋼太郎サン、志賀廣太郎サン、古田新太サン、田中珉サン、小日向文世サンといった実力派が目白押しなのですが、主演が堤真一サン。
 いや、悪い、と言ってるわけじゃないんですよ堤サンが。
 でもこの人、どちらかというと主演よりサブのほうが光るんだよなァ。 「マッサン」 の大将なんてのはその最たるもので。
 あとヒロインが戸田恵梨香サン。 私この人、あまり得意じゃなくって(ハハ…)。
 内容的には、リスクマネジメントのお話、というか(ざっくりしすぎ…笑)。 ルンバが火を噴いた、というか(ますますアバウト…笑)。 そのリコールについてのせめぎ合いみたいなものが描かれていましたが、もうちょっと話にひねりが欲しかった、というか。

 その、「話にひねりがあった」、という点で 「リスクの神様」 より面白かったのは、同じフジテレビで木曜22時の 「探偵の探偵」。 ストーカーに妹を殺された北川景子サンが、そのストーカーに情報を提供したのが悪質な探偵だったということが分かって、その探偵を突き止めるために自分も探偵になる、という話で。
 私どうも、この北川景子サンも、少々苦手(ハハ、ハハ…)。
 ただ、冒頭こそ妹の殺害現場で泣きわめくのが 「わざとらしいなァ」 と思ったのですが、それ以降は話がオセロの駒のようにくるくるひっくり返る、その小気味よさにやられた気がします。
 出てくる俳優さんはそんなに大したことない感じで(失礼)、特にユースケ・サンタマリアサン、悪役っぽいんですが、わざとああいう演技をしてるのかな、という感じで。 でもそれ以上に話が練られているから、ユースケサンのあの演技にも、裏があるんだろう、と思わせてしまうところがいい。

 あとは日テレ水曜22時(あっ、「リスクの神様」 とダブってる)「花咲舞が黙ってない」 のセカンドシーズン。
 このドラマの売りは、杏サンと上川隆也サンの丁々発止のやりとり。 この点については前作以上に息が合った感じでコメディ感も倍増している気がします。
 そしてこのドラマのクセは(笑)、必要以上に誇張された 「ゴーマンな銀行のお偉いサン」。 これも前作以上に誇張された気がいたしました(笑)。 このクセを 「まあドラマだから」 というおおらかな目で見ることが出来ればドラマを楽しめる、と思うんですけど。 第1回でのゴーマンな支店長・寺脇康文サンの演技も、途中までは 「オーゲサすぎ」 と思ったのですが、なんかだんだん冷静に見られなくなってきて(笑)。 これって 「水戸黄門」 入ってますよね(笑)。 だから最後の杏サンの一喝でスッキリ。 勧善懲悪タイプのカタルシスがいいですね。
 そして本題から離れたところにある、花咲舞の実家である小料理屋での大杉漣サンとのやり取り。 これがまたドラマを絶妙に下から支えてるんだなァ。

 しっかし春ドラマ視聴予定で真っ先に挙げた 「天皇の料理番」 をちーとも見てないので(笑)、たまった分をこれから、見ようかな、どうしようかな(かなり面倒…ハハ、ハハ…)。

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「ど根性ガエル」 第1回 「原作レイプ」 危惧をどう克服するのか

 日テレはときどきとんでもないレベルの 「なつかしアニメの実写化ドラマ」 というのを思いつくのですが、アタリもあればハズレもある(笑)。 ただそのクオリティを俯瞰したとき、たとえ失敗作に近くとも、原作に対するリスペクト、というのはいつも感じられるような気はします。 「怪物クン」 しかり、「妖怪人間ベム」 しかり(「ぬ~べ~」 は?…笑)。

 しかしひと頃のような露骨な原作レイプ、というのは最近減ってきたような気はしますよね。 テレビドラマじゃないですが、「デビルマン」 とか 「キャシャーン」 とか、酷かったもんなあ。 改作する側の個人的な表現意欲、自己顕示欲ばかりが独り歩きしてるような感じで。

 それでも、去年だったか、「ルパン三世」 の実写化(これも映画ですが)なんてのは、最も拒絶反応が起こりそうな題材じゃないですか(まあなんか、はるか昔に一回実写化はされてましたけどね)。 でもなんか、受け入れられていたでしょう。 「ヤッターマン」 なんかも好意的に受け止められていましたよね(どっちも未見ですが)。
 つまり、改作者の思い入れなんかよりも、それを見てきた側の思い入れをより強い形で上書き出来るようなリメイクのほうが、受け入れられるということを、ようやく制作者側も気付いたのではないか、と。

 「見る側に受け入れられる」 というファクターでいちばん大事なのは、出てくるキャラクターがもともとのヤツとそっくり、またはあまり違和感がない、ということだろうと思うのですが、今回の 「ど根性ガエル」 でいちばん違和感がなかったのは平面ガエルのピョン吉だった(笑)。
 まあ、ピョン吉の部分だけはアニメ(しかもCGっぽい)で、それとシャツの動きを巧みに合成しているから当たり前、と言えば当たり前か(笑)。

 しかしそっくりだったのはその声。

 誰だろう、昔のアニメで声やってた千々松幸子サンじゃないだろうし。
 それが、エンドロールが出てきて驚愕。 満島ひかりサンだった。
 彼女、リアルタイムで体験した世代じゃないだろうに、よくここまで千々松サンの声に似せられるもんだ、とひたすら感心。

 それと主人公のひろしですが、松山ケンイチクン。 これもまあ、及第点には達した似せぶりでしょう。 あとはヨシコ先生がそっくりだったかなァ。 梅さん(光石研サン)は出てたが、ライバルの南先生は?
 まあ、ピョン吉とひろしとヨシコ先生以外は、かなり無理がある感じでした。 特に 「教師生活25年」 の町田先生(でんでんサン)は、なんと校長になってましたが、永井一郎サンのイメージとはかなりかけ離れていた。
 前田あっちゃんの京子ちゃんは、…まあいいでしょう(笑)。 ただ、ひろしのウザイ告白に激高するところの演技はよかった気がします。

 そして問題の、中身なんですが。

 ひろしが30にもなってプータローをしている、というその設定。
 ちょっと無理があるんじゃないか、と。
 なにしろこのひろし、アニメではそんなに出来のいい子じゃなかったが、結構人情に脆くて、負けず嫌いの頑張り屋だった記憶がある。 それがピョン吉の 「根性根性」 というベクトルと相乗効果を発揮して、困難を乗り越え続けてきたような。

 それがどーしてプータローなんだよ(笑)。

 第1回の設定によれば、どうもピョン吉に促されて根性根性でやってきたら、疲れちゃった、みたいな(笑)。
 しかしこの、「ひろしの気力低下の原因」 というのはもう少し真面目に設定し直さないといけない、と感じます。 なぜなら、第1回を見た限り、彼にはまだかなりのやる気が漲っている。 少々見当外れではありますがね。 彼はとてもあっけらかんと、積極的に自らのニートぶりを肯定している気がします。
 こういう、やる気があって人情のなんたるかを理解している男が、果たして母ちゃん(薬師丸ひろ子サン)のスネをいつまでも平気でかじっていられるものなのか。

 「やる気の方向が見当外れ」 の象徴的な例として作り手から第1回で示されているのは、「離婚して出戻ってきた京子ちゃんの歓迎会を勝手に企画してしまう」 というあたりだ、と思うのですが、このプロットには首を傾げます。 フツー出戻ってきた人の歓迎会なんか、せんでしょう気を遣っちゃって(笑)。

 これはひろしが未だに少年のままである、幼児性が抜けない、ということを指し示しているのだ、と思うのですが、そのほかにもあの印象的だったトンボメガネを髪の上に載せたまんまだったり、ひろしをモラトリアムの象徴として描こうとしている姿勢は窺える。 しかしひろしのキャラでそれをやるには、ひろしはあまりにもやる気があり過ぎるんですよ。

 そしてトンボメガネ以上に、ひろしが少年のまま時間が止まってしまっているファクターを、どうも作り手はピョン吉に求めているようだ。

 序盤からいきなり、ピョン吉が自らのアイデンティティ、といーますか(笑)「自分はどうしてカエルの寿命を過ぎてもずっと生きてるんだろう」 とか、「もともと平面ガエルということ自体が不思議すぎる」 とか、ミもフタもない会話をひろしの母ちゃんと交わすのですが(笑)、ほぼ同時に、自分の体がシャツから離れつつある、そしてその部分が黒ずんでくる、という現実に直面しなくてはならなくなるのです。

 つまり自らの死期が近い、ということをピョン吉は危惧していくわけですが、どうなのかなあ。
 だってこのドラマの脚本、岡田惠和サンなんですよ。
 この人、ピョン吉を死なせるとか、そういう残酷なことをする人なのかなァ?
 どうもそう思えなくて。
 たとえひろしとピョン吉の別れを描いたとしても、岡田サンはピョン吉を死なせるよりも、シャツから離れてバイバイ、みたいなほうを選ぶ、と思うんだよなァ(笑)。

 「心がポキッとね」 でもちょっと、アレアレ?みたいな感じだったから、岡田サンの作るモノに少し警戒している自分は、いるのですが。
 「泣くな、はらちゃん」 みたいな、「これは予想をはるかに超えた傑作だ」 といういい意味での裏切りを、期待したいのですが。
 第1回を見た限りでは、満島ひかりチャンに感心した、という程度だったかな~…。

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2015年7月10日 (金)

「アイムホーム」 木村拓哉という役者の 「自分さがし」

 木村拓哉、という役者は、実に興味深い役者である、といつも感じています。
 彼は若かりし頃、そんじょそこらのイケメン芸能人をそこらのして 「恋人にしたいナンバーワンタレント」 を歩み続けた。 そして彼は、頑固なまでに 「自分は何を演じても木村拓哉であり続ける」、というポリシーを掲げながら役者を続けてきた。

 その彼の 「わが道を行く」 姿勢はごく早い時期から衆目の批判にさらされてきた感があるのですが、その人気のピーク時を超え、中年という年代に差し掛かってもそのスタンスを変えないことに対する彼への風当たりは、近年ますます強まっている気がします。

 そんな彼が参加することのできるテレビドラマのカテゴリというのは、年代を経るごとに徐々に狭まってきている。 それでも彼はそれを逆手にとり、先細りしていくカテゴリを注意深く取捨選択しながら、自分の存在を最大限にアピールできるドラマを決定し、自分にしかできないドラマを次々世に送り出している気がするのです。

 例えば、昔のような恋愛ドラマが出来なくなった代わりに、妻や家庭を持った男の恋愛モノは、出来るようになる。 そのハスッパな態度から、生真面目な企業ドラマは出来ない代わりに、新しいタイプのリーダー像を目指したビジネスドラマは出来る。

 これは簡単なようでいて、実は難しい。 要するに制作側に対して注文をつける、ということだから。
 けれども、だいたいジャニーズ事務所のテレビ界に対する影響力が大きいからとか、そういうことだけでは彼が主役に起用され続けるはずがありません。 間口の狭い 「木村拓哉」 という役者が最大限に生かされているからこそ、結果的にそのクールでのトップクラスの数字(視聴率)を連れてくる。 なんだかんだ言っても注目を浴びてしまう。 だからテレビ局も彼を起用し続けるのだ、と思う。
 それはたぶん、事務所の力関係とは別にある、彼自身の 「自己プロデュース能力」 ゆえなのだ、と感じる。

 近年での彼の主演作は 「MR. BRAIN」「PRICELESS」「安堂ロイド」「HERO(続編)」「宮本武蔵(単発)」などですが、そのどれもがどこか、通り一遍のドラマにはない視点の、「ちょっと違う地平」 に立っているドラマばかりでした(「安堂ロイド」 だけは 「だいぶ違う地平」 でしたが)。
 彼の出るドラマは、いわゆる 「普通」 というものを、どこかで拒絶している。
 「宮本武蔵」 は脚本のつまらなさ、という致命的な弱点がありましたが、やはりどこかで映画 「マトリックス」 的な 「武蔵」 を狙っていたような気がした(スイマセン、途中リタイアなので的確でない論評かもしれません…笑)。
 その演技レベルからいって、「南極大陸」 のような本格的なドラマになってしまうとちょっと浮いてしまうようなところがあるのですが、彼の出るドラマには、常にどこかに 「ドラマをスタッフみんなでつくる面白さ」、という雰囲気が漂っている。 それは題材が 「普通とはちょっと違う面白さ」 を有しているからだ、と思うのです。 彼のドラマには実によく、大物俳優が名を連ねる。 それはやはり、究極的にはそのドラマが 「面白そう」 に見えるからなのではないでしょうか。

 そして今回の 「アイムホーム」。

 「宮本武蔵」 を除外すれば、木村クンにとって初めてのテレ朝ドラマでした。
 このブログをよくご存知のかたならご理解いただけると思うのですが、私はテレ朝のドラマを、ほとんど忌み嫌うレベルであまり見ません(笑)。 私の嫌いな、人が殺されただの犯罪を犯しただのというドラマがあまりにも多いからです。 そうした種類のドラマ以外でも、「やけに誇張が目立ち、センセーショナル主義」 であるとか、「なんかどこかで手を抜いてる」、みたいな感覚が抜けない。
 それでも近年ではよほど他局に視聴率を先んじているドラマが多いのですが、私はどこかでテレ朝のドラマに対して、いまだに軽い侮蔑的な感情を抱いている(あくまで個人的な偏見によるものなので悪しからず)。

 そんなテレ朝であるから、木村クンがご自分の主演ドラマにテレ朝を選んだ、という今回の選択は、好調なテレビ局に、それまでのイメージに拘泥することなく乗り換える、という彼のフレキシブルさによるもので、視聴率の波に乗る最良の自己プロデュース方法であったという評価はできるのですが、どこかで 「都落ち」、という気がしないでもなかった。

 彼の近作の内容には、どこかに自虐的な傾向が見て取れる気がします。 「PRICELESS」 では自らをホームレスに落ちぶらせ、「安堂ロイド」 では未来からやってきた同種のアンドロイドから 「時代遅れ」 とあざ笑われる旧型のアンドロイドを演じていた。 そこには確実にメインストリームから外れつつある自嘲が含まれていたのではないか。 このテレ朝への連ドラ初出演も、その傾向と同じなのではないか、と。

 しかしその題材は興味深いもので、それまでの派手で華やかな主演作に比べると 「年齢相応」 に落ち着いた、と思えました。 内容的には、「事故で直近5年ほどの記憶をなくした男が、妻と子供の顔が仮面に見えるようになってしまった」、という、さすがに 「普通のドラマとはちょっと違う地平」 に立っている話。 それで私も、見てみよう、という気になりました。

 この 「アイムホーム」、原作は石坂啓氏のマンガで、数年前に時任三郎サン主演で一度ドラマ化されたのですが(私は未視聴)、なんかNHKの番組公式ページのあらすじを読むと、今回とはずいぶん違う話のように思えました。 「ハゲタカ」 で知られる脚本家の林宏司サンは今回、基本的な設定はそのままで、大胆な換骨堕胎を敢行した気がします。

 「妻と子供の顔が仮面に見えるようになった」、という話はカテゴリ的に考えると家庭崩壊をテーマとしたホームドラマの比重が大きいように感じる。 けれども、そこには 「妻と自分、どちらが仮面をかぶっているのか」 を探るサスペンスが介在しており、さらに主人公をやり手の証券マンに変更したことによって、主人公が勤めている証券会社の巨悪を絡めたサスペンスまで演出できた。

 5年程度の記憶がごっそり抜け落ちたことで、木村クン演じる家路久はとても普通の 「人の良い男」 になっているのですが、その5年のあいだ、どうもまるで別人格、と思えるほどに家路久は最悪の性格をしていたらしい。
 つまり、その5年以前はそんなに悪い性格じゃなかった、ということですよね。 その、記憶を失った家路が唯一ふて腐れたようになったのは、北大路欣也サンが演じた、自分の失踪した父親と再会したとき。 そしてその父親をどこかで許しているようだった、風吹ジュンサン演じる自分の母親と接しているとき。

 ただ、ドラマを見ているとその5年間以前でも、前の妻である水野美紀サンに対してもかなりつらく当たってたみたいだし、そうなると家路久が 「朴訥で善良な男」 になっちゃってるのは記憶とは無関係なのか、そこらへんの明確な説明が、ドラマ全体を振り返ってみると結構ぼやけていた気がします。

 そして残念だったのは、最終回のトンデモ展開もそうだったんですが(笑)、結局家族への愛がいちばん、という毒のないオチにしてしまったこと。 まあ、逆に言えば 「みんなみんな、いいヤツだったよ」 ということですが。 ここらへん、まあ偏見も入り混じりますが、「テレ朝クオリティ」 なんだよな、というか。 テレ朝の局のカラーに対する独断と偏見を語り出すと長くなるのでやめますが(笑)。

 ただ興味深かったのは、「失われた5年」 のあいだの自分を探しまわっている家路と、役者としての自分の居所を探している木村クンがときどきダブって見えたこと。 ハスッパな自分(5年の間の性格最悪だった家路)と普通レベルに還元していく自分(朴訥で善良な家路)とのあいだで、「これからどういう役者として生きていくのか」 暗中模索をしている。 そんな彼の 「自分さがし」 みたいなものが見えた気がしたのです。

 彼が次のステージに選んだのは映画版の 「HERO」。
 これはいわゆる 「昔の杵柄」 というヤツで、かつての当たり役でその主人公が年齢を重ねていったらどうなるのか、という安全牌のような気もするのですが、「常識はずれな青年検事(久利生)が、どう成長していくのか」 という、これも木村クンの 「役者としての自分」 を模索するような内容なのではないか(見てないから分からないけど)。

 まだ当分は、木村クンの出演作に興味を持っていられそうです。

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