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2016年1月

2016年1月31日 (日)

「真田丸」 第3回 「飽きさせない」 ための技術

 すでに去年の 「花燃ゆ」 が記憶の彼方に行きつつある昨今ですが(笑)、今年の 「真田丸」 を第3回まで見ていて、「ドラマを飽きさせないことって、こういうことなんだな」 と思い知ることが多いです。 「花燃ゆ」 なんか、見ている途中で何十回寝たことか。

 つまり、「どーでもいいことを延々とやられる」 と、寝てしまうんですよね。 「この人はこれだけみんなに尽くしました、これだけのことをやりました」 ということって、人ひとりの人生にとっては意義のあることなんだけど、それをドラマで見せようとすると、見ている側は 「あーはいはい、そうねそうねそうね、はいはい立派立派、はいはい分かりました」 みたいな、どこかの漫才師みたいなことになってしまう。

 「真田丸」 第3回では、まず信繁(堺雅人サン)を取り巻くふたりの女性、長澤まさみサンと黒木華サンでドラマとしての起伏をつけ、小山田一族と共に死んだはずの小山田茂誠(高木渉サン)を落ち武者として登場させることで、信繁の姉であり茂誠の妻である木村佳乃サンもきちんとドラマに絡ませていく。
 政治的状況においては信州の国衆(まあ、豪族みたいなもんでしょうか)に寺島進サン、西村雅彦サンらの手練れを配置して昌幸(草刈正雄サン)のパワーゲームを見せる。
 信繁の兄、信幸(大泉洋サン)の 「マジメさ」 というものを第2回で見せておいて、その 「マジメさ」 故に、昌幸のパワーゲームの中で翻弄され傷ついていく信幸の姿を第3回で活写する。
 そのなかでは家康(内野聖陽サン)の 「信長様はキレイ好き、とっ」(小林克也サンの歌…知らんだろうなァ)でおおいに気を使う場面や、信繁の母親(高畑淳子サン)とおばば様(草笛光子サン)のやり取りを挿入することも忘れない。
 信繁は信繁で、国衆の民どうしの 「薪取り合戦」 において 「下から攻撃したら上から丸見えだから、上に回って攻撃」 などの 「戦上手」 なところを、これまたさらっと見せてくれるし。

 要するに、内容がこの45分だけで、てんこ盛りなんですよ。 眠たくなるヒマがない。

 この、登場人物すべてに気配りがなされている点は、三谷脚本のすごいところだと、素直に感じます。
 気配り、と言って、大したことじゃないんですよ。
 ほんの5分でも、いや、2、3分でもその人を画面に登場させ、その人たちの考えそうなこと、言いそうなことをあらかじめ調べてから性格設定し、肉付けしていく。 そうしたうえでその人物たちにしゃべらせれば、もうほんの数分でも立派に印象的な場面が作っていける。
 こういう簡単な、脚本家として初歩的なことが、なんで去年の大河にできなかったのかな~。 だからダブル脚本とか、トリプル脚本とか、ダメなんだよ。

 で、第3回の白眉は、先にも書いた昌幸が繰り広げるパワーゲームなのですが、それはほかのドラマブログに任せるといたしまして(笑)。

 ただそのパワーゲームに翻弄された、信幸についてはちょっと。
 結局 「お前はマジメすぎて演技が出来ないから黙ってた」 と父から言われ、傷つきながらも、そこにいろんなフォローが入っていくのは見事。 寺島サンが堺サンに 「兄貴は今しんどいだろうから話を聞いてやれ」 と声をかける、という流れは、もう去年の脚本家たちには書けなかったでしょうね(ズタボロだ)。
 そこに絡んでくるのが、先にも書いた小山田茂誠であり。 こういう用意周到なところがドラマ好きにはたまらないんですな。
 信幸は自分のプライドがズタズタにされていた矢先だから、「知ってしまった以上は 『腹を召されよ』 と言うしかない、それが嫌ならわしがここで斬る」 と、自分のマジメさを押し通す反応しかできないんですよ。
 この反応の展開の仕方が、実にドラマ的である、と言える。

 結局信幸は 「この人を斬るなら、姉も一緒に斬りなさい」 とかばった木村佳乃サンの姿に自分の持ち場のない怒りを鞘に収め、茂誠が逃げるための猶予を与える。 第3回序盤で茂誠を失って食事ものどを通らないさびしい木村佳乃サンの姿をさりげなく描いていたからこそ、この展開が説得力あるものに仕上がるのです。

 しかし第3回で私がもっとも萌えたのは(笑)、信繁に片思いを募らせる長澤まさみチャンでしたねー(笑)。
 彼女は 「このドラマ、現代語がおーすぎ」 という巷の 「真田丸」 批判にいちばん深く刺激を与えるような役で(笑)。
 でも、いーんだなー、こういうツンデレ系のオキャン系(笑)。
 信繁がまさみチャンの恋心などちーとも気付いていないのはまあお約束といたしまして(笑)、「華チャンに櫛を買ってきた」「ああ、そー言やオマエのもあるよ」 で、じっさいの櫛は華チャン用が木箱にうやうやしく入っていて漆塗りの上等なヤツで、まさみ用が粗末などーでもいい櫛(笑)。 そこに華チャンの兄の藤本隆宏サンが入ってきてさらに会話に入っていけなくなり、そこに薪取り合戦の展開。 そこにのこのこついていって、「足挫いちゃったかな~」 とか。

 もうこういうコ、オジサンは萌えるんだよな(笑)。 たぶん三谷サンの趣味でもあろう(笑)。

 かくして 「飽きさせない技術」 をまざまざと見せつけてくれる今年の大河、次回は織田に乗り込むぞ~。

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2016年1月30日 (土)

2016年冬ドラマ…その3 「家族ノカタチ」

 「第1回目を見て」 という時期じゃなくなってきたのでタイトルを若干変えまして(笑)。 今回の俎上は 「家族ノカタチ」(TBS日曜夜9時) でございます。

 「39歳の独身貴族(香取慎吾クン)と32歳バツイチ(上野樹里チャン)が問いかける結婚と家族のありかた」 みたいな前宣伝に正直あまり期待していなかったのですが、第2回までを見た印象では結構面白く、先がどうなるのか気になる感じに仕上がっています。

 とはいうものの、香取クンと樹里チャンのふたりの主役、さらっと簡単に言ってしまえば 「スゲーヤナヤツ」(笑)。 香取クンはかつて阿部寛サンが演じた 「結婚できない男」 のキャラから、「偏屈すぎてそれが却って笑える」 というドラマとしての緩衝ポイントを除外しているため、見ていてとても嫌な気分になるタイプの男にパワーアップしています。

 自分が結婚しない理由も、あのドラマからさらに堅固になっているようで(笑)、「他人に干渉されたくない」 というその姿勢はまるで 「自分の大好物を独り占めしている子供」 のようにも見える。

 「結婚できない男」 ではまだ 「人間嫌い」 レベルにとどまっていて、「オレたち年金でなんか暮らしていけないから、老後のために計画的に人生を設計してる」 みたいな 「長期的な視野」 はなかったように思うんですよ。
 つまり、「晩婚化」 という中で増えつつあった 「結婚できない男」 の時代から、「結婚しない、という選択」 をライフスタイル、というスパンで考えざるを得ない時代に、現実は進行している、ということになる。
 その 「長期的視野」 というレールには無味乾燥さがついてまわるのですが、主人公の男はそれを、自分の趣味に満足を埋没させることで、埋め合わせようとしています。 これは、「家族という形で自分の生活を維持できない世代の、ひとつの答えである」、とも言える。

 しかしドラマにおける彼の描き方はそれに反して、かなり否定的です。

 言ってみれば、今回の香取クンは、「街ですれ違う、冷たい顔をした他人」 を表象化している。
 そりゃ、どんな人にも家族がいて、どんな人にも人としての情愛がある、とは思うのですが、街をひとり歩くときにそういう顔を人って、しないもんじゃないですか。 しかしその 「よそ行き顔」 が、彼の性格を、そのまま支配している、という 「うすら寒さ」。
 彼の冷たさをもうひとつ例えれば、ネットで自分の顔を見せずに1行や2行の 「冷静で笑えるコメント」 を吐き捨てていく2ちゃんねらーみたいな、「頭でっかちで的確な冷たさ」。
 そういう、「いちばん冴えたやりかた」「功利主義的な生き方」 ばかりを追求していった末に出来上がった 「自分御大切」 な 「こども大人」 であるがゆえに、彼はスゲーヤナヤツに見えてしまうんですよ。

 私は最初、香取クンのこの演技が 「ヘタクソ」 なのではないか、という気持ちで見ていました。 しかし第2回まで見て、そうじゃないことに気付いた。

 この主人公のその冷たい心の奥底には、パンドラの匣の 「希望」 のように、わずかな 「人としての情」 がぽつんと残っているんですよ。
 これを演じる香取クンは、だからかなりやりにくいのではないか、という気がします。 そして彼は、それをきちんと演じきっている。 一歩間違えると 「香取慎吾は演技がヘタクソだ」 という巷間の評価に惑わされた感想を持ってしまいがちだけれど、このドラマでの香取クンは違うように感じる。

 まあ確かに、彼のナレーションはうまい、とは言えない気も同時にするんですが(笑)。

 そしてもうひとりの主役である上野樹里チャン。
 彼女の生き方も 「ひとりでいること」 の実利主義的なスパイラルから抜け出せない、という点で、香取クンの生き方と奇妙に合致するのですが、ふたりとも 「自分」 というものが中心なだけに、「ある部分ではとても気持ちを共有できるのだが、共感できないとまったく反りが合わない」。
 その彼女の考えに潜む彼との決定的な違いは、彼女がいったん結婚をしていた、という部分なのだろう、と思うのだけれど、この 「気がとても合い、同時に気がまったく合わない」 という奇妙な関係が、このドラマを引っ張るいちばん面白い部分なのではないか、という気がします。

 そしてその奇妙な関係を引っ張り出す、というか沈殿していた澱をひっかき回してしまうのが、香取クンの父親役である西田敏行サン。 樹里チャンの母親役である風吹ジュンサンと一緒に、「世代間に横たわる結婚観の違い」 を鮮明に浮き立たせる重要なポジションを担っています。

 「家」 であるとか、「お墓(=お寺との関係)」 であるとか、そういう縛りというものが急速に意味を失っていって、そこに長期化した不景気の産物である 「おひとりさま」 の価値観が入り込んでいく。
 このドラマは、そんな時代のドラマであろう、という気がするのです。

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2016年1月24日 (日)

「真田丸」 第2回 大マジメな 「はぐらかし」 の妙

 三谷作品に漂う 「可笑しさ」 の質、それはアメリカンコメディの影響を受けたドタバタ…という分析はいいとして(笑)、奥さんと別れてからはなんか、どこか 「すべる」 ことに快感を感じているのではないか…という分析もいいとして(笑)。

 それを 「ぼくちゃんたち面白いでしょ? ね? ね?」 みたいなノリでやられることに、ちょっと引いてしまう人も若干おられるのではないでしょうか。
 今作 「真田丸」 においては特に今のところ主人公信繁(堺雅人サン)がその役割を担っているような感じ。 堺サンを見てると 「『リーガルハイ』古美門の幸村バージョンか」 、と、まあそこまでひどくないけど(笑)、幸村も若い設定だから仕方ないとして。

 それに対して信繁の兄信之を演じる大泉洋サンは、これまでにない真面目な役に取り組んでいる気がする。
 つまり、信之というのはオチャラケていては務まらない人物なんですよ。 将来家康の信頼を得るためにオチャラケていられない、という意味で。
 だから大泉サンは 「信之どうでしょう?」 みたいなことができない。 大泉サンにとっては新境地とも言えるのですが、少し演じにくそうなところも見えなくはない。 ミスキャスト?

 大泉サンに限らず、このドラマにはミスキャストが多数存在するのではないか、と私は考えておるのですが、こと大泉サンに限っては、三谷サンはそのミスキャストを(三谷サンが役を決めてんのかな?)(いや、決めとるのはNHKだろう)逆手にとって、大泉サンに 「大マジメに演じることからくる可笑しさ」 みたいなものを託している気がする。

 それは第2回で、「北条につくか上杉につくか」、という大事なことをくじ引きで決めようとする、父昌幸とのやり取りの中で垣間見えるのですが、「マジメゆえの笑い」 を逆に突き詰めていたのは、父昌幸役の草刈サンだった(笑)。
 そもそも 「くじ引き」 というこの部分の設定自体が三谷作品らしい。 「そんな大事なことをくじ引きで決めるなんて!」 という 「マジメ」 信之に対して 「それってウケルwww」 という 「オチャラケ」 信繁の対比をここで鮮明に出すと同時に、言い出しっぺの父昌幸の 「考えてなさそーで考えている」 したたかさと飄々とした部分を同時に見せる。
 そしてそれを実に大マジメに演じ、結局 「いや、こんなことをくじ引きとゆーのはさすがにヤバい」 と、さんざん敷きまくった風呂敷を勝手に畳んで(笑)「真田は織田につく!」 と宣言する。

 第2回における、三谷作品の長所がここにあった気がしましたね。
 「大マジメなはぐらかし」。 しかもそこに真田父子の特徴を織り交ぜる。

 しかし 「可笑しさ」 に的を絞るのは、あまり適当ではありません。 この第2回のメインは、やはり武田滅亡。 第1回に引き続いて勝頼役の平岳大サンは傑出していました。 特に自害の場面では、目の前に現れたる父信玄の霊の前に、この世の無常と、悔しさと情けなさをにじませる。 ライティングの良さもあったのかもしれないけれど、ちょっとお父上を彷彿とさせました。

 その武田の滅亡の報せが昌幸のもとに届くのですが、このドラマ、直前に昌幸の手の中で割れたくるみと、信玄の亡霊という前フリによって、報告役の佐助と昌幸のあいだに、肝心の内容がまったく省かれたやり取りが交わされるのです。
 のちに昌幸から息子たちにも同様に、無言のうちに武田の滅亡が知らされることとなる。
 こうした 「純日本的な」 演出の方法というのは、今の合理化された演出に慣らされている若い世代には、どう映るのでしょうか。 「報告になってないじゃんwww」「なんにも言ってないのによく分かるな」 といったところなのかな。 日本的な機微を、学んでくださいまし。

 そして 「裏切り者はキライだ」 と言いながら武田の筆頭家臣であった穴山を手厚く迎える、家康。 武田家の居城の焼け跡で、武田家滅亡の原因に思いを馳せながら、「自分は生き残るのに精一杯っス」 と、戦国の世でまだまだ受け身いっぽうの弱々しさを自嘲するのです。
 この内野サン演じる家康が、そのうちに強大な影響力を携えていくのですが、そこでこの弱々しさが、どう変化していくのか、そしてそこに、「マジメすぎて可笑しい」 信之が、どう絡んでいくのか。 三谷サンの手ぐすねが、そこに見える気がする(笑)。

 手厚く迎えられた穴山とは対照的だった小山田など、戦国時代の厳しさをきちんと見せながら、第2回も全体的に話がきちんと締まっていたように感じた、「真田丸」 です。

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2016年1月23日 (土)

2016年冬ドラマ、第1回目を見て その2(「ちかえもん」 だけ…)

 前回の終わりで 「一番面白く見たのは 『フラジャイル』」 などと書いてしまったのですが、そのあと見た 「ちかえもん」(NHK総合木曜夜8時) に、やられてしまいました(笑)。

 この時代劇、スランプにあえいでいた近松門左衛門が傑作 「曽根崎心中」 を作るまでを、NHKの許容範囲において(笑)出来るだけパンキッシュに描いています。 流れとしては、大昔に美空ひばりサンなんかがやってた無国籍風の時代劇を彷彿とさせるのですが、とにもかくにもそこには 「NHKの許容範囲」 がほどよいリミッターとなって働いている。

 「NHKの許容範囲」 というのは、時代劇なのに主役の近松がしゃべってるナレーションに英単語を紛れ込ませたり、みたいなことなんですが、これは 「あの世」 の近松が現代人に語りかける、というシチュエーションを想起させ、特に羽目を外しているわけではない。 その最大の許容範囲は、近松に 「大阪で生まれた女」 の替え歌を歌わせ、そこに 「うた 近松門左衛門」 というスーパーインポーズを入れる、という遊び心、といったところでしょうか。

 特にこのニューウェーブ風時代劇の、ひとつ間違えば単なるコメディドラマに堕してしまいそうな危ういバランス感覚を支えているのが、主演の近松を演じる松尾スズキサンであることは確かでしょうね。
 この人、「あまちゃん」 で有村架純チャンを雇っていた喫茶店 「アイドル」(だったっけな)のマスター役、というのがいちばん有名なところですが、コメディ演劇集団主宰の個性派俳優、という括りでよければ、その肩書きが 「あまちゃん」 なんかのチョイ役より、最大限に生かされている作品になっている、と思う。

 このドラマにおける笑いのツボ、というのは、「他人に決して伝わることのないツッコミ」 ではないか、という気がします。
 このドラマの近松は、本人がナレーションで明かしている通り、「スランプ中のシナリオライター」。 他人から褒められたくて、昔ちょっと味わったいい時代の栄光にしがみつきたくて、自分の才能の限界を思い知りたくなくて、ウジウジしている男。
 そんな男が日々直面するのは、「他人が自分に対して向けてくるさまざまな思い」 なのです。 あわよくば利用してやろうとか、昔はよかったのに、という憐れみとか、なんという情けない人生を送っているのだ、という失望とか。
 それらに対して、近松は心の声でいちいち弱々しいツッコミを行ないます。 弱々しいから、他人には絶対伝わらない。 ドラマ的にはそこが面白いのだが、また同時に、それが哀しくもある。

 その、「弱々しい心の叫び」 を表現する、松尾スズキサンの演技が絶妙なさじ加減なんですよ。

 それらは確かにパンチに欠ける笑いなのですが、その 「力の抜け加減」 でこのドラマを引っ張っていってしまう。 正面突破のお笑いではない弱々しさに味をつけられるのが、コメディ演劇集団主宰、としての才能なのではないでしょうか。

 その面白うて哀しい戯作者に絡んでくるのが、字幕では黄色で実はこっちが主役扱い、という青木崇高サン。 青木サンが演じる万吉、という男、最初 「親不孝の不孝糖」 という飴を売っている棒手売りなのですが、半ば(いや完全に)強引な形で近松に近づいてくる。
 ここで当時の時代背景を説明しなければならんのですが、面倒なので簡単に言うと、当時の将軍綱吉が親孝行を奨励していた(ホンマ簡単やな)。
 世の中親孝行がもてはやされるそんな風潮に 「オレも親孝行せにゃイカン」 と近松の精神的な足枷となっていたところに、その万吉は 「そんなもん辛気臭い」 という、逆説的な存在として登場してくるんですよ。
 だからその、万吉自体が実に現実味のない存在。 素性が知れないし、もしかすると近松のなかにくすぶっている 「世の風潮に対する反駁」 の具現化した、「もうひとりの自分」 なのかもしれない。
 近松は万吉の突飛な行動にいちいち呆れ果て反発するのですが、彼は近松をスランプから脱出させるアイコンであることは、容易に想像がつきます。

 しかしこれらの話の運びかたが、いちいち浄瑠璃とか歌舞伎とか、落語とかの下敷きの上に構築されているのは、さすがに 「ちりとてちん」「平清盛」 の脚本家、藤本サンの手腕であります。

 さらに注目すべきなのは、劇中でも触れられていましたが、この話が戦国の世が終わってからおよそ100年後の話である、ということ。
 つまりこの物語は、元禄時代という大昔を描きながら、実はいまから30年くらいあとの日本(いま戦後70年ですからね)を予見しよう、という、壮大な試みも隠されている可能性がある(オーゲサすぎ?)。

 今週放送された第2回目はまだ見ておりませんが、いまんとこ 「フラジャイル」 を抜いてこれが冬ドラマの中でベスト。

 そしてこの記事は、その3に続くのであります(「フラジャイル」 の感想はどうした?)。

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2016年1月18日 (月)

2016年冬ドラマ、第1回目を見て その1

 実はこの記事の前の記事 「『ドラマの殺人』 について考える」 は、この記事になるはずでした。 あらためて 「どーしてそうなったのか」 を説明しながら話を進めていきたい、と思います(記事のコメント欄には書いたけど)。

 まず、先の記事にも書いた通り、今回ちょっと 「刑事モノ、犯罪モノ」 という、普段ならパスするドラマまで、新番組はほぼ全部見てやろうと思いましてほぼすべて予約録画、そしてそのうち、2、3のドラマを除いて見まくったのです(除いたのは 「ちかえもん」「ケイコとマナブ」 いや違った、なんかダンナを殺そうとかゆーやつ)。

 そこで感じたトータルな感想が、「人を殺すとか殺されるとか、多過ぎ」。
 特に嫌になったのが、日テレ土曜夜9時の 「怪盗山猫」 でした。

 このドラマ、最後まではなかなか面白い、と思って見てました。 亀梨クンは大泥棒を 「ちょっとイっちゃったルパン三世」 みたいなノリで演じてたし、妙なところで佐々木蔵之介サンが刑事役だったり都知事に立候補するニュースキャスターに北村有起哉サンが出てたり 「なんだキャストの無駄遣いだな」 と思いながら(笑)見てた。
 そしたら、怪盗山猫一味のドランクドラゴンの塚地サンが、ラストで殺されちゃうんですよ。 状況的には亀梨クンが 「テメー、ヘマばっかりしてオレを裏切っただろ」 と言って、響く銃声、次のシーンでは無残に殺された塚地クンの遺体。
 たしかに亀梨クンが撃ったかどうかはドラマを見ている限り分かんないし、ひょっとして塚地クンが死んだのはフェイク?とも疑われるのですが、それまで見ていた楽しい気持ちがここで一変。 非常に後味の悪いものになってしまったのでした。

 特によかったのは亀梨クンと、「天才ハッカー」 の広瀬すずチャンの怒鳴り合い。 ここでは犯罪者の、被害者意識丸出しで勝手で甘ったれな心理を広瀬すずチャンが好演していました。
 亀梨クンに引きずられて犯罪に協力してしまう成宮寛貴サンもよかった。 この人、なんか私は見てないけど、「相棒」 ではかなり印象悪くなったみたいだから(笑)。

 しかしドラマの中で何度も、山猫役の亀梨クンは 「オレたちは義賊なんかじゃねえ。ただの犯罪者だ」 と断ってたから、「山猫ってホントはいいヤツなの?悪いヤツなの?」 という疑問を見る側に植え付け、視聴者を引き付けておこう、とする演出なんだ、と思いますよ、塚チャンが殺された、というラストの展開は。

 でもそんな演出、要りませんから。

 ホントにいいヤツだったら、ワルモノから自分たちが奪還した振り込め詐欺による汚い金を、被害者の老人たちに、返すでしょ(笑)。 「そんだけお金を持ってんだから、別にいーじゃん」 という感じで、「それじゃ振り込め詐欺してんのと同じじゃん」 というか(返した、っていう場面、ありましたかね?)。

 私が気になるのは、山猫という男がどうしてそういう生き方をしているのか、という点であって、犯罪者なのか義賊なのか、っていうレッテル貼りではない。
 だって 「ルパン三世」 だって、同じようなもんじゃないですか。 ルパンは基本、大泥棒ですから。 このアニメを私たちが追い続けるのは、ルパン、という男の生き方を見たいがためであって、ルパンが人道的にいいのか悪いのか、という視点で見てるわけじゃない。

 そして私がまた嫌になったのは、同じ日テレでスイマセンが、水曜夜10時の 「ヒガンバナ~警視庁捜査七課」。 堀北真希チャンが人の心を読める刑事とかで、その捜査七課というのがまた、ドラマによくありがちな 「ホントはそんなのない課」。 女性ばかりで普段は女子会トークばかりなのにいざとなるとスキルがエレーある、という、「テメーラ、もっと普段からマジメにやれ~」 という、…まあよくありがちな。

 まあホリキタのハスッパな演技が見てらんないとかYOUサンがどうだとか話がもたつき気味とか錯綜しすぎとかいう議論は置いといてですね(笑)。

 第1回は初回限定大盤振る舞い編でふたつの犯罪が同時進行していくのですが、その、フェリーに爆弾を仕掛けた、とかいう犯人のことで。

 コイツがチョームカつくんですよ。

 なんかもう、こういう演出って、何のためにやるんですかね?

 前の記事のコメント欄にも書いたのですが、作者はこういう愉快犯みたいな犯人をドラマに引っ張り出してきて、犯罪を犯した奴らに対して大衆の怒りを煽って、市中引き回しの上獄門の刑でもさせたいんですかね。 北朝鮮や中世ヨーロッパみたいに、ギロチンによる公開処刑でも唆しているんですかね。 死刑廃止論者を悔悛でもさせようとしてるんですかね(まんまコピペ…笑)。

 こういう 「世の中なめてんじゃねーぞ」 的な犯人は、せめてドラマの中だけでもじゅうぶんなお仕置きをするべきだと思うのですが(そのような場面はなかったけど)、あったらあったでそれはそれでこっちの気分まで嫌になってしまう。 「目には目を、歯には歯を」 かよ、というか。

 いずれにせよ、ドラマを見たあとで、こちらの気持ちがささくれだっているのを感じることは、けっして気分のいいもんじゃありません。
 ホリキタ、こういうの見たいわけじゃないんだけどなー。 去年の変なセレブ病院ドラマとか、変に先輩女優に囲われたがるし、なんか迷走してる、このコ。 まあもともと、そんなに主役としての力量や熱量がある役者だとは思わないのですが(「三丁目の夕日」 あたりが無難なのではないか、と)。

 さらに鬱気分が助長されるのは、TBS金曜夜10時の 「わたしを離さないで」。 カズオ・イシグロ原作を綾瀬はるかサン主演で、というドラマですが、いきなり臓器摘出をしたばかりの男に注射を打って死亡させ、火葬する、というショッキングなオープニング。
 それを無言のまま無表情で遂行した綾瀬はるかチャンの、子供時代に場面は転換する。
 出てきた子役はチビあさチャン。 というか、もともとチビ八重チャンだったのですが(笑)。 鈴木梨央チャン、ようやく綾瀬はるかチャンのもとに戻りました(笑)。 この子がいるのは、人里離れた孤児院みたいな学園。 この学園、かなりショッキングな役割を果たしているのですが、すでに私は 「もう人殺すとか、どうにかしてよ」 みたいな気分でして。

 ただ、話は 「ドン暗」 の極致なのですが、子供たちの演技や、その学園の美術教師である甲本雅弘サン、学園長である麻生祐未サンたちの演技でどんどん引き込まれる感じ。
 こういうのは、精神状態が健康でないと視聴不能かもしれません(笑)。 落ち込んでいるときに見るべきドラマじゃないです(笑)。 でもそこが、「ドラマのTBS」 の本領発揮している部分でもありまして。 言ってみれば、かつての金曜10時枠の 「未成年」 とかその手の類のドラマかな? ちょっと現実離れしていますが。 別の世界に連れていってくれます。

 しかしやはり、「また人殺しかよ」、と思ったのは事実でして。

 こんなのなら、まだ同じTBSでも火曜夜10時の深キョン主演、「ダメな私に恋してください」 でも見ているほうが、心が癒される、というもの(笑)。
 このドラマ、とにかく主演の深田恭子チャンが(「わたしを離さないで」 の綾瀬はるかチャンの役名が、恭子だったよなァ…笑)、これでもかというくらいのバカ女で(笑)。
 こういうバカ女をやらせると、徹底的にうまいなぁこの人(褒めてるんでしょうか?)。
 あまりに話自体がバカすぎて、実は開始10分くらいでリタイアしかけたのですが、見続けていたら結構ジーンとする場面があった(ただしもう内容は覚えていない…爆)。
 相手役は今話題の、ディーン・フジオカサン。 この人、外国のドラマで頭角を現したらしいんですが、このドラマ自体もどことなく、台湾とか韓国ドラマのにおいがぷんぷんするような感じで、その作りでこちらの肩の力が、スーッと抜けていってしまうんですよ。

 それにしても深キョン、ドラマでは30女でどーしたこーしたやってたけど、ドラマに出てきた後輩の元同僚だかなんかが自分を24歳って話してたのに、深キョンのほうがどう見ても年下(24歳の人に失礼すぎる…)。 結局オトコの本能で、「可愛いバカ女」 深キョンを見続けリタイアする機会を失った、というのが本当のところかもしれません(でも次回も見たい感じ)。 感覚的には、綾瀬はるかチャンが一昨年やっていた 「今日は、会社休みます。」 のバカ女バージョン、というか(バカ女バカ女と、女性の読者が離れていくぞハシモト…笑)。

 そして一番面白かったのは、フジテレビ水曜夜10時の 「フラジャイル」

 ですが、ちょっと今日はもう力尽きました。 なにしろ大雪でちょっと早めの出勤になるかもですので。

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2016年1月17日 (日)

「ドラマでの殺人」 を考える

 今年の冬ドラマ。

 私は人が殺されるのとか刑事モノとか、そういうドラマを極力見ないようにしているのですが(それはそういうのが多いテレ朝のドラマを極力意識の中から除外している、ということでもある)、今回の冬ドラマは、あまりそうしたフィルターをあまり自分にかけずに見てみることにしました(でもやはり、テレ朝は除外、というパターンが多い)。

 しかしこうしてあらためて見てみると、 「殺す」 だの 「殺される」 だのというドラマ、多いですよね。 そんなのばっかり見ていると、殺人ということに慣れっこになってしまうのが嫌なんですよ。
 何か気に入らないことがあると人を殺す。
 その事情をドラマ制作者が考えれば考えるほど、それを見る人の心のなかに、殺人に対する 「やわらかな免罪符」 が増えていく。
 「それだけの事情があるのは分かるけど、人を殺すのはダメだよね」。
 人を殺すのに事情もクソもあるか、と思いますよそもそも。

 ドラマ制作者は、ドラマの終わりに殺人者に対して、その報いを受けさせるのが常だけれど、それはドラマ制作者の良心でしょう。 そうさせないと殺人助長にしかならないから。 でも、その結末を万人が、「だから殺人なんかしないほうがいいのだ」、と捉えるわけでもない、と私は思うのです。
 いちばんひどいのは、さんざん人を殺しておいて、その犯人が自殺してしまうケース。 「死に逃げ」 じゃないですか。 卑怯このうえない。

 また、殺人が行なわれるドラマは、往々にしてその手口の披露の場でもある。
 トリックの手口を公開する、ということは、手品のタネをばらすというレベルでとどまるならまだしも、完全犯罪、という、警察の捜査の抜け道を、ドラマを見る者たちが一緒になって模索する道筋になったりする。

 それに、「人を殺したい」 などと考えた途端、それがすごくたやすく出来てしまうことを、テレビ制作者だけでなく世間の人たちは、もっと考えたほうがいい。 それをしないのは、自分の人生をダメにしたくないからなのだが、自分の人生どうなったっていい、なんて考えている人が人を殺すことを考えたら、目も当てられないじゃないですか。

 それが現在最悪の形で顕在化しているのが、ISの自爆テロなのではないか、と私は感じています。 テレビドラマとは一見関係ないことですけどね。 あれは 「自分の人生どうなったっていい」 どころか、そうすることでカミサマに褒められる、自分の人生がそれで最高によく成就できる、とか考えている人たちがやっていることですよ。

 ISのタチの悪いところは、ISが組織として成立していない、という部分だと思います。 例えば組織が大きくなれば、どんな組織であれ組織が世間から悪く思われないための自己制御力が働くものです。 「こういうことをやってしまえば、国際的な評価が地に落ち、組織の存続に関わる」。 それがISにはない。 どうすれば世の中に今まで自分が味わってきたモヤモヤを復讐することが出来るのか。 そういう究極に自分勝手な私情で動くうえに、それが神の意志で意義あることへと括られてしまうところにもっとも根の深い問題がある。

 こうした動きを封じ込めるのは、空爆やら掃討作戦ではまったくといっていいほど、根本的な解決には結びつかない。 だって世界のそこらじゅうに、普通の人たちと同じように、ISの戦闘員やその予備軍が散らばっているんですから。

 日本では 「友人関係のモヤモヤを晴らしたかった」 から自分のおじいちゃんおばあちゃんを殺すみたいなことやってるレベルだけど、でもそれも、「究極に自分勝手な理屈」 で人を殺すという点ではISのテロと同レベル、なんだと私は思います。

 人殺し、というのはテレビドラマを作るうえで、「究極の状態」 を作りだす、最も簡便な方法であることは論を待たない。 そこから人の命の尊さを導こう、とする姿勢は、間違ってはいないのかもしれないけれど、そればっかりを見せつけられるのはちょっと辟易してしまう。

 簡単なんですよ、人殺しの扉を開くのは。

 どんな家にも包丁はありますからね。

 国際的な紛争やテロは、包丁が銃に変わったから、スケールが大きくなってしまうのです。 もともと人を殺す武器なんか、世界中から消えてなくなれば、殴り合いで済むことなんですよ(撲殺とかあるけど大戦争にはならないでしょう)。 言葉でだって人を殺せる。

 でも、人を殺すのに、事情とか理屈とか、そうじゃないでしょう。

 絶対悪なんですよ。

 誰もがそのことを知っているのに、それが出来ない。 必要悪とか、もっともらしいバカな理屈を持ち出す。

 それはテレビドラマが理屈とか事情とか、考えすぎてるせいも、ほんの数パーセントでも、あるんじゃないですかね。

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2016年1月10日 (日)

「真田丸」 第1回 NHK 「真田モノ」 の遺伝子

 今年51歳になるハシモトのテレビ鑑賞史のなかで(オーゲサ)、戦国武将の真田家との付き合いはいずれもNHK絡みになります。 まずはその、オッサンの長~い昔話を本年の大河ドラマの1発目にしていこうと思う。

 ハシモトが真田幸村と最初に出会ったのは、NHK人形劇の傑作 「新八犬伝」 の後番組として放送された 「真田十勇士」(1975-77年)。
 「新八犬伝」 は今は亡き坂本九サンが黒子として番組進行役を務め、玉梓が怨霊などのキャラも立っていた超面白い人形劇でしたが、そのあとを受けた 「真田十勇士」 はそれに比べるとかなり地味めな渋い人形劇だった覚えがあります。 私も途中まではフォローしていたんですが、なんか最後まで見た、という記憶がない。
 ただ覚えているのは、徳川家康がスゲエ悪者で(笑)そのワルモノにいいように滅びの道を余儀なくされる豊臣方に、ものすごい感情移入した、ということ。
 原作の柴田錬三郎サンの本も買いましたよ。 確かNHK出版ではなかったかと(うろ覚え)。 人形担当の辻村ジュサブロー氏が本の挿絵も描いておりましてですね。 その絵が、巻を追うごとにヘタクソになっていく(笑)のと話への情熱が醒めていくのとが同時だった気がする(笑)。 5巻くらいまでは買ってたかな~。

 その 「真田十勇士」。 基本的な主人公は幸村に仕える忍者の猿飛佐助だったと思うのですが、この造形がですね、今で言うとAAAのなんとかゆう人みたいな(誰だっての)、とてもかっこよくて。
 今回の 「真田丸」 にも、「佐助」 というのが出てましたね。 藤井隆サン。 これは幸村の父である昌幸に仕えている、という設定のようですが、「真田十勇士」 では確か、武田勝頼の隠し子だったような?(シーマセン、よく覚えていない)

 でもそういう設定だったせいか、「真田十勇士」 では物語の発端が、武田勝頼の最期だった。 戦国武将の雄、武田家の滅亡を物語の最初に据えている、という点で、今回の 「真田丸」 はその遺伝子を受け継いでいる。
 つまり主役の幸村(ここでは本来の呼び名である信繁)が堺雅人サンで最初から出てくるんですよ。 子役を使ったりしない。 ここはちょっと意外でしたが、しかし物語を第1回から全開で正々堂々と突っ走ろう、とする脚本の三谷サンの意気込みが感じられて好印象でした。

 その潔さはオープニングタイトルにも如実に表れていた気がします。 ここ数作の大河ドラマではもう恒例となって、「もうネタ切れなんじゃないか」 と思われていたCGを、最小限に抑えた実写に頼った作り。 まさに正面突破(…と思ったけど、あらためて見たら結構CG使ってた…訂正!)。

 そして第1回で滅びの道に迷いこむ武田勝頼を、平岳大サンが演じる、というのも、NHK大河を見続けてきた者にとっては感慨を禁じ得ません。
 平岳大サンは名優・平幹二朗サンの御子息でいらっしゃるのですが、平幹サンと言えば1988年の大河 「武田信玄」 で、信玄の父親である信虎を演じた経緯がある。 この信虎、もう狂気の乱れ打ちで、冷静沈着な息子晴信(のちの信玄)役の中井貴一サンととても対照的な、記憶に残る役だった。
 それを一代置いて、平岳大サンですからね。 これは意図的なキャスティングなのかな?

 意図的である、と言えば、もっとも分かりやすいのが、今回幸村の父親昌幸を演じる草刈正雄サン。 草刈サンは番宣でさんざん紹介されていたように、大河ドラマではないがそれに准じた時代劇としてNHKがかつて放送していた水曜時代劇 「真田太平記」(1985-86年)で、真田幸村を演じていました。
 「真田太平記」 には、ハマりましたよ私、当時。

 この 「真田太平記」 の前は 「宮本武蔵」。 役所広司サンが武蔵役で、お通が古手川祐子サン。 これもすごい傑作でした~。 本チャンの大河でいまの市川海老蔵サンがやった 「武蔵MUSASHI」 などとは比べ物にならないほど面白かった~。 吉川英治の原作も、貪るように読みましたよ。 止まんないんだ、面白くて(笑)。
 で、「真田太平記」 の後番組が 「武蔵坊弁慶」 で(あ~止まらない)、弁慶を中村吉右衛門サンがやって。 これも後発の大河ドラマ 「義経」 なんかより数倍面白かった~(笑)。
 つまりNHK水曜時代劇は傑作揃いだったんですよ当時。 大河が迷走していた時期だったからかな~。

 31年前に幸村を演じていた草刈サンが、その31年前に丹波哲郎サンが演じていた、父昌幸を演じる。 これほどのリスペクトがございましょうか。
 丹波サンの昌幸は実にうまくて、のらりくらりと一筋縄ではいかないクセ者を見事に演じておりました。 今回、その遺伝子は草刈サンにも流れていて(まあ同じ人物だから同じにはなるんでしょうけど)「武田は滅びる!」 と息子たちに言っていた舌の根も乾かぬうちに武田の軍議では 「武田は盤石です!」(笑)。 草刈サンも、「美の壺」 で肩の力を抜いたご主人をなさってますから、その 「いい加減さ」 がうまく今回のキャラにも作用している、と言えましょう。

 ただまあ、昔は私も、「草刈サンの演技はどお~もクセがある」 と、あまりいい評価はしてなかったんですけどね。 でもなんか、どこか憎めない演技をする人でした。 歳を重ねて、これが名優と呼ばれる境地に達しつつある、というのはすごいことです。

 そして 「真田太平記」 では渡瀬恒彦サンが演じていた幸村の兄・信之。 これを今回、大泉洋サンが演じるのですが、「まれ」 のお父さん役であるとか、今まで軽い役どころが多かったのに、大丈夫なのかな?というのが最初の感想でした。 なにしろこの信之は、徳川方に人質に出されて関が原では東軍、豊臣滅亡後は幸村のせいで(笑)かなり苦境に立たされる人物(真田に関しては結構詳しいぞ…笑)。 だけど 「真田丸」 は幸村が死んで終わるみたいだからい~のか?(笑)。 ただ初回を見た限りでは、大泉サンの真面目なキャラがよく出ていた気がします。

 そして、脚本の三谷幸喜サン。

 「富士山や浅間山が噴火でもしない限り武田は安泰」 としゃべった直後に浅間山を噴火させてボー然(笑)みたいな、コメディの片鱗は垣間見えたのですが、どうも率直に申し上げて、この人、「ピークは過ぎたんじゃないか?」 と思ったりしてるんですよね。 こないだ映画の 「清須会議」 がテレビでやってたので見たんですが、つまんなくて15分でリタイアしちゃったし。
 初回の感想も、私自身の思い入れを別とすれば、「武田勝頼の悲哀はとてもよく表現されていた、だけど主役はあれでい~のか?」 みたいな感じで(笑)。

 まあ、幸村もとい信繁も、最初はオチャラケているけどそのうちにすごい人物になっていくんだろうなー、ということで。今後に期待…。

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「花燃ゆ」 最終回まで見て

 史上最低レベルの視聴率を叩き出した(笑)去年の大河ドラマ 「花燃ゆ」 でしたが、同じサイテー視聴率の 「平清盛」 と比べると、内容としてはたいへん劣っていたと言わなければなりません(歴然としててあらためて言うまでもないが)。 当ブログでも、第1回のレビュー以来記事がまったく途絶えた最初の大河となりました(記事付属のコメントでの言及は続いたけど)。

 内容が悪かったそのいちばんの原因は、複数の脚本家による語り口が、互いの長所を引き出していくよい化学反応を起こさず、内容の方向性の拡散を助長してしまった点にある(と断言…笑)。 巷間言われる、「吉田松陰の妹というネームバリューの低さ」 や 「主役の演技力」 などは問題の核心から遠く離れている考察だと私は考えます。

 なぜなら、一庶民の人生を描いた(しかも完全フィクション)かつての大河ドラマ 「いのち」 はじゅうぶん面白かったし、演技がたとえ稚拙であっても周囲の演技達者に引っ張られれば、視聴には耐えうるものに昇華するものだからです。

 「花燃ゆ」 の脚本家は当初2人体制。 それが途中でひとり加わり、後半(3分の1?)は小松氏の完全な独壇場。
 これって当初の目論みと言うか意図が完全に失敗だった、とNHK自身が認めた何よりの証拠でしょう。
 私が考えるに、2人体制でやる以上はもっと話し合いを密に持って内容の齟齬が起きないようにするべきだったと思いますね。 この回はあなた、この回はあなた、という振り分けしか行われなかったんじゃないのか。 お互いの脚本家はただ予定表に書かれた内容に沿いながら、お互いの仕上がった脚本家を読むくらいの意思の疎通しか行われなかったのでは?

 私がいちばんおかしいと感じたのは、長州藩の大奥(厳密には大奥は江戸にしかないが)に上がったときの主人公美和の目的(自分の夫がどうして死ななければならなかったのかを大殿さまに訊く、とか?…もう忘れた…笑)が、結局何ひとつ具体的な答えを用意できないままに終わってしまった、ということ。 そもそも藩に迷惑をかけた久坂玄随の妻を城に召抱えるという説明の仕方がなってない。 だから結果的に久坂の妻である美和(文)の存在意義自体が大きくぼやけてしまう。

 その、物語の迷走の中核に存在していたのは、長州藩主のそうせい様だったように感じます(名前は、毛利…えーと…笑)。
 この人、結局なにを考えてたのかが最後まで見えなかった。
 長州藩の頭がこれだから、長州藩自体がなにをやってるのかまったくつかめない。 そうせい様が吉田松陰のことをどう評価していたのかもつかめない。 吉田松陰の評価が定まらないから、松陰の妹の立ち位置もさらにぼやけていく。

 物語の流れを追っていくと、その吉田松陰が存命中はまだ話に緊張感がありました。 特に松陰が自分の考えを間違っているのでは、と自問自答するくだりなどは、この物語のいちばんの見せどころではなかったか、と思います。
 だがその松陰の思いが、どのようにその後の歴史に浸透していったのかという、いわばこの物語を面白くするうえでいちばん大事な部分が、「女子供向け大河」 というヘンな単純化によって完全に反故にされてしまった。
 そりゃ松陰を否定するのはかなり勇気がいりますけどね。 そこに切り込まないと、この大河の存在意義もない。

 ただ、吉田松陰の存在自体が強烈過ぎて、松陰の死後、物語の方向性はますます混迷を深めた、と言っていいでしょう。 そもそも吉田松陰でこんなに引っ張らなくてもよかったのかもしれません。
 いや、それは選択の問題でしょう。 「妹をやる」、と決めた最初の時点から、松陰の生前と死後の物語はガラッと変わることは分かっていた。 松陰の役割を死後を楫取に託したのが結局失敗に終わった、ということになるのでしょうが、それに成功していたらもっと物語は引き締まっていたかもしれません。

 結局のところ、「花燃ゆ」 最後の脚本家となった小松氏がこの物語の落とし所として使ったのが、「いのち」 で主役を張った三田佳子サンを要所で起用することだった(小松氏かどうかは知らんけど)。 三田佳子サンの役は、群馬の生糸産業のいわば上層にいた人物でしたが、美和の人生をきちんと普通人としてのステージに下げることに成功した気がします。

 しかしながら、小松氏には最後の厄介な仕事が残っていた(笑)。

 それは、楫取が美和の初恋の人だった、という、物語当初の設定をうまく回収することです。

 これは 「花燃ゆ」 という、 「吉田松陰の妹」 かつ 「群馬県初代県令楫取素彦の妻」、という人物の物語にとって、ドラマチックを演出するための唯一の手段だった気がするのですが、それが物語の最後に来て、わざとらしさを醸しだした最後の悪臭のもとになってしまった、と私は思うのです。
 つまり、第1回で純愛を演出してしまったがゆえに、話の風呂敷を畳む終盤で、楫取の妻であり美和の姉である優香サンの 「亡くなるのを待つ」 みたいな、ヘンな流れが出来てしまった。
 
 ここでさらに厄介だったのは、姉の優香サンの性格設定が当初、かなりキツイものだったこと。 自分の姉の性格がキツイまま、後妻に座るのはいかにも居心地が悪いため、小松氏は姉の性格を大きく方向転換せざるを得なくなったのです(と私は踏んでます…笑)。

 吉田松陰の実家である杉家において、唯一現実を直視していた姉優香サン(役名が思い出せないが調べる気がない…笑)は、「花燃ゆ」 のお花畑的なベースにとてもよいスパイスを与えていたのですが、これが物語終盤に来て 「そのままじゃマズイ」 ということで(笑)、姉はまるでマリア様みたいに穏やかな性格になっていった。 そしてその齟齬を隠すために、前半での優香サンの役割を、久坂の婚外子とか(笑)なんとかとかいう息子に委ねた(もう名前がね、全然ね、はぁ…笑)。

 こういうことに神経を使い過ぎた結果(笑)、美和と楫取は鹿鳴館で踊ったあと群馬を去って山口で新たな人生を迎える、という、「楫取美和の人生これからじゃん」という、実に中途半端なポイントで物語の幕引きを強引に迫られてしまった(笑)。 結局このドラマ何がしたかったのか、と言うと、美和が初恋の人と結ばれてメデタシメデタシ、という、実にクーダラナイクーダラナイのココロになってしまった、という…。

 鹿鳴館、というのは明治期の日本が諸外国に対して 「こんなに日本は進んでますよ」 というクーダラナイデモンストレーションの賜物だった、と学校では習いましたが、図らずも薩長が形成していった明治期の日本のありかたと、主人公の生き方が(辛辣に言えば)リンクしてしまったようにも思えた、そんな残念な最終回になってしまった。

 こういう、日本のドラマの代表とも言える大河ドラマにおいて、このような方向性の定まらないものを見せられるのは、もうこれっきりにしてもらいたいものであります。

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2016年1月 9日 (土)

「あさが来た」 まだ視聴はまったく追いついてませんが…

 悲しい習性か、自分がいくら非常事態になっても、テレビだけは相変わらず見ているわけです(笑)。 とは言うものの、本当に全部見たのはここ数週間、ようやっと落ち着いてからでした。 「あさが来た」 のような毎日やっているモノはとてもおっつかない。 まだ1ヶ月以上たまってます(炭鉱でいろいろトラブってる部分…笑)。

 ただ、視聴がまったく追いついていない 「あさが来た」 ですが、誤解を恐れずに言えば、あさがビジネスに関わってから、その根幹をなすビジネスの表現はすこしばかりユルイのではないか、という気はずっとしています。
 まず、あさのいる加野屋のビジネスや、あさを取り巻くビジネスの概要が見えてこない。 例えれば、「自分の旦那の仕事を奥さんが外から見ているようなアバウトさ」、が絶えずつきまとっている気がするのです。
 そしてそこに存在しているのは、精神論。 それが中心でストーリーが動いていくから、堅苦しいビジネスチャートなど必要ない、と言えばそれまでですが、なんかどこか、白々しい。
 それはひょっとすると、あさが一生懸命勉強している商売の知識とかがちっとも顔を出さない、というところに起因しているのかもしれない。 「あさは必死になって勉強しました」、というのが上っ面っぽくて、「頑張り」 が、見えてこないんですよ(炭鉱では工夫たちと一緒に顔を真っ黒にして、その頑張りは見えたのですが)。

 しかし世間的な評判はよろしいようで、それが視聴率にも如実に反映しているのですが、それは 「難しいビジネスの小理屈」 を排除した 「見やすさ」 に原因があるのではないか。 思えば 「マッサン」 の時も、ウイスキーの細かい醸造方法などを極力排除した作りになっていました。

 世間受けしているほかの要因としては、あさの対極に存在している姉はつの対比の見事さや、玉木宏サンやディーン・フジオカサンなどの脇がかなり効果的に機能していることもさることながら、主人公のあさが性格的に男まさりで商売に首ったけの先進的女性な存在でありながら、日本的なつつましさも併せ持っている点にも注目します。
 あさって、かなり礼儀正しいんですよ。
 自分が商売にしゃしゃり出てくることをとても気に病んでいるし、出しゃばったことをすれば即座に相手に謝る。
 それが上っ面だけであればやはり前述のような 「白々しさ」 を感じてしまうのですが、こと 「礼儀正しさ」 に関しては、その白々しさを感じない。 それはきっと、あさを演じる波瑠サンの、女優としての 「居住まいの正しさ」 のせいなのでしょう。

 まあ、だから 「加野屋の四男坊」「男まさり」「ヒゲが生えている」 というドラマ上の表現が、逆に当たってないように見えてしまうんでしょうけど(笑)。

 ともあれ、「主人公が相手のことを思える人物かどうか」。 それは自分の夢に邁進することが本業の、朝ドラ主人公の好感度を左右する、もっとも重要なファクターである気がするのです。

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ブログ再開、いたします

 昨年末は私の個人的な事情でお休みしておりましたが、そろそろブログを再開しようかな、と思います。

 まず、この場を借りて、私の勝手な言い訳に対してコメントをくださった皆様すべてに、厚くお礼申しあげます。 身に沁みますね、しんどい時にこのような温かい(そして厳しい叱咤の)コメントをいただける、っていうことは。 つくづく有り難いなー、と感じております。

 しばらくは、かつての文章の勘が戻って来そうもないので、物足りない部分もございましょうが、ご了承ください(まあ元々そんなに大したモノカキではございませんが…笑)。

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