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2016年4月

2016年4月30日 (土)

「ラヴソング」 第2-3回 失うことの痛み

 開始から 「年の差恋愛」 というキーワードがついてまわるこのドラマ。
 私も当初、「そういうドラマなら興醒めする」 と考えていたのですが、じっさい3回まで見た限りで言うと、「ハタチくらいの女の子が自分の父親みたいな年の男に恋をする」 という内容ではあるが、それは 「憧れ」 でしかなく、危惧されたような相思相愛水域にはいまだ踏み込んでいないように思えます。

 しかしなお、ネットの反応を見ても、このドラマに対する世間の認識には著しく誤りがある。 ネット民は 「そもそもフジテレビを見ない」 のだから、そういう誤解が解けないことは仕方ない。 ただし私としては、「OUR HOUSE」 の項で指摘したような、「ダメなフジテレビ」 がこのドラマでは感じられないことは、ここで表明しておきたい、と思います。 フジテレビは、全部が悪くなってるわけでもない。

 まあ、局のイメージが悪くなるということは、こういう良質のドラマの注目度も下がる、ということなんでしょう。
 それに、「フジテレビ流」 の番宣が展開するごとに、そういうのに食傷している層の反発を食らって逆効果だ、ということは確か。 第4回ではフジテレビの女子アナが整備士としてゲスト出演、などという記事を見たけど、こういうのが生理的に嫌がられるということに、フジテレビはまだ気付いていない。

 このドラマの最大の吸引力というのは、吃音に苦しむ佐野さくらを演じる、藤原さくらサンの 「歌声」 にあると思われます。
 だから彼女の歌声がいい、と思わない人は、あまりこのドラマを見たって仕方ないと思う(笑)。 私は彼女の歌を聴いて、もうすでに2回泣いちゃったんですが。
 どうして泣けるのか、というと、劇中で彼女の歌う 「500マイル」 が、沁みるからなんですね。

 ネットによる情報だと、ドラマでの彼女の出身地である広島と、ドラマの舞台である東京とは、距離にしてだいたい500マイルだ、という。 ドラマ設定としてその距離に確かな根拠が付帯していることを置いても、遠く離れた故郷を思う心と、その孤独が、吃音で苦しむ彼女の設定と、ぴったり合っていると思うんですよ。

 次の汽車が 駅に着いたら この街を離れ
 遠く500マイルの 見知らぬ街へ
 僕は出て行く 500マイル

 ひとつ ふたつ みっつ よっつ
 思い出数えて 500マイル

 優しい人よ 愛しい友よ
 懐かしい家よ さようなら

 汽車の窓に 映った夢よ
 帰りたい心 抑えて
 抑えて 抑えて 抑えて 抑えて
 悲しくなるのを 抑えて

 次の汽車が 駅に着いたら
 この街を離れ 500マイル

 このスタンダードナンバーの訳詞が、7年目の命日も間近な忌野清志郎サン。
 忌野サンの訳詞というのは、ジョン・レノンの 「イマジン」 なんかもそうなのだけれど、かなり言葉は削ぎ落とされるにもかかわらず、原文に忠実、という印象をいつも受けます。
 いわばそれは、「無垢」 をいつも連想させる。
 その 「無垢」 は、吃音で世間と距離を置かざるを得ないさくらの心理とも、奥低で結びついている。

 ドラマでは、さくらにとってこの曲は、死んだ母親が好きだった大事な曲です。 回想シーンから、母ひとり子ひとりの状態で母親が死に、養護施設に預けられ、その時からすでに吃音になっていることが分かります。 そこでみんなにからかわれたりしているところを助けたのが、真美(夏帆サン)であったわけです。 真美とは当然、親友となり、一足先に東京に旅立った真美を追って、さくらも広島を出ている。

 だから広島には、基本的にいい思い出があるわけではないように感じる(まあ、広島カープの黒田が初恋の人とか、あるのだけれど…笑)(オッサンフェチの兆候がここにも見られる…笑)。
 とまれ、この曲にある 「望郷の念」 の中心は、おそらくそれは広島に向かっているわけではない。 彼女にとっての故郷というのはあくまで、遠くは 「母親」 であり、いまは 「親友の真美」 であるように思われるのです。

 その親友の真美が妊娠し、結婚してしまうことで、彼女は今まで真美におんぶにだっこだった自分の人生を、根本から改めなければならない必要性に迫られている。
 その苦しさや、「失われつつある自分の故郷=母親、真美」 への思いが、彼女の歌う 「500マイル」 には凝縮されていると思うのです。 それが、私を泣かせる。

 吃音の彼女にとっては、自分の親しい人以外と付き合うことは普通の人以上につらいことなのですが、人間というもの、特に吃音でなくとも、他人とのかかわりに苦痛を感じることは、大なり小なりあるものです。 いわば彼女は、私が感じている 「この世の生きにくさ」 の、代弁者でもあるのです。

 そしてドラマでは、彼女の歌声は、東京で出会った父親みたいな年の 「腹黒いオヤジ」(笑)である臨床心理士・神代広平(福山雅治サン)にも同時に向かっている。

 第2回、真美が破水したときになにもできなかったことで、好意を寄せている公平の 「ほんの数秒の勇気で世界は変わる」 という言葉に失望したさくら。 「自分の居場所」 であるクルマの下に滑り込んできた公平に、彼の評価をぶちまけます(笑)。

 最初公平は、さくらの靴を見てこう評価する。 「佐野さんの靴はさ、すごく頑丈そう。 強くて、丈夫で。 でも、実はぼろぼろ(靴を隠そうとするさくら)。 それでも、傷ついても、傷ついても、生きてく強さを持ってる」。

 さくら 「せ…整備士はみんな、く…靴おなじだから。 …は…恥ずかしい」

 公平 「じゃあ、オレのは?(スライドして自分の靴を見せる) これ」

 さくら 「く…黒い」

 公平 「え?」

 さくら 「まっ黒」

 公平 「いや、違うでしょ(黒くないしきれいだし)」

 さくら 「こ…心がどす黒い。 腹黒い。

 え…偉そうなのに小心者。
 わ…若ぶって、…す…すかしたクソジジイ。
 …ぜ…善人ぶった、い、…インチキ男。
 こ、こ、腰抜け野郎」

 これらはみんな当たってるんですが(笑)、いや、よく見てるなさくら(笑)。 以前宍戸夏希(水野美紀サン)に対しても公平のことを 「あんなオヤジ」 と自分の恋心を見透かされまいと(見透かされまくりなんですが)評価してたのと通じています。

 そんなさくらの 「恋心」 を分析すると、おそらく記憶にすらない自分の父親の面影を、公平に追い求めているような側面もある。 夏希に指摘された 「陽性転移」 という医学専門用語に自分を当てはめて、「これは恋心だ」 と考えている、そんなからくりも見えてくる。
 さらに、真美と決別しなければいけない、という心理状態から、言い方はあざといけれど 「代替品」 を公平に求めている部分もあるような気がする。 自分が頼れる拠りどころ。

 彼女はタバコ嫌いのネット民から総スカンを食らいそうなほどのヘビースモーカーで、ことあるごとにいつもプカプカプカ~してるのですが(笑)、そのきっかけはフジテレビ…じゃない、「タバコの煙は吃音を治す」 という迷信だったりします(まあ気分を落ち着かせるしね)。 そのうちに依存状態になってるわけですが、彼女はいつもそうした、「頼れるもの」 に対する飢餓感を抱えている。
 真美が破水した時も、救急に結局何も話すことができず、空一(菅田将暉クン)や公平に電話しまくり、果ては隣の部屋の人とか道行く人にすがっちゃったりするんですね。 まあ、第1回のように自分で電話予約できないから、直接お店に行っちゃうというケースもあるんですが。

 そんな彼女が真美以外でいちばん頼れそうなのが公平。 彼女はだけど、若ぶってすかしたインチキ野郎だという認識を持っていながら、自分の吃音を治す唯一の手段である音楽という分野でのリード役として、公平を求めているんですね。 それを彼女は今のところ 「恋」 だと感じている。

 しかしそのボーダーラインって、かなり曖昧なはずなんですよ。 要は、さくらが公平なしでも生きていけるのかどうかなんじゃないのかな。 いつまでも公平と一緒にいたい、というのであれば、それは 「恋心」 で括られるはずなのだろうけれど。

 でも公平サイドとしては。

 それは曖昧であるからこそ、「陽性転移」「恋愛転移」 で括ってしまおう、という部分があるように感じる。

 このドラマを3回まで見てきて、特に感じるのは公平のさくらに対する態度の、「ある種の冷たさ」 です。
 公平は表向き、さくらを吃音の患者だとして付き合っているようにも思える。 たぶんそこには、ドラマ上 「激モテ男」 であるという設定も絡んでくるのですが(笑)、「激モテ男」 で 「臨床心理士であるにもかかわらずヒモ」 であるからこそ、当たりが柔らかいんですよ。 そこに女性はみんなメロメロになってしまう(笑)。
 さくらはその、公平の 「表面上の当たりの良さ、優しさ」 というものの正体を見透かしてはいるんですが、公平に対する好意の入り口は、そこだったりする。

 公平はさくらのその思いを知ってか知らずか、さくらの熱い視線をわざとそらすようなマネをたびたびします。
 それはさくらが患者である、という認識以上に、「さくらを見ていると死んだ自分の恋人を思い出す」 という要因が絡んでいることは確かです(娘みたいな年、っていうのも大前提で確実にあるが)。

 このドラマの大きな柱が 「さくらの吃音」 であるのと同時に、「公平の空虚」 であることは論を待ちません。
 さくらが好きな 「500マイル」 が、公平の死んだ恋人、宍戸春乃(新山詩織サン)の好きだった曲とかぶっている、というのがドラマ的な偶然とはいえ、哀しい。

 そしてその、死んだ恋人への思いを断ち切るために、さくらのライヴをギターでサポートしよう、とするのです(第3回)。

 お互いに、相手のことを思いながら歌い、プレイする。 そういう約束の下で行なわれたさくらのライヴ。 選曲的には新旧取り混ぜて、という感じでしたね。 荒井由実サンの 「やさしさに包まれたなら」、ラヴサイケデリコの 「ユアソング」、そしてジャズスタンダードの 「サマータイム」。
 佐野さくらを演じる藤原さくらサンの歌は、基本的にハスキーで息が抜けるような感じ。 手嶌葵サンみたいなところも少しあるけれど、彼女が影響を受けているノラ・ジョーンズ的な部分も見え隠れします。 ちなみにノラ・ジョーンズはビートルズと少なからず縁があるのですが、それを語り出すと長くなるのでやめます(笑)。 舌足らずで歌う部分が好き嫌いの分かれるところではないか、と思うのですが、私は気にならないほうだな。

 その彼女の歌う 「500マイル」、これがライヴのラストだったのですが、やはり泣ける。 おそらくドラマの 「佐野さくら」 が歌っているからなんだろうけれど、ここでドラマは少々ショッキングで残酷な展開を示すのです。

 鳴りやまないアンコールのなか、公平はさくらの片手を持ち上げて、「ウィナー!」 のポーズをとります。 「う…歌いたい…」 さくらは公平に向かって言うのですが、歓声にまぎれて聞こえません。

 公平 「えっ?(さくらの口元に耳を寄せる)」

 さくら 「う…歌いたい。 も…もう一曲…」

 その途端。

 公平の顔から、笑いがさっと消えます。 上げていたさくらの腕から手を離し、エレアコ(エレクトリックアコースティックギター)のコードを抜く公平。 聴衆にはさくらを持ち上げるような仕草をしながら、さっさとステージから、降りていってしまうのです。

 茫然と独りステージに取り残されるさくら。

 もちろん、独りでは何もできません。

 それでも鳴りやまない歓声のなか、どうしていいのか分からず、いたたまれなくなって逃げるようにステージを降り、トイレに駆け込んでしまう。 慟哭するさくら。 公平はまるで別れを告げるように、エレアコをギターケースにしまいこむ。

 このシーンを見ていて、「もう一曲、歌いたい」 というさくらの言葉が、死んだ春乃に対する公平の苦い記憶を、鮮明に呼び覚ましてしまったのではないか、という気がしました。
 しかし臨床心理士としては失格。 患者のことを考えている、とは思えません。 さくらは拭いがたい傷を、ここで負ってしまった。

 帰りのバスのなかで、「アンコール、やってあげればよかったのに」 という夏希に、公平が答えます。 「未練がましくなんだろ」。

 夏希 「えっ?どういう意味?」

 公平 「今夜のステージでおしまい。 オレは引退」

 夏希 「引退っていまさら…」

 公平 「なんかさ…。

 曖昧なままに終わってたじゃん、20年前。

 もういい加減、ケリつけようと思ってさ。
 今夜のステージに上がる前に、そう決めてたんだよね」

 何も言い返せない夏希。

 しかしここで、このさくらのステージを録音しているヤツがいました。 さくらにメジャーデビューの話がおそらく次回は巻き起こるはずです。 第3回ですでに初ステージを踏んでしまったさくら。 性急な展開のなかで、さくらの思いだけが取り残されて置き去りにされていくはずです。
 母親を失い、親友の真美を失い、公平を失っていく。 そんなさくらの痛みが、ドラマを貫いているのです。

 それにしてもこのドラマ。

 結構注意深く見てないと分かんない部分があり、少々アホな人には理解しづらい内容になっている気はします(笑)。 第2回の先ほど抜粋したさくらと一郎…じゃなかった、公平のクルマの下でのシーンのあと、さくらがいきなり笑いだすんですよ。 なんで笑ってるのか分かんなかったんですが、ささ様のご指摘で分かった(笑)。 たぶんスライドシートに書いてあったと思われるバッテンが、そのまま公平のカーディガンにうつってしまったから。 アホだから分かんなかったなァ~。

 ただこのシーン、説明不足ということは否めないが、よくよく見てみると、公平もワケ分かんないままつられて笑ったりしている。
 まあどっちみち、帰ってカーディガンを脱いでから気付くのだ、と思うのですが、おそらく公平の心理的には、さくらは吃音症でどことなく普通の人の精神状態とは違う部分があるのかも、という感覚で、つられて笑っているように思えるんですよ。
 公平がさくらに対して取る、一定の距離間の要因には、そんなこともたぶん加味している。

 あと、蛇足なんですが。

 ギターの種類とかは番組のHPでいろいろ紹介されているので、そんなとこにもひとかたならぬこだわりが隠れているのが分かるのですが、ギター弾きにとってはよくある話で笑っちゃうシーンも、サブリミナルみたいに挿入されてたりするんですよ。

 公平がさくらの新しいギターを買おうとするシーンで、ギターのボディを、穴を逆さにした状態で振ってるシーンがありましたよね。

 アレってギターピックがホールのなかに入っちゃった、つーことですよね(笑)。 ギターピックつーのは、爪じゃなくてギターをジャラランと弾くのに指で持つ、三角形のプラスチックみたいなやつのことですが、アレってよく、ギターの穴のなかに入っちゃうんだ(笑)。 ギター弾きでないと分からない話です(ギターを 「引く」 じゃなくて 「弾く」 だろ、というさくらの空一へのツッコミも笑った)。

 そして公平が弦のあいだに挟んでいたギターピック(私もこの方法でピックを留めてます…笑)。
 そこには 「H」 の文字が。
 もちろんそれは、「春乃」 のHなんですが、フツーに漫然と見てるとちょっと分からない。
 そんな些細なところにも、このドラマはかなり神経が働いている、という印象を受けるのです。

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2016年4月24日 (日)

「真田丸」 第14-15回 その死まで付き合うことになる、三成、そして淀

 上杉景勝に付添い、大坂に赴くことになる信繁。 第14回 「大坂」 ではその必然性をこれでもか、とばかり描写したのに対し、第15回 「秀吉」 では信繁がその最期まで付き合うこととなる秀吉と、それを取り巻く人々とのファーストインパクトを強烈に演出しました。

 私はこの 「真田丸」 というドラマ、信繁が豊臣に請われて大坂の陣に出陣するまでの長い蟄居期間をどのように描くのか、今から期待と心配をしておるのですが、おそらく信繁が豊臣方にもう一度味方するには、豊臣ファミリー、ことに淀の方(茶々)にそこまでの吸引力を持たせなければならない、そう考えています。

 信繁が豊臣に味方するもうひとつの要因、徳川方へのネガティヴイメージというのは、着実にポイントを上げてきている。 北条との 「フザケンナヨ」 的和睦とか(その直前に成功した自分の戦功もこれで完全にフイ、というのも大きい)、その後の第1次沼田攻めなどですね。 何より、信繁がこの沼田での戦において、最愛の妻お梅を亡くした、という設定にしたことは決定的だ。

 第14回 「大阪」 ではその死に大きく落ち込む信繁を、三谷サンは大坂行きのひとつの動機に据えた。
 ここで注目されるのが、信繁を大坂に随行させようとする上杉景勝の性格設定です。
 景勝が信繁の人柄に惚れ込んでいるのは見ていて分かる。 唯一の頼れる部下である兼続が今回ヤケにクールな男という設定であることも加味しているのですが(笑)、景勝は信繁に対して自分の本心を明かせる相手として認めているだけでなく、「自分の見栄を張れる相手」 として信繁を選んでいることにも注目したいんですよ。

 今回の景勝は、見栄っ張り。 だから秀吉から上洛せよと要請を受けても、「これって上杉が秀吉に下ったわけじゃないからね、ねっ、ねっ」 みたいな見栄を張りたい。 それで、今回はちょっとした旅行も兼ねてます、という意味で信繁を大坂に随行させる、そんな側面を密かに演出している。

 ここらへんの周到さがすごい。 完全な必然性を構築してますよね。

 そして信繁を大坂に連れていこう、という景勝に思わせるほど、今回信繁を落ち込ませている。
 この信繁の 「妻を失った悲しみ」 を癒し、同時に乗り越えさせる武器として三谷サンが使ったのが、徳川を出奔させた石川数正(本多じゃない…笑)。 この 「徳川への裏切り」 に、三谷サンは 「真田信尹の調略」 を使ったんですが、「徳川の牢屋に入ってる信尹にどうやって調略させるんだよ」 という部分は正直説明不足として(笑)、三谷サンの本当の目的は、別のところにあった。

 ただ話はそれますが、この、「石川数正の裏切りを唆した」 信尹を家康が召し抱える、という話の運びにしたことも、なんか細部にまで抜かりがなくてシビレます。 「自分が昌幸と裏でつながってるのも分かってて召し抱えちゃうの?」 と念を押してる信尹なのに、それを承知で牢屋から出しちゃうんですからね、家康。 すごくキナ臭さが残ります。

 で、三谷サンの本当の目的ですが、その石川数正と、信繁を会わせるんですね。 その前段階として、信繁の落胆を、お付きの三十郎に励まさせている。

 「落ち込むのは分かりますが、前に進みましょう!世の中動いているんですよ!立ち止まってるヒマはないんです!これってお梅さまを忘れることとは違うんですからねっ!」

 この励ましに信繁は 「お前に何が分かるのだ!」 と食ってかかるのですが、この信繁の 「お梅に何もしてやれなかった」 という悔しさを挽回するきっかけに、石川数正を使っているんですよ。

 上洛の上杉一行についてきた信繁に、石川数正が会いたい、と。 この取次ぎを仕切っているのが何気なく石田三成だったりします。 のちに言及することになりますが、今回私が秀吉以上に 「キャラ設定に気を遣ってるな」 と思わせたのが、誰あろうこの石田三成でした。

 石川数正は信繁に会うなり 「テメーの叔父ちゃんがオレを唆したおかげで徳川がオレを殺そうと刺客を放ったってんでこんなとこに閉じ込められてんだよ、チクショーっ!徳川様に恩があるってのに!ひどいじゃん!どーしてくれるんだよーっ!飲まなきゃやってられっかっての!グビグビ!飲ま飲まイェー!マイアヒ!マイアホ!」(後半は作りました…笑)。

 つまり裏切りを 「後悔」 している数正と、妻になにもできなかった信繁の 「後悔」 を、ここでリンクさせているんですね。

 それを見た信繁。 「最後は、自分で決めたことなのですから、自ら責めを負うしかないと思いますが」。

 「先が読めないのは、みな同じです。

 だから、必死に生きているんです。

 人を騙したり、裏切ることもあるでしょう。

 でもそれは、善とか悪で計れるものではない、と私は思うのです。

 石川様。

 とりあえず、先に進みましょう!」

 この石川数正への言葉は、そのまま信繁自身にも向かっていることは確かです。 ここではけっして、悪事を働くことを奨励しているわけではない。 どのように生きようが、必死に生きた結果ならば、それはいい悪いの問題で考えることはできない、というひとつの哲学であろう、と思うのです。
 ここで重要なのが、「必死に生きた結果ならば」 ということ。 怠けたいとか、遊びたいとか、そんなこと一度でも考えてみい! そんときゃ鉄矢、…死ね。 あ、じゃなくって、いや、そうです(笑)。 とにかく必死に生きろよ、ということです。 「生きること」 の意味は、「生きていくこと」 にある。 死んだように生きることじゃない。

 ましてや戦国時代なんか、年金とか生命保険とか、あるわけじゃないですもんね。 石にかじりついてでも生きる、という意思が、必要なわけですよ(シャレか?)。

 そして信繁の落胆を別の意味で癒していく要員に三谷サンが使ったのが、きりです。

 このきり、三谷サンの 「破壊癖」 を一手に引き受けている(笑)。 三谷サンのコメディの中核には、常識を破壊したいという衝動がいつも込められている気がするんですが、かわいそうなのはきりを演じる長澤まさみチャンのほうで(笑)、「真田丸」 批判の中核をいつも占めてしまうことになっている(笑)。
 しかしそれに負けず、みんなからウザいと思われようが、そのぶち壊し役を 「石にかじりついてでも」 やり抜く、というまさみの意思に(また同じシャレか?)、私は感心をするのです。

 ここでのきり、梅の忘れ形見であるすえのお守役を引き受けたものの、あえなく挫折して育児放棄。 この 「堪え性のなさ」 が現代人に通じるところがあるのですが、三谷サンのきりに対する位置付けは、まさしく 「現代人」 のそれ。 上杉上洛についていく信繁のお付きに回されることとなるのですが、そこでも兼続とか名だたる人物たちに対してまるで身分の違いなど頓着せぬ物言いの連続をします。

 しかしそれが却って、「戦国時代に迷い込んだ現代人」 という、タイムスリップみたいな不思議な感覚を想起させる。
 SFの世界の人間だから、その無礼に景勝もまったく関心を示さないし。 却って信繁と丁々発止をするところを見て 「仲がよさげではないか」 と茶化す始末。
 きりの存在をきちんと認めているのが、この唯一この信繁なんですよ。 このドラマではきりの父親である高梨内記も、娘をただの手駒としてしか考えていないようなところがある。 きりをきちんと 「存在している」 ように思っていたもうひとりが梅だった気がするのですが、その梅もあまり歴史的には重要視されていない、いわば 「存在してないような扱い」 だった。 「存在していない者同士」 が心を通じるのはこのドラマの、約束のひとつだと思われるのです。

 きりがまるでその場の空気みたいな扱いをされるのと同様に、信繁に対して最初 「いないも同然」 の扱いをするのが、石田三成です。

 信繁は最初、直江兼続から紹介されるのですが、この流れというのはちょっとヘンな感じがします。 信繁はあくまで上杉の随行として来ただけで、兼続が三成にいちいち紹介するいわれがないように感じる。 兼続としてはついこないだ徳川を破った真田昌幸の息子として、信繁を紹介したかったんでしょうが。
 三谷サンがここで示したかったのは、それを完全無視する三成の姿だ、と思うのです。

 信繁が三成と言葉を交わす最初は、信繁のちょっとした疑問です。 「どうしてわざわざ京でいったん足止めされて、改めて大坂の秀吉に会いに行くとか、まどろっこしいことをしてるのか?」。
 信繁は三成のそっけない返事から、「あーそうか、このまま大坂にストレートで行っちゃったら、『上洛』 になりませんもんね!」(笑)。 そばにいたきりは 「ワケ分かんない」(笑)。
 ただこのシチュエーション、信繁は三成の返事などどうでもいい。 彼の性格、本心を引き出すためのカマかけではあるんですよ。 で、案の定、三成は冷たい受け答えをする。

 「現代人」 のきりは三成の横柄な態度に 「なにアレ?チョームカつくんですけど」(後半は作りました…笑)。 信繁は 「人を不快にさせる何かを持っている」 と評します。 兼続は 「だが頭は切れる」。 「見えませんけどね」 ときりが即座に突っ込むが、兼続は反応しません。 だってきりは 「存在してない」 から。

 これ、すごいからくりだと思うんですよ、ドラマとして。

 ここで兼続が、「石川数正が、おぬしに会いたがっている」 と信繁に言って、先ほどのシーンとなるわけですが、これがそっけなさすぎの三成がお膳立てした、というのがまた重要に思えるんですよ。

 そしてまたもや秀吉との謁見が繰り延べされたときに信繁が宿所として案内されるのが、三成の屋敷なのです。

 三成の言うことにゃ、「お嬢さんお逃げなさい」 じゃなくって、「上洛するヤツがいっぱい過ぎて泊めるとこがないので仕方なくウチで我慢してもらう」。 エラソーというかちょっと信繁を気にかけてるのがチラ見えするというか。 このビミョーなさじ加減。

 そしてきりに 「お前の寝場所はここだ!」 と物置に連れていく(笑)。 当然ですよね、「存在してない」 んだから(しつこい…笑)。

 そこで信繁は、そっけない点では夫と瓜二つな御内儀(笑)と食事を共にし、「過去の秀吉リスペクト」 な(笑)加藤清正が駄々をこねてるところに遭遇したりする。 「オレはさぁ!昔の秀吉のほうがずーっといいと思うんだよね!今じゃ関白とかあんなに大物ぶっちゃってさ、あれじゃ秀吉じゃねーよ!」 みたいな(笑)。 それをエラソーになだめているのが三成で(笑)。 「じゃお前も官位を返上するか?」「いや、アレって、名前の響きがいいんだよね!」(笑)。

 信繁が豊臣の内情をそれで即座に把握するのにじゅうぶんな情報だ、と思うんですよ、このシーンは。 そこに次回の 「秀吉」 で、「秀吉ファミリー」 の素朴で悲しくも美しい内情が展開し、信繁の気持ちを豊臣方になびかせる強力な動機としていく。 その点に関しましては、当ブログコメンテイターのささ様のコメントをお読みください(笑)。

 そしてようやくお目通りの日、「私も関白様に会いたいんですが」 という信繁を三成がそっけなく次の間に待たせてひとりぼっちのところにいきなり乱入してくるのが(乱入、違うな…笑)、のちの淀の方、少女時代の茶々なんですよ。

 「あなたはだあれ?」(確か 「ウルトラセブン」?…笑)

 つーか、トトロに出会ったメイみたいな(笑)。

 いや、「あなた、アレ?」 でした(笑)。

 「アレでしょ?真田なんとか!」(笑)。

 「さようでございますが…」。 完全に面食らっている信繁(笑)。 「フフフ! どっから来たの?」。 ああ、やっぱりメイだ(笑)。

 「上田でございます」「聞いたことない」「信濃です」。

 そして上田の位置を説明する信繁の両頬をいきなりつかんで 「わりと好きな顔!」(笑)。

 茶々って浅井から引っぺがされた悲劇からそんなに経ってない時間軸だと思うんですが、それにしちゃちょっと明るく描き過ぎではないか?というこちらの懸念もなんのその、三谷サンは信繁と茶々の最初の出会いを、ここまでインパクトのあるモノに仕立て上げたのです。

 そしてその裏で、「殿下はお前とはお会いにならない」 という三成の冷たい言葉と裏腹なことが、茶々によって明かされる。 「殿下はあなたと会うのを楽しみにしておられましたよ」。

 これ、三成ってどーゆーヤツなのだ?という気持ちを信繁に沸き立たせるのに、じゅうぶんな 「腹のうちの読めなさ」 ではないですか。

 そして信繁を威圧する大坂城の威容と裏腹に現れた秀吉の気さくなさ。 この月とスッポンとも呼べる格差が信繁を捉えていくのです。

 そしていきなり信繁を大人の世界に連れて行き(笑)「あんなに美人な女は信濃にゃいないだろー?だろ?だろ?」(笑)その場で大酒かっくらっていた福島正則に 「あっオマエ、なんでそんなデカイの(枡)で飲んでんだ?しょーがねえなァ~はっはっは」。

 この軽いのが、のちに 「検地に使う米の枡の大きさがまちまちなのが諸悪の根源だ、大きさを統一させよ!」 という政治判断につながっていくところなどは見事。 ただその場で、福島正則と自分の枡の大きさを見比べて、スンゲー怖そうな顔をするんですよ。 「なんでオレの枡のほうが小さいのだ?」 って小さいことを考えてるのかな、と思ったらこれだ。

 その 「秀吉のスゲーコワイ顔」 が展開するのがもうひとつあるんですが、ここに関わってくるのが茶々と弟の秀次(だったっけな…笑)。 とにかく「真田丸」 における秀吉の解釈のしかたは、「スンゲー気さく、そしてスンゲー怖い」。

 そして信繁を気に入った秀吉に、まるでなびくかのごとく、三成の信繁に対する姿勢も変わっていく。 そのからくりを教えてくれるのが、大谷吉継なわけですが、この吉継の娘がのちの信繁の正室になる、という押さえも忘れない。

 この、三成の性格描写。 あまりにも念が入り過ぎていて、私は秀吉なんかより三成の動向が気になってしまったのですが、「こういう杓子定規的なつまんなそ~な男に、のちにどうして信繁が味方しようとするのか」 ということの布石がばらまかれている印象、というのを、この2回から持ったのです。

 あとはささ様が、前回の 「真田丸」 レビューのコメント欄で、たっぷり解説してございます。 オレのほうのレビューなんか読む必要ないほどに(爆)。

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2016年4月21日 (木)

「OUR HOUSE」、何がそんなに悪いのか

 フジテレビが日曜夜9時からのドラマ枠を復活した第1弾(2弾があるかどうかは疑わしい…)、「OUR HOUSE」。 新聞によりますと4月からの春ドラマで全局最低の4.8%という、見るも無残な視聴率だったそうです。

 しかしこれほど、その原因が分かりやすいケースも珍しい。

 要するに、現在のフジテレビが、その原因にも気付かないほど機能不全に陥っていることの証左であるともいえる気がするのです(当ブログ史上一番辛辣なこと言ってる気がする)。

 まず、「日曜夜9時」 という時間帯設定。

 ここ数年、この時間帯は完全にTBSの独壇場です。 同時間帯に数年前にフジテレビが仕掛けた時も、「マルモのおきて」 というヒット作以外はおしなべて視聴率が悪かったように記憶しています。 いわば 「マルモ」 は例外中の例外。 しかもこの時期、裏のTBSではスーパーヒット作の 「JIN」 の完結編が放送されていたから、「マルモ」 の大健闘は当時でもかなり話題に登っていた。
 フジテレビはこの、「当たったドラマのいい思い出よもう一度」 というスケベ心丸出しでこの時間帯にドラマを仕掛けてないか。
 ここ数年のフジテレビの局の姿勢を見ていると、どうも 「過去の栄光」 に幻惑されているのではないか、と思うことがよくあります。 その傾向が今回も容易に見えてしまう。

 しかし、ヒット作というのは一朝一夕にできるものではない。 腰を据えてこの時間帯にTBSに対抗していこう、という姿勢が見えなければ、視聴者はどうやったって見くびっちゃうんですよ。 あっちにフラフラ、こっちによそ見では、注目度なんかジリ貧ですよ。

 しかも、脚本が 「かつてのヒットメーカー」、野島伸司氏。 主演が 「マルモ」 の芦田愛菜チャン。 愛菜チャンの相手役に 「マッサン」 で注目されたシャーロット・ケイト・フォックスサン。

 実に失礼な言い方をいたしますが、どれも 「過去の栄光」 というイメージが導き出されるスペックばかりじゃないですか。
 いや、その人たちが悪い、と言ってるんじゃない。
 使う場所が間違っている、ということ。
 芦田愛菜チャンを使うとか、「マルモ」 の夢よもう一度、というのが、最近のフジテレビの持つよくない 「凋落イメージ」 と、簡単に結びついてしまうんですよ。

 そして、シャーロット・ケイト・フォックスサン。

 私 「マッサン」 の頃、結構好きだったんですが、それ以降この人を日本で見かけると、なんかいじましいものを感じてしまう。 「CHICAGO」 に抜擢とか、アメリカでご活躍される分には、とても誇らしい気持ちになったものなんですが。

 日本でもしご活躍されたいんであれば、それなりの戦略をもって臨まないと、「出稼ぎですか」 みたいな感覚で日本の視聴者に見られてしまうんじゃないのかな。
 テレビ局側の姿勢としては、彼女は器用に際して実に神経を使わなければいけない素材である、と私は思うのです。 その姿勢自体が、今のフジテレビには完全に欠落している。 彼女はもっと堅実な番組で、またはNHKみたいな堅実な局で日本に定着させる必要があるのに、「マッサン」 で人気だったから、という安易な理由だけで彼女をドラマに起用している。

 野島伸司サンについては、「脚本家には旬の期間がある」 ということの認識が、フジテレビのドラマ制作責任サイドには決定的に欠けている。 トレンディドラマ全盛のときに大先生だったから今も視聴率に対して有効か、と言えばその答えは明らかにNOです。 非常に酷なことを書いてますけどね。 野島先生の功績には敬意を表します。
 ただこれも、フジテレビ自体が 「過去の栄光」 に囚われすぎている一連の発想に通じるものがあります。
 現実をシビアに見る目が、「今のフジテレビを実質的に動かしているセクション」 には失われている(現場サイドが動かしてるわけじゃないですからね)。

 要するに、「このドラマを見せたいんだ!」 という心意気を感じないんですよ。 「こういうの作りゃ視聴者は見るだろ」 みたいなゴーマンな感じで。

 そして、第1回目の内容。

 脚本の細部に関する良し悪しを度外視して考察を進めますが、まず大まかなドラマ全体の話として、「母親が死んで半年で父親が連れてきたのが外国人の奥さん、それに反発する長女との間のバトル」 というのが、もうもっとも初期の企画段階でダメ出ししたくなるような素材であり。

 だって結局仲直りするんでしょ?というのはもう分かりきっていることで。 視聴者はこの時点でもう、結構引いてる。 別に見なくても、という気になってる。 だからー、外国人の奥さんがシャーロットでしょ! 娘があの芦田愛菜でしょ! という発想をフジテレビはしている、と思うんですが。

 芦田愛菜チャンの演技は久々に見ましたが、どうもこのコの演技は、「器用貧乏」 に陥っているような気がしました。 すごくうまいんだけど、なんか器用さばかりが目立ってしまっているような感じ。

 その愛菜チャンが、母親が亡くなった家庭を実質的に支配してるんだけど(笑)、それが愛菜チャンを現在取り巻いている実際の状況を、なんか連想させちゃうんですよ。 演技がうますぎるから、彼女に何かアドバイスする人がいなくなっているような。 このコの才能があるのは明らかなのだから、もっと大物ベテラン俳優たちのなかでもまれたほうが、きっともっと育つような気がする。 どこか独りよがりな感覚がある。
 いずれにしても成長途上の女優さんだから、今後に期待はしてます。

 そして物語の冒頭、この子たちの母親が死んでしまうのだけれど、なんだかそのシーンがこちらの胸を打たない。
 なんか、ウソ臭さが充満している、というか。
 私はこのシーン、いくら諸々のことがダメでも、ここで見る側の心をつかめばドラマ自体がなんとか推進していくように思うんですよ。
 しかしこのドラマの演出家は、それを完全に軽視している、ように、私には思えた。
 このドラマは基本的にコメディだ、と思うのですが、「コメディだから母親の亡くなるシーンもそんなに深刻じゃなくていい」 という演出意図があったんじゃないか。 でもその演出方向は、間違っている。 ここでウソ臭さを演出してしまったら、その後のこの家庭に、視聴者が共感してのめり込めないではないか。

 フツーこういう場合、冒頭部分だけでリタイアしちゃうのが私の常なんですが(笑)。

 最後まで見ちゃった(笑)。

 なんか、芦田愛菜チャンの 「方向性がずれているようなうまさ」 の不安定さと、シャーロットサンの 「このドラマのこの役をどうやって演じていこう」 という迷いと、ほかの共演者たちの、どことなく全開の本気が見えてこない現場の空気のギクシャクが伝わってくる作りが(笑)、なんとなく気になって最後まで見ちゃった、みたいな(笑)。

 今回は、かなり失礼なことをいろいろ書いてしまいました。 御不快な思いをしたかたには、伏してお詫び申し上げます。
 しかしこれも、一時期はドラマで完全に 「ドラマのTBSよりよほどいいもの作ってんじゃん」 と感心していたフジテレビに対する、叱咤激励と思っていただければ、幸いなのです。

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2016年4月19日 (火)

「世界一難しい恋」 第1回 「エラソー男」 の生態観察

 大野智クンが一流ホテルのゴーマンなトップを演じるラブコメドラマ。 相手役の 「あさが来た」、ヒロインの波瑠サンの民放復帰第1作、という話題性も加味しています。
 「あさが来た」 でその波留サンの下で働いていた亀助さん(三宅弘城サン)が今度は波瑠サンの上司で出てるほか、「まれ」 で主人公の親友を演じていた清水富美加サンが波瑠サンの同僚とか、朝ドラつながりの布陣が目立つ気もします。

 まず、名実ともにトップクラスのライバルホテル経営者の北村一輝サンに激しい対抗意識を燃やしながら、気に入らない従業員をいとも簡単にクビにしまくる大野クンの 「ヤナヤツ」 ぶりが展開していきます。 この 「ヤナヤツ」 ぶりは前クールの 「家族ノカタチ」 での香取クンを思い起こさせる。 ジャニーズって最近、「ヤナヤツ」 を演じるのが流行っているのかな(笑)。

 しかし香取クンの 「ヤナヤツ」 ぶりって、設定的にもあまり笑えなかったクリスマスキャロルレベルだったのと対照的に、大野クンのほうはあくまで 「コメディ」 に寄り添っている。 ここらへんは阿部寛サンお得意の 「偏屈男の滑稽さ」 に似通ったものを感じます。

 ただ大野クンは言っちゃなんだが(言うけど)、阿部サンとは対照的にそんなに背が高い方ではない(気ぃ使って言ってんな…笑)。

 ところが大野クンはそれを逆手にとって(大野クンが逆手に取っているのか演出が逆手に取っているのか分からないが)、まるで性格のせせこましさと身長のせせこましさをリンクさせながら視聴者に、この男のコミカルを見せているような気がしてならない。
 見る側はあたかも、主人公の気持ちの小ささを生態観察でもするような気分で、ドラマに没入できるシステムになっているような気がするのです。

 それをどうして実感できるのか、というと、このゴーマン経営者のそばについているふたりの役者に、かなりできる役者が配されていることに原因があるのではないかと。
 そのふたりとは、秘書の小池栄子サンと運転手の杉本哲太サン。

 小池サンは非常によく出来た秘書で、ゴーマン大野クンにある程度ズケズケ本当のことを言っても許されるほど、彼の操縦術に長けている。
 だったら大野クンはこのよく出来た小池秘書と結婚すりゃいーじゃんか、という話になりそうなんだが、彼女は大野クンに恋をするというよりも、その滑稽な生態をときには運転手の杉本サンと一緒に観察して楽しんでいるような、そんな側面が感じられるんですよ。
 彼女は大野クンと結婚して、莫大な資産を手に入れようとかいう野心があまり見受けられない。 そこに今回の、大野クンの相手役である波瑠サンの入り込む隙がおおいに出来ることになる。

 しかし今回の波瑠サン。

 外国のホテルで修業をし数か国語に堪能、というアビリティを持っていながら、第1回目ではその全容がなかなか姿を現さない。 時折フランスだかの?恋人(ベルギー人とかいってたな)から酷い内容のメールが入っていて、こっそり泣いたりしている。 他方で行きつけの銭湯で牛乳を飲むのが日課になってたり、そんなあけすけなところもある。 とてもベールのかかった女性という感覚なんですよ。

 大野クンはそんな波瑠サンに、はた目から見れば非常に分かりやすく好意を寄せていくのですが(笑)、大野クンの手の内を視聴者側は生態観察してじゅうぶん把握しているのに、波瑠サンの気持ちがいつまでたっても掴めない苛立たしさが発生する。 「はぁ~、びっくりぽんや」 という単純明快な部分がないんですね。 いつまでたっても割り切れない未知数。

 しかしその波瑠サンが、牛乳がキライな大野クンの涙ぐましい努力に、空が晴れ渡ったような笑顔を返すんですね。

 この笑顔を見るためには、なんだってしちゃうぞ、というのが、男ってもんではないですか(笑)。 そのからくりがとても共感できる。

 もちろん基本的なスタンスはコメディだから、気楽にドラマを見ることが出来ます。
 なんか最後まで、ちゃんと見ること出来そうなドラマです(最近ちっとも最後まで見る気が続かんのだよな~)。

 ついでのようですが。

 いくら掃除がちゃんとされてるかのチェックとは言え、あそこまであっちこっち触りまくりでは、ホテルは大野クンの指の跡だらけになるのでは(ハハ)。

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「重版出来(じゅうはんしゅったい)!」 第1回 黒木華の 「腰の重さ」

 黒木華サンが 「真田丸」 で死んでから早くも復活(笑)。 柔道に挫折した、「新人熱血マンガ編集者」 を演じます。

 ただ 「新人」 と 「熱血」 には最初ハテナマークがつきました。 黒木華サンは 「新人」 っていうイメージじゃないし、「熱血」 とはいちばん遠いところにいる女優、という感覚なので、就活を何度も失敗するうち、面接のなんたるかを柔道に例えて過剰な元気でポジティヴに達観していく様子は、「すごい無理してないか?」 という感じで序盤は見ておったわけです。

 その彼女、清掃員に変装していた就職希望出版社の社長、高田純次サンを投げ飛ばしてしまい、本人も周囲も 「も~これは絶対この会社落ちた」 と嘆くのですが、見ている側は 「も~これで絶対この会社受かった」 と思う(笑)。 「ありがちな合格パターンだよな」 みたいな。

 そしていきなり編集部に配属。 面接のときから黒木サンは 「柔道を始めたきっかけが柔道マンガだったんです!」 と過剰にはきはきと答えていたから(笑)マンガ雑誌の編集部なのだろうと思ってたらやはりそうで(スイマセン、ちっとも前情報がなくて見てるもんで)、週刊青年コミック誌で業界2位の雑誌らしい。
 そこ、「週刊青年コミック誌の販売数で1位のところには1回も勝ったことがない万年2位」、というから、「あ~これは、ヤングジャンプに勝てたことがないモーニングがモデルか」 と思ったんですが(笑)、どうもこのドラマの原作は案の定マンガで、その原作は 「月刊スピリッツ」 に連載中らしい。
 じゃモデルは週刊ビッグコミックスピリッツか(笑)。
 いや、だって、青年コミック誌業界では、スピリッツってモーニングどころかアフタヌーンとかアクションとかと同程度の販売数なのではなかろうか、まあいいけど(笑)。

 それにしても、その配属された編集部のメンツがすごい。
 編集長が松重豊サンでデスクがオダギリジョーサン。
 ほかに安田顕サンと荒川良々サン。
 この編集部の様子を見ているだけで妙な安心感があり、「今までの役柄とはまったくイメージが違う黒木華サン」 の違和感を、覆い隠していくのです。

 そしてドラマはまるで去年の 「表参道高校合唱部」 を彷彿とさせるような清涼感を残しながら進行していくのですが、さわやかなドラマとは裏腹に、私は結構つまんないことを考えているというか(笑)。

 つまり、「このドラマの出版社の人たちって、出版不況をどのように捉えておるのだろう」、ということです(ハハ)。
 まず紙の媒体というのがこの先どうあがいても先細りになっていく、そして購買層が否応なく高齢化していく。 読者でいちばんターゲットにされるべき若者の数が、劇的に減少していく。
 取次会社は次々と倒産していく。 街の本屋さんもごっそり減っている。
 それに対して出版社というのはデジタル化という戦略を取っているのですが、将来に対する戦略が先鋭化していくのに対して、マンガの現場というのはいつまでたってもインクとペンが基本。 ことにマンガというのは、デジタル対応にあまり適していないメディアなのではないか、と私などは思うのです。

 で、ここから持論を展開したいのですが(実はいったん展開してスゲー長いレビューになってしまった…笑)それは全部割愛して(スゲー削除した…スゲー無駄な時間だった…笑)、ドラマはそういうことには無頓着に(笑)、昔からよくある 「マンガ家と編集者」 の内幕を見せる、業界ドラマに終始します。

 マンガ業界ドラマのもっとも基本的な約束事は、「ネーム」の意味を見る側に叩きこませること(笑)。
 つまり下書き、設計図のことなんですが、ドラマは実に分かりやすくそれを説明していきます。 これって注意深く見てみると、じっさいのマンガ家たちの現物を拝借しているように見える。 やはりスピリッツのお膝元である小学館の根回しによるものであろう(笑)。

 そしてほとんどのマンガ家の運営方式である、「アシスタント制」。 極端な例になると、マンガ家はもう、登場人物(人とは限らんが)の 「顔」 だけ描いてあとはアシスタントに丸投げ、という方法を取っていたりする。

 今回俎上に上がったベテランマンガ家の小日向文世サンはその点、全身まできちんと描いていたのですが、姿勢の変化が災いして長年の間にデッサンの狂いが生じていった、というタネを仕込んでいました。 なおここで展開する小日向サンの絵は、「パトレイバー」 などのマンガで知られるゆうきまさみサンが担当したらしい。 これも 「小学館のチカラ」 であろう(笑)。

 しかしこのー、デッサンの狂ってるベテランって、「○ャプテン翼」 のマンガ家さんのことかな~(爆)。 20頭身くらいあるもんな最近(笑)。 アレってライバル誌だし。 あっ、ちょっとシャレになってませんか?(笑)

 …それはいいとして(笑)。

 この小日向サン、悪意のあるネットの書き込みを見てしまって引退を決意しちゃうんだけど、今回の小日向サンくらい長年人気トップクラスでやってると、正直もう、お金は稼げるたげ稼いじゃってる気はするんですね。

 でも描くのをやめないマンガ家は、なにをモチベーションにして続けていられるのか。

 今回の小日向サンは、読者に 「やさしさこそ本当の強さである」 ことを伝えたくて、マンガを描き続けてきた。 でもそれがちっとも伝わっていなかったことを知って、引退しようと決意した(まあドラマの常として、最後は翻意するんですが)。

 これって分かり過ぎるくらい分かるなあ。 しがないブロガーも、同じモチベーションですんで(笑)。 でもブログじゃメシが食えないのにやってるのが健気なとこなんですが(笑)。

 とりあえずその問題を、黒木華サンは電車道のように、あっ、これは相撲か、横四方固めのように(よく分からん…笑)強引で過剰な元気で、解決していくのです。

 「これって黒木華のイメージじゃない…」 と思っていた当初の危惧は、いつの間にか、それまで埋もれていた 「黒木華の持つ安産型のイメージ」 とダブっていくようになります。
 「真田丸」 のお梅でもそうだったのだけれど、黒木華サンにはどことなく、「大地に根を下ろしたような堅実なイメージ」、というのも、同時にあるんですよ。 要するに農民型。 腰が重たい。 今回のドラマのなかでも、「重心がブレない」 みたいな周囲の評価があったけれど、まさしくそれ。

 黒木サンは、一見こうした安定性のある役柄に、油断ならない暗黒面を忍ばせることも得意としているのですが、今回はあくまで爽快系。 今回の黒木華には、裏がない。 そういう安心が、ドラマの爽やかさを、余計に演出していくのです。 この展開はちょっと意外だった。

 今後は編集だけでなく営業部とか、書店とかを巻き込んだ複合的な出版のあり方にまでフィールドを広げていく可能性も期待できます。 ただ、あまり小難しいドラマではなく、見たあとスッキリ爽快、という方向なのではないか、と感じる。 ドラマを見てモヤモヤをスッキリさせたい人にはオススメか、と存じます。

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2016年4月14日 (木)

「ラヴソング」 第1回 「外周」 つまり見てくれが、かなり悪いドラマ、だが

 今年に入ってから、脚本家とか 「すでに出ている情報」 からドラマを選択するのをやめよう、と思いまして(でも 「刑事モノ」「事件モノ」 は外す…笑)、今回の月9もそれに倣って、主役が福山サンであること以外はほぼプレーンな状態で見たのですが、これがなかなかよくて感動もして泣いたりもしたんですよ。

 ネットの評判もさぞやよかろう…と思って見たら、しかしこれが散々で。

 第1回視聴率の結果も出たのですが、10.6%とこれまた福山サン主演のドラマとしてはお寒い限りの結果。 どうしてなのかな、とちょっと分析モードに入ってしまって。

 まずこのドラマ、「外周」 がかなり悪いのではないか、ということ。 つまりテレビ局が 「こーゆードラマです!」 と言って宣伝する材料のことですが、いちばんの売り文句は 「『福山雅治』 が3年ぶりに月9に戻ってきた!」 ってとこでしょうか。
 そしてその次は、「相手は20歳のドラマ初出演、シンガーソングライターの藤原さくら!」 かな。
 そしてそのふたりが織りなす 「年の差」 恋愛ドラマ、といったところではないか、と思います。

 しかしこの3つの要素とも、世間的な見てくれが悪いように感じる。
 まず 「福山雅治」 という人が去年の結婚で、それまであった吸引力がかなりなくなっている、ということが考えられます。
 つまりですよ、ましゃがそれまで独身だったことがましゃの人気につながっていた、というですね~(なんで私がマシャなどと言わねばならんのだ)、まあゲスな分析がまず成り立つわけです(つまんねえ分析だと自分でも思う)。
 要するにフジテレビと視聴者のあいだで、福山サンに関するネームバリューの認識に、すでに大きなずれが生じている、ということでしょうか。

 そして、その 「結婚してしまった」 福山サンが、47歳にして20歳の新人と 「年の差」 恋愛ドラマをやる、という設定がまた悪い。
 以前なら福山サンも 「年の差恋愛」 の設定なんてものともしなかったと思うのですが、さすがに47ともなるとどんな色男でも 「なにそれキモイ」 の世界になってしまう。 「それって親子の設定だろ」 みたいな。
 「年の差婚」 に対する世間のイメージというのは、常に 「キモイ」 なんですよ。 それにとうとう 「既婚者」 福山も負けた。

 ドラマを見ていると、その 「潜在的視聴率獲得能力が低下している」 福山サンが、すごいモテ男だ、という設定になっていたりします。
 そのドラマの中では女の子は誰でも、福山サンに恋してしまう。 オバサンも若い子も。
 これはある意味 「嫌味ではないか」、と思うほどの徹底ぶりで、そこに嫌悪感を抱く人もいるのではないか、ということも考えられる。
 しかもそのモテ男、ヒモ生活をしてたりする。 いきなりどぎついベッドシーンだし。
 「なんだよソレ」 ですよね(笑)。 視聴者に嫌がられるような設定をわざとしてる。

 そして福山サンの相手を務める、藤原さくらサン。 最初私はこのコ、石原さとみチャンかと思ったのですが。
 この人がですね、福山サンと同じ事務所なんですよ。
 世間はそれを、「コネ」 と言います。
 こういうの、嫌がられるんだよな~。 これなら石原さとみチャンのほうがまだ年の差少ないしよかったのでは?

 藤原さくらサン、彼女はでも、なかなかいい演技をしている、と個人的に思います。

 吃音に苦しむ設定というのは、「初めてでそれでは難しいのでは」 という気もするのですが、逆に 「吃音の設定だから演技力のなさもある程度カバーできるのでは?」 という気もするんですよ。

 藤原サン演じるヒロインは、自らの吃音に対するまわりの反応が嫌でしょうがない。
 吃音だからバカにされる、というのはもっとも基本的な段階なのですが、それを同情されたりいい人ぶられて自分に寄ってくる人間も嫌い。
 そういう鬱憤がときどき爆発するのですが、ちょっと普通の人とは違う爆発の仕方をしたりする。
 それが、「普通の人の演技をする」 ということより、実は簡単なのではないか、と見ていて感じるんですよ。 却って普通の演技が出来る人が障害者の演技をするほうが大変なのではないか。

 しかしそういう設定に助けられている部分はあるにせよ、藤原さくらサンの演技はある一定のレベルには達している。 彼女の醸し出すぎこちなさが、ヒロインの世間に対するやりにくさと、うまくつながっているからです。

 今回の福山サンの 「モテ男」 設定も、あまりに強調されているところが、却って 「狙い目」 になっているのではないか、と感じます。

 つまりその設定って、福山アゲではない。

 「福山アゲ」 って、いかにもフジテレビがやりそうだからイメージの悪さが簡単に伴いやすいんだけど、今回のヤツって福山サン自身の 「自虐ネタ」 のような気がするんですよ。 それを本人も面白がっているようなフシがある。

 だってモテ男がフツーに生活するのが、美男美女がわんさか出るドラマの 「日常」 じゃないですか。 そして美男美女だからフツーにあり得ない恋愛をしたりする。

 でも今回、自分をモテ男とすることで、その 「アンリアル」 を消去にかかっているんですね。

 モテ男だからこそ、世間を甘く見たような自堕落な生活をしてしまいがちになる。
 モテ男だからこそ、女性に対して警戒感がない。
 モテ男だからこそ、自分に酔っていたくなる時がある。
 そっちのほうが 「リアル」 な気がするんですよ。

 そして重要に思うのは、その福山サンと藤原さくらサンの話が今回、実はラヴストーリーを目指しているんではない、と感じたことです。

 確かに、年下のさくらサンは福山サンに好意を寄せていくような描写があったりします。 でもそれって、単なる 「憧れ」 の域を出そうもない感じがしてならない。
 どうしてそう感じるのか、というと、モテ男設定の福山サンが抱えている神代広平って役って、吃音で悩む相手役以上に、音楽仲間で恋人だった女性の死から、いつまでたっても逃れられない悩みを抱えている。 その神代広平が 「どうやって失われた恋人の幻影から解放され、自分が捨て去った音楽と向き合っていくことが出来るのか」 ということが、ドラマの本当の目的、ゴールなのではないか、と私は感じたのです。

 つまり、思っていた以上にこれって、「音楽」 がメインのドラマなのではないか。と。

 ドラマの体裁を考えた場合、ネットでは 「テンポが悪い」 という意見が散見されました。
 だが私はそうは思わなかったな。
 まず 「萎える」(笑)ベッドシーンとネットカフェの描写で神代広平の自堕落さが強調され、彼が臨床心理士を担当する自動車整備会社の工員である佐野さくら(藤原さくらサン)の人となりが丁寧に描写されていく。
 ここらへんの描写はすべてが必然性を伴っていて、このドラマの前の月9で私がときどき引っかかったような部分が見当たらなかった。 しかも説明セリフなどまったくなし。 「この脚本家は相当出来るな」 と思わせた。

 例えば冒頭、さくらが屋上でタバコを吸っているところに同僚のいわゆる 「さくらイジメ要員」 である女の子たちがやってくるのだけれど、ワイワイ騒いでいる話がですね、「ね、タバコの値上げ、ハンパなくね?」「日本なに目指してんの?」「つら過ぎ」。

 そんな話をしてる同僚たちが、さくらのタバコを 「もらってい?」 みたいな感じで次々拝借して、新歓(新入社員歓迎パーティ)の幹事を吃音だと分かってるさくらに押しつけて好き勝手な話をどんどん進めていく。

 このなにげないシーンひとつ見ても、「セコイようだけどタバコ1本いくらだと思ってんだよ」 みたいな流れになってる気がするんですよ。 この女の子たちがさくらに与えるストレス。 それが一目で理解できていく。
 だけど、前の月9で同じように繰り広げられた 「いじめ」 とは、なにかが違う。 前の月9はどこか誇張して見ている側の気持ちを苛立たせるような 「やり過ぎ感」 があったけれど、今回の 「いじめ」 は、「やり過ぎるとまあヤバいし」 という、女の子たちの 「引いた感じ」 が却ってリアルに見えるんですよ(前の月9をそれとなく批判してますね…いやかなりはっきりと、か…笑)。

 さくらはそうした、いちいち探すとキリがないストレスのなかで、バイクの運転も結構粗い。 彼女の親友である真美(夏帆サン)とは吃音ながらも結構べらべらしゃべるのですが、その口ぶりもどっちかっていうと悪いほうの部類に入る。 つまり鬱屈がたまってる、ということがそこからすごく分かる。
 真美はさくらから頼りにされているのをうざったがっているように最初は見えるのですが、実は自身の結婚を控えている。 真美から結婚を打ち明けられたさくらは、打ち沈んで、真美と初めて会った養護施設での出来事に思いを馳せていく。

 そしてさくらと公平を結び付けていくきっかけが、公平の死んだ彼女が好きだった 「500マイル」。
 この曲って結構古いので、それをこの年の差があるふたりを結び付けていく材料にするには無理が伴います。
 でもその無理はドラマのなかで無理のない状態にやんわりほぐされている。 どうもさくらが好きなのは、リメイク版のようだ。

 だからさくらがこの曲が好きな理由はきちんと説明されているし、公平がこの曲を好きなことも、ちょっとした回想ですぐに分かるようになされている。

 さくらが新歓の幹事を、すごく努力して克服していく様子も、とても丹念に描かれています。 居酒屋に電話することも、さくらにとっては苦痛の極致なわけなんですが、散々失敗したあとわざわざ居酒屋に出向いて、やっと予約を取ることに成功する。

 その様子を、恋人の思い出から逃れてその居酒屋で飲んでいた公平が、やはり隣の女の子に 「キャー」 とか思われながら(笑)目にするわけですよ。

 これって普通だったら、「あーあ、あり得ねー設定」とか思うんですが、これって公平がさくらのことを 「見守る」 ためのステップのように私には感じられる。
 つまり、このドラマが取っているスタンスというのは、第1回目ではあくまで、自分よりずっと年下の女の子を見守る、スゴモテ中年ヒモ男、という立場なんですね。
 それは確かに、「年の差恋愛」 につながる危険性も内包しているけれども、公平は医師仲間である水野美紀サンなんかに接する態度とは、明らかに違う、「上から目線」 なんですね、さくらに対しては。
 そこをちゃんと描写しているから、世間的に 「キモイ」 と思われがちな 「年の差恋愛」 にも、スッと移行できてしまえそうな、作者の表現力を感じてしまうんですよ。

 そして、「500マイル」 の曲を中心として、音楽療法をしようとするさくらが、自発的に 「500マイル」 を歌うまでが、感動的なクライマックスになるように設計されている。 そしてそのシーンでは、恋人の死以来ギターを持つことのなかった公平が、ギターを手にする瞬間でもある。

 かなり用意周到なストーリーだと感じ入りました。

 ただ、これから先どう展開していくのかは、ちょっと不安も残ります。 「どうすんのかなコレ?」 という感じ(笑)。 前にも書いた通り、さくらと公平の恋愛がメインではない気がするし(それがメインだったら興醒めする)。

 展開によっては、毎回レビューとなりそうな期待も込めつつ。

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2016年4月 5日 (火)

「真田丸」 第13回 お梅はなぜ死ななければならないのか

 上杉と手を結んだ真田が上田城において徳川の軍勢と対峙する第1次上田合戦。 歴史好きにはこの合戦の勝者は真田で、徳川は大軍を繰り出したのにボロ負け、というのが分かっています。 さらに今回、ドラマのなかで昌幸が仕掛ける軍略チャートを見ていれば、その知識がないものでも、「これは真田の勝ちだな」、というのが即座に分かる流れでした。

 あとは真田勢が仕掛ける城内のトラップがどのように機能するのかとか、相手を甘く見てかかる徳川勢がどのように鼻先をへし折られていくのかを、ワクワクしながら待つだけ、という話になるはずだった。

 しかしそこに三谷サンが仕掛けたのは、信繁の最初の妻、お梅の 「危なっかし過ぎる」 一連の行動でした。

 お梅は信繁とのあいだに長女をもうけたばかりであり、お乳が張ってしょうがない時期。 だのにお梅は戦支度の段階からお城にただいることをよしとせず、去年の大河ヒロインみたいに領民におにぎりを運んできたり、赤子に乳をやりに行ったり、お城と城下をあっちこっちとチョロチョロチョロチョロ。

 そのうちに、上杉の人質から一時戻ってきた信繁とニアミスする。 このすれ違いはスローモーションで、いかにも今生の別れみたいな描写です。
 戦が始まっても、戦略上かなり危険な本丸の門から外に出ようとする。 そのとき敵を扇動し本丸までおびき寄せてきた信繁とようやく遭遇し、「こりゃかなりマズイ」 というときに佐助が天の助けとばかり現れて、ようやく見ているこちらがほっと胸をなでおろしたのもつかの間。

 戦いが終わって城下を見て回る信繁が目の当たりにしたのは、予定外のところになだれ込んだ徳川勢の一部が、梅の兄作兵衛の拠点で小競り合いを起こした跡。
 「作兵衛の拠点だった」 ということがまずかった。
 佐助に連れられお城に戻った梅はその様子を見て、兄を助けようと、その場所に向かったのです。
 そして信繁は、梅の亡骸と対面することになる。

 室賀が殺されたときのきりの一連の行動の時もそうだったのですが、「どうしてこういう行動をとるのか」 ということを見ている側は即座に考えます。
 私も、「どうして梅は、側室とは言え信繁の妻なのにお城にデーンと座っとらんのか、しかも赤ん坊の世話が第一じゃろう」 と最初はヤキモキしました。 梅は結局殺されてしまって、「そりゃ自己責任ってもんだろう」 とも思った。

 しかし。

 どうして三谷サンが、そんな抜けベンベンな話を作るでしょうかね。

 「そりゃ黒木華サンは春ドラマの出演で忙しいからだろう」 とか(笑)、「のちに正室もらうために死なせたんでしょ」 とか、「戦の悲劇を演出するためのもんだよ、でもこんな理解不能のことさせたあげくに死なせるとか、かえって梅の死が軽くなって逆効果」 とか、「三谷の腕も落ちたもんだ」 とか、現代人の我々はそっちに目が行きがちです。

 私が考えたのは次の二点。

 まず、梅の真田家における立場ですが、「やはり自分は農民の出で、側室以上のものになれない」 というはっきりとした自覚が梅にあったのではないか、ということ。 特に信繁の母、薫に対しては引け目を感じる場面が以前にあった、と記憶しています。
 今回、梅は薫ときちんと話をして、その引け目というものはだいぶ軽減されたようにも思うのだけれど、「自分は農民の出」 という自覚が消えることはなかった。
 却って子供を産んだことで子供を守る、という意識が芽生え、「その地を守る」 という農民的な意識と結びついてしまった。

 梅が上田城にじっとしていないことをたしなめるのは、ライバルで親友のきりだけです。

 この状況も結構重要な気がする。

 つまりばば様も信幸の病弱の妻も薫も、梅が戦闘に協力することについてある程度当然だ、と捉えているフシがある。
 つまりはそういうことなのではないか。
 お城にじっとしているのが 「当然」、と考えている、私たちの意識のほうが間違っているのではないか。
 それだけ身分の違いというのは、今の私たちから想像できない落差があったのではないか。

 お城の内外を行ったり来たり、というのも、上田城ってそんなに規模が大きくないんじゃないのか、みたいなことも考えられます。
 城、なんていうと今の私たちは立派な天守があってお堀があって、みたいに考えますけど、上田城のつくりって規模が小さくて、本丸の門以外は境界が曖昧だったのではなかろうか、と。
 だとするとお城の外を行ったり来たり、ということが、私たちが考える程 「危なっかしい」 ことではなかったのかもしれない。

 そしてもう一点。

 これは戦というものの性格なんですが、戦争ってなんでもそうだと思うのだけれど、「予想外のことが起きやすいものだ」、ということを、今回の話は浮き彫りにしている気がするんですよ。 けっしてお涙頂戴的な悲劇を描いたものではない。

 敵味方が入り乱れてワケが分からなくなる。 状況は 「優勢」「劣勢」 のあいだでアバウトに推移するものであって、正確に把握できるものではない。

 梅の悲劇、というのは、「自らの土地を守ろう、自分の子供を守ろう」、という強い意志から導き出されたものであって、けっして軽々しい短慮の末の無意味な死ではない。

 「そんなことするな」「ああしていればよかった」「こうするべきだ」 というのが、いちいち意味を持たなくなる世界。
 戦の持つ本質って、そこに潜んでいるのではないでしょうか。

 ましてや黒木華サンのスケジュールの問題でもないのです(笑)。

 まあ、そこまでを意図して三谷サンが今回の話を作ったのかどうかは不明なのですが、昌幸の策に従って徳川を攻略していく信繁や信幸たちの雄姿にワクワクしてしまった自分を思い返してみると、「戦争の持つ高揚感」 っていうのは怖いな、と考えてしまうのです。

 三谷サンのとった今回の 「梅の理解不能な行動」 には、「単なる真田大勝利の話にはしない」、つまり 「その高揚感ってやばくない?」 という三谷サンの声が聞こえるような気が、するのです。

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2016年4月 4日 (月)

「とと姉ちゃん」 第1回 穢れのない世界

 「暮しの手帖」 の創始者である大橋鎭子サンをモデルにした、今回の朝ドラ。 ウィキで調べたら、ちょうど3年前にお亡くなりになっているらしい。 享年93歳だから、もうじゅうぶん生きたのかもしれなかったけれど、ご自分がモデルの朝ドラなんて、長生きした最大のご褒美になったでしょうに、残念なことですね。

 肝心の本編ですが、まず 「暮しの手帖」 は大人の事情で(笑)「あなたの暮し」 に改題。
 脚本は西田征史サンで、過去に何を書いてるのかなと調べたら、「怪物クン」 とか 「妖怪人間ベム」 とか、ETVの 「シャキーン!」 とか。 一瞥した印象では、あまりキャリアがないような感じがするんですが。 朝ドラが書けるような体力あんのかな? 元芸人らしいし(あっ、芸人をバカにしてる…笑)。 バカリズムサンみたいな 「知性派」 なのかな?

 ナレーションは壇ふみサン。 去年の 「花燃ゆ」 では方向性の定まらないドラマのなかでひとり、ごく普通の平凡な母の、寂寞たる老境を演じて印象的でした。 その、「ごく平凡」 というカラーが今回も出ている感じで、とても心地よいナレーションになっています。
 ただこれってナレーションのせいじゃないけど、冒頭の染色がどーだの織物工場がどーだのという、主人公の父親が働く環境についての説明は、まったく頭に入らなかった(笑)。
 こういう言葉を矢継ぎ早に言われても困惑するですよ。 狙ってやってんのかもしれないけど。 元芸人だから(あっ、元芸人をバカにしてる…笑)。

 主題歌は宇多田ヒカルサン。 この人は若い時にじゅうぶん稼いでしまったために現在隠居状態なのですが(違うか?)、たまーにエヴァンゲリオンとか気が向いたら仕事してる感じで(笑)、その 「たまー」 が今回(笑)。
 その主題歌、若いときのR&B、ヒップポップの名残りは微塵もなく、実に 「朝ドラ向き」 の 「いい曲」 に仕上がっています。 才能あるのにもったいない気がするのですが、まあ 「ハンターハンター」 の富樫サンみたいのもいるし(笑)。
 お金を稼ぎまくっても貪欲に仕事を続けるポール・マッカートニーみたいな人を見てるから、私もつい皮肉を言いたくなっちまうんでしょうね。 まあ、人生なんか、3億円くらいあれば大概生きていけるし。 私なんか老い先短いから、4、5千万でも生きられそ~な気がする(笑)。

 なんの話だ(笑)。

 そして第1回目を見た感想。

 昭和33年、主人公の高畑充希サンが編集室で、執筆を断られたという報告を聞いて 「どうしたもんじゃろのお~」 と流行語大賞狙ってるセリフを言うのはまあ大目に見まして(「びっくりぽん」 とかどうも最近の朝ドラは 「じぇじぇじぇ」 の呪いにかかっておる…笑)。
 「電話じゃダメ!会って話しなきゃ!」 というのには賛成でしたが、この先 「あなたの暮し」 を立ち上げていく途上で、こういうビジネスルールを披露してくれるとなると、期待が大です。 家族の愛情の話になっちまうと、「まあ見るけど、『あさが来た』 でさんざん見たしなァ」 という気分になりそう。

 そして次のシーンであっという間に主人公の少女時代へ。 昭和5年、静岡は浜松。

 主人公を含む三姉妹が出てくるのですが、まずこの子たちが愛くるしい。 おかっぱ頭だとか、外見が昭和初期、というだけでなく、この子たちの顔がね、昭和顔なんですよ。
 そして例によって(笑)主人公は高いところに登り(笑)、降りらんなくなって父親の西島秀俊サンがスッ飛んできて周囲に平謝り、と朝ドラ恒例の展開が続きます。

 ただしこの家族、互いに丁寧語で話すことが不文律となっており、昭和初期にもかかわらず、父親(とと)の当たりはソフトで威張り散らすことなど論外。 母親(かか)の木村多江サンもおっとり型の典型で、「食事中に帽子をかぶっちゃダメですよ」、と躾はするけど言い方が全くキツくない。 三姉妹は三姉妹で、家の手伝いを嬉々としてやっているように見える。

 これが実に、「おままごと」 をやっているように見えるのですよ。 いや、悪い意味ではなく。 「おままごと感覚」。

 なんというか、そこには 「人間の業」 が渦巻いてない(笑)。 「私が私が」 というのもないし、「私のだ私のだ」 というのもない。 予定調和のなかに子供たちの本来持っている我欲みたいなものがスーッと消えていってしまうような感覚。

 この家庭には、穢れがない。

 しかし、番組予告によるとこの父親は近く死んでしまうらしく、それで主人公はととの代わりをしなければならなくなり、とと姉ちゃんと呼ばれるようになるのだとか。 この穢れなき世界が、どのように変容していくのか、期待しながら見ようと思います。

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2016年4月 3日 (日)

「あさが来た」 最終回まで見て

 21世紀に入ってから、つまり過去15年のNHK朝ドラのなかではいちばん視聴率がよくなった、という今回の 「あさが来た」。

 前回、1月のレビューで私はこの 「あさが来た」 というドラマについて、「あさのビジネスの概要が見えてこない」 ということを書きました。 もう一点は、「このドラマの評判を良くしているのは、新次郎や五代という脇役が機能していることもさることながら、あさがかなり礼儀正しい人間として描かれているからではないか」、と。

 今この作品を俯瞰して思い返してみると、印象的だったのはあさの 「そら堪忍やで」「ほんま申し訳ありまへんなあ」 というセリフだったりします。
 つまりそれだけ、ひとつ何かの行動を起こすごとに、あさは周囲に対して謝っていたことになる。
 さらにあさは、自分が褒められると必ず謙遜し、それを自分の周りの人たちのおかげだ、と話していた。

 つまり、あさはけっして、出しゃばらないんですよ。 あれだけ幕末、明治という時代に 「女だてら」 に仕事で名を成した人物なのに(しかしまあ、このドラマが始まるまで知りませんでしたけどね)。

 私はこの、あさの性格設定を見て、ヤフーテレビ感想欄なんかでいちばんやり玉に上がる朝ドラヒロインのパターン、「自分勝手」「他人のことを考えてない」 ということに、作り手があらかじめ強力な予防線を張っているように感じました。

 ただそのうちに、「主人公の礼儀正しさ」 を武器に、よくある家族愛の話とか人生訓、人情話に重点を置くことで、広岡浅子という明治の女性の実業家の業績を、実は矮小化しているのではないか、というふうに見えてきた。
 途中までは。
 (安心してください、あとで褒めます…笑)

 「実績を矮小化している」 と思い出したもうひとつの理由は、五代友厚や、姉のはつなど、かなり大胆な脚色を加えていた、という点です。
 このドラマフリークのかたならご存知でしょうが、あさの姉はつは、実際はとても早く亡くなっているし、五代友厚が浅子とこれほど懇意であった、という証拠もない。

 特にドラマの組み立て方、という点から見て、五代とあさの出会いからの一連の出来事って、すごく稚拙に思えたんですよ。
 確かいきなりぶつかってあさの振袖のなかに五代の隠し持っていたピストルが入っちゃって、そんときの五代の態度が気に食わなくてあさが五代にブチ切れて(笑)、そしたら数日後に五代から恋文みたいな手紙があさに届けられて。

 だけどそのときのあさは、まだ子役の鈴木梨央チャン。 いくらものをはっきり言う女性を見たのが珍しかったからといって、「こんな年端もいかぬ子供に文とは、五代はロリコンか?」 みたいな(笑)。
 自転車に乗ってる女性を海外で見てあさを思い出したとか、「最初に海に飛び込むペンギン」、ファースト・ペンギンはあなただ、とか。 どうしてそう気に掛けるのかが、今イチ伝わってこなかった気がするのです。

 そして五代はその後もあさに 「過剰に」 絡み続け、ついには盟友の大久保利通が死んだ明け方だったか、酔った五代はあさに抱きつく。

 ここまで脚色していいもんか?と思いながら見てました。
 しかし世間的には五代役のディーン・フジオカサンの人気はうなぎのぼり。 五代が死んでからは、「五代ロス」 という言葉まで生まれた。

 そこで、こう考えることにしたのです。 「要するに、五代は特に女性の視聴者にとっての王子さまを体現したのだ」、 と。 そうした面でディーンサンは、適役だったのだ、と。
 なによりも、あさは五代に対して、恋心というものを一度でも持った形跡がないんですよ、ドラマを見る限り。 つまり五代の一方的な片思い。
 しかし現実にはどうだったかというと、五代は結構女性がいたようであり。

 それはあさの夫、新次郎についても同じようなことが言えた。

 お妾さんがぎょうさんいたゆう話やでみたいな(笑)。

 しかしこのドラマのとったスタンスは、あくまであさも新次郎も、お互いがファースト・ペンギンじゃなかった、ファースト・ラヴだったわけで、純愛は結局、最後まで貫かれた。
 「謙譲の美徳を兼ね備えた礼儀正しい女性」 の夫にお妾さんとか、ドラマコード上許されないんですよ。

 「あさが来た」、というドラマについて私が持っていたこのようなモヤモヤは、普通ならば 「じゃ見るのリタイアしようか」、ということになります。 何より朝ドラって、見続けるのしんどいし。

 でもそうはなりませんでした。
 なぜか、というと、このドラマにおける新次郎の存在が気にかかったからです。

 新次郎のモデル、広岡信五郎は結局仕事においていろんな役職をかけ持ちしたりした人ですが、基本的に新次郎と同じような感じだったようです。 先ほど書いたように、何人もお妾さん、という点で新次郎よりすごかったのかも(笑)。
 しかしこのような、「趣味第一」 の風流人がどうしてビジネスの世界で存在感を維持し、明治の女傑と折り合いをつけ、自らの人生を全うできたのか。 それが気になったのです。

 このドラマがとった結論としては、「新次郎はビジネスの難しいことはまったく分からなかったが、肝心なところであさをなにかとサポートし、見えない下支えをした」。 つまり潤滑油としての役割を重視したと思われます。
 また、新次郎の趣味が広げる人脈の役割も重視した。

 ドラマ的な体裁からいくと、新次郎を演じた玉木宏サンの風采が光っていた気がします。 ドラマが始まったときのインタビューで、玉木サンは難しい上方言葉について、歌を歌うような、音楽みたいな感覚でセリフをしゃべるようにした、と話していました。
 そのセリフ回しが、なんとも見ている私にとっては、心地よかった。

 そしてその新次郎のスタンスが、あさにとってはいちばん、自らの生き方とフィットしていた、という点が、このドラマを魅力的にした最大の原因だった、と私には思えるのです。
 あさは現代の女性にとっては、「働く女性」 の先駆者であるのですが、あさを取り巻く環境は、夫の新次郎をはじめとして、働く女性にとって理想的このうえない環境であった。 ここにこのドラマのいちばんの吸引力がある。
 だからこのドラマにおいて、あさのビジネスの概要についてきちんとやる必要は、なかったのです。

 まずこの夫婦のけったいなところは、妻が働きまくり、夫が全く仕事に興味を示さない部分。
 ドラマはまず、この新次郎が、どうして仕事に興味を示さないようになってしまったのかを、丁寧に解説していきます。
 そして普通なら、仕事もせんと遊び歩き、不倫の疑いもある夫をあさがそんなに厳しく追及しない。 その理由もさりげなく織り込んでいた気がします。
 いちばんの理由は、あさがまず 「学びたい人間」 であった、ということ。 そして仕事に興味がおおいにある人間だった、ということ。 そしてあさが嫁いだ加野屋の空気が、自由闊達であったことも大きい。

 このドラマの最大の特徴は、「立ち聞きが多い」 ということに尽きる気がするのですが(笑)、それはとりもなおさず、「加野屋の風通しがいい」 ことの象徴であったのです。 つまり加野屋には基本的に秘密がない。

 秘密がないから、あさが夫に対する疑念を膨らませる機会がない。 そらちょっとはありましたけど、あさにとってそれが深刻な悩みにならないことが、このドラマを限りなく健全な空気のままで持続させた原因のような気もするのです。

 疑念がないから、あさはみずからの 「はつ恋」 を持続させることが出来る。
 あさは幼い頃に新次郎からそろばんをプレゼントされるのですが、先ほど書いたように、もうその時点から、あさは新次郎に初期的な好意を寄せています。
 このそろばんは、あさの 「学びたい」 心の象徴であると同時に、「商いへの入り口」 となった重要なアイテムでした。
 ドラマ終盤になってそのそろばんが 「シャカシャカすると音のいい」 梅の木を使ったことが明らかにされ、その梅の木を庭先に配置して、「うれしいことが雨が降る」 という新次郎の象徴に転化させていく。 見事でした。

 あさがビジネス界の大物にどんどんなっていくのに、それをまったく感じさせないというのも、このドラマの大きな特徴でした。
 あさは生まれたときから嫁ぎ先まで、ずーっと名家のなかにいるわけですよ。 つまり超大金持ち、超セレブ。
 しかしドラマはその空気を極力排そうとしていたように思います。 だって大金持ちのドラマじゃビンボー人の反感を買うでしょう(笑)。
 ドラマで行なわれた最大のビジネス的転回は、あれほど努力して規模を大きくした加野炭鉱を売却し、取り付け騒ぎの予防線を張り生命保険の合併の資金と変えた部分。
 この一連の流れは、資金的な規模を考えれば、女子の大学を作る事業も併せると、庶民レベルでは到底想像が出来ない金額が動いているはずです。
 けれどこのドラマは、そこがまったく伝わってこない(笑)。
 なにしろその段階になると、ドラマで重要だった人たちを、次々死なせる、ということに重点が置かれるからです(笑)。

 この 「みーんな死んでいく」 というのは、この世の無常を思い知らされる展開になりそうなんですが、このドラマはその部分の哲学が確固としていたと思います。

 つまり、「よく生きることによって、よく死ぬことが出来る」。

 新次郎の母、よのは死ぬ間際に、あさの娘である千代の結婚に心を砕きます。 はつの夫である惣兵衛は、和歌山のみかん畑に 「自らの生きるべき場所」 を見い出し、自分らしく生きられたことに満足しながら、死んでいく。 それに先立って死んでいった惣兵衛の母菊は、山王寺屋の復興を夢見ながら、実は目の前に広がる山が山王寺屋だったことに思いをいたして、亡くなりました。

 そしてこのドラマにとって最大の山場は、最終回直前に亡くなった、新次郎でした。
 もうマジで泣けた。

 なにしろこんな道楽もんがよく世間を泳ぎ切ったものだ、と思いながら見ていたら、新次郎のたおやかな音曲のような佇まいに、すっかり癒されていた自分に気付いたからです。

 も~目が腫れるくらい泣きました(笑)。 それが先ほども書いたような、ああいう伏線の張りまくった展開でしょう。
 新次郎の象徴のようなキツネの嫁入りの雨に、雨を抱きしめるように手を広げたあさ役の波瑠サン。 思い出したらまた泣けてきた(笑)。
 そこにいなくてはならない人。
 このドラマはこの、一見遊び人風のこの人物に、そこまでの存在感を帯びさせることに、成功したのです。

 「あさのビジネスが見えてこない」 などという杞憂は、ドラマが重点を置いている方向を見定めると、途端に気にならなくなるものです。 「見かた」、の問題。
 それに気付かせてくれたのも、このドラマだった気がします。

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