« 2016年5月 | トップページ | 2016年7月 »

2016年6月

2016年6月12日 (日)

「真田丸」 第16-22回 三谷脚本の 「引き算」 的手法

 大坂入りした信繁を待っていたのは、アブナイ連中による危うい権力構造でした。 秀吉、茶々、加藤清正、この誰ともお付き合いしたくないようなエキセントリックさで(笑)。 こうした構造で豊臣政権のギクシャク感を表現しようとする三谷脚本のキャラ設定は見事です。

 信繁が馬廻り衆(警護役)として秀吉に仕えてしばらくしてから、三谷サンは豊臣秀長に 「みんなあっという間にエラクなり過ぎて、身の丈を超えた地位に溺れかけてる」 と政権の危うさの本質を鋭く解説させた。 いわばここが、第16回での結論なわけです。 その結論に向かって三谷サンは物語を構築している。

 結論がまずあり、それに向かって引き算をしていって、どういう話を初めに持っていくかを決める。
 この第16回だけでなく、「真田丸」 はこの引き算的な手法で話が展開しているような気がしてなりません。

 つまりこの物語の大きな結論としては、「豊臣家は徳川家康に滅亡させられる」「真田信繁は豊臣と心中する」 ということがある。 そこに至るまでに 「どうして信繁は豊臣方についたのか」 という 「引き算」 がまずあり、「だいたい人望のない石田三成なんかになぜ味方しようと思ったのか」 という 「引き算」 がまたある。

 だから 「真田丸」 という物語は、まず石田三成という男について、複雑怪奇なプログラミングをしているように見える。 そのことによって信繁が石田三成という男に興味を持ち、同心し、共闘していこうという過程を描こうとしているように見える。

 第22回まで見て思うのは、三成が執拗に 「戦を回避しようとしている」 という姿勢を貫こうとしている部分です。 ただその根幹にあるものは第22回の時点まではまだ見えてこない。
 推測されるのは三成が秀吉の天下(つまり権力の圧倒的優位状態)を実現させようとするために大名どうしの諍いにプレッシャーをかけコントロールしようとしている、ということ。 さらに経済的な負担を憂慮している、という側面も考えられる。
 しかしドラマ的な因果法則としてはまだ弱い気がする。 まあ安っぽく 「幼いときのトラウマ」 とか使ってほしくはないんですけど(笑)。

 肝心なのは、三成が 「戦の徹底的回避」 を実現するために秀吉の影に徹して 「憎まれ役を買って出ている」、ということ。 信繁はその様子を、大坂入りした直後からつぶさに観察しているのです。

 そして三成がその業務を嫌々ながらこなしているわけではなく、自らの 「ツマンネ~奴」 というもともとの性格を利用して遂行している、という部分。
 つまり三成は、自分がつまんないヤツ、という自覚をすでに持っていて、それが自らのコンプレックスとなっている。 そのコンプレックスを 「憎まれ役を買って出る」 という部分で昇華させようとしている。

 その複雑な三成の精神構造を、信繁だけはつかんでいるはずなんですよね。 いや、秀吉もじゅうぶん理解している。 だから人望がなくとも第一の家来として重用している。
 もうひとり三成の人格を理解しているのは、大谷刑部だと思いますね。 だから刑部の娘がのちに信繁の正室になるのは、三成という人物を介して同じ思いを共有しているという部分が大きかったから、という必然性がある。 三谷サンの目的はそこにあるのではないか。

 のちに三成が西軍の大将として立つときでも、多くの武将は 「ツマンネ~」 三成に同調したのではなく 「家康の理不尽に対する反発」「豊臣への大義名分」 を第一に掲げたように思うのですが、このドラマ、この時点では真田信繁と大谷刑部だけはすでにここで異質の動機を抱えている。

 刑部はこのあと家康とも仲が良くなっていく予定のはずですが(笑)過去の大河で頭巾をかぶった異形の者として出ていた印象のあるこの人。 今年の大河でもそんな展開になるのかどうかは不明ですが、今のところ三谷サンが設定している刑部の性格は 「極めて冷静」、という部分のみ。 「人間の本質」 を深く追及しているためにかなり瑣末な登場人物にも細かい性格設定をしている三谷サンですが、この刑部の性格だけは未だにつかめないところがある。 三谷サンが必要ない、と考えているのかオイシイところは後にとっといてるのかは分かりませんが、個人的には 「謎めいた人物」 刑部に対する興味がいまのところ高じている、といったところです。

 さらに 「引き算」 的な手法を感じる部分として、真田昌幸が結局徳川の配下に置かれてしまう、という、昌幸にとっては人生最大とも呼べる屈辱に対して、行方不明になっていた松の生還、という緩衝剤を用意していたことが挙げられます。
 この緩衝役の効用を高めるために三谷サンは、松を記憶喪失にさせた。 そして信繁と再会させるために出雲の阿国の劇団(じゃねーか…笑)に入らせ秀吉の御前で踊らせた。
 松が記憶喪失なために信繁ときりは大変な苦労をするのですが、そこがドラマ的に見ている側をやきもきさせる。 うまいなぁ、と感じます。

 そして松が、記憶を取り戻してもけっして全部の視界が良好になったわけでなくまだらな記憶回復にとどまったこともドラマ的には効果的。
 だから秀吉から 「家康の配下になれ」 と命じられ失意のどん底にある昌幸が娘の松と再会できたときの喜びも複雑なものになり、複雑であるがゆえにリアルを伴ってくることとなる。 松が行方不明になった時点で三谷サンは、松との再会をここに持ってこよう、としていたフシがうかがわれるのですが、これも 「引き算」 的だなあ、と感じるのです。

 茶々(のちの淀)に関してもそうですね。 彼女もかなりエキセントリックなのですが、それを 「悲しむのをやめた」 という大きな動機を掲げることで信繁のシンパシーを引きだそうとしている。 茶々に対してシンパシーがなければ三成の死後に大坂夏の陣まで信繁が豊臣に味方する動機が薄れる。 これも 「引き算的」 手法のひとつだろうと思うのです。

 「引き算的」 であるがゆえに、物語が理路整然としている。
 ここ数年の大河では 「これ、どこをゴールにしようとしてるのかな」 と思うことが多かった気がするのですが、今年の大河はそんな杞憂がない。
 誰もが結末を知っている物語を引っ張っていく、三谷サンの才能を見る思いがするのです。

| | コメント (21) | トラックバック (0)

2016年6月 4日 (土)

「トットてれび」 第2-5回 おそるべき空虚と、希望と(コメント欄で 「最終回まで見て」 の感想も書きました…もしよろしければ一読のほどを)

 前回のコメント欄に少し書いたことをちょびっとエラソーに発表したくなりました(笑)。

 この 「トットてれび」 というドラマ、満島ひかりサンのモノマネやテレビ界のうわべの華やかさに騙されてはいけない。

 このドラマは、老後に誰もが味わうであろう、「自分の知り合いが次々死んでゆく」 という 「おそるべき空虚」 をはからずも描いている。

 考えてもみてください。 森繁サンに渥美サン、沢村貞子サンに三木のり平サン、植木等サン、ハナ肇サン谷啓サン、このドラマに出てくる人たちは、現在ほとんどみんな鬼籍に入った、つまり亡くなった人たちばかりなのです(たぶん)(永六輔サン、篠山紀信サンなどはご存命)。

 そしてそれらの亡くなった人たちが、テレビという 「夢の箱」 で幻想のようなきらびやかな過去を映し出していくのを、100歳の徹子サンが眺めている。
 その100歳の徹子サンを演じる現在の徹子サンは、そこで過ぎ去っていく人たちに思いを馳せることで、現在に至る自分自身の人生がいかなるものであったのかを、見つめ直している機会を得ているのでしょうか。

 長生きすると、人はいろんな人と別れていきます。 若い頃なんかはそりゃ、不慮の事故で亡くなってしまう友人もいましたよ、私にも。 第5回の向田邦子サンのように、飛行機事故で亡くなった友人もおりました。 こんなことって滅多にあるもんじゃないような気もするのですが、徹子サンはこの向田サンと、(坂本)九ちゃんのおふたりの友人を飛行機事故で失っている。

 それが次第に 「若くしてそんな病気で…」 というケースになっていき、もっと歳を経るとみんな寿命で亡くなっていく。
 「櫛が抜けていくように」 と申しますが、本当にそんな感覚がいたします。

 その寂しさが、

 私たちフツーの人たちに比べればはるかに 「華やかな」 芸能界、テレビの世界においてだから、余計に激しく増幅されて、「100歳の黒柳徹子サン」 に押し寄せてくるのです。 「老い」 というものの恐怖をこれほど感じたドラマって、個人的にあまり記憶がない。

 しかしそれでも第5回のラストで、黒柳サンは幸せなおばあちゃんになる、と宣言するのです。 「おばあちゃんになった黒柳サンを書いてみたい」 と語っていた向田サンを失いながらも。

 確かにこのドラマに出てくる人たちは、みんな去ってしまった人たちだけれど、人はいくつになっても新しい人と出会い続けることができる。
 それは移り変わりが激しいテレビ界だからそのようなこともできるんだろう、という気もするのですが、それは自分がそれまでの自分に拘泥することなく、一歩を踏み出すことで新たな出会いもある気がするのです。 ブログなんかやってる私なんかも、実はそんなところで単なる仕事づきあいだけでない、楽しくおしゃべりできる人に出会う機会を得ているのでしょうね。

 とまれ、「電車の網棚にタヌキがいた」 みたいな不思議感覚(笑)で、はたから見ればつまらないことでもなんでも楽しそうに向田サンの留守番電話にしゃべりまくる徹子サン。 そんな 「なんでも面白がる」 という発想って、必要なんだな、って感じるのです。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

「ラヴソング」 第4-8回 strength(強さ、ということ)

 「史上最低視聴率の月9」 という有り難くない形容詞が亡霊のように付きまとってくる 「ラヴソング」。 その不評の裏にあるものについて当ブログではこれまでコメント欄でのやり取りも含めて言及してきたつもりです。

 ただドラマウォッチャーのはしくれとして感じるのは、「このドラマはそんなに言うほど悪くない」、ということです。 どころか良質のドラマだとさえ思う。 まあ感じ方には個人差がありますので、それを押し付けるつもりは毛頭ございませんが、このドラマのいちばんの魅力と私が感じる 「藤原さくらの歌声」 を、「そう思わない」 という人にとっては、このドラマも面白くない、という範疇に入ってしまうのでしょう。

 ただしテレビ局はこの 「不評」 には敏感なようで、第5話と7話で脚本家を替える、という手段を取りました。
 これはドラマ好きとしてはあまり気に入らない処置でして。
 特にこのドラマのような、微妙な空気感を伝えるようなドラマにおいて脚本家をすげ替える、ということは、登場人物たちの人格を否定するも同然のやり方なのではないか、とすら思える。

 なぜなら、登場人物たちはその作家(脚本家)にとって、けっしてキャラ設定と話の筋だけで説明ができる性格のモノではなく、自分の分身だと思うからなんですよ。

 私もかなり神経質すぎるきらいもあるのですが、特に書き手が代わった第5話と7話では、なんか筋だけが当たり障りなく進行していくような、「受け狙い」 とまではいかないが、どこか 「こうすれば視聴率上がるんじゃね?」 的なものが感じられた気がするんですよ。 どこかおもねっているような。 確かに良いセリフがちょこっとあってよく出来てはいたんだが。

 だから第7話でさくらが一生懸命公平に対して愛の告白をしてもどことなく白々しく、これって藤原さくらチャンの演技がまだ稚拙なせいなのかな、と感じてしまって。
 いや、やはり藤原さくらチャンに関しては、どんなセリフよりもその歌声がいちばん説得力を伴っているわけですよ。 ことにこのドラマを見ているとき、彼女の歌をちょっと聞いただけで泣きそうになる。 このドラマの泣かせどころは、そこにしかない。

 第7話に関しては、夏希が笹やんの誕生日会でキレてしまうところも、とても雑な話の運びだと感じましたね。 確かに公平と夏希は、春乃の未発表曲についてお互いに言い出そうとして言えない微妙な状態が続いていた。 でもそれは笹やんのお祝いの席で崩壊させる緊張感じゃない気がした。 すべてその修羅場をさくらの前で見せちゃおう、という 「いかにもドラマ的」 な論法で作られた感じ。

 このドラマ、視聴率の悪さが内容に微妙な影を落としている気がしてならないんですが、その端緒は第1回から3回までの 「第1部」 が終わって第2部になったら内容が噛み合ってない、と感じたところでした。

 つまり、第3回の終わりで 「まだ歌いたい」 というさくらの願いを公平が無情に断ち切っているわけでしょう。 さくらはステージにひとり残されてどうにも対処ができなくなってトイレに逃げ込んでしまった。 さくらはそこで拭い難い心の傷を負ったはずだ。
 ところが、第4回になったらすっかり立ち直ってるんですよ、さくらが。

 いや、立ち直っているというより気持を無理矢理切り換えて前向きに生きようと頑張っていた、というのが正解なんだけれど、「気持ちを切り替えるための哀しさ、徒労感」 というのが表現しきれていなかったために、「なんか簡単に立ち直るよなあ」 という感じに見えてくる。

 それってホントは最初ちゃんと脚本に盛り込んでいたんじゃないのかなァ、という気はします。
 これは邪推で申し訳ないんだけど、局側から 「話が暗いからもっと明るくして」、とか圧力受けて、さくらを必要以上に明るく立ち直らせちゃったんじゃないか、と。

 第8回でも同じことが繰り返されている気がしますね。

 つまり第7回でさくらは公平に 「涙の告白」 をして(この 「涙の告白」 というのが、またいかにもテレビ局が考えそうな視聴率アップ方法みたいな安易さがついてまわる)明確な返事を公平からもらうことができず、まあありていに言えば 「玉砕した」 わけですが(笑)、第8回で脚本がもとの人に戻るとさくらはまたその痛手から雄々しく(女の子ですけど)立ち直ろうとしている。

 これって。

 視聴率が悪いことから来るいろんな障害で内容を変えられようとも私はめげない、という最初の脚本家さんの姿勢に相通じているように感じてしまう。 ってコレ、考え過ぎなんでしょうかね(笑)。

 この第8回まで見てくると、このドラマの主役って実は福山サンではなく、さくらチャンなのではないか、という気にもなってくる(笑)。 公平も夏希も、さくらが備えているある種の 「打たれ強さ」 に、自分たちがこれまでの人生で目を背けていたものに向きあう力をもらっている、そんな構図が見えてくる気がしたんですよ。

 そしてその構図がドラマの不評に支えられて脆くも成立している、というように見えてきた。 その皮肉。

 このドラマの後半を引っ張っているのは、「さくらの喉に悪性の腫瘍ができる」 という 「いかにも」 な難病設定。
 ドラマ的な伏線も予兆もなにもなく、まるで第2部になって取ってつけたようにこの問題が起こったように見えるので、「これって視聴率のための内容変更?」 と勘繰りたくなる設定ではあります。
 しかしこの設定が最初からあったかどうかもまるで関知しないように、最初の脚本家さんはさくらに 「強さ」 を与え続けるんですよ。

 それはたまたまさくらが出会った、自分と同じ吃音の少女がきっかけとなって。

 つまり 「強さ」 というのは、自分の中から理由もなく湧き出てくるものではなく、「他人を励まそう」 と思う気持ちから湧き出るものなんだ、という。

 人は、自分の満足のためだけじゃ強くなれない。

 人に与えることの喜びを知ったときに、初めて強くなれる。

 この脚本家さんが到達したこの境涯には、どんなテレビ局の思惑やネットでの悪評をも跳ね返す説得力が備わっている、と私は思うのです。

 蛇足ですが、この記事も実は5月のアタマから書き始めて頓挫していました。 どうも 「そんな気がする」 とか 「そんな感じがする」 とか、いったん考え始めると邪推なのでは?考え過ぎなのでは?と思うようなことしか思い浮かばなかったことが原因です。

 しかし第8回の内容が、私を後押ししてくれました。 やはり自分のために書くのではなく、人のために書く。 そんな勇気をもらった 「気がする」 のです。

| | コメント (48) | トラックバック (0)

« 2016年5月 | トップページ | 2016年7月 »