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2016年7月

2016年7月25日 (月)

2016夏ドラマ、好き勝手に論じます

 リオ五輪があるこの夏、回数的に短いドラマが多いと聞きます。 回数が少ないから、内容的にも濃いドラマが作れるのではないか、という期待で見始めた夏ドラマでしたが、最初のうちは失望続き。 5分の視聴に耐えられるドラマがなかった。

 5分の視聴に耐えられなかったから論じる資格すらないのですが、このジジイは根性が悪いのであえてクサしたいと思う。

 最初に始まったのは日テレ土曜21時の 「時をかける少女」 だったかな。 NHK少年ドラマシリーズでの最初の映像化 「タイムトラベラー」 から原田知世版、近作のアニメまで見てきましたけど(これ以外にもあるのかな?)、結構好感が持てる作品ばかりだったので今回も期待しました。 未来人ケン・ソゴルの視点で描いたのは新鮮。 だけど、出てくる若者たちの感覚に、ジジイはもうついていけなかった。 こいつらみんな未来人じゃね? 5分でリタイア。

 フジテレビ月9 「好きな人がいるということ」。 桐谷美玲チャンが汚れ役とも言えるラブコメに挑戦しているのですが、つまんないんだな(簡単)。 ジジイには興味ない。

 TBS火曜22時 「せいせいするほど、愛してる」。 あり得ん(さらに簡単)。 なんかいろいろと。 もっと人間観察しろと言いたい。 というか、今年に入ってからのこの枠は内容がとてもよく、特に前回の 「重版出来!」 は今のところ今年のベストドラマだと思うほどの出来だったのでその比較でかなり印象が悪かった。 これは個人的なことですね。

 フジ火曜22時 「ON」。 フジテレビは波瑠サンの使い方を根本から間違ってると思いました。 これは春ドラマの 「世界でいちばん難しい恋」 での彼女の立ち位置が絶妙によかったからで、日テレとフジ制作陣の見る眼の違いをすごく感じてしまった。
 彼女は主役ではちょっと荷が重いと思うんですよ。 NHKはそこを逆手に取れる企画力を有していた。 つまり、彼女の線の細さを主役あさの強気なキャラで相殺し、さらに周囲に気遣い出来る性格にしたことで視聴者の反発を弱め、さらに周囲の登場人物を手堅く固めることで彼女を応援したいという気を視聴者に起こさせた。 だから 「あさが来た」 が成功したと思うのですが、「セカムズ」 は彼女の本来持っている透明感を利用して嵐の大野クンの引き立て役に配した。 波瑠という女優がいちばん映える使い方だ、と唸りましたね。
 それをフジテレビは分かってない。
 単に 「2作続けて当てた、じゃ使おう」 みたいな軽いノリ。 名前が売れているかどうか、という結果論で主役を決めているからこういうことが起こるんです。 その俳優がどうして名前が売れたのか、視聴率を呼び込めたのかという原因を考えてない。 これは昔の調子がよかったころの悪しき名残、悪弊でしょう。

 極めつけはTBS金曜22時 「神の舌を持つ男」。 堤幸彦サンが関わっていようがなんだろうが、「何をやろうとしているのかが分からなかった」。 そして、「別に分かりたくもなかった」。 ジジイは老い先短いので、こういうつまらんコメディドラマを見ているヒマはないのだ。 コメディを外したときの佐藤サンは、ひたすらウザい。

 5分しか見てないドラマに好き勝手放題書いてますが、ジジイのタワゴトですので悪しからず。 夢中で見てる人にはゴメンナサイ。

 この時点まで来て 「今年の夏ドラマは全滅だよ」 とかなり絶望的な気分になったのですが(実は以前ここまでは書いた、けどフリーズした)、日テレ水曜22時 「家売るオンナ」 はちょっとよかった。
 北川景子サンが家を売るというドラマですが(そのまんまやんけ)、キャラ的には無機質で感情がない 「家を売るロボット」 みたいな極端タイプで、遊川和彦サンのドラマによく出てくるタイプの女。 しかし脚本は大石静サン。 北川サンはロボットタイプらしく実利的に商談をまとめていくのですが、人の心をつかむ能力に長けているので、成立にこぎつけてしまう。
 ただその方法は第1回を見た限りでは、あまり 「ドラマとしてのキレ味」 を感じさせなかった。 面白いなと感じたのはイモトアヤコサンの使い方。 というかイモトの演技能力というのはかなりすぐれていると前から思っているのだが、いかんせんそれを発揮できるドラマが少ないのが難点な気がする。

 テレ朝木曜21時 「はじめまして、愛しています」。 尾野真千子サンが遊川作品に挑戦、といった風情ですが、特別養子縁組という題材のせいか、最近の遊川作品にはないシリアスさのような気がします。 「特別養子縁組」 って考えていたより大変なんだなあ、というのは伝わるのですが、今のところそれくらいかな。 興味深いのは余貴美子サンが演じる児童相談所の人。 ちっとも笑わなくて尾野サンと江口洋介サンの夫婦をかなり冷徹な目で見ているのですが、なんか見ていて面白い。

 そしてTBS日曜21時 「仰げば尊し」。 寺尾聰サンが不良が集まる高校で吹奏楽部の顧問をやるという、まあ 「スクール・ウォーズ」 の吹奏楽版というか。 実話というのが売りですね。
 ジジイになってみると、ただこういうのは鬱陶しくて。
 ドラマに出てくる不良はいかにもステレオタイプの不良なんですが、「あ~も~君たちはそうして粋がって他人に迷惑をかけてなさい」 と感じちゃうんですよ。 関わりたくないというか。 やってることがガキだから、「まあそのうち人生のなんたるかに気付けば、しぜんと大人になるでしょう」 みたいな。

 しかし寺尾サンは私以上にジジイなのですが(失礼)、彼らの更生に興味を持っちゃうんですね。 だけどジジイだから山下真司サンみたいに熱血号泣タイプじゃない。 殴られても 「まあやってれば?」 みたいな感じでヘロヘロとかわしちゃう。
 この手のドラマは不良どもが更生しないと成立しないので結末は分かりきっているのですが(笑)、この寺尾サンの反応が見ていて面白い。 不良グループに興味はないが、寺尾サンの反応見たさに見てしまう気がします。

 日テレ日曜22時だったっけか、「そして、誰もいなくなった」。 藤原竜也クンが個人情報を乗っ取られてしまうサスペンスモノ、という感じでしたが、サスペンスモノの登場人物って、ちょっとどこか行動の規範がおかしい感じなんですよね(笑)。 藤原クンはカードが使えなくなった、という時点で、本当だったらカード会社に問い合わせたり自分の口座の残高を調べて引き落としがされてなかったりとか見るもんじゃないですか。 それをいきなり犯人捜しに走るんだもんなぁ。
 それに協力する新潟の友人とかもまずそこを指摘すべきでしょう。 「なり済ましだな」 なんて言う前に。
 親に相談する、というのもひとつの方法ですが、黒木瞳サン演じる母親も、なんとなくヘンだったし、藤原クンの婚約者であるおのののかチャン? 彼女も藤原クンの言うことをちゃんと聞こうともしないし。
 30分くらい見てたんですが、どーもダメ。 リタイアです。 なんか私、藤原クンの出てるドラマって、まともに見たことないような気がする。

 しかし。

 私が題名通り 「期待ゼロ」 で見始めた、フジテレビの日曜21時 「HOPE~期待ゼロの新入社員」。
 これがかなりの出来だったんですよ。
 韓国ドラマが原作であるとか、ジャニーズが主役であるとか、とにかくディスられポイント満載で、この枠の前のドラマ 「OUR HOUSE」 の失敗に懲りてねえなという感じだったのですが、いや、今回のはいい。 同じ枠の 「仰げば尊し」 とどちらかしか見ちゃダメ、と言われたら、迷わずこちらですね。

 囲碁のプロに挫折した男の子がコネで大手商社にインターンとして 「しぶしぶ」 就職するのですが、「自分なりに頑張ってる」 つもりでもやる気のないところが思わぬところで露呈してしまう、そのエピソードのひとつひとつが自分には思い当るところがあって。

 つまり、いきなり配属されたもんだから、何をやっていいか分かんないんですよ。 「自分なりに」 気を利かせたつもりでも周囲には余計なことだったり、ちゃんと言われたことを出来ないもどかしさがついてまわったり。
 社会人になると誰もがそうしたことを要領よく急に身につけてしまっているように見えて、自分ひとりが不器用に戸惑っている。 社会のことを何も知らない自分をいやというほど思い知らされる。
 その劣等感が 「オレもこんなだった」、ととても共感されるんですよ。

 しかし主人公は、「今ここで自分がやれるだけのことを全力でやるしかない」、という意識に目覚めていく。
 目の前のことにとりあえず全力になる、というのは、私も社会に出たときに決意したひとつでしたから、この彼の思いにもますます感情移入。

 第2回まで見た限りでは、社内プレゼンで彼がどのように資料を書いたかなどの過程が良く分からず、彼が急に仕事を覚えているような 「置いてかれ感」 というのがありましたが、それは韓国ドラマ特有の 「主題に集中する」 ことの表れだ、と感じました。
 韓国ドラマって、言いたいことがかなりはっきりしていて、それ以外の描写をかなり削る、という特徴があるように思います。 それって、「何事にも原因と結果がある」 という日本のドラマの緻密さとは相いれない部分があるのですが、ドラマへの吸引力はそのぶん韓国ドラマのほうが強引だ。 見る者を引き込む力があるんですよ。

 特にいいのが彼の上司を演じるエンケンサン。 久々に当たってる役だ。 その部下である 「あさが来た」 に出てた人(エート、友近サンと惚れ合う仲だった人ですよ)のコンビがいい。 そしてヒロインがカワイイ。 この夏ドラマではイチ推しですね。

 最後になりますが、フジ木曜22時 「営業部長 吉良奈津子」。 松嶋奈々子サン主演です。
 出産育児休暇で3年のブランクがあった広告業界のやり手CMプランナーが職場復帰したら営業に回されるという内容で、あまり期待しないで見たんですが、これも 「HOPE」 と同様いい出来でした。
 広告業界でブイブイ言わせていた主人公が下野して蹉跌をなめまくるという内容は、かつてのテレビ界のトップだったフジテレビのあり方と重なる部分がある。 「HOPE」 にしてもそうですが、どん底を味わったフジテレビが、どうにかして浮上するきっかけを模索している、そんな姿勢を感じるんですよ。
 いっぽうで5分リタイアで論じるのはちょっと違う気もしますが、月9とか波瑠サンのドラマとか、「かつての上から目線のフジテレビ」 を感じさせる旧態としたドラマもある。 どうも旧い勢力と新しい思いが混然としている印象がしますね。

 とりあえず私が見たドラマは以上です。 あ、テレ東の 「侠飯(おとこめし)」 も見ましたが、第1回目だけであとは見てない。 第1回目のメシがあまりうまそうに見えなかったもんで…(笑)。 生瀬サンと柄本クンのやり取りは面白いです。

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2016年7月19日 (火)

「真田丸」 第27-28回 秀次切腹の新解釈

 参院選の先週と今週は、豊臣秀次の切腹について、三谷氏の新しい解釈が展開する流れになりました。
 従来であれば茶々とのあいだに秀頼(拾)が生まれて秀次が邪魔になった秀吉が秀次一族を根絶やしにした、という通説に従って物語が進行したのですが、三谷氏はそれを根幹から否定した。 秀吉と秀次のあいだに擦れ違いを生じさせ、秀次の疑心暗鬼を最大限に膨らませて秀次を自らを破滅へと誘っていく、「みんなよかれと思ってやってたのに」 という悲劇を演出したのです。

 どうしてこういうストーリーを三谷氏が選んだのかを考えたとき、物語の核である 「主人公真田信繁がどうして豊臣に己の一生を託し死んでいったのか」、という部分が浮かび上がってきます。
 つまり秀吉の残虐性をそのまんま演出してしまうと、信繁は豊臣に愛想を尽かしてしまう。 だからその残虐性に裏を持たせ、そこに家族の情愛を忍ばせたのだ、ということ。

 しかしそれが成功したのか、というと疑問は残ります。

 確かに秀次が叔父の秀吉に必要以上に気を遣っていることは秀次の登場のときから描写されていたし、この2回においても 「拾に九州をやってちょ」 というのとか 「政を疎かにして能を極めてる場合か!」 とか、たたみかけるように秀次が精神的に追い込まれていく出来事が連続しました。 三谷氏はこの新解釈にかなり手間暇かけているのが分かる。

 しかしそこから 「一族全部根絶やし」、という 「極端」 が導かれるのはまだまだ弱い気がした。 三谷氏は究極の要因として 「秀吉が秀次に切腹を命じた」 のではなく 「秀次が勝手に自害しちゃった」、という出来事を用意したのだが、「わしがこんなにあいつに期待していたのに!」 がどうして 「一族郎党皆殺しだ!」 になるのかが見えてこない。 やっぱり一族根絶やしにするためには、秀吉と同等の権力をもってきたとか、謀反を企んでいたくらいの原因が必要な気がするんですよ。

 ただ、物語の組み立てかたとして面白かったのは、「秀吉と秀次の気持ちの擦れ違い」 と、官位をめぐる 「信幸と信繁の気持ちの擦れ違い」 を併行して展開した部分。

 誰も悪くはないのに、悲しいことはいつもある…というのは中島みゆきサンの歌ですが、「相手のことを思いやってやっている」 ことがうまく相手に伝わらず、それが却って互いの胸のうちに憎しみを生じさせていく、ということには一定のリアルがあります。 信幸と信繁との間に三谷氏がこれから憎しみを育てていくのか、兄弟の情を育てていくのか、その方針はいまだはっきりしませんが、信幸が秀次の最期に至るひとときに付き従っていた、というのは重要なヒントになるかもしれません。

 もうひとつ気になるのは、三谷氏が信繁ときりをこの先どうしようとしているのか、ということ。

 信繁が秀次の娘を側室にもらった、という史実に基づいて、信繁は秀次の娘を一族粛清から救うことになるのですが、あろうことか自分を慕っているきりの前でその、秀次の娘を側室として紹介するんですよ(笑)。 城内に響き渡るきりの断末魔(笑)。 「なによおおおお~~~~ッ!!!」。

 まあウィキによれば順番的にまだ堀田某の娘が側室になって、高梨内記の娘であるきりはいちばん最後に側室になるみたいですが、たぶんもっと紆余曲折があってから、このふたりの間には信頼関係と悪友であり戦友である、という絆が育まれていくのでしょうが、いまのところ一方的にきりにとって残酷な展開(笑)。

 そして登場してきた、徳川家康の息子秀忠。 今年の秀忠は(野菜の初物みたいだな)どうも暗愚らしい。 目下の者にいつまでもお辞儀とか。 暗愚を装っているのか知らんが。 「まあ後継ぎがいるというのだけでも秀吉と比べりゃアドバンテージだ」 と納得せざるを得ない表情の家康。 どこのお家事情もどんぐりのせい比べ、というのが三谷脚本の面白く物悲しい部分。

 大河ファンにとって忘れちゃならないのが 「黄金の日日」 で呂宋助左衛門を演じた松本幸四郎サンが再び同じ役で登場、といったところですが、私このときまだ大河ドラマ見てなかったので今イチピンと来ず…。 ただ知識として知ってはいたので、妙な感動は覚えました。 近頃亡くなる人ばかりなので、時を経て同じ役に戻ってくる、ということに簡単に感慨を持ってしまうんですね。 「武田信玄」 見てると勘九郎サン、児玉サン、岸田今日子サン、みな故人ばかりで…。

 それと、高畑淳子サン(薫、山手殿)の身分詐称疑惑が…(笑)。 これと秀次の家系図とを絶妙に組み合わせたのも三谷氏の遊び心、というものでしょう。 ウィキに書いてあったけど、三谷サンウィキ見ながらストーリー考えてんじゃなかろうな(笑)。

 それから、近藤芳正サンが演じている信繁の同僚の男。 この男はいわば、三谷ドラマに出てくる 「フツーの人間の象徴」 だ、と前から思っていたのですが、今回秀次の失脚により職を追われることとなった。 こういうヤツまで神経を割いて描かれているから、このドラマは論じたくなる部分が底なしなのです。 だから総論で済ませたくなってくる。

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2016年7月12日 (火)

永六輔のいた時代

 永六輔サンが亡くなった。

 ラジオ人間である私にとって、永サンは常に 「TBSラジオの人」 といった印象がある。 実際は放送作家から始まって作詞家、作家などひとつのメディアに収まるような人ではなかったのだが。

 物心ついたときからいつもラジオがTBSのチューニングのままつけっぱなしだった我が家には(現在も未だにそうなのだが)「遠くへ行きたい」 の尺八のメロディーが流れてくる 「誰かとどこかで」 が毎日かかっていたし、土曜日はマリンバのテーマ曲で始まる 「土曜ワイドラジオ東京 永六輔その新世界」 が常にかかっていた(ラジオ東京というのはTBSラジオの旧名)。

 数年前その、「誰かとどこかで」 の番組のなかで、永サンが突然号泣しだした、という回を、私はたまたま聞いていた。 「こんな、番組中で僕が泣くなんて初めてでしょう」 と永サンは相方の遠藤泰子アナに弁明していたのだが、思えばそれが永サンのパーキンソン病の兆候だったのかもしれぬ。

 永サンはそれから 「土曜ワイド」 のなかでもかなり鬱気味になり、あれほど早口で饒舌だったのがアシスタントの外山惠理とかはぶ三太郎に進行を任すようになった。 それが一時持ち直したのが、体調不良の原因がパーキンソン病であることが分かったときだった。 永サンは目の前の霧が晴れたかのように元気になった。

 しかしまた徐々に病気に負け気味になり、ここ数年は完全に何を言ってるのかよく分かんない感じになり(私は耳も遠いのでなおさらだった)、私も自然と 「土曜ワイド」 を聞かなくなった。 たまに聞くと外山とはぶがしゃべってる後ろで、なにか 「う~う~」 と聞こえる。 外山が永サンにしゃべる場を与えても、言語不明瞭で分からない。 「誰かとどこかで」 も同様で、遠藤アナが主体的にしゃべることが多くなった。

 ついに 「誰かとどこかで」 が終了し、「土曜ワイド」 も終了。 ただ 「土曜ワイド」 の流れで月曜日の夜、やはりTBSラジオで 「六輔七転八倒」 が始まったのが去年の秋だったか。 それもついこないだ 「番組に出演が叶わない」 という理由で終了し、それからたった2週間で死去が発表された。

 「七転八倒」 の後番組で全体的に 「土曜ワイド」 の形態を継承しているといっていい、はぶ三太郎がメインパーソナリティの番組、「いちにの三太郎」 は、永サン死去が発表されたまさに昨日が週イチの放送日で、当然のごとく永サンの追悼番組になった。

 私は仕事中にかいつまんで聞いたのだが、そこでとても不思議な感覚に襲われたことを告白しなければならない。

 外山とはぶ、さらに 「土曜ワイド」 時代からの準レギュラーであったピーコたち出演者が永サンの思い出をしゃべっている後ろに、いつものように永サンがいるような錯覚に陥ったのだ。

 もちろんそれはユーレイとかオカルト的なものではない。 外山とはぶが永サンから教授されたさまざまな経験値が、その場にあたかも永サンをバーチャルリアリティのように浮かび上がらせたように感じたのだ。

 外山惠理は私の知る限り、当初TBSの局アナとしてはかなり気持の定まってない性格だったのだが、おそらく彼女は永サンに仕事のなんたるかを強烈に叩き込まれたに違いない、と踏んでいる。 彼女はラジオに局アナとしての自分の居場所を見つけ、永サンの追悼が目的であるこの番組でも、取り乱すことなく明るくその場を取り仕切った。
 彼女は昨日の番組内で何度も永サンに話しかけていたが、それはその場に 「千の風」 となって漂う永サンに向けたものであった。
 ここ数年ずっとそのパターンだったから、という理由もあるのであるが、昨日の番組はすっかり 「永サンがまだそこにいる」 と思わせるにじゅうぶんな内容だったのだ。 そのことが却って、また私を悲しませる。 そして永サンの遺したものを、外山惠理のなかに感じる。

 番組では在りし日の、まだ早口で饒舌だった頃の永サンの音声が流れたのだが、その頭の回転の速さが、またひどく懐かしかった。
 そう、私は永サンのモノの考え方に、ちょっと憧れていたのだ。
 永サンはラジオを通じて、私にいろんな目を開かせてくれた気がする。

 永サンの訃報を追うように、ザ・ピーナッツの伊藤ユミサンが2か月近く前に亡くなっていたことが発表された。 去年あたりから、月の家円鏡サン(橘家圓蔵サン)とか加藤武サンとか、よく慣れ親しんだ人たちが次々死んでゆく。
 個人的なことであるが、私の親戚のおばさんもこの週末に亡くなった。 4月には私がお世話になったおばさんが亡くなっているし、このところ私は妙に息苦しさを覚えて仕方ない。

 それは両親との別れの時がだんだんと近づいている、という息苦しさにほかならない。 親が年老いていくのを見るのはつらいものだ。 近い将来か遠い将来か分からないが、「そして誰もいなくなった」、という時が来るのが私は怖い。

 永サンが作った歌が流行っていた時代。 ザ・ピーナッツの歌が流行っていた時代。 そして私の世代の歌たち。
 近頃じゃとてもまっすぐであるがこちらの心に届いてこない、饒舌な励ましの歌が氾濫している。

 でもそれはそれでいいのだろう。
 分かりあえる者たちの間で分かりあえれば。

 ただそんな日本の将来に、興味があるのかどうかと問われれば、私の答えはノーのような気がしている。

 こうして疎外感を抱きながら、私も死んでいくのだろう。

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2016年7月11日 (月)

「ウルトラマンオーブ」 とウルトラマン誕生50年について思う

 NHKBSプレミアムではこのところ、ビートルズ来日とウルトラマン誕生から50年ということで3時間のスペシャル番組を土曜日に放送しまくっている。 ビートルズのほうは録画予約しといたのに 「放送時間が変更になったため録画できませんでした」 とかワケのわからない言い訳で(「お知らせメール」 とかいうのがあるのだ)録画機が勝手に仕事放棄したためレビューの書きようもない。 8月に再放送するらしいのでそちらは絶対に見逃さないようにしようと考えている。 再放送で新鮮味がないからレビューはもうしないだろうけど。

 そーゆー話題はどーでもいいのだが、よく考えてみると 「ビートルズ来日」 で、日本テレビ系列で放映された武道館公演と、TBS系列で 「ウルトラマン」 が放送開始したのがわずか数日のタイムラグであった、というのは両方フリークである私などにとってみるとかなり驚愕の事実だ。
 ただしそのとき私はまだ1歳4カ月足らず。 正直リアルタイムで見たわけではないが、その後の人生に大きく関わってくる2大イベントが、私がバブバブ言ってるときに立て続けに起こっていたのだ。 もしかすっと見てたかもしれないけど、私の両親は石原裕次郎と美空ひばりフリークなのだ(笑)。 当時視聴率が40パーセントだか50パーセントだかあったというビートルズの武道館公演の放送を見ていたとは考えにくい。

 そーゆー話題はこの項ではどーでもいいのだが、なにしろ 「ウルトラマン」 誕生50周年である。
 それに合わせたのだろうが、テレビ東京系列で土曜の朝から新しいウルトラマンのシリーズが始まった。
 その名も 「ウルトラマンオーブ」。

 私にとってウルトラマンシリーズを見るのは、「ウルトラマンマックス」 以来となる(このブログではよく話題にするけど、そこで満島ひかりを初めて見た)。 しかしなんだか最近もやってたらしいのだ、新しいシリーズが。
 いや、なんだかテレビ東京でウルトラマンの番組がなんかやってたことは認識していた。 しかし 「どーせ 『ウルトラファイト』 みたいなもんだろう」 と思って完全無視していたのだ。

 「ウルトラファイト」 というのはその昔、それまで放送されていた 「ウルトラマン」「ウルトラセブン」 あたりの 「決闘シーン」 だけをまとめたものとか、着ぐるみの再利用みたいな感じでウルトラマンたちと怪獣たちが海とか崖とかで戦う、といういわば 「やっつけ仕事」 みたいな短い番組だった。 たぶんそれと同じもんだろう、と思ってたらこれだ。

 だから去年やってたという新しいウルトラマンには言及しない。 NHKBSのウルトラマンスペシャルでちらっと紹介されたので愕然となっただけだ(笑)。 確認もとってないのでガセネタかもしれぬ(NHKがガセネタやるか?…笑)。 ネットで調べてホントだったらけったくそ悪いではないか(笑)。

 なんだかんだと前置きが長いが、本題の 「ウルトラマンオーブ」 である。

 第1回を見た正直な印象を申し上げると、「CGや特撮はすごかった、でも中身が…」。

 この新シリーズ、科特隊みたいなモンスターアタックチームがメインで出てこない。 話を聞く限りだと 「ビートル隊」 とかいうのがあるらしく、その隊員のひとりが 「アバヨ!」 の柳沢慎吾サンなのだが、…正直言ってチームにいられなくなって巷をうろついている印象(爆)。

 メインになるのは、若者3人のなんとかかんとか隊(ちっとも紹介記事になっとらん)。 これがまあ、語るに落ちるというか。 まあいいんだけど。 やってれば、という感じ。

 そこに怪獣が現れてシッチャカメッチャカになるんだけど、そこに現れたのが 「風来坊」、石黒英雄クン(っていう名前かな)(調べんかい)(調べる気にもならず…)。 あの、「仮面ライダー」 とか出てた人ですよ。 最近じゃ深キョンとディーン・フジオカサンのドラマに出てた。

 「風来坊」 というのは 「ウルトラセブン」 のモロボシ・ダン以来のこのシリーズの伝統ではあるのだが、まあ浮いてるとかいう話はいいとして、それが変身のときスピード写真のブースに入って(スーパーマンか)、まあ商魂ありまくりのカード装填アイテムを取り出し、やおら2枚のカードを取り出して、「ウルトラマンさんっ、お願いします!」(頼みます!だったっけな)「ティガさんっ、よろしくどーぞ!」 みたいな感じで2体のウルトラマンを呼び出し、それを合体させるんだなこれが。 フュージョン。 「ドラゴンボール」 みたいなヘンテコなアクションでなくてよかったけど。

 そうするとウルトラマンとウルトラマンティガが合わさったような巨人が登場する。

 ちょっと待てよ。

 そんなことやってたら、ウルトラマンの仲間は無限にいるんだから、無限に着ぐるみ作んなきゃいけないじゃん、という心配が頭をよぎる…(笑)。

 それにですよ。

 ティガというのはもともとウルトラ兄弟ではなかったのでは?

 これを話し出すとムチャクチャ長くなるのであるが、あえて簡単に言うと、もともとウルトラマンというのは行き当たりばったりで兄弟だの光の国(ウルトラマンの故郷)だの後付けで作ってきたためにそのうちワケが分かんなくなった、という経緯を持っているシリーズなのである(笑)。

 まあ、だからいっしょくたで50周年のお祭りでい~のか(笑)。

 そしてもうひとり現れるのが、なんかワルモノっぽいイケメン。 あ~なんか、こういうのは 「仮面ライダー」 で見飽きたぞ、という感じ。 も~い~よ、悪がどうとか光がどうとか(投げやりだ…爆)。

 しかしなあ、風来坊クンよ、「お願いします」 じゃないよ。 ウルトラマンの力を借りないで(しかも2体)もっと主体的にウルトラマンになってくれよ。 「さん」 づけもやめてくれ。

 とにかくもう、最初のお笑い3人組が出てきてからかなりマジメに見る気が削がれているので、情報が曖昧なのはご了承願いたい。

 問題なのは、「よくこんなのが歴史あるシリーズの50周年記念で企画通ったな」、ということだ。 まるで子供だましではないか。 「ウルトラマン」「ウルトラセブン」 は 「いくら子供向け番組でもけっして手は抜かない」、という 「思想」「哲学」 が作り手にあったよ。 少なくとも 「ウルトラマン」 シリーズに生き方を教わった部分が少なくない私などは、オーブの特性であるとか怪獣の属性(火とか風とか、エレメントみたいなもん)とか、シチメンド臭い設定なんかどうでもいいのだ。

 ただまあ、お祭りだと思って見れば腹も立たない。 それにCGと特撮は前述した通り、「50年もたつとこんなに進化するのか」 と驚嘆するレベルだ。
 いずれにしても、「ウルトラマン」 という特撮もののいちばんの醍醐味というのは、着ぐるみであろうが人間同士の体を張った戦いなのである。 言ってみれば 「プロレス」。 それは50年前も今も一緒だし、それがここまで進化したのを見るのはただただワクワクする(褒めてんのかけなしてんのか)。 あとはお笑い3人組の女がキャーキャーうるさくなければなおいい(バカにしてるぞ)。

 そして、NHKBSのウルトラマンスペシャル。

 この手の番組で興醒めするのは、「誰に向けて放送しているのか?」 という部分が分からないときだ。 これからウルトラマンの歴史を知ろうとする者にとっては入門編としていいのかもしれないが、ウルトラマンについて考察し続けてきた者にとってはとても消化不良が残る内容だった。

 この、「ウルトラマン」 というシリーズは、近頃 「コンテンツ」 などと呼ばれて研究されるサブカルチャーのなかでも、もっとも早い段階から花開いていたコンテンツなのだ。 かなり大昔にTBSの深夜に泉麻人サンなどが出演して 「マン」 と 「セブン」 の再放送がなされていたが、その時点でも 「セブン」 で永久に封印されている回のことが話題にのぼっていた記憶があるし、柳田理科雄サンの 「空想科学読本」 でも科学的なアプローチが早い段階からなされていた印象がある。

 そもそも、「ウルトラQ」 を 「ウルトラマンQ」 などと女子アナが言い間違える時点で、「まあ知らねえからしょーがないよ」 とは思うのだが、「マン」「セブン」「新マン」 に変身した役者である黒部進サン、森次晃嗣サン、団時朗サンが揃い踏みするのに感動された日にゃ、というか。 つまり、このシリーズの役者さんたちもスタッフたちも、未だにあっちこっちで思い出話をさせられているわけで(笑)、フォロワーにとってはカビの生えた話ばかりなのだ。

 しかも途中から出てきた爆笑問題が、これがまた知ったかぶりで(いや知ってるんだがね)「そのあと時代劇で悪役なんかやって」 などとしゃべくるのはかなりリスペクトに欠けた行為だ。 不愉快だった。 爆笑とは同年代なんだがね。 なんか田中に知識人ヅラされると腹立つんだよなァ(個人的な見解なので悪しからず)。

 「ウルトラマン」「セブン」 において脚本家の金城サンが、沖縄出身者の視点から物語を書いていた、ということはやはりかなり早い段階からNHKがもうとっくに特集しちゃってるし、問題なのはそこからどうして、ウルトラマンが今日のような 「思想のない」 ドラマになっちゃったのか、ということで(そんなことゆうても仕方ないが)。

 いいのかな。 私のようなオールドタイマーは黙っとけば。 あとは受け継がれた後世の世代が、複雑でワケの分かんない設定のなかで 「生きるんだ!」 みたいな思想のない励ましを子供番組のなかで続けていれば(やっぱりジジイがけなしてるぞ)。

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2016年7月10日 (日)

「真田丸」 第23-26回 人の世の業

 「このドラマは豊臣をはじめとした権力の崩壊の必然性を解説している」 などと前回までの感想文を眉間にしわ寄せながら書いていたところ、書き終わらぬうちに始まった次の 「瓜売」。
 完全なる 「笑わせ」 モードでまた先週との落差が激しい。 おかげで先週までのレビューは完全にボツ(笑)。 このところ三谷脚本は回ごとに舞台設定を縦横に駆使している印象です。
 ウダウダしているあいだにもう次回が迫っておるのですが、このあとどういう仕掛けで攻めてくるのかおおいに楽しみなところ。 ただ、訳知り顔で 「このドラマはこういうドラマだ!」 と偉そうにトータルで解説できないもどかしさがついてまわる(笑)。

 いまのところの結論としては、「偉りゃ~人間でもフツーと同じ、ただの人間」 という平凡なところ。
 どんなに人の上に立とうが、どんなに偉そうにふるまおうが、人は自らのなかに弱さを抱えながら生きている。
 このドラマで千利休は 「己の業(ごう)、さだめ」 と自嘲しましたが、それに翻弄されながら、「真田丸」 の世界の人々は生きているように思うのです。

 真田昌幸は自らの策士ぶりを発揮したくてたまらず、真田信幸は自らの生真面目さから生きにくさを感じている。
 秀吉は二面性を権力者のカリスマ性に転嫁できているけれど、実はそのなかで発生する自分の精神分裂に気付いていない。
 三成は立場的に偉くなった自分と本当の自分の実力がかけ離れていることにもがき、茶々は過去に無理に目をつぶって籠の鳥を演じている。
 家康も秀吉に頭が上がらず太鼓腹を出しながら溜息をつき、北条氏政は自分の顔色の悪いのをひたすら気味悪い化粧で隠そうとする。
 かようななかで、主人公の真田信繁はどうにもならない人の業のつぶさな観察者になっているのですが、信繁にしたって真田の処遇とかきりの扱いとか、どうにもならないことにもがいている印象があります。
 ただ観察者になることによって、信繁のなかには人の世の 「運命」 というものに抗う気概が徐々に培われているように私には感じられます。

 このドラマのなかの人間たちは、戦国時代のスーパーマンなどではなく、総じて限りなく人間臭い。 自分の欲望はむき出しにするし、気に入らないヤツはどんな手を使っても排除しようとするし、したくないことはあくまですっとぼけて先送りにする。 常識なんかあったもんじゃありません。
 その先に見えるのは、「何がいい、何が悪い」 とことさら 「正しさ」「モラル」 ばかりあげつらう、現代人の欺瞞に対する三谷氏のひそやかな抵抗である気がします。 あ~ハシモトはまたメンドクサイことを考えてるぞ。 だから新しいブログ記事が更新出来んのだ。

 「真田丸」 というドラマの特徴として、かなり近視眼的に豊臣政権を見つめていることがひとつある気がします。
 つまり足利、織田からの戦国時代の歴史的な流れをとても軽視している。 これは物語の主眼が 「主人公=真田信繁と豊臣との関係性」 にあるからで、そのために三谷氏はもう考えられるすべてをバッサバッサ切り捨てている。 そして近年の大河ドラマの主役たちもバッサバッサ切り捨てている(笑)。 軍師官兵衛も江もちーとも出てこない(笑)。
 足利将軍は完璧無視だし、織田信長は出てきたかと思たらあっという間に本能寺。 秀吉が自らの天下取りを大きくリードした清洲会議も、三谷氏自らがこの題材で映画を1本作っちゃったためか(たぶんそうだろう)無視している。 信長との関係性を軽視しているから、信長の後継、という流れも無視できるんですよ。

 であるから、秀吉が朝鮮出兵を決めた動機にも 「信長を超える」 という視点が入ってない。 このドラマを見ていると、天下の流動性をとめて豊臣主導の命令体系を確立させる目的で他国を侵略しようと秀吉が決断したように描かれているが、もっといろいろあると思うんですよ。
 そのひとつが 「巨大なカリスマであった信長を超えようとする野心」 だと思うのですが、そこを描いてしまうと物語の中心軸がぼやけてしまう。

 三谷氏がことこのドラマにおいてあくまで強調したいのは、「天下を取ってからも秀吉の頭脳は明晰だった」 ということなんじゃなかろうか。
 近年の大河ドラマの傾向として、「天下取ったら秀吉は鋭角に落ち始める」 という 「ある種の見くびり感」 というものがある気がするのですが、利休を切腹させたのもあくまで三成と刑部の陰謀によるものだったし、「瓜売」 における仮装大会でも、全軍の士気が下がっていることを敏感に察知している。
 重要なように思うのは、秀吉はけっして呆けてないというのを観察しているのが、また信繁だ、ということです。 信繁は、秀吉とその周囲の微妙な温度のずれを感じ始めている。

 別のドラマのコメント欄でも言及したのですが、もうひとつここ数回私が気になっているのは、きりですね。
 彼女は最初現代的なアプローチでドラマをひっかき回すトリックスターだったのが、今じゃ秀次の聖母的立場に変化している。
 しかし聖母でありながらその目はあくまでシビア(笑)。 彼女は豊臣家の最暗部、最深部に潜入しているのですが、そこから物語をどう掻き回していくのか、とても興味があります。 なにしろこのキャラはおそらく、このドラマにしか出てこないですからね、後にも先にも。

 冒頭でちょっと書いた 「権力崩壊の必然性」 ですが、これは次回以降にとっておきましょう。 蛇足ですが、NHKBSで並行再放送している 「武田信玄」 において、信玄の息子四郎(のちの勝頼)が冷たい瓜に呼ばれていた(笑)。 まさか 「瓜売」 ってこれつながりじゃないだろうな(笑)。

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