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2017年1月

2017年1月15日 (日)

「逃げるは恥だが役に立つ」 ―「ふたり」 を阻む、肥大した 「ひとり」 の壁

 2016年10-12月期のドラマは豊作だった。 なかでも火曜日のTBS 「逃げるは恥だが役に立つ」 の新垣結衣、水曜日の日テレ 「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」 の石原さとみ、木曜日のフジ 「chef~三つ星の給食~」 の天海祐希は、三者三様の 「女優のうまい使い方」 の見本を見せられているようで、ドラマ好きには至福の3日間だったように思う。

 内容的に見ると石原さとみと天海祐希の役柄は 「元気印の女」 という、これまでのドラマでは使い古されたポジション。 しかしながらポジティヴの 「権化度」 が従来に比べハンパではなく、かなり楽しめた。
 このふたつのドラマは、キャラクターがこれまでの踏襲である以上、毎回の展開も定型的にならざるを得ない弱みがあった(特にフジの 「chef」)が、主人公の生き方はそれをなぎ倒すほどに前向き。 それに引きずられる形で多少の誤謬をものともせず、強引にドラマ自体が展開し、その痛快さは見ていて飽きることがなかった。

 特に石原さとみ。 彼女の押しの強い演技は私の個人的な印象で言えばこれまで、ドラマのなかでどうも 「浮いて」 しまっていたように思う。 この人は抑えた演技のほうが味が出ていいと思っていたのだが、今回の 「地味にスゴイ!」 ではこの、彼女のダメパターンを逆に突き詰めて徹底的にウザくさせ、問題を浄化してしまった気がする。 この 「元気の使い方」 を見抜いた作り手は 「スゴイ!」。
 いっぽう天海祐希の 「元気印」 はすでに安定の域に達していて、鉄壁の感すらある。 それは彼女の原点である、タカラヅカ男役特有の安定感であることは言うまでもない。
 

 それに比べると 「逃げ恥」 の新垣結衣演じる 「みくり」 は自分のことを 「小賢しい」 と思い込んでいる点で前者ふたりとは対象的だ。
 彼女は派遣社員をクビになるたびに自信がなくなっていく状態にさいなまれている。
 いきおいドラマの空気も前者とは決定的に違って、登場人物の 「自分にダメ出し」 モノローグが中心を占めるのだが、それをこのドラマはみくりが 「情熱大陸」 や 「NEWS23」 の登場人物になるという妄想を使い 「既存番組のパロディ」 をすることで、暗くなりかける空気の入れ替えを図った。

 この、主人公みくりの自虐的な思考の行ったり来たりが、新垣結衣の新たな魅力を引き出すことに成功した。
 新垣結衣という人は、徹底的な 「カワイイ」 イメージで生き残ってきた人だと思う。 出てきたときからもう10年くらいになる気がするけれど、そのイメージが持続していることは驚異的だ。 彼女の透明で清純なイメージは、地であるという印象がとてもある。 これがほんとうなのか戦略なのかは女性を見る目がない私には見当がつかないのだが、芸能界の浮ついた雰囲気についていけない不器用さ、というものは見ていて思う。

 みくりの不器用さというのは、そのガッキーの不器用なイメージと絶妙にリンクしている。

 彼女の印象的な役、というと、近年では 「リーガル・ハイ」 が思い出されるのだが、こちらの彼女はおよそ現実とはかけ離れたところにある不器用さを兼ね備えていた。
 ところが 「逃げ恥」 の不器用な彼女は、あくまで現代女性の等身大を体現している。 よりリアルなのだ。

 その現実的なキャラクターがテレビドラマというおとぎの国の世界に放り込まれたとき、彼女はよりリアルになった自分の妄想を楽しみながら、「契約結婚」 という非現実的な選択を選んでしまう。 もうじきアラサーの声を聞くことになる 「カワイイ」 ガッキーはそこに、自らの新しい可能性を見い出した。

 ただしドラマの展開に、少しも不満ではなかったわけでもない。
 まずみくりが契約結婚を提案する相手 「平匡(ひらまさ)」 に、みくりがかなり早い段階から好意を抱いてしまっている点。
 星野源演じるこの平匡は、いわゆる 「絶食系男子」 というもので、30有余年異性との関係がなかった人畜無害の男。 しかも星野源だし(なんだソレ)。

 星野源という人を私が初めて見たのは、「ゲゲゲの女房」(2010年) で主人公の松下奈緒の弟役をやったとき。 と思ったのだがウィキを見たらずいぶん前から無意識的に見ていたみたいだ。
 とりあえずその 「ゲゲゲの女房」 では早くに亡くなってしまう役で、その後すぐに病気を発症したのもあって、私のなかでは儚げな印象がずっとあった。 「ゲゲゲ」 のとき多少興味を持って彼が歌を歌うこともそのとき知ったのだが、昔は自省的ないい曲歌ってた。 最近よく曲が売れるようになって聞く機会も増えたのだが、ずいぶん派手な印象になりましたね。 「逃げ恥」 のエンディング曲 「恋」 もその路線。

 それはいいとして、近作の 「コウノドリ」(TBS)での冷たい医師の印象も強い星野源が絶食系男子なのだから、間違っても間違わない、というか。 みくりにとって平匡というのは事務的な契約関係に最適な、手なずけやすいかなりの安全ゾーン男なのである。

 しかしそのみくりが、「カワイすぎて腹が立つ」 レベルで平匡に恋していく、というのは、これはルール違反だろ、というか(正直モテない男の僻みだ)。 平匡が 「俺物語!!」 みたいのだったら話が成立するのか?みたいな。

 ところがドラマ的な求心力からいくと、こうしたシンデレラストーリーを兼ね備えた少女マンガ的展開はいったんハマると徹底的にハマる。 実際このドラマは同クールのドラマの中ではいちばん社会現象化した。

 少女マンガに出てくる男というのは、ブ男では成立しない(ただしフツーであれば可)。 さらに清潔感がないと受け入れられない。 「ハグで~す!」 と言ってふたりがハグしても、一緒のベッドで眠れなくなっても、そこにはまったくギラギラとしたものが存在しないのだ。
 あまりにギラギラしなさ過ぎてみくりのほうが却ってイライラする始末なのだが、女性たちにとってこうした淡白な男のほうがいいのは、実は楽だからなのではないか、と思う時がある。

 それはそれとしてドラマ的展開でいくと、みくりが平匡に早い段階で恋してしまうことで、「契約結婚」 というドラマの社会的な構成要素が隠されてしまったような気もする。
 そこで定型的になりそうなドラマを救ったのがみくりの叔母である石田ゆり子なのだが、こちらも少女マンガ的な願望の上に成立しているキャラであると言える。 彼女はアラフィフの設定であるのだが、「いや違うだろみくりの姉だろ」 という設定でもいいくらいアラフィフに見えない。 だから石田ゆり子がこのドラマのなかで恋してしまう設定も、「アラフィフ女の臆病」というリアルを扱いながら、少女マンガ的な空想のカテゴリのなかに収まってしまうのだ。 これがそれなりに老けてるアラフィフだったら話が成立しない。

 しかし、契約結婚という枠のなかで互いに行ったり来たりすれ違いをする胸キュンの話が進行する中で、驚いたのは最終コーナーを回ったオーラス2回の話の展開だった。 ここで 「契約結婚」 の社会的要素が一気に噴出した。

 つまり、平匡がリストラされたのを契機にみくりに対して従来の普通の結婚形態にしようと提案を申し出たのに対して、「それは 『好きの搾取』 です」 とみくりが異を唱えたのだ。
 ここで私は、ドラマから 「従来の結婚」 について考える契機を突きつけられた気がした。

 みくりは町内の活性化に向けてアドバイザーを請け負ったのだが、ここで労働対価の搾取を主張したことが前フリだった。
 ここでみくりはその仕事の内容と対価が合わないことにいら立ち始めたのだが、こういう齟齬は、仕事をしている人間なら大なり小なり感じていることだ。 その齟齬が大きくなれば人は転職を考えたり実行に移すわけだが、たいていの人はある程度の妥協を胸に抱えながら、仕事を続けるはずだ。

 平匡からの提案をみくりが拒絶するに至って、実は結婚も、そうした妥協のもとに成立する関係なのではないか、という問題提起がドラマから投げかけられた。
 ふたりの関係は途端にぎくしゃくしだす。 食事も掃除も洗濯も、線引きが曖昧になればお互いがそれを補っていかなければならなくなり、心理的な負担が増大していくのである。

 それは 「愛とは無償のものだから」 というキレイゴトが廃された、相対的関係としての結婚の現実だ。
 みくりと平匡は互いの義務の範囲を話し合いで探っていくのだが、星野源も出演していた 「真田丸」 のパロディを導入して暗くなる方向性を緩和したものの、みくりは自分のわがままさと小賢しさにどんどん打ちのめされ、しまいには風呂場に引きこもってしまう。

 ドラマは周囲の状況に合わせてなんとなくハッピーエンドの方向に収束していくのだが、よくよく考えるとなんか、みくりと平匡に関してはきちんと解決していない。 問題は孕まれたまま、結局 「大好き!」 という感情的な結論で押し切ってしまうのだ。

 しかしそれが却ってリアルに感じる。 絵に描いたようなハッピーエンディングなんて、結婚には存在しない。 お互いが 「ふたりであること」 を学んでいく場が結婚なのだ、という結論が、そこに導き出されている。

 逆に言えば、現代の人々が結婚できない理由というのが、どこまでも肥大化していく 「自分」 というものに自分自身が対処できなくなっているからなのではないか、ということも見えてくる気がする。

 つまり、「校閲ガール」 や 「chef」 のように、自分の夢を追おうとすると他人が入ってくる隙間がそこに無くなってしまう。 結局石原さとみが演じた河野悦子もカレシとの真剣な交際を先送りしてしまうし、天海祐希が演じた星野光子も夫と子供を捨てることでしか自分の夢を追えなくなっていた。

 ネットの発達などで世の中には、「別に知らなくても生きていける」 情報があふれかえっている(自分もその発信者か…)。 通勤の行き帰りにスマホを歩きながらでも見ない限りそれにおっつけない。 24時間じゃ対処しきれない。 一生かかってもコンテンツを見倒せない。

 そんな現状のなかで、パートナーがいて子供を育てて、なんていうヒマなんかあるのか。
 お互いの距離が分からなくて切ないストーリーが展開される 「逃げ恥」 は、そのなかの現象のひとつであるかもしれないのだ。

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2017年1月 8日 (日)

「おんな城主 直虎」 第1回 戦国空想絵巻の危険性孕む幕開け

 大河ドラマが2年連続で戦国時代、というのはここ最近例がないが皆無、というわけではない。 直近では2006年の 「功名が辻」 と2007年の 「風林火山」 は2作とも戦国時代だった。 ただし世代的には1世代ほど 「功名が辻」 のほうがあとの話となろうか。

 今回の 「おんな城主 直虎」 も前回の 「真田丸」 より40年ほど前の話となり、主人公の井伊直虎は1582年に亡くなっているので、おそらく関が原までは話が至らないであろう(井伊直政の描かれかたによるが)。
 ただ両者のあいだには興味深い関係が成り立っている。 それは現在NHKBSで再放送中の 「武田信玄」(1988年) との絡みにおいてである。

 そもそも井伊氏も真田も赤備え、という鎧の種類が同じ。 この両者の赤備え、元をたどれば武田軍の赤備えに行きつくという。 赤い鎧によって、この3つの大河は奇妙な関係を保っているのだ。

 「武田信玄」 においては、去年の大河で草刈正雄が印象深い役を演じた真田昌幸の父親、幸隆が、信玄の重臣として、橋爪功によって演じられていた。 端役と思いきや、結構重要な役回りであり、出番も多かった。

 そして今年の大河で井伊家を翻弄することになる今川家も、「武田信玄」 において重要な位置を任されていた。 今回春風亭昇太が演じる今川義元は、故中村勘三郎(当時勘九郎)が演じていたが、勘九郎は異様とも思えるお歯黒を自らに課し、隙だらけののんびりとした義元を演じながら、実は抜け目なく怒ると水面下でえげつないことをする、という 「よく分かりにくい」 ゆえに 「演じることが難しい」 二面性ある義元を見事に表現していた。 私のなかの今川義元は以来、中村勘三郎によって記憶に残った、といってよい。

 第1回を見た限りで言えば、今回の春風亭昇太の義元はかなりブキミでコワイ。 たぶん大河で初めての端役でない役なので気合が入っているのであろう。
 義元の母親である寿桂尼は、「武田信玄」 ではいまは亡き岸田今日子。 これも、「ムーミン」 とか 「赤い運命」「探偵物語」 くらいしか知らなかった自分にとっては大変なインパクトで、この人の演技力というものを強烈に認識させられたドラマでもあった。 今回この役が浅丘ルリ子によって演じられるのを見るのは非常な楽しみだ。

 今回の大河の脚本が、あの傑作 「JIN」 を書いた森下佳子氏であることも、私の期待値を上げている。 「JIN」 以外にも、「とんび」(TBSのほう)や 「天皇の料理番」(マチャアキじゃないほう) において実力を発揮してきた脚本家だ。

 しかし、実は期待しているのはここまで。

 実際のところ、「本当に大丈夫なのか?」 という危惧ばかりが先だって仕方ないのだ。

 まず主役の柴咲コウ。 この人の時代劇はフジテレビの 「信長協奏曲」 での信長の妻、帰蝶役でしか見たことがないのだが、このドラマ自体がタイムスリップもののトンデモ時代劇だったせいか、演技もツンデレが入った現代風で 「こういう人が重厚感を必要とする大河ドラマで存在感を示せるのか?」 という不安が拭いきれない。 第1回では子役が中心で本人は 「いざ!」 というセリフだけだったが、どうにも線の細さが気になる。 髪の毛パッツンで金太郎だし。

 そして不安の中心のあるのは、「そもそもこの主人公が男だったのか女だったのかも分からないのに、話が成立するのか?」 というものだ。

 去年(2016年)の暮れになって、「井伊直虎は男だった」 という説がにわかにニュースによってもたらされたのだ。 もうすぐドラマが始まろうかという時期に、タイミングとしては最悪だ。

 そもそも、そういう説が飛び出るということは、資料的にも非常に乏しい人物を、大河ドラマという 「1年という長期を通じて行なわれるドラマ」 で採用していることになる。
 こうした 「資料が弱い人物を主役にする」 ケースでもっとも記憶に新しいのは、一昨年の 「花燃ゆ」 が挙げられる。 吉田松陰の妹、という例だ。
 脚本家は当時、「資料が少ないからいろんな想像を膨らませて話に出来る」 というポジティヴシンキングを行なっていたが、結局惨憺たる結果になったことは明らかだ。 この轍を踏まないことを切に願っている。

 第1回の全体的な印象であるが、平均的な大河ドラマとしての合格点には達していると思われる一方で、あらためて去年の 「真田丸」 における三谷幸喜氏の手腕に思い至った。
 つまり、去年は人物関係がとても分かりやすかったのだ。

 今回、第1回において主人公のおとわ(直虎の少女時代)と男の子二人、鶴丸と亀之丞の関係性を中心とした部分に絞っていたことは評価できるが、井伊家の構造自体が頭に入ってこない。 いきおいデータ放送の主要人物紹介頼みになってしまった。

 亀のほうは井伊と言っていたがそれでおとわのところに婿入りとか? なんじゃソリャみたいな。 要するにおとわと亀はいとこってことか?みたいな。 おとわの父が杉本哲太でこれが井伊家当主で、亀之丞の父が宇梶剛士で杉本哲太の叔父で?キャラ的な立ち位置が似ている役者だから多少混乱した(いや、つーことはおとわと亀はいとこじゃないのか?)。

 さらに鶴丸の父親、吹越満が井伊家とどういう関係なのか頭に入ってこず、どうして今川と通じているのかがパッと分からないから、宇梶剛士がどこに密書を出すのかもそれをどうして吹越が阻止するのかもすぐには分からなかった。

 分かったのはまあ、おとわがやんちゃで亀之丞との政略結婚みたいなものにも素直に従って愛情もあったということくらい。

 まあ、ここらへんの相関図が急に頭に入らないのは毎年のことなのだが、「真田丸」 にはそういうのが一切なかったなあ、といまさらながらにして思うのだ。
 しかしこのままでは、「幕末男子の育て方」 みたいな 「花燃ゆ」 の悪しき傾向に染まって 「イケメンいいなずけの育て方」 みたいな空想話になってしまうのではないか。 しかも主人公は史実的に、男なのか女なのかも判然としないのである。 危険性をじゅうぶん孕んだままの幕開けだったように思えた。

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2017年1月 4日 (水)

「べっぴんさん」 前半まで見て

 子供服・ベビー用品を扱う仕事を立ち上げていくヒロインの姿を描いた、今回のNHK朝ドラ。
 前半までを見た全体的な印象をひと言で申し上げると、「地味」。
 「あまちゃん」 以降の朝ドラに顕著だったように思える、いろんな仕掛けが盛りだくさんで、見ていてウキウキするような派手さがまったくない。

 だいいち、今回の朝ドラは 「見る側を笑わせようとしていない」。 このスタンスの朝ドラを見るのは、私にとってはずいぶん久しぶりのような気がする。
 地味な上に笑わせようとしていないから、見る側は簡単に 「つまらない」、とそっぽを向いてしまいがちだ。 悪いことに 「笑える部分」 の作り方がまたかなりヘタクソで、笑わせようとしている部分では思いっきり白けてしまうこともしばしば。
 じっさいに視聴率はあまり芳しくないし(それでもそれまでの朝ドラに比べれば、という話だが)、「紅白歌合戦」 でも私の見る限り完全に黙殺されていた。 大阪制作の朝ドラが紅白で冷遇されるのは今までにも何度か見てきたが、ここまで完全無視というのはなかった気がする。

 これは、ヒロインの芳根京子を以前から朝ドラヒロインに推し続けてきた私にとっては非常に残念な事態だ。 彼女を推したのは 「表参道高校合唱部」 での天真爛漫で元気な演技を見たからであるが、「べっぴんさん」 のヒロインというのは、これまでの朝ドラヒロインにはあまり見たことのない、いわば真逆の性格によって彩られているのだ。

 いわく、消極的。
 いわく、暗い。

 ここに 「自分の言いたいことをズケズケ言わない」、という項目も付けたいのであるが、「なんか…なんかな…」 と逡巡する決まり文句のあと、結局ヒロインは言いたいことをしゃべっているので除外する(笑)。 ただここ数作にわたる、流行語を生み出したいというNHKのスケベ心がここでも継続しているような気がして、この 「決まり文句」 はいただけない、という気はする。

 また、物語の性格に目をやると、「お嬢さまがたのままごとみたいなビジネス」、という内容が浮かび上がってくる。 ドラマに出てくる男性陣がしばしば呆れかえるのだが、ヒロインを加えたメインスタッフ4人は出たとこ任せでいつも結果オーライによって救われている。 逆境に対する必死さがまったく見えず、常になんかいつの間にか解決していたりする。

 引き合いに出すのは酷だが、同じ関西圏で同じような服飾ビジネスを展開していた朝ドラ 「カーネーション」 においては、主人公は自らが生きていくために死に物狂いだった。 どうにもならんもんを強引にこじ開け、とんでもない受注をしたときは自らに鞭打ち、塗炭にまみれながらもなにがなんでも仕上げた。

 「べっぴんさん」 にはそうした 「苦労話」 が一切ない。 弁当箱を急に500個作らなければならなくなってもフンフンみたいな感じで病気がちだった子が仕上げてしまうし、どこからともなく助っ人の女性たちが集まって足りない商品を作ってしまう。 ちょっと気に食わないことがあると仕事を休み、忙しくなった途端に 「過労」 で倒れたりする。 見ていて、ホントにお嬢さまだな、と思う。
 経理は相当なドンブリなので、どこまできちんと報酬が支払われているのかも謎だ。 原価との兼ね合いもたぶん雑なのであろう(ヒロインの夫が経理をやることになったので、今後このような杞憂は一掃されるが)。

 それなのに話はとんとん拍子に進み、彼女たちの店 「キアリス」 は有名百貨店に支店を出してしまう。 「カーネーション」 のオハラ洋裁店とは何が違うのだろうか。

 おそらくキアリスは、戦後のベビーブームという時代のニーズにかなりマッチした、というのが私の結論であるが、作り手の描きたい部分もそこにあるのではないか、という気がしている。

 なぜ、このような甘っちょろいお嬢さまビジネスが成功していくのか。

 実は、私がこのドラマの視聴をリタイア出来ない理由もそこにある。

 まず彼女たちのビジネスというのは、「主婦目線」、ということが挙げられる。 自分たちに興味のあることだから、発想もけっしてビジネス的に外さない。
 さらに、メンバーひとりひとりのポテンシャルが思った以上に大きい。 特にデザインを考える君ちゃんだったか?(よー覚えとらん…笑)、の能力が売り上げに多大な貢献をしているように思える。 看護婦やってた人(これも名前がパッと出てこない…笑)はこのメンバーのなかで唯一お嬢さまではないが、彼女の育児知識はキアリスの立ち上げ時に集客力に弾みをつけることにとても貢献した、と思える。
 そして、前半最終週の話の展開から分かったのだが、この4人が 「友達感覚」 で風通しを良くしている、というのも大きかった。 開店と閉店の時間は毎日決められていたのだろうが、ドラマを見ていると結構その縛りも緩いような気がする。 フレックスタイムとまでは言わないが、この緩い関連性がキアリスを円滑に動かすカギなのだ。

 この4人はけっしてガツガツと利益を上げようとしていない。 ただ言えるのは、彼女たちが取扱商品を増やしていくのは、利益誘導のためでなくて、先ほども指摘した 「自分たち主婦がそうしたほうがいいと思うから」 という目線からでしかないのだ。

 このような地味な話をきちんと視聴に値するレベルまで持っていけているのは、やはりヒロインの芳根京子の力が大きい。 このコは、元気な役でも地味な役でもこなせるオールラウンダーだったのだ。 地味な役だとそれが分かりにくいのが少々忸怩たる思いだ。

 また、男の視聴者、という立場からいうと、ヒロインの夫である紀夫の 「不器用さ」 にも注目してしまう。 彼は自分のしたいこととするべきことのズレに悩み、自分の居場所を求め続けている。

 いずれにしても、生真面目に話を展開しているという点では評価できるが、話にはところどころ矛盾点もあるし、変に笑わせようとするところに多少の揺らぎを感じなくもない。 それでもたぶん最後まで見てしまうのだろう。

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2017年1月 1日 (日)

「紅白歌合戦2016」 タモリとマツコのスタンス

 北島サブちゃんが去り、和田アッコもいなくなり。
 「紅白」 が 「紅白」 である必然性というのは、ここ数年ですっかり無くなったように思える。
 我が国において、誰もが知っている曲なんてものはなにもないというのがスタンダードなものとなってずいぶんたつが、紅白は昔のように午後9時からやるというスタイルに戻そうとしない。 午後9時からやってた時代のほうが、紅白の人選に漏れた誰もが知ってる曲にあふれていたというのは強烈な皮肉だ。

 こと去年(2016年)の水準からいって、私の心に残った歌というのは正直なところおよそ1曲しかない。 宇多田ヒカルの 「花束を君に」 だ。 あえて言えばカップリングの 「真夏の通り雨」 のほうが強烈な印象だったのだが、ここまで言葉を削ぎ落として自らの言いたいことを歌に出来るというのは恐るべき才能だ、と感服している。

 ラップなるものが外国からやってきて日本人もサルまねしはじめてずいぶんたつけれど、過剰な言葉があふれればあふれるほど、私の耳は発信者のメッセージを聴きとることを拒絶してしまう。 百万の言葉が1曲のなかにあふれているのに、私の心まで届く言葉はほとんどない。
 それなのに、宇多田ヒカルはいま日本に存在している 「アーチスト」 なるものの紡ぎ出す言葉すべてを駆逐した。

 その宇多田ヒカルの曲が去年(2016年)の紅白に入っていたのは、せめてもの救いだったように思う。 同じ紅白の場で歌われた曲のなかで、この牙城に迫る歌詞の世界を持つものは、絢香の 「三日月」 だったのではないだろうか。
 だが、「三日月」 は去年の曲ではなかった。

 司会の相葉クンと架純チャンが場慣れせず地味な印象であるせいか、去年(2016年)の紅白はとても淡白な印象に終始した気がする。
 それを補うためか、番組は去年(2016年)流行ったコンテンツを導入した。 「シン・ゴジラ」 である。 「ゴジラがNHKのある渋谷にやってくる」 という設定。

 しかしその映画を見ていない私にとって、この演出はあまりピンとこないものだった。 しかも演出の仕方がまるで切迫感を伴っていない。

 「歌の力でゴジラを倒せる」 とか。 は? なんだそりゃ?

 作り手がゴジラにおんぶにだっこでハナからマジメにやろうとしていないから設定にリアリティがなく、これが 「リアリティ重視」 というのが謳い文句だった 「シン・ゴジラ」 の性格と大きな齟齬を伴ってかなり白けた。

 「紅白」 と別の世界を 「紅白」 において展開する、というミクスチャーは数年前の 「あまちゃん」 をお手本にすればよい、と私などは思う。 これは発想と意気込みのありようでいくらでも効果的な演出が期待できる種類のものなのだ。
 例えば映画のなかの出演者たちをNHKホールになだれ込ませるとか、手段はあったはずだ。

 5時間近く注視していたわけではないので見落としたのかもしれないが、現在放送されている朝ドラ 「べっぴんさん」 が黙殺されていたのも気になった。 主題歌のミスチルがそもそも出場しなかったのもあるが、「とと姉ちゃん」 の高畑充希が随所で出ていたのとは対照的だった。
 出場歌手で言えばNHKが去年のリオ五輪でテーマ曲を起用していた安室奈美恵が出なかったのも首をかしげたくなる。 紅白の人選や歌う曲には疑問がつくのはいつものことだが、この2組については出るのがガチでしょう。

 また、新垣結衣が審査員、というのを事前に聞いて私が密かに期待していた星野源 「恋」 での 「恋ダンス」。 他局のドラマのせいもあろうが、ガッキーの積極的な参加が見られなかったのは残念だった。 ただまあ、ガッキーのリアクションはそれはそれでカワイかった(笑)。 考えようによっては絶妙な消極さ加減だった、と言っていい気もする。

 しかし。

 去年の紅白で私にとっていちばんのサプライズは、なんと言ってもポール・マッカートニーのメッセージが届いたことだった(!)。  「来年(2017年)日本に行くよ!」。

 ただ驚き嬉しかったと同時に感じたのが、「今度の公演はチケット代2万越えか?(あ~あ、どうすんの…笑)」。

 なにしろ最新のアーカイヴ・コレクションである 「フラワーズ・イン・ザ・ダート」 の日本盤スーパースペシャルバージョンが値引きなしで2万6千円とかいうアホみたいな値段なのだ(アマゾンでは2万2千円くらい)。 どんどん高くなるんですけど。 ビンボー人はスーパースペシャル買うなってか。
 それを考えると、公演のチケット代もどんどんインフレーションするのは目に見えている(後記…同時に正式に発表され、チケット代も発表されたが、前回の公演と同じようだ…どっちにしろ高けぇ~けど)。 それに、ポール来日を仕切る興行の仕方は最悪なのだ。 それについて書き出すとキリがなくなるのでここでは書かないが、とにかく最悪すぎる。 リンゴ・スターを見習え、とだけ言っておく。 集客力の問題ではない。

 いきなり私情で論調が変わってしまったが、このように、過渡期であるのか空洞化が進んでいるのか、よく分からないが、このような物足りない紅白は、自分の用事をやりながらただ横目で流れているのをチラチラ一瞥するスタンスがいちばん適当なのではないか。

 今回の紅白では、タモリとマツコ・デラックスが特別ゲストとしてほとんど会場のNHKホールにたどり着けないまま終わってしまったのだが(それが 「蛍の光」 のあとまで続く、というこれまで見たことのないパターンであった)、タモリとマツコはおそらく、自らの意志としても会場にたどり着くことをよしとしなかったのだ。
 この、タモリとマツコのとった、「紅白」 に対する白々しい思いこそ、視聴する側の 「紅白」 に対する正しい姿勢なのではないか、という気がする。

 最後になったが、「最後に紅組が勝ってしまった?」 というこの妙な尻切れトンボ感についても書いておく。
 これは視聴者投票による結果も会場の判断による結果も、ともにボール2個分の価値しかないわけで、審査員ひとりにつきボール1個、という重みとは比べ物にならないことに起因している。
 これって私みたいなテレビウォッチャーには半ば常識みたいな感じだったけれど(でも半ば忘れてた)、結果発表のときなんかあまり説明がなかったような。

 勝ち負けなんかほとんど意味がないのは最近の 「紅白」 なんだけれど、相葉クンが涙まで流していたからちょっとそれはかわいそうだったかな、みたいな。 別にいーけど。

 後記 ポールのサプライズに胸躍った私であったが、放送直後これを書くにあたってネットニュースを見ていたところ、元東芝EMIビートルズ担当だった石坂敬一氏が亡くなったことを知った。 禍福はあざなえる縄のごとし。 ご冥福を心よりお祈りしたい。

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