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2017年2月 4日 (土)

「スーパーサラリーマン佐江内氏」 藤子Fマンガとマニアックギャグとの相性

 この1月から始まったドラマでいちばん面白いと思えるドラマ。

 原作が藤子・F・不二雄氏の大人向けマンガなのだが、過去にも藤子F氏の子供向けではないそうしたマンガは幾度かドラマ化されてきたはずだ。 私が見てきたそれらのドラマは、私の見た範囲かつ記憶の限りで申せば 「失敗作」 が多かったように思う。
 つまりいくら大人向けのマンガだと言っても、藤子F氏のマンガというのはあまり人生の深刻な問題にまで踏み込まないのだ。
 「こうなったらいいのにな」、という 「ドラえもん」 的な発想が、氏のマンガには横溢している。 氏の作り出すマンガの中に出てくる大人は、たしかに悪いこともずるいことも考えたりするのだが、それはあくまで子供も考えることの延長線上にあったりする。 「楽したい」 とか 「人によく思われたい」 とか、発想がのび太的である大人。 藤子F氏のマンガに出てくる大人は、会社や他人の金を横領したり人を騙したり殺人を犯したり、そういう 「業の深い」 悪事を働くことがない(私の知る限りでは)。
 それがそんな大人ばかりが横行するテレビドラマにはなかなかそぐわない。 藤子F氏の描くコドモロジックの大人とテレビドラマの相性は、あまりよいとは言えないのではあるまいか。

 その相性の悪さを完全に逆手に取ったのが、今回脚本と演出を手掛けた福田雄一氏である。
 「勇者ヨシヒコ」 など深夜ドラマを多く手掛けている福田氏は、その深夜ドラマ的なマニアックギャグでもって、毒にもならない藤子F氏の描く大人とテレビドラマの、まったりとした緩い関係を破壊した。 その 「ルール無用」 的なばかばかしさが何とも心地よいのだ。
 福田氏は数年前、「コドモ警察」 というやはり深夜ドラマで 「西部警察」 みたいなことを全員子供がやったらどうなるのか?みたいな視点でドラマを作っていた。 大人と子供の境界線についてある程度疑問を持ち、その境界線が曖昧さをだんだん増していると自覚している福田氏だからこそ、藤子マンガの持つコドモ性をどういう手段でもって視聴者に忘れさせるか、ということが思いつくのだろう。

 ただしこれらのギャグは慣れてないとツライ、ちょっと(かなり)視聴者を選ぶ性質のものであることもまた事実だ。 「勇者ヨシヒコ」 を見倒している私でさえ、時々 「もうお腹いっぱい」 と思う時があるから。 コメディ、を通り越してギャグドラマ、というものの宿命でもあろう。 お笑いというのは、「この次はもっともっと笑わせなければ」 というインフレーションに簡単に陥ってしまうものだからだ。

 特に 「勇者ヨシヒコ」 のレギュラーでもあるムロツヨシや佐藤二朗のマニアックなアクの強さは 「慣れる」 しかないだろう。 しかし 「ウザい」 ことで成立している世界がある、ということを我々は、寛容していかねばならない。 アメリカのトランプ新大統領を見てみるがいい(そこか?…笑)。

 藤子F氏のマンガとテレビドラマの相性の悪さと極度なマニアック性。 その弱点を完全に補っているのは主役の佐江内氏を演じる堤真一だ。 彼は直情的な役をやることが多いのだが、今回は完全にコンニャク的な 「のらりくらり型」 である。 かなり沸点が低い。 何か問題があっても謝れば済むと思っている。 責任なんか取りたくない。

 そんな彼がいきなり現れたジーサン(笹野高史)からスーパーマンのスーツを押し付けられ、嫌々ながらいろんな問題を解決していくところは、実に藤子F氏的だ。 ついでに言えばこのジーサンもかなり藤子F氏的で、要するにユル~いキャラ設定(かと言ってユルキャラではない)。 悪人になどなり得ないタイプである。
 このジーサン、「設定が厳しい」 フツーのテレビドラマだったら最初の1回と最終回の都合2回しか出てこなさそうな 「泉よりわき出でたる女神」 的な重要人物なのであるが、これがチャリとか乗ってまた頻繁に登場するんだな(笑)。
 こういう 「ユル設定」 も実に藤子F氏的である、と思える。

 そして 「ユル設定」 がいちばん威力を発揮しているのが、「忘却光線」。 このスーパースーツ、その場からいなくなればそれを目撃した人たち全員が彼の存在を忘れてしまう、という、まさに 「ドラえもんグッズ」(笑)。
 これはドラマ的にもかなり有用な役割を果たしていて、「忘」 の光線が登場するとそこでみんなずっこけたみたいになり笑いが取れ、忘れちゃうからトンチンカンなことを言い出したりできてまた笑いを取れる、という二重の効果が期待できてしまうのだ。

 この、「忘れ去られちゃう」 というのは同時に、佐江内氏にとって最強の 「許可証」 でもある。
 きょう日、人の行動というのはSNSだのなんだのと、全部ネットに披露したものが残ってしまう。 殺された被害者の撮ったスマホの写真が堂々と公開されるし、犯罪を犯した者がいつまでたっても忘れ去られないので裁判まで起こす始末だ。

 何でもかんでも残っちゃうのって、どういうもんなんだろう?

 福田氏にそこまで視聴者に考えさせようとする意図があるとは思えない(たぶんない…笑)。 しかし将来、「ネットにおける不要情報の廃棄」 という事態…が発生するのかどうか。 分からんけれど、私が加入しているこのココログというブログだって、私がまったく画像を載せずに文章だけで勝負しているために、まだ使用できる全体の容量の2パーセントくらいしか使っていないのだから、たぶん 「橋本リウというブロガーが忘れ去られる日」 というのは遠い未来のことだろう。 ココログの母体である富士通がやめちゃわない限り。

 そしたらいったいいつになったら、私は完全に忘れ去られるのか? でも、それ(自分という存在を残せること)がもともとの目的ではなかったか?

 いずれにしてもネット情報の墓場、ということに思い至ったとき、私はアニメ 「電脳コイル」 のバグを思い出さずにはおれない。

 このドラマで書き忘れてはならないもうひとりが小泉今日子だ。
 彼女はドラマに出てくるとき大概エラソーなキャラで出てくることが多い気がするのだが、これって 「どんな役をやってもキムタク」 ならぬ 「どんな役をやっても小泉今日子」、ということと同義なのかな。
 そのイメージを極限にまでふくらましたのが今回の役で、彼女は佐江内氏の妻を演じているがそのキャラは完全にジャイアン。 いや、女だからジャイ子か? でも太ってはいない。 太らせたほうがかなり藤子F氏のマンガ的なのだが、「そうか、キョンキョンってその性格を極端化させるとジャイアンなんだ」 という発見があって興味深いのだ。

 そしてこれもマニアック的ギャグなのが、エンディングのダンスシーン。
 「これって 『逃げ恥』の恋ダンスのパクリじゃん」 とシラケてしまう向きを見越した、「ええ、二番煎じですがなにか?」 的な福田氏の開き直りだ。 これを笑うことができなければ、このドラマを素直に楽しむことはできないように感じる。

 福田氏のギャグ構造には、既存のコンテンツを題材としたパロディを基本とするようなところがあるが、それは見る者のテレビ(または映画)への依存度を量る性格上、見る者の知識満足度に優越感を与える作業である側面を持っている。
 しかし福田氏は、その優越感に対して逆の攻め方をして 「あんまりいろいろ知ってても、エラソーにシラケてないで自分の知識を自虐して笑えるようじゃなきゃダメだよ」 というレベルで見る者を笑わそうとしている(ように見える)。

 要するにこのドラマは、悪ふざけとかギャグが寒いとか、そうした 「ネット世代のあまりにも正しい冷静な観察者」 に対する 「寛容の勧め」 のドラマ、という側面も持ち合わせているのではないか。

 昔のことを言い出すとキリがないが、昔はもっとこうした、ハチャメチャでアナーキーでワイルドなドラマがいっぱいあった。 このドラマで 「バカヤローっ!」 と叫び続ける佐藤二朗はどこか卑屈で視聴者のネガティヴな反応を気にしている。 クレームを恐れている。 それは現代のドラマの、そしてテレビの、どこか腰が引けている態度と性格を一にするものなのではないか、と私は感じている。

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テレビ」カテゴリの記事

コメント

橋本様

 お寒うございます・・・。
 
 佐江内さん、阿保らしいなんて思いながらも、堤さんファンなもんで録画までして毎週見てるんですね~(笑) アイドルとジャニーズは苦手なおばさんなので、キョンキョンは可愛い~だけでしたが、去年、今年とNHKのお正月ドラマ「富士ファミリー」で、殆ど幽霊役の小泉さんがちょっぴり優しくていい感じ・・。
でも、こんなツンデレ役、ピッタンコ似合いますし、堤さ
んとのコンビもいいですね~。
 おばさんにとって、この冬一番がこのドラマです🎶

 2番目は大河かな・・。ちび虎ちゃんたちの学芸会?から若者のトレンデイドラマ風に発展しつつあり、ですがそれでも結構面白く、歴史に詳しくないおばさんもこれからの展開を期待しつつ視聴中です。
 
 3番目は橋本様がリタイヤした「カルテット」
何だか会話がお洒落過ぎ?くど過ぎ?丁寧過ぎ?芸術家だからかなと思うのですが、前回、茶馬子とかい役名に有り得なさすぎる!!ドン引き・・・。あまり期待せず、松さん目当てに見るのかな・・・(笑)

 キムタクドラマは1回目でリタイヤ・・。どうしていい役しか演じないのかな~?そろそろ悪役や癖のある役を演じて欲しいよ~。それこそ吉永小百合みたいになっちゃうね・・・と評論家風(おばさんは、サユリストですがその演技力には???悪役やれて一人前、と思っているおばさんなのです。)
 浅野さん、マツケン、たまたま映画で見たばかりでしたがお二人とも素晴らしく・・この配役は無駄遣いという気がしてならないのです。

 佐江内さんのダンスは恋ダンスより難しい~。
皆さんが真面目な顔で上手に踊ってて驚くと共に最近のドラマはカルテットもそうですし、エンデイングに凝るのね~と感心しております。

 何だか取り留めなくなりましたのでこの辺で・・。

 北国では、インフルエンザが猛威を振るっております。
どうぞ、ごお体自愛くださいませ。

おばさん 様
コメント下さり、ありがとうございます。

「佐江内氏」 はアホらしいのがいいのです(笑)。
今の人たちって、こういうのを楽しめなくなっている感じがして仕方ないんですよ。 全部とは申しませんが。
ヤフコメなんかばかり読んでいるからそう感じるのかもしれませんが、なんかみなさん、的確で冷静で正しい。 少しでも思い違いや考え違いするコメントが出ると一斉に叩くし。 いいじゃん間違ってても、って思います。 正しすぎて息が詰まる。

正しいものばかりというのは、つまらない世の中です。

それってマツコ・デラックスが世間に受け入れられているのと同じような感じがします。 マツコは常に非の打ちどころがないくらい正しい。 それは彼(彼女?)が一元的なものの見方をしていないからで、そしてどこまで突っ込んだら言い過ぎなのかを知り尽くしていることが大きい。 ネットという言語を取得した私たちがぶち当たるのが 「完全なる客観性をどうやって備えるか」 ということで、マツコはそれが完璧にできる体現者だから人気がある、と言えるのではないでしょうか。 アッコみたいに自分の感情でものを言うなんて人はバッシングされる時代になった。 しかし私は、アッコのそういう人間臭さを受け入れられないうちは人としての器が小さいのだ、と感じてしまいます。 みんな温室育ちだから過激な物言いをする人を意識的に排除してしまおうとするのでしょう。

話がそれました(笑)。

「カルテット」 についての私の記事はどうも受け入れられているように思えないので(反応がないから…笑)みなさんに評判がいいのだろう、と勝手に想像していますが、いろんな記事のコメント返信で言い訳しまくってますけどとりあえずここでは、「セリフのこねくり回した跡」 というのがすごく気になることを挙げておきます。 というのも、私自身詩を書く上でかなり言葉の推敲をしているので、その苦しみを思い起こさせるセリフ遣いが嫌だ、ということなのです。

けれど、人の話し言葉なんて、散々推敲したあげくに出てくるものじゃないですよね。 その場の自分の発想のスピード、瞬発力みたいなもので私たちは会話しているわけだから。

考え抜かれた会話劇というのは私たちを夢中にさせるものではあるけれども、そこに普段の会話の丁々発止敵なやり取りの自然さを忍び込ませることは大変難しい。

木村クンのドラマは別記事でも書きましたが、なにかというと木村クンに注目してしまうところが彼のスター性なのだろう、と思うのです。 基本的に私自身木村クンのファン、ということがありますけど(笑)。 昔はまるで木村天皇みたいで、つまりテレビ局が木村クンに気を使いまくり番宣しまくりなのが気に入らなかったのだけれど、バッシングされるようになって木村クンのことが好きになった(笑)。 こういう、逆境に立つ男というのは好きなんですよ(笑)。

リウ様
おはようございます。

確かに、今期ドラマの中では一番お気楽に観ています。「左江内氏」(笑)
実は、私、「カルテット」も好きなのですが(^^; これに限らず最近の坂元裕二さんのドラマって、観る側もそれなりの気持ちを作って臨まないと、1時間持たないんですよね。なんか、こう、居住まいを正しつつ観る、というか、セリフを聴き逃したら巻き戻してもう一度確認せんといかんぞみたいな。要は、少しメンドクサイ。だから録画が溜まりがちになるし、3週溜まると、「ま、いいっか」とリタイアしまうことが多々あるのですよ。

その点、「左江内氏」はその対極にあるようなドラマなので(笑)、録画が溜まることもなく、サクサク観進めてしまいます。

あと、このドラマで感心するのは、無駄なところにかけられた手間暇の多さとテンションの高さ(褒めています!)。EDだって、明らかに「恋」のパクリなのに、ダンスの難易度としてはこちらの方が断然高いという、しかも、出演者全員、その振り付けをほぼ完ぺきにこなしてるという・・これは一体何なんですかね?元ももクロの早見あかりちゃんなんか、もう動き、キレッキレですし。

あと、堤さんの部下を演じる賀来賢人クン(この人、花子とアンのお兄ちゃんでしたよね)の、ウザいを通り越して愛おしくさえなる高テンションの芝居とか、何でここだけ?と思わせる、まるでハリウッド産アメコミ映画のような壮大なオープニングテーマとか。
全体に、「そこじゃないだろ!」と突っ込みたくなる斜め上の豪華主義が、観ていて面白いです。

とはいえ、そこを、「遊び心」などと言ったオシャレなものに昇華せず、「何か、日テレのゴールデンで一杯予算付いたのでやっちゃいましたあ・・あははっ」とか言ってそうなユルさは、ああ福田さんのドラマやなあ、と、思ってしまいます。

Zai-Chen様
コメント下さり、ありがとうございます。

どうも 「カルテット」 および坂元氏に対する批判が(自分で書いときながら)個人的に尾を引いていて、新しい記事を書けずにいるハシモトです。 誰か私のディスり記事に賛同してくれるといいのですが、「ドラマ好き」 と呼ばれるかたがたはだいたい 「カルテット」にハマっているようですね。

Zai-Chen様の 「カルテット」 に対するコメントを読んでまた思いついたことがあります。
私も 「それでも、生きてゆく」 くらいまではセリフをいちいち聞き書きしてドラマの意味を吟味したものですが、「最高の離婚」 ではそれができなかった。
それはどこかで、「ここまでドラマの意味が分かる自分ってスゴイっしょ」 みたいな、「選民意識」 みたいな優越感が働いていたことに気付いてしまった、ということもあるのです。

坂元氏の書くような内容の濃い人間劇を味わう、という楽しみ方も否定はいたしませんが、いつからかその濃さに辟易しはじめた。
「ドラマという表現手段はすごい」、と思わせると同時に、「そんなに気を張って見ていると疲れる」、という感情が湧いたのです。

「佐江内氏」 をイチ推しする自分は、そんな 「伸びきってダラーンとしたゴム」 の見解とも言えます(笑)。 ジジイになった証拠とも言える(ハハ)。

例えば、「ミゾミゾ」 にあくまでこだわってしまいますが(笑)、こういう 「自分で考えた造語」 を人前で 「何気なく言ってしまう」 ということって、すごく 「自意識過剰」「自分の感性に酔っている」 ことの表れだと思う。 そんな時点で、「いや、いくら自分に酔っていても、それを他人の前で言うことにはある程度の躊躇をしてしまうほうがより自然である」、と結論せざるを得なくなってしまうのです。

唐揚げにレモンの議論にしてもそう。 ふつう、ここまでこだわって議論し続けることは、かなり不自然です。 自分の主張に対してメンド臭い議論が始まりそうになれば、「チッ、しょーがねえな」 で終わるべき議論なのです。 こういうのをとことん見せようとしなければ彼らのキャラクター、人間性を引き出せない、という部分で、「設定に無理がある」、と私は思ってしまうのです。 「あるある感」「おるおるこんなヤツ」 を重視している坂元氏のドラマだからこそ、そこが気になる。

このことは、「問題の多いレストラン」 でも感じた覚えがあります。 「最高の離婚」 も同様のパラノイア的な展開が結構あったけれども、ベースがコメディだから、そのバランスがかろうじて保たれていた。

「カルテット」 を楽しんでいるZai-Chen様にはとても失礼なコメント返信になってしまったことを、どうぞお許しください。 自分のモヤモヤを、ここで発散させてしまいました。 どうも作品に対する批判というのは、面倒がつきまとうものですね。

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     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

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  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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