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2017年3月

2017年3月 4日 (土)

ムッシュかまやつさんの訃報を聞いて

はじめに 初出時より少々付け加えました。

 ムッシュかまやつサンが亡くなった。

 今年52でビートルズファンの私からすると、かまやつサンというのは自分のビートルズファン歴の最初期において、ビートルズを案内してくれた役のひとりだった。
 いちばん印象的だったのは、確かTBSで、1977年か8年あたり、ある日曜日の昼下がりに放送されたと記憶しているが、彼らの解散を描いた映画 「レット・イット・ビー」 のナレーションをかまやつサンがされたことだ(その時が初めての放送だったかは分からない)。 私はこのオンエアーを当時持っていたラジカセに録音し、それこそ何度となく繰り返して聞いた。 かまやつサンの鼻にかかったようなどことなくのんびりとした独特の声は、それ以来私の心に刻まれた。

 周知の通りこの 「レット・イット・ビー」 という映画にはナレーションなどついていない。 もはや歴史となった巨大な怪物バンドであるビートルズが崩壊する様子を、ただ淡々と追った映画に過ぎないのだが、テレビ放映用に分かりやすくする演出上の必要が生じたために、かまやつサンが採用されたのだと思う。 その当時で彼らの解散からまだ7年かそこらだったから、その時点でのビートルズ自身の認知度の低さもまた窺い知れるというものだろう。

 彼らは1966年に来日した時に大々的にブレイクした(当時ブレイクなどという形容句は日本には存在しなかったが)程度で、1970年の解散など、「あ~あのバンド、解散しちゃったの」 くらいの認識でしかなかったんじゃなかろうか。 「そういやメンバーのひとりが日本人と結婚して頭おかしくなっちゃったみたいだけど」 みたいな。

 そんななかでそのビートルズの映画に、グループサウンズのもっとも知識層に位置し、「我が良き友よ」 などのヒットでも知られていたかまやつサンがその案内役を務める、というのは至極まっとうな線だ。

 ただその内容は、というといきなりビートルズをバッハ、ブラームス、ベートーヴェンという世界のクラシック音楽家三大 「B」 と対等な立場で論じるなどかなり大仰で(笑)、またジョンとポールの友情を綴った 「とされる」 壮大なバラード 「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」 をかまやつサンが情感たっぷりに紹介した次の瞬間に流れたそのバージョンが、途中でおふざけバージョンになってしまうなど、かなりちぐはぐな面もあったと記憶している(念のために付け加えるが、このナレーションの内容はテレビ局側が作成したものだろう)。

 同時期に 「ザ・ビートルズ・サウンド」 という、当時としては画期的だったビートルズの音楽性を真正面から扱った本において、かまやつサンは日本盤の彼らのデビュー盤 「ザ・ビートルズ!」 に関するエッセイも書かれていた。 1960年代初頭にヨーロッパ旅行した際に、マッシュルームヘアーの独特な格好をした実存主義グループを見たその何年か後に、同じ格好をしたバンドが登場した、それがビートルズだった、というのだ。 かまやつサンはそのデビュー盤を購入して聞き倒し、当時9000枚だか持っていたレコードの中でもいまだにいちばんだと書いていた。
 しかしそもそも、かまやつサンはビートルズの中でも一番年上のリンゴ・スターよりも1個半くらい年上の世代である。 私はその事実を結構早い段階から認識していたのだが、若い時は 「自分より年下の連中を持ち上げるのってホントは本意ではないんじゃなかろうか」 と考えていた時期がある。

 けれども、後年になればなるほど、かまやつサンという人はそういう年齢差などまったくと言っていいほど意に介さない人なのだ、というように認識が改められていった。
 なぜならかまやつサンは常に新しい世代のミュージシャンたちと交流をし、つい最近でもギターのうまい中学生の男の子とバンドを組んだ、という情報まで耳にしたからだ。 この情報というのは主にTHE ALFEEの坂崎サンのラジオからもたらされたものだが、それ以外にもテレビに出演したときなどに 「かまやつサンにはいろんなところで遭遇する」 というほかのミュージシャンたちの声も聞いていたこともある。 つまりかまやつサンは、新しい世代の動向に常にアンテナを張っていた、ということになろう。

 しかし中学生とコラボとは、その話を聞いたときはえらく驚いた。 坂崎サンのラジオにはかまやつサンもたびたびゲスト出演していたが、アルフィーも売れない時代にかまやつサンのバックバンドとして雇ってもらったという話をしぜんと聞いていたし、すなわちそういうことなのだ。
 かまやつサンは多くの若手ミュージシャンにとって、いちばん最初に懇意になる大物ミュージシャンのひとりだったのだろうと推察されるのだ。

 かまやつサンの最後の声を聞いたのも、その坂崎サンのラジオ番組だった。 去年の中頃だったと思う。 そのとき、「あれ、かまやつサン声が変わったな」 と感じた。 あの、私の記憶に深く刻まれている、鼻にかかったような声ではなくなっていたのだ。
 そこでイベントの告知をしていたのだが、ほどなくしてそのイベントの中止が発表された。 やはり声が変わっていたのも体調を崩していたせいだったんだろうな、と。

 ただ話す内容はいつもの飄々としたかまやつサンのもので、ここ数年関東地域では頻繁に宣伝されて聞く方にとってはかなり耳障りなラジオCM、「新宿事務所」 の内容に 「ねえねえ、過払い金って何?」 と坂崎サンに尋ねるなど、ボケの話術の才能はまったく衰えていなかった。
 普通ここまで頻繁にラジオCMがかかっているお得意のスポンサーについてなど、ラジオの出演者はタブー視するものだ。 坂崎サンもかまやつサンのこの話題提起に困っていた様子だったが(笑)、かまやつサンにはその話題も意に介さないしなやかさが備わっていたのだ。

 往年のバンド仲間だった堺正章サンの料理番組 「チューボーですよ!」 に出られたときもそうだったが、かまやつサンのキャラには人を弛緩させる特別な能力があった。 特に盟友の井上順サンと堺サンが共演する回では結構ライバル意識が感じられたものだが、そこにかまやつサンが加わって3人になると、途端にその火花がやんわりと収束されるのだ。
 それはかまやつサンがほかのふたりより年上だったことも大きいが、かまやつサンののんびりとしたとぼけたような人柄が大きく作用していたことは間違いない。

 私などの世代にとっては、かまやつサンはザ・スパイダースのメンバーというよりも、1975年に大ヒットした前述の 「我がよき友よ」 がいちばん印象的であろう。 また同時期にテレビで放送されていたアニメ 「はじめ人間ギャートルズ」 のエンディングテーマ、「なんにもないなんにもないまったくなんにもない」(正式には 「やつらの足音のバラード」) を作った人、という認識もあろう。
 私などはそれ以前のスマッシュヒット 「どうにかなるさ」(1970年) の印象も強くて、「この人はどうしてこういうヘンな歌い方をするのだろう」 ということは子供心に持っていた(それはかまやつサンの本来であるカントリーミュージックの歌い方であることを認識したのは、ずっと後になってからだ)。

 それにしても 「我が良き友よ」 の歌詞のインパクトというのは、当時小学5、6年だった私には大きいものがあった。 ちょうど春日八郎の 「お富さん」 みたいなもので、1番以外は意味も分からず歌っていたのだ。 この曲や 「『襟裳岬』『結婚しようよ』 を作った男」 として吉田拓郎を意識するようになり、拓郎ファンになっていった、という窓口の役割も果たしていただいた。 拓郎とのデュエット曲 「シンシア」 は、けだし名曲である。

 今はただ、「どうにかなるさ」 の最初の1行、「今夜の夜汽車で旅立つ俺だよ あてなどないけど どうにかなるさ」 というフレーズが頭の中を彷徨している。 旅立ったかまやつサンが、無事にいいところにいけることを念願している。

後記 3月6日の森山良子サンのラジオ番組で、森山サンからいとこのかまやつサンの死についていろんな話を聞いた。 同じ芸能界で生きてきただけあってその絆はとても強く、森山サンの悲痛さが滲み出てくるような内容だった。
 その悲痛さを際立たせていたのは、生前に 「俺が死んでもビービー泣くな。 俺はそういうのがいちばんキライなんだ。 俺が死んでもヘラヘラしていろ」 とかまやつサンから釘を刺されていたことで、ふだん番組内でちょっと悲しいお便りを読んだだけでも泣いてしまう 「泣きんぼ」 の森山サンが、努めて明るく振る舞おうとしていたことだった。

 あらためて、ご冥福をお祈りいたします。

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