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2017年4月

2017年4月29日 (土)

「ザ・ビートルズ史 誕生(上)」 ビートルズ研究第一人者による、容赦のない徹底的な歴史本

 ビートルズ研究においては世界中を見回してもトップであろうと思われるマーク・ルイソン。 かつて彼はアビイ・ロードに保管されたビートルズのレコーディングテープのすべてを聴くことを許され、「ビートルズ・レコーディング・セッション」 という究極の記録集を世に出した。
 この本が日本で出版されたのは1990年のことだが、私が肌ではっきりと感じるのは、ビートルズ関係の書籍において明らかに 「レコーディング・セッション前」 と 「レコーディングセッション後」 では内容が一変した、ということだ。 「レコーディング・セッション」 の内容を基に彼らの音源を聴くと、さらに細かい分析が可能になったのである。

 それまでのビートルズ研究というのは初期のマネージャー的役割を果たしたアラン・ウィリアムスの 「ビートルズ派手にやれ」 とか、ビートルズ解散直後に出されたジョン・レノンへのインタビュー本、「ビートルズ革命(現在は 「回想するジョン・レノン」 と改題)」、さらにレノンが射殺される直前に行なった数々のインタビュー本に多くが依存しており、それらの向こうにはビートルズ活動中に唯一彼らの公式認定伝記として書かれたハンター・デイヴィスの 「ビートルズ-その誕生から現在まで」 が鎮座ましましていた。 これは彼らやその関係者に対する徹底的なインタビューで構成されたものであり、その点で作者の余計な主観の入り込む余地のない優れた伝記だった。

 ハンター・デイヴィスのそれはしかし、サージェントペパーズ(1967年)の頃に書かれたものであり、彼らの活動半ばまでしか記述がない(その後あとがきによっていくらか補完はされたが)。 したがって本編中に当然ながらオノ・ヨーコは出てこない。
 さらに都合の悪いところを次々と削除させられたせいで彼ら自身から 「きれいごと」 と揶揄される始末で(その要請が彼らから出たものもあったにもかかわらず)、資料としては当時最強でありながら、内容的には極めて不満足なものだったと言える。

 当時は圧倒的に情報がなかったからこそ、それらの本に書かれた事実を探りながら、ビートルズ論というのは必然的にその社会現象であるとか絶大な影響であるとか、精神論に傾いていたような印象がある。 時代背景から考えても、ビートルズというのは同時代に生きた若者たちに対して、思想的な変革という部分でより重要だったから、これは当然の結果なのだろう。
 音楽そのものに対する研究というのはその資料の乏しさからさらに絶望的で、1979年にCBSソニー出版から発売された 「ザ・ビートルズ・サウンド」 という本(当ブログビートルズの項ではたびたび言及しているが)が精一杯、といったところだった。

 それが、ルイソンの著した 「レコーディング・セッション」 では、レコーディングテープをすべて聴いた上に当事者たちへの聞き込みによって、彼らのレコーディングにおける活動がはじめて立体的に目の前に出現したのである。 私にとってもこの本は衝撃的だった。 現在ではネットを広げればウィキペディアをはじめとして、ビートルズの情報というのはあまりに膨大で飽和状態である、とも言えるが、そのようなカルト的な研究の端緒を切り拓いた、という点でこの 「レコーディング・セッション」 は重要な本なのである。

 そしてルイソン氏はもうひとつ、「ビートルズ全記録」、という詳細な記録集を世に出した。 今回の 「ザ・ビートルズ史」 というのはこの本の発展形である、といえよう。 「全記録」 は、赤盤青盤で立川直樹氏がまとめたビートルズ年表のかなり詳細バージョン、といったコンセプトだった。

 今回 「全記録」 と決定的に違うのは、ダイアリー形式でなく読みものになっている、という点もそうだが、これまで世に出た(おそらく)ほとんどすべての文献、証言についてルイソンがその真偽を徹底的に調査し考察を加えている、という点にある。 そのすべてが現在考えうる限り、「容赦なきまでに徹底している」。
 まず関係者へのインタビューの敢行。 ビートルズのロード・マネージャーだったニール・アスピノルや先ほども話に出たアラン・ウィリアムズは近年次々と亡くなっているから、ルイソンの行なったインタビューはリミットぎりぎりだった感がある。 ビートルズの当事者たちの記憶は、すでに歴史の彼岸へと埋もれつつあるのだ。
 ビートルズに深く関わった人たちだけではない。 ジョンの家に居候していた学生であるとか、取るに足らないように思えそうなレベルの同級生の証言、当時のファンの女の子男の子のひとりひとりにまで取材を重ねている。 ちょっとでも彼らを見知っている人ならそのすべての人に会っている、ということが、この本を読んでいると見えてくるのだ。 そしてその証言ひとつひとつに対して真偽を考察している。 この徹底ぶりは他の追随を許さない。 「誰がこれをやって、誰があれをやってって、その場にいたわけじゃないのにどうしてわかるんだ?」 とポール・マッカートニーは(目下のところ)最新アルバムのなかの一曲(「アーリー・デイズ」)で歌ったが、この本はその問いかけに最大限回答しようとしている。 しかも多数の証言を付き合わせて考察を行なっているのだから、当のポールの記憶よりも正確だ、という可能性すらあるのだ。

 さらに本書の容赦なき徹底的な部分は、公的文書はもとより、当時世に出回った全国紙地方紙(特に彼らの出身地リバプールを中心としたもの)を隅から隅まで読み倒してビートルズに少しでも関連のあるものをピックアップしている点だ。 この作業を考えると本当に気が遠くなる。 このことによって、彼らがどのように世に出ていくかの時代的背景、および必然性が浮かび上がってくる。

 と同時に、それがまったく必然性を伴ったものでなかったことも浮かび上がるように私には感じられた。 つまり、「彼らのやる気」 についての移ろいである。

 彼らは下積み時代、自分たちが意気消沈した時に 「俺たちはどこを目指しているんだい?」「そりゃ、ポップ界のトップ(トッパーモスト・オブ・ポッパーモスト)さ!」 と自らを鼓舞しモチベーションを保ち続けたという有名なエピソードがあるが(この掛け合いの元ネタとなった話までこの本では発掘されている)、実は彼らのやる気にはかなりムラがあり、一直線にポップ界のトップを狙うような姿勢には至っていなかったことが見えてくるのだ。

 この本の上巻で彼らの学生時代を縛りつける重要な試練として、イギリス特有の教育制度であるGCE試験(全国統一試験)、というものがたびたび言及される。 それに従って彼らは自らの将来をどのように決定していくかの岐路に立たされるわけだが、特にジョンやジョージについては、明確な将来のヴィジョンを持っていたとはあまり思われない。 ポールだけは 「常識人」 である父親の影響下で何らかの策を講じていたことが想像されるが(下巻においてポールはほんの一時期マジメに働いていたことが判明する)、ジョンとジョージは 「まああわよくば音楽で有名になって、とは思うけどそんなに世の中甘くないだろうしね」 程度の認識でバンド活動を続けている 「根なし草」 状態だったことが分かる。 ただし根拠のない 「有名になる確信」 だけはあったが。

 彼らが世界一のバンドとして世に君臨するのはほんの些細な偶然の集積によってであり、そこには 「運命」 というものが大きく横たわっていた。 この本を読んで初めて知ったのだが、彼らはイギリスの徴兵制度から解放された最初の世代だった。 彼らが徴兵されていたら、一体どんなことになっていたのだろう。 これも、「運命」 のなせる技だったのかもしれない。

 ハンター・デイヴィスの伝記やその後決定版と言われたクロニクル 「アンソロジー」 本は、ユニットとして集まってくる以前の記述は個別に行なわれていた。 だが本書はかなり遅れて合流してくるリンゴも含めて、同時期のことは4人ともまとめて書いてある(本書上巻ではリンゴはまだビートルズには加わるところまで行かない)。
 そこから初めて浮かび上がってきたのは、ほかの3人とリンゴとの人生の質の違いだ。 リンゴは幼い頃とても病弱で、ずっと病院暮らしをしていた。 同じ時期にほかの3人は、多少の貧富の差があったとはいえ比較的幸せな少年時代を送っていて、いちばん年上のリンゴが 「ひとり負け」 状態だった。
 それが、退院して働き始めてからのリンゴは逆に仕事に恵まれ、「ひとり勝ち」 状態になっていく。 これは個別に書かれていたのではなかなか気付かない興味深い比較だ。 リンゴはバンド活動にも恵まれて、時系列的にビートルズのメンバーの中では真っ先に車を買うほどの勝ち組となるのだが、実は無免許だったことも(笑)この本で初めて知った。

 法的に問題がある、という部分こそはデイヴィスの伝記で削除された部分であったが、本書にはその手かせ足かせがない。 だからジョンがあらゆる店で万引きをしていたことも包み隠さず語られるし、カレッジスクールの備品にあったアンプを 「拝借」 してしまったことも書かれてしまう(もともとそのアンプ自体をジョンのゴリ押しで学生自治体が購入した経緯まで書かれている)(そしてそのアンプの末路まで)。 ここに書けないようなことも容赦なく書かれている。
 その最たるものが、のちに彼らのマネージャーとなるブライアン・エプスタインが若き頃に逮捕された、という事件である。
 ここでルイソンの行なった新聞読み倒しが大きく生きてくる。
 新聞にこの事件の経緯が書かれていたせいで、この事件は客観的にここに暴露されることとなった。

 新聞の読み倒しの効力は、ジョンの実母であるジュリアの交通事故死についても大いに発揮されることとなった。 その事故の数週間前にジュリアの名目上の夫がしでかした事件がジュリアの死に関わってくることになるのだ。 ジョンの自宅に住んでいた学生への取材も、ここで生きてくることとなる。 ジュリアの死に関するくだりは、本書上巻のひとつのメインである、と言えるだろう。

 しかし同時に、ジュリアの死からジョンの気持ちの動向があまり読めなくなってくる。

 これは周知のようにジョンが早くに死んでしまったことによるものだが、膨大なインタビューを生前にジョンが受けているにもかかわらず、ジュリアの死がもたらしたジョンの精神への影響は、あまりにも本人から語られていないのだ。 それは後世から類推するしかないが、ジョンの精神状態が分からない、ということはすなわち、ジョンはその哀しみを自らの心の底に沈めてしまったことを意味する。 この事故から数週間のち、ジョンの行動は目に見えて以前よりさらに悪くなり、攻撃的かつ辛辣になっていくのが本書を読んでいると分かる。

 本書が 「容赦がない」、というのはジョンのことばかりではなく、ポールの性格についても同じことが言える。 ルイソンはポールがメンバーの中では最もふつうの良識を持った人物であることをあぶり出しているが、同時にポールの慎重さ、出しゃばり方、嫉妬、仕切り癖、攻撃性なども白日のもとにさらけ出した。
 これはのちに展開する彼らの解散への経緯を考えると、すでに少年時代からその芽が育っていたことを想像させるものだ。
 本書ではジョンの即決性、過去にあったことに拘らない切り替えの速さなどにも言及しているが、オノ・ヨーコが現れたときのジョンの行動が説明出来るし、ここにポールの性格をぶつけさせたときにポールがどのように対処するのか、という回答も出ているように思われるのだ。

 本書の弱点、というのもまさにこの点にあるように思われる。 容赦なさ過ぎて、情報の多さにときどきついていけなくなるのだ。

 この本の上巻は、正直なところかなり読みにくい。

 私のように、ビートルズに関して強い興味のある者、またはビートルズについてかなり知っていると自負している上級者(自分で言うか)同志でないと通じない表現がそこかしこに見られる。
 それでも、この取材力のあまりの膨大さから登場する人物も想像を絶する多さで、誰がどうして誰がこうして、ということを追うのがとても大変なのだ。 私などは途中から 「これは人物関係図でも作らなければ」 と思ったのだが、途中から諦めた(笑)。
 その人物でも、例えばリー・イーストマンという名前が突然出てきたりするが(これは下巻になるが)、ビートルズファンならばこの名前にはピンと来るはずだ。 のちにポールの妻となるリンダの父親の名前だからだ。 しかしそれが無造作に挿入されていたりする。 ビートルズファンは 「リンダの父親がこの頃から既に…」 などと思うことだろうが、「ビートルズの歌が好き」 くらいのファンでは素通りする部分だろう。

 また、「バスの2階に座ってタバコを吸い…」 の部分は傑作 「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」 を容易に想起させるものだが、これもマニアックな表現部分だ。 実はこんな表現ひとつひとつに、私みたいなどうしようもないファンは立ち止まってしまうのだ(笑)。 ビートルズを知り尽くしているルイソンだから出来るこのような遊び。 正直迷惑である(笑)。

 そしてやはり、ヴィジュアル的な部分でこの本は弱い。
 上下巻で1600ページ以上となる膨大な情報量がメインであるから仕方のないことだが、先に述べた 「アンソロジー」 本などを傍らに読めば、イメージが湧きやすくなるのではないか、という気もする(このようなマニアックな本を購入する人は、「アンソロジー」 もすでに買っているはずだから…笑)。

 1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。
 本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである。

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2017年4月26日 (水)

NHKラジオ深夜便 ペギー葉山さん・船村徹さん出演回再放送を聞いて

 4月25日深夜~26日未明にかけて放送された村上里和アンカーのNHKラジオ深夜便で、最近亡くなられたおふたり、ペギー葉山サンと船村徹サンの深夜便出演のアーカイヴを放送していた。

 船村徹サンのほうはおととし2015年7月、五木寛之サンのレギュラーコーナー 「聴き語り昭和の名曲」 にゲスト出演されたときの模様。 奇しくも本日のアンカーである村上里和アナが聞き手だった。
 船村サンと五木サンは昭和7年の同い年生まれだったらしい。 それにしては五木サンのほうがはるかに元気で、船村サンはそれに比べるとすでに病を患っていたのか、ぼそぼそ声で笑い話ではなくもうじき死にそうな感じの弱々しさだった。 インタビューの最後で船村サンは、弱々しい声ながら村上里和アンカーに 「あなたも頑張ってね」 と声をかけ、その模様をこの日再び聞いた村上サンは 「泣きそうになってしまいました」、と声を震わせていた。

 ラジオ深夜便はたまに残酷なことをする。 深夜便リスナーの年齢層に合わせるのだろうが、高齢の死にそうな人を出演させるのだ(深夜便制作側にはそのような意図はないのだろうが…笑)。 痛々しかったのは声優の肝付兼太サンで、亡くなる半月くらい前に病院から抜け出して生前最後のインタビューに応じたのだが、もうほとんど声が出なくなっているにもかかわらずスネ夫の声とかやらせてだよ、本人の意向かもしれないけれど出すべきじゃなかったんじゃないだろうかとも感じた。 逆に考えれば、肝付サンは最後の最後まで壮絶に生き切った、遺言を遺した、ということになるのだが。

 船村サンの弱々しさが特に印象的だったのは、船村サンを以前からよくテレビでお見かけしていたからだ。
 美空ひばりにしばしば高音(ハイトーン)の混じった歌を提供し、ステージママだったひばりの母親から 「ひばりの声を潰す気か」 といくら罵倒され抗議されようともひばりの喉に挑戦し続けた船村サン。 テレビで見る船村サンはそれと同じアグレッシヴさがいつもあった。
 アーカイヴを聞く限りその片鱗はまだまだ健在していたが、弱々しさは隠し切れるものではない。

 それに対して、ペギー葉山サンはつい5ヶ月ほど前、去年(2016年)の11月にオンエアーされた徳田章サンのアンカーコーナー、「芸の道輝き続けて」 でのインタビュー再放送だったのだが、この4カ月後に死ぬ、などということはまったく感じられないくらいお元気な様子だった。
 ペギー葉山サンに関しては、報道によれば今年の2月あたりまでお仕事をされていたようで、共演者のかたがたも 「あんなにお元気だったのに信じられない」、ということだったようだ。
 ラジオ深夜便では 「深夜便の歌」、というものを2曲ずつ、毎日放送しているが(3ヶ月毎に替わる)、去年の10-12月に流れ続けた深夜便の歌がペギー葉山サンの歌だった。 仕事の関係上ほとんど毎日のように私も深夜便を聞いているため、私の意識の中ではペギー葉山サンはまったく現役感覚。 訃報を聞いてやはり信じられなかったが、死因だった肺炎、というのは恐ろしいものなんだな、と認識を新たにした。
 このアーカイヴは最初に放送されたときも私は聞いていたのだが、今回再び聞いてみて、若い時に肺を患った、と語っていたのがあらためて印象に残る。 まるで肺が原因で亡くなる予告をご本人がしているかのようだった。

 さて件の深夜便の歌であるが、弦哲也サンが作詞作曲した、「おもいでの岬」。 夫を亡くした老いた妻が、以前夫と一緒に来た海辺のホテルまでひとり旅をするという内容で、やはり数年前?に夫を亡くしていたペギー葉山サンが歌うにはぴったりな曲だと思っていた。 いたずらに感傷的ではなく、亡き夫との甘い思い出の中に遊ぶ様子が歌われていて、とてもいい曲だと思っていた。

 このおふたりのお声を聞いていて、人は患っていようが元気でいようが、死というものは誰にでも平等にやってくるものなのだな、と感じる。 死は向こうからやってくる。 死は自らの中で育っていく。 いずれにしても、人は死から逃れることはできない。 逃れられないのなら、自ら向かう必要もなかろう。 勝手に向こうから、やってくるのだから。 自分の中で育っているのだから。

 ペギー葉山サンも、船村徹サンも、若い人にとってはピンとこないであろう。 いくら超有名でも、世代が交代すると誰も知らなくなる。 私たちはそれぞれが、自分の生きた時代のヒーロー、ヒロインたちに勇気づけられながら、同世代の記憶を共有し懐かしく共感するのみなのである。

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2017年4月23日 (日)

2017年春ドラマ②(「小さな巨人」「貴族探偵」「あなたのことはそれほど」)

 TBS日曜21時 「小さな巨人」。

 巷で言われるようにテイストが 「半沢直樹」 警察版なのだが、このドラマで半沢のキャラ概念を受け継いでいる主人公、長谷川博己が第1回目ではいったん権力側におもねりそうになるなど、「揺らぎ」 を感じさせるところが面白かった。 ただこれに懲りて、長谷川はもう第2回以降は揺らがないことだろう。 揺らいだら面白いのだが。
 ただまあ揺らがんでも、演出が大袈裟なことで、このような対決構図のドラマは格段に面白くなる。 昔からある時代劇の勧善懲悪の遺伝子を現代に受け継いでいる、ということになるが、ときにはその現代的な解釈も必要だ。 つまり 「度を越し過ぎて滑稽になる」、という側面とか。

 こうしたドラマにおいて敵役が重要なのは言うまでもない。

 NHKの今年の大河ドラマ 「おんな城主 政虎」 において高橋一生が演じる但馬などは 「実は政虎の盾になろうとしているのでは」、という可能性を残すことで敵役としてのリアルを試そうとしている。 だがこの 「小さな巨人」 に関しては、敵役の香川照之はリアルを最初から排除しようとしている点で但馬とは根本的に違う。 香川は 「半沢」 での役をそのまま移植したようでワンパターンの誹りも受けかねない役に徹しているが、それは香川、いや市川中車にとって 「歌舞伎的な様式美」 なのだ。 ここで 「度を越した滑稽」 というレベルまで見せてくれることを期待する。
 長谷川は理知的な役が多い気がするが、ここではかなり熱い男を演じている。 饒舌という点では 「デート」 を思い出させるが、饒舌なことによりコミカルを表現していた高等遊民とはまったく別で、推理力・判断力の鋭さを見る側に強烈に印象づけさせる。 長谷川はやはりタダ者ではない。

 いっぽう私がこのドラマでいちばんいいなと思えたのが、所轄の足の裏臭い刑事を演じた安田顕だ。

 この人、演技力は確かなのだが何か出てくると構えてしまうところがあって、どうも苦手だなと思ってきた。 なんか油断ならないヤバい感じ、とでも言ったらいいのか。
 だが今回のこのドラマでは足の裏は臭いが情にもろく頑固で熱血なところを演じており、裏と表があり過ぎる出演者陣のなかでいちばん信用が置けそうな人物なのだ。 こういうポジションは得だ。 その直情的な部分で主人公の長谷川を引っ張っていってほしい気がする。

 いずれにせよここまで見た中では、この春ドラマではもっとも面白いドラマ、といえよう。 「小さな巨人」 とは誰のことなのかは気になる。 長谷川サン大きいし(笑)。

 フジテレビ月9、「貴族探偵」。

 フジテレビの月9が30周年で総力をかけて作った触れ込みだったが、現在凋落傾向のフジテレビの悪いところが顕著に出てしまった感がある。
 まずキャスティングがまずい(前回の記事でも同じことを書いたが)。
 キャスティングがまずいということは、制作サイドがひとつにまとまっていない、ということの表れなのではないか。
 少し極端な物言いをするが、私は昔からフジテレビは、どこか視聴者を見くびったような空気が社内にあるのではないか、と感じてきた。 自分たちが上で視聴者が下みたいな。
 それはフジテレビが 「楽しくなければテレビじゃない」 を合言葉に隆盛を誇ったときから感じてきたことだが(「みなさまのフジテレビ」 の時代にはそうしたことはまったくなかった)、あまりに楽しさを追求するあまりに会社全体がお祭りムードとなり、ものごとの本質を考えようとする芽を踏みつぶしてきた結果なのではないか、と考えている。

 今回のドラマでは、「主役の探偵が推理をしない」、という大きな特徴がある。 その主役は貴族で、肝心の推理はそのお付きの者たちが行なう、といった構図だ。 要するに相関図におけるドーナツ現象を起こしているわけだが、ここで主役にはそれなりの人を配置させないと、文字通りまったくドーナツ現象になってしまって主役が埋没する危険性がかなり増す。

 なのにフジテレビは、その主役に嵐の相葉クンを選んだ。 これは制作サイドがいま述べた危険性をまったく意識できずにいるか、それを逆手に取ろうと考えているのか、もしくは相葉クン以外になり手がいなかったのかのどれかだろう。 お付きの者たちに松重豊、滝藤賢一、中山美穂と豪華な面々が次々登場し、最後に相葉クンが登場したときのなんともいえないガッカリ感(笑)。 逆に考えるとすごいな、と思ったが(笑)。 狙ってるのかな(笑)。
 別に相葉クンをけなすわけじゃないが、フジテレビがネットにおける相葉ディスり自体を期待しているような気さえする。 ディスりも話題のひとつだみたいな。 ジャニーズだしみたいな。 このゴーマン見下し発想がフジテレビなんだな。 相葉クンには相葉クンを生かす場というものがある。 それをフジテレビは踏み違えているにすぎないのだ。

 また、生瀬サンが滑りまくりのオッサンギャグを武器とした刑事役で出てくるが、これももうギリギリで許せる範囲、という感覚で見ていてとても危険だと感じる(笑)。 生瀬サンでなければ許せなかっただろう(笑)。 いや、私は許せたが許せない人は多いはずだ(笑)。

 こういう面白がり方をしている時点でフジテレビの術中にかかっている気もするが(笑)、こういう面白がり方をされてフジテレビは満足なのだろうか? 月9の30周年の墓標にでもしたいのか?

 いずれにしても相葉クンは、たぶんいい人なのだろう。 その彼が最後に探偵の武井咲チャンに車の中から投げかけたシリアス顔に、ちょっとドキッとした、気もしたが、そのドキッに期待して次回も見ることにしよう。
 言い忘れたが、武井咲チャンは彼女なりに演技が向上していると思う。 もうけっして大根ではないぞ。

 TBS火曜22時 「あなたのことはそれほど」。

 うーん、どうなのか。 なんの前情報もなく見た感じだったが、「3ヶ月後」「半年後」 と時間が目まぐるしく過ぎるのと同様に、「えっ? 『あなたをずっと好きだった』 タイプのドラマ?」「えっ、不倫しちゃうの?」 とその展開に戸惑った。
 要するに不倫をしちゃうタイプの女の子って、もともと王子様願望が強くて、ぼーっとそれなりに決断をして生きてきて、っていうことが言いたかったのかな、とか。
 主人公の波瑠は初恋の男の子をかなり引きずっていて、結婚してしまったあとで街で偶然その男の子と再会してしまうのだが、再会したその日にラブホテルに入ってしまうんだな。
 その時点で共感を得られない主人公であることは明白だが、初恋の男の子への思い入れが強過ぎた、ということがこの共感を得にくい行動の裏にあるのは見て取れたし、それにそれまでの主人公の生き方自体が、ただなんとなく流されていた、ということもきちんと描かれていたように思う。
 占いに頼るタイプというのも大きい気がする。 つまり不倫という大それたことをするには、それなりに普通の人の感覚と少しずつずれた 「その人自体の性格、人格形成の原因」、というものがあるのだ。 波瑠がフツーの顔をしている主人公だと思ったら大間違い、というか。 でも本人にはその自覚はない。

 波瑠の夫役の東出昌大クンはなんか先に述べた 「ずっとあなたが好きだった」 の冬彦さんタイプに成長しそうな感覚で、この先の修羅場は必至。 ドロドロなのは好きじゃないから展開次第ではリタイアするけれど、冬彦さんみたいに滑稽レベルに達すると視聴可能かもしれない(笑)。

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2017年4月16日 (日)

2017年春ドラマ①(「CRISIS」「人は見た目が100パーセント」「ボク、運命の人です。」)

 まずふたつの週帯ドラマであるが、NHK朝ドラ 「ひょっこ」 に関してはまだ第1週目と2週目の途中までの視聴なのでトータルな批評が出来ない状態。 第1週目まで見た感想では、ノスタルジアを重視した作りで特段の野心が見当たらないと感じたが、第2週ではこの盤石な家庭円満の状態から父親が失踪するという予告でそれがちょっと気になっている。 テレ朝の 「やすらぎの郷」 もまだ第1週目までの視聴。 独立した記事で書きたい気もするが、今のところ感じているのは、老脚本家が考えた寓話のなかで、テレビに対して言いたいことをぶちまけている印象。 倉本サンの過去の作品には、メディアに対する痛烈な批判が込められたドラマ(「ガラスの知恵の輪」 という題だったと思う)や 「歸國」 という、この国に対する未来を憂えたものがあったが、その精神が生きていると感じている。 ただ全体としてはコメディタッチ。 気楽に見ることのできる作風だと思える。

 とりあえず個人的好みで食指の動くすべてのドラマを予約録画していたが、今のところきちんと第1回の最後まで見たのは表題の3作のみ。 「孤独のグルメ」 は別格で第2回まで見ているが安定した作りで特に感想がない(笑)。 「特に」 感想がないというのがこのドラマの優れた部分でしょう。 ものを食べるときに感じることを最大限に引き延ばし面白く見せることで、見る者を惹きつけ続ける特殊なタイプのドラマだ。

 まずフジテレビのふたつのドラマ。 ふたつのドラマに共通した感想は、「なんか、全体的な熱意が今イチヌルい」。 フジテレビに関しては 「凋落している」、という印象をこのところ抱いているせいか、さまざまな部分でどこかやっつけみたいな質感がついてまわっている。
 「CRISIS公安機動捜査隊特捜班」。 題名がクド過ぎる(笑)。 題名の通り、結局何をやる部署なのかすごく漠然としていて、「はみだし者たちを寄せ集めて、危険な案件の処理には適しているが、なにかあったらすぐ切れるトカゲのしっぽみたいな部署」、という感覚だ。
 新幹線を河川の高架橋で止めてそこから犯人と一緒に川にダイブとか、マンションの4、5階あたりから飛び降りたりとか、第1回目に見合うだけの派手なアクションも用意された。 メインである有力政治家のバカ息子に向けたテロ攻撃とかその背後に動く巨大そうな組織犯罪とか、その後の展開に必要なフロシキも広げまくっていた。
 しかし、なにか見終わった後 「どうも次を見たくてワクワクしてこない」。 そして、「感じたことを書きたい気になってこない」。
 キャスティングもそれなりに豪華で、西島秀俊や小栗旬、田中哲司や長塚京三と実力派が揃っているのだが、なにかケミストリを感じないのだ。 俳優たちもやるべきことはやっている。 100パーセントの力を出していると思う。 しかしその融合から生まれるプラスアルファが感じられない。 なにか予測不能な火花が期待できない。
 こうなると作品の良し悪しがこのドラマを存続させるカギとなる気がするのだが、どうも巨悪、という時点で既視感がつきまとう。

 「人は見た目が100パーセント」。 レディスコミック原作のドラマというのはこのところトレンドという気もするが、「逃げ恥」(TBS)「タラレバ娘」(日テレ) と比較してしまうと、フジテレビの料理の方法がとてもまずい印象を受ける。
 まずキャスティングがまずい。 そしてコミック原作のいわゆる 「マンガ的」 な部分をなかば、「こんなもんでしょ」 的に見下して演出している点がまずい。 「タラレバ」 においてはCGで登場する 「タラ」 と 「レバ」 がその手の落とし穴に落ちそうな部分だったのだが、このふたつのCGキャラに対して 「こいつらは主人公たちにダメ出ししている 『実は味方』 なのか、それとも主人公たちの晩婚傾向を助長する 『実は敵』 なのか」、見ながらそれを考えさせるブラックボックス的な楽しみがあった。 なかでも最初主人公の吉高にしか見えなかったのが、そのうちに榮倉や大島にも見えるようになったという展開が秀逸だった気がする。
 ほかにも主人公たちに大ダライが落ちてきたりとかコミック的な展開も頻繁にインサートされていたのに、それが不自然ではなかった。
 なのにこの 「人は見た目」 は、同じような演出をしているのにそれがとても不自然なのだ。
 たとえば主人公の桐谷美玲が飲んでいたものをブーッと吹き出すシーン。 このドラマでは主人公の女の子が極度に暗く内向的な性格なため、「そんな子がこんなことはしないだろう」 というように見えてしまうのだ。 つまりコミカルが成立しない。
 そもそも桐谷美玲チャン、どんなに地味にしてもカワイイじゃん。 そんな子がいまさら化粧で自分をきれいに見せようったって、「する必要なし」。 だったら最初はもっとブスメイクをすべきだ(笑)。
 だいたい 「見た目をきれいにする」 という時点で、このドラマの目的自体がとても陳腐なものに見えて仕方ない。 結論は 「人は内面が最後にはモノを言う」 みたいになるのかもしれないが、今のところはドラマのスポンサーである女性ファッション誌とコラボしたドラマにしか見えない。
 それと、ブルゾンちえみという人を私はこのドラマで初めて見たのだが(噂では知ってたが)、話題の人をドラマに出すという時点でフジテレビの浅さがまた垣間見えてしまう。 演技はまあまあだけどこういう人が見た目を変えようと努力するのは説得力がある。 ただこの人が目的で来週も見ようという気にはならない。 「ダーティ・ワーク」 にならなければよいが。
 いずれにしてもどうも最近のフジテレビのドラマは、見ていてヘンな違和感を抱くことが多い。 「シェフ三つ星の給食」 くらいだったな、素直に面白かったのは。

 日テレ 「ボク、運命の人です。」。
 最初の数分で 「あ~こういうノリのドラマって苦痛だ」 と思っていたのだが、神様と自らを名乗る山Pが出てきてからドラマが渦を巻き始める。
 「お前とお前の妻となる女との間に生まれた子供が、30年後に地球に衝突する惑星の軌道を変える発明をする運命にあるから、お前は絶対その女と結ばれなきゃならない」 ということから、主人公の亀梨和也は木村文乃に不器用なアプローチを始めるのだが、そこから見る側はいろんなことを感じ始める作りになっている、と言える。
 亀梨はその不器用から木村文乃に却って怪しまれ拒絶されていくのだが、その結果神に対して 「別の方法考えたらいいでしょ」 とか 「地球なんか滅んだら滅んだで仕方ないでしょ」 とかいろんな不満をぶちまける。 それがリアルで彼の一生懸命が伝わってくる作りになっているのだ。

 ただ私の出した結論としては、「山Pは木村文乃のほうにも姿を見せて事情を明かすべきだ」 ということに落ち着くのだが(笑)、このオチャラケた神はどうしてそのことをしないのか。
 そうすると、ふたりとも自分の意志とは関係なく、運命という空っぽな動機でしか結びつかなくなる。 それはふたりにとって不幸なことだ、と神は考えているのではないか。 そして気になるのが、ライバルとして登場する男のことだ。 木村には、そっちを振り切って亀梨と生きる、という決意というものが必要だ、と神は考えているのかもしれない。

 こういうことを見る側に考えさせる度量というものがドラマにあるかどうか。 それってとても重要な気がする。
 それにしても皮肉だなーと思ったのは、コマーシャルでTOKIOがスズキのクルマのやってたけど、アレ最初カトゥーンがやってたんだよな~(ハハ)。 亀梨クンガンバレ。

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2017年4月 2日 (日)

2017年春ドラマ、とりあえず何見るか

 今年の春に私などの世代がいちばん注目するのは、「北の国から」 の倉本聰サンが月-金の連続ドラマを書いた、ということだろう。 「やすらぎの郷」、テレビ朝日のお昼12時30分から20分。 なかでも昔ご夫婦だった石坂浩二サンと浅丘ルリ子サンが共演、というのにはそそられる。 ほかにも八千草薫サン、有馬稲子サン、加賀まりこサンなど、なんじゃソリャというくらいの大物俳優たちが目白押し。 倉本聰サンの作る話だから結構世の中にはキツイ警鐘も混じるだろうが、そのことも含めて注目せざるを得ない。 明日(4月3日)から。

 同じ日に始まるNHKの朝ドラもチェック。 「ひよっこ」、「ちゅらさん」「おひさま」 と朝ドラを複数手掛けてきた岡田惠和氏の脚本。 有村架純が 「あまちゃん」 での脇役から主役、というのも注目だが、内容が今のところインパクトに欠けるような。 このところ実在のモデルとかが存在していたものが多かったから、そう感じるのだろう。 それに岡田サンの話って結構当たり外れがあるから。 まあ 「ぺっぴんさん」 よりはマシなんじゃないか。 ビートルズファンからしてみたらレリビーとかヤメチクリ~という感じだった(笑)。

 あとは地方局ではやるかやらないか、という感じだが、「孤独のグルメ」 の最新シリーズもチェック。 これは毎回見てるので。 4月7日24時12分から。 同じテレ東では 「釣りバカ日誌」 のシーズン2も要チェックですな。 こちらは4月21日金曜夜8時から。

 それからフジテレビの月9、この枠のドラマ30周年ということで気合が入ってるみたいだ。 「貴族探偵」、4月17日スタート。 主演は相葉雅紀クン、ん~まあ、…いいけど(笑)。 脇役が生瀬サンとか滝藤サンとか松重サンとか、それと中山美穂ってのがすごいな。 30周年の気合いを見させてもらいたい感じ。

 TBS日曜劇場は 「小さな巨人」。 あまり食指が動かない警察モノだけどいいでしょう。 長谷川博巳サンが出るので。

 そのほかはまあ、とりあえず全部チェックはしたいんだけど、たぶんこれは見ないだろうな~というのは、日テレ水曜22時 「母になる」(笑)。 役者が見たいと思わせない(笑)。

 この春ドラマ、ドラマの題名を見てるだけで 「なんか面白そうだな」、というのが多い気がします。 「恋がヘタでも生きてます」 とか、「人は見た目が100パーセント」 とか(笑えるな)、「あなたのことはそれほど」 とか。 なんかマンガのタイトルっぽいけどそうなんだろう。 でも肝心なのは中身ですから。

 気合いに期待、とか言いながら、気合の入ってない記事でスミマセン(笑)。

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2017年冬ドラマ、「続」 私の見た範囲で、最終回まで見て

 前々号で、「以下次号」 などと銘打っておきながら結局 「今クール最終回まで見た総括」 みたいになってしまったことをまずお詫びします。 出来ないことは予告するもんじゃない。 反省。

 まず前回の記事で言及していた 「A LIFE」 について。

 結局のところこのドラマの本質は木村クンと浅野サンの友情だったように感じた。 だから竹内結子サンとの三角関係は主眼ではなく、木村クンがスーパードクターであることはただの前提だった。
 他人との付き合いの中で、「自分のことを誰も分かってくれない」、という子供じみたこだわりを、人はどうやって克服していくのだろう。 それはただ相手のことを一生懸命考えて前を見据え、進んでいくことでしか解決しない。 このドラマのテーマはそこに存在していたように思える。
 なかでも物語を引っ張っていったのは、結果的に見て浅野サンだったのではなかろうか。 「100点以外は意味がない」 と父親に言われたことで生じた心の傷が、彼が医師として成功し権力を身につけていくに従って孤独、嫉妬、恨みとして肥大化し、しまいにはおかしな破壊衝動という方向へとつながっていく。

 ところが彼が嫉妬を抱いていた木村クンのほうも、寿司職人である親父からいつまでも半人前扱いされていた。 つまり木村クンも浅野サンも、父親という壁を乗り越える試練を抱えていた、と言える。 その舞台となった檀上総合病院が、柄本明サンの父親と竹内結子サンの娘という 「父と子」 関係だったことも注目に値する。 このドラマの主役3人に、明確な母親設定というものは存在しなかった。 このドラマはあくまで、「父親を乗り越えること」 がベースとなり、木村クンと浅野サンの友情問題として展開していたのだ。

 父親という壁が存在していたからこそ、木村クンはその当のオヤジの手術でスーパードクターにあるまじきミスをする。 それは致命的なものではなかったが、そこから木村クンは精神的に落ち込み、自分の思い上がりを学んでいく。 父親は、自らを見つめ直す鏡でもあったのだ。 丁々発止を演じる彼とオヤジサンとのやり取りを思い返してみよう。 まるでそれは、同じ人格のふたりが互いにダメ出しをしている鏡のようなものであったことに気付くはずだ。

 このドラマは木村クンと浅野サンのふたりがどちらも優秀な外科医であったことで、巨大病院という枠組みの中で周囲をひたすら巻き込んだ怪獣映画さながらの様相を呈した。 平たく言えば 「よくもまあエラソーに自分たちの都合で自分たちの立場をいいことに好き勝手出来るよな」、という構図なのだが、そんな葛藤を巨大化出来るからこそドラマの意味というものはあるのだ。

 このドラマの唯一の救いは、木村クンと浅野サンが幼なじみで気心の知れた仲だった、ということに尽きる。 だから物語が一方的に救いようがなくなるくらい破壊されない。 そしてそこに解決の糸口がぶら下がっていただけなのだ。

 このドラマはメインである竹内結子サンの脳腫瘍摘出手術と並行して、ほぼ毎回いろんな症例の患者を登場させたのだが、それに対するスーパードクター木村クンのあり方というのはドラマをつまらなくさせると同時に、別に心配しないで見てられる、という両方の効果を伴っていたように思う。
 そのいちばんの例が、13才くらいの少女に対して木村クンが乳がんの検査もした方がいい、と主張した回。 「木村クンが言うからいくら婦人科エキスパートの財前サンがあり得ないとつっぱねても乳がんなんだろう」 と思っちゃう構図だった。 こういうのは木村クンをあまりに万能にし過ぎてドラマをつまらなくする、という批判を招くパターンのひとつであるのだが、逆に言うと安心して見てられるんだな。
 却ってそのプロット(乳がん)が、「竹内サンの腫瘍摘出手術の方法を考え続ける木村クン」、という図式を冗漫にさせたような気もする。 「いつまで考えてんの」 みたいな。

 その、途中の冗漫さも最終回、二大怪獣であった木村クンと浅野サンの激突から協力へ、という形で竹内サンの脳腫瘍摘出手術というさらなる巨大な怪獣の退治、というカタルシスまで至ったことは見事だった気がする。
 そう、このドラマって、なんか構造が 「ウルトラ兄弟銀河決戦」 みたいな劇場版ウルトラマン映画みたいな感じなんだよな(笑)。
 竹内サンの2回目の手術では、檀上病院乗っ取りの責めで副院長の座を追われた浅野サンが、木村クンの叱咤のすえ参戦した感動的なシチュエーションだったが、以前政界の大物の難しい手術をしたときより一層、浅野サンの演技にリアルを感じた。 このリアルさ、木村クンもかなり専門用語を完璧にこなしていたけどそれ以上の貫録を感じた。
 前回触れたのだが、「こういう木村アゲのドラマにどうして浅野が出演する気になったのだろう」 という答えが、ここにあった気がする。
 そしてこれも父親との確執でもがいていた松山ケンイチクンの 「このふたり、最強じゃん」 みたいなセリフ(正確なところは忘れた…笑)で、場面を決定的に盛り上げるのである。 このドラマに松山クンが出てる意味というのは、この一言に集約されていたようにも思う。

 結局木村クンは浅野サンと竹内サンの夫婦の絆をかたく踏みしめ盤石にさせるための駒だったのかよ、という構造なのだが、だからこそいいんじゃないか、と思う。 そうした視点で見れば、このドラマはけっして安易な 「木村アゲ」 のドラマではなかった、といえよう。

 そしてこの 「A LIFE」 のウラで放送していたのがフジ 「大貧乏」

 このドラマはシングルマザーの小雪サンが会社倒産の憂き目に遭ってチョー貧乏になってしまうという話だったのであるが、正直言ってこのタイトルは 「看板に偽りあり」 の典型だった。
 貧乏だからおかずがないとか服がツンツルテンとか 「貧乏あるある話」 というのがかなり貧弱で 「この家族、どこが貧乏なんだよ?」 と思うことが多かったのだ。
 要するに、小雪という女優は顔がゴージャス過ぎてビンボー話とかなり相性が悪いのだ(笑)。 それに思慮深そうに見えるし知的そうに見えるので、貧乏にへこむとかいう側面がまったくなく、小雪をメインで見ているとまったくつまらんドラマと言えたんじゃなかろうか。
 視聴率的にも 「大貧乏」 ならぬ 「大惨敗」 で、このドラマを見ていた人はかなり限られる、と思われるがレビューしたい。

 「大貧乏」 という看板でありながらしかし、このドラマの本当のツボはこの知的そうで貧乏が全然こたえてないように見えるナマイキな小雪(笑)に、高校時代から惚れまくっていたというチビノリダー(伊藤淳史クン)だった(笑)。
 このカップル、想像していただくと分かるがかなり身長差がキツイ(小雪は大女だし伊藤クンは背があまりないほうだし)。 だからまったく釣り合わない。
 しかし伊藤クンには 「超一流の企業弁護士」 という肩書きがつく。 このオールマイティな肩書がドラマにとって大きな強みとなったのだ。

 このドラマが描こうとしたのは、先にも述べたように 「大貧乏」 ではまったくなく、小雪が首になった人材派遣会社の底知れぬ闇を暴いていく、ということに主眼が置かれていた。 だから企業弁護士という肩書が強大な力を発揮するのだ。
 伊藤クンはなんとかこの強大な肩書にモノ言わそうと小雪サンに稚拙なアプローチを続けるのであるが、ドラマが終了するまで知的でナマイキな小雪はほぼなびかない(可能性は、ないわけじゃない程度な…笑)。 その構図が、見ていて楽しかった。

 そしてこのドラマを面白くしたもうひとつの原因が、「強力な悪役の存在」 だった。
 小雪が勤めていた人材派遣会社の社長である奥田瑛二。
 そして会社の金を横領していた滝藤賢一。
 このふたりの悪役が、「タイトル変えたほうがい~よ」 的な 「迷走フジテレビ」 を象徴するようなドラマをピシッと締めた。
 滝藤サンはワケの分からないヌエ的な不気味さ。 そして奥田サン。 いや~、憎々しくて怖くて。 なんかもう後半に行けばいくほど自由にやらせてもらってる感覚で、強烈な印象を残す悪役だった。 「シャイニング」 のジャック・ニコルソンばり。

 このふたりの悪役が大人の世界を象徴しているのに対して、伊藤クンは 「一流」 という形容詞がつくものの、実は少年の頃の純粋さを象徴している存在でもある。 この3人がいたことで、このドラマは最後まで見応えのあるせめぎ合いのドラマになったと言っていい。 「主役はあくまでツマ」、という立ち位置からすると、「A LIFE」 と妙な共通点があったように感じる。

 そして日テレ土曜の 「スーパーサラリーマン佐江内氏」

 出来のいい回と悪い回があったような気もするが、最後まで脱力感満載で気楽に見ることができた。
 ただ最終回はそれなりに作り手の主張、と言えば聞こえはいいが 「そんなに主張!みたいなオーゲサなもんじゃないけど」「そーゆーの拒絶してるんだけど」 的な問題提起みたいなものは垣間見られたような気がする。
 これは演出の福田雄一氏の前回作、「勇者ヨシヒコ」 の最終回でも感じたのだが、基本フマジメながら、ちょっとシリアスなメッセージをしのばせる、というか。

 「勇者ヨシヒコ」 の最終回では、「ゲームに限らずいろんな物語に 『終わらせ方』 というものが存在して、作り手はそれを四苦八苦して考え出すけど、それってもういい加減に飽和状態に近付いているんじゃないだろうか」、というメッセージを感じた。 だいたいみんな最終回、どんなふうに終わったかなんていつまでも覚えてね~し、みたいな。

 「佐江内氏」 の最終回、佐江内氏はスーパースーツを完全にオジサンにきっぱりと返還してしまうのだが、そこで 「会社からも家庭からも自由になりたい」 などと言ったもんだから次の日から完全にそうなっちゃったみたいな展開で、結局はまたスーパーサラリーマンに戻っていく。
 ここから感じたのは、「結局社会に対する責任って、自分が自分であるための外せない要素なのでは」、というものだった。
 責任というものを放棄した瞬間、人というのは 「恐ろしいほど」 自分という存在を消せるものだ。 まったく何者でもなくなってしまう。 自分がいなくなったことで、一時的に困る人間は出てくる。 でもすぐさま、自分の代わりなど見つかってしまうのだ。
 結局、自分は自分であるために、日々愚痴りながらでも小さな努力を積み重ねていくしかない。 そんなメッセージが、説教臭くなく受け入れられた気がした。 この絶妙な後味は、芸達者な堤真一だからこそ実現できたのではないか。

 そしてTBS金曜22時の 「下剋上受験」

 阿部サダヲと深田恭子、そして父親の小林薫と、身内が3人とも中卒、という特殊な家系の中で娘を有名私立中学に入れようと奮闘する実話に基づいたドラマだったが、このドラマでいちばん作り手の視線が注がれたのは 「有名私立中学への入り方」 指南ではなく、主役の阿部サダヲ演じる父親、さらにその父親の小林薫の生きざまに対してだったように思う。 だから娘の佳織の偏差値が40から60に上がる、という、物語としてはいちばん肝と思われる部分がバッサリと切られ、佳織はスランプ状態からかなりのジャンプアップを果たしたのだが、まあそれは原作本を読んでください、という戦略だったのかもしれない。

 ただドラマ化に当たって、主人公の中卒仲間の居酒屋とか、主人公が物語途中まで勤めていた会社の 「学歴のいい」 後輩とか、同級生だったガリ勉で娘同士も同級生の会社社長とか、まわりをにぎやかにしてしまったおかげで途中から阿部サダヲのキャラが埋没してしまったような印象も受けた。
 やはり阿部サダヲはそのキャラが立つかどうかで、ドラマ自体の出来も左右する先鋭的なタイプの役者なのだ。

 阿部サダヲのキャラを丸くしてしまったもうひとつの原因は、深田恭子だ。 ただし悪い意味ではない。
 このドラマを見ていてかなり興味深かったのがこの深キョンで、去年の 「ダメな私に恋してください」 の前面に出てくるキャラ(そりゃ主役だったし)からかなり後ろに引っ込んだキャラに変わっていて、こういう立ち位置の場合この女優はどのような演技をするのか、というのが面白かった。
 立ち位置に変化はあれ、「おバカ」 ということにかわりはなかったのだが(笑)この中卒の奥さん、妻として母親として実によく出来ていて頭脳明晰。 さらにどんなにハチャメチャなシチュエーションになってもけっして悲観したり絶望したりせず、いつもおっとり構えて痛みを緩衝してしまうスポンジのような役割も果たす。 こんなに人畜無害なのにきちんと存在感を示せていたのは驚異的だった。
 しかしいっぽうで、こういう出来た嫁だから阿部サダヲのエッジが削られてしまうんだな。 嫁がフツーに阿部サダヲみたいな無茶をする人間に呆れたりキツクたしなめたりすれば、阿部サダヲのエキセントリックさは鋭さを増すのだ。

 さらにこのドラマ、娘の佳織の学校で交友関係においてほとんどネガティヴな展開にならなかったところが、ドラマを平凡に人情味のある方向へと傾かせる一因ともなった。
 佳織もかなりいい子で、親の方針にほぼ逆らわない。 よく出来た嫁のDNAを引き継いでいたとも言えるが、もともとこの子は親に対して絶大な信頼を置いているのだ。 この親子の距離感の近さが、このドラマを見ていて感じる心地よさにつながっていた。 それが見ようによっては退屈ともとれたかもしれないが。 こういう素直な娘、というのはいいじゃないですか。

 そして最後に論じるのは、日テレ水曜22時 「東京タラレバ娘」

 結論を言ってしまうと、私が見たこの冬ドラマの中では、まあ全体的に低調な印象ではあったが、結局これがいちばん出来が良かった気がする。

 主演の吉高由里子は朝ドラ 「花子とアン」 以来久々の連ドラ主演だったと思うが、「朝ドラ女優」 が出演を決断するにはじゅうぶんな 「格」 が備わっていた、と思う。
 その 「格」 を決定づけたのは、主人公を含む3人の女友達の 「アラサーを迎えて結婚に焦る女たちの本音」 が、これまでの同種のドラマと比較してかなりリアルだったことによる。
 このドラマでは 「あるある話」 の羅列にとどまらず、そこに彼女たちの自虐、反省とそれに伴う人生そのものに対する深い思索が読み取れた。 そこがこれまでの同系列のドラマと違うところだった。

 ただし物語の内容そのものを考えると 「都合のいい展開」 が多かった。 特に最終的に吉高が落ち着くKEYが、かなり頻繁に吉高の前に姿を現すのだ(笑)。 それはもうストーカーかみたいなレベルで(笑)。
 それと、吉高の飲み仲間である榮倉奈々、大島優子の相手の男がクソ過ぎた(失礼)。
 榮倉の相手はバンドマンで榮倉は二番手の女。 「どっちも好きだ」 とかかなり無神経にのたまうアホで(笑)そういう 「少年のような」 アホと離れられない榮倉は、自分のアホさ加減にじゅうぶん気付きながら関係を続けている。
 大島の相手は不倫男の田中圭。 コイツも女房が妊娠中なのにほかの女にうつつを抜かすというかなりのバカチンで、こちらも大島は不倫のもたらす代償に傷つきながら関係を続ける。

 吉高は吉高で、冷静に見てりゃ仕事のパートナーである西郷どん、じゃない早坂がいちばん適当なのにグダグダ考えて結局KEYになびいてしまう。
 この3人の女どもは愚かな結論だとじゅうぶん自覚しながら、自分が幸せだと感じりゃそれでいーのだ、幸せはいつも自分の心が決めるとか、相田みつをみたいな結論でドラマは終わるのだが(笑)、「肥大化した自分の人生に他人が入りこむ隙がない」、という現実と、「誰か好きな相手がいないとさびしい」 という生理的な問題をいっしょくたに処理して解決しようという彼女たちの姿勢自体に無理がある、と私などは思ってしまう。

 つまり結婚なんてものは相手のどこが気に食わぬとかここが合わないとかと考え出したらけっして出来るものではない、ということだ。 肝心なのは、ここが違う、あそこも合わない、だけどそれも受け入れられる、という心の余裕なのではないか。

 しかしこのドラマが秀逸だと思われるのは、愚かなことをきちんとあぶり出していたところだ。
 私(たち)はドラマの中の登場人物に 「そうじゃないだろ」「なんでそうするのかねイミフ」 とかダメ出しをしながら、実は自分の人生さえも、そんな間違った決断だらけなのだ、ということに気付く。 私(たち)は自分のやっている間違いに気付きながら、それでもやめることができない。 もしくは行動に移せない。 彼女たちのモノローグが正鵠を射ているからこそ、見ている側はそこに気付かされるのだ。

 だが、私(たち)は、「間違った決断」 がけっして自分の人生にとって 「悪かったこと」 とは考えないようにしようとする。
 それも自分の人生なのだ。
 いちばんいい方法なんてけっして選べないかもしれない、けれども一歩踏み出したらそれが正しいと信じて歩き続けるしかないのだ。 どうしても我慢ならないのであれば仕方ない。 それも自分の人生なのだ。

 と、このドラマを見てそこまで考えるのはアレかと思うが(笑)、彼女たちの思索が深かったからそこまで考えさせられた、と言ってもいい。 その意味で冬ドラマの中ではいちばんよかったかな、と思えるのだ。

 以上、私の見た範囲での冬ドラマの感想でした。

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