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2017年9月

2017年9月17日 (日)

「やすらぎの郷」 世俗と分別の境界線

 「名匠」 倉本聰が老人たちをテーマにした月-金、週5回で2クール、つまり半年のドラマを作る。
 そのことを聞いて最初に私が考えたのは、「老境を生きている自らの遺言をこの世に残そうとしている」、ということだった。 「北の国から」 の最終回で黒板五郎は遺言を書いたが、今度はテレビ界で生きてきた倉本聰、という一脚本家として、ひとりの老人として、未来の世代やテレビ界に対して一言物申そうとしている。 傾向としては数年前単発で放送された 「歸國」 で、太平洋戦争の英霊たちに現在の日本を嘆かせたのと同類だろうか。

 もともとこの企画は倉本氏個人によってフジテレビに持ち込まれたものだったらしい。 先に挙げた代表作 「北の国から」 をはじめ、「6羽のかもめ」「ライスカレー」「昨日、悲別で」「優しい時間」「風のガーデン」 など、印象的な作品を提供してきたフジテレビへの信頼、という部分もあったであろう。
 だが会社始まって以来の迷走のさなかで柔軟性に著しく欠いているフジテレビが、この企画を受け入れるはずもない。 結局この企画は 「相棒」「ドクターX」 など近年ドラマ部門が好調なテレビ朝日の度量によって実現された。

 ただ、今年4月から現実にスタートしたそのドラマを一瞥したとき、「フジテレビがなぜこのドラマを蹴ったのか」、というのは少し理解できる気がした。
 まず、キャスティングがべらぼうに予算を食いそうな点。 私より上の年代から見た場合、その顔触れを聞いただけで卒倒しそうなオールスターぶりなのだ。 しかも倉本氏はアテ書き(この役にはこの人、というイメージで脚本が書かれている、ということ)によってこの物語を構成しているから、ギャラが安そうなふつうの役者ではおそらく務まらない。

 主役に石坂浩二。
 八千草薫、有馬稲子、野際陽子、浅丘ルリ子、加賀まりこ…。

 ふつうのドラマなら、クレジットのオーラスにひとり出てくればじゅうぶんな大物ばかりである。

 そして肝心の内容であるが、これが 「やすらぎ」 とは対極にあるような、物欲、性欲、名声欲など、ありとあらゆる欲にまみれた俗物老人の描写が延々と続くのだ。 冒険を怖がっているようなテレビマンは絶対に手を出さない 「危険物ドラマ」。

 そもそも主人公をはじめ登場人物たちは、実によくタバコを吸う。 これはヘビースモーカーである倉本氏の主張であることは明白だが、まずこれが 「タバコ嫌い」 の昨今の傾向に対する大いなる挑発だ。

 そして主人公をはじめ、老いた登場人物のほとんどが 「身勝手」 というワードで括られる。
 このドラマの舞台は 「かつて一世を風靡しテレビ界に多大なる貢献をした老人たちを住まわせるホーム」 というものであるから、彼らは一様に 「地位も名誉もカネもある」 老人たちだ(一部除くが)。 そういう立場で自分たちの価値観が動いているから、どうしても自分の悪いところは棚に置いてものごとの良し悪しを論じることになる。
 特に 「主人公が間違っている」、というのは毎日放送されるドラマにとって致命的といっていい点であろう。 主人公というのはドラマの中で、視聴者が否が応でも毎日顔を突き合わせる人物だ。 その主人公が自分だけの身勝手な論理で物語の誘導役になる。 それを倉本氏があえてやっているということで、倉本氏が驕り昂ぶっている、もしくは筆が衰えたと容易に誤解されがちだ。

 さらにこのドラマが誤解されやすいもうひとつの点は、このドラマが基本的に 「コメディ」 を言語として使用している点にある。 コメディはそのドラマの作り手が言いたいことを煙に巻いて誤魔化し、真面目に受け取られることを拒絶する。 そういう誤魔化しを、視聴者たちは本能的に毛嫌いする傾向にある。 「コメディはコメディとして」。 これが視聴者の思いだ。 笑えない部分で笑わそうとすると嫌がられるのだ。

 しかしここに挙げたいくつかの点は、実はつい最近、限定すればネット社会の普及によって啓発され形成された社会的コンセンサスであることに、我々はもっと気付かなければならない。

 まず我々は、つい最近まで 「タバコ社会」 のなかで生きてきた。 タバコを吸う人たちはかつて多数派だったのだが、それに迷惑を感じている人は実は多かったのだ。 そしてタバコは健康に悪い。 これも早くから言われてきたことだ。 社会によるタバコの駆逐化は、じわじわと浸透していた。
 それがネット社会の誕生により、その科学的実証が広く浸透し同時に社会的なコンセンサスが一気に膨らんだ、と私は考えている。 副流煙とか妊婦への影響、公共の場所における完全禁煙、といった類のことだ。 これはアメリカやヨーロッパなど全世界的な潮流でもある。
 そしてここからが問題なのだが、そのコンセンサスは表現におけるタバコの存在も駆逐し始めた。 例えばひと昔前の日本を舞台にしたドラマでもアニメでも、タバコを吸う人間が出てくるとヒステリックなほど批判が噴出する、という具合に。 「子供に悪い影響を与える」、というのだ。

 倉本氏の主張というのは、もっと自己中心的なものだと私は考えている。 ドラマの中で倉本氏がモデルと思われる主人公、菊村栄はやすらぎの郷で個人個人にあてがわれたヴィラのなかでスパスパタバコを吸い続けるのだが、それは菊村自身が死んだあとヤニだらけのヴィラの壁洗浄とかこの部屋をリニューアルする人たちの苦労がまったく自分の頭のなかにない、ということと同義だ。 そしてそれは、自分はカネがあるからそういうリニューアルもそのカネの中から出せばいいでしょ、という 「カネ持ち」 としての意識が、そういう思考回路を菊村の中から消去しているのだ。

 おそらく倉本氏としては、そういう壁にこびりついたヤニさえも、「その人が生きた証と捉え、その人を思い出すよすがに出来ないのか」、という気持ちが無意識でもどこかにあるのだろう。 具体的にそこまで考えているかどうかは分からないが。

 このことひとつとっても、それが受け入れられるかどうかは、「人に迷惑をかけることの良し悪し」 を私たちがどう判断するか、ということにかかっている、と私は思う。

 今の世の中は、「人に迷惑をかける」 ということを絶対悪として捉えがちだ。 そしてその裏では、「人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」、という逆の心理も形成されている。

 しかし、ヤニを取るために苦労をするのが絶対悪であるというようには、私にはどこか思えない部分がある。 その人が生きた場所。 その名残というものは、自らが望もうが望むまいがその場所に居座り続けるのだ。 それに思いを馳せられる人間でいたい、と私は思う。

 ただ、私自身はタバコをずいぶん前にやめているのでそういう痕跡は壁にはつかないだろう(笑)。
 それでもかつて吸っていたから思うのだが、タバコというのはひとつの文化でもあろう、と。 それをやみくもに否定する気にはなれない。 マナーの問題であろう、と。

 まあ、このドラマから垣間見える倉本氏の主張には、ことタバコに関しては 「好きなように吸わせろ」 という強引さが目につくような気もする(笑)。

 「人に迷惑をかける」、という点についてもう少し突っ込もう。 このドラマは、「大迷惑な人」 がたびたび登場する。

 そのひとりが、富士眞奈美が演じた犬山小春だ。 彼女は津川雅彦演じる元テレビ局プロデューサーと一緒にやすらぎの郷を訪れ、有馬稲子演じる及川しのぶに多大なる迷惑をかけるのだが、彼女の存在はやすらぎの郷でも招かれざる客という立ち位置であったにもかかわらず、その最期まで針で突き刺すようなちくちくとした悲愴な痛みを見る側に植え付けた。
 そしてその迷惑をかけられた及川しのぶであるが、もともと認知症気味だったのがその事件によって加速し、これもやすらぎの郷に多大なる迷惑をかけながら施設を後にする。 それで済むかと思ったらその後入れられた那須の認知症施設から抜け出しまたひと騒動起こすのだが、彼女の存在も人生の滑稽さと哀しみ、という悲喜劇が同居している。

 このように 「大迷惑な人」 というのは、現在の思慮深い人々にとっては受け入れがたい人種だ。 しかし倉本氏は、そういう人たちに対して現在のドラマの作り手よりもはるかに同情的で慈愛に満ちた見方をしている。
 「北の国から」 でも林美智子が演じた正吉の母親がいた。 彼女は主人公の黒板五郎に自分の息子を押しつけ失踪する。
 彼女たちは一様に哀れで、「思うようにいかない人生」 の体現者である。

 今のテレビドラマというのは、ちょっと出しゃばったりとかうざったいキャラというのは出てくるが、ここまで 「人生そのものが失敗だった」、という人はなかなか出てこない。 ドラマにとって反作用的な働きをするのはたいていがワルモノであるが、そのワルモノにしたって自分の信念に従って行動していたりする。 倉本氏のドラマに出てくる反作用的な人たちというのは、「自分の悪い部分に翻弄されて人生をダメにし、それを自覚しながら周囲を巻き込みさらにダメになる」、という悪循環のなかにいる。 どちらがリアルかと言えば、紛れもなく後者であろう。 もっと突っ込んで言えば、ワルモノというのはどんなに自己正当化しても、所詮ガキっぽい、ということだ。 本当に悲劇なのは、人生そのものを踏み誤った 「信念のない、業による」 ネガティヴシンキングなのだ。

 しかしだからこそ、倉本氏はそうした 「業による失敗者」 を冷たい目で見ようとしない。 犬山小春は確かに悲劇的な最期を遂げた。 及川しのぶの人生も哀れを極めている。 しかしドラマは、どこかに少しの救いを与えている。
 「大迷惑な人」 にも少しも臆することなく目を向けられる。 ドラマがそのことをしなかったら、いったい人生の何を描くんだ、という倉本氏の主張を、そこに見る気がする。

 「主人公が間違っている」、ということは、いくつかの事例を挙げることが出来る。

 つい最近の事例だが、菊村の20歳になる孫娘が52歳(私と同い年だ)の中年IT実業家を連れて来て、「この人と結婚する。 つきましてはこの人の現在の奥さんとの離婚調停でお金があと1500万足りないから、おじいちゃん出して」、と頼みに来たとき、菊村はそのあまりの出来事に血圧200越えの衝撃を受けながら(笑)「この金はおじいちゃんだけが稼いだんじゃない。 おばあちゃんと一緒に稼いだ金なんだ」、と涙ながらに拒絶する。
 しかし菊村は、ここで自分が不倫していただのなんだのという自らの過ちを棚に上げている。
 いや、完全に頭にない。

 ここで見る側が注意しなければならないのは、「孫娘も菊村も、勝手なこと言ってらあ」 ということではないのだ。
 途方もないお願い事をするのに順序立てて相手を納得してもらえるような話し方なんかなかなかできないし、それを受けて逆上してしまったら、なかなか自分の悪いところなんか考慮して話なんかできない、ということなのだ。 そして菊村は、かつて自分が不倫した相手を完全に自らの思考から閉め出して、不実をした自らの妻、律子(風吹ジュン)の苦しみを自分の苦しみに(あざとくも)一体化させて自らを正当化させ、自らを感極まらせている。 限りなくそれは自己中心的で、視聴者からすれば 「それは違うだろ」 ということなのであるが、作り手の言いたいことは菊村の正当性じゃない。 人と人との関係なんてものは、こうした 「ちょっとした間違い、大きな間違い」 に絡められながらそれに気付かず、またはそれに気付いて反省し、進行していくものなのだ、ということだ。

 菊村は、自分じゃいっぱしの常識人ぶっているが、実はマロ(ミッキー・カーチス)とかお嬢(浅丘)、マヤ(加賀)などと同じ、うわさ好きの俗物である。 しかも自分の死んだ妻の水着写真を密かに飾ったり(笑)若い女の子が自分を慕ってくれれば恋愛感情が頭をもたげ、そしてタバコはスパスパ吸う(笑)。 でもそれが、人間臭さというものだ。

 現代人は、こうした人間臭さというものを、「分別」 という鎧によって無菌化しどんどん脱ぎ去っているのではないか。 そしてその先にあるのは、「分別のある未来人たち」、という 「成熟した社会」 なのではないか。 このドラマがある種の人々にとって受け入れ難いものであるのは、そこに原因があるように私には感じられる。

 例えば極端な例であるが、「源氏物語」 というのは現代からみれば男女の関係がハチャメチャもいいところなのであるが、それを私たちは 「平安時代の価値観によってつくられているから」、というフィルターで見ている。
 倉本氏が描いているこのドラマの価値観というのは、実はもうそれと同じで、「やすらぎの郷」、という異空間、閉ざされた場所でしか成立し得ないものになりつつある。

 そのなかでただひとりだけ、この世界とつながっている人物がいた。
 それが八千草薫演じる、九条摂子だった。

 彼女は世俗的な欲望とは無縁で、「自分の気に入らない人を茄子に見立てて揚げる」、みたいなこともやっていたが、(その実効性は置いといて)それもあくまでおままごとの世界。 彼女もアッツ島玉砕で死んだ映画監督との不倫をしていたわけだが、それもあくまで純愛。 彼女はその処女性を死ぬまで維持し続けたわけだ。

 その彼女が亡くなったとき、どこから集まったのか 「やすらぎの郷」 の入り口付近には現地の人々が集まって彼女の乗った霊柩車に手を合わせ、赤坂の葬儀場には一般の人々が押し掛けた。
 彼女の存在は世俗にまみれたやすらぎの郷の中では特異な 「聖なる存在」 であり、現代人の感覚からいっても 「カワイイ」 のカテゴリに入る存在だった。 だからこそ彼女の死には大勢の人が追悼の意を表したのだ。

 彼女があと先長くないのに断捨離を勧めた、としてみんなの非難を浴びたマヤ。 そんなマヤにしても自らの正当性を主張しながら、結局 「いい葬儀だった」 と九条摂子の葬儀の模様を菊村に報告しに来る。
 しかしそれは、マヤが自分の過ちをうやむやにしよう、とする行為でこそあれ、それを見る側がどうこう言うのはおかしいことであることに、見る側は気付かなければならない。
 人の行為のなかには、いつも自分を正当化させる何ものかが潜んでいる。
 ドラマというのはそこを表現するものであり、けっして 「一番正しいものとはこれだ」、と主張するものではない、ということだ。

 このドラマが 「老人たちを侮るな」、という側面をいつも持っていることに、異論を差し挟むつもりはない。 おそらく 「強い老人たちもいるんだ」「強い、ということはその人を守る覚悟があるか、ということだ」、ということを言いたいがために 「やすらぎの郷」 でバーテンダーをするハッピー(松岡茉優)もレイプされたのであろう。 ここのくだりはさすがに私も 「昔のドラマみたいだな」 と感じたものだが、「人生というのはけっして順風満帆でいくものではない。 ごくたまに、こうした出会いがしらの不幸な事件が待ち構えている。 特に少女たちにとっては」、ということに思いを致すべきだろう。 あれからハッピーは表情にどことなく愁いを帯びるようになった。 ハッピーは、人生に待ち受けている 「打ち消したい過去の傷」 を持つに至ったのだ。

 さらにこのドラマの特徴として、「年の差婚」、というのがある。 いくつかの事例が見られるが、ここでも 「世間的常識と自分の感情との折り合い」、ということを考えてみたくなる。
 特に興味深かったのは、「自分と同い年の女が自分のおじいちゃんと結婚することにはどうしても我慢がならない」、というマロの孫娘の話だった。 一歳でも年上、年下でも構わないが、同い年というのが受け入れられない、というのだ。 菊村はその理屈を 「分かった」 と言いながら 「(分からなかった)」 と心の中で反駁するのだが(笑った)、これもいろいろとあとから考えると面白い話だ。

 つまり、自分と同い年の人というのは、自分とまったく同じ時代を生きてきた人、という点で同じ価値観の変遷の中で生きてきた同志なのだ。 それが一年でも違えば、少しずつずれが出るために、自分と同類と思わなくなる。 自分と同類でなければまあ、ある程度の常識外れのことも受け入れられる。
 こういう心理状態なのではないか。

 しかしこれも振り返れば身勝手な論理で、少し滑稽ですらある。 自分と同い年でも、違う価値観の人は大勢いるからだ。
 このように、自分の感情のなかで自分の分別が決定される、私たちはそんな心の動きの中で、自らの人生を生きているのではないか。 このドラマは 「分別」 という名目でがんじがらめになりつつある、自分の気持ちに余裕とか遊びを思い起こさせてくれる。

 このドラマの大きなテーマとしての 「老い」。 それについて壮大なメッセージがあるようには、今のところ私には感じられない。 あるのは、九条摂子が死んだときにこの施設の理事長である名倉(名高達雄)が話した、「覚悟と納得」、ということに尽きようか。

 このドラマの当初の見ものと言えば、主演の石坂浩二と主な脇役ふたりの過去の関係が取り沙汰されたことだろう。
 しかし当初危惧されたように、高齢の出演者ばかりのなかで野際陽子サンが放送途中で亡くなった。
 彼女の病状に従って、出演シーンは前倒しで収録されたらしいのだが、その彼女、結構いつまでも出てくるんだよなあ。 私はそのことが気になって仕方ない。 いったいいつまで出てくるのか。
 そしてこのドラマが、どのような終わり方をしていくのか。 まったく予測がつかないのも面白い。 私はこの物語の設定自体が途方もないので、「もしかしたら菊村の夢オチ、ならぬボケオチなのではないか」、と考えたこともある。

 ただ、NHKの朝ドラも見ている関係上、毎日続く連ドラというのは少し勘弁してもらいたい部分もある。 次回作が黒柳徹子サンの話で大石静氏の脚本だ、というから、このしんどいのは当分続きそうだ。

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2017年9月 3日 (日)

「植木等とのぼせもん」 第1回 植木等を、昭和を語ることのむずかしさ

 なんとかいう俳優が問題を起こしたために丸々1本ダメになったNHKの土曜ドラマ。 BSでやっていた 「ブシメシ!」 を再編集してこの夏はなんとか切り抜けたが、BSでやってたとき見てたけどこれってかなりヌルい作品で(笑)。 「真田丸」 であの当たり役をかました草刈正雄サンが出るような作品じゃない、と思ってたけど。
 まあそれはいいとして、その 「ヌルさ」 が最近のNHK土曜ドラマのひとつのキーワードであるようにも思える。 それが 「ブシメシ!」 と妙に合ってたのかもしれないが、「ハゲタカ」「外事警察」 などの土曜ドラマに慣れ親しんだ者としては、この30分枠、というのがどうにも歯がゆい。

 今回の 「植木等とのぼせもん」 も、第1回を見る限り、いかんせんその 「ヌルい」 域を出ない。
 これは去年やった 「トットひとり」 と同じにカテゴライズされる。 つまり、「テレビ黄金時代の再現」、である。
 しかし周到に用意された 「トットひとり」 に対して、全体的にかなり 「モノマネ大会」 という印象を受けた。 だいいち、アナログでゴーストたっぷりで放送されていたシャボン玉ホリデーのような番組が、ハイビジョン画像で流れるのだ。 その違和感と言ったら。 まだ 「ひよっこ」 でみね子が番組内コマーシャルに出ていたテレビ番組のほうがしっくりきてたような気がする。

 「トットひとり」 では、満島ひかりの神業的な黒柳徹子ぶりに舌を巻いたものだが、今回の山本耕史もかなり植木等のしゃべり方、しぐさなどを研究したように見受けられる。 ホントに植木等のしゃべり方ってこんなだったよなあ、と思わせるにじゅうぶんなのだ。

 だが、なんか違う(笑)。

 なにが違うんだろう。 満島ひかりのときは気にならなかったものが、山本耕史にはある。

 それは、山本耕史が植木等を作り過ぎているのではないか、という点だ。 山本耕史は本来、こういうしゃべり方ではない。 満島が黒柳徹子を演じていたときは、黒柳徹子を感じながら同時にそこに満島がいる、という感じがしたのだが、今回の山本耕史にはそれがない。

 簡単に言わせていただくと、「単なるモノマネの域を出ていない」、ということになろうか。 植木等という強力なキャラクターは、残念ながら植木等本人にしかできない。 だからこそ山本は、「山本耕史」 という演技者を自分の中から追い出さねば、植木等になりきれないのだ。

 この危険度は、実は山本だからこの程度で収まっている、と考えたほうがいいかもしれない。 番宣でちらっと見たが、園まりとか伊東ゆかりとか、もうなんというか 「冒涜」 の域なのだ。 もちっと人選を考えたほうがいい。 まあ別にいいけど。

 そうした点でちょっと安心するのは、ナベプロの社長を演じている高橋和也がいかにも当時の業界人を 「ぽく」 こなしている点だ。 あとは伊東四朗サンが植木の父親役としてドラマをしっかりと後支えしている。

 そしてこのドラマでもっとも私が注目しているのは、「昔の芸能人が持っていた矜持、プライドというものをどこまで見せてくれるのか」、ということだ。 世間に対するイメージとはあまりにもかけ離れた植木等の生真面目さ。 「仕事というものはこうでなければならないんだよ」、というある種のストイックさは、現代ではとうに失われたもののような気がしてならない。

 そのせめぎ合いを見せてくれるきっかけが、若き日の小松政夫ということになろうが、若き日の小松を演じる志尊淳は第1回を見る限りかなり浮いた演技(かれは 「表参道高校合唱部」 で病弱な男の子を演じていたのが印象的だったが)。 2回目以降どう変化していくのかは見ものだ。

 それにしてもだ。

 クレイジーキャッツの話をしようとすれば、かなり一家言持っている人が多いのが現実だろう。 彼らをよく知っている人たちであれば、このドラマは噴飯ものであろうことは想像がつく。 私はドリフ世代なのでクレイジーのことはよく知らないほうだが(この歳にしちゃ知ってるほうか)、もしドリフがこのようなドラマになったら、やはりどんなによく出来ていてもかなり辛めに批評するだろう。 人気マンガの実写化と同じような感じ、とでもいうのか。 「よく出来てる」 を超越しないと、なかなか受け入れられない 「難しいタイプのドラマ」 なのではないだろうか。

 まあ、そんな堅苦しいことを考えないで見るのがいちばんだとは思うのだが。

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2017年9月 2日 (土)

「おんな城主 直虎」 第33回 の話の続き…(31回から34回まで…)

 小野但馬政次の死には周到に用意された発端というべきものがあった。
 すなわち寿桂尼と直虎の最後の会見であるが、ここでこの先長くない寿桂尼は 「今川をよろしゅう」 と涙ながらにしおらしく直虎に訴えて直虎の同情を喚起しながらも、直虎の 「城主ともなるといろいろ大変で」 みたいな反応を見て 「こいつはブー(信用ならないので氏真、あとで殺してね)」 という遺言をデス・ノートに遺したことだ。 直虎も寿桂尼に従うふりを見せて裏では徳川と通じていたのだが。

 まずこの、寿桂尼と直虎双方の「表の顔と裏の顔」、という心理戦が面白かった。
 直虎はおとわ時代、もっとストレートに寿桂尼に対して井伊の安堵を要求していたものなのだが、時を経てその主従関係が変質していたことに、物語の妙を感じるのだ。

 そして寿桂尼の恐るべき裏の顔。
 「武田信玄」 で今は亡き岸田今日子が演じた寿桂尼はただただ今川氏真の無能ぶりを嘆き家臣の裏切りに錯乱をする、怨恨うずまく激情の女であったのだが、浅丘ルリ子が演じた寿桂尼は 「人は裏切るもの」、という人生訓を身に付け、井伊にとっては底の知れない巨大な存在のまま、その生を全うした女として描かれた。 浅丘の演技は氏真による井伊の所領没収という極端な行動を、最後まで蹂躙する印象深いものだった。 記憶に残る名演である。

 そして寿桂尼は 「小野但馬は今川に従うふりをして実は直虎とつながっている」、ということを最後に見抜いた。 これが小野但馬を最期まで窮地に追い込んでいく。
 「領民への借金棒引き」 である徳政令を自分の頭越しに今川に行なわれたことで、但馬は寿桂尼に自分が信用されていなかったことを理解した。 但馬は徳川による今川侵攻という 「将来の予定」 になんとか望みを託して、「ワルモノ」 としての自分のレベルアップを図ったのだ。 但馬は 「表面上」、井伊を井伊谷から追い出した。

 ここで感心したのは、井伊谷から追い出された井伊家の人々の向かった先に、ストーリー上途中まったく忘れ去られてしまっていたかに見えた、「井伊の隠し里」 がにわかに浮上したことだ。

 この隠し里を虎松に見せる機会をここで設けたことで、虎松が井伊の先祖代々に渡る 「この地を守る戦い」 を学ぶ、という話が作り上げられた。 ここで用意された住まいがまったく使われていないのに対して田畑は黄金の実りを迎えているとか(要するに、これだけの田畑を耕すのに、常に人員がこの地に入っていないのは不自然だ、ということ)、ちょっと細かいディティールが疎かになっていたことはこの際見逃そう。
 肝心なのは、虎松がこの地を守る、ひいては一族を守る、という意識をここで育んだ、ということだ。 これはいわば、「なにも資料がないところから作られた話」、のひとつである。 この作者の創造性は素晴らしいと素直に感じる。

 徳政令の時点より、政次と直虎の意思疎通がしばらく途絶える。 これもストーリーにとってかなり重要なポイントであった。 政次が 「フェイクレベル」 のアップを図ったことで直虎側に 「信じているけど何を考えているのじゃ」 と疑心暗鬼の水位を上げていく演出。
 ここに 「虎松の首を差し出せ」、という氏真のさらなる要求が絡んだことで、物語の緊張感は極度に上がっていく。
 ここで作り手は、「別の子供を殺して虎松の首と偽る」、という、このところの大河ではあまり見かけたことのない 「警戒水域」 に踏み込む。 政次の手を子供の血に染めることで、「地獄へは俺が行く」、という政次の死出の旅路はさらに暗示されていく、という設計図だ。

 第31回 「虎松の首」 はこの、首検分の場で大きなクライマックスに達した。 虎松 「とされる」 首を見た直虎。 その瞬間に、それまで天井知らずだった政次への疑心暗鬼が一気に氷解し、「そのために何が犠牲になったのか」、を直虎は理解するのだ。
 この、犠牲となった男の子の首は画面には出てこない。 だが慌てる関口方の言い分によれば 「こんな厚い化粧をしていては誰だかわからないではないか」。 つまり政次が斬ったのは、疱瘡で余命いくばくもない子供の首だったのだ。
 そのことを一瞬で理解した直虎は、その首を抱きしめ読経を始める。 これは関口への芝居、という側面も兼ねているが、尼小僧である直虎の紛れもない自発的行動だ、というところが作り手の優れている点だ。

 作り手はさらに、関口の謀反への足掛かりもここで同時につけていた。 こうした複数の小さな川の流れが合流していくから、「大河ドラマ」 という物語は成立していくのである。

 第32回 「復活の火」 では、関口が今川から徳川に寝返り、ようやく直接的会見がなった直虎と政次の間で、「徳川が井伊谷に来れば無条件で城を明け渡す」、という段取りが組まれる。
 しかしここで合流していく支流に異端子が存在した。 今川から目付三人衆のひとりとして井伊の目付をしていた近藤氏である。
 近藤氏はもともと自領の木材を井伊(正確には龍雲丸一味)に盗まれ、その後仏像事件などで遺恨を募らせていた。 だから小野政次の死の発端というのは寿桂尼の判断からでなく、材木盗難事件からさらに作り手によって周到に仕組まれていた、と見てもよい。

 結局城明け渡しの際に近藤が仕掛けた見せかけの徳川への攻撃の際に、直虎はその不穏な空気をいち早く察して政次に 「これは罠じゃ、逃げよ!」 と叫ぶ。
 政次も瞬時にそれを悟りその場を撤収するのだが、近藤が徳川に対して 「小野は信用がならぬ」 と言い出すのも、直虎と政次がとっさにそのような行動を取ったのも、これまで相手を調略し欺いてきた経験則がモノを言っていることに注目すべきだろう。 そこを 「リアルではない」、と考える人たちは、「状況の混乱」 という場に出くわしたことがないのだ。

 今の世の中は、なんでも 「ああすればよかった、こうすべきだった」 という 「結果を見てモノを言う」、ということがまかり通っている。
 しかし咄嗟のときに最良の方法をとれるケースなど、どれほどあるのだろうか。 咄嗟でないにしても、事務的な申し送りでもない限り、「この人とはこういう話で自分の思う方向に持っていこう」、と臨んで始めた会話で、その通りになることがいかに難しいか(そして分かっていても間違っていることをしてしまう、という、自ら持っている人としての業by植木等、みたいな?)。
 

 そして第33回、「嫌われ政次の一生」。

 ここでも 「こうすればもっとよかった」、という 「判断の分かれ道」 は多数存在する。
 そのもっとも主だった点と言えば、之の字、すなわち中野直之が徳川入城の際に弓を射かけた近藤の手の者を捕まえながら、自害を許してしまったところであろうか。 例え亡骸であろうとも、中野がその者を近藤の前につき出せばまだ、遅れて入城してきた家康にも申し開きが出来る余地というものが残されていたのではないか、ということだ。

 だが、そもそも家康も近藤を少し疑ってかかっている。 それなのに、政次の逃亡を促したことで牢に入れられた直虎に対して、家康は土下座をし、ザザムシのようにそのまま後ずさりして退場していく(笑)。

 これはどういうことだったのだろう。

 これはあまりに早い武田方の今川攻略でいちいち井伊谷の揉め事にかかずらわっている時間がなくなった、ということなのだろうと思うが、ここで気になるのは徳川の家臣で江戸時代には老中の重職を代々務めることになる酒井氏のふるまいである。
 先のコメント欄にも書いたのだが、私がここ数回気になっているのは、虎松、のちの井伊直政が徳川の家来になる、というのに、このドラマの中での徳川、そして徳川の家臣のイメージがとても悪い、ということだ。 作り手は政次が死んだあと、どのような筋書きで井伊を気持ちよく徳川の配下にしていくのだろうか。 第34回の 「隠し砦の龍雲丸」 ではさらに、気賀があまり上品とは言い難い形で徳川に下っていく。

 この徳川を束ねる家康も、発展途上の段階であるとはいえ、あまりにも頼りない描かれ方で、直虎が昵懇の瀬名姫をつてとして頼っているのは分かるのだが、「今川を裏切って徳川に寝返る」、という価値のある男なのか甚だ疑問だ。 これほど頼りなく家来たちの心証が悪いのであれば、その時点であれば武田方についたほうが得策なのではないか、と思う時がある。
 しかしこのドラマにおける武田信玄の描かれ方は、中井貴一主演だった大河 「武田信玄」 とはまるで逆。 いや、トータルなパブリックイメージでいけば中井の 「信玄」 のほうが真逆だったのだと思う。 信玄と言えば調略謀略。 今回の松平健のようにゲハゲハ笑いながら謀りごとを楽しんでいた、そうだとすれば直虎にとって武田につく、という選択肢にはなり得なかったのだろう。 もともとの発端は武田信玄が正室の息子を死に至らしめてその息子の嫁だった今川の娘を返したことから武田・今川・北条の三国同盟を一方的にないがしろにしてきたことなのだ。
 それが、のちに 「赤備」 という共通項で井伊と武田は語られるのだから興味深い。

 この武田のあまりに早い 「侵掠」 が小野但馬政次の判断を 「狭めた」、ということもこの第33回では見てとれる気がする。
 城明け渡しの場から逃亡した政次は隠し里に文字通り身を隠すが、「そこから申し開きの手段を模索するということはできなかったのか」、という疑問もふと浮かぶ。
 けれども申し開きをしようにも、徳川は武田の援軍に駆り出され、井伊谷城を任されているのは近藤氏。 政次が出した結論は、「近藤は井伊のことよりもこれまでの遺恨により小野を潰すことを狙っている。 だったらここで近藤の思い通りにすれば、徳川による井伊の疑いは晴れ、さらにことの真相を知る(いや張本人である)近藤は今後井伊に負い目を作ることになり、けっして手出しが出来なくなるに違いない」。 つまり、「俺ひとりが犠牲になれば、もっとも血が流れなくて済む」(龍雲丸に語った本人の証言)。

 そして政次は、近藤の寝所を急襲し、わざと捕まるのだ。

 ここから物語は一気に大河の急流に差し掛かるわけだが、これらのくだりはここまで今年の大河ドラマを引っ張ってきた小野政次、彼を演じた高橋一生に対する作り手の敬意に包まれている。

 政次はこうした危機的状況になる前から、義理の妹であるなつと夫婦になる約束を交わしていた。 これは、自らの直虎(おとわ)に対する思いがあまりにも激しすぎることに戸惑ったせいなのかもしれない。 「今川がなくなれば次郎様(直虎)と一緒になれない理由がなくなる」、と考えていたなつに、政次は膝枕をせがんでいた。 その姿はまるで子供のように無邪気で、政次が望んでいたのは 「休息が出来る膝」 だったのではないか、と想像させるに難くない。 それを直虎に望むのは上下関係から無理であり、また直虎の性格を考えれば、それは直虎にとって酷であろう。
 政次にとって直虎は、「同じ苦難を一緒に戦ってきた戦友」 になり過ぎてしまった。
 直虎に対する幼い頃からのその思いを振り切ったからこそ、政次はこれから起きる人生最大の試練に立ち向かうことが出来たのであろう。

 近藤の寝所を襲った政次はボコボコにされて直虎と入れ替わりに牢に入れられるが、その際に直虎と言葉を交わした際、「私のことを信じていたとはおめでたい」 などと不遜な口を聞きながら、政次は直虎のことをじっと見つめ続ける。

 この、「目で何かを訴えかける」、というのが政次がとった最後のコンタクトの方法であった。

 前回述べたように、政次から託された白い碁石に、直虎は 「我をうまく使え。我も、そなたをうまく使う」 というかつて政次に言った自らの言葉を反芻させていく。 そして至った、ある残酷な結論。

 辞世の句を書き終え、牢から出される政次。 右足を引きずり、極度に猫背なその姿は、近藤方に相当痛めつけられた証であるが、まるで小男のようであり、惨めさが全身から漲っている、高橋の迫真の演技だ。
 刑場へと連れて来られた政次は、直虎と目が合う。 惨めななりをしているのに、その目だけは一直線に、直虎を貫くかのようだ。
 直虎も熟考の末至った残酷な結論を、目だけで政次に知らせようとしている。 結末を知ってしまっているからこのような書きかたが出来るが、じっさいのところこの時点で直虎の結論など見ている側には分からない。 それでもこの視線のまっすぐな交差が、見ている側に与える重々しさは尋常ではない。

 磔にされ、ふたりの執行人が政次を槍で突こうとしたその瞬間。

 直虎がそばにいた者の槍を奪い、政次に向かって突進していく。

 驚く南渓和尚、傑山、そして近藤。 政次を見据え、構える直虎。

 鈍い音が響き、うなだれる政次。 政次をひと突きにしたのは、直虎だったのだ。

 「地獄へ落ちろ…小野但馬…!

 …地獄へ…!

 ようも…ようもここまで我を欺いてくれたな…!

 遠江一、日の本一の卑怯者と、未来永劫語り伝えてやるわ…!」

 憎しみに歪んだ直虎の表情。 だが政次は、「そうだ、それでいいんだ」、というようににっこり笑い、血へどを吐く。 そしてこの人生すべてを懸けた大芝居の大団円を、自ら演出するのだ。

 「…笑止…。

 未来など…

 もとより、女子(おなご)頼りの井伊に…未来などあると思うのか…!

 生き抜けるなどと思うておるのか…!

 家老ごときにたやすく謀(たばか)られるような愚かな井伊が…。

 やれるものならやってみよ…!

 地獄の底から…!

 見届け…

 …

 …」

 息絶える政次。

 政次の最期、それまで憎しみをたたえていた直虎の目から、急速に光が失われていく。 そしてあるがままを映すだけの静かな目になっていく。 高橋の渾身の演技にこたえるように、柴咲コウの目だけの演技も、ここに最高潮に達した。

 近藤に向かって一礼をし、その場を去る直虎。 長い間大河ドラマというものを見てきたが、このシーンは確実に、永く伝えられていくシーンであると断言する。 話によればこのシーンは、すでに出されているノベルティ本にもなかったラストシーンであったようだ。 ノベルティ本で先読みしていた人たちにも、さぞショッキングなシーンであったことだろう。

 近頃ではドラマの中で人気のある人が死んだりすると○○ロス、というのが流行っているようだが、いちばん政次ロスになったのは直虎であった。 次の第34回で直虎は記憶の退行症状をきたし、自分が政次を槍でひと突きして殺した、という事実を忘れてしまっていた。
 だがその間にも気賀が徳川方の酒井の手によって無残に蹂躙され、盗賊の連中もあまりに簡単に、無造作に殺されていく。 そして龍雲丸も…?これは直虎の夢と交錯して事実なのかどうかまだ分からない。 だが直虎にとって茨の道は、当分続きそうな気配ではある。

 あ~ここまで書くのに2週間近くかかったぁ~。
 もうダメだなこのブログ。 気力が続かない。 年も年だし。 とりあえず皆様にこの駄文をお届けいたします。

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