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2017年9月17日 (日)

「やすらぎの郷」 世俗と分別の境界線

 「名匠」 倉本聰が老人たちをテーマにした月-金、週5回で2クール、つまり半年のドラマを作る。
 そのことを聞いて最初に私が考えたのは、「老境を生きている自らの遺言をこの世に残そうとしている」、ということだった。 「北の国から」 の最終回で黒板五郎は遺言を書いたが、今度はテレビ界で生きてきた倉本聰、という一脚本家として、ひとりの老人として、未来の世代やテレビ界に対して一言物申そうとしている。 傾向としては数年前単発で放送された 「歸國」 で、太平洋戦争の英霊たちに現在の日本を嘆かせたのと同類だろうか。

 もともとこの企画は倉本氏個人によってフジテレビに持ち込まれたものだったらしい。 先に挙げた代表作 「北の国から」 をはじめ、「6羽のかもめ」「ライスカレー」「昨日、悲別で」「優しい時間」「風のガーデン」 など、印象的な作品を提供してきたフジテレビへの信頼、という部分もあったであろう。
 だが会社始まって以来の迷走のさなかで柔軟性に著しく欠いているフジテレビが、この企画を受け入れるはずもない。 結局この企画は 「相棒」「ドクターX」 など近年ドラマ部門が好調なテレビ朝日の度量によって実現された。

 ただ、今年4月から現実にスタートしたそのドラマを一瞥したとき、「フジテレビがなぜこのドラマを蹴ったのか」、というのは少し理解できる気がした。
 まず、キャスティングがべらぼうに予算を食いそうな点。 私より上の年代から見た場合、その顔触れを聞いただけで卒倒しそうなオールスターぶりなのだ。 しかも倉本氏はアテ書き(この役にはこの人、というイメージで脚本が書かれている、ということ)によってこの物語を構成しているから、ギャラが安そうなふつうの役者ではおそらく務まらない。

 主役に石坂浩二。
 八千草薫、有馬稲子、野際陽子、浅丘ルリ子、加賀まりこ…。

 ふつうのドラマなら、クレジットのオーラスにひとり出てくればじゅうぶんな大物ばかりである。

 そして肝心の内容であるが、これが 「やすらぎ」 とは対極にあるような、物欲、性欲、名声欲など、ありとあらゆる欲にまみれた俗物老人の描写が延々と続くのだ。 冒険を怖がっているようなテレビマンは絶対に手を出さない 「危険物ドラマ」。

 そもそも主人公をはじめ登場人物たちは、実によくタバコを吸う。 これはヘビースモーカーである倉本氏の主張であることは明白だが、まずこれが 「タバコ嫌い」 の昨今の傾向に対する大いなる挑発だ。

 そして主人公をはじめ、老いた登場人物のほとんどが 「身勝手」 というワードで括られる。
 このドラマの舞台は 「かつて一世を風靡しテレビ界に多大なる貢献をした老人たちを住まわせるホーム」 というものであるから、彼らは一様に 「地位も名誉もカネもある」 老人たちだ(一部除くが)。 そういう立場で自分たちの価値観が動いているから、どうしても自分の悪いところは棚に置いてものごとの良し悪しを論じることになる。
 特に 「主人公が間違っている」、というのは毎日放送されるドラマにとって致命的といっていい点であろう。 主人公というのはドラマの中で、視聴者が否が応でも毎日顔を突き合わせる人物だ。 その主人公が自分だけの身勝手な論理で物語の誘導役になる。 それを倉本氏があえてやっているということで、倉本氏が驕り昂ぶっている、もしくは筆が衰えたと容易に誤解されがちだ。

 さらにこのドラマが誤解されやすいもうひとつの点は、このドラマが基本的に 「コメディ」 を言語として使用している点にある。 コメディはそのドラマの作り手が言いたいことを煙に巻いて誤魔化し、真面目に受け取られることを拒絶する。 そういう誤魔化しを、視聴者たちは本能的に毛嫌いする傾向にある。 「コメディはコメディとして」。 これが視聴者の思いだ。 笑えない部分で笑わそうとすると嫌がられるのだ。

 しかしここに挙げたいくつかの点は、実はつい最近、限定すればネット社会の普及によって啓発され形成された社会的コンセンサスであることに、我々はもっと気付かなければならない。

 まず我々は、つい最近まで 「タバコ社会」 のなかで生きてきた。 タバコを吸う人たちはかつて多数派だったのだが、それに迷惑を感じている人は実は多かったのだ。 そしてタバコは健康に悪い。 これも早くから言われてきたことだ。 社会によるタバコの駆逐化は、じわじわと浸透していた。
 それがネット社会の誕生により、その科学的実証が広く浸透し同時に社会的なコンセンサスが一気に膨らんだ、と私は考えている。 副流煙とか妊婦への影響、公共の場所における完全禁煙、といった類のことだ。 これはアメリカやヨーロッパなど全世界的な潮流でもある。
 そしてここからが問題なのだが、そのコンセンサスは表現におけるタバコの存在も駆逐し始めた。 例えばひと昔前の日本を舞台にしたドラマでもアニメでも、タバコを吸う人間が出てくるとヒステリックなほど批判が噴出する、という具合に。 「子供に悪い影響を与える」、というのだ。

 倉本氏の主張というのは、もっと自己中心的なものだと私は考えている。 ドラマの中で倉本氏がモデルと思われる主人公、菊村栄はやすらぎの郷で個人個人にあてがわれたヴィラのなかでスパスパタバコを吸い続けるのだが、それは菊村自身が死んだあとヤニだらけのヴィラの壁洗浄とかこの部屋をリニューアルする人たちの苦労がまったく自分の頭のなかにない、ということと同義だ。 そしてそれは、自分はカネがあるからそういうリニューアルもそのカネの中から出せばいいでしょ、という 「カネ持ち」 としての意識が、そういう思考回路を菊村の中から消去しているのだ。

 おそらく倉本氏としては、そういう壁にこびりついたヤニさえも、「その人が生きた証と捉え、その人を思い出すよすがに出来ないのか」、という気持ちが無意識でもどこかにあるのだろう。 具体的にそこまで考えているかどうかは分からないが。

 このことひとつとっても、それが受け入れられるかどうかは、「人に迷惑をかけることの良し悪し」 を私たちがどう判断するか、ということにかかっている、と私は思う。

 今の世の中は、「人に迷惑をかける」 ということを絶対悪として捉えがちだ。 そしてその裏では、「人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」、という逆の心理も形成されている。

 しかし、ヤニを取るために苦労をするのが絶対悪であるというようには、私にはどこか思えない部分がある。 その人が生きた場所。 その名残というものは、自らが望もうが望むまいがその場所に居座り続けるのだ。 それに思いを馳せられる人間でいたい、と私は思う。

 ただ、私自身はタバコをずいぶん前にやめているのでそういう痕跡は壁にはつかないだろう(笑)。
 それでもかつて吸っていたから思うのだが、タバコというのはひとつの文化でもあろう、と。 それをやみくもに否定する気にはなれない。 マナーの問題であろう、と。

 まあ、このドラマから垣間見える倉本氏の主張には、ことタバコに関しては 「好きなように吸わせろ」 という強引さが目につくような気もする(笑)。

 「人に迷惑をかける」、という点についてもう少し突っ込もう。 このドラマは、「大迷惑な人」 がたびたび登場する。

 そのひとりが、富士眞奈美が演じた犬山小春だ。 彼女は津川雅彦演じる元テレビ局プロデューサーと一緒にやすらぎの郷を訪れ、有馬稲子演じる及川しのぶに多大なる迷惑をかけるのだが、彼女の存在はやすらぎの郷でも招かれざる客という立ち位置であったにもかかわらず、その最期まで針で突き刺すようなちくちくとした悲愴な痛みを見る側に植え付けた。
 そしてその迷惑をかけられた及川しのぶであるが、もともと認知症気味だったのがその事件によって加速し、これもやすらぎの郷に多大なる迷惑をかけながら施設を後にする。 それで済むかと思ったらその後入れられた那須の認知症施設から抜け出しまたひと騒動起こすのだが、彼女の存在も人生の滑稽さと哀しみ、という悲喜劇が同居している。

 このように 「大迷惑な人」 というのは、現在の思慮深い人々にとっては受け入れがたい人種だ。 しかし倉本氏は、そういう人たちに対して現在のドラマの作り手よりもはるかに同情的で慈愛に満ちた見方をしている。
 「北の国から」 でも林美智子が演じた正吉の母親がいた。 彼女は主人公の黒板五郎に自分の息子を押しつけ失踪する。
 彼女たちは一様に哀れで、「思うようにいかない人生」 の体現者である。

 今のテレビドラマというのは、ちょっと出しゃばったりとかうざったいキャラというのは出てくるが、ここまで 「人生そのものが失敗だった」、という人はなかなか出てこない。 ドラマにとって反作用的な働きをするのはたいていがワルモノであるが、そのワルモノにしたって自分の信念に従って行動していたりする。 倉本氏のドラマに出てくる反作用的な人たちというのは、「自分の悪い部分に翻弄されて人生をダメにし、それを自覚しながら周囲を巻き込みさらにダメになる」、という悪循環のなかにいる。 どちらがリアルかと言えば、紛れもなく後者であろう。 もっと突っ込んで言えば、ワルモノというのはどんなに自己正当化しても、所詮ガキっぽい、ということだ。 本当に悲劇なのは、人生そのものを踏み誤った 「信念のない、業による」 ネガティヴシンキングなのだ。

 しかしだからこそ、倉本氏はそうした 「業による失敗者」 を冷たい目で見ようとしない。 犬山小春は確かに悲劇的な最期を遂げた。 及川しのぶの人生も哀れを極めている。 しかしドラマは、どこかに少しの救いを与えている。
 「大迷惑な人」 にも少しも臆することなく目を向けられる。 ドラマがそのことをしなかったら、いったい人生の何を描くんだ、という倉本氏の主張を、そこに見る気がする。

 「主人公が間違っている」、ということは、いくつかの事例を挙げることが出来る。

 つい最近の事例だが、菊村の20歳になる孫娘が52歳(私と同い年だ)の中年IT実業家を連れて来て、「この人と結婚する。 つきましてはこの人の現在の奥さんとの離婚調停でお金があと1500万足りないから、おじいちゃん出して」、と頼みに来たとき、菊村はそのあまりの出来事に血圧200越えの衝撃を受けながら(笑)「この金はおじいちゃんだけが稼いだんじゃない。 おばあちゃんと一緒に稼いだ金なんだ」、と涙ながらに拒絶する。
 しかし菊村は、ここで自分が不倫していただのなんだのという自らの過ちを棚に上げている。
 いや、完全に頭にない。

 ここで見る側が注意しなければならないのは、「孫娘も菊村も、勝手なこと言ってらあ」 ということではないのだ。
 途方もないお願い事をするのに順序立てて相手を納得してもらえるような話し方なんかなかなかできないし、それを受けて逆上してしまったら、なかなか自分の悪いところなんか考慮して話なんかできない、ということなのだ。 そして菊村は、かつて自分が不倫した相手を完全に自らの思考から閉め出して、不実をした自らの妻、律子(風吹ジュン)の苦しみを自分の苦しみに(あざとくも)一体化させて自らを正当化させ、自らを感極まらせている。 限りなくそれは自己中心的で、視聴者からすれば 「それは違うだろ」 ということなのであるが、作り手の言いたいことは菊村の正当性じゃない。 人と人との関係なんてものは、こうした 「ちょっとした間違い、大きな間違い」 に絡められながらそれに気付かず、またはそれに気付いて反省し、進行していくものなのだ、ということだ。

 菊村は、自分じゃいっぱしの常識人ぶっているが、実はマロ(ミッキー・カーチス)とかお嬢(浅丘)、マヤ(加賀)などと同じ、うわさ好きの俗物である。 しかも自分の死んだ妻の水着写真を密かに飾ったり(笑)若い女の子が自分を慕ってくれれば恋愛感情が頭をもたげ、そしてタバコはスパスパ吸う(笑)。 でもそれが、人間臭さというものだ。

 現代人は、こうした人間臭さというものを、「分別」 という鎧によって無菌化しどんどん脱ぎ去っているのではないか。 そしてその先にあるのは、「分別のある未来人たち」、という 「成熟した社会」 なのではないか。 このドラマがある種の人々にとって受け入れ難いものであるのは、そこに原因があるように私には感じられる。

 例えば極端な例であるが、「源氏物語」 というのは現代からみれば男女の関係がハチャメチャもいいところなのであるが、それを私たちは 「平安時代の価値観によってつくられているから」、というフィルターで見ている。
 倉本氏が描いているこのドラマの価値観というのは、実はもうそれと同じで、「やすらぎの郷」、という異空間、閉ざされた場所でしか成立し得ないものになりつつある。

 そのなかでただひとりだけ、この世界とつながっている人物がいた。
 それが八千草薫演じる、九条摂子だった。

 彼女は世俗的な欲望とは無縁で、「自分の気に入らない人を茄子に見立てて揚げる」、みたいなこともやっていたが、(その実効性は置いといて)それもあくまでおままごとの世界。 彼女もアッツ島玉砕で死んだ映画監督との不倫をしていたわけだが、それもあくまで純愛。 彼女はその処女性を死ぬまで維持し続けたわけだ。

 その彼女が亡くなったとき、どこから集まったのか 「やすらぎの郷」 の入り口付近には現地の人々が集まって彼女の乗った霊柩車に手を合わせ、赤坂の葬儀場には一般の人々が押し掛けた。
 彼女の存在は世俗にまみれたやすらぎの郷の中では特異な 「聖なる存在」 であり、現代人の感覚からいっても 「カワイイ」 のカテゴリに入る存在だった。 だからこそ彼女の死には大勢の人が追悼の意を表したのだ。

 彼女があと先長くないのに断捨離を勧めた、としてみんなの非難を浴びたマヤ。 そんなマヤにしても自らの正当性を主張しながら、結局 「いい葬儀だった」 と九条摂子の葬儀の模様を菊村に報告しに来る。
 しかしそれは、マヤが自分の過ちをうやむやにしよう、とする行為でこそあれ、それを見る側がどうこう言うのはおかしいことであることに、見る側は気付かなければならない。
 人の行為のなかには、いつも自分を正当化させる何ものかが潜んでいる。
 ドラマというのはそこを表現するものであり、けっして 「一番正しいものとはこれだ」、と主張するものではない、ということだ。

 このドラマが 「老人たちを侮るな」、という側面をいつも持っていることに、異論を差し挟むつもりはない。 おそらく 「強い老人たちもいるんだ」「強い、ということはその人を守る覚悟があるか、ということだ」、ということを言いたいがために 「やすらぎの郷」 でバーテンダーをするハッピー(松岡茉優)もレイプされたのであろう。 ここのくだりはさすがに私も 「昔のドラマみたいだな」 と感じたものだが、「人生というのはけっして順風満帆でいくものではない。 ごくたまに、こうした出会いがしらの不幸な事件が待ち構えている。 特に少女たちにとっては」、ということに思いを致すべきだろう。 あれからハッピーは表情にどことなく愁いを帯びるようになった。 ハッピーは、人生に待ち受けている 「打ち消したい過去の傷」 を持つに至ったのだ。

 さらにこのドラマの特徴として、「年の差婚」、というのがある。 いくつかの事例が見られるが、ここでも 「世間的常識と自分の感情との折り合い」、ということを考えてみたくなる。
 特に興味深かったのは、「自分と同い年の女が自分のおじいちゃんと結婚することにはどうしても我慢がならない」、というマロの孫娘の話だった。 一歳でも年上、年下でも構わないが、同い年というのが受け入れられない、というのだ。 菊村はその理屈を 「分かった」 と言いながら 「(分からなかった)」 と心の中で反駁するのだが(笑った)、これもいろいろとあとから考えると面白い話だ。

 つまり、自分と同い年の人というのは、自分とまったく同じ時代を生きてきた人、という点で同じ価値観の変遷の中で生きてきた同志なのだ。 それが一年でも違えば、少しずつずれが出るために、自分と同類と思わなくなる。 自分と同類でなければまあ、ある程度の常識外れのことも受け入れられる。
 こういう心理状態なのではないか。

 しかしこれも振り返れば身勝手な論理で、少し滑稽ですらある。 自分と同い年でも、違う価値観の人は大勢いるからだ。
 このように、自分の感情のなかで自分の分別が決定される、私たちはそんな心の動きの中で、自らの人生を生きているのではないか。 このドラマは 「分別」 という名目でがんじがらめになりつつある、自分の気持ちに余裕とか遊びを思い起こさせてくれる。

 このドラマの大きなテーマとしての 「老い」。 それについて壮大なメッセージがあるようには、今のところ私には感じられない。 あるのは、九条摂子が死んだときにこの施設の理事長である名倉(名高達雄)が話した、「覚悟と納得」、ということに尽きようか。

 このドラマの当初の見ものと言えば、主演の石坂浩二と主な脇役ふたりの過去の関係が取り沙汰されたことだろう。
 しかし当初危惧されたように、高齢の出演者ばかりのなかで野際陽子サンが放送途中で亡くなった。
 彼女の病状に従って、出演シーンは前倒しで収録されたらしいのだが、その彼女、結構いつまでも出てくるんだよなあ。 私はそのことが気になって仕方ない。 いったいいつまで出てくるのか。
 そしてこのドラマが、どのような終わり方をしていくのか。 まったく予測がつかないのも面白い。 私はこの物語の設定自体が途方もないので、「もしかしたら菊村の夢オチ、ならぬボケオチなのではないか」、と考えたこともある。

 ただ、NHKの朝ドラも見ている関係上、毎日続く連ドラというのは少し勘弁してもらいたい部分もある。 次回作が黒柳徹子サンの話で大石静氏の脚本だ、というから、このしんどいのは当分続きそうだ。

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コメント

橋本様
 「やすらぎの郷」おばさんは録画して視聴しています。倉本脚本は好きですので、始まる前から楽しみにしてました。おばさんの好きなのは「北の国から」「風のガーデン」「昨日、悲別で」かな。

 それらに比べると、お年寄りが主役で内容は地味・・と思いきや、様々な事件、スキャンダルが起こりそれなりに楽しく見ています。でも、やはり時間が短く感じられ、1時間にしたらもっと見ごたえあるのでは?と思ったりしています。ま、あと少しで終りですが。

 それにお年寄りと言っても、やはり芸能人は若い!!華やか!!羨ましいとは思わないものの、自分の老後の参考にはなりそうになく(笑)それぞれのやり取りを楽しませてもらっています。
 このドラマでは他の方々もステキなのですが、八千草さんの可憐な可愛さ・・・を再発見!!「茄子の呪い上げ」は一番のインパクトであり、かなわぬ恋のお話は、とても純粋な思いに切なくなりました(それでも不倫はダメですが)。

 朝ドラでは、全ての恋バナがまとまりつつあるようですが、この昼ドラはどんな結末になるのやら・・。まさか、石坂さんの「老いらくの恋?」で終わるという事はないでしょう(笑)。倉本さんに期待しているところです。

 おばさんは、この夏「カンナさ~ん」だけを欠かさず見てました(笑)秋は何を見ようか・・・?
とりあえず、「とっとちゃん」も見てみますかね。
「直虎」は、又少し面白くなるのかな?菅田寅松が可愛く頑張る予感がします・・・。

 虫の声が秋を告げるかのようですが、夏の疲れが出ませんようお気をつけて下さいませ。

おばさん 様
コメント下さり、ありがとうございます。

ああやっと、この記事にコメントをいただきました(笑)。 私としては、この記事ではこのドラマのことをとても褒めたつもりなんですが、「主人公が間違ってる」 とか、「身勝手」 とか、そういう表現が字面どおりにとられてしまうとまったく逆の意味に取られてしまうレビューかな、という気もしておりました。 だから読んでいる方々も、コメントのしようがないのだろうか、とか…。

倉本聰、という大御所ということで、特にヤフー感想欄の人たちは視聴するのに身構えてしまっているのではなかろうか、という気もしています。 倉本サン大老人だし。 老人に対して今の若い人たちは、年金をはじめとした怨恨を持ってたり認知症を疑って見下したり、というのがとても多い。 そんな老人の本音を倉本サンが書こう、というのだから、若い世代はどうしても身構えてしまう。

けれども倉本サンのテレビドラマというのは、コメディタッチであるケースがとても多いんですよね。

「前略おふくろ様」 しかり、「北の国から」 しかり。 「北の国から」 なんかシリアスな場面が多いから誤解されがちだけど、コメディを意識してる部分ってかなり多い。

このドラマも基本がコメディだから、見ていて肩の凝ることがあまりないですよね。 老人が欲に対してあまりに正直なところが、私の両親なんかにウケが悪い部分なのかな、という気もしています。

でも、欲に対して正直、というのは、お金を持ってるからなんだ、という気はどうしてもします。 私は自分の親不孝も祟って両親は年金頼りでさほど裕福ではないのですが、切りつめて生活していると、どうしてもいろんな欲に対しては諦め、と言うか拒絶反応を起こすようです。 親を旅行に行かせてあげたりとかできない自分の経済状態が恨めしい。

だから、倉本サンの今回のドラマにはそこの視点が欠けている、と思うのです。 これはレビュー本文のなかで滲ませたつもりです。

私はこの夏のドラマは、ホントに全滅だったなぁ。 「カンナさ~ん!」 も途中でもういいや、というか。 頑張ってんの見てるの辛いとき、というのって、ありますよね(笑)。 「コード・ブルー」 の録画だけは残してあって、この先見ようかな、とも思うし、まあもういいか、という気もするし、といったところです。

ほかの項でも書きましたが、この秋ドラマはいいのが揃ってそうな気がします。 とりあえず最近始まった竹野内豊サンの 「この声をきみに」、は朗読教室、という難しい題材モノですが見てます。 レビューしかけなのですが、仕上げるのにはもうちょっと感動が欲しい…(笑)。

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  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

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    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
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    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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