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2018年4月

2018年4月24日 (火)

コメント表示の方法、元に戻します

 一昨日提案いたしました当ブログのコメント表示の方法変更について、まことにあっさりとではございますが、元に戻させていただきたいと存じます。 大変気まぐれで申し訳ございません。

 理由は、単に 「面倒だから」。 それと、コメントが投稿したのちすぐに表示されないとなれば、それなりにこれまで気後れしていた読者のかたがコメントを下さるという卑しい下心があったのですがほとんどその需要がなかったこと。

 それにしても従来の、このブログのコメント投稿方法は、コメントを下さるかたがたのある一定のスキルと、一歩踏み出す度胸によって成立していることが、今回身に沁みて理解できました。

 なにしろ、投稿のボタンをポチッと押せば、その瞬間に自分の意見がネット上に晒されるわけですから。 そのためには、ただ思いつくままの殴り書きでは2ちゃんねると同じになってしまいます。 ある程度の推敲も必要でしょう。

 今回、このようなことに思いを巡らすことができたことで、ご提案下さったかたにも感謝したいと存じます。 陰ながら引き続きご愛顧いただけたら幸甚です。

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2018年4月22日 (日)

コメントの表示方法についてのご提案

 先日、コメントをいただいたかたから 「投稿した自分のコメントを非公開にできないでしょうか」 というご要望をいただきました。

 当ブログのコメント欄は、コメントをされたかたが 「送信」 のボタンを押すとその瞬間に表示される、という方法をとってまいりました。
 この設定、特に何も考えることなく当たり前のようにそうしてきました。

 ただ、それを望まないかたもいらっしゃった、ということで、今回 「ブログ管理者(すなわち私)の承認を得るまでブログに表示されない」、という設定にし直そうかどうか、皆様にお聞きしたいと思います。 この記事のコメント欄へ書き込みをお願いします。

 ご協力いただければ幸いです。

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2018年4月15日 (日)

冬ドラマいろいろの話の続き(「アンナチュラル」「FINAL CUT」「海月姫」「BG」)

 「続きはまた」 などと書いてからだいぶたった。 「タイトル詐欺」 などと思われては心外だから続きを書こうと思うが、別に大したことを書きたいわけでもない(ずいぶんふてぶてしいぞ)。

 で、「アンナチュラル」 である。 当ブログの前回記事では、さわりにファナティックの話をしたまま中断していた。

 今日びあちらこちらで大量殺人というのは起こるものだが、その犯行動機というのはいつも実に単純だ。 「アンナチュラル」 で尾上寛之が演じた犯人のように、法廷であまりにファナティックに自己顕示欲とか幼少時のトラウマとかと本人が言い出すと、精神鑑定に持ち込んで罪を逃れよう、という狡猾さえ透けて見えてくる。 リアルという面で 「スニッファー」 の松尾スズキには及ばなかったが、尾上の法廷での態度を思い返すと、社会に対する犯人の歪んだ断絶意識が澱のように沈澱していたことを実感する。

 「アンナチュラル」 がどうして面白かったのか、というと、作者である野木亜紀子の 「社会問題に対する意識」 が広範だったことと、野木が 「次世代型の道徳意識、正義感」 というものを強く持っていたことに起因していた気がする。

 このドラマで顕著だったのは、「現行法が認める犯罪すれすれのライン」 を行ったり来たりする行為だ。 特にその一線を軽視しまくって超えてばかりいたのはUDIラボのなかでも井浦新だったが、彼の正義感というのは自らが被害者の恋人だった、という私的怨恨から発生していた。 それを淵源とした彼の怒りは社会全体の 「クソな」 旧態依然としたルールに向けられ、文書偽造や報復の幇助などを行なったりする。 しまいには恋人を殺した尾上を殺そうとまでするが、彼の怒りというのは 「人を殺していながらその重大性を認識すらできないクソな」 犯人に対して、「だったら死ぬとはどういうものか教えてやる」、という論理の上に成立している。

 それに対して自らが親子心中事件の生き残りであったミコト(石原さとみ)は、社会に対する怒りを心の底に沈めたまま、「明らかにされないまま葬り去られていく真実」 の救済を追及していく。 石原は法廷で尾上に対して 「かわいそうな人間だ」 と憐れむが、犯人に対する怒りを社会全体が克服しなければ、被害者にとっても加害者にとっても真の意味での事件解決にはなり得ない、という野木の結論をそこに見た気がする。

 そのうえで、野木の広範な問題意識は、事実を隠蔽する巨大組織や、部数を伸ばす(最近では縮小する市場で生き残りを懸ける、というように変質しているが)ために 「真実の追求」「報道の自由」 を掲げるマスコミジャーナリズム、「白を黒といい含めてしまう」 検察、社員従業員を隷属させ搾取し続けるブラック企業、大学サークルの集団強姦、陰湿ないじめとネット動画サイトの暴走、ゴミ屋敷に雑居ビル火災、果ては仮想通貨にまで及んでいた。

 これは野木が徹底的な社会問題のリサーチを事前に行なったせいであろう。 それをひとつのテーマに括りつけるようにして物語を複雑化していった野木の手腕にはただただ恐れ入る。
 こんなのを見てしまったら、「正義のセ」 なんかとても見てらんないというのが正直なところだ(トホホ)。 いや、「正義のセ」 どころではない。 このドラマが伍するステージは、アメリカとか海外ドラマが相手なのだ。

 もう力尽きた。

 続きはまた(またかよ!)。

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「半分、青い。」 第2週 残されていく独特な余韻

 第2週の終わりまで子役で繋いだこのドラマ。 主人公の片耳が聞こえなくなる。
 「片耳が聞こえなくなるくらいなんだっていうんだ? もう片方は聞こえるんだし大したことじゃないじゃないか」 と思いたくなるところであるが、診断を下した医師によってそれは予想以上に大変なことであることが両親に明かされる。 ただそのことが分からない子供時代の主人公、楡野鈴愛には、その重大性がピンとこない。

 私も重度の難聴であるが、正直なところ耳鳴りは両方で起きたときから寝るときまでずーっと鳴っている。 もし誰かが 「君の名は。」 みたいに私の体と入れ替わってしまったら、そのうるささに死にたくなってしまうだろうと思うほどだ。
 しかし当の本人ははたち前からずっとこの状態で、年々ひどくなっているのだろうが徐々になので慣れっこになってしまっている部分がある。 その重大性に気付かないのは本人だけなのだ。 だから健康診断で 「耳鼻科に行くように」 と言われても、いっこうに行こうという気にならない。 いや、正直に告白すると、何十万もする補聴器を買いたくないだけだ。

 一時それがかなりひどくなった時があって、片耳がほぼ聞こえなくなったときは、さすがに医者に行った。 そしたら原因は分からんがメニエル病の疑いとか。
 それが今回の朝ドラの主人公と同じような状態だったから、片耳のリスクには共感できる部分が多い。
 なにしろ、めまいがする。
 平衡感覚がなくなる。
 幸いその状態は改善されたのだが、重度の難聴という状態は変わらないので、仕事をしていても不便を感じることは多い。 はじめに 「耳が聞こえにくいので」 と断らなければならない面倒があるし、それでもわざとなのかぼそぼそしゃべってくる人間には、適当に合わせている場合もある。 相手によっては、「橋本はこちらの言うことに適当に答えるいい加減なヤツだ」 と不快に思われている向きもあるのではないだろうか。

 個人的な話が長くなってしまったが、「片耳聞こえないくらい別に大したことないじゃん」 ではないことは、ご理解いただけたかと思う。 特に音の立体感が失われるのは危険を伴ったりする。 この子は人生において結構なリスクを負うことになったのだ。

 母親の松雪泰子は医者からその大変さを詳細に聞いたときから、かなり悲観的になる。 ドラマのなかではいちばん絶望し、「そこまで悲しまなくても」 と思うほどなのだが、この松雪の哀しみには、この週の前半できちんと理由づけがなされている。
 いわく、「自分の娘は鈴愛(スズメ)という独特な名前のせいでいじめられていたのに、その名前を付けた自分を思いやって黙っていた」、というくだりだ。

 そしてこのドラマの優れたところは、そんな松雪の絶望に対して、周囲の人間があれこれと強引な修正を松雪に求めてこないところだ。
 悲しい時は、泣けばいい。
 松雪の夫である滝藤賢一はそうやって松雪を慰める。

 鈴愛は鈴愛で、別に自分の片耳が聞こえなくなった、と聞いても悲しくなかったし涙も出なかったが、それを母親を始め家族が悲しんでいることが悲しくて、律の前で大泣きしてしまう。 それは鈴愛の、母親や家族に対する優しさなのだ。

 悲しい時は、泣けばいい。

 その、「自然に受け入れていけばいいよ」、というドラマ全体の優しさによって、見る側の涙腺は緩むのである。

 そして、ドラマがいたずらに暗い方向にならないのは、子供時代の鈴愛と律がしゃべる、一種奇妙な昔言葉である。 「承知した」 など武将言葉なのはこの物語の舞台が戦国時代の中心だった岐阜だからか、とも思われるが、特に鈴愛は男言葉を使うことが多い。 これは助けたり助けられたり、という出来事のなかで、特に鈴愛と律のあいだだけはその立場がときどき逆転することの象徴なのかもしれない。 一方的な関係ではないのである。 互助関係なのである。

 その奇妙な言葉のやり取りはこちらの心を和ませ、そして奇妙な読後感をこちらに与えてくれる。 不思議なドラマだ。

 気が強くお転婆で人の心を思いやることのできる鈴愛であるが、第1週に続いて今週も、また恐ろしい夢を見たようだ。 先週は 「3本足のムーミンパパ」、今週は 「3つの月」 だ。
 ここで共通しているのは 「3」 という数字だが、「あり得ない、いつもと違う」 ということに対する恐怖が、鈴愛のなかに存在している可能性がある。 これも奇妙な引っかかりを見る側に残していく要因のひとつだ。

 次週から本格的に出演することになる永野芽郁。
 どのように成長した鈴愛を見せてくれるのだろう。

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2018年4月14日 (土)

「正義のセ」 悪趣味だが、元凶探し

 検事が主役のドラマというと、「HERO」 が思い出されるが、今回のこのドラマはベクトルとしてはそれと同じ方向を向いている。 いわく、真実をつきとめるためにフツーやらないような型破りな調査をする検事、という方向においてだ。
 だが 「HERO」 における久利生(木村拓哉)と今回の吉高由里子の決定的な差は、検事としての総合的な洞察力・判断力・能力があるかないかという点。 久利生はないようなふりをしてすごくある。 新人検事の吉高にはほぼない。 感情だけで動く。

 能力がほぼない場合、物語は必然的に当人の 「やる気」 だけを武器に案件に立ち向かっていかなければならない。
 すると、ドラマとしてはかなり初歩的なレベルで推移していかなければならなくなる。
 このドラマの最大で唯一の弱点はそこだ。
 第1話の話を思い返す限り、話はかなり単純で被疑者の口裏合わせという点でも久利生ならば取調室の時点で突き崩せるレベルのものだった気がする。 そこには吉高の 「書類の読み取り能力の欠如」 が原因として存在しているからだ。 そのために吉高はさまざまな 「やんなくてもいいこと」 をやり続ける羽目に陥る。 タクシーのドライブレコーダーを探しまくるなんて、ドラマ的な見栄えはいいが、警察が調べるレベルだろうし決定的な証拠にもなり得ないものだった。

 ドラマとして見せなければならないのは、そうした吉高の 「徒労」 を明確に出演者によって語らせることだ。 それを吉高が 「やり遂げた」 という美談に持って行ってしまうところに、このドラマの脱力ポイントがある。 新人というのは、いろんなところに余計に力が入ってしまうものだ。 そこをメインに語らせなければ、「お仕事ドラマ」 としての役割は果たせないのではないか。

 この、物語としての弱点を一気に引き受けてしまうのは、主役の吉高であろう。 彼女のキャラは、どちらかというとタリラリラ~ン系だ。 要するにどこか無責任さがついてまとっている感覚。 「東京タラレバ娘」 のときは、その無責任さ加減が 「結婚できない女」 の言い訳にピタッとハマっていた。 今回、吉高は久利生と張り合う必要性はまったくないが、見ている側からすれば容易に俎上に乗せられてしまう大変さはついてまわる。 そこで問題にされるのが、彼女のタリラリラ~ンさ加減なのだ。

 でももっと案件を面白くしてくれないと、リタイアするだろうな~。

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「シグナル 長期未解決事件捜査班」 分からないところがある…説明あった?

 フジテレビ火9、坂口健太郎主演の事件解決もの。 主人公が幼い頃に防げなかった同じ学校の女の子の殺人事件を解決していく、というのが第1回のストーリーだった。
 韓国ドラマが原作らしいが、「結婚できない男」「梅ちゃん先生」 の作者である尾崎将也による脚本はそれなりに苦心の跡があり、話にある程度の重厚感を持たせることには成功した…が、時系列を行ったり来たりさせることで話が見えにくくなった。

 特に北村一輝が演じる刑事が今どうなっているのか、そしてその北村と坂口がどうして電池の入っていない廃棄処分の無線機で話すことになったのか、私の注意力が散漫だったせいかもしれないが、それらが理解できないまま、真犯人が逮捕されるクライマックスまで見てしまった。
 どうもよく分からなかったので録画を見返したのだが、やはり分からない。 まあざっと見返しただけだから見落としたのかもしれないが。

 分からないのでネットで調べたら、どうもその無線機というのは過去と現在を結ぶ通信機らしい。 ドラマのなかで坂口も言っていたが、「わけ分かんねえ」。 いや、こっちもワケ分かんねえって(笑)。
 そもそもこの無線機に出会うまでのプロセスが分からない。 坂口は警察署の階段を行ったり来たりし、屋外に出てきたら何かにつまずいて 「どいつもこいつも俺の邪魔をしやがって」 みたいなことを言う。 いや、こっちはアンタが何やってるか分かんないって(笑)。 そしたら後ろの扉が開いたトラックに置かれたゴミ袋から音がしてくるのだ。 「廃棄」 というシールが書かれたそのゴミ袋には無線機が入っていて、そこから聞こえる北村の声は、前田とかいったか、なんとか警部補の言うとおり来てみたら首つり死体を見つけた、という内容。

 坂口がその現場に行ってみると、北村が探していたときと違って現場はやけに年月がたっている模様。 北村はそこにいなくて、坂口はそこで白骨化した首つり死体を見つける。 それは坂口が幼い頃に助けられなかった少女を殺した、とされる犯人(橋本って言ってたぞ…)のものだった。

 いやいや、何? 話が分かんないって。 橋本が犯人じゃない、っていうのはずっとドラマで説明されてたから分かるけど。

 番組HPでは大々的に 「過去と現在をつなぐ無線機」 などと喧伝してるからHP見た人なら分かるけど、事前情報ほぼゼロの状態で見た自分はなにがなんやら。 だいたいなんで無線機なんだよ、みたいな。 どうして電池が入ってないのに会話できるんだよ、みたいな。 それまで重厚な話の進行をしていたせいで、いきなりのSF設定が馴染まないのだ。 飛躍させるなあ。 私はそれを理解できないまま、犯人が坂口を陥れようとわざとそこに無線機を置いたのかみたいに考えてましたけどね。 電池がなくても1分くらいはしゃべれるのかな?みたいな(笑)。

 いや、その前のシーンで北村が若い頃の吉瀬美智子としゃべってたのは分かってた。 ただ、これも吉瀬の顔をちゃんと認識できないとこのシーンの意味もよく分からないみたいな。
 それまで北村が出てくるシーンはみんな過去の時系列のものばかりで、そこでの北村の演技って、なんか若作りしてる、っていう感覚だった。 だから北村は現在も出てくるもんだとばかり…。

 さらに混乱に拍車をかけるのは、坂口が 「警官だ」 という割にいつも私服なこと。 前に同じ時間帯でやってた 「FINAL CUT」 の亀梨もそうだったが、「コイツいつ仕事してるんだ?」 という疑問が湧いてくるのだ。
 付け加えれば、坂口は事件発生当時、「犯人は橋本ではない」 ということを何度も訴えたらしいが、ドラマを見る限り警察署にメモを残したくらいできちんと訴えたとはとても言えない。 警察のほうが小学生の坂口を相手にしなかった手落ちは確かにあるが。

 このドラマでの坂口は情報分析(プロファイリングっていうらしいが)に長けていて、彼は 「SHERLOCK」 のカンバーバッチ並みの分析能力を縦横無尽に展開する。 いわばこのドラマのもっとも面白い心臓部は、ここにあるといっていいだろう。 というか私はそう見た(第1回の推理はどれもものは考えよう、みたいでそんなに鋭くなかった気もするが)。 ただドラマの本来のキモは、過去と現在の刑事が協力して事件を解決する、というSFチックな方向にあるらしい。

 しかしドラマは、肝心な部分をきちんと説明しないと、見る側を混乱させたまま終点へと乗客を運んでしまうだろう。 どうも第1話を見る限り、1話完結ではないようなのだが、ドラマのタイトルは 「長期未解決事件捜査班」 だから、この先、主人公の坂口の人生に大きな影響を残した第1話の事件以外にも数種類の事件が起こるのだろうと思われる。

 とりあえず、しばらく見てみることにする。

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「コンフィデンスマンJP」 「演技する演技」 と 「演技しない演技」 の差

 「リーガルハイ」「デート」 などの脚本家、古沢良太による月9。 長澤まさみ、東出昌大、小日向文世が詐欺師を演じるドラマだ。
 ただし詐欺のスケールはかなり大きく、助っ人は大人数。 騙す金額もかかる費用も大きい(第1話だけかどうかは知らん)。 性格的に義賊、という一面があることから、そこで非道徳性は軽減されている。

 組織の構成人数が多いと情報漏えいの危険性が増すような気がするが、サポートメンバーはあくまで 「お遊び感覚」 のようだ。 情報が漏れないのは、ちょっと演技すれば大量の報酬が得られる、といううまみに自らの正義感が勝つことが出来ないせいだろう(この先どうなるかは知らん)。
 これは 「楽して儲ける」 システムが社会にはびこっている風潮もあるだろうし、「フェイク」、が流行語みたいになってしまい、ハードルが低くなっているせいでもあろう。 「貧困層の増大」 という問題もそこに潜んでいる気はする。 不平等感が、サポートメンバーたちをリークに走らせない抑止力になっているのだろう。

 しかしドラマはそうした小難しいこととは一切無縁だ。 ドラマのカギは、「どうやってターゲットを騙すか」、という小気味よさに委ねられている。
 そのカギは主要メンバー3人の演技力にかかっていることは自明だ。 ところが私の見立てでは絶えず演技力に不安がつきまとう東出が、メンバーの一人にいる。 第1回を見たところ果たしてその不安は的中したのだが、作り手たちが東出の演技力のなさを、却って 「これはフェイクなのか本気なのか」、という見る側の 「揺らぎ」 の道具にしようとしているような感じがしたのも、事実だ。 これは長澤にも多少当てはまる部分がある。

 役者がドラマのなかで 「演技をしてないように演じる」、というのは当たり前のことだ。 それが出来ない役者は 「大根」 と呼ばれる。 しかし今回の詐欺師のように、「演技をしている演技をする」、というのは、演出の意図を中核で把握していないとなかなか出来ない難しい種類のように思える。 ここでは東出とちょっとだけ長澤がその域に達することが出来ない役者なわけだ。
 でもそのことで、見ている側は多少混乱するのだ。 「ここもウソなのではないか」、と。
 演出の意図も、そこにある気がする。

 だが言いはじめれば 「全部ウソなのではないか」、ということにもなってしまうのだが(笑)。 第1回でも、小日向がターゲットにズタボロにやられ入院したときの長澤の演技に 「そもそもこれフェイクなんじゃ?」 と思ったが結局はそうだったわけであり。

 そこで威力を発揮したのが、第1回ゲストの江口洋介だった。 このターゲット、財団の会長でゴッドファーザーとも呼ばれている。 その演技力と言ったら。
 この、「他人を信用しない」 という男に試され助けられた東出は、小日向をズタボロにさせられた恨みも忘れて 「ありがとうございます~~っ!」 と江口にすがって泣く。
 このときの東出の演技は、かなり 「演技してない演技」 として合格点以上のものがある。 だから東出もまったく大根、というわけでもないのだが(言いたい放題言うねオレも)そこで東出の 「フェイクとリアル」 の境界線が分からなくなってしまうからくりにもなっている。

 いずれにしても騙されたと分かったときの江口の鳥取砂丘での演技は圧巻だった。 ただ、20億くらい江口の演じる会長にとってははした金のよーな気もしたが(笑)。

 これまで同じ古沢脚本のドラマでは、「リーガルハイ」 で堺雅人、「デート」 では東出の女房の杏(皮肉…)と長谷川博巳、と彼らの演技力でドラマがさらに昇華されたものだったが、今回はその要因が脆弱だ。 どうなるのか、しばらく様子を見ることにしよう。

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2018年4月 8日 (日)

「半分、青い。」 第1週 どれだけ多くのことを考えさせてくれるドラマになるんだろう

 この新年度、今年のNHKは結構移動が多い。
 朝ドラ直後に感想を述べ合う 「朝ドラ受け」 をする、テッパンだった 「あさイチ」 のメンバーも刷新され、ストレートに感動を表に出す有働アナウンサーや優しいイノッチ、ミもフタもない感想を述べる柳澤解説員もいなくなった。

 私は朝ドラを予約録画する際、この 「朝ドラ受け」 が見たくて、ここ数年、予約録画の時刻設定を毎回1分余計に8時16分までしていたものだ。 喜ばしいことに新メンバーの博多大丸・華吉と近江友里恵アナウンサーでも 「朝ドラ受け」 は存続するようなのだが、第1週を見る限り、まともに 「朝ドラ受け」 をするのは真ん中の人だけのようだ(小生、どっちが大丸なのか華吉なのか分からない)。

 ただしそれはとてもお笑い芸人によくあるそつないツカミのことが多くて、どうもしっかりとドラマを受け止めているような感覚がない。
 まあ、第1週から完璧を望んでも仕方のないことであるが、有働サンや柳澤サンの、ある意味 「忖度」 を排した(つまんないときは結構温度が低かった)朝ドラの感想は、朝ドラの完成度をある意味で補完していた気がするのだ。

 しかしそれがなくなって、肝心の朝ドラ自体の完成度まで影響をしている、としたら、どうなのだろう。 いや、そんなことはあり得ないのだが。

 つまり、今回の朝ドラ、第1週の前半(1-3回)、私は見ていて、あまり大した感想を持つことが出来ず、正直かなり退屈だった。
 物語スタートの舞台は昭和46年(1971年)の岐阜。 商店街の食堂だ。 主人公の母親(松雪泰子)が難産の末、今回のヒロインを産むまでに3回かかった。 私が見る限り、ヒロインが胎児の状態(CG)で出演したのは初めてで、そこだけは斬新だなと思った。 でもそれくらいの感想で、全体的に家族のコンビネーションもどうもしっくりきてないし、なんか見ていて落ち着かない、というか、フワフワした印象を持った。
 私の好きな 「あしたのジョー」 を主人公の父親(滝藤賢一)が愛読していたり、結構好きな役者である中村雅俊が祖父役(祖父…祖父かァ…)で出てたり、それなりに見どころはあったのだが。
 これって有働サンなんかの朝ドラ受けがなくなったせい?などとぼんやり考えてしまったのだ。

 で、主人公がようやく生まれて少女時代に突入した第1週後半から、その退屈さがなくなる。

 まずその主人公の祖母(風吹ジュン)が死んでナレーション役になったのが物語のメリハリに寄与している。 物語の目線が空の上に俯瞰されることで、話の奥行きが広がったのだ。
 そして、相変わらずではあるのだが、少女時代の主人公が朝ドラ印のスタンダードである、「おてんばだ」、ということも大きい。

 第1週後半、主人公の楡野鈴愛(にれのすずめ、少女期矢崎由紗)は天国のおばあちゃんと話をしようと、100メートル以上はあろうかという長い糸電話の実験を、友人たちを巻き込んで行なう。 これは細部には疑問が残る(いくら糸、とは言えナイロン糸で100メートル以上ともなればかなりの重さになる、ということとか)ものの、その壮大な話には心動かされる。 子供時代のエピソードとしてはインパクトがじゅうぶんだ。

 また、パートナーを亡くして意気消沈する中村や、母親(松雪泰子)のふとんに 「怖い夢を見た」 といって潜り込んでくる主人公の無邪気なところなど、目が離せず心を動かされる部分が出てきた(3本足のムーミンパパがパイプを持って追っかけてきた、には笑った)。

 もともと松雪泰子という女優は、「客観性キャラ」 の役者である、というのが私の考えだ。 つまりいつも冷静で、人間性のある感情を表に出すことが少ない。 だからコメディがあまり得意でない一面もある。 今週前半、物語がしっくりいっていない印象を持ったのは、それが原因だろう。
 そんな彼女が、布団にもぐりこんでくる自分の娘のかわいさに感動して泣いてしまう。 受け手はそういうところに共感を抱くのだ。

 第1週前半の印象が悪かったのは、余貴美子の演じる産科医のつかみどころのなさにも一因があったような気がする。 この産科医、なんかのんびりしていて、小生見ながらちょっとイライラしていた(笑)。 余貴美子は、スパッと切れ味のいい役のほうがいい。

 第1週後半で無邪気でおてんばなところを見せるヒロインであるが、第1回で早くも告白されたように、早晩おたふく風邪のウィルスで左耳の聴力を失うことになる。
 どんな出来事であれ、自分に起きてしまったことをいいほうに捉えるか悪い方に捉えるか。 今回のヒロインは自分の意志で、前者を選んでいる。 タイトルの 「半分青い」 というのは、いくら雨が降っていても雨音は右耳から聞こえない、つまり片方はいつも晴れている、という比喩から来ているようだが、おそらく主人公がその青さ(フレッシュさ)をいつまでも失わないでおこう、という決意も同時にあらわしている気がする。

 脚本は北川悦吏子。 私にとっては 「愛していると言ってくれ」 の印象が強いのだが、もう23年も前の作品になってしまう(1995年)。 豊川悦司が聴力をなくした画家の役だったが、今回の朝ドラでは売れっ子の少女マンガ家としてヒロインの前にやがて登場するようだ(東京編の舞台)。 その変人ぶりがクローズアップされそうだが、そうなると作品のカラー的に 「重版出来!」 に似てきてしまわないか、という危惧は今のところある。

 いずれにせよ、作品としての情報量が多いことを期待する。

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2018年4月 4日 (水)

キャンディーズ解散から、40年

おことわり 後書きを付け足しました。



 キャンディーズが1978年4月4日に後楽園球場(現在の、ほぼ東京ドームのある位置、といってよかろう)で解散してから、40年という長い歳月がたった。 当時私は13歳。 新年度から中学2年、という時期のことだ。

 大ファンであったとはいえ、彼女たちの公演に行くなどという発想は、微塵もなかった。 これから書くのは、4月4日当日の、私の個人的な行動についてである。 興味のない人にはどうでもいい話であるが、そのあと、9年前に当ブログで書いた記事を再録して、キャンディーズの存在した意味をもう一度確認しようと思う。

 当時うちでは一般紙と同時にスポーツ紙をとっていた。 スポーツニッポンのことだが、そこで解散の何カ月か前からキャンディーズの動静を伝える連載みたいなものが始まった。 「あと○○日」。 記事に書かれたその数字が少なくなっていくのと同時に、私のなかの焦燥感というものもいやおうなく昂ぶっていくのが分かった。 私はその記事を切り取り、ファイルし続けた。

 その頃の私は学校から帰ってくるとビートルズのレコードを大音量でかけ、一緒に大声を張り上げて歌うのが日課となっていた。 おそらく近所中にはよく響いていて、よくそんなことが許されていたな、と思うが、親からはいつも壁をドンドンと叩かれ、「うるさい!」 と怒られていたものだ。 確かマイケル・ジャクソンの 「ブラック&ホワイト」 の冒頭だったと思うが、子供がハードロックをガンガンかけて親がドンドン!と壁を叩くシーンがある。 そのドンドン!がまるっきりその頃の私の聞いた音と一緒で、「ブラック&ホワイト」 のその部分を聞くたびに、心臓が縮みあがる思いがする(笑)。

 とんだ余談が入ったが、私はその、キャンディーズが最後の熱唱をする4月4日の、公演が行なわれる同時間帯に、一緒に歌を歌って彼女たちと一緒に果てよう、と決めた。 いつもならアルバム1枚か2枚で切り上げるところを、公演がたぶん続くであろうと思われる3~4時間くらい歌いまくろう、と決めたのである。

 その日の3時過ぎくらいだったか、TBSで三雲アナウンサーがファイナルカーニバル開演前の様子をリポートしていた気がする。 現場でだったかスタジオでだったかは覚えていない。 それを見て、ますます中2寸前の少年は覚悟の炎を燃やしていった。

 今から考えればそりゃアホな話だ。 歌うのはビートルズの曲であってキャンディーズの曲ではない。 公演に行く、という発想がなくても、春休み期間中だったのだから後楽園球場まで行って外からでも彼女たちを応援することはできたはずだ。
 しかしそれは、ほかのキャンディーズ命の連中を見かけることを意味する。 私はあくまで、私だけが愛でるキャンディーズと、同時間帯に自分の大切なビートルズの歌を歌うことで、対等に勝負したかったのだ。 そして3時間も4時間も歌い続ける彼女たちの頑張りを共有し、自らの胸に刻みつけたかったのだ。

 午後6時ごろに夕食を取り終えた私はさっそくそれに取りかかった。 アルバム1枚、2枚…。 ここまではいつものことだが、その日はさらに5枚、6枚と続いた。 正味3時間以上は歌っていたと思うから、LPレコード1枚分が40分、と単純計算しても、5枚以上は確実に歌っている。 途中から、完全に声が潰れた。 潰れたが、構わず歌った。 それほど彼女たちに対する思いが強かったせいもあるが、今から考えると常軌を逸した思い入れっぷりだ。 中学に入ってからの私はかなりコンプレックスにさいなまれた日々を送っていたのだが、その反動が 「何かに対する思い入れ」 という形で顕現していたのだろう。 先の 「鶴ひろみさん死去」 の記事でも同様の異常な行動を書いたが、当時の私はなにかにつけて極端な収集癖とか偏執的な詩を書くことで自らを慰めていた気がする。

 たぶん10時くらいまで声ガラガラの熱唱は続き、そのあとどう過ごしたかは覚えていないが、その日の深夜はラジオのニッポン放送でファイナルカーニバルの模様を流したのを聞いた。 たぶんオールナイトニッポン枠での特別編成だったと思うが、驚いたことにその番組に、キャンディーズが電話で出演した。 私は単純に、ファイナルカーニバルが終わればキャンディーズは完全に終わるのだ、と思っていたせいで少々混乱した。
 混乱、と言い出すと、その日までの自分のテンションが異常過ぎて、その番組を聴いていてもなんだか公演の模様がよく分からなかったことを覚えている。
 数カ月後、ファイナルカーニバルの3枚組レコードを買ったときにその原因の一部は分かったような気がする。
 つまり、その当時の後楽園球場でのPA(音響装置)が音楽イベント用に出来ていなかったせいで、音の反響がものすごかったのだ。 5万人の大観衆はその、反響してくる音に合わせて親衛隊用の応援をするものだから、余計にわけが分からなくなる。
 この、音楽イベント用にPAが出来てない、というのは悲しいかな、現在の東京ドームにも言えていることだ。 反響ということはないのだが、音が聞こえるところと聞こえないところの差が激し過ぎる。
 いずれにしろ、「後楽園球場でライヴ」、ということは私の思いつく限りでは日本ではキャンディーズが最初だったのではないか。 海外のバンドがやったことはある気もするが。

 そして。

 そのあと2週間くらいはその巨大な喪失感で、中学2年の最初の時期を過ごすこととなった。 まるで腑抜け状態である。

 歌っている途中で、声を潰した、と書いた。

 その数日後、また歌おうと思って愕然とした。

 声が出ないのである。

 これはかなりショックだった。 なにしろ当時の私は、がなりたてることで自分のストレスを発散していたのだから。 「このまま一生歌が歌えないのか」。 13歳の私は本気でそう考えた。 キャンディーズがいなくなったことの追い打ちをかけるように、ますます私は暗くなった。

 しかしながらその状態は、おそらく2週間程度で解消した。 そして歌い出して気付いたのは、以前よりも数倍喉がよくなっていることだった。 それまでは出せなかった高いトーンも平気で出せる。 シャウトも思うようにできる。 私はますますギャンギャン歌うようになった(ハハ…)。 近所のみなさんに遅ればせながらここで改めてお詫びいたします(笑)。

 それにしても、40年後のこの日に、キャンディーズのメンバーがひとり欠けているなど、思いもよらなかったことである。 私はスーちゃんが亡くなってから、しばらくキャンディーズの歌が聞けない状態になった。 聴けば思い出して、涙がポロポロ(キャンの歌ではないが)流れてしまう。 ここ1、2年のことだろうか、またちゃんと聞けるようになったのは。

 ここからは冒頭に予告した通り、9年前の当ブログの記事を再掲する。

「キャンディーズ解散から31年」(2009年4月4日付当ブログ記事)

 去年は解散からちょうど30年の節目だったこともあって、全キャン連主催の同窓会が開かれたり、何かと周辺関係が騒がしかったキャンディーズだが、今年はなんのニュースも伝わってこない。 さびしいものだ。
 だが、キャンディーズのファンにとって、4月4日というのは何があろうと、なにものにも替え難い特別な日であることは間違いない。 私はいまだに、4月4日が来ると、当時の切なかった気持ちを思い出す。

 私にとってキャンディーズというのは、とても明るくて、いつも元気をもらえる姉貴たち、みたいな存在だった。 それは私が同時期にファンだった百恵ちゃんに対して抱いていた思いとは少し違う、仲間というか同志というか、そんな連帯感だった気がする。
 だがそんな連帯感も、恋愛感情にすり替わるのは、あっという間だ。
 彼女たちが解散宣言をしてから解散するまでの間、世間がまるでお祭り騒ぎのように彼女たちに群がるように、やがていなくなってしまう姉貴たちに対して、私も思いを募らせていったのだった。

 キャンディーズという3人組は、世間一般では、「年下の男の子」 というヒットが生まれるまで泣かず飛ばずだったように認識されているようだが、「8時だョ!全員集合」 を見ていた私たち子供の層にとっては、デビューのころからよく見知っているアイドルだった。
 体操の時間に活躍する彼女たちが、「あなたに夢中」 というデビュー曲を 「全員集合」 の中で歌った記憶がある。 「ああデビューしたんだ」 と思ったものだ。 確か小学館の 「小学四年生」 の付録にも、緑色のコスチュームの彼女たちが載っていた。

 その後 「そよ風のくちづけ」「危い土曜日」「なみだの季節」 という、ちっとも売れなかったらしいそれらの曲も、私はよく知っていた。 たぶん 「全員集合」 の中で歌われたんだと思う。
 特に 「なみだの季節」 はセールス的には散々だったらしいが、それまで出ていた彼女たちの歌の中では、一番好きだった。 おそらく彼女たちの初めてのダウナーな歌が、暗い曲好きの私の琴線に引っかかったのだ。 だが今にして思えば、次に出される 「年下の男の子」 という最後の賭けを前にした彼女たちの不遇な状況を、「なみだの季節」 からなんとなく感じ取っていたのかもしれない。

 大胆なイメチェンを図った「年下の男の子」 からの人気はよく知られる通りだが、私にはキャンディーズはあくまで初めから人気があった。 ように見えていた。 そこから、デビューのころから彼女たちを見守ってきた、という変な自負も生まれた気がする。 オレだけがキャンディーズを分かるんだ、みたいな。 とんだナマイキ者だが。

 そのナマイキな観点から述べさせてもらえば、彼女たちの真骨頂は、やはりその明るさにあった。
 「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」 や 「GO!GO!キャンディーズ」 で彼女たちが見せた過激なテンションには、同時代のどのアイドルも敵わなかった。
 キャンディーズが所属した渡辺プロには、先にザ・ピーナッツという 「コントもこなせるアイドル」 がすでに存在していた。 だが私は、ザ・ピーナッツのコントには基本に忠実なプロ意識を見るのだが、キャンディーズのコントには天性のコメディエンヌとしてのカンを駆使しているようなところを感じる。 コントの質から言うと、キャンディーズのほうが突き抜けているように思うのだ。 たとえ、それが 「やらされている」 ものだったとしても。

 この、アイドルがある種の役割を 「演じさせられている」 という感覚は、やはりキャンディーズにも絶えずつきまとっていた。 だが、彼女たちには、それを吹き飛ばして余りある 「元気さ」 があった。 そこにはどんな建前さえも無力である。 私はキャンディーズの、飾らないその魅力が何より好きだった。 だいたい、ウソなんかついたところで、見破られてしまうのがオチなんじゃなかろうか。

 だが、キャンディーズは、この私のナマイキな定義だけでおさまる存在ではなかったのだ。

 彼女たちは、当時のアイドル界ではほとんど空前絶後のライヴ・パフォーマーだったのだ。
 これは、テレビだけでキャンディーズを見てきた私には、およそ思いもつかない一面である。

 残念なことに、私は彼女たちのライヴを見に行ったことがない。 彼女たちのライヴを支えたのは、私の世代よりも上の世代の人たちだった。
 そして彼女たちにとっても、ライヴこそが自分たちの最重要視した表現の場だったのだろう。
 ライヴを自分たちの活動の最後に持ってきた、という意味で、4月4日のファイナル・カーニバルというのは、キャンディーズをその存在理由と共に封印する、最もふさわしい方法だった。

 私は、解散前から現在に至るまでの、彼女たちのキャンディーズにまつわる言動を見ていると、そこに 「キャンディーズを最高のままで輝かせていたい」 という意思を、強く感じる。

 おそらくその解散には、プロダクション側の思惑や、汚い話もいろいろあったことだろう。
 だが、彼女たちはそのことを決して口には出さない。
 それは、彼女たちの心情に、「キャンディーズを汚したくない」 という思いがあるせいなのだ。
 彼女たちはデビューするとき、「何があっても3年間は頑張ろう」 という誓いを立てたという。 そして、「最高の時に解散しよう」 という思いもあったらしい。
 ファイナルカーニバルでの最後の曲、「つばさ」 の中でランは、「キャンディーズは、最高のまま、解散します」 と語りかけた。
 キャンディーズは、自分たちの誓いに、殉じたのだ。
 そのことは、長い年月を経てもなお、私を感動させる。

 付記

 キャンディーズ解散から40年、という感慨のあとに(表だったニュースがなかったのはいかにもさびしい)4月6日、「池袋のサンシャイン60開業40年」、というニュースを見た。
 つまり、キャンディーズ解散のたった2日後に、東京都心の高層ビルの草分けであるサンシャインが出来たということになる。 当時東京都には(すなわち日本には)、霞が関ビルと世界貿易センタービルくらいしか、高層ビルはなかった(どっちとも小学校の社会科見学で行った)。

 そういう時代だったのだ。

 キャンディーズ解散から40年後、仕事中に街並を歩く人たちを見ながら、「この人たちの大半はキャンディーズのことなんか知らない」、と考えた。 知っているのは、もうたぶん壮年、初老、そしてすでに老いた人たちばかりだ。 40年、というのは、そういう時間だ。

 自分がナマで体験してきた時代が、もうすでに 「歴史」 と呼ばれる一通過点と化している。 それがきちんと評価され直すのは、いったいいつのことなのだろう。

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2018年4月 1日 (日)

「西郷どん」 とか、冬ドラマいろいろ(「スニッファー」「アンナチュラル」「FINAL CUT」「海月姫」「BG」)

 冬ドラマの総括をしたいのだが最近まともにテレビを見ることが出来ない。 その癖 「グラビティ・ゼロ」 だの 「ゴースト~ニューヨークの幻」 だの、BSでやってる映画などを見てしまうものだから、ますます時間が足りなくなる(番組表のチェックだけはしているということだが)。

 こないだなんぞ、新春にやってた 「英雄の選択・幕末薩摩藩スペシャル」 を見てしまって、司会の磯田道史氏がこの番組で披露した知識が、彼の監修する今年の大河ドラマ 「西郷どん」 にもっと反映されれば、と臍を噛む思いになったものだった。

 ただしその 「西郷どん」 であるが。

 「幕末」 という複雑な素材を一旦咀嚼し、分かりやすい 「感情の物語」 に構築し直している、という気はする。

 ここで脚本家の中園たちにとってもっとも厄介に思えるのが、かつての大河での同じモチーフであり同時に傑作と謳われる(私は見てない)「翔ぶが如く」 である。 司馬遼太郎による原作が反映されて、かなり難解な作品だったらしい。 中園たちはまず、この作品の支持者を裏切る必要性に迫られ、女性目線の方向性で西郷を見つめ直している。

 要するに尊王だの攘夷だのという、難解かつ幕末を語るうえで欠かせない知識を必要最小限にとどめよう、という試みだ。 そのためには西郷の思想に大きな影響を与えた、という人物も平気で省略するらしい。 藤田東湖を西郷どん紀行でナレ死させたのがいい例だ(あんまし知らんかったから別にいーけど)。

 しかしこれは、私とは違う歴史に詳しい大河ドラマファンの神経を大いに逆なでする行為に等しい。

 難解なテーマを持つ大河ドラマの試みは、実は近年 「平清盛」 で試されている。 が、往年の大河ファンには受けが良かったが視聴率的には惨敗だった。 ここから大河ドラマは 「分かりやすい方向」 に舵を切ったように思う。

 同時に感じるのは、「もともと勝者の論理で構成されている場合が多く 『史実』 というものが当てにならなくなっている現在、わざわざその 『史実』 どおりに歴史を描く必要がなく、独自の解釈を創作してもいいのではないか」、という作り手の意向が見え隠れすることだ。

 ただ先日放送された 「NHKラジオ深夜便」 での 「西郷どん」 アゲ番組で、時代考証を担当している人が、西郷の3番目の妻である糸をかなり早く登場させてしまったことを、中園に押し切られて目をつぶったと弁解していたが、これは創作ではなく歴史改竄の一種であろう。
 中園にとっては視聴者に感情移入をさせることが第一義であり、ドラマとしての体裁を整えることがなにより重要なのだ。
 そのためには西郷と糸との関係を運命的に強固なものにすりかえる必要がどうしてもあった。
 さらには西郷と篤姫を、一種疑似恋愛的な関係にすることも厭わない。
 安政の大地震で血まみれになって篤姫を守った西郷に、篤姫は 「私を連れてどこか遠くに逃げて欲しい」 と懇願する。 果たしてその気持ちは一瞬のもので、実はそこから篤姫の悲壮な覚悟を最大限に演出しよう、という、中園のストーリーテラーとしての腕の見せ所へと変貌したのだ。

 私は当初、こうした作り手の 「人物萌え的な作品至上主義」 に辟易していたのだが、難解な幕末の、入り乱れた思想の海のなかに身を投じるよりも、半径何メートルかの感情のなかで生きている西郷、という目線で見ることも、作品のあり方としてはありなのかもしれない、と思うようになってきた。 話は確かに幕末でなくとも西郷でなくとも成立する話に堕したが、その話自体は、よくできた 「人間の感情」 のドラマとして別の方向で昇華されている気はするのだ。

 しかしそんな単純化された構造のなかで、この先どうやって磯田道史氏の指摘する 「薩摩藩のリアリズム」 を表現していくというのだろう。 4月1日の放送では話をいったん中断し、「西郷どんスペシャル」 を放送するらしい。 前代未聞だ。 回数が削減されても、これなら年末までの帳尻が合うだろう。 この先2回くらいはこういうのがありそうだ。 今年の大河は、あくまで分かりやすく、視聴者に開かれている。

 そんな 「みなさまのNHK」 であるが、スペシャルドラマでいいのをやったりする。
 そのひとつに、阿部寛がイヌ並みに鼻の利く(いや、それ以上の設定か?)特殊能力を持った捜査官を演じる 「スニッファー」 があった。 これは去年だか一昨年だかにやった連続ドラマの続編で、どうもコメント欄以外にこのブログで話題にした記憶がないが、結構楽しんで見ていた。
 今回のスペシャル版はそれまでのレギュラーに加えて波瑠が刑事の役で出てきたのだが、これによって連続ドラマを見ていなかった人にも分かりやすい人物関係の整頓が行なわれていた。

 阿部はこうした 「変人」 の役をやらせるとまず右に出るものはいない。
 それは阿部が持っている 「妙に落ち着き払った態度と声質」 が実は仮面であり見栄であり虚飾なのだ、ということを、当の阿部自身がコミカルな演技の武器にしているからだ。
 カッコつけたヤツが予測不能な出来事に対応できず、思わず自分の素が出てしまう、ということの面白さを、阿部は熟知している。 そしてそれを熟知したドラマの作り手だけが、阿部のその面白さを引き出すことができる。
 自分の鼻が利き過ぎていつもは 「鼻栓」 をしている阿部が独特の器具でそれを取り出す仕草の妙に可笑しなことと言ったら。 そして鼻栓が抜けたときから、阿部はスーパーマンに変身する。 そのカタルシスと言ったら。

 ただし普段、口ばかりで呼吸していると雑菌が体内に入る可能性は高まる(笑)。

 そんな阿部の特殊能力に、事あるごとにすがってくる刑事の香川照之はスペシャル版の早々からその任を解かれるのだが(代わりにやってきたのが波瑠だったわけだ)、レギュラーシーズン以上に崖っぷち度が上がって彼の演じる役のなかではキンチョールのCMを初めて凌駕する(笑)コミカル度の高い印象的な役となった。
 なにしろ香川といえば歌舞伎のそれをそのまま応用したような過剰な演技が特徴なのだが、それは時にお腹いっぱいになってしまうことがある。
 しかし今回の崖っぷち設定は、その香川の過剰さが却ってコメディの王道にすっぽり合致してしまった。 今回の香川は、かなり笑えた。

 そしてその香川のコミカルな部分をある意味で際立たせたのは、今回の犯人役である(あっネタバレしちゃうぞ)松尾スズキだ。
 この人、私が見てきた俳優のなかではもっとも、「どこにでもいそうな人」 だ。 どこにでもいそうだから、最初まったく目立たない。 しかもドラマがある程度進行しても、見る側の犯人予想リストにまったく入ってこない。 こういうどこにでもいそうな人というのは、自分が犯人だとばれると途端に今までの普通さが仮面だったとばかりにファナティックになったりするものだが、彼は自らの犯罪がバレて追い込まれても、あくまで普通のどこにでもいるオッサンが、弁解するでもなくただの普段の愚痴の延長上みたいなヘタな言い訳をする点が、却って新鮮に映った。
 しかし彼の持っている武器は、何十万人も殺せる、という新種の炭疽菌なのだ。 自分のやっていることの重大性と、本人の感情のあまりのフツーさとのギャップが大きい、というのは、作り手が掘り当てた新たな 「リアルな恐怖」 なのかもしれない(いや、私がほかに知らんだけかもしれないが)。

 自分が犯人だとばれた途端ファナティックになったのが、「アンナチュラル」 の連続殺人犯だった。

 ああもう時間がない。

 続きはまた。

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