« 2018年4月 | トップページ | 2018年9月 »

2018年5月

2018年5月19日 (土)

西城秀樹をシングル曲で振り返る

 西城秀樹が早すぎる死を迎えてからのち、テレビでは街の人に聞いた彼の曲ベスト3だのをよく放送しているが、まあそれが一般的な捉え方とは言え、1972年の彼のデビュー時(ほぼ)からコアなファンであった自分にとっては非常に不本意を感じることが多い。

 街の人に聞いた西城秀樹の歌ベスト3というのは、だいたいが 「ヤングマン」 が1位であとは 「傷だらけのローラ」「情熱の嵐」 などが続く。
 私がベスト3を選ぶとすれば第1位は 「ラスト・シーン」(1976年)だ。 この曲はバラードで、およそ秀樹の激しいイメージとはそぐわない。 イメージが違うせいか確かあまりヒットしなかった覚えがある。
 この曲は大人の女性に歌の主人公が失恋していく様を歌っているのだが、とにかく阿久悠が書いている詞の世界が素晴らしい。

 ♪「何年でも待つよ」 と言ったら、あなたはさびしく微笑みながら 「そんなことをしたら不幸になるわ 忘れたほうがいい」 と言う――。

 この曲の詞をじっくり読んでいくと、相手の女性はおそらく早晩死んでしまうのだろう、ということが想像できる。 相手の女性はもはや、「ありがとう」 という言葉しか主人公の男に送ることが出来ないのだ。

 ♪ありがとう しあわせだったわ 一緒に歩けなくてごめんなさい

 これが2番では 「できれば もっと早く逢いたかった」 となる。 その言葉を聞いた男は、賑やかな雑踏のなかで熱があるように震え、夢を見たように、泣くのである。

 この 「ラスト・シーン」 という歌は1976年の12月に発売されているが、阿久悠は同時期に桜田淳子に対しても 「もう一度だけ振り向いて」 という傑作を提供している。
 当時の阿久悠のモチベーションについて私はよく考えるのだが、おそらく根底には山口百恵の 「横須賀ストーリー」 があるのではないか、とにらんでいる。 阿木曜子が書いた 「横須賀ストーリー」 の詞はこれまでのアイドルが歌ってきた歌詞とは完全に一線を画している。 要するに、散文調なのだ。 そしてその歌詞に流れる精神性は、少女の憧れとか悩みとかを描いてきたアイドル歌謡とは異質のものだ。 当時の阿久悠はそれを凌駕する必然性に直面したのではないか、と私は考えている。

 そして秀樹は、阿久悠が目指したその一歩先の精神性を見事に歌いきったのだが、時代はまだその必然性にまで達していなかったのだろう。 桜田淳子の 「もう一度だけ振り向いて」 もあまり売れなかった記憶がある。 桜田淳子がワンステージ上の世界を歌うのに中島みゆきの 「しあわせ芝居」 まで待たなければならなかったのと同様に、西城秀樹も 「ブーツをぬいで朝食を」 まで待たなければならなかったのだろう。

 「ラスト・シーン」 で死にゆく恋人の達観した心象についていけずただ泣くだけの 「僕」 は、今の私の心境とも重なる。 あまりにも早い西城秀樹の死に、ただ呆然とするばかりなのだ。

 私が次に選ぶ西城秀樹の曲は、「至上の愛」(1975年)。 この曲もバラードだが、後半盛り上がっていくのでロッカバラード、という範疇に入ろうか。 まずイントロで女性のスキャットが入る(この元ネタはたぶんあの曲だと思うのだが曲名が出てこない)。 この時点でそれまでの西城秀樹の曲とは全く違う驚きをもたらすのだ。

 安井かずみによる歌詞はかなり主観を前面に出したものだが、曲の世界観は当時流行っていたタカラヅカの 「ベルサイユのばら」 を連想させる。
 秀樹の歌もそれを受けて激しい曲のときよりも余計に情感がこもっていて、お互いの昂ぶっていく気持ちを抗いきれない切迫感をというものが曲全体にあふれているのだ。 この曲を初めて聞いた小学5年の頃の自分の気持ちを、私は未だに覚えている。

 ♪君をどこかに連れて行きたい 海が見える見知らぬ街へ

 このフレーズのバックで流れるディストーションがかかったエレキギターがまた怖くて秀逸だ。 私は男の子だったが、本当に秀樹の歌に巻き込まれてどこかに行ってしまいそうな錯覚を覚えた。 かなりの衝撃だった。
 衝撃と言えば 「傷だらけのローラ」 でも、秀樹の第一声が始まる前の、おそらくシンセサイザーの何重ものダビングだろうと思うが(当時のシンセサイザーはまだ和音を出せなかったはずだ)、低音から高音に上昇していくその音も、当時衝撃的だった。 西城秀樹の歌はロックの世界を歌謡曲にもたらした、という評価を、この訃報の際にもよく聞いたものだが、ビートルズに衝撃を受けるまで私が衝撃を受け続けていたのはほとんど西城秀樹だけだったと言っていい。

 1975年に発売された秀樹のシングル曲というのは 「白い教会」 にしても 「恋の暴走」 にしてもいい曲だらけなのだが、私が次に推したいのは 「この愛のときめきを」 だ。 イントロなしでコーラスが入る。

 ♪どんなふうに どんなふうに どんなふうに どんなふうに愛したら分かってくれるだろう

 この構成で分かるように、この曲はどことなくミュージカルのなかの1曲、という風情の曲だ。 エンディングに入ると曲のイメージはぐっと自由になっていく。 こういうちょっとした変化球みたいな曲をいきなりリリースされると、ガキンチョはそれだけで夢中になってしまう。
 確かに 「情熱の嵐」 や 「激しい恋」「薔薇の鎖」 などストレートなロック色の強い曲も極上のものがあったが、こうしたジャンルの違う曲をいきなりリリース出来る、というのも西城秀樹の強みだったような気がする。

 そのほかにも 「涙と友情」(1974年)。 「ジャガー」(1976年)。 どうも私の好きな曲というのは世間と大きくずれているようだ。

 そんな私が違和感を覚えたのは、やはり 「ヤングマン」 だったろうか。 曲自体はいいのだが、どうもパッケージングがオコチャマ向けぽいというか。 万人向けだからこそ件のニュース番組でも未だに第1位になる曲だし 「ザ・ベストテン」 での最高得票数 「9999点」 のインパクトも未だに抜けないのであろう。 ただ中2になっていた私は少々引いたところから見ていた気がする。

 西城秀樹が 「鳩子の海」 でブレークした斎藤こず恵と一緒にやっていたラジオ番組を覚えている。 文化放送の 「ヒデキとこず恵の楽しいデート」 だ。 当時10才にも満たなかった斎藤こず恵は 「チコちゃんに叱られる」 のチコちゃんも真っ青なかなり破壊的なキャラクターで(笑)、「パパのおいもちゃん」 などと番組中に発言したりしてヒデキがオロオロし、そのヒデキのオロオロをこず恵がさらに面白がる、といった構図だった。 かなり面白くて、カッパブックスだったか、番組をまとめた本が出たのを買ったりした。 あれは今どこに行ってしまったのか。 もう一度読みたい。

 NHKでやってた 「青春のポップス」 の司会も忘れ難い。 ヒデキのやっていた番組を見ていたのはあれが最後だったか。 うろ覚えであるが、番組をやってる時期に最初の脳梗塞をしたような気がする。 最初の脳梗塞をしてからは 「吉田照美のヤルMAN」 に出演してさかんに水を飲むようにと話してたっけ。 2、3年くらい前の 「NHK思い出のメロディー」 に出てたのを見たのが、個人的には最後になってしまったことになる。

 どうしてこんなことになったのか、とても混乱している。
 ただご冥福を、祈るばかりだ。
 ありがとう、ヒデキ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年5月 5日 (土)

「ブラックペアン」 身長の低い二宮が今回目指したもの

 TBS日曜劇場枠の医療ドラマ。 主演に嵐の二宮和也、そこに竹内涼真や葵わかながついて、後方には内野聖陽・市川猿之助という 「風林火山」 のコンビがまします。

 第2回まで見る限り、演出が極端すぎる気がしている。 これは 「半沢直樹」 や 「陸王」 など、「いつもの日曜劇場クオリティ」 のオーゲサさなのだが、こと医療の場合にはそぐわない。 医者どうしの醜い見栄やらプライドやらを極端に表現し始めたら、まず置いていかれるのは患者の命、ということになるからだ。 このドラマを見ていて不快になる、まず最大の要因はそこにある。

 その胸糞の悪さをもっとも背負っているのは、主役の二宮和也であろう。 彼はその最悪のキャラ設定もさることながら、ジャニーズ事務所のタレント、として世間に認知されている、というマイナス要因も背負わされている。 この役は彼にとって、リスクだらけなのだ。

 二宮はその大学病院内で最高の技術を有している内野聖陽をしのぐ腕を持っている天才外科医でありながら、そのことをハナにかけ、まわりじゅうを馬鹿にし、金で患者の命を救うことを請け負う。 しかし出世欲はまったくない。
 まるで 「根性の悪いブラックジャック」、といった風情だが、第2回までを見る限り彼は患者には金を請求していないようだ(分かんないけど)。 1000万とか1億とか、彼が金をせびるのは医者とか研修医とかだけのような気がする(確信は持てない)。

 金と同時に彼が欲しがるのは、自分が助けようとする医者の辞表であるようだ。 つまりまあ、退職金目当て、ということになるのかもしれないが、このことから推察するに、彼が欲しがっている(いや、剥ぎ取り踏みつけようとしている)のは、その医者が持っている 「下らないプライド」 なのであろう。
 それゆえに、彼は手術における最悪の局面のときを狡猾に待ち伏せしているようなところがある。 彼には、「スキルのない医者」 を駆逐しようという明確な意思があるようだ。

 そのことを、彼は思いあがりまくった傲慢な態度という仮面で、蔽い隠そうとしている。
 二宮は今回、それを強調するために、彼に与えられた 「渡海」 という男の役を 「精神的にガキのままの人間」「悪ガキのようにふざけた人間」 として演じようとしているように、私には見える。

 このドラマで医局の人間たちに取り囲まれる二宮は、正直なところ 「大人と子ども」 レベルの身長差を隠すことが出来ない。 新人の竹内涼真にさえ大きく水をあけられているのだが、そんな大男のなかで彼は、徹底して嫌味な男を演じることで、「ナマイキなガキ」 というドラマ上の立ち位置を得ようとしているように思えるのだ。 しかもその 「クソナマイキなガキ」 は、ゴッドハンドを持つ至高の天才だ。

 その試みは、少し間違うとヘタクソな演技に見えてしまったり、妖怪の 「子泣き爺」 みたいな道化になってしまう危険性を孕んでいる。 しかし二宮のその試みは、自らの身長の低さを利用した 「憎らしさの表現」 なのだと私は思う。

 しかしその 「クソナマイキなガキ」 の真の目的というものは、今後このドラマに大きなうねりを呼んでいくことだろう。 正直言って第2話までは、主役は研修医の竹内涼真であり、竹内の未熟さが 「いつもの日曜劇場」 チックに展開し、オーゲサに泣いたり喚いたりするものだから、少々呆れてきたのは事実だ。
 竹内の演じる研修医は第2話で早くも異動届けを出すかどうかで迷うのだが、本番であそこまで力が発揮できないようでは医者そのものをやめた方がいい、という渡海の忠告は当然だ。 第3話ではこれまでさんざん引っ張ってきたスナイプという医療器具を再び使うようだし。 二宮が主役なのであれば、とっとと本題に入ってもらいたい気分だ。

 まあ、渡海のような完全無欠の腕の持ち主でかつサイテー男がそばにいたら、みんな普通の精神状態じゃなくなって出来るものも出来なくなってしまうだろうが…。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年5月 4日 (金)

冬ドラマいろいろの話の続き(「FINAL CUT」「海月姫」「BG」)

 ほとんど過去の話になりつつあるが、いったん出した以上最後まで書かねばなるまい。 ただしかなり時間がたっているので、だいぶん筋を忘れている。 所詮テレビドラマとはそういうものなのだろうか。

 「FINAL CUT」。

 関西テレビ発の復讐ドラマといって直ちに比較されねばならない宿命なのは、草彅剛の一連の 「戦争」 ドラマであろう。 このドラマの放送中も、草彅と亀梨和也の演技力の差がネットでは取り沙汰されていた。
 しかし私は思うのだが、草彅と亀梨は土台となるキャラにおいて大きな違いがあるのであって、比較することはそもそも難しい。

 草彅剛というキャラクターは、彼が以前引き起こした事件を未だに重く引きずっているようなところがある(蛇足だが、TOKIOの山口達也が起こした事件に比べれば他愛のないものだ)。
 すなわち、外ヅラはいいけれども内面に大きな不満を抱えている、という側面。 SMAPからの脱退でそのパワーの不均衡意識、差別的意識はいくらか和らいだ気もするが、ドラマに出てくる彼の魅力を支えているのは、未だにその二面性なのだと私は考えている。
 そしてそのイメージは復讐劇において冷徹さを演出する最大の武器になるのだ。

 しかしながら、亀梨和也の一般的なイメージというのは、まずもって彼が 「ストイック」「一直線にマジメ」、というものだと思う。 それは彼の前作 「ボク、運命の人です。」 にも大いに生かされていて、神と名乗る山Pに自らの運命を知らされた亀梨は、あくまで愚直に 「運命の女性」 木村文乃にアタックしていった。 もちろん愚直であるがゆえに愚痴や文句もストレートで、そのおかしさがドラマを支えていた、といっていい。
 その彼が復讐に手を染めるとどうなるのか。

 自分の母親が幼女殺害事件の容疑者となってマスコミに追いまくられ自殺。 この恨みを晴らそうと、彼はまず母親を犯人扱いした最も影響力のあるニュースワイド番組に狙いを定め、犯人と思われる男のアリバイを偽証したと思われるその男のふたりの妹に近づき、さらに恣意的に母親を犯人に仕立てていった警察の人間にターゲットを移行していく。
 その計画はまことに用意周到で、隠しカメラを仕込みまくって相手の弱みを収集し、それをネタに相手を脅迫する。

 私は当初、最初にターゲットになっていたニュースワイドショー番組に対するドラマの姿勢を見ていて、「こんな身内批判がよくやれるな」、と感心して見ていた。 これはもしかするとがけっぷちのフジテレビ(厳密には関西テレビだが)が自暴自棄になって(笑)「ドラマ部が報道部を批判」 というタブーを破っているのかと。
 ただしその報道局に対する批判的姿勢はドラマ後半になって大きく様変わりし、「あとでこうするから許してね」、ということだったかと妙に納得(笑)。

 それはそうと、亀梨が復讐をするならこのように愚直にやる、という見本のような感じで、このドラマは草彅の復讐ではない、亀梨の復讐劇なのだ、との感を強くした。
 その愚直さがいちばん仇となったのは、「ヘンなキメゼリフを作ってしまった」 ということに尽きるだろう。
 相手をさんざん追い詰めて、証拠となるウェブページのアドレスを相手にちらつかせながら、亀梨はこう言うのだ。

 「これがあなたの、ファイナルカットです」。

 さんざん相手を罵倒し、「オマエが○○」「オマエがあーしたんだろ、こーしたんだろ!」 と汚い言葉を使ったあとだから、その違和感たるや。

 「キメゼリフ」 というものが必要なドラマとそうでないドラマについて、このドラマはとてもよく考えさせる機会になってくれた(笑)。 しかも 「ファイナルカット」 とかいきなり言われても、意味がすぐには呑み込めないし。 まあドラマのタイトルだから言わなきゃ仕方なかったんだろうけど。

 亀梨の愚直さはさらに、犯人の上の方の妹(栗山千明)に恋愛感情を持ってしまうという展開に発展する。 このせいで彼はさまざまなヘマをやらかし、緻密な計画に破綻を呼び込んでしまうのだ。

 しかし物語は、彼の持つ愚直さのおかげで草彅の復讐劇にあるような荒涼とした風景みたいな広がりを見せない。 彼が勤める警察の上司である佐々木蔵之介は彼の味方となり(いや最初から味方の側だったけど)彼が脅したワイドショー番組は彼の復讐のための詰問の場を設ける(まあ視聴率獲得のためでもあったけど)。

 そこで歪んでいったのが、彼に恋をしてしまった下の方の妹、橋本環奈である。 これも、亀梨が姉のほうに恋をしてしまったことを隠しきれなかったことから出たものであり、ここにも亀梨の愚直さがストーリーに影響を及ぼしていたことが分かるだろう。

 ただ、真犯人である山崎育三郎が出てきてからのストーリーの盛り上げ方には、ところどころ無理があったような気もする(もう昔の話過ぎてどれがどれだ、という指摘が出来ないのが残念だ)。

 ドラマである以上、ストーリーの山場というのは最終回に向けてボルテージを上げる必要性が絶えず生じているわけだが、クライマックスに至るすべての材料には、やはり 「強い必然性」 が不可欠なのであろう。 その必然性がとても堅固だったのが 「アンナチュラル」 であった。 「アンナチュラル」 と同じクールであったがために、その強引さが目立ってしまったのが、「FINAL CUT」 と 「海月姫」 だった気がする。

 「海月姫」 についてはもうほとんど感想の断片が残っていないのだが(笑)、もともと主人公と同じ引きこもり気味のオタク女子たち(尼~ず)が瀬戸康史に触発されてファッションブランドを立ち上げる、という話自体に現実味が不足していた。
 ただこの物語の強みは、尼~ずたちのキャラが強烈過ぎて、多少の誤謬も踏みつけて進行させてしまう強引さにあった、といっていい。
 だが物語終盤に来て、主人公月海(芳根京子)の才能を高く買うアパレル会社の社長(だったかな)の賀来賢人が登場してからその強引さが空中分解レベルになってしまったように感じる。
 話が最終コーナーを曲がった時点で混乱の頂点に達してしまったせいか、今この物語が結局どうなったのか、その記憶がほとんど残っていない。 残っているのは登場人物のキャラがみんなケッサクだった、ということだけだ。 三国志オタクや鉄道オタクは言うまでもなく、途中から出てきた安達祐実(リカちゃん人形みたいのに着せる極小ドレスを作らせると滅法スゲー 「虫けら」 が口癖のオタク)、インド人みたいな江口のり子、すべてが原作マンガそのもののキャラを楽しんで演じていた、というのがとても伝わった。 だからこのドラマはいいドラマだった。 そういう短絡的な結論が許せるドラマだった。
 そして芳根京子。 彼女のポテンシャルの奥深さが、さらに再認識させられたドラマでもあった。

 「BG」 はどうか。

 このドラマは木村拓哉がこれから突入するであろう壮年期に向けた、準備的な意味合いを持っているドラマだったのではないか、という気がしている。 続編についてどうなるのかは未知数であるが。

 彼の出演するドラマというのはここ数年、豪華な共演陣によって補佐されている。 それをテレビ朝日のように、何シーズンも継続していく息の長いドラマのサークルの中に自分を押し込めてしまおう、という意図が感じられるドラマだった、ということだ。
 このドラマにとって特にカンフル剤となったのが、以前共演した山口智子との化学反応だ。 このふたりの息はピッタリで、途中から山口がまたほぼ出なくなってしまったのはちょっと惜しい気がした。 ドラマの中でふたりはすでに離婚していたのだが、相手を貶しながらもどこかで信頼し合っている、まるでさんまと大竹しのぶでも見るような関係というのは、視聴する側からするととても魅力のある取り合わせだ。

 面白いキャラ設定だなと思ったのは、そのふたりの間の中学生くらいの息子。 彼は離婚調停後母親の山口の元で暮らしていたのだが、家出して木村のところに転がり込んだ。
 そいつがまた、ムチャクチャナマイキな設定なのだ。
 最初のうちは見ていてムカついていたのだが、そのうちに、「これって木村の若い頃のイメージとわざとダブらせているのでは?」 という気がしてきた。 そう考えると、木村が世間に台頭してきた頃が懐かしく思い出されて、ちょっと愛着が湧いて来たのだ。 やんちゃなイメージだった若かりし頃の木村拓哉。 木村はそのとっぽいイメージを大事に懐に抱き続けて、「いつまでたっても同じ演技」 などと嘲笑されながらも、頑なに自らのアイデンティティであるかのごとくそれを変えない。
 その彼が、かつての自分そっくりな生意気さを見せる、ドラマの中での息子を見るまなざしというのは、こちらにも妙な感慨を運んでくれるのだ。

 とりあえず続編については、期待したい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2018年4月 | トップページ | 2018年9月 »