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2018年10月27日 (土)

21年目に考える 「もののけ姫」

 宮崎駿による1997年の作品。 2018年現在、実質的に活動が終了しているスタジオジブリの、在りし日の凄まじい活動ぶりをまざまざと思い起こさせる、桁外れのパワーを感じる作品だ。 スタジオジブリはこの作品や 「ハウルの動く城」「千と千尋の神隠し」 あたりがもっとも社会的な、またはクリエイティヴな組織として爛熟していた時代だったのではなかろうか。 つわものどもの夢のあと。 そんなことを強く感じさせる。

 ジブリが存続できなくなった最大の理由は、やはり宮崎駿の存在、才能が巨大すぎたせいであろう。 後継者と目される数人は育ったが、宮崎駿が実質的な引退を発表したあと、誰もジブリを継げなかった。
 「もののけ姫」 は当時、宮崎が 「最初の」 引退作品と位置づけて公開されただけあって、宮崎の知識が総動員され、未来への思いの丈も目一杯注ぎ込まれている。 その世界観は21年経った今でも見る者を異質な世界へと強引に連れて行ってくれる。 その発想の展開は狂気の沙汰としか言いようがなく、宮崎自身の破壊衝動と修復願望を同時に、自分勝手に、満たしていく。

 「千と千尋」 でも、ごちそうを食い過ぎて文字通りブタになってしまう両親とか、「崖の上のポニョ」 の台風による大波とか、同じような狂気の展開があるが、「もののけ」 のレベルには敵わない。 こんなものをそばで作られたら、いくら後継者として少々力があっても萎縮してしまうだろう。

 先に書いたように、この作品が公開されてから既に21年が経ったわけだが、声の出演をした人たちも多くこの世を去った。 イノシシの大親分、乙事主を演じた森繁久彌。 ヒイ様役の森光子。 名古屋章。 佐藤充。 時の流れを感じさせるが、それも世の常だ。
 このなかでは森光子だけがキャラにそぐわない若い声を出している気がするが、この声優陣に今も存命中の美輪明宏、小林薫などを加えた壮年たちの、声の存在感というのは、凄まじいものがある。

 それに比べると、主人公のアシタカを演じた松田洋治、もののけ姫・サンを演じた石田ゆり子などは、いかにも線が細く力不足、といった感が拭えない。 物語の重厚さについて行けてない印象があるのだ。 とくにこの物語のタイトルにもなっている 「もののけ姫」 自身が、とても幼い感覚で推移するので、話に安定感が伴わないきらいがある。

 しかし21年を経てこの作品を見直すと、その幼さ、頼りなさが物語に不可欠だった、ということに思いが至る。

 この物語において、サンとアシタカというのは、未来の世代の代表という立ち位置ではあるのだが、当時に 「未熟なる者」「稚拙であるが故に思いを遂げられぬ若かりし頃の夢を抱く者」、という象徴でもあるのだ。
 ふたりの未熟さは物語を混乱の方向にただひたすら導き、見る者を惑わせる。 しかしふたりを取り巻く人々や妖獣、もののけたちはその未熟さを、ときにはなじりながら、それでも結局は優しく包容し、その未熟さに自分たちの未来を託そうとする。

 「もののけ姫」 に関しては、当ブログでは9年前に既に書いた。 その一部をあらためて抜粋したい(以下拙文)。

 これが公開された当時、その反応には面白い傾向があったように思う。
 まず、「わけが分からない」 というもの。
 じっさいこの物語の主人公アシタカは、タタリ神に右腕を呪われて、呪いを解くために旅を始めるのだが、途中から何が目的なのか、だんだん見ている側に伝わりにくくなってくる。 あっちについたりこっちについたり、行ったり来たりしてるけど、結局何もしてないじゃんかアシタカ、何がしたいの?、というように見えるのだ。
 主人公が何を考えているのか分かりづらい、という物語は、あまりアニメーションの観客には、歓迎されない傾向にある。
 ただ付け加えておけば、アシタカの目的は、やはり最初から最後まで、腕の呪いを解くことにある。 そして彼は、自分が正しいと思うことに、徹頭徹尾忠実であろうとしているだけなのだ。 人には、間違っているところもあれば正しいところもある。 アシタカの行動に一貫性が見られないように思えるのは、それはアシタカの周りの人々にいいところも悪いところもあるからなのだ。

(中略)

 私におこがましく言わせてもらえば、この物語は簡単に言えば、「森に住んでいた神々に対する、人間たちの勝利の物語」 である。
 だが、それが実はハッピーエンドではないところに、この作品の難しさが隠されている。
 人間たちの勝利が、同時に人間たちの破滅への第一歩なのだ、というパラドックスが、そこにあるのだ。

 そしてこの分かりにくい作品は、分かりにくくすることで、答えを観客たちに、若い世代に託している。 今度は、君たちの番なんだ、と(以上)。

 9年前のこのレビュー記事は、この分かりにくい物語に援護射撃をするために書いたようなものだった。
 その9年後にこれを見た私の感想は、「誰も悪い者はいない」。
 誤解を容易に受けそうな感想だが、この物語の中でいちばん悪しき目的のために動いているのはジコ坊である。 そしてジコ坊の背後に見え隠れする権力者が最も悪い、と言って良さそうだ。

 だがこの物語の中で蠢く人々は、すべて自らが見聞きした知識や情報の中で最も正しいあり方を模索し、自分なりの判断で行動し、生きているだけなのだ。 それに善悪の判断をつけることは難しい。

 つまり、この物語の中で生きる人々は、すべて生きるために必死なのだ。
 宮崎駿はこの作品に、複雑化し混沌としていく善悪のはざまで、人は今日のため、未来のために必死に生きることこそが大事なのだ、という骨太のメッセージを託している。
 この物語は、理解できるできないを超越した地平に存在している。 その巨大なデイダラボッチは、たとえ姿を消し、木々に恵みを与えるだけの存在になったとしても、いつまでも日本のアニメーション界に、異端児として横たわり続けているのだ。

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