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2018年10月

2018年10月28日 (日)

秋ドラマ感想①「僕らは奇跡でできている」

 デジタルの音痴で旧世代の私が、新しいPCを買ったことが契機となりTVer、という民放テレビ番組見逃し配信サービスをようやく使えるようになったので、録画機が壊れてこのところ止めていたテレビドラマの感想を書くことができる。 録画機が壊れたのなら直すか新しいのを買えばいい話じゃないか、ということなのだがまあ経済的な事情で優先順位がありましてですね。

 TVerを使い始めて気付いたのは、このサービスには字幕がなく高速見というのもできないこと。 録画機ではいつもこれをしていたのだが、いざ始めてみると役者たちのセリフがかなり聞き取りにくいことが分かって。 でPCの音質操作をしなければならない羽目になった。 それでも1割程度は聞き取れない。
 もともと耳の聞こえが極端に悪い私であるが、これってどうなのだろう。 どうにも損した気分になる。

 「僕らは奇跡でできている」、フジテレビ(関西テレビ)火曜21時。 高橋一生がちょっと個性的すぎる大学講師を演じる。
 個性的すぎる、とは書いたが精神の発達障害が少し入っている感覚だ。
 つまりひとつのものに夢中になりすぎるとほかのものが目に入らなくなる。 その彼が虫歯で通うことになった歯科の先生が榮倉奈々。 榮倉はふたつの歯科医院を掛け持ちしているせいか、羽振りはいいみたいだ。

 このふたりのキャスティングは実にハマっている気がする。 高橋は知的なイメージがあるが、それをレインマン的な役に振り分けることで、この主人公の語る知識に大きな説得力を与えることとなった。 いっぽう榮倉はクールなイメージだが、自分は常識人で自分の考えていることは正しい、と信じて疑わないようなこの女性歯科医に、よく当てはまっている気がする。

 高橋の両親は亡くなっていて、おじいちゃんの田中泯に幼い頃は育てられていたが、今は独立して家政婦の戸田恵子と暮らしている、という設定。
 この田中と戸田の存在が、高橋の演じる主人公にとってはゆりかごのような安心感に通じている。 田中は陶芸家であるせいか、人にとって大切なものはなにかをわきまえているようで、発達障害でみんなに合わせることができない主人公の大きな味方となってきたし、お節介焼きの戸田は主人公の意に沿わないことを時々やらかしたりするが、それでも最終的には主人公のことを認めている、主人公にとってはスパイスのような役割を担ってきた。 このふたりがいることで、ドラマは見る側にとってとても癒やされる空間として受け入れられる。 人とは少々違っててもいいんだよ、まあ世間のみんなは普通こう考えるんだけど、というふた通りの許し、自己肯定の道を与えてくれるからだ。

 その、主人公を取り巻く 「家族」 とは違う価値観で動いていくのが、私たちの住んでいるこの世界だ。 つまり、「こうでなければならない」、という常識に縛られてしまう世界だ。
 それを体現しているのが榮倉が演じる歯科医、ということになる。
 歯科医はかなり細かい予約時間によって仕事をしている、と同時に、急な患者にも対応しなければならない。 そこでは主人公のような、時間に対してとてもルーズになるしかない障害のある患者というのはとてもやりにくいところがある。 榮倉は高橋のそういう特殊な性格をたぶん把握しているはずだが、それでもその自由奔放さに苛立ちを隠すことができない。

 その榮倉は、高橋の行動に苛つきながらもその生き方に触れていくことで、自分を取り巻いている常識もしくは自分を縛っている思い込みに対して、徐々に疑問を抱いていく。 これがこのドラマの興味深い部分だ。
 榮倉は恋人と高橋のふたりから、自分の優位を見せつけている、と指摘され悩む。 まあ高橋の場合榮倉のことではなく 「ウサギとカメ」 のウサギについてしゃべってただけなのだが。
 確かに榮倉は自分のおごりでいつも恋人に連れて行ってもらっている居酒屋ではなく高級な店で5万とか6万とか(値段忘れた)のメニューを注文し、「久々においしいものを食べた」「自分へのご褒美」 とかナニゲにしゃべってた。 それってまあ当てつけだと思われても仕方ないが、羽振りはいいけどそれなりに頑張ってるわけだし。
 ということは、榮倉が付き合ってる男が榮倉と不釣り合いだ、ということになる。 けれども榮倉は 「自分はどこかで間違えてしまっている」、という方向に考えてしまう。 ここがいいのだ。

 そう榮倉に考えさせるのは、たぶん高橋の、物事にとらわれない考え方に影響されている。 このドラマで最も面白いのは、動物行動学を教えている高橋の、いろんな動物に関するさまざまな知識だ。 高橋のいる大学には同じような変わり者がドラマのなかでは約2名いるが、研究者のオタク的な傾向と高橋のこだわってしまう性格というのはどこかで共通しているのだろう。 ここで発達障害の線引きが曖昧になってしまう、という面白さが醸し出されている。

 ドラマは高橋の特殊な性格から見える世界から、私たちが普通だと考えている世界の常識のおかしさをあぶり出している。 動物行動学から言えば、実はヒトの行動こそがいちばん不自然で興味深いのかもしれない。 だが高橋にとっては、ヒトの社会こそが自分と相容れない世界なのだ。

 このドラマは、「世間の常識とか普通の考え方から一度脱却してみよう」、という機運にあふれている。 ドラマチックな出来事は起こらないが、それでもじゅうぶんドラマは成立する。 そんなことを教えてくれる。

2018年10月27日 (土)

21年目に考える 「もののけ姫」

 宮崎駿による1997年の作品。 2018年現在、実質的に活動が終了しているスタジオジブリの、在りし日の凄まじい活動ぶりをまざまざと思い起こさせる、桁外れのパワーを感じる作品だ。 スタジオジブリはこの作品や 「ハウルの動く城」「千と千尋の神隠し」 あたりがもっとも社会的な、またはクリエイティヴな組織として爛熟していた時代だったのではなかろうか。 つわものどもの夢のあと。 そんなことを強く感じさせる。

 ジブリが存続できなくなった最大の理由は、やはり宮崎駿の存在、才能が巨大すぎたせいであろう。 後継者と目される数人は育ったが、宮崎駿が実質的な引退を発表したあと、誰もジブリを継げなかった。
 「もののけ姫」 は当時、宮崎が 「最初の」 引退作品と位置づけて公開されただけあって、宮崎の知識が総動員され、未来への思いの丈も目一杯注ぎ込まれている。 その世界観は21年経った今でも見る者を異質な世界へと強引に連れて行ってくれる。 その発想の展開は狂気の沙汰としか言いようがなく、宮崎自身の破壊衝動と修復願望を同時に、自分勝手に、満たしていく。

 「千と千尋」 でも、ごちそうを食い過ぎて文字通りブタになってしまう両親とか、「崖の上のポニョ」 の台風による大波とか、同じような狂気の展開があるが、「もののけ」 のレベルには敵わない。 こんなものをそばで作られたら、いくら後継者として少々力があっても萎縮してしまうだろう。

 先に書いたように、この作品が公開されてから既に21年が経ったわけだが、声の出演をした人たちも多くこの世を去った。 イノシシの大親分、乙事主を演じた森繁久彌。 ヒイ様役の森光子。 名古屋章。 佐藤充。 時の流れを感じさせるが、それも世の常だ。
 このなかでは森光子だけがキャラにそぐわない若い声を出している気がするが、この声優陣に今も存命中の美輪明宏、小林薫などを加えた壮年たちの、声の存在感というのは、凄まじいものがある。

 それに比べると、主人公のアシタカを演じた松田洋治、もののけ姫・サンを演じた石田ゆり子などは、いかにも線が細く力不足、といった感が拭えない。 物語の重厚さについて行けてない印象があるのだ。 とくにこの物語のタイトルにもなっている 「もののけ姫」 自身が、とても幼い感覚で推移するので、話に安定感が伴わないきらいがある。

 しかし21年を経てこの作品を見直すと、その幼さ、頼りなさが物語に不可欠だった、ということに思いが至る。

 この物語において、サンとアシタカというのは、未来の世代の代表という立ち位置ではあるのだが、当時に 「未熟なる者」「稚拙であるが故に思いを遂げられぬ若かりし頃の夢を抱く者」、という象徴でもあるのだ。
 ふたりの未熟さは物語を混乱の方向にただひたすら導き、見る者を惑わせる。 しかしふたりを取り巻く人々や妖獣、もののけたちはその未熟さを、ときにはなじりながら、それでも結局は優しく包容し、その未熟さに自分たちの未来を託そうとする。

 「もののけ姫」 に関しては、当ブログでは9年前に既に書いた。 その一部をあらためて抜粋したい(以下拙文)。

 これが公開された当時、その反応には面白い傾向があったように思う。
 まず、「わけが分からない」 というもの。
 じっさいこの物語の主人公アシタカは、タタリ神に右腕を呪われて、呪いを解くために旅を始めるのだが、途中から何が目的なのか、だんだん見ている側に伝わりにくくなってくる。 あっちについたりこっちについたり、行ったり来たりしてるけど、結局何もしてないじゃんかアシタカ、何がしたいの?、というように見えるのだ。
 主人公が何を考えているのか分かりづらい、という物語は、あまりアニメーションの観客には、歓迎されない傾向にある。
 ただ付け加えておけば、アシタカの目的は、やはり最初から最後まで、腕の呪いを解くことにある。 そして彼は、自分が正しいと思うことに、徹頭徹尾忠実であろうとしているだけなのだ。 人には、間違っているところもあれば正しいところもある。 アシタカの行動に一貫性が見られないように思えるのは、それはアシタカの周りの人々にいいところも悪いところもあるからなのだ。

(中略)

 私におこがましく言わせてもらえば、この物語は簡単に言えば、「森に住んでいた神々に対する、人間たちの勝利の物語」 である。
 だが、それが実はハッピーエンドではないところに、この作品の難しさが隠されている。
 人間たちの勝利が、同時に人間たちの破滅への第一歩なのだ、というパラドックスが、そこにあるのだ。

 そしてこの分かりにくい作品は、分かりにくくすることで、答えを観客たちに、若い世代に託している。 今度は、君たちの番なんだ、と(以上)。

 9年前のこのレビュー記事は、この分かりにくい物語に援護射撃をするために書いたようなものだった。
 その9年後にこれを見た私の感想は、「誰も悪い者はいない」。
 誤解を容易に受けそうな感想だが、この物語の中でいちばん悪しき目的のために動いているのはジコ坊である。 そしてジコ坊の背後に見え隠れする権力者が最も悪い、と言って良さそうだ。

 だがこの物語の中で蠢く人々は、すべて自らが見聞きした知識や情報の中で最も正しいあり方を模索し、自分なりの判断で行動し、生きているだけなのだ。 それに善悪の判断をつけることは難しい。

 つまり、この物語の中で生きる人々は、すべて生きるために必死なのだ。
 宮崎駿はこの作品に、複雑化し混沌としていく善悪のはざまで、人は今日のため、未来のために必死に生きることこそが大事なのだ、という骨太のメッセージを託している。
 この物語は、理解できるできないを超越した地平に存在している。 その巨大なデイダラボッチは、たとえ姿を消し、木々に恵みを与えるだけの存在になったとしても、いつまでも日本のアニメーション界に、異端児として横たわり続けているのだ。

2018年10月13日 (土)

ブログ開始から10年(開始、盛況、転機、近況)

御礼

 2008年の10月9日、ジョン・レノンの誕生日にスタートしたこのブログ。 紆余曲折はあったものの、10年続けることができた。
 おそらくそれはこのブログにコメントを下さる方々のおかげである。 このいい加減な不精者が唯一モチベーションを見いだせるとすれば、それはコメントを下さる方々とのおしゃべりだけだからだ。 改めてこの場を借りて感謝申し上げたい。

開始当時

 「詩集」 と銘打ってスタートしたブログである。 当然最初は詩から始まった。 だがそれは世間一般の常識から言えばとても詩とはいえないカテゴリに属するものだった。
 「降霊によって呼び出したジョン・レノンにインタビューする」、という内容のもので、最初に書いたのが1987年、自分が22歳の頃だったから、20年以上手直しを続けてきた、いわば私にとっては 「出世の本懐」、つまりこの詩を世に出すために生まれてきた、という覚悟を秘めた詩だった。 ジョン・レノンの誕生日に合わせてアップできるよう、買ったばかりのPCをああでもないこうでもないと悪戦苦闘しながらいじくり回した末の労作だった。 これを世に出すとき、使い古された文句だが、私の胸は期待と不安で高まった。

 しかしこれをアップしてから数日。 確かアクセス数は一桁のままだったと記憶している。
 当然ながら、かなり落ち込んだ。
 そしてブログのアクセス数を伸ばすにはどうしたらいいのか、ネットでいろいろ調べてみた。
 「とにかく毎日書け、何でもいいから書け」。 これが私の得た結論だった。
 いろんなことを書いたのだが、最初に爆発的にアクセス数が伸びたのが、NHK大河ドラマの 「篤姫」 の最終回を見た感想を書いた記事だった。 最初の詩のアップが10月だったから、2ヶ月はたっていたことになろうか。 それまでよくて二桁に届こうか、というアクセス数が、1日で90件近く出たのだ。 とにかく驚いた。

 私がアクセス数の魔に魅入られたのはこのときであろう(笑)。 当初の 「詩集」 という名目はあっさりと撤回され、まあドラマの感想文を書いておればたまに詩も読んでくれるようになるであろう、というスタンスにさっさと乗り換えた。

ブログ盛況


 このブログが最も活況を呈したのは、NHK朝ドラ 「カーネーション」 の感想文を書いていた時期であろう。 ほぼ週イチで書いていたのだが週を追うごとにその量は膨大になり、ドラマの秀逸さと相俟ってコメント欄も充実した。
 しかしその副作用がなかったわけではない。
 あまりに仔細にわたってのめり込んだせいか、朝ドラの次作である 「梅ちゃん先生」 のあまりの落差に辟易としながら記事を書き続ける私の元に、私の人格を否定するような書き込みが現れたのだった。
 やはりアクセス数が伸びれば自分の書いたことにも責任が生じる。 このほかにも何の気なしの軽口に思わぬ怒りのコメントを頂戴したり、ネットとの付き合いかたを考えさせることが度々起こるようになった。

転機


 社会に出てから自分の歴史について、何年に何があったとかいう意識がほとんどなくなっている。 そのため何年前に起きたことだかもう記憶がはっきりしないのだが、このブログにとって最初の転機となったのは、私がヘルニアの悪化で入院したときだったと思う。 ちょうど大河ドラマで 「平清盛」 をやっていた年の暮れだ。
 これがきっかけで、それまでほとんど毎日のように書いていたペースを落とすことになった。

 二度目の転機は、自分が経営していた超弱小の会社を休業させることになったとき。 1ヶ月か2ヶ月くらい(ブログの上で)雲隠れした。 あの頃のことはもう思い出したくもないが、それを機にブログの記事数はさらに度を増して激減したと言っていいだろう。

近況

 今年の7月に、録画機が故障した。 それからテレビドラマは 「西郷どん」 以外見ていない。
 このブログを続けるためにテレビドラマを片端から録画し続けてきたが、ちょっとチェックしすぎていた気もする。 倍速で見ないと視聴が追っつかないのだ。 特に朝ドラは見るのに体力が要る。
 このたび始まった 「まんぷく」 は、ヤフーの感想欄を見る限りでは久しぶりに良質のドラマのようだが、私は休む。 録画機は故障したまま、放ってある。

 家電は故障し始めるとそれが続く、とはよく言ったもので、10年前に買ったPCもWindows Vistaのまんまでだましだまし使っていたが活動限界を迎え、おまけに乗っている車のカーオーディオもディスク読み取りができなくなった。

 仕方がないからこのたび、PCを買い換えた。 9万円。 痛い出費だ。

 買い換えてからあまりに当然のことに気付いたのだが、何しろ動作が速い。 これまでVistaでどれだけの時間を無駄にしてきたかが悔やまれる。
 しかもVistaではできなかったようなのだが(よく分からん)、民放の公式サイトTVerとかいう見逃し番組無料配信サービスが利用できるようになったみたいなのだ。
 私はケータイもガラケーで通話とショートメールくらいしか使わないので、数年前から始まっていたこのサービスに全く関心がなかった。
 しかしこれなら、録画機がなくてもテレビドラマをフォローできるではないか。 ただし放送1週間以内だけど。 NHKのオンデマンドという同種のサービスは有料だから食指が動かない。 受信料を払っている人とその家族には無料で提供できるとかしたらどうなのか。

まとめ

 テレビドラマの感想を中心としているこのブログだが、正直なところここ数年のテレビドラマというのはこれぞという傑作がない。
 私がブログをせっせと書いていたあの時期、「カーネーション」 はもとより、「外事警察」「JIN」「mother」「流れ星」 などの傑作が多かった。
 私にとっては恵まれた、豊穣の時期だった。

 これからものらりくらりとこのブログも続けていくだろうが、自分が死んだときにはきちんと挨拶ができるように、今から準備はしておくつもりだ。

2018年10月 7日 (日)

「西郷どん」 10月7日放送は、BS地上波ともに 「無血開城」…見たよ!感想だよ!

 台風24号の猛威によって吹き飛ばされた、先週のNHK地上波 「西郷どん」 無血開城。
 今週は先週分と合わせて2回やるのかな、とげんなり思っていたが、どうも本日10月7日放送のうちBSも地上波も 「無血開城」 を放送することになったらしい。 要するにBSのほうは先週の再放送、ということになる。

 こんなことはどーでもいいのだが(笑)、この記事を書いたのは、先月に書いた前の記事から1ヶ月が過ぎて、コメントにパスワード認証が必要となったからだけの話で(笑)。 あのパスワード、ホントに面倒ですからね。

 と、いうわけで。

 と書いたはいいもののコメントが来なくてマヌケなので(笑)、とりあえず書きましょうか、「無血開城」 の感想を。

 「民のため」 だとか事あるごとに口にし、人ひとり殺してガクガクブルブルだった男が、突然の豹変。 誰の言うことも聞かず、「自分は薩摩の殿様や国父さんよりエライ」 と全権を任されたかのごとく無茶な 「突撃ー!」 を繰り返し兵をバタバタ死なせ、あげくに江戸城を総攻撃、そして江戸を火の海にしようとする。
 その大目的と言えば、「徳川慶喜の首を取る、だけじゃ徳川は息を吹き返すから徳川そのものを完膚なきまでに消滅させる」。

 元はといえばこの西郷の豹変は、どっかからの 「慶喜が日本を外国に割譲しようとしている」 という信憑性が確定せぬ情報に、慶喜の側室だか情婦だかその身分が見ててもよく分かんないふき、という元キャバクラ嬢から仕入れた、「慶喜様が外国のかたとサツマサツマとしゃべっている」、というこれまた事実がはっきりしない情報とを付き合わせて、「慶喜は薩摩を売る気だ」、と大いなる確信をしたことが発端になっている。
 このドラマでは。

 ドラマとしての流れを俯瞰すると、その 「大いなる確信」 というのは 「大いなる思い違い」 にしか見えない。
 「どうしてその程度の情報で徳川壊滅にまで西郷の思考が発展してしまうのか」 ということに、ほとんど説得力が伴っていないことに気付くだろう。
 この、中盤から終盤にかけたドラマの展開は、「なぜそこまでする」、という西郷の動機を見る側が考えあぐねながらの視聴になっている。 作る側はそれに対して、きちんとした 「西郷の本心」 を用意しておかねばならない、と思うのだ。

 しかし、それは無駄な期待だったことが 「無血開城」 の回で明らかになった。
 西郷は勝との会談で、自分がこれまで事あるごとに 「民のため」 と主張してきたことを勝との会話の中から思い出し、それまで見ている側が理解不能だった豹変ぶりをあっさり撤回してしまうのだ。 見ている側からすれば、「西郷はいつも民のためとぬかしておったろう、今更そんな当たり前すぎることを思い出すのか?」、ということになる。
 つまり、「ハシゴを外された気分になる展開」、ということだ。

 西郷が自らの言動を回想するこの下りはさすがに、…

 …。

 こんな薄っぺらーい話でよければいくらでもこのドシロートが創作してNHKにくれてやるぞ、というか。

 はぁ~。 ヘソが笑うのもためらってしまう。 すげーな。 逆に。

 西郷の翻意を得て泣き出しちゃうしな、勝も。 泣くな男だろ(はぁ~…)。 ラヴイズオーヴァー。

 慶喜と西郷の会談では、慶喜が逃げたのはフランスが助太刀してやる、その代わり薩摩をよこせ、と言われたからだった、ということが判明。
 なるほどそうか!
 って、見る側としてはここで納得しなきゃいけないのだろうけれど。
 それってちょっと。
 子供だましなような気が。
 そしてその、私に言わせれば 「下手な言い訳」 がまかり通ってしまう不自然。
 西郷は感激して、「日本を守ってくれたんですね」 と。
 うーん、こんなおバカでいいのかな。 史実もおバカなのかな。 だいたい西郷と慶喜って無血開城のとき話ができたのかな。 こちらも頭がバカになっていく感覚が…。

 トートツ、と言えば江戸城のアーカイヴに二宮尊徳の著書が出てくるという点でもそう。 「これで農民が喜ぶ」 だとかなんとか。 どうしてこう、いつも 「取って付けたみたい」 なのか。 ヘソが笑うぞ。 毎度だが。 そのあと尊徳の本を顔にかぶせて寝てるし。 それを見て取り巻きが 「兄さあが死んどる」「兄さあはいちばん働いたんだから寝かしておけ」 だって。 笑えるなー(棒読み)。

 あと、「花神」 の主人公、大村彦次郎(違ったっけな)が林家正蔵というのにもヘソが笑った。 ここまでくると冒涜でしょ。 いきなり現れた大村を見て(まぁ~脈絡もなくいきなりなんだわこれが)、西郷が放った一言にも笑った。 「あなたが『あの』大村さんですか」(ハハ…ハハ…)。 いつから知ってたの西郷(ハハ…ハハ…)。 その正蔵、「あんたたちは戦い方を知らん」 だって。 エラソーなのにすごく頼りない(爆)。

 スゲーなホント。

 挙げ句の果てに、「新しい国を龍馬も喜ぶでしょう」 チャンチャン。 なんだこの、「取って付けた」 権化のよーなオチ。

 ホントにスゴイ。 凄すぎるぞこのドラマ(ヤケ)。 真面目に感想を書くのが馬鹿らしくなってくる。

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BOOKS

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ記事より抜粋)。 この上巻ではビートルズの祖先から遡ってリバプールで人気に火が付き始めたところまでが書いてあります。

  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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