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2018年11月

2018年11月12日 (月)

「西郷どん」 11月11日放送分まで見て

 明治編になってからいくぶん出来がよくなったと感じていた 「西郷どん」。 しかし11日放送の42回 「両雄激突」 ではまた元の木阿弥だ。

 そもそも 「いくぶん出来がよくなった」 とは言うものの、大河ドラマとしてはおよそ及第点にはほど遠い。 明治新政府はたった数人で動いていく 「スーパー小さな政府」。 相変わらずナレーションでみんな説明させる作り。 それでも西郷の心の動き、その長子である菊次郎の描写など、ドラマとしてはきちんとしてきたように感じていた。

 枚挙にいとまがない今年の大河もどきの欠点として今回指摘したいのは、登場人物たちの 「視野の狭さ」 だ。 歴史的出来事を極限まで単純化した結果、人物たちの思惑も単純化せざるを得なくなる。 そこにどうしても割愛できない重要な出来事をポツリポツリと採り上げると、まあ当然だが人物たちの行動の一貫性のなさが浮き彫りにされていく。 前はこう考えていたはずだけど?というパターンが次々と出てくるわけだ。 その登場人物たちの変節を、単純化された構造の中で説明しようとするから、まるでちっぽけな個人的感情で登場人物たちが動いているように見えて仕方なくなる。

 幕末編でその傾向が最も出たのが主人公である西郷だった。 それまで平和主義だった男がいきなりの過激因子に。 あれほど心酔した斉彬が肩入れしていた慶喜をどうしても殺さねばならないと思い込み。
 この変節の理由がドラマの中でじゅうぶん説明された、とは考えにくい。 脚本家の思惑としては、そんな理由より、その過激化によって多大な犠牲者を出したことに心を痛める西郷を、描きたかったようだ。

 42回 「両雄激突」 でその欠点をもろにかぶったのは大久保だ。 彼は使節団として当初1年の予定で外国を回っていた。 その目的は不平等条約の解消交渉が大きなところであろう。 例によって不平等条約がどのようなものなのかの説明はほぼなし。 脚本家としては、そりゃ学校で勉強したから分かるでしょ、くらいの意識でしかない。 だいたいそんなことをやってるヒマなんかないのだ。

 そしてその交渉はことごとく不調に終わり、却って諸外国の発展を目の当たりにして、日本もどうにかせにゃいかんという意識革命の末に帰ってきた大久保。 しかし1年のうちは何もするなという約束が破られて、土佐や肥後の連中にあからさまに仲間はずれにされる。

 大久保の変節が、ここを契機に始まっている。

 だがその変節の仕方には幕末編の西郷のようにじゅうぶんな理由付けが果たされていない。
 だいたい1年のあいだ政府は何もするな、という話にしても、何もしないわけにもいかんでしょう。 そこにまず話としての無理がある。 しかも1年どころか大幅に遅れての帰国でしょ。
 それに排除された山県や井上は、排除されるだけの理由がちゃんとある。 さらにドラマの中でも西郷が話していたが、政府でやったことについては大久保たちに逐一報告させている、ということだった。 大久保が 「聞いてないよ!」 と拗ねる理由なんかない。

 となると、大久保がいきなり変節したのは、「みんなからあからさまに仲間はずれにされたから」、ということになる。 日本を外国並みにしようという意気込みがあるならば、まず仲間に入らねばならない。 話はそこからでしょう。
 それをしようとしないから、すこぶる個人的な感情で恨みを募らせている、としか見えてこないのだ。

 42回の終わりでみんなの前に出てきた大久保の目は、もう完全にイっちゃってる。 イっちゃってるのって、おかしいでしょ。

 さらに問題が発生。 降ってわいたような朝鮮問題だ。 これについては指摘する気力もないくらいのおざなりな説明で、こちらに伝わってくるのは 「西郷さんは朝鮮問題でも悪くない」、という脚本家のつまんない意図のみ。 征韓論なんか、今年の大河もどきには無理なんだから最初からやらなきゃいいのに。

 まあ、やりたきゃやれば(当ブログ始まって以来の暴言、まことに失礼いたします)。

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2018年11月 4日 (日)

秋ドラマ感想③「大恋愛~僕を忘れる君と」

 TBS金曜22時。 若年性アルツハイマーに罹った女医の戸田恵梨香と、元小説家のアート引越センター従業員ムロツヨシとの恋愛ドラマ。

 この恋愛ドラマのキモは、これまでふざけたような役ばかりだったムロが、恋愛の真面目な当事者になったことだろう。
 恋愛ドラマではたまに、こうした 「ちょっと外した」 キャスティングで視聴者の興味を惹かせるパターン、というものがあるように思う。 古くは 「おくさまは18才」 での石立鉄男とか、「101回目のプロポーズ」 での武田鉄矢、というケースだ。 彼らは一様にイケメンではない男の哀愁を背負っており、どこか滑稽にならざるを得ない悲劇を纏っている。

 ムロはこのドラマで元小説家、というだけあって、少々ニヒルでナイーヴな陰のある男を演じている。 けれどもこれはおそらく脚本家の大石静氏のアテ書きによるせいだと思うのだが、相手のリアクションに軽いボケとかツッコミが思わず出てしまうところが、いかにも、という感じだ。
 それはことのほか、この深刻なドラマにおける一種のガス抜きになっている。 そしてそこに、そこはかとないリアルが生じている。 その匙加減がいい。

 この恋愛ドラマを深刻にしているのは、先に書いたように主役の戸田恵梨香が罹った若年性アルツハイマーのせいだが、ここで大石静氏は視聴者の共感度を極限まで上げる、ある方法をとっている。

 それはこの進行性の病気の悲劇度を高めることではない。
 ムロと向き合っているときの戸田を、無邪気な子供のように描く、という方法によってだ。

 彼女は母親の草刈民代と一緒の女医になり、同じレディスクリニックで働いている。
 そのせいか普段はかなり冷静な判断能力の持ち主で、草刈がドラマ第1回目で持ちこんだ、精神科医の松岡昌宏との縁談に際しても、お互いに過干渉なく事務的役割分担的な、無味乾燥とした結婚生活を望んでいた。 戸田は、人生に対してとても醒めたような性格設定のように思えた。

 それが、である。

 自分がかつて夢中になって読んでいた小説、「砂にまみれたアンジェリカ」 の作者が引っ越し業者のムロだったことが分かると、戸田は途端にそれまで全開にしていたATフィールド(まあ自分と他人との壁みたいなもんか)を解除するのだ。

 このドラマのもっとも魅力的なところは、その完全武装解除した戸田恵梨香の、無邪気さ、かわいさにあると言っていい。
 戸田はもともとクールな役が多い気がする。 そんな戸田が、デレデレになるんですよ、そんなにイケメンとは思えない、頭モジャモジャのちょっと小太りの男に。 鳥みたいなキスをするんですよ、なんだこの明るいかわいさは!
 この現実離れ感というか浮遊感。 自分だけに見せる別の顔、とかいうのに、弱いんですよ世の男は。

 女性の視聴者側からしても、ムロの持つフツーさというのには安心感が生じるだろうし、リアクションの楽しさにも好感を持つだろう。
 つまり、現実にはなかなかあり得ないだろうけれど、そんななかにちょっとだけあるリアルに、視聴者が惹かれる要素が詰まっている。
 そこに、毎回タイトルバックにあるように、記憶の象徴である砂がこぼれていく悲劇が潜んでいる。 その切なさに、見る側は胸を痛めるのだ。

 「好きになったらしょーがない」。 戸田は確かこんな風なセリフを言っていたと思うが、いや、このセリフには共感する。 好きになるのに、美男美女であるとかカンケーないですから。

 物語は、戸田が恋に落ちたのとアルツハイマーを発症したのがほぼ同時だったため、かねてからの松岡昌宏との縁談がなんの後腐れもなく解消した。 そこで大きな問題とならなかったのはドラマ的には面白くなかったがまあめでたしめでたし、しかも松岡は若年性アルツハイマーの権威だし、渡りに船だ、言うことないじゃん彼に治療してもらえば、

 …となるはずだった。 が、ドラマはそう単純に物事を運ばせない。

 お互いに事務的な結婚関係なんて醒めたことを考えていた松岡だったのだが、その後に親が用意した縁談とか戸田の検査だケアだのをやってるうちに、なんか戸田のことが本格的に好きになっちゃったみたいなのだ。

 しかしここで、大石静氏は松岡をあまり得体の知れないパラノイア的人物に描こうとしない。 松岡は普通に悩み、普通に自分の恋を戸田に打ち明ける。 ここにも好感が持てる。 ここで松岡が冬彦さんみたいになってしまっては、ドラマのリアルが吹き飛ぶからだ。 もちろん吹き飛ばさせる、という方法もあるが、このドラマはあくまで常識的に進行していくのだ。

 ところが第4回の終わり際、ムロは突然戸田に別れを切り出す。 たぶんムロは、戸田が松岡と付き合ったほうが治療のためにはいい、と思ったのだろう。 そこらへんのムロの心の動きが少し雑に描かれていたのは残念だが(つまりトートツに見えた)、来週以降どう回収されるのかが逆に気になってきた。 前回もそうだったが、終了間際にガツンとショックを与えさせて視聴者の興味をつなぐ、というのはうまいもんだ、と思う。

 大石氏の 「受けるドラマはこうやって作るのよ」 という方法論が分かって、脚本家を目指す人には大いに参考になるドラマなのであろう(笑)。

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2018年11月 2日 (金)

秋ドラマ感想②「獣になれない私たち」

 夏ドラマ見てないけど、私が今のところ今年(2018年)いちばんのドラマだと思っている、「アンナチュラル」 の脚本家である野木亜紀子氏のオリジナル新作。 さらに 「逃げ恥」 でのコンビだった新垣結衣と再タッグ、ということもあって期待度は大きかった。
 だが 「アンナチュラル」 で見られたスピード感は一切なく、「逃げ恥」 で見られたガッキーの可愛らしさも一切見られず、その点では見る側の期待を完全にはぐらかされたドラマ構造になっている。

 まず登場人物、状況設定。 かなり極端なケースだろコレ、と思わざるを得ない。
 確かにリアルではあるのだが、リアルを突き詰めすぎて、シュールになってしまっている、そう感じる。

 このドラマの理論でいけば、「獣になれない」 筆頭というのはガッキーだ。
 彼女は職場ではスーパーパワハラの上司にいいようにこき使われ、部下たちは揃いも揃ってスーパークズばかり(「ひよっこ」「いつまでも白い羽根」 でいい役をしていた伊藤沙莉になんつー役をやらせるのだ)。
 特に上野とかいう若手男子社員はおよそ形容しがたいくらいのクズで、まず仕事自体にやる気がなく、かなり低いハードルでもそれから逃げまくり、果ては新垣を好きになればやる気のきっかけができるだろうと勝手に思い込んで彼女に頼り切る。 出てくるだけで虫唾が走るキモ系の無駄なイケメンだ。 よくクビにならないものだ。 いや、こんな人間はそもそもどこの会社でもまず採用しないであろう。

 そんな状況下で、「獣になれない」、つまり逆ギレできないガッキーは、その驚異的すぎるほどの外ヅラの良さを無理矢理保とうと孤軍奮闘するのだが、徐々に精神は疲弊していく。 疲弊しすぎて、ふらふらっと電車に飛び込んでしまいそうにまでなる。 まあ状況が極端だから、疲れ果てるのは当たり前だろう。

 かように彼女が通う会社における周囲の状況が最悪であることが、まず見る側に大きなストレスとなるのだが、会社以外の周囲の状況も彼女にとって最悪だ。

 彼女の彼氏は田中圭で、この彼氏が自分のマンションに元カノの黒木華を4年も住まわせている。 だからガッキーは田中圭と同棲できない。
 その黒木華はアバンギャルドなほどのスーパー引きこもりと化している。 何しろネトゲに夢中なのは序の口として、マンションに届いた田中の(そして新垣宛ての)荷物をネットオークションに勝手に出品し、それで得た利益で大安売りしていたウサギを買ってしまう、という…。
 常人には理解不能レベルのクソぶり、パラサイトぶりだ。

 黒木華はここでもその卓越した演技力を見せつけてダメ女ぶりを発散させているが、あまりにクソ過ぎて見る側はまたもやかなりのストレスを感じることになる。 演技力があり過ぎるのも善し悪しだ。
 田中圭はもちろん黒木華をマンションから出したいのだが、黒木華は駄々をこねてこれに応じない。 「出てけバカヤロー」、と言えない時点で田中圭も 「獣になれない」 一員であるように思うのだが、その前にクズだろこの男。 クズはクズなりに悩んでるからまあ許すけど(オマエに許してもらってなんになる)。

 で、そのクズは行きつけのクラフトビールバーで知り合った菊地凛子と寝てしまうんだなこれが。 まあ状況が状況だから…って、見る側が許せればいいんだけど。

 その菊地凛子、アパレルメーカーのデザイナーで、彼女がこのドラマにおける 「獣」 の象徴だろう。 私は最初、この人ってガッキーが二役で演じているのかと思った。 ウイッグつけて思いっきりメイクを派手にしたガッキーかと思ったのだ。
 おそらくそれは作り手の意図であると思われる。 おそらく菊地凛子は、ガッキーがそうなりたいと望んでいる、もうひとりの自分なのだ。 ガッキーは彼女のデザインした派手な靴や服を購入し、外見だけでも戦闘的であろうとする。 獣になろうとするのだ。

 しかしそれはほぼ無駄な努力であり。

 さらにこのドラマを見る側をイライラさせるのは(まだあんのかよ)ビールバーの常連で菊地凛子とかつて付き合っていた松田龍平。 公認会計士でどうもいろいろと問題があるらしいが、少なくとも私には興味がない。
 そいつがガッキーたちと絡んでくるドラマ展開なのだが、こいつのしゃべってることがどうにも回りくどくて要領を得なくてイライラする。 松田はこのつかみどころのない、いや脚本がわざとそうさせている難しい役をその演技力で表現しようとしている。 果たしてそれは成功している。 だが個人的に言わせてもらえば、こういうヤツとは別に知り合いたくもない。

 そのつかみどころのないヤツと、ガッキーは寝ちゃうんだな。 寝ただけだけど。 田中が菊池と寝たのを知ってその腹いせだったわけだが。

 そのほかにも、松田の近所のラーメン屋のあんちゃんとか、田中のマイナスポイントを常に指摘してくる会社の同僚とか、まあとにかく出てくるだけで嫌悪感を催す人物ばかりのドラマだ。 主要人物たちも共感しにくい行動ばかりとるし。 視聴率が毎回下がってくるのもとても納得できる(笑)。

 こんな 「見てて不快」 ドラマを、なぜ見ちゃうのか。

 端的に言えば、この先ドラマがどういうカタルシスを伴ってくるのかにあまり興味がない。
 すなわち、新垣の勤め先のパワハラ社長が改心しようとも、スーパークズな伊藤と上野がいつの間にか頼もしい戦力に成長しようと、黒木華がやる気を出して田中のマンションから出て行こうと、松田が粉飾決算で逮捕されようと、別に興味がない。
 さらに言えば田中の家族が介護問題で揺れようと、どうでもいい。

 すごくキモいことを言えば、こういう最悪の状況のつるべ打ちのなかで、困った顔をしているガッキーを見るのがなんとなくアレなのだ(アレって?…笑)。

 変な例えかもしれないが、このドラマって、なんとなく 「ドリフ大爆笑」 の 「もしも」 コーナーに似ている気がする。

 「もしもこんなサイテーの職場があったら」「もしもこんなサイテーの彼氏がいたら」。

 コーナーの最中散々な目に遭うドリフのリーダー、いかりや長介はコーナーの最後に決まってこうつぶやいた。
 「ダメだコリャ」。
 そのときいかりやは、別にこのサイテーな状況を改善しようとも復讐しようとも説教しようともしない。 ただつぶやくだけだ。 つぶやくことで、ただこの狂った状況に呆れ、自らの普通さを優位に感じる。 ただそれだけだ。 そうすることで、自分を納得させたいのだ。

 私はこのドラマでガッキーに、この先どんな展開が待ち受けていようとも、最後には自分を納得させてもらいたい、と願っている。
 彼女は今、ドラマの中で、怒りを静かに潜行させ、風船爆弾を膨らませてる状態だ。
 でも、彼女を取り巻くストレッサーを、「それがなんだというのだ」「かわいそうな人たちだ」、という目で達観し、乗り越え、自分を納得させてもらいたいのだ。
 だって人生って、ドラマみたいに劇的に改善しないものだから。 自分で納得するしか道はないのだ。 そのためには 「ダメだコリャ」 と、面と向かって言う 「小さな獣」 も必要だ。

 新垣結衣がそのような境地まで達する演技を見せてくれることを、私は密かに願っている。

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