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2018年12月

2018年12月31日 (月)

2018年ビートルズ関連、怒濤の出費ラッシュ(その1)

 「今やビートルズは金ヅル」、と当ブログで書いたのはいつだったか。
 CDの売れない当世、それは悪化の一途を辿っている。
 レコード会社(ユニバーサルミュージック)にとって、CDを買ってくれるもっとも大得意様は、何を差し置いてもビートルズファンなのである。 ストーンズファンだって、クィーンファンだって、ここまでマメに出たもん出たもん全部買ってくれないだろう。
 特にボックス・セット、という売り方は1セットあたりの単価が1万を超えることが常識となってきており、最近では2万、いやそれ以上の法外な価格設定を平気でしてくるようになった。

 特に酷いのはポール・マッカートニー関連の商品だ。 ポールの過去の作品は現在、「アーカイヴ・コレクション」 という形でリイシューされ続けているのだが、その第1弾だった 「バンド・オン・ザ・ラン」(2010年発売)は最も高いセット(スーパー・デラックス・セット)で確か9千円くらいで買えた。 それがこの12月に出た 「ウィングス・ワイルド・ライフ」 と 「レッド・ローズ・スピードウェイ」 のスーパー・デラックスでは、2万2千円から2万7千円の価格設定になってしまっているのだ。 単純に考えて3倍近い。

 ちなみにこの2つのアルバム、傑作である 「バンド・オン・ザ・ラン」 と比べれば、ファンの間の評価はかなり低い方に属する。
 確かにアーカイヴの 「バンド・オン・ザ・ラン」 スーパー・デラックスに比べると、最近のスーパー・デラックスはポール直筆の歌詞メモのレプリカは当然のようについてくるし、生写真だのイラスト集だの、当時のライヴチケットのレプリカとか関係者入場証とかまでついてきて、オマケをつけすぎ、という感は否めない。
 とまれ。 直筆歌詞のレプリカはそりゃ感動ものだが、そのほかのオマケなんか一切必要ない、とここではっきり申し上げておきたい(チケットのレプリカで欲しいと思うのは、ビートルズの日本公演と、ウィングス幻の日本公演くらいのものだ)。 誰に文句を? ポールに? ユニバーサルに? どっちか主導権を握っているほうに、だろう。

 しかもそれどころか、ユニバーサルはこの2つのあまり評価の高くないアルバムのスーパー・デラックスを両方買わせようと、これを同時にセットで買ってあと6千円出せば、当時のヨーロッパ・ツアーを俯瞰できる 「ウィングス・オーヴァー・ヨーロッパ」 がついてきますよ、という禁断の商法を繰り出してきた。

 その値段、驚くなかれ、5万5千円。

 「ワイルド・ライフ」 が2万2千円で 「レッド・ローズ・スピードウェイ」 が2万7千円だから、その2セットに6千円を足せばこの、「ウィングス1971-1973スーパー・デラックス・エディション」 が買える、というわけだ。 どーせ2つのセットを買うほどお金があるんなら、あと6千円出せばもっとレアな品物が手に入りますよ、という小汚い商売ではないか。

 しかもそれを、ユニバーサルストアでしか発売できないようにして、完全限定盤にする、という念の入れよう。 つまりアマゾンなどのネット販売を完全にブロックし、値引きなしで自分らだけ儲けようという腐った根性なのである。

 さらに(まだあるのか)。

 その 「ウィングス・オーヴァー・ヨーロッパ」 の出来映えが、音楽情報誌によるとかなりいいらしいのだ。 ウィングスの傑作ライヴアルバムである、「ウィングス・オーヴァー・アメリカ」 と比肩するほどの出来だ、というのだ。

 5万5千円、という法外な値段設定に躊躇し様子見をしてしまったフツーのポールファンたちは慌ててその悪魔のセットを買おうとしたが、時すでに遅し。 大金持ちのポールファンがすでに買ったあと。 もしくは転売目的の輩もいたかもしれない。 発売後半月の時点でこの悪魔のセットの中古品(もしくはほぼ手つかずの状態のものも多かろう)は、10万くらいの値段で取引されているらしい。

 これがクソだ、と言わずして何がクソなのか。

 このクソ状態を、件の音楽情報誌ではちっとも批判しない。 「出費が続いて大変ですねー」 みたいな与太話に終始している。 これは邪推だが、このクソ商法を批判すれば、ビートルズ関連のリイシューで試聴会に呼んであげませんよとか、ユニバーサルに釘を刺されてんじゃないのか(もしくは無言の圧力)? 出版業界でもビートルズ関連の特集やムック本はカネのなる木だから、ユニバからそっぽを向かれれば商売が成り立たないのだ。

 ユニバーサルの会社からもこのブログにはアクセスがあるみたいなので、もし私のこの憶測記事に異論があれば、コメントをよこしていただいてもいい。

 まだまだあるが、年をまたいでこの件は続けさせてもらう。

2018年12月30日 (日)

2018年 私が選ぶ 「ベター」 テレビドラマ

おことわり 総括を追記しました。

 今年2018年、7月に録画機が故障したのを経済的理由でほっぽってしまったため、夏ドラマの視聴を完全に諦めた私。 話題になってた 「義母娘」 くらいは見たかった気が。
 9月に買った新PCでTVerの視聴が出来るようになったため秋ドラマはいちおう見たが、有料サイトのNHKを敬遠したためNHKのドラマはスルー。  「西郷どん」 のみガラケーで就業中(会社にはナイショ)見てカバー。

 そんな、かなり変則的なテレビ視聴になったため、今年のランキングは 「ベスト」 とは到底言えぬ。 「ベター」 テレビドラマということになるがご了承ください。

 時系列的に列挙していくが、まず1月、NHKの大河ドラマ 「西郷どん」。
 コメント欄をご覧のかたは先刻ご承知の通り、「クソアホバカクズ大河もどき」 とまで罵倒した。 だから今更 「最終回まで見て」 を書くつもりもない。 とりあえず、役者と画面組立(構図とかライティングとか)だけは素晴らしかったです(おまけみたいに褒めて…)。

 関西テレビ 「FINAL CUT」。 亀梨和也が復讐鬼になってメディア関係者とか警察とかに天誅を加えるドラマだったが、最終的に亀梨の生真面目さが目立つ印象に落ち着いた。 ニュースのワイドショーを俎上に上げることでテレビの自己批判を展開する勇気のある内容かと思ったが、テレビがテレビの批判をするのはそうたやすいことではない。 政界との癒着を持ち出したことでその矛先は微妙にずれ、「面白おかしく伝える」、というテレビ自らの姿勢に切り込む鋭さを失ってしまった、とも言える。

 日テレ 「anone」。 坂元裕二脚本のドラマだったが、ラストを覚えていない、と思ったら、たしか最後まで見てない。 壊れた録画機に残ったままだ。 これじゃ分からん。 偽札作りはどうなったのだろう(笑)。 でもまあ別にいーや、と思ってしまう、その程度のドラマだったのかもしれない。
 つらつら思い返すに、主演の広瀬すずが自分の置かれた環境に不満を抱いているのか、どうでもいいやと諦めているのか、そこらへんの立ち位置がぼやけていた印象がある。 小林聡美や阿部サダヲもドラマのなかではその態度が常に揺らいでおり、ドラマ全体の妙な浮遊感に寄与していた。
 こうした、登場人物たちの心がつかみにくいドラマというのは支持を得にくい。 おそらく彼らの心の底辺には世の中や政治・行政に対する不満がなんとなく鬱積していたのだろうが、特にそのファジーな感覚がなだれ込んでいくのが偽札作りであったため、ますます共感を得にくくなったとも言える。 これが映画なら、そのインモラルな設定もいくらか受け入れられただろう。

 TBS 「アンナチュラル」。 私がこれまで見た野木亜紀子脚本のドラマのなかでは、もっとも論点が整理され巧妙に点と点が結び合った、用意周到さが光るドラマだった。 このドラマで石原さとみは、その特異で得がたい才能の発揮場所をようやく見つけた、と言っていい。 夏ドラマでは 「高嶺の花」 という野島伸司脚本のドラマに出たみたいだが(未見)、あまりいい反応をネットでは見かけなかった。 このスペックの高い女優を使いこなすのは、難しい。

 フジテレビ 「海月姫」。 芳根京子は若手女優のなかでもかなりの実力を持った演技者であるが、クソみたいな朝ドラだった 「べっぴんさん」 のヒロインに選ばれてしまうとか、不運な面があるように思う。 マンガ原作のこのドラマでも、そのキャラは荒唐無稽。 それでも、そんな現実味の乏しい役をはじけて演じきった。
 サブキャラだった松井玲奈が、全くこの人誰?みたいな役に徹していたのもすごかったと思う。 安達祐実のノムさんも傑作。 江口のり子も面白かったなぁ。

 テレ朝 「BG~身辺警護人~」。 木村拓哉がSMAP解散後の自らの今後における、ひとつのテストケースとして選んだようなドラマだったように思う。 つまり何シーズンも継続していくような、息の長い 「相棒」 タイプのドラマだ。
 そんなドラマを作るためには周りを固めるキャラが堅固でなくてはならない。 その点で上司の上川隆也が途中死んでしまう展開にはもったいなさを感じた。 まあ、このシリーズで終わりなのかな(笑)。 「ロンバケ」 山口智子との再共演も話題にのぼった。 木村と山口は、演技者どうしとして結構息の合ったパートナーではないかと感じる。

 3月。

 NHK 「スニッファーSP」。 阿部寛と香川照之の刑事ドラマだが、スペシャル版では波瑠が新顔として登場。 かなりいい感じだった。 犯人役の松尾スズキがまたよかった。 もっとやってくれないかなぁ。 新シリーズ見たい。 阿部はこういう 「偉そうでとぼけた役」 がいちばん似合う。

 4月。

 NHK 「半分、青い。」。 録画機故障のためマンガ家編の途中までしか見ることが出来なかったが、結構挑戦的な内容だった気がする。 特に主人公が自己チューだと視聴者からコテンパンにされることが多いがこのドラマはそれを怖がっていなかった。

 テレ東 「孤独のグルメシーズン7」。 シーズン7最大のトピックと言えば、主人公の五郎さんが韓国に行ったことだろう。 このところ関係最悪の日韓であるが、庶民レベルではどうなのか。
 ここでの五郎さんは 「アンニョンハセヨ」 と 「カムサハムニダ」 しか発しなかった。 つまり韓国語が全く分からぬレベル。 国民感情が微妙ななか、よくまあ単独で見知らぬ店に入るよな。
 そんな五郎さんを見て韓国人が何やらしゃべっていたが、その様子は微笑ましく見守っているようでもあり、小馬鹿にしているようでもあった。 どちらにでもとれるこのドラマの作り方が却ってコワイ(笑)。
 いや、世の中、そんなもんなのだ。 同じ日本人だって、顔は笑っていて心では馬鹿にしているかもしれない。 どっちか分からんけど、いいほうに捉えなければ生きていけない。

 フジテレビ(東海テレビ)「いつまでも白い羽」。 新川優愛主演の看護師学校ものだったが、私が見てたのは、新川の友人役だった伊藤紗莉(いい役だった)の父親役が柳沢慎吾で、彼が中華料理屋の主人をやっていたことが大きかった気がする(笑)。 何しろこの中華料理屋、「ふぞろいの林檎たち」 で柳沢が結局あとを継いでたんだっけか、その中華料理屋(ラーメン屋だったかなぁ?)に雰囲気がそっくりだったのだ。 中島唱子がお母ちゃんだったわけではないが、お母ちゃんは死んだかした設定だった。

 フジテレビ 「コンフィデンスマンJP」。 のちに映画化まで発表されたが、公開は来年(2019年)とはいうものの、映画化までするほどのもんかなぁ、というのが正直な感想だ。 面白いことは面白かったけれど、なんかもうひとつ、見ていて驚いた、というのがなかった気がする。 こういうのは、驚かせてナンボのもんだから、ちょっとやそっとじゃ満足できないのだ。
 というより、主役級の3人(長澤まさみ、東出昌大、小日向文世)が、いくら詐欺師の設定とは言え見ていて信用なさ過ぎだったのが 「オドロキ展開に驚かなかった」 原因である気がする。

 関テレ 「シグナル 未解決事件捜査班」。 韓国ドラマのリメイクになるが、「時空を超えて繋がる無線機」 を通じて未解決事件に挑むという毛色の変わった内容だった。 ただし尾崎将也の脚本はとてもリアルを伴っていたため、その荒唐無稽な設定に最初すごく違和感を持った。
 過去に繋がっている先にいる刑事は北村一輝。 そのドラマの現在、という時間軸ではすでに死亡していたため、ドラマ最終盤、その北村の恋人役だった吉瀬美智子との会話が実現したときは、かなり切ない気持ちになった。 主人公の坂口健太郎がなかなか吉瀬に無線機を預けないのがもどかしくて(笑)。
 時間が行ったり来たりして分かりにくいのがこの手のドラマのウィークポイントではあるが、コツをつかむとなかなか面白いドラマだと分かる。 北村が若い役作りをしていたので、後半どこかでホントは生きていた、という設定なのかと思ったが結局出てこなかった(つまり予定通り死んでしまった)。 ということは続編を見据えての若作りだったのかもしれない。 なにしろ無線機でのコミュニケーション方法によって未来が大きく変わるのがこのドラマの最大の魅力なのだ。 面白いから続編作ってほしい。

 日テレ 「正義のセ」。 阿川佐和子の原作がそうだったのかは知らないが、結構内容に深みが伴わなかった印象がある。 もうちょっとひねりがほしかった。 吉高由里子にとっては専門用語が多くてセリフ覚えが大変だったわりにゴクローサマ、だったかもしれない。
 吉高の父親役には当初、大杉漣さんが予定されていた、と聞く。 ご承知の通り大杉さんが急逝したため、生瀬勝久が父親役を務めた。 スゲー個人的な話なのだが、人生で会ったサイコーにヤなヤツが生瀬に似ているため、生瀬が出てくるのを見ると最近気分が悪くなる(玉山鉄二も同様…本人たちはいい迷惑だ…)。

 日テレ 「崖っぷちホテル!」。 EXILEの岩田剛典がさすらいの、実は凄腕ホテルマン、経営が崖っぷちのホテル支配人に戸田恵梨香。 たしか舞台がほぼそのホテル内だった。 三谷幸喜が作りそうなドラマ。 ただしストーリーにあまり目新しいところはなかった気がする。 ストーリーにひねりがないわりに、人物設定、状況設定、歴史設定など設定がとても練られていたような印象がある。 日曜遅い時間帯のドラマだったから、そんなに深刻でややこしいドラマにあえてしなかったのかもしれない。

 NHK 「やけに弁の立つ弁護士が学校でほえる」。 NHKの土曜ドラマは現在30分枠になっているが、「ハゲタカ」「外事警察」 など傑作を見てきている私などにとっては、実に物足りない時間の短さだ。 神木隆之介主演のこのドラマも毎回 「えっもう終わりなの」 レベルの短さだった。 1時間は長いとしても、せめて45分枠にしなさい。
 このドラマは学校を取り巻く諸問題に弁護士を雇って対処する、という話だったが、結局どうなったのかよく覚えてなかったりする(笑)。 神木がその弁護士役だったが、こういう屈折したメンドクサイ人物を演じさせると、神木は実にうまい。

 TBS 「ブラックペアン」。 「半沢直樹」 からだったか、TBSの一連の 「顔芸ドラマ」「オーゲサドラマ」 が始まったのは。 とりあえず飽きられ始めているような気もする。 善と悪の構図が極端すぎてシラけてくるのだ。 日曜のこのような時間帯に、よくこういう 「見ていて疲れる」 ドラマをぶつけようと思うものだ。 まあその意外性が受けたのかもしれない。
 このドラマでは二宮和也と内野聖陽のふたりのスーパードクター以外はなにかっつーと手術を失敗する、ヘタレ揃いだった気がする(笑)。 最新式の機械も全く信用なさ過ぎ(笑)。 二宮のサイテーなヤツ演技が、見ていて意外と気持ちよかった。 まあ周りが魑魅魍魎過ぎでヘタレばかりだったからかもしれないが。

 そして7月-9月の夏ドラマは前述の通り全く視聴せず。

 10月。

 関テレ 「僕らは奇跡でできている」。 このドラマの高橋一生の役は、自分が見たなかではいちばん好き。 戸田恵子の家政婦(実は…)もいい味出してた。 ラストシーンで高橋が月に行って戸田らがそれを下界から見上げ談笑していたが、この現実味が乏しいラストも、ドラマの持つユートピア感覚の延長で、見る側を 「それが現実であってもなくても大して問題ではない」、という気分にさせたのではないか、と思う。

 日テレ 「獣になれない私たち」。 ドラマがどこへ向かっているのか、登場人物がどうしてそうしてしまうのかが分かりにくいドラマは、やはりライトな視聴者層に受け入れられないものだ、ということが分かったドラマだった。 これまでアイドル的な好感度に支えられてきた新垣だからこそ、こういう冒険的な作風が受け入れられなかった、とも言える。 綾瀬はるかがカズオ・イシグロの 「私を離さないで」 をやったのと同様だ(あれもカズオ・イシグロがノーベル賞を取ったあとだったらもっと注目されていただろうが、本放送時は視聴率が芳しくなかった)。
 綾瀬や新垣、先ほど出た石原さとみがほぼ同年代、つまりアラサーだという共通点には注目する。 彼女たちはこの先、どのような年齢の重ねかたをしていくのだろう。

 TBS 「大恋愛~僕を忘れる君と」。 戸田恵梨香もアラサーだったか。

 NHK 「フェイクニュース」。 「アンナチュラル」「獣なれ」 の野木亜紀子が前後編2回のドラマを担当。 系統的には 「アンナチュラル」 の社会的問題意識を推し進めた格好だったが、「アンナチュラル」 ほど整頓された印象がなく、後半は少しとっ散らかってリアルではない展開になってしまった気がする。 このドラマの副題 「あるいはどこか遠くの戦争の話」 というのも、たぶんそのあり得なさを作者が自虐して、後付けされたものなのではないだろうか。
 ただこの脚本家の社会派的な視点が優れていることは分かった。 野木はこの先、「外事警察」 クラスの傑作社会派ドラマを生み出しそうな予感がする。

 以上が今年私が見たドラマである。

 ベスト10をつけるには何かと不便がつきまくりなので、ベター5ということで勘弁してもらいたい。

 第5位 スニッファーSP
 第4位 やけに弁の立つ弁護士が学校でほえる
 第3位 僕らは奇跡でできている
 第2位 シグナル 未解決事件捜査班
 第1位 アンナチュラル

 あと、見たかったドラマベスト3(笑)。

 第3位 義母と娘のブルース(TBS)
 第2位 雲霧仁左衛門4(NHKBSプレミアム)
 第1位 昭和元禄落語心中(NHK)

 次点 アイアングランマ2(NHKBSプレミアム) これ、単なる見落とし。

 あーあ、録画機が壊れてなきゃなあ。 あと、PC買い換えたのも大きかったけど、ビートルズ関係で出費がかさみすぎだ!(爆)

追記および総括

 全体的に見たとき、特に日テレのドラマに質の低下が見られるような気がしている。 万人向けのドラマ(「正義のセ」「崖っぷちホテル!」)には話に今少しのひねりがなく、ドラマ愛好家向きのドラマ(「anone」「獣になれない私たち」)では、演出家の作品に対する理解力が不足してきているような。 私は未見だが、ことし日テレドラマで唯一評判だった 「今日から俺は!」 は、フリーの演出家である福田雄一氏の手腕によるところが大きいのではないか。
 逆に注目なのは、これまで凋落が著しかったフジテレビのドラマだ。 関テレ、東海テレビなど地方局の頑張りも目につくが、これまで何かと自縄自縛に陥っていたような月9で挑戦的な姿勢が目立つ。 視聴率になかなか結びつかないのは、フジテレビ離れの加速のせいであろうが、ドラマ好きとしては目が離せなくなってきた。
 TBSはこれまで支持を得てきた 「半沢直樹」 方式のドラマが、視聴者受け的にそろそろ曲がり角に来ている印象を受ける。 「下町ロケット」 の低迷がそれを物語っているのだろう。 だがこの局はこれまで幾度となくドラマ制作の危機的状況を乗り越えてきた歴史がある。 その柔軟な姿勢が変わらない限り、心配は無用というところだろうか。
 テレ朝はあんまり見ないんでどーでもいいとして(笑)。
 NHKはBSを含めてドラマを作りすぎてる感じがする。 それが粗製濫造、とも言えないのがもどかしいところだが、「そんなにドラマばっかり見てらんないでしょう」、と言いたいですね。 その能力を、もっと看板の朝ドラ、大河ドラマに集約してほしい。 何しろ今年の大河ドラマは、大河ドラマファンにとってはゴーモンクラスの酷さだった。 企画の段階から致命的な大失敗だったと断言したい。 西郷隆盛や幕末、明治の偉人たちに失礼でしょう、こんな端折りまくりのドラマ作ったら。

 それにしても、今年話題となった 「おっさんずラブ」 とか 「今日から俺は!」 とか、ことごとく外しまくってる自分は、ホントにドラマウォッチャーなのか? 最初からほとんどノーチェックつーか。 いや、男同士の恋愛なんて、ハナから見る気なかったし。
 いや、録画機が壊れてたから、そもそも物理的に視聴不可能だったけど。

2018年12月24日 (月)

「大恋愛~僕を忘れる君と」 記憶とは、いったい何なのか

 若年性アルツハイマーに罹った主人公・戸田恵梨香とムロツヨシのストレートな恋愛ドラマだった、「大恋愛」。 このドラマの冒頭に毎週登場するタイトルバックは、白い服を着たふたりが海辺で砂遊びをする光景だった。

 戸田が両手に救った砂がこぼれ落ちるのを、ムロが下で受け止める。
 戸田は無邪気に笑い、ムロはそれを優しい笑顔で見守る。 戸田はすでに病状がかなり進行している様子。
 こぼれる砂は戸田の記憶の象徴であり、白い服も同時に、無地に戻っていく幼年退行の象徴のように見えた。
 これほどこのドラマそのものを表現し尽くした見事なタイトルバックも、近年なかなかなかった気がする(「西郷どん」 の明治編でのタイトルバックは、その点では見事だった)。

 普通この手のドラマといえば、病状を克明に追っていって、その悲劇性を煽り視聴者を泣かせる、というパターンを踏むことが多い気がするのだが、このドラマは違った。
 最初の差別化は、ムロツヨシという役者の起用。 もともと実力がよく分からないコメディアンタイプのムロを主人公の相手に据えることで、このドラマに奇妙な含み笑いをもたらすことに、成功した。

 次に、同じ若年性アルツハイマーを患いながら、暗黒面に陥ってしまう青年・小池徹平の存在。 小池は戸田とムロの幸せぶりに横恋慕し、戸田を自分のものにしてしまおうと画策する。 その演技があまりにリアルだったために、このドラマでそこはかとない含み笑いに満ちた純愛を堪能しようとしていた向きには、かなり邪魔者扱いされた。
 最終回ではそんな憎々しげだった彼が、記憶をなくして無邪気な子供に戻ってしまった姿が映し出される。 もちろん戸田とムロに犯した罪も、忘れていた。 それが見る側に、特別な感慨をもたらすことになる。

 「そもそも記憶とは、いったい何なのか」、という感慨だ。

 忘れることは普通、悲しいことのように思われがちだ。
 それは、大事な人との思い出、大事な場所の思い出、生きてる間に起きた世の中の出来事の思い出、そして生きている間に得た知識の数々が、徐々に失われていくからだ。
 それはこの世と自分と他人を結びつける、かけがえのない糸のようなもの。 自分自身がこの世に存在している意味、とも考えられる。
 それが失われていくことは、自分がこの世に生きている意味さえも失われることと、同義に捉えられる。 そのことが、悲しいのだ。

 けれども同時に、忘れるということは、嫌な記憶も自分の犯した罪さえも忘れる、ということだ。
 小池が演じた青年は、みんな忘れてしまう、という絶望から、どうせ全部忘れてしまうなら、自分の思った通りに生きてやれ、欲望のままに生きてやれ、という方向に舵を切ってしまった。
 彼は戸田やムロを苦しませることで、自らの絶望を共有してもらいたかったのかもしれない。 それが彼にとってこの世と自分をつなげる悲しい糸になっていたのかもしれない。

 私は時々考えるのだが、もし生まれ変わりというものがほんとうにあるとすれば、私たちは前世の大事な人、場所、出来事というものをみんな忘れてしまっている(たまに忘れてない人もいるらしいが)。 それってもしかすると、記憶というものは実は、人にとってそんなに重要なものではない、ということを意味しているのかもしれない。

 しかし同時に考えるのは、もしその記憶がその人にとってとても重要なのであれば、おそらく人はその重要な人のもとに生まれたい、と願うし、その重要な場所に生まれたい、と願うし、それが叶わなければ、現世でその人や場所に出会ったときに、強烈な郷愁や、懐かしさを覚えるはずだ、ということである。

 話を戻そう。 このドラマがほかの難病ものと一線を画していたもうひとつは、戸田の主治医であった松岡昌宏が、戸田の母親であった草刈民代と結ばれてしまう、というトンデモ展開だった(笑)。
 この展開がこのドラマにとって必要だったのかどうかは分からない(笑)が、あえて挙げるとすれば、この展開は今年なにかと大変だったTOKIOの松岡に対する救済だったのではないか、と(ハハ)。
 何しろこのドラマの松岡は、当初結婚予定だった戸田にあっさりフラれ、それでも真摯に患者として戸田に向き合い、こうしたドラマにありがちなエキセントリックな方向に向かうことなく、その生真面目さを貫き通した。 男である。 それがなんとも、今年起きた不祥事に対する松岡の毅然とした態度と相通じるものがあった。

 まあこれはさして重要ではないことだったが、このドラマがほかの難病ものと違った最後の一点は、戸田の病状の進行を、特に終盤かなり駆け足で省略しまくった、という点だ。

 それは確かに、松岡と草刈の話とか小池の話に時間を割いたせい、ともいえるが、このドラマは従来の難病ものにありがちだったセオリーをあえて避けた、とも考えられる。
 それを象徴していたように思えるのは、小説家であるムロが書いた 「彼女はいつも生き急いでいた」、という一節だ。
 戸田の今回の役は、とても冷静で鉄面皮のように見えるのに、実は心を許してしまうととても無邪気でコロコロとよく笑う、という性格設定だった。
 そんな表情豊かな彼女が、終盤2回くらいで急激に表情を失い、ぼーっとしている場面が増える。
 それが逆に、記憶を失うことの切迫感を見る側に訴えかけていた。

 最終回、失踪した戸田は、ムロに残した4Kのビデオカメラに、消えかけているムロ(役名がシンジだった)の記憶にすがるように、大きく動揺しながら叫ぶ。

 「シンジ、好きだよ…!」

 私はここしばらく、ドラマを見て泣くなんてことはすっかりなくなっていたのだが、この場面には泣けた。 おそらく展開がもっとゆっくりしていたら、この切迫感にここまで心を動かされることは、なかったはずだ。

 戸田は、来年10月からのNHK朝ドラのヒロインに抜擢されたらしい。 この演技力をもってすれば、その内容には大いに期待できるところだ。

2018年12月23日 (日)

「獣になれない私たち」「僕らは奇跡でできている」 のふたつのドラマ、生き方に対する姿勢の比較で考える

 「逃げ恥」「アンナチュラル」 の脚本家である野木亜紀子氏。 僕シリーズ、「不毛地帯(唐沢寿明版)」 の橋部敦子氏。 野木氏は1974年生まれで橋部氏は1966年生まれ、ひと回りの年の差があるが、この秋クールに展開した実力脚本家のふたつのオリジナルドラマは、おふたりの 「生きかた」 に対する違いを垣間見ることができて、興味深かった。

 視聴率的にはふたつのドラマとも惨敗の域に入る。 しかしこの手のドラマが積極的に見られない、ということは、日本の国力の低下の表われのような気もする(オーゲサ)。 人々は自分の理解できない登場人物を無理して理解しようとしないし、見た目退屈そうなドラマをわざわざ自分のスマホにかける時間を削ってまで、見ようとしない。 簡単で分かりやすく感動でき泣けるものばかりにアクセスするという傾向は、精神の老化を意味するものなのではないか。

 いや、日本人の高齢化現象は、すでに 「好奇心」 という精神の部分においても、だいぶ進行している、と私には思えてならない。

 「獣(けも)なれ」 と 「ぼく奇跡(キセ)」 は、極端に言えば 「人生ってこんなもん」、という諦めみたいな態度と、「人生をもっと豊かに生きるにはどうすればいいのか」、という幸せ探しみたいな態度の、真逆のベクトルで構成されていた気がする。

 だが両者に共通するのは、「自分の人生にどうやって向き合ったらいいのか」、という目的地だ。

 「獣なれ」 の主人公、新垣結衣はパワハラ社長と無能な部下に恵まれた(笑)劣悪な環境下で働いていた。 恋人の田中圭は元カノの黒木華と別れられず自分のマンションを彼女にやってしまう究極の 「優しい男(アホ男とも言う)」。
 視聴者に受け入れられなかったのは、この登場人物たちが嫌悪されたためだ。 ある一面ではリアルを突き詰めすぎた結果ともいえるが、この極端な状況設定が見る側に鬱々とした自分の人生を投影させる悪循環をもたらした、ということだろう。
 さらにこのドラマでは欠くことのできなかった物語展開の劇場であった、クラフトビールバー 「5tap」 のいかにもセレブチックな設定が、給料も上がらずじわじわとした物価上昇に汲々としている庶民感覚には、そぐわなかった。 そんなところで毎日のように千円とか2千円、5タップまでいけばおそらく4千円くらいは取られるであろうビール代を平気で払う、金銭的余裕のある登場人物たちが何を悩んだってどうということがあるものか(なんか個人的な感想になってきた…笑)。

 だがそんなセレブなバーでなければ、新垣は自分の人生に当たり前の決断を促してくれる人物たちに出会わなかった。 それがドラマ、というものだ。 多くの人たちはおそらく今の時代、どこへも行かず誰とも会わず、ネットの世界をさまよいながら、自らの行く道を決めていく。 でもそれでは、ちっともドラマにはならないのだ。

 新垣にもたらされた当たり前の決断。 それは会社を辞め、恋人とも別れるというものだ。
 こんな当たり前の決断を彼女がするのに、彼女はバーで出会った松田龍平とキスはするわ寝るわしなきゃいけなかった。 そこまでする必要があったのか。

 いや、人が大事な決断をするときは、そこまで自分の生きかたを掻き回さなきゃリセットできないものなのだ。

 では、女優・新垣結衣にとってこういう掻き回し展開は必要だったのか。

 必要だった。 今年30を迎えた新垣にとってこのドラマはいかにも小さな一歩だったかもしれないが、みずからの演技に深みを加えるために必要なドラマだった。
 ドラマの序盤だったか、あまりに理不尽な状況が続きすぎたために、新垣の精神状態は危険ゾーンに突入する。 どんなつらい目に遭っても、「幸せなら手をたたこう」、と呆けたようにつぶやき歌い続けるのだ。 こういう凄みを感じることができるのは、やはりドラマの醍醐味だろうと思うし、おそらく脚本の野木氏も新垣も、こういう 「限界を超えたとき、人はどうなるのか」、という世界を表現したかったのではなかったか。

 ドラマではもうひとり、自らの限界と向き合っている女性が設定されていた。 田中圭の母親である田中美佐子だ。 彼女はほかの家族の無理解のもと、植物状態同然の自分の夫を介護し続けている。 新垣が彼女の味方をしたとき、それまで表面上朗らかだった田中美佐子は自分の感情を露わにする。
 さらにもうひとり、マンションをもらった黒木華も、実は自分の生きる道を見失った限界状態のなかにいた。 黒木はその悲しさ情けなさ、苛立ちを、他人を不快にすることで解決しようとしていたのかもしれない。 しかしそれは回り回って自分を傷つけるだけだった。

 このドラマは、そんな 「テンパっている人がどう行動してしまうのか」、というパターンを表現しようとしていたのではないだろうか。 そこから見える脚本の野木氏の考えには、あまり 「人生に対する処方箋をドラマを通じて表現しよう」、という気概は感じられない。

 あくまで、あるがままに。

 どう生きていこうと、人生は人生。 そこから見える風景が、自分の人生の風景なのだ。
 ラストシーン。
 松田と新垣は定時に鐘の鳴る、という教会にやってくる。 松田も新垣も、自分のなかにいた小さな獣を発動させて、新しい局面に立ったばかりだ。
 ふたりで見守る教会の鐘。 鳴るのか鳴らないのかは、実はドラマにとって、そしてドラマを見ている観客にとって、さほど重要ではないのだ。
 その教会は、ただあるがままに、そこに存在し、それを見守るふたりの人生の、風景の1シーンとして、刻まれていく。

 それに対して、「僕キセ」 は、「人生、こう生きたらもっと楽しめるのではないか」、という提示にあふれていた。
 まず主役の高橋一生が発達障害気味の人物を演じたところから、このドラマは 「普通の人が陥りやすい常識」 に一石を投じようとしていることが分かる。
 ここでの高橋は自分の夢中になることにしか神経がいかないタイプの人間だ。 そして彼の周りの環境は、彼に対して常に優しい。 彼が受ける外的ショックに対して、常にアブソーバー的な役割をしてくれる点においてだ。 それはドラマを見る側にとっては、とても羨ましい、オアシスのような場所だった。 まずこの環境が、脚本の橋部氏の理想を物語っているように思えた。

 彼が通うことになった歯医者の榮倉奈々は見た目完璧な完全主義的なところがあり、それゆえに自己嫌悪に悩まされていたが、高橋の 「あなたのいいところを100個、僕は言うことができる」 という言葉でその苦しみから解放される。
 高橋が挙げていった榮倉のいいところは、実は普通の人からすればなんてことはない、できて当たり前だと思えるようなことばかりだった。
 しかし、それをできることがそもそもすごいのだ、という考えまでに、人はなかなか至らない。
 無感動で冷静な生きかたをしていると、当たり前のことを当たり前だと考えて何が悪いのだ、という、身も蓋もない考えに陥ってしまうことが少なくない。
 けれど、できて当たり前のことができることはすごい、と考える癖というのは、別に身につけといても損はないんじゃないか。

 なぜなら、できて当たり前のことは、年を重ねることにできなくなってしまうものだからだ。

 年々減っていく 「できて当たり前のこと」。 それでも、いくつかはまだできることは残っている。
 そのときに威力を発揮するのが、できて当たり前のことをすごい、「と思う癖」、なのだと思う。

 このドラマの主眼は、「もっと自分のことを好きになろう」、という啓発であったような気もする。 そこには楽観主義が介在することになるが、別にそういう考えができなくとも自分を責める必要もないし、そうしなくてはいけない、という無理強いもドラマは否定していた。 コンニャク農家のあとを継ぐかどうかで悩んでいた高橋の教え子も、彼がどうすべきかをドラマは根本的問題としていない。

 このドラマは、あくまで 「こう生きることができたらもっと幸せなのではないか」、というひとつの提案でしかないのだ。
 そこには、脚本の橋部氏自身の、生きかたに対する模索の姿勢が見て取れる。

 そういう点で、「獣なれ」 と 「僕キセ」 は、全く違うベクトルでできているドラマだった、といえるのだ。

 普通の人が陥りやすいドラマの見方として、「この人とこの人はくっつくのか」、という素朴な興味がある。
 「僕キセ」 では高橋と榮倉の恋の行方、といったところだったが、このドラマはそうした俗物的な興味にも、さらりとした答えを用意していた。

 いわく、「僕はあなたを、面白い、と思う」。

 なんと素敵なセリフか。 好きだの嫌いだの惚れただの腫れただの、そんなドロドロとは全く無縁の世界。
 実は高橋の精神的範疇においては、そこから先のドロドロとした領域に踏み込むことに対する恐怖が存在しているのかもしれない。
 それでも、そんなドロドロとは無縁の部分で、存在できる恋愛があってもいい。
 いや、それは、人生のパートナー、という考え方なのかもしれない。

 今回私は、初めてTVerによる視聴を敢行したのだが、セリフの聞き取りにくさにおいてかなり不便を感じた。
 だが、聞き取れないけどそれはそれでいいか、と考えてみることにした。 セリフが字幕で読める、というのはそれで100パーセントそのドラマを理解できることにつながるが、それが本当に重要なことなのか、と自分に問えば、そうでもない気がしてきたからだ。

 考えが柔軟になったのか面倒くさがりになったのか、それは自分でも分からない。

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BOOKS

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ記事より抜粋)。 この上巻ではビートルズの祖先から遡ってリバプールで人気に火が付き始めたところまでが書いてあります。

  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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