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2019年2月

2019年2月11日 (月)

「いだてん~東京オリムピック噺」 第3-6回 このドラマの楽しみ方(って解説…無粋だ…)

 今年の大河ドラマ 「いだてん」 が、テレビドラマフォロワーやクドカンファン以外の視聴者に、あまり好意的に受け入れられていない点について語ろう、と思う。

 まず第一の難点は前回記事で書いたとおり、ビートたけしの起用であろう。
 セリフがじゅうぶんに聞き取れない、ということは、ドラマを見る上においてとても見る気を削がれる一因であることは確かだ。 私などは耳の聞こえが致命的に悪いので、永年字幕付きでドラマを録画し視聴してきた。
 だが耳の聞こえが悪いことを差し引いても、イヤホンで大音量で聴いていても、セリフが聞き取りにくい役者というのはしばしばいる、と私は感じる。 テレビの副調整室でモニターがどう聞いているのかは知らないが、きちんと視聴者が聴けるような状態で放送するのは、作り手の義務でもあろう。

 ただし。

 「セリフを一から十まで聞き取り理解できることが、果たして絶対的に正しいのだろうか」、という疑問も、同時に私は感じている。

 古い話で恐縮だが、その昔、左卜全(ひだりぼくぜん)、という大変個性的な役者がいた。 彼は黒澤明の映画によく出ていたが、彼が出てくると私などは、ちょっと身構えたものだ。
 何しろ、しゃべってることが半分くらい分からない(笑)。
 それでなくとも黒澤の映画は、録音が古いせいなのかセリフが聞き取れないことが多かった。 それでもじゅうぶんに感動できたものだ。

 ビートたけしが演じている古今亭志ん生本人も、当時の録音状態の善し悪しにかかわらず、酔っぱらいがブツブツ言っているような感じで、ちゃんと聞き取れない部分があることは確かだ。
 それでも当時の観客は笑い、拍手を送った。
 それはどこかで、「志ん生の落語は面白い」、という先入観によって、その場の雰囲気で笑ってしまっていたこともあろう。
 しかし大半は、聞いても分からない部分は 「やり過ごして」、「その分からないところも味わいとして捉えて」、志ん生の落語を楽しんでいたのだろう。

 「その場の雰囲気で」、「その場の流れで」。

 テレビドラマや舞台や興行にかかわらず、すべての 「見世物」 を見ようとするとき、多少の不便はつきものなのではなかろうか。 私たちは昨今の、緻密に作られ伏線が張り巡らされ布石が打たれまくりのドラマに触れすぎて、セリフのひとつひとつ、演出のひとつひとつ、小道具のひとつひとつにまで神経を尖らせなければならない、と思い込んで、その 「ある種の不便」 を、やり過ごせなくなってきているのではないか。

 分からない部分は、分かんなくていい。 どうせしゃっちょこばった本当の話じゃない。 気楽に楽しもうや。
 それがこのドラマのスタンスなのではないか。
 このドラマのリアルというものは、もともと重要視されていない。 「事実を基にしたフィクション」、というのは、そのために但し書きされた謳い文句だが、そのエクスキューズをドラマはその構造で弁明している。
 「志ん生の落語」、という形でだ。
 だからこのドラマのタイトルは、「噺」 なのだ。
 ドラマはどんどん落語のネタを基に展開していく。 そのたびに画面には、元ネタの噺の内容が出る。
 でもそんなもの、読まなくたってたいした支障なんかないのだ。
 やり過ごす。 そして楽しむ。
 これがこのドラマの楽しみ方のひとつなのだろう。 そう私は思う。

 この、「落語を基にした展開」、というものに、私は少々脆弱性を感じている。 というのは、落語のサゲ(オチ)って、別にどこが面白いんだ、というのが多い気がするからだ。
 しかしこの私の危惧を、第6回(2月10日放送)でしっかりと五りん(神木隆之介)が師匠に突っ込んでくれた(笑)。 …いま入力して分かったけど、五りんって五輪のことか(笑)。
 だがこのサゲというのは、その噺が終わりましたよ、という観客に対する合図でもあり、「決めゼリフ」 でもある。 そこに噺家と観客の呼吸の一致、合致が要求されるわけだ。
 それができない受け手は 「野暮」、というものだ(五りんは野暮、ということになる)。 テレビ桟敷に陣取っている我々も、作り手との呼吸を読み取れる、大人になる必要があるのではないか。

 第二の難点は、「時代が行ったり来たりしすぎる」、という部分であろう。
 宮藤官九郎の脚本はもともとトリッキーで分かりにくく、ついてこれない視聴者を置き去りにする傾向があることは確かだ(笑)。
 ただ、時系列を二元化する、という傾向は 「あまちゃん」 や前作の 「監獄のお姫さま」 などで見られた手法だが、そのときあったタイムラグが2、30年程度だったから、50年ある今回は比較的分かりやすいほうだとは思う。 なにしろ俥屋が出てくりゃ明治、自動車が出てくりゃ昭和だと分かるだろう(笑)。 いや、今のところはこのふたつの時代、登場人物が全くかぶらないのだから(志ん生以外)、それだけでどっちの時代をやってるか、分かりそうなものなんだが。

 また、同じ時代でも、いったんやった場面を巻き戻して、その出来事の裏でなにが起こっていたのかを種明かししていく、という 「木更津キャッツアイ」 のような手法もとられている。
 こうしてみると、この 「いだてん」 という大河ドラマは、宮藤官九郎がこれまで用いてきたテクニックを総動員して、作り上げていることに気づくだろう。
 第1回から第5回までは、その 「木更津キャッツアイ」 の手法で、一回の表裏が終わったワンセット、というところだろうか。

 この手法を宮藤がとり続けるかどうかは分からないが、第6回では昭和30年代編においてのもうひとりの主要人物、田畑政治(阿部サダヲ)が登場した。 第1回でちらっとだけは出ていたのだが、志ん生を仲介人として、明確に明治と昭和の前後編が分けられるのかと考えていた私にとっては、ちょっと意外な登場の仕方だった。 要するに、宮藤としてはハードルをちょっと上げた、という形になるのだろうが、こうなると、話が分からない人はさらに分からなくなっていくような気がする。
 いや、分かりそうなもんなんだが。
 もしかすると、すでに昭和(半ば)というのは、明治と区別ができないくらい、若い人の意識のなかでは同一化しているイメージなのだろうか?
 いや、「このドラマが分からない」、と言っている人の年齢層自体が分からないので、考察のしようがない。

 話が行ったり来たりするなかで、「分からない人」 を混乱させているひとつは、第1回でビートたけしの志ん生がタクシーのなかから目撃し、第6回で田畑政治がこれまたタクシーのなかから目撃した、「足袋を履いて銀座や日本橋を駆け抜けていくランナー」 であろう。
 これはいまのところ、明治編の主人公である金栗四三の 「幻」、といった風情を醸している。
 実際に並行して語られる金栗は、ストックホルムオリンピックを目指してこのコースを走ることを決めた。 決めたと同時に、昭和30年代の街なかを、四三と見まごう人物が走るのだから、混乱する向きもあるかもしれない。
 それは果たして、幻なのか。
 それとも年老いた、四三自身なのか。
 その正体が分からずとも、私たちは画面のどこかに息づいている、在りし日の人々の残留思念を(「幻魔大戦」…)、感じていく。

 それがテレビドラマ、というものなのではないか?

 時代がぶつ切りにされて移動するたびに 「分からない人」 を混乱させていく今年の大河だが、そこで浮かび上がってくるのは 「志ん生自身の成長過程」 だ。
 「誰が主人公か」、という意識は、ここですっぱり捨て去ったほうがいい。 過去と現在(と言っても60年近く前だが)との橋渡し役のように見える志ん生だが、当の若き志ん生はひどい遊び人から脱却して、師匠と仰ぐ人物に遭遇し、その師匠の俥屋をしながら噺を覚えていく。 要するに、金栗四三以外にも、もうひとり美濃部孝造(志ん生)という主人公がいるわけだ。

 これは、金栗四三が、物語の主人公としてはあまりに実直で生真面目すぎ、面白みに欠けるところからフォローされたのだと思われるが、いっぽうで四三の真面目さを、宮藤がネタにしないわけがない。
 私は当初、金栗四三という人はキャラ造形的にあまり存在感がない、と考えていたのだが、彼の実直さが醸し出す可笑しみと、勤勉さが後押ししていくポテンシャルが、結局四三という人物の厚みを増していく過程に、ひたすら感心している。
 彼の真面目を押し上げているのは、「負けん気」 だ。 最初のレースで二位に終わり、四三はその敗因を徹底的に自分なりに分析する。 「自分なり」、であるから、そこには専門的知識とかは全くない。 でも、「自分なり」、であるから、自分の正直な気持ちに添って分析は進んでいくのだ。
 彼の勤勉さは、トレーニング法を貪欲に取り入れることでも発揮される。 「油なし、水抜き」、という間違った知識は、実践のうえ、淘汰されていく。
 「水を飲んじゃイカン」、というのは私が中学生の頃(40年くらい前)はまだ言われ続けていたことだ。 いまはそれが間違いだったことが証明されている。 トレーニング法の試行錯誤、という側面がここであぶり出されているのはすごい。 宮藤の問題意識が手広くなければ、こうした側面は、見逃されがちだ。

 オリンピック予選会で四三が世界記録より20分も早い記録を出してしまったことへの、疑念や葛藤がきちんと描かれていることも、好感が持てる。 「こうなれば、どうなるのか」、という、原因と結果に対する作り手のシビアな視点、というものがなければ、物語のなかでこんな議論は噴出しないからだ。
 そしてその葛藤が、嘉納治五郎を苛つかせる遠因になっていることにも注目する。 第6回のメインテーマはそこにあったのだが、オリンピックに選手を送り出すために必要なカネを嘉納が工面できない、という状況を、宮藤は重層的な理由を積み重ねて、説明していく。
 そこで飛び出た原因のひとつが、嘉納が中国人留学生たちの面倒を見てしまったから、というものであったが、これも以前に羽田の運動場を作ったときに、辮髪の彼らをとても印象的に登場させておいたから、トートツ感がかなり軽減された(「トートツ感」 でなにを言いたいのかは、分かるね?)。
 遠征費用の額も、嘉納の下で働く可児(古舘寛治)の給料の何ヶ月、という説明の仕方で、だいたいではあるがどれだけのものか、受け手にすっと入ってくる。
 こういう細かい部分での一言一言が、物語を立体化させるうえで、すべて有効なのだ。

 嘉納治五郎はままならない状況にただひたすら憤慨し血圧を上げまくっていくのだが、どこも拠出してくれるところがないと、すぐに自分の財産でけりをつけようとする、その思いに見る側は知らぬ間に、感情移入していく。 そして資金源の問題や、スポーツに対する理解も知識もまったくない当時の状況に、さまざまな感想を抱いていく。

 これがテレビドラマ、というものなのではないか?

 いずれにしても、今回のこのドラマに対する、受け手のさまざまな考え方を読むたびに、「私たちは 『受け取ったものを自分で考え、鷹揚に咀嚼する』 という能力を、喪失しつつあるのではないか」、という思いにとらわれる。

 必要な情報はスマホで簡単に手に入るが、自分の興味のあることだけにしか関心がなく、そこで偏った知識ばかりに精通して、偏った見識が培養される。

 いっぽうで理解できないことを理解しようとせず、自分が 「分かんない」、というのが大問題であるかのように感じてしまう。 賢くなると同時に、理解力が低下し、ほかの考えを受け入れる柔軟性が、失われているのだ。 飛躍した考えかもしれないが、これは世界的な傾向のようにも思える。 自国第一主義、排他主義、といった傾向だ。

 かつて 「テレビを見てるとバカになる」、と言われた時代があった。
 いまはスマホが、それに代わっているのかもしれない。

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BOOKS

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上

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     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ記事より抜粋)。 この上巻ではビートルズの祖先から遡ってリバプールで人気に火が付き始めたところまでが書いてあります。

  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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