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2019年5月

2019年5月19日 (日)

ポール・マッカートニー2018年最新アルバム 「エジプト・ステーション」 エクスプローラーズ・エディションの新曲も交えて

 ポール・マッカートニーの2018年最新アルバム 「エジプト・ステーション」。 36年ぶりに全米チャート1位を獲得したことで、そのセールス的な復活ぶりも取り沙汰される作品となった(全英3位)。
 「ビートルズ関連怒濤の出費ラッシュ(その2)」 の項でも採り上げたが、このほどそのクソ商法のとどめであると期待したい(どうかな…)同アルバムのリリース第3弾、「エクスプローラーズ・エディション」 がリリースされた。 まずはそれについて言及したい。

 この2枚組CDのうち、先行でネット配信された1曲 「ゲット・イナフ」 を含めた 「フランク・シナトラズ・パーティ」「62nd ストリート」 の(たった)3曲が、CD初収録の新曲だ。 「ゲット・イナフ」 のみ、「ファー・ユー」 と同じくライアン・テダーとの競作で、テダーのプロデュースによる。

 「ゲット・イナフ」 はポールが初めて 「オートチューン」 を使用した曲だ。 オートチューンというのは、ヴォーカルの音程を調整するソフトウェア。 ダフト・パンクやPerfumeで聞ける、ロボットみたいな声を作り出す機械、と言えば分かりやすいか。
 このソフトを使うことには若干の抵抗が音楽界にはあるようだが、革新的な音楽をリードしてきた元ビートルズのポールにとって、「禁忌」 という考え方自体がないことをあらためて証明した形だ。
 ただしポールのオートチューン使用の目的は、自らの劣化した声の補正のほうに重点があるように思われる。 ソフトの進化の結果か、どこで使われているのかがちょっと聞いただけでは分からない感じがするが、おそらくサビの高音の部分だろう。 曲の印象としては、カニエ・ウェストやケンドリック・ラマーの影がちらつく感じだ(はるかにメロディアスだけど)。 スローバラードというカテゴリに属するのだろうが、ポールの今までのキャリアにはなかった種類の曲と言える。 要するに、2010年代後期の洋楽、というカテゴリの中に存在している曲なのだ。 テダーとのもう1曲、「ファー・ユー」 のもつ 「従来のポールにありがちなヒット・チューン仕様」 とは根本的に異なる。

 「フランク・シナトラズ・パーティ」 でのアプローチも同じだ。 このメロディの奥底にはたぶんにしてレゲエ的な発想が流れているが、リズムは 「ンチャ、ンチャ」 という形式を採っていない。 ポールがこの曲に対して持っているのは 「リフの複雑さとヴォーカルメロディの兼ね合いによる楽しさ」 であろう。 古くは 「デイ・トリッパー」 や 「ドント・レット・ミー・ダウン」 の 「♪アイム・イン・ラヴ・フォー・ザ・ファースト・タイム」 あたりの気持ちよさに、その原点を求めることが出来る。 だが音楽的には当時よりはるかに多くの要素がミクスチャーされている。 現代の音なのだ。
 その昔フランク・シナトラのパーティに、ポールは呼ばれたのであろう。 そのときのことが歌われている。 いつ頃かは分からないが、俳優のピーター・ローフォードが歌詞に出てくることから、少なくとも彼が亡くなる1984年以前のようだ。 ビートルズはシナトラと反目し合っているような感覚だったので、おそらくビートルズ在籍中はこんな機会などなかったと思う。 ポールは歌のなかで、スティングの 「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」 みたいな孤独に晒されている。 しかしアレンジが現代風なので、この曲のPVがあったらカリードとかマックルモアなんかが出てきそーな感じだ(笑)。

 「シックスティ・セカンド・ストリート」 は題名からしてジャズっぽいが、ジャズっぽいのはシャッフル・ビートくらいで、曲の感じとしては 「メモリーズ・オーモスト・フル」 のボートラだった 「ホワイ・ソー・ブルー」 あたりに似ている気がする。 アコースティック・ナンバーだ。
 この曲のスリリングなところは途中でリズムがシャッフルから2拍子になり、カッコよくシャッフルに戻る部分。 本編でトランプ大統領を揶揄したと言われる 「ディスパイト・リピーティッド・ウォーニングス」 とか、本編最後の 「ハント・ユー・ダウン/ネイキッド/Cリンク」 でも聴くことの出来るテンポチェンジが行なわれているが、同じ傾向の 「バンド・オン・ザ・ラン」 とか 「死ぬのは奴らだ」 に比べて、あまりにそつなくてどこか味気ないような気がするのは私だけだろうか。 これって 「クリック」 と呼ばれる 「デジタルメトロノーム」 みたいなので管理されてるせいなのかな。 よく分からんが。

 「フー・ケアズ(フルレングス)」 は本編に入っているものより最後が長い。 ギターでいったん終わってからアドリブ的なシークレット・ギグが始まる感じだが(歌はない)、2分以上続くそれは結構単調だ。 本編でカットされたのも頷ける。 基本的にバンド演奏によるロックで、ベースが時々面白いアプローチをする。 場合によってはここにいろんな音を足して別の曲と劇的な繋げ方をするとか、料理の仕方はあったかもしれない。

 あとの4曲は本編のライヴ・バージョン(プロデュースはジャイルズ・マーティン)であるが、ここではポールの声の劣化が如実に感じられて、ちょっと往年からのファンにはつらい内容になるかもしれぬ。 逆に 「この年でここまで」、という感動的な捉え方をするファンがいるかもしれぬ。 いずれにしても、本編においてでさえもポールの声は劣化している印象で、私は 「もっと喉の調子がいいときに録音しろよ」 みたいなことを考えていたが(つまり本編においてさえも声の出ているときとそうでないときの差が激しい)、実はこれが最も調子のいいときの、ポールの声だったのだ(しわがれ声をわざと演出している場合もあるだろう)。
 「ファー・ユー」 のライヴでは、問題があると思われる 「ファー」 の単語だけが歌われていない。 昨今では歌詞の中によく 「f**k」 の文字を見かける洋楽をしばしば耳にするが、マルーン5の 「ジス・サマー」 なんかのように、実際歌われるときは省かれる場合もあるようだ。

 いずれにしても、「ポールのボートラやボツ曲は侮れない」、という定説が、今回もまた証明された形だ。 あと数曲あると思われるボツ曲を含め、正式な2枚組としてリリースされれば、セールス的には失敗してもこのアルバムの評価はもっと高まったことだろう。

 期待したジャケットだが、最初に出た蛇腹状のものではなく、二つ折りのものでしかない。 その点は残念だった。

 では、本編についても少し触れよう。

 先行配信された 「アイ・ドント・ノウ」 を購入して聴いたときの第一印象は、「ポールの楽曲としては極上、とは言えないまでも傑作に近い」。 そして感じたのは 「アレンジの隅々にまで神経が行き届いている」、というものだった。
 まずイントロをリードするピアノの音色が、すこし調律が外れてホンキートンク気味になっている。
 近年の傑作アルバムとして名高い 「裏庭の混沌と創造」 でも顕著なように、従来のポールのやりかたならばここはまともなピアノの音色を聴かせるはずだ。 この音質の 「歪ませかた」、というのは 「エジプト・ステーション」 のアルバム全体を象徴するアレンジ構築手法であるように感じる。
 明確な情報は得ていないが、ドラムはポールが叩いているのだろう。 手癖がポールっぽい。 このドラムの音色も、最後のヴァースで分かるように、従来に比べればかなり重低音が強調されている。

 重低音、というのは近年のポップシーンでは必須の項目だ。 特にEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)とかラップとかヒップホップ(どう違うのか?)でよく耳にする。
 この重低音の定義というのは感覚的なもので、従来であればベースギターの音や、ドラムスの中でもいちばん低いバスドラの音とかが音域の低い音として記録されてきたのだが、それがさらに強調された状態のことを指しているのだろう。
 ここで筆者が分からないのは、ただ低音を強調するだけなのであれば、音質調整でベース音を上げればいいだけのように感じるのだが、それだと 「低音がうるさいな」 ということになってしまうのに、重低音はあまり不快を伴わない、ということだ。 これってどういうことなのだろう。 筆者の考えでは、おそらく人に聞こえない低い周波数の操作で、空気の振動として聞かせてしまうからなのではないか、と思っている。

 ポールの楽曲でこの重低音が意識的に使われたのは、前作 「NEW」 のボーナス・トラックだった 「ゲット・ミー・アウト・オブ・ヒア」 で鳴る低い太鼓が、最初だったように思う。
 前作であまり顕著ではなかったこの重低音が、「カム・オン・トゥ・ミー」 も含め先行配信されたこののっけからの曲で鳴りまくり。 私はここに、今回ポールと組むことになったグレッグ・カースティンの影響を少なからず感じた。

 グレッグ・カースティンは、2017年のグラミー賞も獲ったアデルの 「25」 のプロデューサーである。 だからポールが彼を指名したというわけではなく、「25」 の発売以前からポールはアプローチをかけていたようだ。 ここで注目すべきなのは、ポールの恐るべき嗅覚だ。 前作 「NEW」 でも、ブルーノ・マーズと組んでいたマーク・ロンソンを起用していた。

 私はこの嗅覚の原因を、ポールの最も若い娘ベアトリスにあると踏んでいる。 「裏庭の混沌」 でもレディオヘッドのナイジェル・ゴドリッチと組んだことがあったが、ゴドリッチは別に旬のプロデューサーでもなかった。 ポールの近作はそれこそ奥さんのナンシーさんの趣味に沿ったジャズ・アルバムとかあったけれど、ほぼこのベアトリスの成長に合わせた変遷の仕方をしている感覚がするのだ。 ベアトリスが幼女だった頃の 「メモリーズ・オーモスト・フル」 では単純な構造の 「ダンス・トゥナイト」、最新作でも 「ファー・ユー」 がお気に入り、みたいな情報も聞いた。 おそらくベアトリスがいなければ、ポールはカニエ・ウェストとかリアーナとかケンドリック・ラマーなどの最近のミュージック・シーンなどにも、もっと疎かったのではないだろうか。

 このアルバムを聴いていて迫ってくるのは、今年喜寿を迎えるポールの、「もしかすると自分のアルバムはこれで最後かも」、という切迫した気持ちだ。 そして自らの劣化した声と戦いながら、逆にまたそれを利用しようとする姿勢。 その仕上がりに76歳の気力のすべてを注入している、元ビートルズとしてのプライド。 そして、今までと同じ事を拒絶し、2018年の音を作り出そうとする貪欲さ。

 ネットの進化で、これまで以上にをCDを買う意味が消失し続ける現状のなかで、同じアルバムを手を変え品を変えリリースするのは、確かに私みたいな 「現物を欲しがる」 旧世代しか相手にしていないクソ商法であることは紛れもない事実である。
 しかし私みたいなアホファンは、ポールの情報が日々上書きされていくのが、何よりも嬉しいのだ。

2019年5月15日 (水)

「わたし、定時で帰ります。」 「働き方改革」 政策のアホな部分には触れないが

 ウェブ制作会社で 「残業しない」 ことをモットーとしている社員を、吉高由里子が演じる。
 吉高は私の勝手なイメージとして、「あまりやる気のない」 キャラである。 「花子とアン」 の時だけは頑張ったが、それ以外は総じて、女優という仕事に対してフニャフニャしている印象だ(笑)。 要するにマイペースだ、ということだが、そんな彼女が 「定時出勤・定時終了」 を謳うドラマの主役をやるというのだから、最初は 「合ってんじゃない?w」 くらいの軽い気持ちで見始めた。

 だがこのドラマにおける彼女の立ち位置というのは、実はかなりの実力によって成立している、とすぐに認識を改めた。
 なぜなら、定時で帰る、というのは、定時で仕事を 「終えられる」 から帰れる、ということ。 残業などしなくても、彼女は自分の仕事を定時間内に全部片付けているのである。
 さらに自分の仕事をこなしながら、第1回でシシド・カフカをフォローし、第2回で内田有紀を立ち直らせ、第3回で泉澤祐希のやる気を復活させ。 これってかなりのスーパー社員である。

 見始めてから数回は、そんな吉高自身の本来のイメージと、その彼女が嫌々ながら社内の問題を片付けていく様とのギャップが面白くて、視聴していた。 主人公が仕事に対して現実的なスタンスなのは、以前の主演作である 「東京タラレバ娘」 とさして変わらないが、「タラレバ」 では仕事に対して仲良しグループで愚痴り合い、ネガティヴな捉え方をしていた。 「わた定」 では 「やるだけのことはやる。 文句ある?」 という、かなり鮮やかな割り切り方をしている。 流されない、カッコイイ生きかたを目指しているかのようだ。
 それでいて、ほかの社員に対して必要以上に厳しいこともない。 これは自分が常に定時で帰ることへの後ろめたさと潜在意識下で繋がっていると思われる。 だが彼女の表層的な意識では、「人それぞれに働きかたは違ってしかるべき」、と考えようとしているようだ。

 そんな彼女のスーパーぶりを支える仕事の方法が披露されたのは第4回だ。 「デスクの上は常にきれいに、書類の整理整頓、やるべきことの優先順位を分かりやすく分類化、視覚化」「タイムトライアルでひとつひとつの仕事を自分の設定時間内に片付ける」。 これらは仕事をやる上ではとても基本的なことで目新しいことは何もないが、そのほかにも彼女のキャリアを支えているのは、特にポストイットをPCに貼らなくとも、突発的な出来事に対して上司やクライアントに真っ先にどうすべきかをわきまえている、ビジネスのバランス感覚に優れていることではないか、と思われる。 ホウレンソウ、「報告・連絡・相談」 においてミスが少ないのである。

 このドラマは毎回毎回、あまりにも都合よく吉高の周りの人間たちが体質改善されていくので、「やっぱりドラマにありがちなあり得なさぶり」、と思われがちなのだが、「ドラマの都合よさ」 を差し引いても彼女の仕事ぶりは参考になる。

 問題なのは。

 そんな彼女の 「定時で帰ってしまう」 というやり方が問題視されてしまう、という 「社内の空気」 にある。 さすがに会社内では目に見えてほかの社員たちが反発するような流れはないが、これをいちばん問題視しているのは部長のユースケ・サンタマリアだ。
 彼は以前、別のウェブ会社を経営していたがそれを売却し、吉高の会社に転職してきた。
 吉高が頼りにしている引きこもりのブレーンとも呼べる若い男がいるのだが、その彼によれば、ユースケはちょっとヤバいらしい。
 何がヤバいのか。 このドラマを縦線で引っ張っているのは、そのことへの興味だ。

 私の見立てで言えば、ユースケ部長はパワハラ得意の旧体質の人間だからヤバい、ということなのだと思う。 旧体質な仕事との付き合い方で、若い世代が多いと思われるウェブ制作の世界には馴染まなかったために前の会社をダメにした、と思うのだが。
 ということは、どうしてまた同系統の会社に転職できたのか。 ここらへんも謎だ。
 ドラマでは吉高の元恋人役で、ユースケと一緒に吉高の会社に引き抜かれた向井理がいるが、ユースケの転職には向井との関連もあるのだろうか。

 その向井であるが、私個人としては久々に彼をドラマで見た気がする。 どうも彼の出演するドラマとの私の好みとの相性が悪いみたいなのだが、今回の彼の役柄はとてもプレーンで、見ていて妙に、存在の安心感がある。 向井理はこういう、ちょっとフロントから引いたくらいの役のほうがよく似合う、と感じる。
 彼は吉高とは違って、残業もバリバリの 「従来のイメージによるスーパー仕事人間」 だ。 かなり出来る。 向井と別れた吉高はライバル会社の中丸雄一と婚約にまで至っているのだが、どう見ても向井のほうがお似合いだ(笑)。 仕事に対するスタンスが違う、という点で吉高と向井は結ばれない運命にあるが、ジャニーズ感丸出しの中丸のほうがはるかに頼りなさげだ(笑)。

 別に吉高と中丸の婚約がこの先破談になろうとどーでもいいが(なりそーな予感がする)、それよりも問題にしたいのは、「残業しなければならない社員」 側の理屈である。
 吉高は今の会社に対して、「モチベーションはお給料」、と言えるだけのマッチングがされているからいいが、「残業しないととても生活できない」、というミスマッチのなかで仕事をしている人間は、どうなるのか。

 つまりこれは、基本給の話になっていくが、今の 「働きかた改革」 で軽視されているのが、この 「基本給の安さ」 にあるとは言えないだろうか。
 定時で帰れて、その給料も充分満足できるのであれば何の支障もない。 もちろん家計の支出傾向が自分に見合ったものであるかどうかの考察は必要であるが、残業ゼロ時でも給料がいい大企業ならともかく、残業しなければ生活費が工面できない働き手は、プレミアムフライデーだの10連休だのすればまた残業代が減り、国の 「上しか見ていない」「庶民のことなど見ていない」 政策に振り回されっぱなしになってしまうのではないか。

 ドラマにおいて吉高は、「自分は仕事とプライベートのバランスがとてもよくとれている」、と話していたが、実際本当にその通りなのかどうかも、ちょっと気にかかる点だ。
 彼女は本当に、定時で帰って中華料理屋で半額のビールを飲み、小籠包を食べているだけで満足しているのか。 その先にストーリーの展開は待っていないのか。 これが気になる。

 最後まで興味の尽きないドラマになってくれそうだ。

2019年5月12日 (日)

「なつぞら」 自分のために生きる、他人のために生きる

 子役から広瀬すずに交代してからの 「なつぞら」。 数週間が経ったが、見ていてどうも喉元をすんなり落ちていかない遺漏感、のようなものがつきまとっていた。
 その正体とはなにかをぼんやり考えていたが(別に気にならないくらいの周到な物語であるので)、まず感じていたのは 「周到である」 がゆえの理屈っぽさである。 このドラマにおける登場人物たちの行動には、そうするだけの理由が常につきまとう。 それは特にNHK朝ドラに顕著な、テレビ桟敷の舅小姑たち、を黙らせるに充分足る理由だ。
 しかしそれが、どうも頭の中で考えた理屈の域を出ず、感情の部分にまで到達していない。 だから登場人物たちの行動にいちいち納得はさせられるのだが、なんかうまく丸め込まれたようなもどかしさ、モヤモヤとした後味を残していくことが多いのだ。

 その最も端的な例は、主人公なつの 「本当にやりたいこと」 について。 オープニングアニメーションで毎日しつこく 「ヒロインの将来の仕事はアニメーター」 と喧伝されているのだが、その動機についてとても丁寧にドラマのなかで描写されるのに、この子はそれがホントに好きだ、というのが実感されてこないのだ。

 そもそも、なつのアニメーターへの第一歩は小学校時代にパラパラマンガをノートに書いていたこと。 それは天陽くんという、なつがちょっと憧れていた男の子の影響もある。
 しかしよく分からないのが、なつがパラパラマンガを描いていた題材だ。 たしか誰かが(草刈正雄だったかな)怒っているところだったと思うが(もう記憶がない)そんなのはせいぜい2枚のペラペラで事足りるはずだ(笑)。 その昔ペラペラマンガをよく描いていた自分の偏見に満ちた感想だが、それってノートのページを何枚も費やして描くような題材ではない。 自分の好きなことを動かす、という醍醐味が、ペラペラマンガの大きな動機だ、と私には思える。

 また、小学校時代に学校の映写会でポパイを見たことも大きな要因のひとつだが、なつはポパイやオリーブをその後ノートや教科書やそこらじゅうに描くとか、そういったファナティックなのめり込み方をしない。 ごくほんのたまに(笑)話のついでに出てきて、ずいぶんとポパイに感動した、みたいなことを言う。 それって本気で思ってるのかな、と思えてしまうのだ。
 そして天陽くんの兄貴にもらった油絵セットで、宮崎駿監督の 「風立ちぬ」 のヒロインよろしく風景画を描いたりするのだが、油絵というのは、絵を描くことが好きな人間にとって、結構カルチャーショックな出来事だ。 間違えてもいくらでも修正可能。 絵具をカンバスに盛り付ければ果てしなく立体的になっていく。 そんなことなど、このドラマではどうでもいいのだ、とばかり、その過程は省略されている。
 そしてその絵を誰に褒められるでもなく、なんだかその絵に対してなつ自身の思い入れが語られることもなく。 「褒められる」 という、絵描きにとってかなり重要なファクターが欠落している。

 「褒められる」、と言えば、東京に実の兄を探しに行ったときに、すごくあり得ない確率の偶然(笑)によって実現した、アニメ下請け会社の見学に際しても、なつはいくら褒められても、ほとんど全くアニメーターになろうとは考えない。 そこのチーフだった井浦新になんだかんだとまた理屈っぽいことを言われて、ちょっと心動かされた程度にしか見えない。

 アニメーターの夢がほぼ決定的になったのは、北海道生活での兄的存在である照男からもらったチケットで観た、ディズニーアニメの傑作 「ファンタジア」。 ディズニーにしてはよくここまで映像を使わせてくれたもんだと思ったが、なつの心を鷲掴みにするほどの部分は使わせてもらえなかったためか、どうも見ている側になつの衝撃が実感されてこない。
 「ファンタジア」 というアニメは、クラシック音楽のPVみたいな感覚の、物語に重点がない作品なので、「白雪姫」 みたいなものを期待しているとちょっと肩すかしに遭う。 なつと一緒にそれを観た天陽くんの反応がイマイチだったのもそのせいかもしれないが、なつがどのようにこれに感動したかにはあまり触れることなく、その上映後に流された東映動画(ドラマでは東洋動画)の宣伝部分のほうになつが心動かされているような格好だ。

 最初のうちは、牛の出産で逆子の仔牛を取り出したり、バターの話が出たり、マンガ 「銀の匙」 みたいな話だな、と思ったが、そこからどうやってアニメーターの話になるのかがちょっと不安だった。 ただ、酪農に本気の興味をなつに持たせると思いきや、いきなり演劇のほうに話が方向転換。 しかしなつには、演劇に対しても、最後まで傍観者的な態度しか窺えなかった。
 だが総じてみれば、なつは普通に、この引き取られた北海道での土地で酪農をやっていくのが本筋のように思える。 もしなつが東京に行く日が来るとすれば、それは兄の咲太郎に呼ばれるかそれなりの意志をなつに持たせるかのどちらかだ。 要するになつにとってそれは、「他人(家族)のために生きるのか、自分の夢のために生きるのか」、という重大な二者選択の道なのだ。

 この朝ドラと並行して再放送されている 「おしん」。 そこでは有無を言わさず 「家族のために生きる」、という道しかおしんには残されていない。 誰かのために犠牲になっている、というのが人の人生にとって当然のあり方であったのだ。 「なつぞら」 にはそこんところのせめぎ合い、というものがあまり感じられない。 あるとすればそれは、草刈正雄が演じている泰樹の生きかたにおいてであろう。 開拓民として泰樹は、自分の望まない状況でも甘んじて受け入れ、それと闘ってきたに違いない。
 泰樹はなつを柴田牧場でずっと暮らさせようと、孫の照男の嫁にと画策するが、なつはそれに対して 「それは私を本当の家族だと思っていないからだ」、と泣いて訴える。

 なつの反駁は、理論的にはかなり正論である。

 だが、それはその場にいた照男にたしなめられるように(ここがこのドラマの周到な部分だ)、じいじの気持ちを理解してやらねばならない類いの結婚話なのだ。 時代的には昭和20年代後半の話であろうが、なつの精神はすでに現代のそれである。 なつの反駁が視聴者に受け入れられるのは、なつの反駁がたぶんにして現代的であるからだ。

 このドラマが周到な部分は、泰樹自身にこの結婚話が勇み足であったことを気付かせ、さらに娘の松嶋菜々子にフォローの場を持たせ、お汁粉でもってその後味の悪さを完全に解消しにかかっているところでも分かる。

 いずれにしても周到であることはマイナス要因ではない。 周到であることは、トリッキーな部分を回避していることに他ならないが、朝ドラ100作目としては賢明な道なのだろう。

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BOOKS

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ記事より抜粋)。 この上巻ではビートルズの祖先から遡ってリバプールで人気に火が付き始めたところまでが書いてあります。

  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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