アニメ・コミック

2017年11月17日 (金)

声優の鶴ひろみさん急死…

 「アンパンマン」 のドキンちゃんの声で知られる声優の鶴ひろみさんが、昨夜(11月16日)首都高の都心環状線で、ハザードランプをつけたまま停車していた車の中から意識不明の状態で発見され、病院に搬送されたが死亡が確認された。 57歳。

 事故の形跡がないために身体的要因で亡くなったとみられる。

 彼女がいちばん知られているのはドキンちゃんや 「ドラゴンボール」 のブルマの声によってなのであるが、私にとってはデビュー作である 「ペリーヌ物語」(1978年) のペリーヌの声、これに尽きる。 私が13歳の時だった。

 声優の声に恋をしたのは、これが初めてであり、最後だった。 現代の表現で言い直せば 「声優萌え」 ということになろう。
 当時は番組中の彼女の声だけをつなげた編集テープを作るなど、かなり 「病的に」 恋をしていたことを告白する。

 キャンディーズのスーちゃんにしてもそうだったが、自分が恋していた人の訃報を聞くのはいつも耐えがたいものがある。 自分の若かりし頃の思い出が、共に剥落していくような感覚がするのだ。 しかも、まだ若過ぎる。

 彼女の魂が安らかならんことを。

 さようなら、在りし日の私の恋心。

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2015年10月 2日 (金)

「ルパン三世」 新シリーズ2015バージョン、深夜に始動

 「ルパン三世」 のテレビシリーズ。 実に前シリーズの 「ピンクジャケットのルパン」 から30年ぶり、ということです。 当然大注目なのですが、なんかもうすでにイタリアで先行放送してるらしい。 スゲエな。
 そのせいで、劇中に出てくる活字はみなアチラのお言葉。 それだけでも従来のシリーズとは異なる雰囲気が醸し出されている気がするのですが、いちばん従来と違う気がするのは、描線のタッチがGペンで描いたように思えるところです。 そのせいで今までのいわゆる 「アニメーション」 という世界から、「マンガが動いている」 という独自の感覚が働いている。

 要するに、アニメーションというのは強弱のつかない単一な描線によって対象を描くわけですが、それって漫画の強弱のついた描線とは似て非なるものです。 そこに 「アニメと漫画」 というふたつの別の世界が存在することになるのですが、今回はその境界線がほとんど感じられない。

 それにしてもこのアニメについて、私たちは今までどういう付き合い方をしてきたんでしょうか。

 このアニメほど、放送されるたびにオールドファンから批評の嵐に遭遇するアニメもないですよね。
 絵が違う、声がオカシイ、作ってるヤツはルパン三世のなんたるかを分かってない。
 それはルパン三世という作品が、まるでそれ自体が神出鬼没の怪盗のように、作品ごとに違う顔を見せるからです。

 そしてその新作に文句をいう人たちの層は、大きく分けてふた通りあるような気がしています。
 まず、テレビの第1シリーズの主に前半、ハードタッチの作風が好きな人。
 そして、第1シリーズの後半から参入し、第2シリーズでも 「アルバトロスの翼」 など病的な(笑)作品を制作し、果ては 「カリオストロの城」 という不滅の名作まで作り上げた、宮崎駿氏による作風が好きな人。
 あと、亜流で(笑)原作者のモンキー・パンチ氏の作風に準拠したものが好きな人とか(マモーが出てくる映画の第1作目のファンとか…笑)。

 なかでも一時期は 「カリ城」 が神話的な扱いを受けていた時期もあるように思うのですが、どうも最近は 「カリ城」 にケチつけても許されるような状況になってきたよーな気もする(笑)。 聖域みたいな感じでしたからね、かつては。
 なんかいろいろ甘ったるいんだよな 「カリ城」(笑)。

 それはともかく、テレビシリーズが終わっても、単発のスペシャルでよくやるんだこれが。
 そのたびに失望の声が渦巻き(笑)、最近じゃオールドファンも失望するのに疲れたのか(笑)新作SPじたいが話題にもなりゃしない(なってんの?…笑)。

 その怨嗟の声が封殺されたように思えたのは、3年前に放送されたいわゆるスピンオフ作品、「峰不二子という女」。 題名の通り峰不二子がストーリーの中心で、ルパンや次元などとの過去の出会いを描いたものでした。
 これが、とんだハードボイルドだどでして(笑)。
 私がネットで見た限り、この作品に対してあまり批判を読んだことがない。
 まあ、なんだか話が難解すぎて、気楽に観賞できない部分はございましたが、「オールドファンを黙らせるにはこういう作り方をすりゃいいんだな」、というのがよく分かった作品でありました(当ブログでも記事にいたしました…→ http://hashimotoriu.cocolog-wbs.com/blog/2012/04/lupin-the-third.html)。

 今回のテレビ新シリーズは、その 「出来過ぎたゴシックバージョン」 のような 「峰不二子という女」 とも違う。
 のっけからあの、大野雄二サンの 「有名すぎる」 テーマ曲(インスト)が2015バージョンで鳴りまくるし、タイプライターで打たれたようなタイトルもそのまんま、CMに入る前とCM明けのジングルも第2シリーズのズッコケバージョンみたいで、エンディングテーマもきちんと作っているし(石川さゆりサンが歌っているとは思えない)次回予告も 「いつもの感じ」 だし、全体的な印象としては懐かしいテレビバージョンという感じで、なかでもその 「赤いジャケット」 の第2シリーズに雰囲気が似ている、と感じました。

 でも、画面の描き込みはその比じゃない。
 まあ、締め切りに追われて作った感じじゃないです(冒頭にも書いたけど、イタリアですでに放送されてるらしいし、もうほぼ最後まで出来てるんだろうな)。

 しかしまあ、

 「ルパン」 の新作について、あれこれアーダコーダとアラさがしをするのも、もういーんじゃないか、と(笑)。

 別に思い入れなんか別にして、面白けりゃそれでいーんじゃないか、と。

 でも作り手は、「オールドファンにとってルパン三世というアニメのイメージとはどういうものなのか」 を、今回は考え尽くしている気はする。
 それって、私のようなオールドファンが 「もうあんま期待してねーし」 というのと、ちょっと齟齬を起こしているかもしれないけど(笑)。

 まあ、初回を見た限り、やっぱりそのー、「雰囲気が似ている」 と感じた第2シリーズのストーリーが、少々よく練られた、という感じだったかなぁ。 単発SPのダイジェスト版みたいな。 単純に面白かったですよ。
 30分番組なのに、結構展開が二転三転して(予想つきやすかったけど)(←こーゆー揚げ足取りが、いらないんですよね)。

 そして同時に感じたのは、「カリ城」 に対するリスペクト(あ~この言葉、あまり使いたくないんだけど)。

 着ていたものを瞬時に脱ぎ捨てて女の子にダイブとか(笑)屋根伝いのかけっことかロープでつかまった枝が根元から落ちて頭を直撃とか。

 「甘ったるいんだよ」 とは書いたけど、実はこれらの動作が 「ルパン」 を 「ルパン」 たらしめている部分なんだよなあ。 そういう 「キャラのイメージを強烈に見る側に植え付ける」 ということにかけては、宮崎駿サンは比類なき天才だと思います。 「アルプスの少女ハイジ」 の長~いブランコとかとろ~りチーズのパンとか(笑)。 そんなのを考え出す天才なんですよ。

 ただ深夜枠ってのがどうも。

 第1回目からいきなりラグビーの中継が延長したので時間を変更してるし(まあいくら放送時間延長してもフォローできる録画機だからいいけど)。
 こういうの、昔みたいに夜7時からとか、出来ないのかなぁ?
 「ヤッターマン(リメイク)」 で懲りてるか(笑)。

 放送時間、放送される地域はまちまちなので、詳細は番組HPでどうぞ。 → http://lupin-new-season.jp/

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2015年5月 5日 (火)

「ベルサイユのばら」 新作発表、アニメ再放送で盛り上がってる…

(初出時より若干加筆いたしました)

 アニメ 「ベルサイユのばら」(1979年作品) の再放送(NHKでは初めての放送だから、再放送とは言わんのかな)が、明日(5月6日)18時30分からNHKBSプレミアムで開始されるのですが、それに合わせたように 「10分でわかる 『ベルサイユのばら』」 とか、10年ほど前に放送されたアーカイヴスとか、昨日はNHKで番宣に近いようなことを結構やってました。

 アーカイヴスはその番組自体が去年(2014年)の11月に放送されたものらしくて、その時点で話題になっていた、40年ぶりの単行本最新刊11巻(小生まだ未読)のことが取り上げられ、ゲストでご出演だった原作者の池田理代子サンもそこで 「まだこの作品については描きたいものがある」 と話していました。
 その言葉どおり、つい1か月前くらいか、オスカルの出生についての続編がマーガレットに掲載されたようです(こちらも未確認)。 つまりまあ、これはもし単行本になるとすれば、12巻、ということになるでしょうか。

 「ベルサイユのばら」 の単行本は愛蔵本や完全版など、かなり種類があるのですが、私にとってはやはり、最初期のマーガレット・コミックス。 1975年頃、宝塚で上演された 「ベルばら」 ブームの際に、なぜか田舎に全巻置いてあったのを読んでハマったのが最初なのですが、「ベルばら」 と言えばもう10巻、というイメージなんですね。
 本編の最後が9巻で、たしか途中で終わって(物語はちゃんと終わってるが、単行本にするには枚数が少なくて)、なんか短編が付け足されて収録されていた(「白いエグモント」 だったっけな?)。
 そして10巻と言えば 「黒衣の伯爵夫人」。 これは今で言うところのスピンオフで、本編とは関係ない話でした(こっちに併録されていたのが 「白いエグモント」 だったかな?)。

 つまり 「ベルばら」 って、9巻未満なんですよね、本編が。 それもそのはず、本編の連載期間はたったの2年(厳密に言うと、2年に満たない)。
 あれほど世間にインパクトを与え、後世にまで影響力を及ぼしているマンガの連載が、たったの2年、というのは驚異的です。

 最近発表された新作については、前述の通り私、未読なのですが、アーカイヴスで出ていた11巻の表紙であるとか、そのイメージショットとかを見る限り、池田理代子サンが嘆いていたように、筆力の衰え、というものは個人的にやはり気になるんですね。

 そりゃ、最初の 「ベルばら」 を描いていたときは、池田サンは20代前半。 いまは還暦をお過ぎでしょうから、筆力の衰えというのは隠しきれないものがあります。
 ただ外伝みたいなものは結構コンスタントに出ていた気がするし、朝日新聞で 「ベルばらキッズ」 という、番外編ギャグマンガみたいなのをやってましたよね。 だから、そんなにブランクというものはないような気もするんですが、やはり3頭身位のマスコットみたいなオスカルたちを描くより、きちんと描くのは大変なようです。

 これは、オールドファンにとってはいろいろと複雑な心境になる問題を孕んでいます。
 アンドレ、こんな顔じゃないだろーとか、画面の構成力とかに物足りなさを感じるとか。
 物語に関しては、本流から外れた要素が強いので、新作が出ることにはやぶさかではありません。
 ただ読者というものは勝手なもので、どうしても 「あの頃と同じ絵」 を望んでしまうんですよね。

 池田理代子サン本人は、アーカイヴスでも語られていたように、まだまだ 「ベルばら」 について描きたい題材が残されているようです。 しかしネックは自分の体力だ、と。 誰か 「ベルばら」 の驚異的なファンで、なおかつ当時の池田理代子サンの画風をそのまま再現できる、という人がいらっしゃったら、連載当時のレベルで描き継ぐことが出来るんでしょうけど。 同人の奥行きが深くなっても、こういうシステムが出来上がらない、というのはもったいない気もするんですが。

 「ベルサイユのばら」 を最初に読んだ小学5年くらいのとき、はじめはかなり抵抗があったことを覚えています。 人生最初の少女マンガ体験でしたからね。
 なにしろ瞳は星がキンキラキンだし、花ショイしてるし(いまの少女マンガではあまり見かけない気がするけれど、よーするに意味もなくバックに花が満載、ということ)。

 けれども同時に、その画面がかなり自由なのには驚きました。
 少年マンガばかり読んでいた自分にとって、場面転換の枠線がない、またはモノローグが縦横無尽に挿入される、というのはカルチャーショックに似た感覚で。
 つまり、少女マンガというのは、少年マンガのリアルな時系列ルールを逸脱した、心象風景的な画面構成なんですよ。 1ページが1枚のキャンパスのように。

 多くの 「ベルばら」 フリークがそうであったように、私もオスカルには強く惹かれました。 女性であるにもかかわらず、男性として、軍人として生きることを強いられたそのかなしみ、葛藤が心をつかんだのです。 「男装の麗人」、というとマンガ的な源流では手塚治虫氏の 「リボンの騎士」 があるのですが、私テレビアニメにそんなに興味がなくてですね。
 現代の感覚で振り分けてしまうと、ジェンダーが云々、という話になってしまうのでしょうが、オスカルの場合持って生まれた意識的なものではなく、単に父親のジャルジェ将軍に 「そう育てられたから」 というものでしかない、牧歌的な理由によっています。
 しかし、フェルゼンへの一方的な思いやアンドレとの愛の成就に至って、この物語全体には 「倒錯的な愛」 の匂いが充満していく。
 これは少年マンガしか読んでこなかった自分にとって、とても刺激的な内容でした。 のちに読んだ 「トーマの心臓」 のような同性愛的な少女マンガより、ショックは大きかったなー。

 オスカルの存在に関してはもっと論じたいところですが、それは別の場に譲ることにして、小学校5、6年程度の少年にとって 「ベルばら」 でいちばん 「萌え」(笑)なのはロザリーでしたね(ハハハ…)。 春風ロザリー。 しかしこのキャラは、女性には不評なんだろうなー、と漠然と感じます(笑)。

 いまこの作品を思い返すに(手元に原作がないのがもどかしい…買おうかな)、「ベルサイユのばら」 という作品は1972年ごろの時代の空気も、確実に吸収している気はするんですね。
 つまり、「恋愛至上主義」。
 当時は60年代安保闘争の敗北が決着しつつある情勢で、結局残りつつあった思想が、「ラヴ&ピース」 だった気がします。 「結婚しようよ」(よしだたくろう)「神田川」(かぐや姫)「あなた」(小坂明子) に共通するものが、「政治を語るより愛に生きよう」 という時代の流れであったように思うのです。
 宝塚で上演された 「ベルばら」 の主題歌だった?「愛あればこそ」 に、ビートルズの 「愛こそはすべて」 のパクリみたいな部分がありましたよね、確か(笑)。 「愛…愛…愛」 とか。 あれはまさに、時代の 「恋愛中心」 的な流れと共に、「ベルサイユのばら」 という作品全体に貫かれている思想を見事に表現した歌だったように思うんですよ。

 今回 「アーカイヴス」 を見て、池田理代子サンが学園紛争に加わっていた、というのを知って、やはり池田サン自身にも、そうした政治→恋愛へのぶり返しがあったんだろうな、ということを感じました。
 物語はフランス革命が舞台ですから、弁証法的な価値観が支配しているんですが、主人公たちはすべからく、「愛」 の情熱の中に身を投じていく。 その過程が1972年当時の空気と重なるのです。 ちょうどジョン&ヨーコも、ラジカルな政治闘争にラヴ&ピースで立ち向かっていた時期です。

 もうひとつこの物語の特徴としては、「滅びの美学」 の世界を踏襲している、ということ。
 ちょうどこの連載が終わる1、2年後には、「あしたのジョー」 の矢吹丈も闘いきって燃え尽きていくのですが、星飛雄馬が燃え尽きたのはこの連載の1年前だったと思います。 このマンガが少年マンガの影響を受けているかどうかは分からないけれど、日本人の 「散りゆく桜」 を愛でる刹那的な志向に合致しているんですよ、オスカルの生き方もアンドレのそれも。
 これは2010年代の現代ではあまり受け入れられなくなってきている価値観のように感じますね。 なんか今日びのドラマに対する反応でも、主人公が死んじゃったりすると批判が起きたりする(あからさまに 「○○妻」 のことを言ってますが…笑)。
 でも1970年代当時は、まだ玉砕的なものに対する一種の憧れみたいなものが存在していた気がする。 「ベルばら」 は、そうした時代の空気も確実に捉えて、社会現象にまでなったと思うんですよ。

 それが満を持して、つーか連載終了から5年以上たって、ようやくアニメ化されたんですね。 1979年に。 いまの感覚で言うと、ずいぶん遅いような気もしますが、結構このマンガ、週1のアニメにするには、描くべき線が多過ぎるんですよ。 「キャンディ・キャンディ」 なんかに比べると、かなり描き込みしなければならない。 だから当時も、「よくアニメ化できたな」 と思いました。 オスカルだけだって、髪の毛描いてるだけで疲れんのに(さてはお主、描いたな…笑)。

 このアニメ、冒頭の、棘だらけの薔薇に蹂躙されたオスカルの絵柄からして、かなりの傑作でした。
 オスカルの声は田島令子サン。 最近では 「デート~恋とはどんなものかしら」 で煮られた蛇のペットの太郎と一緒に出てましたよね(もしかしてこの蛇の名前、アンドレの声をやってた志垣太郎サンとの関連で…いや考えすぎだ…笑)。
 ただ、私にとって田島サンと言えばやはりオスカルの声やってた人、であり、田島サンにはいつもリスペクトを感じてきました。
 まあ、このアニメも、振り返ってみると出崎統サン(演出)のカラーが濃いなー、つー感じで(笑)。
 「エースをねらえ!」、「あしたのジョー2」 と、もうなんか、みんなおんなじ作風ですよね(笑)。
 で、オープニングテーマとエンディングテーマが、これがまたよくて。
 「♪くーさーむらーにーなーもーしーれずー」(笑)。

 最後は雑談みたいになってしまいましたが、オープニングとエンディングだけでも見て懐かしみたい気分でいる、ハシモトなのであります。

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2015年1月 2日 (金)

「山賊の娘ローニャ」 前半まで見て

 宮崎駿監督の息子、という代名詞が生涯ついてまわりそうな、宮崎吾朗氏のテレビアニメ初監督作品。 去年(2014年)の10月から放送が始まって、年末までで物語の半分を終えたところです。
 主人公は、山賊夫婦のあいだに生まれた娘、ローニャ。 ま、題名そのまんまなので説明の必要がありません。

 宮崎氏は今回、「ジブリを離れて武者修行」、ということだったらしいですが、題字はジブリのプロデューサー、鈴木敏夫氏が作成してるし、そもそも制作協力にジブリが名を連ねている。 プロデューサーはこのところジブリとは密接な関係が続いている、カドカワドワンゴの川上量生氏。 まあ、アニメーションスタッフだけがジブリじゃない、ということでしょうか。

 吾朗監督が採用したのは、3DCGアニメーションという手法。 これを作成しているのが、ポリゴンピクチュアズという会社で、だからジブリじゃないよ、武者修行だよ、とは言える(笑)。
 この3DCGは、コンピュータを駆使してキャラクターのデータを作成し、そこから立体的な 「リアルなお人形」 状態のCGを作ってから、それをわざと手描き風のマンガの描線に戻す。 要するに、立体的に見えるものを、わざわざ輪郭だけの二次元に戻している、ということです。

 今回は主に人物だけがCGデータになっているようで、背景は従来のアニメと同じ、手描きによって成立しています。
 アニメというのは、本来手描きのマンガを動かそう、という発想から出発しているから、これはデジタルな手法で、わざわざ今まで私たちがあまりにも見慣れてきた、アナログなアニメのお約束で見せようとする、「先祖がえり」 とも言えるアプローチなんですね。

 この3DCGのメリットをこの番組を見て考えたとき、まず 「髪の毛の形を複雑に出来る」 とか。 「複数の人物の動きをコントロールできる」 とか。 「複雑な表情が出来る」 とか。
 いちばん感じるのは、「動きの速い場面でリアル感が増す」、ということでしょうか。
 特にローニャが吹雪の中で身動きが取れなくなってしまった回に、その効果の凄みを感じました。

 身動きの取れないローニャに、頭部だけが人間の女である妖鳥、「鳥女」 が襲いかかる。
 この、長い髪をした鳥女が、羽ばたきながらローニャをいたぶる場面は、とてもじゃないが、かなり優秀なアニメーターでも動画にするのは不可能だ、と感じました。

 ただ、「複雑な作業が出来る」 と言っても、人物の表情に関しては、表情のコンピュータソフトのパターンでやってる感じで、全体的に見ても、どうも血が通っているように見えてこない。
 手描きのアニメに関しては、最近の量産型のアニメでも変にパターン化されてつまらない動きをすることが多いのだけれど、ジブリレベルの動画技術と比較すると(比較したくなくてもしなければならない土俵に立ってるし)「コンピュータなんか、手描きに比べたらまだまだ」 ということを再確認してしまうんですよ。
 特に弱点を感じるのは、ローニャが上を見上げたときの造形が、なんかヘンだ、ということ。 これはコンピュータパターンで妥当なあごから首の輪郭になっているのかもしれないが、どうも変だな、ということはモニターを見れば普通すぐに分かりそうなもんです。 それを修正するにはおそらく、ポリゴンデータから刷新しなければならない。 なんかメンド臭そう。 だから修正しないのかもしれない。

 顔の表情だけは手描きにならんもんかな、ということはたびたび感じます。 どうも声の表情と顔の表情に齟齬があるときが多い気がする。 アクションが派手なのに、ヤケに目の表情だけが死んでいるような違和感も時々感じるし。
 やはり、人間の手が入らないと、ダメな部分ってあるんですよ。 機械の限界を思い知らされることが多いです。

 ただその、背景についてはかなりすごいことになっている。 たぶんこれ、全部手描きなんでしょうが、森の風景から山賊たちの住み家である古城、それらが深い雪に包まれる場面に至るまで、「となりのトトロ」 も真っ青な背景が連続する。
 要するにジブリ映画レベルなんですよ。 毎週量産型のアニメには到底出来ない芸当だ。

 惜しむらくはその、芸術的な背景の、特に水が登場する部分に水のCGが使われていること。 それは 「毎週放送型アニメにしては」 確かに驚くべきレベルの水の表現力なのですが、背景がリアルすぎるから、却って稚拙さが目立ってしまう。
 つまり、なんか「水」 じゃなくて 「ジェル」 が流れているような錯覚に陥るんですよ。 こういうのは単純に、白い線だけで済ませられるのに、という気がします。 まあ滝壺とかの表現があるから難しいだろうけれど。

 そして、肝心の内容についてです。

 物語の序盤に最も強く感じたのは、「話が冗漫」、ということでした。 けっしてテンポのいい話、とは言えなかった。
 たとえばローニャが初めて森にひとりで出かける、といった回は、森でいろんなものを見て、ただローニャが笑っているだけ(笑)。 「スゲーな、これだけで1回作っちまったよ」 と思ったのですが(笑)、おそらくそれらの回で吾朗監督が見せたかったのは、今しがた私が指摘した 「背景の素晴らしさ」 ではなかったか、と思うんです。 大自然の素晴らしさを、ローニャと共に楽しみ味わってほしい、というような。

 しかしアニメの観客のスタンスというのは、それが子供であってもアニメオタクであっても、「次に何が起きるのか」、といったワクワクによってなんですよ。 どんなに素晴らしく、完成に時間をかけた背景であっても、アニメを見る人の興味というのは、「絵が動く、人が動く」、ということが中心なんだと思うのです。 吾朗監督はそこのところで、ちょっと外している。

 この、ローニャが初めて森に出かけた回を見たときに、「宮崎駿監督であれば、おそらく絵コンテの段階で絶対ダメ出しをしただろうな」、と感じました。
 そして、「オヤジなら、どのようにこの回を作っただろうか」、ということも同時に考えました。

 宮崎駿監督なら、もっともっとローニャをいたぶったであろう、と(笑)。
 森へ行くとき、このアニメのローニャは常に裸足です。
 つまり小さい頃からずっと裸足でいたから、足の裏の皮がきっと分厚いんだろう、という(笑)ことをこちらに想像はさせるのですが、それでもやはり、山賊の砦である城の中と森とでは、状況が違います。
 宮崎駿だったら、そこに気付かないはずがない(笑)。 宮崎駿演出であれば、城を出た早々、絶対ローニャは裸足の足の裏を怪我してしまうことでしょう。
 そして川を飛び越える時も、絶対に失敗させます(笑)。 それ以外にも、いろんな失敗をさせるはずです。

 でも、吾朗監督がそこを描かないのは、かなり意図的に思える。
 というのは、吾朗監督は原作にあくまで忠実に、というスタンスで絵コンテを構成しているからであって、ローニャがここで、さほど森で失敗をしないことが、のちのちの大きな失敗につながっていく、ということまで意図しているからなのではないか、という気がするのです。 のちのちの大きな失敗、というのは、先ほど話に出た、「吹雪の中で身動きが取れなくなってしまう」、という出来事です。

 それに対して宮崎駿というアニメーターは、おそらく 「子供がこう動くことによってどのような結果を導いていくのか」、ということを常に考えている。
 それゆえに、原作に忠実などということはけっして考えず、ローニャを失敗させ続けるだろう。

 子供が失敗をおかし、どういうアクションを取るのか。

 その動的な面白さが、宮崎駿の興味の中心だからです。 「子供はこうでなくてはならない」、という思いが、宮崎駿にアニメを作らせるからです。

 この、「子供に託す思い」 という点で、宮崎親子は決定的に別のアニメーターなのです。

 「もし宮崎駿ならこうする」、という話は私の妄想による論評なので、本当はどのようになるのかは知る由もありません。
 ただ、吾朗監督がこだわる 「原作に忠実に」 という点を、父親はおそらく真っ向から否定するだろうな、ということは、なんとなく感じる(駿サンとは長~い付き合いですから私も…笑)。

 「原作に忠実に」 という点でもうひとつ私が気になっているのは、ローニャのしゃべりかたについてです。

 ローニャはあらくれ山賊どもの中で育っていながら、「~だわ」「~よ」 とすごく女の子言葉を多用するんですよ。 教育によろしくないようなしゃべりかたを絶対しない。

 これを 「子供の生き生きさを奪っている」 という発想で見てしまうと、すごく不自然に感じてしまうのだけれど、13回くらい見ていると、ローニャの表情のロボットみたいな動きと相まって、なんかこのアニメ独特の味のように思えてきてしまうのが、不思議なところではあります。

 このアニメは、第1回から山賊、という職業を肯定的に描写していません。 確か第1回では盗もうとしながら失敗していた。 山賊たちの悪行は、かなり意識的に描写されません。 それは問題の先送りであると同時に、「肯定的に表現していない」 ことなのだ、と私は思う。

 そもそも山賊なんて、要するにドロボー、ということですからね。 これについて私は、この問題はローニャが大きくなるに従って大問題に発展していくのではないか、と考えているのですが、今のところローニャは 「他人のものを断りもなしに奪い取る」 という認識には達している。 そして前半の終わりの第13回時点では、「だから別にそれを自分が勝手に持ち出しても同じことだ」、という一種の開き直りにも近い、免罪符的な認識を示している。

 これから始まる後半で、「悪いことをやっている山賊、という職業」 を今後どのように、アニメとして決着させていくのかには、興味があります。
 彼らは羊や鶏なども飼い、自給自足できる能力を有している。
 人のものを強奪しなくても生きていけると思うのですが、そもそも彼らの砦である古城も、他人様のものであるがゆえに(城を奪還しようとする兵隊がいますよね)、おそらくそこからも出ていかねば、きちんとした決着、というわけにはならないでしょう。

 それにしても。
 先ほどの話に出てきた鳥女。

 妖精とか、異形の者がしばしば登場するこの物語にあって、ひときわ異彩を放つ極めてインパクトの強い存在です。

 「彼女」 たちはいったい、どういう運命によって、修羅と畜生の生命を定められ、生きてきたのでしょう。

 なにしろ 「彼女」 たちは、みなしゃべれる。 人間の言葉を解するのです。 しかもなんか、個体差がない。 みな同じ顔をし、髪は無造作に長く、狂女みたいな表情を崩さない。

 かなり怖いですよ。 私がもし年端もいかない子供だったら、ションベンちびっちゃいますよ(ハハ)。 「鳥女が出てくるから、ボクこのアニメは見たくない」 って駄々こねちゃうくらいの恐ろしいキャラです(笑)。

 そしてもうひとり気になる、茫洋としてつかみどころのないキャラが、ローニャの母親のロヴィスなんですが、これは論じる機会がまたあればそのときに語りましょう。 つかみどころがないがゆえに、大きな海のような存在感を発散させています。

 いずれにしても、幼児からローティーン向けにこれだけ丁寧に作ってあるアニメというのは稀少です。 願わくば、これを見て父親がもう一度奮起されんことを…(巷間そのような噂は伝わってまいりますが…笑)。

 後記 この記事、かなり前から書き進め、温めてきたものなので、多少論理の変遷から矛盾する点があるかもしれませんが、どうぞご了承願います。

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2014年9月13日 (土)

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」 あれから14年も経ったのにオマエってやつは…

 金曜ロードショーでエヴァ新劇場版の3作目、「Q」 をやってたんで見ました(遅まきながら)。 2014年現在、今んところこれが最新作、ということになりますかね。

 で、比較的分かりやすくてエンターテイメント性が前面に出ていた前作の 「破」 と比べると、これがワケ分かんなさ全開。
 とにかく観る者すべてを振り落としまくりのロデオぶりで、逆に 「エヴァ=分かりにくい」 という 「らしさ」 は如実に出ていた、とは思いました(笑)。

 今回の 「Q」 を見てつくづく感じたのですが、この作品はコアなファンほど絶望に叩き込みたくて仕方ないらしい(笑)。
 特にオタクレベルのアニメファンに対して、特定の主義主張が向かっているように思えるんですよ。 「なにが『萌え』だよ、お前らいつまでアニメとかキャラに依存し続けるんだ?」 と叱咤しているような。

 と同時に、この作品は未だにエヴァから卒業できない庵野監督自身の、「開き直り」 とも言えるスタンスを有しているように見える。

 かつて庵野監督は自分が作ったエヴァを、「オナニーショウ」 と自虐しました。 旧劇場版のころです。
 つまり自らの深層心理にある恥ずかしい部分を惜しげもなく晒して、自らの中に潜む幼児性とか、モラトリアムの強迫観念を 「作品」 として昇華しようとしていた。 そしてそれは巡り巡って、エヴァに依存する、「大人になりきれないオタク」 に対する攻撃へと転化した。 近親憎悪みたいな感覚でしょうか(あくまで個人的な感想ですが)。

 庵野監督がどうして新劇場版を作ろうとしたのかを考えると、おそらく 「エヴァは儲かる」 という経済的な理由もあったでしょう。 新しいコンテンツを考えても、それが受け入れられる可能性には常にリスクがついてまわる。 特にアニメ制作というのはいろいろ大変ですから。 だったら観客の見込めるエヴァを使い回ししよう、と。

 それと、これは 「モノの作り手」 としてのとても便利な理屈なんだけれども、「この作品にきちんとケリをつけよう」「この作品を21世紀にも視聴に耐えうるものにしよう」、と。
 旧劇場版までのエヴァというのは、庵野監督みずからの幼児性に対する、自らのひとつの答えであった、と思うんですよ。 それは同時に、「大人になりきれない」 観客たちへのひとつの答えでもあった。
 しかし自分がいざ大人になってみると、この答えというのは、極めて狭義的で自己完結の域を出ない。
 いろいろと人とのあいだに壁を作ったりウジウジと悩みまくったりしても、結局それは他人から見れば 「気持悪い…」 んだと(「気持悪い…」 というのは、旧劇場版でアスカがシンジにつぶやいた、最後のセリフです)。

 で、再出発したエヴァですが、いざ始まってみると、旧劇場版のときと同じような反応がまるで判を押したように立ち上がる。
 謎に対する膨大な考察、膨大な感想、膨大な批判。
 却って現代では、旧劇場版のときと違ってネットが発達してますから、そういう観客たちの感想のうねりというのは、もうあっという間に拡散するんですよね。

 新劇場版というのは、その情報伝達の早さにも対峙していく必要性が生じている。
 庵野監督は、「序」 で 「この映画は単なるリメイク」 という静かな立ち上がりをしておいて、 「破」 で娯楽性に徹して観客を弛緩させたものの、「Q」 においては急転直下してそれまでの状況を完全にスポイルし、謎をどんどん増やしていって不可解な単語を羅列し、「見たくない人は見なくていい」「ついてこれる人だけどーぞ」 という過激な方向転換を展開している。

 これはある意味、「自虐的な傲慢さ」 を撒き散らしている、と言ってもいい気がします。
 どうせなにをやっても先まわりされて考察されまくる、ならもっともっと謎を増やして分かんなくしてやれ(笑)。 どーせ回収不能なんだから(言い過ぎか…笑)。 作品中で解説なんかするから考察されるんであって、だったら映画の中で説明すんのもやめよう(笑)。 きちんとケリをつけようと思って新劇場版も立ち上げたけど、よく考えたら完結なんかしないほーがいーじゃん(笑)。 いろいろリニューアルすればフィギュアも売れるし(笑)。

 まあ私も調子に乗って憶測しまくりしてますが(爆)。

 「Q」 においてそのいちばんの被害をこうむったのが、主人公の碇シンジ君であります(笑)。 彼は急転直下に至ったその経緯について、ほとんど何も知らされないまま、物語は鬱な方向に大きく傾いていく。

 この 「Q」 の最大の特徴は、前作から14年がスッ飛んでいる、ということです。 けれども、エヴァのパイロットたちは、「エヴァの呪縛」 という作用によって、14歳のままなんですよ。
 だからアスカもマリも14歳なんだけれど、精神的には28歳になっている、という感覚(ただマリに関しては、よく分からん…笑)。
 だけど、碇シンジ君はその14年のあいだ初号機に取り込まれて云々で(よー分からんが、コールドスリープみたいな感じ?…笑)まるきり体も精神も14歳のまま。

 私は思うのですが、今回 「Q」 の碇シンジ君というのは、自虐の末に少年のまま置き去りにされた、モラトリアムの残骸、なんですよ。
 確かにいつまでたってもアニメから卒業できない、少年の心を持ち続けたい、という願望のようなものは自らのなかに残されている。
 でももはや時代そのものが、高齢化と逆行するように、精神年齢だけが取り残されてガキっぽい社会を成熟させつつある。 「大人になれない碇シンジ」 というのは、実は分別もつけることが出来ない、大人になれない我々のなかで、「若さを失わない自分」 の自虐でもある。

 今回の 「Q」 を見ていて強く感じたのは、庵野監督の、キャラに対する距離が、とても遠くなっている、ということでした。

 アスカ(綾波レイはどうなのかな、彼女は再生を繰り返しているから)が14歳の体のまま28歳になっているというのも、逆説的な心と体の乖離を裏付けている設定なのだけれども、彼女たちに対する庵野監督自身の視点というのも、とても冷たい気がする。 以前はアスカもレイも、監督自身の分身、という感覚だったんですが、いまは物語を進行させるための、単なる人形、という、そんな 「遠さ」 を感じるんですよ。
 しかしそれ以上に、14歳のままで 「あのとき」 に取り残されている碇シンジ君に対して、庵野監督は徹底して冷たい。 監督は碇シンジを、苦々しく思っているのではないか。

 この、庵野監督が碇シンジに対して抱いている 「苦々しさ」 の象徴が、「Q」 で私がいちばん印象的に思った言葉、「エヴァの呪縛」 なんじゃないかな、と感じます。

 どちらもエヴァから離れられない。

 いつまでたっても、ガキみたいな煩悶に囚われて、物語を紡がなければならない。

 それには、ある種の 「開き直り」 という姿勢がなければ、完遂することが難しい作業なような気がする。

 私たちはだけど、いつまでたっても終わらないこの物語に、いつまでたっても成長しない碇シンジに、すでに愛想を尽かしています。 「もう今更どーでもよくなってきた、どーせいつまでたっても終わんないし」、と。 「ちゃんと終わらせるのが制作者たちの義務ではないのか?」 とまで考えがちだ。

 でも、心にどんな残骸を抱えていようとも、一歩一歩前に進まなければならない。

 どんな物語であろうと、「死」 によって解決する魂などあってはならない。

 それは 「死」 を万能視する考えからすれば、「単なる願望でしかないよ」 ということになるのかもしれないけれど、私たちはもう、すでにあまたの 「死」 によって生かされ続けていることに、気付いてもいいのではないだろうか。

 この 「Q」 という作品は、東日本大震災で制作が延期された、という経緯を持っているらしいけれども、その大震災だけでなく、戦争で死んでいった人たちによっても生かされ続けているし、なにしろ生き残った人々(先祖)によって、私たちの 「生」 が存在している、ということは確かだと思う。

 「Q」 のラストでとぼとぼとお互いを支えながら歩いていくこの物語の登場人物たち。
 そのキャラに対する庵野監督の目は、もうすでに登場人物たちと同じ目線には立っていないのかもしれないけれど、「それが人の世の生業なのだ」、という諦観を、私などは感じ取ったりするわけです。

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2014年4月 3日 (木)

「キルラキル」 服を着るのか、服に着られているのか

 去年(2013年)10月から今年(2014年)3月までTBS系の深夜に放送されたアニメ、「キルラキル」。 「ど根性ガエル」 などの東京ムービー系の、懐かしい線の太い昔風の作画や、初回からトップギアで疾走しまくるそのテンションの高さに惹かれて、最後まで視聴を続けた。

 話としては、主人公の女子高生・纏流子(まといりゅうこ)が、殺された父親の手がかりを得て、そのかたきを討つために、全国制覇を目論む本能寺学園に乗り込む、というのが冒頭の展開。
 本能寺学園は、生徒会長の鬼龍院皐月(きりゅういんさつき)によって統一支配されているのだが、街ぐるみで巨大なヒエラルキーが形成されているのがいかにも不穏だ。 その階級闘争の道具として使われているのが、それを着ると普通の人間が超人になってしまうという、「極制服(ごくせいふく)」。
 この極制服に使用されている特殊繊維(生命戦維)の真の目的をめぐって物語はうねっていくのだが、とにかくその発端から、テンションが異様に高い(笑)。 「第1回からこんなにテンションが高くて、果たして最後までもつのか?」 という興味で視聴を続けた、と言ってもいい(笑)。

 制作は 「エヴァンゲリオン」 のガイナックスから独立したTRIGGER。 ただ絵の動かしかた、つまり動画に関してはガイナックスぽくなく、かなりラフな印象を受ける。 それでもそこには 「絵を動かすことの楽しさ」 を重視している姿勢が垣間見られ、一種の 「アニメ制作マニュアル」 というレールに則っている、昨今のアニメによく見られる、技巧に頼った 「妙に手慣れた余裕」、というものは感じられない。 こんなアナログ的な触感にも好感を持った。

 このラフな動画がもたらす奇妙なテンションの高さはそのまま、「制作スタッフが崖っぷちで仕事をしている」 という切迫感を、見る者に強いてくる。 こういう緊張感というのがいいんだよな~。
 最近のアニメは、あまりにも産業システム化されすぎて、こうした手作業的な 「人間臭さ」 というものが置き去りにされているように思えてならない。 この作品は、レトロな触感も相俟って、昨今の出来すぎたアニメに辟易している、アナログ世代のオッサンの琴線に引っかかる要素が多いのだ(ネットでは 「オッサンホイホイ」 の異名も見られた…笑)。

 この作品のレトロの根底には、旧世代のアニメ(そしてアニメーター)、とりわけ 「熱血」「スポーツ根性すなわちスポ根」 という、1970年代に流行ったコンテンツへの強烈な尊敬の念がある。
 主人公の纏流子は、簡単に言って 「アバズレ」(死語…笑)。 舞台は学園。 説明のスーパーはすべてぶっといフォント。 登場人物は全員ムダに熱く(笑)大声で自分の主張をぶつけ合う。
 このアニメの高揚感というのは、ぶっといフォントで登場人物たちが装備とか技とかを大声で宣言する、歌舞伎の見得の世界に相通じているものがある気がする。

 しかし、そこで声高に語られる 「熱血」 はただ単純な 「熱血」 ではない。 「熱血?ダセー」 という冷ややかな目で見られた時代も経た、一歩下がった冷静なスタンスが含まれているのだ。 言ってみれば、「熱血マンガ家」 の島本和彦サンが熱血根性もののブームが下火になって以降ダセーと言われるのを承知で描き続けたコンセプトに近い 「熱血」、と言えようか。

 さらに言えば、このアニメのタイトル 「キルラキル」 が物語るように、そこにはいったん海外に輸出され、タランティーノ監督などから 「クールジャパン」 と捉えられ逆輸入された映画、「キルビル」 の影響も見られる。
 いわば、このアニメはこうしたリスペクトやオマージュ、とカウンターカルチャーの応酬というごった煮状態の中から生み出された、2013年のアニメーション制作者たちの回答、とでも呼べる位置に属している、そんな気がする(あー解説の仕方がナマイキだぞ)。

 そんななかでこのアニメは前述したように第1回目からスーパーハイテンションで展開し、その勢いはまあほぼだいたい(笑)25回の最終回まで落ちることはなかった。 見るほうもテンションあがりまくりだったけれど、作ってるほうもさぞや大変だっただろう。 最終回は放送日の当日にテレビ局に納入されたらしい(マジかよ…笑)。

 けれども、こういうテンションの高い状態というのはすぐに受け手に飽きられるのが常なので、話は常に登場人物たちを無暗やたらにパワーアップさせていく必要性が生じてくる。
 このアニメはそこんところのイベントも過去の膨大なコンテンツから掻き集め、考えつく限りのことをやり尽くした、という印象がある。 仲間や主人公が暗黒面に陥る、とか、持ってる装備が強力化していく、とか、四天王が出てくる、とか(笑)、親子関係がシビアだ、とか(笑)、大阪みたいな別の文化圏と覇権をかけて戦う、とか(笑)、出生の秘密がどうだ、とか(笑)、全世界に影響力が広まっていって宇宙まで行きつく、とか(笑)。
 まあこういう、登場人物たちが限りなくパワーアップを重ねていく、というインフレーションがこの手の話の常道と言える。

 ただ、こうしたパワーインフレーションは過去のコンテンツにその元ネタが満載されている通り、常にマンネリ、という限界が控えている。
 しかしこの 「キルラキル」 という作品は、すべてを混沌の渦の中に投入していって、「ワケが分からないからこそ凄いのだ」 という、なんかワケの分からない理屈をそこから抽出した(笑)。
 つまり、理屈では割り切れない、「なにかに夢中になれる熱情」 とか、「物事にとことん執着するこだわり」 とか、そんなものでしか、人の心は動かせないのだ、というメソッド、とでもいえるだろうか(だからワケ分からん…笑)。

 そして物語は、ワケ分からん状態をまるで昇華していくように、登場人物たちが最終的に、み~んな裸になってしまう(だからワケが…笑)。

 だがそこから見えてくるのは、「極制服」 という 「着るもの」 に縛られることのない自由な精神への、作り手たちの憧憬だ(私の話もどうもワケ分からんな…)。

 要するに、このアニメの話というのは、「キル(着る)か、キラレル(着られる)か」。 たとえば、流行の服を着たい、とか、黒を着てりゃ安心だ、とか(笑)、人から 「コイツのファッションはカッコワルイ」 と言われるのが不安だ、とか、誰もが自分の着るものについて多かれ少なかれコンプレックスを持ったことがあると思うのだ。 この話は、そんな 「着るものに対するコンプレックス」 を突き詰めていった末に成立している、とは言えないだろうか。

 そしてこの物語は、「鮮血」 という名の、主人公纏流子の装備となるべき生きた戦闘服 「神衣(かむい)」 が、セーラー服であることに、大きな落とし所を用意していた。

 つまり、「制服というのは、学生時代が終われば脱ぎ捨てなければならない」、という、とても当たり前の事実である。

 着るものに対するコンプレックス、というのは、これはたぶん、思春期にいちばんあるんじゃないだろうか。 みんな大人になっていくと同時に、「他人から自分がどう見られているか」 などという恐怖心など克服していってしまう。

 しかしそれは、ちゃんと思春期の悩みを克服した結果なのだろうか。 私たちは、若いときの自分の幼さを、きちんと卒業して生きているのだろうか。

 だからこの物語のラストが見る側に与える感動というのは、そんな若い自分からの卒業を、あらためて自覚させられるゆえに起きる現象なのではないか、と感じるのだ。

 どうも分かりにくい話でスイマセン。

 全体的な話としては、確かにあり得なさすぎなのであるが、そのあり得なさを究極まで追求した潔さ、というものが気持ちよかった。 エロかったし(ハハ)。
 ただハダカに近いような神衣鮮血のイクイップメントに変身するときに見せる、主人公の纏流子が見せた恥じらい、というのは、その暴走気味な作品自体の過激さに対する、大きなブレーキになっていたとも思える。
 纏流子はしゃべり方から態度から乱暴ではあるのだが、元来がかなり自省的な孤独を抱えたままの少女だったという気がする。 物語のなかでも彼女は引きこもったことがあったが、彼女はもしかすると、引きこもりがちな人たちの、「自分はこうありたい」 という、行動の代弁者だったのかもしれない。

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2014年1月28日 (火)

永井一郎サン、加藤精三サンのこと

 この1月17日に加藤精三サンが86歳。 そしてその10日後の昨日、27日に永井一郎サンが82歳。 私が幼いころから慣れ親しんできた声優さんが、立て続けにこの世を去りました。

 なんつーか、自分よりひと世代上の人たちが鬼籍に入る年代に、すでに突入していることは承知しているのですが、いざそうなってみると、いかに私の親たちの世代の存在が重かったかに思いを馳せざるを得ない。
 同時に、「自分たちの世代にはなにもない」 という無力感も湧いてくる(よく考えればいないこともないけど)。 さらに 「自分たちより下の世代には、輪をかけてなにもない」、という危惧すら覚える(田中マークンとか本田とかいるけど)。
 ただ、世の中は無常だけれども、この日本という国は、戦後から高度成長時代にかけて、敗戦で疲弊した世の中を鼓舞し、牽引していった偉大な人たちが特に多かった、と感じることが最近とみに多いのです。

 自分の中には 「声優さんというのは早死にが多い」、というヘンな思い込みというものがあって。
 それは 「宇宙戦艦ヤマト」 の古代進の声をやっていた富山敬サンが比較的早世だったことに端を発するのですが、「ルパン三世」 の山田康雄サンとか、広川太一郎サン、野沢那智サンなど、定期的に若死にしてしまう人のインパクトが強かったことによります。
 でも基本的には、声優さんの世界でもだいたいの人は、寿命を全うしていくわけで。

 その声優というお仕事は、だいたいが戦後アメリカから輸入されたテレビドラマで吹き替えというものをすることから派生したのですが、手塚治虫サンが作業をスリム化した(それでも労力はかかるんですが)ことで量産が可能になった、国産アニメの隆盛という時代に乗って、我々ガキ共に夢を与えたわけですよ。
 この独自なアニメの発展が、今の日本の文化の一翼を担うまでになったのも、そんな 「偉大な人たち」 の存在があったからこそなのであり。

 もともとマンガという素地がなければ、そしてそのマンガが面白くなければ、アニメというものが発達していったかどうかは怪しい。 その点、わが国にはトキワ荘のマンガ家たちという奇跡的な一派が戦後に存在していた。 そして手塚治虫という巨人が、その中枢に存在していたからこそ、アニメは興隆した。

 ただそのマンガという表現自体も、実は戦前の田河水泡サンの 「のらくろ」 あたりで大きく子供たちの支持を集めていたことは事実。 永井一郎サンが磯野波平の声を担当した 「サザエさん」 というマンガは、その田河水泡サンの弟子である長谷川町子サンによって、戦後間もなく連載が始まったマンガなのです(まあこれって説明不要という気もしますが、ここらへんまでさかのぼって体系的に説明しないと、どんだけ我が国の戦後世代のマンガ、アニメがとてつもないものだったのかが若い人には理解できないように感じます)。

 加藤精三サンが星一徹の声を担当した、「巨人の星」 というマンガは、そのなかにおいて 「劇画」 というマンガの発展形のなかで誕生したエポック的なマンガ(諸説ございましょうが)。
 その父親像というのは、それまでのマンガにあった表現形態から一歩進んだ、よりリアルを追求したものだった。
 個人的な話で恐縮なのですが、私の父親がこの星一徹にとてもよく似てましてね(笑)。 気に入らないことがあるとちゃぶ台なんてチマチマしてない、食卓の大きなテーブルをバーンとひっくり返すような人で(笑)。 私はテレビで 「巨人の星」 を見るたびに、なんかどこかでビクビクしていた気がします(笑)。
 だから私にとって星一徹は、「リアル」 そのもの。 ものすごく怖い存在だった。

 ところがこの星一徹。

 1980年代に始まった、フジテレビの 「オレたちひょうきん族」 で星飛雄馬役の古谷徹サンと一緒に、「巨人の星」 のパロディをやり始めたんですよ。 衝撃的だったなあ。
 と同時に、このことで、時代が 「深刻、暗い、クソ真面目」 という方向から、軽薄短小という段階に移行したことを、如実に(私にとっては残酷に)提示された気がします。
 そのカリカチュアは最近のauのコマーシャルまで、連綿と続いていた気がしますね。 剛力彩芽チャンとも共演したことになる(笑)。

 永井一郎サンは 「サザエさん」 の波平役、というのが一般的ということになりましょう。 私もそのイメージが非常に強かった。

 ただ、自分が中学生くらいのときはそのイメージが巨大すぎて、永井サンがほかの場面で出てくると、とても違和感を持ってしまっていた時期もありました。
 そのいちばんの弊害は 「機動戦士ガンダム」。
 永井サンがナレーションだったんですが、ナレーションが出るたびに 「コイツは波平、コイツは波平…」 という声が頭の中に広がり(笑)、ついにこのアニメをマジメに見ることがなかった(笑)。 それ以来ガンダムとは疎遠なままです(笑)。
 「未来少年コナン」 のダイス船長役も、だから最初は 「コイツは波平、コイツは波平…」 という感じだったんですが(笑)、なんかズッコケキャラクターだし、何より話が面白いんで(そりゃそーだ、宮崎駿サンの出世作なんだから)気にならなくなった。

 でもですよ、「さるとびエッちゃん」 ではエッちゃんの飼い犬で(エッちゃんがワカメだったよなあ、そーいえば)関西弁をしゃべるブルドッグ(なんじゃソリャ…爆)だったのに、当時は小学生くらいだったから気にならなかったんだよなァ。 チューボーあたりになるとヘンな知識が邪魔してダメだよな(笑)。

 そんな自分ですが、永井サンの吹き替えでいちばん個人的に印象に残っているのは、宮崎駿サンの 「名探偵ホームズ」 のなかの、「海底の財宝」。
 「さるとびエッちゃん」 のリスペクトなのか知らんけれども(笑)、登場人物が犬ばかりのこのアニメのなかで、永井サンが担当したのは、双子のブルドッグ(笑)。 イギリス海軍(だったっけな)のお偉いサンで、すごくエキセントリックな兄弟ゲンカをしていた(もちろん2役)。 当時私は大学生になっていたこともあって、もうかつてのような 「コイツは波平…」 という呪いの言葉も聞こえることがなく(笑)、素直に 「この人はすごい、やるときゃやる」、という印象を持ったのでした。
 宮崎アニメの中では、「コナン」 のダイス船長をはじめとして、「ナウシカ」 でもミト、「ラピュタ」 でもなんかの将軍かなんか(なんだったっけか)、とにかく重要な役が多かった。

 この加藤サンと永井サンが共演、はしてなかったのかもしれませんが、チョイ役で一緒に出ていたアニメが 「はじめの一歩」。 でも個人的にいちばん印象に残っているのは、なんと言っても 「ペリーヌ物語」('78年)にとどめを刺します。

 ここでこのおふたりは、ペリーヌが精神的にいちばんつらかったであろう、パリ編での下宿屋で登場します。 永井サンはそこの下宿屋の、ごうつくばりの管理人、シモンじいさん。 お金のないペリーヌ親子に、馬車は○○サンチーム、犬(バロン)は…などと細かく料金設定してくる金の亡者で(笑)。 でも最後はペリーヌにとてもよくしてくれるようになる。
 このときは永井サンの声が結構作っていたので、波平だとは気付かなかったなァ。

 かたや、加藤サンの役はそこの下宿人で、とても美味しいスープを作るガストンさんという人。 ケチでなかなかそのスープを他人にやったりしない男だったのですが、ペリーヌの母親マリが病で弱っていくときにそっと差し入れしてくれた。
 ここでの結末は本当に話が暗くて、もう涙なしでは見ることができません。
 ただ声優さんたちに興味の中心を移すと、このパリ編でルクリおばさんという男みたいなおばさんが出てきて、ペリーヌ達と旅を共にしたロバのパリカールを買い取っていくのですが、この声優さんが磯野フネ役の麻生美代子サン。 思わぬところで、シモンじいさんの永井サンと共演するのです。 後年このことに気付いたときは、ちょっとだけコーフンしました(ハハ)。

 私のなかでは、もう知り合いとかそういうレベルじゃなくて、遍歴の一部、魂の一部のような、このおふたかたが亡くなられたことは、残念という言葉だけでは言い尽くせません。

 月並みではございますが、おふたかたのご冥福を、お祈り申し上げます。

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2014年1月 5日 (日)

「はじめの一歩 Rising」 第12-13回 沢村救済のシナリオ

 2000年の最初のシリーズから、緩急をつけた圧倒的な演出で、私を釘づけにしてきたこのテレビアニメシリーズ。 ときどき、「これって原作マンガよりすごくね?」 みたいな気分にまでなったものであります(森川サンゴメン…笑)。

 今回のシリーズでは、鴨川会長役だった内海賢二サンが去年、亡くなられたために、飯塚昭三サンに変更されました。 いや、だって、この人も相当なベテランでしょ?と思ってウィキで調べたら、なんと御歳80歳。 パッと代表作が思い出せないのがアレだけど、個人的には宮崎駿サンの 「名探偵ホームズ」 の、レストレード警部でしょうか。 悪役が多かった印象があるのは、内海サンと一緒かな。 内海サンの鴨川会長と、イメージがさほど変わらないのはさすが、というほかありません。

 で、今回、2クールの放送で前半の物語的に中心になっていたのは、幕之内一歩の5度目の王者防衛戦です。
 一歩の相手は沢村竜平なんですが、この男。
 小さい頃に、家庭内暴力をふるう父親を殺してしまってから性格が歪みっぱなしで、その暴力的な性格を更生させようと、恩師の河辺先生がボクシングをやらせようとしたのですが、これがまた却ってアダとなり。
 合法的に相手をブッ殺せる場が与えられたことで、人格の歪みにさらに磨きがかかってしまった、という設定になっています。 対戦相手のことを生肉にたとえ、やわらかい肉を食べることを生きがいにしているようなところがある。
 これは沢村が幼い頃に、暴力をふるう父親から救った母親との思い出が深く絡んでいるのですが、それゆえに多少のことでは修正が効かない根の深さを抱えている。

 今回の防衛戦で私が注目していたのは、果たしてこの沢村の精神的な救済がどのようになされるのか、という点でした。

 語り手は、試合前から沢村の異常な暴力性を次々とつまびらかにしていきます。 試合でも、どんなに有利な試合だろうと自分の生肉への欲望が高まると、どんな反則でも厭わない。 ボクシングをハナから舐めてかかっている態度に、一歩は闘争心を徐々に高ぶらせていきます。 試合前には、一歩の彼女である間柴久美に対しても暴力をふるってしまい、兄の間柴了にまで反感を買ってしまう。
 いっぽう、沢村は沢村で、自分の唯一の理解者であった河辺先生が、一歩に 「沢村に勝ってくれ」 と頼んでいたところを目撃してしまい、ますますその精神的な孤立度を高めていく。 河辺先生は沢村が精神の闇に取り込まれていくのをなんとかしようと思って、一歩に頼んでいたんですけどね。

 そして今回テクニカルな面で、物語の核心を司っているのは、一歩の必殺技であるデンプシー・ロールを破る秘策を、沢村がもっている点。
 デンプシー・ロールというのはこのマンガをご存知のかたなら説明不要ですが、要するに体を左右に振り子のように動かしながらパンチを繰り出していく、というテクニックです。 沢村はカウンターの名手。 このデンプシーをカウンターで迎え撃つ、ということは、完全無比なダメージを一歩に与えられる、ということを意味している。
 事前からこのデンプシー破りを知らされていた一歩は、自分の得意技のデンプシーが、相手にとって非常にタイミングのつけやすい、という弱点を持っていることに着目して、そのタイミングをずらすことを課題に練習に励む。

 しかしリズムに乗って全神経を集中させているこの運動を途中でストップするということには、過大な負担が筋肉に対してかかることになります。 選手生命さえ脅かしかねないこの新型デンプシーは、主治医の山口先生(美人)(笑)に止められるほどの危険なカード。

 しかしこの危険なカード、防衛戦での死闘がピークになればなるほど、一歩の覚悟をたぎらせていく要因となっていく。
 自分の体がどんなになってもいい、ボクシングをバカにしている人を許すことが出来ない、自分だけじゃない、自分と同じくリングの上で戦っているすべての人に対して申し訳が立たない、というその覚悟が、一歩を危険な賭けに踏み出させていくのです。

 この見せ方が、なんと言ってもすごい。

 このマンガのすごいところは、ボクシングの持つあらゆる面から見た、ボクサーひとりひとりの個性に、深くまで切り込んでいるところではないか、と感じます。 同じ少年マガジンで連載されていたボクシングマンガの牙城、「あしたのジョー」 に追いつき追い越せるスタンスというのは、そこしかない、と原作者が考えているようなフシがある。
 まあ、私にとっては 「ジョー」 はバイブルみたいなものですから、いかに森川サンが頑張ろうともその地位は微動だにしないんですが(笑)、私より若い人たちにとっては、もうボクシングマンガと言えば 「一歩」 ということになってきているのではないか、という気もします。 だってもうコミック本100巻とか超えてるし。

 で、「あしたのジョー」 信者の立場から言えば、この沢村というのは金竜飛に近いようなところがある。 幼い頃のトラウマが人間的な心を喪失させ、ボクシングというものをルールに守られた、極めて平和な世界だ、と捉えている点においてですが。

 ただ金竜飛の場合、トラウマのために 「飲めなくなった、食えなくなった」 のですが、沢村の場合自分の食欲に、破壊欲が融合してしまっている。 そして沢村の原点にあるのは、父親を殺してしまったことが、「母親を守ろうとする行為だった」 という善意であること。 これは大きい。

 ここが物語的に現代的な部分です。 金竜飛の場合、「飢える」 ということが、彼の人間性を阻害している原点にある。 だからそれを凌駕されてしまったとき、かなりあっけなくジョーに負けてしまいます。 ジョーはこの時、力石徹の存在を思い出すということで、金竜飛に対する劣等感を払拭することが出来た。 ジョーの勝利の要因は、そこだけでよかったのです。
 でも沢村の場合、善意が裏切られた、ということから精神性の歪みが出発している。 さらに試合直前、恩師にまで裏切られた、と感じてしまっている。 そこで 「相手に負けたくない」 という意識が同時に膨らんでいったために、自分のデンプシー破りが一歩によって凌駕されても、まだダウンをよしとしないんですよ。

 そして沢村はデンプシー破り破り・破りを決行するのですが(なんじゃソレ…笑)、一歩は会場からの声援(元気玉の発想だけど)を背に受けてるから、精神的にもっと強かった。 そのデンプシー破り破り破り破りによって(勘弁してくれ…笑)試合を制するのです。

 この精神力が、練習によって培われた、という語り手の結論。 新型デンプシーが沢村を迎撃し制圧していく様子は、これはもう、マンガでは表現しきれない、このアニメシリーズでしか見られないカタルシスなのではないか、と感じます。

 そして沢村が、どのように自分の精神性の闇から解放されたのか。

 この物語の語り手は、河辺先生に大きな役割を、あえて持たせません。 私が見たところ、沢村を精神的に救済できるのは、河辺先生だけだろう、と考えていたのですが。 これが昨今のテレビドラマだったら、河辺先生にリングサイドまで向かわせて、沢村に向かって号泣混じりの励ましとかさせるところなんですが。

 沢村を実際のところ励ましたのは、試合後に観客からわき起こった、沢村の健闘を称える拍手と、沢村と同じような境遇にいたかつての不良で一歩のライバルである、千堂の言葉でした。 自分たちの拳は、相手を殺すためのものだけれど、一歩の拳は、ボクシングの素晴らしさを教えてくれる、活人拳なのだ、と。
 でもそれらの励ましも、本当のところは沢村にちゃんと届いていたかどうかは分からない。 一歩にポンコツにされて病院のベッドで伏している沢村は、あくまで無反応だからです。

 でも、反則負けではない形で初めて勝負というものに負けた沢村は、何かを感じ取ったに違いないのです。 この見せ方はよかったなあ。 押しつけがましくなくて。

 じっさいのところ沢村は、ウィキを読んだところこのあとも原作ではいろいろ紆余曲折があるみたいで、けっして根本的な精神救済がなされているとは考えにくい。
 でも、あまりにも解決してしまう話よりも、自分が自分の因業によってどういう人生を歩んでいくか、という話をされたほうが、なんとなく説得力自体はあるような気がするんですよ、最近。

 で、このマンガ、試合後は急にユルユルモードで、ギャグ全開になったりする。 そこが 「ジョー」 とは決定的に違う面ですが、この緩急がまたひとつの味なんですよね。

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2013年10月 4日 (金)

「銀河パトロール ジャコ」 ものを作り続けるモチベーションって、なんだろう?

 少年ジャンプ創刊45周年のレジェンド枠として、最初から11回(本編10回+オマケ1回)の予定で連載された、鳥山明氏の新作、「銀河パトロール ジャコ」。 フォルム的に 「ウルトラマン」 を模したと思われる銀河パトロールの 「自称」 超スーパーエリート・ジャコが、地球にやってくる、というお話です。

 鳥山氏と言えば、「ドクタースランプ」「ドラゴンボール」 の作者としてだけでなく、超ヒットゲームソフト 「ドラゴンクエスト」 のキャラクターデザインなども手がけている、もう説明不要の人。
 ただそんな説明不要の人でも 「ドラゴンボール」 の連載終了後は、ほとんど表立った活動を停止してしまったため、近頃の若い人は知らない人も多数出てきている感じ。 この人が 「旧世代」 のあいだで話題になると決まってネットでは、「鳥山信者ウゼエ」 とか拒絶反応が起こったりします。

 私は単行本さえ買うまでには至らないものの、「ドラゴンボール」 が読みたくてジャンプを買っていたプチオッサンの時期がございましたので(笑)、今回もユーワクに勝てず、鳥山作品を読みたいがために、ジャンプを買い続けました(ハハ…)。

 それで感じたことは、とにかく鳥山氏の作品と、ほかのジャンプ連載陣との、世界観がまるで違う、ということ。 これでい~のか?ってくらい(笑)。

 ともかく詰め込まれている情報量とか、そのスピード感、温度差などが、完全に鳥山氏の作品だけ浮いちゃってるんですよ。 たとえて言えば、コロコロコミックのなかのマンガがひとつだけジャンプに紛れ込んじゃってるような(笑)。

 いっぽうで、その絵的な路線から行って、「ドラゴンボール」 の子供、とでも呼べる作品は、ちらほら散見する。 「ONE PEACE」 もそうですし、「NARUTO」 もそうだと感じます。
 でもその情報量は極端に大きい。 特にワンピースなどは、以前もたまに読んだりしてたんですが、かなりゴチャゴチャして何をやってるのかワケが分かんないところがあって。 逆に言うと、週刊誌においてここまで描き込まれていること自体が驚異的である、と感じる。

 情報量が多い、ということは、途中からの読者が入り込みにくい、ということでもある、と思います。 なにしろナルトなどは、誰が敵で誰が味方かとか、何を目的で戦っているのかとか、どういうルールが存在しているのか、すら分からない。 結果的に、意味が分かっていれば面白そうなんだけどな~、と思いながら、読むときはスッ飛ばし。
 同じことは 「ブリーチ」 とか、「銀魂」 とかにも言えて。 何やってるのかホント分かんないんですよ。
 「こち亀」 みたいな古参のマンガも、何かに急き立てられるように、情報量が多い。 昔はここまで詰め込んでなかった気がするんですが。 情報量が多いってだけで、読む気がしなくなって。 つーより、やっぱりギャグのパワーが落ちてますよね、両さんたちが大騒ぎしているわりには。 無理ないよ、単行本でもう200巻近い歳月やってますからね。

 それでも、ワケ分かんないなりに途中からでも入って行けるのもあるし。 「暗殺教室」「トリコ」 とか、「ベルぜバブ」 ですかね(ベルぜはここ数回、ちょっと分かんない…笑)。 最近始まった 「HACHI」 なんかは、「コイツ慣れてるな」、という感じのマンガですよね。
 って、少年ジャンプの批評をするためにこれ書いてるんじゃなかった(笑)。 本題に戻ります。

 とにかく、そんな血の気が多いほかの連載陣と比べて、格段に体温が低く、読みやすく、独自の世界を完成させてしまっている、鳥山氏の作品。
 少年ジャンプでは読者アンケートというものがあって、結果が悪いとどんどんページの場所がおしまいのほうに追いやられてしまうのですが、今回の 「ジャコ」 はもう連載開始直後あたりから、中間よりちょっと後ろ、という定位置に収まってしまい、これ、11回って最初から決めてるからいいけど、ヘタしたら鳥山氏ほどの超大物が打ち切り、みたいなパターンだよな、なんて心配するほどでした。
 その点では11回というのは非常に適当な回数で(笑)、だいたい11回くらいあれば、単行本1冊が出せる計算(笑)。 御大に恥をかかさないで済む回数つーことで(笑)。
 ジャンプの打ち切りで最速なのがだいたい、11回から14回くらいなのかな~。 今も同じなんですかね?

 作画的な話をすると、「ドラゴンボール」 のころと比べると、ちょっと線が太くなって、それとスクリーントーンの使用が増えたかな?…という気がする。 いや、鳥山氏ってコンピュータ彩色に完全に切り替えているようだから、単純にPCでモノクロの彩色やってるのかな、という感じでしょうか。 本人によると、「意識して昔風な作風にしている」、とのことでしたが、どうなのかな、「ドクタースランプ」 のときに比べても、描き込みは少ないし、なんかやはり、どこか違う。 ドラクエのパッケージで、近年の画風に見慣れてはいるんですけどね。

 (ここからネタバレ)「意識して昔の作風にしている」 という鳥山氏本人の話は、実は今回のこのお話が、「ドラゴンボール」 の前日譚みたいになっていたことによるものでした。 本編の10回が終わってオマケの11回目、最終回となるお話には、幼少時の孫悟空とかブルマ、悟空を育てたほうの 「じっちゃん」 孫御飯とか出てきてたけど、「ドラゴンボール」 開始時当時の絵と遜色ない感じ(まあ多少の違和感はあるとしても)。 マンガ家って、画風が変わっていくと、急に昔の作風で描こうとしても描けない場合があるけれども、そこはそれ、「天才」 鳥山氏のなせる技なのかと、ちょっと感心します。
 ただ、悟空って幼少時からサイヤ人のカッコしてたっけな?みたいな(ハハ…)。 あまりヘタなツッコミはできませんけど(単行本持ってないんで確認できない)。
 いや、連載途中から、「これってドラゴンボールと関係あんのかな?」 みたいなことは感じてました。 オーモリとかオカワリとか固ゆでとか登場人物の名前が食品関係だし、出てくるヒロイン役の女の子の名前もタイツで、「ブルマの関係者かよ?」 みたいに感じてたし(笑)。 そしたら案の定、タイツはブルマのお姉さんでした。

 もともと鳥山氏のマンガというのは、登場人物がバカをやって、それにシラケル周囲の反応によって笑わせる、「間」、すなわち引き算によるギャグが主流だと思うのですが、この 「ジャコ」 でもその間は健在。
 この人の世界観というのは、もともとほのぼの路線だと思うんですよ。 だから今回は、好きなように描かせてもらっている感じ。 まあ御大のやることに、ジャンプ編集部がケチをつけられるはずもないし(笑)。

 「ドラゴンボール」 はでも、ほのぼの路線とはだいぶ違う気もするんですが、最初のころはやはりほのぼのとしてましたよ。 それが、バトル中心の話になってから、どんどんシリアスになっていって。
 ただかなりシビアな戦闘シーンでも、どことなくとぼけたような展開にいつもなるし、だから悪が悪そのものに転化して行かない安心感みたいなものがあった。 それがだんだんと、ピッコロ大魔王とか、フリーザみたいなキャラを出すことで、その安心感が裏切られる時が来るのではないか…?という、そんな緊張感で読者を惹きつけていたような気がするのです。

 そして 「ドラゴンボール」 は不世出の人気作品となり、鳥山氏は自分の意に反して連載を継続させられるという状況に陥り、もう馬車馬みたいに働かされたあげく(笑)、さんざん話は引っ張られて(笑)、結果的に鳥山氏は大金持ちになり(笑)、別にこれ以上働かなくてもいい状況にまでなった(このレビュー、ここからが本題です…笑)。

 だからってわけかどうなのか知らないけれど、さんざん無理をしたせいなのか、「ドラゴンボール」 以降は、鳥山氏はほとんど引退状態に自分を置いてしまった。
 もうこれ以上、無理をして稼がなくてもいい、という感覚ですよね、いずれにしても。

 さらに金持ちになったせいで手に入れた、ごく初期のPCによって、CG彩色という方法を身につけてしまった鳥山氏。
 じつはこれも、鳥山氏のゲージツ的な絵の良さを結果的に損ねる要因となってしまった気がします。
 この人、前は水性ボールペンを水に溶いて、それを筆につけて彩色していた、という記憶がおぼろげながらあるんですが(なんかどっかで鳥山氏の絵の描きかたを読んだ気がする)、CG彩色なんかよりも、そっちのほうが格段に味がある。

 でも、鳥山氏は、CGによる簡単な彩色を選んでしまったのです。 今回の 「ジャコ」 も、カラーページを見るとその方法は変えてないみたい。

 これは、鳥山氏をひとりの絵師、という観点から見ると、とても惜しい成り行きだと感じます。

 ジャンプにはもうひとりそんな状態のマンガ家がいらっしゃいまして(笑)、名を富樫某というのですが(笑)、まぁ~連載をしてるのに、ほとんど出てらっしゃらない(爆)。 無理して稼ぐ必要ないからなんでしょ、やはり。

 ただ、絵を描く者が必要以上に売れてしまうことって、芸術とかにとって果たしていいことなのかな~、という気はどこかでします。 マンガを芸術と呼べるかどうかの議論は置いときますが。

 自分の描いたものがカネになって、自分が大金持ちになってしまうのって、まあ私もちょっと(だいぶ)憧れたりするんですが、いざ自分が大金持ちになってしまったとき、それでもまだ、もっとすごいものを描いてやる、というモチベーションというものって、継続したりするものなんだろうか?という気が、するんですよ。 答えを想像してもしょーがない問いですけどね(笑)。

 考え方を変えると、もし自分が宝くじに当たって、3億円でも6億円でも、無課税で手に入ったとしたら、そんときに果たして、自分の好きな仕事を続けてられるかな、ということです。
 もちろん今の仕事を嫌々やってたりしんどかったりした場合は、即刻辞めるに決まってますけど。

 もしゴッホが生前に今みたいな評価をされて売れ続けて、弟のテオに世話にならんでも済むような状態になってたら、あんな傑作を描き続けることができただろうか、なんて。
 ユトリロは生前、貧乏のどん底状態にあったときの絵が売れて、そのあとはいっぱしの金持ちになったんですが、金持ちになってからの彼の作品は、かなり芸術的価値が落ちる。
 対して、ピカソなんかは同じように、生前にきちんと評価されて、やはり大金持ちになったんですが、それでも死ぬまで傑作を生み続けた。
 ここらへんの違いというのは、「すごい作品を描いて世間をあっと言わせてやる、もっともっと評論家筋にも評価される作品を作ってやる」、というモチベーションが、彼にあったかどうかの話なのではないか、と感じる。

 マンガ家も同じで、自分の作品が売れてしまっても、ちゃんと働き続けるかたもいらっしゃいますよね。 まあ自分のプロダクションを大きくしてしまって、働かなきゃ立ちいかない、という状況があるとかいろいろ理由はあるとしても(笑)。

 ただ節税とか自分の金に群がってくるアリンコたちを排除するとか、かなり頭のいいお金の使い方をすれば、働かなくてもやっていけちゃう場合もある。
 鳥山氏や富樫某の場合はそれなんじゃないかなと思うけれど、いったん仕事からリタイアしたあとも、今の世の中、面白いことがあふれすぎている、というのも、文化という観点から見るとアレなんじゃないのかな、と(笑)。

 つまり、世の中が面白すぎて、金があると、いくらでも遊べてしまうんですよ。

 つまりモノを作る達人たちが、その罠にはまり、結果的に世の人々を歓喜させる作品を継続して作っていくモチベーションを失ってしまう。
 それは人間の文化にとって、とても大きな損失なのではないか(大きく出たぞ…笑)。

 まあ考えたってしょーもないことですけどね。 こういうことは、自分が大金持ちになった時に考えたい(笑)。

 とにかく今回、鳥山氏に単行本1冊程度の連載を描かせることになったモチベーションというのは、いったい何だったのかと考えると、「ドラゴンボールのクロニクルに花を添えてみたい」、という欲求だったのではなかろうか、と。

 でも、「どこから読んでも入りこめる」、という作品だった、と感じます、今回も。
 これって今のジャンプ連載陣にとって、重要なことじゃないのかな~。
 自分たちの作ったゲームのルールに従って遊んでるのって、仲間うちの話で終わっちゃうじゃないですか。
 マンガというコンテンツが他人に対して知らんぷりをするような作風になっていくことって、けっして業界にとっても得策ではない気が、するんですけどね。

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2013年10月 3日 (木)

「宇宙戦艦ヤマト2199」 最終回 「ヤマト第1世代」 たちへのメッセージ

 日本のアニメーション史に残る傑作、「宇宙戦艦ヤマト」 をリメイクした、今回の 「2199」。
 最初のうちは声優さんたちとかキャラデザに違和感があるとか、あとCGだと重量感がないとか、それから 「またヤマトで金儲けかよ」 とか、さらにその他いろいろ、言っても詮ないことをグダグダと考えておりましたが、設定の緻密さやその変更の意図などを考えながら見ていくうちに、私個人としては、回を追うごとに興味が増大していきました。

 特に見事だったのは、 「重量感がない」 と最初ケチをつけたCG。 これが戦闘シーンになると大いに威力を発揮して、かなりあり得ない、SFレベルの状況下で繰り広げられる描写には、目が釘付けになることもしばしばでした。
 もともと劇場公開を念頭に置いているせいか、テレビアニメとしても話、画力、ともにとても密度が高い。 これほど質の高いテレビアニメシリーズというのは、ほんとに数年に一度、くらいのレベルではないでしょうか。 ここまで丁寧に作ってくれて、ヤマトを最初から見ているファンとしては、もう頭を垂れるしかございません。

 そりゃダメ出ししたくなるような部分がない、とは申しませんよ。 言い出したらキリのないことはかなりある(途中で変わったオープニングテーマとかね…笑…でも録画したものをスッ飛ばしゃいいだけだし)。
 いちばん言いたいのは、「ところどころ演出があっさりしすぎていた」、という点でしょうか。 ドメルの最期とか、デスラーの行動と判断とか。
 つまりもっとねちっこくやってもらいたかった(笑)。
 まあ尺の関係もあるかもしれないし、テレビシリーズに焼き直したときにカットした部分もあるかもしれないですけど。
 だからこの路線に対する批判という意味では、まったくないんですよ。 「もっと回数が欲しかった」 という不満なのです。

 設定の緻密さという点で今回私が注目したのは、ガミラス帝国側の全体的な構造でした。

 もちろん地球側にも、この計画に異を唱える者たちの存在があって、けっして一枚板という設定にはなっていなかった。 これはこれでリアリティがあり、それでひとつの物語を形成していたところがあったけれども、それは物語に大きなインパクトを与えるようなところまで昇華していなかった気がします。

 ガミラス側はそれに対して、複数の種族を抱えることによって、内部構造の矛盾を浮き彫りにさせるような描写を可能にしていた。

 ここでもっともリアルさを欠いていたのが、ガミラス幹部にまま見られる、「下品な連中」 の描写でした。
 ガミラス総統のデスラーは、この 「下品な連中」 に対して不快感を隠さない人間でしたが、そんな下品な幹部がガミラスには、多数跋扈している。 いくら下品でもデスラーが起用せざるを得ない能力を、この連中は有しているんですよ。

 今回見ていて早い段階で気付いたのは、この下品な連中の年齢設定が、ちょうど我々、「ヤマト」 を最初に見ていた 「第1世代」 の年齢(4、50代)とかぶっていることです(ホントの設定年齢はいくつなのか知りませんけど)。

 同時に気付くのは、ヤマトの乗務員が、かなり若年層中心だったんだな、ということ(ガキの頃は 「どーしてみんな日本人なんだ?」 とか思ってたんですけど…笑)。
 これは物語の設定的に言えば、地球の危機に際して我々の世代クラスの働き盛りがごっそりいなくなっちゃったことに起因はしているのですが、あらためて見渡すと、ヤマト乗務員のなかで我々4、50代の人間とかぶっているって、機関部の山崎さんとか?それくらいしかいない。 沖田艦長を始め、徳川さんとか佐渡さん、みんな60代くらいでしょ?

 それに対して我々ヤマト第1世代の年齢層とかぶっている、ガミラスの下品な連中というのを見てると、彼らは下には暴力的で上にはヘーコラおべっか使いまくり、賄賂とかの描写はなかった気がするけど(笑)常に自分が自分が、みたいな自己顕示欲の塊みたいですよね。 肝心なところでは責任取らないし(笑)。

 つまりこれって、自分たち中堅世代が世の中に出ていって、自分をどのように汚していったのか、ということのカリカチュアなのではないか、と思ったんですよ。

 そしてヤマトの乗組員というのは、汚れることを知らなかったかつての自分たちのカテゴライズなのでは、と。

 もちろんガミラス側にも、自分というものを見失わなかった優れた人材というのはおりました。 ドメルをはじめとして、ディッツとかね。 クラーケンなんか、自分を貫くことのカッコよさを、オレたちも体現できるんだ、という証しのようでもあった。
 それは同時に、私たちの年代でも、自分を汚すことなく社会で生きていくことができた人たちもいる、ということでもある。
 その点において、このアニメシリーズは、合計26回、半年ものあいだ、絶えず私に対して、「お前はこのアニメに最初に夢中になっていた、あの時の気持ちを失わずに生きているか?」 という自問自答の場になっていたことは確かです。

 同時に、自分を見失ってしまった最大の象徴だったのが、デスラーだった気もしてきます。

 彼の行動自体は、このリメイクのなかでもきちんとした説得力を持って説明されていたとは思えない。 結局今回の制作陣は、原作に準拠してスターシャへの偏愛、そして崩壊過程での狂気の発動でもってその行動を説明しようとしてしまったように思えるのですが、大宇宙を統べる巨大帝国のアタマとしては、自分が常軌を逸した行動に出るに際して、その政治的な背景をどうしても探らなければいけないと思うし、刑務所の反乱とか、反対勢力の攻勢に対してのデスラー自身の焦りとかも描写する必然性があると感じる。

 ただそのいっぽうで今回のシリーズでは、デスラー自身を、まあ毎度自分の表現がワンパターンでアレなんですけど(笑)モラトリアム的な存在にした、というか、どことなくテレビゲームに夢中になっていらっしゃるお坊ちゃま感覚で捉えようとした部分も見える。
 それにある程度、総統としてのカリスマ性なんかを自分で演出しようとしている自己偏愛的な部分も見えたし。
 つまりまあ、設定的には叔父の帝国を受け継いだ、ということにはなっているけど、感覚的には彼は、世襲で帝国を束ねているにすぎない。 だからヤマトというたった一隻の艦があけたちっぽけな穴に必要以上に反応し、自分の持っている帝国の宇宙的な規模も忘却して、ヤマトに固執する。
 要するに、スターシャにしてもヤマトにしても、欲しい欲しい病みたいなもので。 どんなにカリスマ性を自己演出して自分を偽ろうとも、その核となる部分では、いつも欲しいおもちゃはひとり占めしていたい、所有欲が渦巻いているんだと思うんですよ。

 それはやはり、私なんかはビンボーだからその傾向にはないけれども、私たちの世代である程度経済的に成功している人たちにとっては、デスラーのオコチャマ的所有欲というのは、自分自身を振り返るある種のプロトタイプになっているのではないか、と。

 私のような 「ヤマト第1世代」 に対して、自らを省みる機会を強要し続けた今回の 「2199」。

 物語はそのエンディングに向かって、その設定を微妙にリアルに変えながらも、自らを古代進や森雪などの世代に原点回帰させるストーリーを、感慨を持ってなぞっていくことになります。

 すなわち、地球の照らす光によって、古代進の腕のなかで蘇生する森雪と、その地球への帰還を眼前にして、「地球か…何もかも皆、懐かしい」 というセリフと共にこときれていく沖田艦長、というストーリーです。

 今回、緻密になったストーリーのためにいちばん割を食った形になったのが、この古代進の描写だと感じます。
 かつて主人公の存在感を高めることで、物語としての吸引力が高まっていた平和な時代があった。 しかし現代のストーリーテリングは、突出した存在感を打ち出すには、非常に困難を伴うイヤな時代だとも思う。
 そのなかで、新たなキャラクターが跋扈する新しいス トーリーのなかで、古代進と森雪の関係は、静かに潜伏しながら進行するしかなかったような気もするのです。

 今回、コスモリバースシステムの性格を、古代進の兄、守の意識下にある地球の記憶をシステマチックに改変したことで、古代守は幽体的な存在としてヤマトに宿ることとなり、その意識によって森雪を蘇生させることに成功した(あ~ネタバレでした、スイマセン)。 そしてそのことによりいったんはシステムダウンしたコスモリバースシステムは、沖田艦長の死と共に、再びヤマトに宿ることとなる。

 こういう非科学的な設定というものは、見ている側をときにはシラケさせるものではあるのですが、人の心が受け継がれていく、という意義によって、その非科学性は乗り越えられる。 これってすなわち、森雪が生き返ることがすなわちヤマトのストーリーだし、沖田艦長は地球を眼前にして息絶えなければならない、という私たちヤマト第1世代のワガママではあるのですが(笑)、こうしてきちんと原作をなぞってもらうことによって、少なくとも私の涙腺は、決壊しました。

 つまり、今まで実に、ガミラスの幹部たちやデスラー総統のありかたによって現実を苦く振り返らざるを得なかった自分が、古代進や森雪の持つ、若い心、かつての自分が抱いていた気持ちにシンクロできる機会を、ここで得ることができたのです。

 そして沖田艦長の死は、同時に自分のなかで、その若かったころの自分の気持ちがなくなっていく、ひとつの象徴にも映った。

 これが、自分を限りなく、泣かせるのです。

 自分は、沖田艦長のように、自分のなすべきことをやりきって、死んでいくことができるのか?

 物語が終わって、限りない虚脱感と共に、自分のなかに打ちこまれた楔。

 「ヤマトに夢中になっていたころの自分を、裏切るような生き方はしたくないものだ」…、このアニメは自分のような世代の者にとって、ちょっとアニメという枠を超えた感慨を、もたらしてくれたのです。

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