ビートルズ

2019年8月11日 (日)

2018年ビートルズ関連、怒濤の出費ラッシュ(その3…了)

 生来のナマケモノの性格が災いして、「ホワイト・アルバム」 50周年盤の批評アップをグズグズ先延ばしする前に、「アビイ・ロード」 50周年盤の発売告知がなされてしまった。
 考えてみれば、ポール・マッカートニーが新しい曲をリリースする最近のペースに比べれば、まあ当然だが、ビートルズのリリーススピードはムチャクチャ速い。 要するに、50年前の出来事として考えた場合、去年(1968年)の11月に 「ホワイト・アルバム」 がリリースされたと思ったら、もう今年(1969年)9月末には 「アビイ・ロード」 がリリースされていたわけで、ビートルズはその間にも1月の寒い時期に 「レット・イット・ビー」 のギグをやり、その間に映画 「イエロー・サブマリン」 のサントラ盤をリリースしていたわけだ。 あり得ない話だがもし 「レット・イット・ビー」「イエロー・サブマリン」 の50周年盤がこのペースで発売されていたら、小生の財布にはさらに打撃が走っていたことだろう(笑…まあ順当に言って 「レット・イット・ビー」 50周年盤は来年の5月に発売されるだろう、新しい映画の封切りやその他諸々とともに)(しかしアルバム 「レット・イット・ビー」 に関しては、もうすでに 「ネイキッド」 という改訂版も発売されているし、どうなるのだろう)(イヤ出すね、金ヅルだから)。


「ホワイト・アルバム50周年記念バージョン」 のリミックスがクソな点について


 そもそも、「50周年記念バージョン」 なるものは、「サージェント・ペバーズ50周年バージョン」 から始まっている。 その最も根本的な目的は、これまでのステレオバージョンで固定してきた楽器の配置を変えたりする 「リミックス」 を行なうことだから、やろうと思えばデビュー・アルバムの 「プリーズ・プリーズ・ミー」 から出来たわけだが。
 だから遅かれ早かれ、ヘッドホンで音楽を聴くのが当たり前になっている現在において、かなり違和感のある従来のステレオミックスはこの先随時再構築されていくに違いない(ビートルズ以外ではこんな商売は成り立たない)。

 ただし、「リミックスの意義」 といったものを考えた場合、「ホワイト・アルバム」 以降はさほど意味がないのではないか。 「ホワイト・アルバム」 からビートルズは8トラックの録音機材使用を本格的に始めている。 だから 「音の分離」 という観点からいけばもうじゅうぶんなのだし、音の配置にしたって、前期の極端な配置に比べれば違和感などないのだ。

 この一連のリミックスを手がけているのは、ビートルズのプロデューサーであったジョージ・マーティンの息子である、ジャイルズ・マーティンである。 ジャイルズによる 「サージェント」 のリミックス・バージョンの出来には、私も最大の賞賛を送った。 当ブログでも興奮気味にそれをレビューしたものだ。
 それは従来の4トラックに詰め込まれた音を、詰め込まれる前の世代まで遡って音に磨きをかけ、その効果が最大限に発揮されたものだったからだ。

 「サージェント・ペパーズ」 のリミックスにはもうひとつ、「従来のモノラルバージョンをステレオに置き換える」 という大きな意義があった。 細かい説明はほかに譲るが、ここにさらにジャイルズは 「低音を強調した現代の音にグレードアップさせる」 ことを目論んだ、と考えていい。 そしてそれはほぼ完璧な形で達成されたとみていいだろう。

 ところが 「ホワイト・アルバム」 の場合、これらの意義に必然性があまり見られない。 「そもそもやる意味がない」、ということなのだが、ジャイルズはここで、「ビートルズがスタジオで聴いていた音を再現する」、などという 「どうでもいい目的」 を設定してしまった。 私はこの、最初に掲げられた大目的からして大ハズレだった、と断言したい。

 また、「低音を強調した現代の音にグレードアップさせる」 という 「サージェント」 で効果を上げたリミックスの目的をここでも設置してしまったことも、重大なミスだ。 「低音を強調する」 ということは即ち、「ポールのベースの音を上げる」 ことに他ならないのだが、「サージェント」 でも 「ベースギターの音像」 というものは正直なところ比較的ぼやけてしまっていた。 だが 「サージェント」 は、様々な楽器のアンサンブルで主要部分が成り立っているアルバムであるが故に、それが気にならなかったに過ぎないのだ。 「サージェント」 に比べてバンドの音が主体である 「ホワイト・アルバム」 に、この手法は馴染まない。 全体的に言って 「ポールのベースがうるさい」 印象になってしまった。 ここから 「ポールに媚びを売っている」 という、要らない憶測も生じる。

 低音の強調が最も裏目に出たのは 「アイ・ウィル」 であろう。
 この曲の低音は、ポールが自らの声で行なっている。 つまりマウス・ベースということだが、「ドゥン、ドゥン」 というポールのベース・スキャットは時折若干の揺らぎを生じ、それがこの曲のひとつの味として成立しているのだ。 それがジャイルズのリミックスによってきれいに消失してしまった。 低音が強調されすぎてベース音の個性がなくなった端的な例だ。

 また、「ビートルズがスタジオで聴いていた音を再現する」 というジャイルズの目的に沿ったものかどうかも不明な、「やってはいけないこと」、まで、ジャイルズはやらかしている。

 「今まで聞こえていた音の絞り、またはカット」 だ。

 これは、ビートルズの意図に反した重大な反則、といっていい。

 存命中のポールやリンゴがこのリミックスに異議を唱えなかったからといって、そんなものは言い訳にもならない。
 なぜなら彼らは、自分たちのアルバムを自分たちのアルバムの世界中の聞き手よりも熱心に聞いていないからだ。 この事実はもっとリミックススタッフは認識する必要がある。 本人たちが了承したからいい、なんてのは、愚の骨頂なのだ。

 ジャイルズが音を絞った、またはカットした、という例は枚挙に暇がないが、聴いていてどうにも我慢ならないほんの一例を挙げよう。

 ・「バック・イン・ザUSSR」 の間奏直前、ポールの雄叫び 「オ!カモーン!」。 この声が遠くで聞こえると間奏自体がノレない。

 ・「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」 イントロの拍手が1拍だかカットされている。 なんなんだよもう。 こんなことしていいのかよ。

 ・「バンガロー・ビル」 の直前に挿入されるスパニッシュ・ギター。 メロトロンのサンプル音楽だから別になくてもいいくらいだとでも思ったのか? かなりガクッとくる。

 ・「アイム・ソー・タイアード」 のイントロ、そして中間のギターの音。 この音絞ってどうすんだよ。 アホか。 今すぐ元に戻せ(無理)。

 ・「ホワイ・ドント・ウィ・ドウ・イット…」 イントロの手拍子、その他、とにかくこの曲のバランスは異常に悪い! 「バースデイ」 も同様。

 ・「エヴリバティ・ガット・サムシング…」 終盤、「カモカモカモカモカモカモ」 の前に一発あるジョンの 「ヘイ!」 の雄叫び。 絞る神経がわからない。 ロック心というものを分かっとらんよこのジャイルズという男は。

 ・「セクシー・サディ」 エンディング部分のジョンの声も相当遠い。 ああ~どうして絞るの! イライラすんなモオっ。

 ・「ヘルター・スケルター」 最後のリンゴの雄叫び。 絞るなよっての。 ここキモチイイポイントだろうが!

 ・「レボリューション1」 イントロ、最近亡くなったジェフ・エメリックの 「I think TAKE2?」 ジョンの 「OK」 の呼応も、まあ気にはならないレベルだがちょっとモヤモヤする。

 以上、どうしても我慢ならない部分だけを思いつくまま挙げてみたが、それ以外にも 「静かな曲の音量がヤケに大きい」 というクソ改変も同時に行なっている。
 これによってアルバム全体のバランスがかなり壊滅的になったと言えるだろう。

 それで気づいたのだが、やはりこのアルバムはアナログで考えて、A面B面C面D面、1面につき1曲、全4楽章から成り立つ意図によって構成されていたのではないか、ということ。 アナログレコードを見ればわかるが、このLPには普通ある曲と曲との溝がない。 ここには1曲1曲を独立したものとして考えていないビートルズの意図が感じられる。
 大体分かると思うが、A面ではビートルズのバラエティぶり、B面はバラード、C面はロック、D面はさらにバラエティの先にあるもの、という区分がなされているこのアルバム。
 しかしながら同じ面でも、最初から最後までバラードだったりロックだったりはしていない。 それぞれの楽章の中で、大きな音と小さな音のメリハリをつけているわけだ。
 ジャイルズはこの均衡を崩しまくっている。 ビートルズの音楽をきちんと聴いていない証拠だ。 そのくせ自分の父親の仕事であるストリングスはヤケにしつこく前面に出してくる。 これはまあいいけど。 ストリングスの異様さが前より聞こえるようになったから(一番の成功例は 「グラス・オニオン」 あたりか)。 親父思いなのは結構なことだ(笑)。

 とりあえず、ジャイルズのこれら仕業はビートルズに対する過干渉と言っていい。 我々(いや…私のような)リスナーは、これまで聞こえなかった音が聞こえることは歓迎だが、これまで聞こえていたものを聞こえなくするのには、あくまで反対なのだ。


「アビイ・ロード」 50周年盤に寄せる不安と期待


 であるから、この9月に発売されることがアナウンスされた 「アビイ・ロード」 50周年盤に対しても、私は同様の危惧を隠すことが出来ない。 とは言えもうとっくに予約してしまったが(笑)。

 ただ、「アビイ・ロード」 をもっと真空管的なワイルドな音に変貌させることが出来たら、このリミックスは成功だと言えるかもしれない。

 「アビイ・ロード」 というアルバムは、8トラックが完全に採用されたアルバムとして音の分離もよく、「いい音」 の見本みたいに言われてきたアルバムだ。 だが私は昔から、このアルバムの音はヤケに行儀がよすぎるように感じていた。 これはビートルズが最後に録音したアルバムだから、それで音自体が何かよそよそしいのかな、と長年思っていたが、最近読んだジェフ・エメリックの証言でそのモヤモヤに終止符を打つことが出来た。

 それは、このアルバムがトランジスタ方式(のミキシング・コンソール)で初めて録音されたアルバムだった、という証言だ(「ミュージック・ライフ ホワイト・アルバム・エディション」80ページ)。
 ここでエメリックは、録音開始からすぐ、ドラムやギターの音に迫力がなくなったことに気づいた、と証言している。
 もしこの問題を克服できたとしたら、「アビイ・ロード」 のリミックスにも大きな意義があると言える(公式サイトのダイジェスト版を聴く限り、その望みは薄い。 しかもリミックスの意味も分からない)。
 ともあれ私たち(いや…私…笑)は、「小手先の改変」 など望んでいない。 「グレードアップ」、それだけだ。 「これは別物だから」、などという聞き手の感想は、リミックススタッフにとって 「敗北」 であると認識してもらわねばならないのだ。

2019年5月19日 (日)

ポール・マッカートニー2018年最新アルバム 「エジプト・ステーション」 エクスプローラーズ・エディションの新曲も交えて

 ポール・マッカートニーの2018年最新アルバム 「エジプト・ステーション」。 36年ぶりに全米チャート1位を獲得したことで、そのセールス的な復活ぶりも取り沙汰される作品となった(全英3位)。
 「ビートルズ関連怒濤の出費ラッシュ(その2)」 の項でも採り上げたが、このほどそのクソ商法のとどめであると期待したい(どうかな…)同アルバムのリリース第3弾、「エクスプローラーズ・エディション」 がリリースされた。 まずはそれについて言及したい。

 この2枚組CDのうち、先行でネット配信された1曲 「ゲット・イナフ」 を含めた 「フランク・シナトラズ・パーティ」「62nd ストリート」 の(たった)3曲が、CD初収録の新曲だ。 「ゲット・イナフ」 のみ、「ファー・ユー」 と同じくライアン・テダーとの競作で、テダーのプロデュースによる。

 「ゲット・イナフ」 はポールが初めて 「オートチューン」 を使用した曲だ。 オートチューンというのは、ヴォーカルの音程を調整するソフトウェア。 ダフト・パンクやPerfumeで聞ける、ロボットみたいな声を作り出す機械、と言えば分かりやすいか。
 このソフトを使うことには若干の抵抗が音楽界にはあるようだが、革新的な音楽をリードしてきた元ビートルズのポールにとって、「禁忌」 という考え方自体がないことをあらためて証明した形だ。
 ただしポールのオートチューン使用の目的は、自らの劣化した声の補正のほうに重点があるように思われる。 ソフトの進化の結果か、どこで使われているのかがちょっと聞いただけでは分からない感じがするが、おそらくサビの高音の部分だろう。 曲の印象としては、カニエ・ウェストやケンドリック・ラマー、あるいは最近曲調が難解なビヨンセの影がちらつく感じだ(はるかにメロディアスだけど)。 スローバラードというカテゴリに属するのだろうが、ポールの今までのキャリアにはなかった種類の曲と言える。 要するに、2010年代後期の洋楽、というカテゴリの中に存在している曲なのだ。 テダーとのもう1曲、「ファー・ユー」 のもつ 「従来のポールにありがちなヒット・チューン仕様」 とは根本的に異なる。

 「フランク・シナトラズ・パーティ」 でのアプローチも同じだ。 このメロディの奥底にはたぶんにしてレゲエ的な発想が流れているが、リズムは 「ンチャ、ンチャ」 という形式を採っていない。 ポールがこの曲に対して持っているのは 「リフの複雑さとヴォーカルメロディの兼ね合いによる楽しさ」 であろう。 古くは 「デイ・トリッパー」 や 「ドント・レット・ミー・ダウン」 の 「♪アイム・イン・ラヴ・フォー・ザ・ファースト・タイム」 あたりの気持ちよさに、その原点を求めることが出来る。 だが音楽的には当時よりはるかに多くの要素がミクスチャーされている。 現代の音なのだ。
 その昔フランク・シナトラのパーティに、ポールは呼ばれたのであろう。 そのときのことが歌われている。 いつ頃かは分からないが、俳優のピーター・ローフォードが歌詞に出てくることから、少なくとも彼が亡くなる1984年以前のようだ。 ビートルズはシナトラと反目し合っているような感覚だったので、おそらくビートルズ在籍中はこんな機会などなかったと思う。 ポールは歌のなかで、スティングの 「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」 みたいな孤独に晒されている。 しかしアレンジが現代風なので、この曲のPVがあったらカリードとかマックルモアなんかが出てきそーな感じだ(笑)。

 「シックスティ・セカンド・ストリート」 は題名からしてジャズっぽいが、ジャズっぽいのはシャッフル・ビートくらいで、曲の感じとしては 「メモリーズ・オーモスト・フル」 のボートラだった 「ホワイ・ソー・ブルー」 あたりに似ている気がする。 アコースティック・ナンバーだ。
 この曲のスリリングなところは途中でリズムがシャッフルから2拍子になり、カッコよくシャッフルに戻る部分。 本編でトランプ大統領を揶揄したと言われる 「ディスパイト・リピーティッド・ウォーニングス」 とか、本編最後の 「ハント・ユー・ダウン/ネイキッド/Cリンク」 でも聴くことの出来るテンポチェンジが行なわれているが、同じ傾向の 「バンド・オン・ザ・ラン」 とか 「死ぬのは奴らだ」 に比べて、あまりにそつなくてどこか味気ないような気がするのは私だけだろうか。 これって 「クリック」 と呼ばれる 「デジタルメトロノーム」 みたいなので管理されてるせいなのかな。 よく分からんが。

 「フー・ケアズ(フルレングス)」 は本編に入っているものよりイントロが少し、最後がだいぶ、長い。 ギターでいったん終わってからアドリブ的なシークレット・ギグが始まる感じだが(歌はない)、2分以上続くそれは結構単調だ。 本編でカットされたのも頷ける。 基本的にバンド演奏によるロックで、ベースが時々面白いアプローチをする。 場合によってはここにいろんな音を足して別の曲と劇的な繋げ方をするとか、料理の仕方はあったかもしれない。

 あとの4曲は本編のライヴ・バージョン(プロデュースはジャイルズ・マーティン)であるが、ここではポールの声の劣化が如実に感じられて、ちょっと往年からのファンにはつらい内容になるかもしれぬ。 逆に 「この年でここまで」、という感動的な捉え方をするファンがいるかもしれぬ。 いずれにしても、本編においてでさえもポールの声は劣化している印象で、私は 「もっと喉の調子がいいときに録音しろよ」 みたいなことを考えていたが(つまり本編においてさえも声の出ているときとそうでないときの差が激しい)、実はこれが最も調子のいいときの、ポールの声だったのだ(しわがれ声をわざと演出している場合もあるだろう)。
 「ファー・ユー」 のライヴでは、問題があると思われる 「ファー」 の単語だけが歌われていない。 昨今では歌詞の中によく 「f**k」 の文字を見かける洋楽をしばしば耳にするが、マルーン5の 「ジス・サマー」 なんかのように、実際歌われるときは省かれる場合もあるようだ。

 いずれにしても、「ポールのボートラやボツ曲は侮れない」、という定説が、今回もまた証明された形だ。 あと数曲あると思われるボツ曲を含め、正式な2枚組としてリリースされれば、セールス的には失敗してもこのアルバムの評価はもっと高まったことだろう。

 期待したジャケットだが、最初に出た蛇腹状のものではなく、二つ折りのものでしかない。 その点は残念だった。

 では、本編についても少し触れよう。

 先行配信された 「アイ・ドント・ノウ」 を購入して聴いたときの第一印象は、「ポールの楽曲としては極上、とは言えないまでも傑作に近い」。 そして感じたのは 「アレンジの隅々にまで神経が行き届いている」、というものだった。
 まずイントロをリードするピアノの音色が、すこし調律が外れてホンキートンク気味になっている。
 近年の傑作アルバムとして名高い 「裏庭の混沌と創造」 でも顕著なように、従来のポールのやりかたならばここはまともなピアノの音色を聴かせるはずだ。 この音質の 「歪ませかた」、というのは 「エジプト・ステーション」 のアルバム全体を象徴するアレンジ構築手法であるように感じる。
 明確な情報は得ていないが、ドラムはポールが叩いているのだろう。 手癖がポールっぽい。 このドラムの音色も、最後のヴァースで分かるように、従来に比べればかなり重低音が強調されている。

 重低音、というのは近年のポップシーンでは必須の項目だ。 特にEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)とかラップとかヒップホップ(どう違うのか?)でよく耳にする。
 この重低音の定義というのは感覚的なもので、従来であればベースギターの音や、ドラムスの中でもいちばん低いバスドラの音とかが音域の低い音として記録されてきたのだが、それがさらに強調された状態のことを指しているのだろう。
 ここで筆者が分からないのは、ただ低音を強調するだけなのであれば、音質調整でベース音を上げればいいだけのように感じるのだが、それだと 「低音がうるさいな」 ということになってしまうのに、重低音はあまり不快を伴わない、ということだ。 これってどういうことなのだろう。 筆者の考えでは、おそらく人に聞こえない低い周波数の操作で、空気の振動として聞かせてしまうからなのではないか、と思っている。

 ポールの楽曲でこの重低音が意識的に使われたのは、前作 「NEW」 のボーナス・トラックだった 「ゲット・ミー・アウト・オブ・ヒア」 で鳴る低い太鼓が、最初だったように思う。
 前作であまり顕著ではなかったこの重低音が、「カム・オン・トゥ・ミー」 も含め先行配信されたこののっけからの曲で鳴りまくり。 私はここに、今回ポールと組むことになったグレッグ・カースティンの影響を少なからず感じた。

 グレッグ・カースティンは、2017年のグラミー賞も獲ったアデルの 「25」 のプロデューサーである。 だからポールが彼を指名したというわけではなく、「25」 の発売以前からポールはアプローチをかけていたようだ。 ここで注目すべきなのは、ポールの恐るべき嗅覚だ。 前作 「NEW」 でも、ブルーノ・マーズと組んでいたマーク・ロンソンを起用していた。

 私はこの嗅覚の原因を、ポールの最も若い娘ベアトリスにあると踏んでいる。 「裏庭の混沌」 でも直接の関与は認められないものの(ジャイルズ・マーティンの紹介だったという)、ナイジェル・ゴドリッチと組んだことがあった。 ゴドリッチはレディオヘッドのプロデューサーである。 レディオヘッドもそうだが、フー・ファイターズとか、普通ならばポールの眼中にもない気がする(ニルヴァーナなどは別として)。 ポールの近作はそれこそ奥さんのナンシーさんの趣味に沿ったジャズ・アルバムとかあったけれど、ほぼこのベアトリスの成長に合わせた変遷の仕方をしている感覚がするのだ。 ベアトリスが幼女だった頃の 「メモリーズ・オーモスト・フル」 では単純な構造の 「ダンス・トゥナイト」、最新作でも 「ファー・ユー」 がお気に入り、みたいな情報も聞いた。 おそらくベアトリスがいなければ、ポールはカニエ・ウェストとかリアーナとかケンドリック・ラマーなどの最近のミュージック・シーンなどにも、もっと疎かったのではないだろうか(これらのミュージシャンがほとんど黒人系だ、というのにも注目すべきだろう)。

 このアルバムを聴いていて迫ってくるのは、今年喜寿を迎えるポールの、「もしかすると自分のアルバムはこれで最後かも」、という切迫した気持ちだ。 そして自らの劣化した声と戦いながら、逆にまたそれを利用しようとする姿勢。 その仕上がりに76歳の気力のすべてを注入している、元ビートルズとしてのプライド。 そして、今までと同じ事を拒絶し、2018年の音を作り出そうとする貪欲さ。

 ネットの進化で、これまで以上にCDを買う意味が消失し続ける現状のなかで、同じアルバムを手を変え品を変えリリースするのは、確かに私みたいな 「現物を欲しがる」 旧世代しか相手にしていないクソ商法であることは紛れもない事実である。
 しかし私みたいなアホファンは、ポールの情報が日々上書きされていくのが、何よりも嬉しいのだ。

2019年4月27日 (土)

2018年ビートルズ関連、怒濤の出費ラッシュ(その2)

 この項目、(その1)において 「年をまたいで言及する」 と書いておきながら、生来の怠け癖が祟って4ヶ月も経ってしまった(実は1月5日に半分くらい書いていたのだが)。 発売元のユニバーサル・ミュージックからは(その1)に対して文句も来ないし(つまり私のイチャモンに反論がないのだろう)、別に誰の需要もないと思うが、書かないのも癪なのでとりあえず書くことにする。

 と、その前にポール・マッカートニーについて新たなイチャモンの火種が出来たため、そちらから触れることにしよう。


ポール・マッカートニーの新譜 「エジプト・ステーション」 のさまざまなバージョンを乱発、の件


 去年(2018年)9月、5年ぶりに発売されたポールの新作 「エジプト・ステーション」。 発売当初から 「後出しでコンプリート盤が出るのではないか」、という憶測はファンの間で確かに広がっていた。 そしてそれが今回も、残念なことに現実のものとなったのである。
 遡ると1980年代の 「フラワーズ・イン・ザ・ダート」 から始まったこの販売手法。 ポールの新作を待ちきれないファンたちは最初のバージョンをこぞって買うわけだが、そのあとに 「コンプリート盤」 と称して最初のラインナップ+初回版に洩れた楽曲という特別盤が発売される。 熱心なファンは全部聴きたいから、結局同じアルバムを2度買わされる羽目になるのだ。

 「フラワーズ・イン・ザ・ダート」 に関しては近年アーカイヴ・コレクションでリマスターしたものが発売されたので、最も同情すべきファンの購買形態を考えたとき、まずあの時代はアナログ盤が主流でCDが出始めの頃だったから①アナログ盤を買い、アナログ盤にはないボーナストラックが付いていた②オリジナルラインナップのCDを買い、さらにその何ヶ月か後に出た③コンプリート盤を買い、ことによるとそのあとに出た廉価盤の④ポール・マッカートニー・コレクション盤を買い、⑤アーカイヴ・コレクション盤を買い、ことによるとその⑥リマスターアナログ盤を買う、といった具合に、オリジナルラインナップのみについて考えたとき、同じ音源を6回買わされていることになる。

 まあ、上記のケースではいくらなんでも①と④と⑥はどうかな、とも思うが、熱心すぎるファンは全部買ってしまうのだ。

 しかし、そんな熱心すぎるファンでなくとも、近年のアコギな売り方に 「どうしても買わざるを得ない」 方向にまんまと誘導される傾向が強まっているようだ。
 しかも、普通の金銭感覚では出せるはずもない法外な値段のバージョンを、どう考えてもセレブか転売業者用に向かって売り出している。
 この3月に出た 「エジプト・ステーション・トラベラーズ・エディション」 がそうだ。 旅行鞄の形をしたケースにジグゾーパズルだのなんだのかんだの大してほしい気にもならない付録を満載させ、59,400円でユニバーサル・ストア限定発売(つまり値引きなし)。
 誰が買うんだこんなの。
 そう、セレブと転売業者だけに決まっている。
 つまり、ファンのことなど全く向いていないクソな売り方だ。

 それの当てが外れたのか大当たりして味をしめたのか、完全限定盤だったそれを5月また販売開始。 つーことは、売り切れたんだろうな初回のヤツが。 美味しい商売だよクソッタレが。
 「こんなオマケや大仰なケースなど要らん、音源だけ売れ」、という購買層も多数存在していることが分かったのだろう、この5月にはもうひとつ、「エジプト・ステーション・エクスプローラーズ・エディション」 なる2枚組が出ることになった。 実質的な新曲は2曲のみだ。 あとは初回盤のボートラに入ってたヤツとかライブバージョンとか。 ディスク1については2度買いの対象である(笑)。 永遠にプレイヤーにセットされることはなかろう(はぁ…笑)。
 アホのポールファンである私は、「ジャケットが違うから。 初回盤では昼間だったのが夕方になってる」、という理由で予約してしまった(笑)。 (笑)…ってる場合じゃないぞ。

 これについてもうちょっとマシな買い方が出来るとすれば、というか、ユニバーサル・ミュージックがファンのことをもし1ミリでも考えているのであれば、「エクスプローラーズ・エディション」 はアナログ盤で発売し、それに無料のデジタルダウンロードチケットをオマケでつける、という形態を考えるべきだ。 蛇腹のジャケットは表面が夕方、裏面が昼間、という形にして両方楽しめるような。 歌詞カードなんか別付けでいいんだから。
 そんな良心的なことなど、たぶんこれっぽっちも考えとりゃせんだろう。 そしたらほかのが売れなくなってしまうから。 よーするに全部売りたいんだろう手を変え品を変えて。 ポールもジーサンでもう後先長くないから生きているうちに売れるだけ売っちまおう、という算段なのに決まっている。
 クソ以外の何物でもない。 以上!


ポール・マッカートニー・アーカイヴ・コレクション 「ワイルド・ライフ」「レッド・ローズ・スピードウェイ」 について


 前回こき下ろしたポール・マッカートニー・アーカイヴ・コレクション日本盤は、その中身においても 「値段の割に」 いくつかの手抜きが散見される。

 まず、本編以外のボーナス・トラックの歌詞・日本語訳詞が不備である、という点。
 この不備はレコード会社が 「アーチストの意向で掲載できません」、という決まり文句で許される、と考えているのかもしれないが、それは売る側の怠慢、と言うべきだ。 だいたい 「アーチストの意向」 だろうが何だろうがお構いなく、不正確な聞き取りまでして歌詞カードをつけてきたのが、日本における従来の売り方ではなかったのか。

 さらに見られるもうひとつの手抜きは、スーパー・デラックス・エディションについてくる映像ディスクに、日本語字幕がついていない、という点だ。
 そもそもこのポール・マッカートニー・アーカイヴ・コレクション、映像ディスク原盤においても、「ビートルズ1+」 や 「サージェント・ペパー・スーパー・デラックス」 で施されたような、リストアや、4K画質みたいな大幅な画質の向上が行なわれているわけではないのだ。 それだけでも私にはポール側の手抜きと思えるのだが、販売数がビートルズの場合と比べて見込めないとはいえ、2万円以上の価格設定をしておいて、日本語字幕もないとは、どういう了見なのか。 不親切そうな海外盤でも、日本語字幕がつく場合があるというのに。

 特に今回 「ウィングス・ワイルド・ライフ」 のボーナス・ディスクには、ほぼファミリー・レコーディングと呼んでいいいくつかの断片がある。 これってトラック数稼ぎとしか言いようがなく、正直ポールのファンのなかでも、とりわけコアな人々にしか訴えかけないものであろう。 別にそんなのは、ダウンロードのオマケにつけりゃいいだけの話だ。

 それは 「ワイルド・ライフ」 のボーナスであっても良さそうなちゃんとしたトラックを、今回 「レッド・ローズ・スピードウェイ」 に移植したことが大きい(ここらへんの話はコアなファンでないと理解しがたいので注意)。
 それは 「レッド・ローズ・スピードウェイ」 で当初ポールが意図したダブル・アルバムの体裁を、プレイリストによって組立可能にできるようにする、という、たぶん今回で唯一の(笑)粋な計らいだ。
 だから今回のリイシューで最も価値が高いのは、「レッド・ローズ・スピードウェイ」 のCD2枚組バージョンである、デラックス・エディション(過去に2回以上買った人にとっては海外、特に英国盤)なのだ。 これを取り込んで順番を変えれば、「レッド・ローズ・スピードウェイ」 の本来のスペックを堪能できることになる。

 実際私はこれをMP3に取り込んで聴いてみたのだが、これまで私がこのアルバムに抱いていた 「物足りなさ」 は、かなり解消した。 じっさいアナログ盤で聴いたと想定してこのラインナップだと、曲数に関してはやっぱり物足りなくはあるのだが、一気に聴くとずっしりと重い。 さらに、A面B面C面D面の各4面にわたる展開に、「ホワイト・アルバム」 にも共通した、一定の主張が感じられるのも、いい。

 映像ディスクの内容も、ポールファンにとっては実は貴重なソースが少なくない。 先にも少し触れたが、ポールはうなるほどカネを持っているのだから、MPL(ポールの会社)はこれら貴重な映像作品をきちんとリストアして4K8K画質にして、ひとまとめにして 「ポール・マッカートニー・アンソロジー・パート2」 として、別途販売すべきなのではないか。

 このふたつのアーカイヴ・コレクションは、2018年後半に入って次々と出費を強いられてきたビートルズ・ファンにとってとどめの一撃となったわけだが(笑)、そこから遡ること1ヶ月、ポールの来日公演とほぼ同時にリリースされた 「ホワイト・アルバム50周年記念バージョン」。
 これが次の俎上だ。 しかしもうずいぶん長い記事になってしまったので、それは(その3)であらためて言及する。

2018年12月31日 (月)

2018年ビートルズ関連、怒濤の出費ラッシュ(その1)

 「今やビートルズは金ヅル」、と当ブログで書いたのはいつだったか。
 CDの売れない当世、それは悪化の一途を辿っている。
 レコード会社(ユニバーサルミュージック)にとって、CDを買ってくれるもっとも大得意様は、何を差し置いてもビートルズファンなのである。 ストーンズファンだって、クィーンファンだって、ここまでマメに出たもん出たもん全部買ってくれないだろう。
 特にボックス・セット、という売り方は1セットあたりの単価が1万を超えることが常識となってきており、最近では2万、いやそれ以上の法外な価格設定を平気でしてくるようになった。

 特に酷いのはポール・マッカートニー関連の商品だ。 ポールの過去の作品は現在、「アーカイヴ・コレクション」 という形でリイシューされ続けているのだが、その第1弾だった 「バンド・オン・ザ・ラン」(2010年発売)は最も高いセット(スーパー・デラックス・セット)で確か9千円くらいで買えた。 それがこの12月に出た 「ウィングス・ワイルド・ライフ」 と 「レッド・ローズ・スピードウェイ」 のスーパー・デラックスでは、2万2千円から2万7千円の価格設定になってしまっているのだ。 単純に考えて3倍近い。

 ちなみにこの2つのアルバム、傑作である 「バンド・オン・ザ・ラン」 と比べれば、ファンの間の評価はかなり低い方に属する。
 確かにアーカイヴの 「バンド・オン・ザ・ラン」 スーパー・デラックスに比べると、最近のスーパー・デラックスはポール直筆の歌詞メモのレプリカは当然のようについてくるし、生写真だのイラスト集だの、当時のライヴチケットのレプリカとか関係者入場証とかまでついてきて、オマケをつけすぎ、という感は否めない。
 とまれ。 直筆歌詞のレプリカはそりゃ感動ものだが、そのほかのオマケなんか一切必要ない、とここではっきり申し上げておきたい(チケットのレプリカで欲しいと思うのは、ビートルズの日本公演と、ウィングス幻の日本公演くらいのものだ)。 誰に文句を? ポールに? ユニバーサルに? どっちか主導権を握っているほうに、だろう。

 しかもそれどころか、ユニバーサルはこの2つのあまり評価の高くないアルバムのスーパー・デラックスを両方買わせようと、これを同時にセットで買ってあと6千円出せば、当時のヨーロッパ・ツアーを俯瞰できる 「ウィングス・オーヴァー・ヨーロッパ」 がついてきますよ、という禁断の商法を繰り出してきた。

 その値段、驚くなかれ、5万5千円。

 「ワイルド・ライフ」 が2万2千円で 「レッド・ローズ・スピードウェイ」 が2万7千円だから、その2セットに6千円を足せばこの、「ウィングス1971-1973スーパー・デラックス・エディション」 が買える、というわけだ。 どーせ2つのセットを買うほどお金があるんなら、あと6千円出せばもっとレアな品物が手に入りますよ、という小汚い商売ではないか。

 しかもそれを、ユニバーサルストアでしか発売できないようにして、完全限定盤にする、という念の入れよう。 つまりアマゾンなどのネット販売を完全にブロックし、値引きなしで自分らだけ儲けようという腐った根性なのである。

 さらに(まだあるのか)。

 その 「ウィングス・オーヴァー・ヨーロッパ」 の出来映えが、音楽情報誌によるとかなりいいらしいのだ。 ウィングスの傑作ライヴアルバムである、「ウィングス・オーヴァー・アメリカ」 と比肩するほどの出来だ、というのだ。

 5万5千円、という法外な値段設定に躊躇し様子見をしてしまったフツーのポールファンたちは慌ててその悪魔のセットを買おうとしたが、時すでに遅し。 大金持ちのポールファンがすでに買ったあと。 もしくは転売目的の輩もいたかもしれない。 発売後半月の時点でこの悪魔のセットの中古品(もしくはほぼ手つかずの状態のものも多かろう)は、10万くらいの値段で取引されているらしい。

 これがクソだ、と言わずして何がクソなのか。

 このクソ状態を、件の音楽情報誌ではちっとも批判しない。 「出費が続いて大変ですねー」 みたいな与太話に終始している。 これは邪推だが、このクソ商法を批判すれば、ビートルズ関連のリイシューで試聴会に呼んであげませんよとか、ユニバーサルに釘を刺されてんじゃないのか(もしくは無言の圧力)? 出版業界でもビートルズ関連の特集やムック本はカネのなる木だから、ユニバからそっぽを向かれれば商売が成り立たないのだ。

 ユニバーサルの会社からもこのブログにはアクセスがあるみたいなので、もし私のこの憶測記事に異論があれば、コメントをよこしていただいてもいい。

 まだまだあるが、年をまたいでこの件は続けさせてもらう。

2018年9月29日 (土)

「ノーバディ・ラヴス・ユー(愛の不毛)」 が永遠に伝える、ジョン・レノンの絶望

 ジョン・レノンが1974年に発表したアルバム、「ウォールズ・アンド・ブリッジズ(心の壁、愛の橋)」 のほぼラストに位置する 「ノーバディ・ラヴス・ユー(愛の不毛)」。 ヨーコとの別居によってジョンが直面した、限りない絶望が聴き手の胸を打つ曲だ。 この曲の出だしはこうだ。



 打ちひしがれているとき、誰もおまえを愛さない
 有頂天になっているとき、誰もおまえを見ていない



 キリスト教を巡るバッシング、逆風のなかでのヨーコとの再婚、バンドの解散、ヨーコとの平和運動への無理解、そしてアメリカ移民局との戦い。
 それまでどんな状況下にあっても表面上はけっしてふて腐れたりしてこなかった男が、ヨーコだけでなく、世界中に向かって不満を表明しているような過激さを、私はこの冒頭の2行に感じる。
 ここにいるのは、自らの不幸を嘆き、自分が必要としている人からかまってもらえないことにいじけ、世を拗ねているひとりの男だけだ。 そこには、世界を牛耳ってきたスーパースターの片鱗すらない。 なんと等身大で虚飾のない、丸裸な歌なのだろう。

 これと精神構造的に似ている曲は確かにビートルズ初期の作品群にも散見される。
 ファースト・アルバムの 「ミズリー」 では、「世界中が僕につらく当たる。 みじめだ」 と歌っているし、成功後の4枚目のアルバム 「フォー・セール」 のなかの 「アイム・ア・ルーザー」 もタイトル通りネガティヴな自己否定の歌だ。
 ビートルズ後期でも、「ホワイト・アルバム」 のなかの 「ヤー・ブルース」 に至っては、「寂しい、死にたい」 とまで叫んでいる。
 こうしてみると、後年ポールが 「ビートルズは反社会的なことを歌わなかったのがよかった」 と回想しているのはちょっと間違いであることに気づくだろう。 まあ、「自己否定」 というのは反社会的ではない、という見かたもあるが(「死にたい」、などというのは自殺者を助長する?)。

 ともあれ、ジョンが歌う歌のなかには、元来から 「自分をネガティヴに捉える」、という方向性があったことだけは確かだろう。
 ポールがそれと比較して 「楽天的である」 と評されてきたのは、ポールの作る歌には悲しいものもあるが、けっして自分を悲観したりしない傾向が見て取れるからだ。 「エリナー・リグビー」「シーズ・リーヴィング・ホーム」 は最後まで救われない歌だが、客観的な情景を歌っているだけで、自分の心情にまで言及はしていない。
 それに対してジョンは 「パーティはそのままに」 でも、「自分ががっかりしているところを見せるのは嫌だ」 と歌い、「悲しみはぶっとばせ」 でも 「みんなが僕のことを笑っている」 と後ろ向きの感情をあらわにしている。
 ジョンはビートルズ初期から自分の弱さと直面し続けた。 ポールは悲しみにぶち当たったとき、「そのうちだんだんよくなるさ」 と前向きに捉え、内面の危機を克服していたように見えるのだが、ジョンは悲しみをそのままダイレクトに受け止め、絶望することで創作意欲を発揮していった。 「ヘルプ!」 はその最も端的な心の叫びの投影である、と言える。

 これはふたりの家庭環境がそうしているような気もする。

 ポールの父親ジムは 「1トンもあるような重たいことなら脇に置いとけ」 とポールに諭していたという。 ポールの生き方には父親ジムの人生哲学が深く根ざしているように思われる。
 対してジョンは両親から実質的に捨てられた環境で、体裁を気にする伯母と軋轢を抱えながら育ってきた。
 ジョンの精神構造を鑑みるとき、そこには 「誰にもかまってもらえなかった」 という、トラウマに近いものが存在している気がする。 「誰かに大事にしてもらいたい、かまってもらいたい」、という欲求がジョンを突き動かしていたと私には思えるのだ。 もちろんそれが、ジョンをミュージシャンに向かわせた動機のひとつと捉えてもいい気がする。

 1973年暮れ、ジョンは突然、ヨーコから 「出てって」 と足蹴にされ、ふたりの住まいだったニューヨークから単身ロサンゼルスへ渡り、そこで酒びたりの 「失われた週末」 と呼ばれる自暴自棄の生活に突入する。
 ふたりの関係が破綻した原因については近年、ヨーコによって様々に明かされているが、もともとかなりの困難のなかで一緒になったことの疲弊が極まった、と理解すべきだろう。

 ここで興味深いのは、ジョンは自分が愛する女性に捨てられたとき、自分の母国であるイギリスには帰らなかった、ということだ。

 私が想像するに、これはジョンがヨーコと地続きの土地にいたかった、ということの表れだと思うし、アメリカを自らの理想の国だと考えていたからこその行動だ、と思う(当時係争中だったアメリカ永住権の関係もあったのだろうか)。
 イギリスに帰ることはその理想を諦めること、すなわち自らの本当の敗北だ、という意識がどこかで働いたのだろう。
 ジョンはロスでリンゴ・スターやニルソンなどという半アル中(笑)みたいな連中と、毎晩飲み明かした、とされる。 リンゴも当時は酒に溺れていたからなあ。

 「失われた週末」 における失意のなかで、おそらくジョンは世間の人々が持つひとつの残酷な傾向と向き合ったに違いない。
 いくらビートルズの一員として世の中のトップに立とうとも、女房に三下り半を突き付けられて酒場でへべれけになっている男には、何の価値も見出さない、ということにだ。

 そしてその飲み会についていってる連中も、実は自分と同じ、弱い心の持ち主たち。

 おそらくジョン自身も酔いが回ってくれば、自分につきまとっている連中も、自分をただ利用しようとしているだけに見えてきたことだろう。 そして見るもの聞くものすべてに、腹が立ってきたことだろう。 彼は飲酒でたびたび問題を起こし、店からつまみ出された時もあった。 苛立ちと怒りが、彼を蝕んでいたのだ。

 カネも人気も権力も、あるところにはみんな寄ってくる。
 そうなると多かれ少なかれ本人は有頂天になってしまうものだが、みんなが見ているのはカネと人気だけで、なくなればみんな離れていく。 本人のことなんか、最初から誰も知ろうとなんか思っていない。
 そして表舞台から消えれば、波が砂を洗うように、すぐに消えてなくなってしまう。
 人気者として君臨し、曲を書き、文化を作り出し、こんなに自分が世の中に与え続けてきたというのに、なくなるのはあっという間だ。 まるで夢を見ていたみたいだ。

 自分が他者に対して貢献してきたことと、他者から何かをしてもらったか、ということを両天秤にして考える、という思考方法は、実はものすごく危険なことだ、と私は考えている。 人間はいつも、自分のしてあげたことはよく覚えていて、他人からしてもらったことは忘れやすい傾向にある。 だからこの両天秤は、けっしてポジティヴな比較検討結果を生み出さないのだ。

 「ノーバディ・ラヴス・ユー」 の思考理論の柱にあるものは、実はこの危険な比較である。 この絶望的な曲は、こう続いていく。

 「僕は世界中を旅してきた。 いろんなものも見てきた。 持っているものは全部見せてきた。
 それなのに、まだこれ以上欲しがるっていうの?
 みんな自分のことばかり(自分の誕生日がどうとか)。
 たぶんおまえが愛されるようになるのは、おまえが死んだあとだろう(要約)」。

 途中で一人称にはなるものの、「ノーバディ・ラヴス・ユー」 というのは、「ユー」 つまり 「おまえ」 に対して歌われている曲ではない、というのは自明だろう。 この曲は客観視された自分を 「ユー」 に見立て、ジョンはあくまで自分に向かってこの曲を歌っていると解釈できる。
 蛇足だが、最後の1行、「君が愛されるのは、君が死んだあとだろう」、というのは、ジョンの暗殺直後に曲やアルバムがチャート1位になった1980年終わりや、死後に神格化されていく自分に対する予言ともなってしまったわけだ。

 ところでこの曲は冒頭のアコギ1本での弾き語りから、比較的穏やかで、ジョン自身が 「シナトラ的(後述する)」 だと自嘲する感傷的なアレンジで進んでいくのだが、途中いきなり、ジョンのフラストレーションが一気に爆発したような曲調に、豹変する。



 朝起きて、鏡に映った自分を見る、ooo wee!
 暗闇の中、もう眠れないって分かっている、ooo wee!



 そして曲は、何事もなかったかのように穏やかで諦めに満ちた当初の静けさに戻り、1ヴァースを経て、そのまま終わっていく。 頼りなげなジョン自身の口笛とともに。
 最初にこの曲を聴いた中学生の頃、私はこの違和感だらけのパートは不要なんじゃないか、と考えていた。
 だがやがて、当の自分が打ちひしがれたときにこの曲をギターで歌ってみて、何より共感できるのがこの部分だ、ということに気付いた。
 鬱々とした心情を諦観たっぷりに歌うことは、自分を慰めるものだが、実は屈折した感情はその静けさのなかでは押さえつけられたままだ。 その我慢できない怒りが吐き出されるこの一瞬を、この曲は待ち続けていたのだ。

 私はここに、ジョン・レノンの非凡さを見る。 ともすればこの名曲をぶち壊しにするこの2行を挿入することの勇気、判断力。 この2行がなければ、この曲は世間を斜に構えて皮肉る、自己肯定の歌で終わったことだろう。 ジョンの天性の才能はその危険性を無意識のうちに回避し、この曲全体に流れるヨーコや世間に対する恨み、自らに対する憐憫の気持ちをいわば、「否定」 しにかかったのだ。

 そこまで考察してしまうとこの曲はけっしてネガティヴなだけの、唾棄すべき曲ではないことに気付くのだが、この曲が作られてから6年後に死んでしまうまでの間、この曲に関するジョン・レノン自身の肯定的な感想は、今のところ私の知る限りでは存在しない。

 この曲についてジョンは、死の2か月前(1980年10月)に語られた米プレイボーイ誌のインタヴューで、こう発言している。
 「そう、タイトルがすべてを語っているよ。 ヨーコと離れていたこのころの僕が、まさにこの通りだった。 僕はいつも、フランク・シナトラがこれを歌ったらどうなるだろうって思っていた。 理由は分からないけどね。 でもこれはいわゆるシナトラ風だよ。 彼ならきっと完璧に歌いこなすだろう。 聞いてるかいシナトラ君。 この曲を君にあげるよ。 だけどお願いだから僕にプロデュースしてくれなんて言わないでくれよ(笑)」。

 ジョンが生前持っていたフランク・シナトラへの評価というものは、必ずしも高いものではなかったはずだ。 ロックンロールとポピュラーミュージックとは、その精神性において、そもそも対極の関係にあるからだ。
 そう考えると、この曲をシナトラにくれてやる、ということは、ジョンがこの曲に対してけっしてポジティヴな評価を与えてはいなかった、ということになるだろう。
 それは、インタヴューのなかでも語られているように、この曲がヨーコとの18ヶ月の別居期間を象徴する曲だったから、ということも大きい。
 この曲は、ジョンがあまり知られたくない自らの心の闇でも、最暗部を晒してしまっている曲であり、同時にヨーコへの限りない不信をも暴き出してしまっている曲だ。 ヨーコとの不仲が解消した6年後のジョンにとっては、まさしくそれは、「人生の中で乗り越えたトラブル」 についての曲だったに違いないのだ。

 しかしジョンは、インタヴューの同じ部分で、「君(シナトラ)にはなんの意味もない曲"以外"のものが必要なんだ」、とも語っている。
 これは 「シナトラ君の歌ってきた歌なんか、みんな意味のないものだろ」 という、ジョンのシナトラへの強烈な侮蔑が含まれているとはいえ、ここにはジョンのこの曲に対する前向きな評価が潜んでいる、と考えることもできる気がするのだ。 「なんの意味もない曲 『ではない』」、ということなのだから。
 そこにこの曲に対する、ジョンの少しばかりの許容の萌芽を私は感じる。 もし彼が射殺されずに現在まで生きてこられたら、おそらく彼はこの曲の持つネガティヴ性を評価し直したことだろう。 彼が生きていたらおそらく幾度かのライヴを絶対に行なったであろうが、そのセットリストにこの曲が入る日が、いつかは来たのかもしれない。

 この曲は、限りなく絶望的で、他者に対する限りない失望を歌にしている。
 だからこそ、この曲はものごとの本質を、かなりシビアに突いている。
 多感だった少年時代、この曲は暗かった私にとって、バイブルのような曲だった。 今も落ち込むことがあると、この曲の持つ暗黒に癒される時があったりする。 私も 「かまってもらいたがり」 であり、いじけたり僻んだりばかりの性格だからだ。

 ジョンがこのような絶望に直面したとき、彼が逆に創作活動を活発にした、という事実は注目に値する。

 つまり内面の崩壊に直面したとき、人間は自らその危機と闘うために、その危険から消極的に逃避しようとすると同時に、自らの居場所を見つめ直し、もう一度信じることで、危機を克服しようとするのだ。

 ジョンにとってその居場所とはまさしく音楽であり、創作活動であった。

 この曲を擁したアルバム 「心の壁、愛の橋」 は全米で久しぶりの好セールスを記録した。 当時はそのトータル性、完成度を評価されるものが多かったが、実際のところはジョンが曝け出した内面の絶望が聴き手に受け入れられたものだ、と私は考えている。 ビートルズ回帰の向きにも支えられた感もあるが。

 いずれにせよこの曲は、イメージ的に世間的に作られた 「愛と平和」 のジョン・レノンが直面した、ネガティヴな本音が凝縮しているがゆえの 「傑作」、なのである。

2017年6月 4日 (日)

「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」 50周年周年記念エディション 21世紀のビートルズ 「聴きかた革命」

「はじめに」 際限なく繰り返し発売されるビートルズのクローンたち 


 「何度、同じものを買わせるのか」。

 ビートルズフォロワーにとってこの忸怩たる感情は常についてまわっている。

 これはなにも音源コンテンツだけに限ったことではなく、書籍や映像にも及ぶ。 私が最近記事にした 「ビートルズ史」 にしてもそうだ。 ビートルズの書籍で伝記タイプのものだけでも、私が購入したのは活動中だったビートルズの公認伝記であるハンター・ディヴィスのそれと、2000年に叶姉妹が買っただのなんだので話題になったオーラル・ヒストリー本 「アンソロジー」 に次いで3回目。 ほかにも作品解説だのインタビューだの写真集だの特集記事の載った雑誌だのムック本だの…まさに出版社のいいカモだ。
 いや、私以上にそういう本を買い漁っているファンはいるだろうと思われる。 商売として成り立つからこそ、今回のように、ビートルズの新しいものが出るとそれに便乗した本が際限なく出回るのだ。
 映像面でもハードが進化するとそれに伴って再リリースされるし、特にブルーレイが登場すると画質の全面リストア化とやらで4Kをうたう商品まで出されるようになった。

 そして本命である音。
 ベストで充分、という一般の人なら 「ビートルズ1」 1枚で足りるが、もうちょっと詳しく知ろうとすれば 「赤盤」「青盤」。 さらにもっと知りたければ、2009年にリマスターされたオリジナルアルバム13枚プラス 「パスト・マスターズ」 で、彼らの活動中に出した音源はほぼすべて手に入ることになる。 これに、解散後25年目に出した2枚のシングルを揃えれば、とりあえずビートルズの活動は全部押さえたことになろう。

 ふつうなら、ここで打ち止めになるはずなのだ。

 しかし売り手は、「ビートルズの深い森」 に入り込んでしまった迷子の財布を虎視眈々と狙ってくる。
 アウトテイク集だのラジオセッション集だのネイキッドだのアメリカ盤だの日本盤だの、レコード時代の過去に発売されてなかなか出なかったライヴ盤のCD化だの。 2009年のリマスター盤などは現在のいちばん大きな基本になってはいるが、CDというフォーマットとしては、もともと1980年代後半レコードから移行されたときにすでに1回出されたものなのである。 その時代の技術が20年たって古ぼけてきたので、もう一度よく聞こえるような形で出し直したのが2009年のリマスターだったわけだ。 私はさすがにレコードを持っていたので、最初のCD化に関しては重要作しか買わなかったが、全作CDで買っていた人は、「同じものをこれで2度買った(レコード時代に買い揃えていた人はこれで3度買った)」 ことになる。
 そしてついに、近年になって売り手が着目し出したのは、「ステレオリミックス」、という手段だ(かなり昔の 「イエロー・サブマリン・ソングトラック」 というのがリミックスの最初だったが)。


ビートルズの場合のリミックスとは


 この 「リミックス」、先に書いた 「リマスター」 となにが違うのか、というと、特にビートルズの場合、ステレオにおける楽器の位置とか、ヴォーカルの位置などを変えてしまうことを意味する。 リマスターは元の(マスター)音源をただただ忠実にCDに焼き付けることのみにその目的があるのだが、リミックスはもっと積極的に元の聞こえかたを変える作業だと言える。

 ただし、現代の音楽に触れている世代にとって、「ビートルズのリミックス」 作業なんてのは、ほとんど無意味でワケの分からんことに見えるんじゃないだろうか。
 なぜなら彼らは、楽器やヴォーカルの位置を変えただけではリミックスとは思わないだろうからだ。 21世紀を生きる世代にとってリミックスというのは、テンポを変えたりビートを強調したりして、元の曲とは全く違ったものになることを意味し、かつダンサブルにならなければならない。
 だからテンポが違ったいろんな曲を同じテンポのメドレーで聞かせることが普通に行なわれるし、バラード曲だってドラムを加えてダンスチューンに変貌してしまう。

 しかしそもそもこの 「テンポを変える」、というのは、旧アナログ世代にとっては理解不能な世界だ。

 なぜならテンポが変わる、ということは音階が変わる、というように思われるからだ。 テープのスピードを上げれば音は高くなる。 逆に下げれば、音は低くなる。 レコードで、シングル盤で45回転のものを33と1/3回転で間違えて聞いたとき、女の子の声が男みたいになった、という経験は、レコード世代の人ならあるはずだ。
 しかし現代では音はデジタルの電気記号の集合体みたいな感覚で、テンポを上げても下げても音階が変わることがない。
 私などもよく、録画したテレビドラマなどを 「倍速で見た」(厳密には30%のスピードアップ程度らしいが)と書くことがあるが、倍速で見ても音の高さは変わらず、ヒヨコが早口でしゃべっているように聞こえないのは、これと同じ道理だ。

 この、アナログ的な 「テンポ」 と 「音階」 の齟齬に直面していたのが、当時のビートルズである。
 特に今回のテーマである 「サージェント・ペパーズ」 では、先行シングルとして当初アルバムに入る予定だった 「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」(今回スペシャルエディションには収録) がもっともそれに該当しているのだが、それはほかで語り尽くされているのでここでは言及しない。

 この 「テンポ」 と 「音階」 の違いなど、当時発売されていたモノラル盤とステレオ盤が、もっとも違って聞こえるのが、「サージェント・ペパーズ」 と次のイギリスオリジナルアルバム 「ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)」 だ。 1960年代後期はモノラルからステレオへの転換期にあったことからこういうことが起こったわけだが、「サージェント」 の頃(1967年)にはまだまだモノラルが主流で、ステレオミックスのときに彼らはほとんどその場に立ち会わなかった、と言われる。

 「立ち会わなかった」 ということを、今回、リミックスを担当したジャイルズ・マーティン(ビートルズの音楽をほとんどプロデュースしたジョージ・マーティンの息子)がブックレットに書いているのだが、これまでほとんど 「聖域」 とされたリミックスという作業に舵を切る大義名分(ホントは 「同じものを売りつける」 大義名分…笑)が、ここに集約されている。


「ビートルズ1(2015年バージョン)」 におけるリミックス


 ジャイルズの行なったリミックスの第1弾が、一昨年(2015年)に 「リイシュー(再リリース)」 された 「ビートルズ1」 だった。 これは2000年に発売されて超絶ヒットとなった 「ビートルズ1」 とラインナップがまったく同じだったのだが、ここにレコード会社(最近じゃどういうのか?)が編み出した付加価値が、「リミックス」 だったわけだ。 だから必然的に、「ビートルズのものなら何でも聴きたいビートルズ信者」 たちは、「ちょっとずつ違った同じもの」 を買わざるを得なくなる。

 けれども、このリミックスされた 「ビートルズ1」、私はあまりいいと思わなかった。
 なぜならば、「ビートルズの曲が持つ強烈なインパクト」 がかなり抑えられたように感じたからだ。
 確かに音自体はよくなり分離もよくなり、コーラスは全体的に各パートが聞こえるようになったのだが、あまりに整然とお行儀よくなってしまったせいで、曲のグシャッとしたような一体感が影をひそめてしまったように聞こえた。
 特に 「ア・ハード・デイズ・ナイト」 の最初の 「ガーン(もしくはジャーン)」。 なんでこんなに迫力がないのだろう。 私がガキの頃、この曲を最初に聞いたとき、このイントロにはかなり衝撃を受けたものだ。 それなのに、なんとショボイのだ、このリミックスは。 この1点だけで全体的な評価がかなり低くなった。 「抱きしめたい」 のあの騒々しさもそこにはない。 「アイ・フィール・ファイン」 で感じる、ジョンのヴォーカルとギターリフの匂い立つような危険さがない。 「愛こそはすべて」 エンディングの混沌としたきらびやかさがなくなっている。

 その失望から、買った当初私はこのブログでレビューをしなかったのだが、実際のところこの 「ビートルズ1」 2015年バージョンのウリはリストアされた映像集のほうだったろうと思われる。 彼らの映像は 「アンソロジー」 で以前強力にリストアされたものだが、その 「アンソロジー」 で不完全だったプロモーション映像を完全に4K・21世紀仕様にしたことが、このプロジェクトの本当の意義だったように思える。

 しかしジャイルズの仕事で唯一感心したのは、それまでモノラルだった聞こえかたをステレオにし直している、という1点だった。

 例を挙げると 「イエスタデイ」。 この曲、もともとモノバージョンでは最初のリフレイン部分、「♪~something wrong Now I long for yesterday」 の部分がダブルヴォーカルになり深いエコーがかかるのだが、ステレオではそれがない。 それをジャイルズはきちんとモノの聞こえかたに直している。
 「ペイパーバック・ライター」 でも、コーラス部分の終わりにリバーブがかかるようになっているモノバージョンの聞こえかたを、ステレオで再現している。
 また、「イエロー・サブマリン」 の3番、後ろでがなっているジョンの声がステレオバージョンでは最初オフになっているのを、きちんとなっているモノバージョンと同じ仕様に直した。


今回 「サージェント」 で行なわれたリミックスについて


 今回ジャイルズが行なったリミックスは、この 「ビートルズ1」 と同じコンセプトによるものであると思われる。
 つまり、「ビートルズもプロデューサーのジョージ・マーティンもステレオミックスはもともと興味を示さず、モノの聞こえかたこそが彼らの求めていたものだった」「ステレオミックスは当時かなりヤッツケで行なわれたいい加減なものだった」(実際そうだったけど)、という 「大義名分」 をもとに、「本当のステレオミックス」 を目指したのだ。

 だからこれまでスタンダードとされた、2009年のリマスターステレオバージョンとは、まったく別物の(まあフツーの人には関係ないレベルだが…笑)「サージェント・ペパーズ」 がリリースされた、ということになる。 極端に言えばビートルズの21世紀における最新アルバムが出た、くらいの革命的な出来事なのだ(ことにビートルズファンにとっては)。

 先にジャイルズの仕事をクサした私がなぜここまでオーゲサなことを言うか、というと、なにしろ今回のジャイルズの仕事は、私がクサしたポイントをみんなクリアしているからだ。

 つまり、アルバムの全体的な印象がかなり迫力を増した、という点においてだ。

 先に触れたジャイルズのブックレット解説によると、「第1世代のピンポン録音する前のオリジナル・レコーディングに立ち返ることが可能になった」、と書かれている。
 これはかなり衝撃的な記述ではないか、と思う。
 最初何の予備知識もない状態でこのアルバムのCD1を聴いたときに私が感じたのも、この点だったからだ。 「もしかするとテイク○○の状態から構成し直しているのではないか?」。

 ここで解説を要さなければならないが、「サージェント・ペパーズ」 というのは基本4チャンネルで録音されたアルバムなのだ。 といっても一般の人には馴染みがないかもしれないが、要するに幅広のアナログテープに4か所、音を別々に入れられるという録音技術レベルのことだ。
 4チャンネルなんていうのは今の録音技術からするともう 「それで何ができるんだよ!」 と叫びたくなるようなチャンネル数の少なさなのである(笑)。 ビートルズはその、たった4つしかないチャンネルにもっと音を詰め込もうとして、1チャンネルにつき最初録音したものを再生しながらそこに新しい音を加える、という録音の仕方をしていくのだが、それを 「ピンポン録音」 という。 必然的に、前の録音の音質は劣化していく。

 「ピンポン録音をする前のオリジナル・テープに立ち返ることができるようになった」、というのは、4チャンネルのものをいくら分離しても1チャンネルのものは分離できない、という理屈が覆されたことを意味する。
 つまり、ピンポンで劣化した前の録音が、クリアに再現できるようになった、ということになろうか。

 これが出来るようになった、ということは、2009年のリマスタリングでも再現できなかった音を聞こえさせる手段が整った、ということだ。 「2009年リマスターより音が聞こえる」、というのは、ビートルズの聴きかた自体が21世紀仕様になったことを意味する。 とんでもない世界だ。

 実際に聴き比べてみよう。


各曲解説


 私が比較対象にしているのは、2009年ステレオリマスターに関しては、USBボックスの音である。 疎いのでよく分からないが、おそらくハイレゾ音源と同じくらいのクオリティではないかと思う。

 1. サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド

 いきなり余談で申し訳ないが、この曲で以前から気になっていたのは、「どうしてペパー軍曹の楽団なのか?」 ということだった。
 今回ブックレットにも書かれているように、ポール・マッカートニーによれば、ローディだったマル・エヴァンスが 「ソルト・アンド・ペッパーを取ってくれ」 と言ったのを 「サージェント・ペパー」 と聞き間違えた、というのが定説なのだが、「ソルト&ペパー…ソルタンペパ…いや、聞こえんな」 みたいな(笑)。
 楽団というポールの発想はポールの父親ジムがやっていた 「ジム・マックス楽団」 からきているのだろうが、どうして軍人がここにしゃしゃり出てくるのだろう。
 私の勝手な憶測だが、これは1966年にアメリカでビートルズ以上に大ヒットした、サージェント・バリー・サドラーの 「悲しき戦場」 への対抗意識がポールの無意識下にあったのではないだろうか。 1964年、65年とビートルズはアメリカのチャートを席巻したのだが、66年はこの曲に後塵を拝した。 しかしこの曲を聞くと、とてもじゃないけどそんな名曲に思えない。 「軍曹」 だけあって、歌も大してうまくないし。 「こんなのにトップの座を奪われた」、という屈辱感が、ポールのなかにあったのではないだろうか。 「じゃ、軍曹の楽団としてパロディをして、ちょっと皮肉ってやろう」 みたいな発想。 ウィキにも書いてないから、まだ誰も指摘してないだろう、と期待しつつ(笑)。

 まず冒頭の観客のざわめきが、リミックスのほうがシャープに聞こえる。 この段階で 「これまでと違う 『サージェント』 が始まった」 と予感させる。 これまでのミックスでは 「司会役」 のポールが右側で歌い、ペパー楽団が左から登場するという段取り。 曲の途中から楽団は中央に移動してくる。
 ところがこれだと、ジョージのリード・ギターも右側に配置されていたために、ポールのヴォーカルとかぶってこれまではそのメロディラインがじゅうぶんに分からなかった。
 今回はポールが最初から中央で歌い、ジョージのギターの位置は従来通り右なので、ジョージのギターがよく聞こえる。
 こうなることで、この曲のロック感が若干上昇するのだ。 ジョンのサイド・ギターも従来の中央から左寄りに変更されているために、ポールのヴォーカルのツヤが増しているのが分かる。 ジョンとジョージのギターが絡み合うのが実感でき、とてもエキサイティングに生まれ変わった。
 楽団のコーラスもまんべんなくワイドに広がってその構成がくっきりとした。 アルバム1曲目をロックな方向に転換することで、聴き手の期待感を膨らませることに成功している。

 ただし、「Sit back & let the evening go」 のあとのブレイクで響くホルンの音が、従来では左からエコーが右に、という聴きどころがあったのだが、それがなくなっている。

 2. ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ

 ビリー・シアーズ役のリンゴが従来はセンターからやや左寄りで歌っていたのに対して今回は中央。 そしてやや左寄りから左にかけて入っていたバックコーラスが左右、ベースは従来と同じ位置。
 ただ従来ではそのベースがほぼ単独で右から聞こえていたために、その音像がかなりはっきりしていたが、今回はコーラスと重なるためにちょっと引っ込んだような印象を受ける。
 従来のミックスではその、ポールのベースにコーラスのエコーが絡む、という展開で、空間を抑えた味のあるミックスだったのに対して、コーラスで押してくる今回のリミックスは、やはり迫力重視、といった印象を受ける。 そこにジョン、ジョージ、ポールがいるよ、という感じ。
 また、ほとんど中央に固まって位置していたバッキングが分離され、今回一部右からも聞こえる(たぶんジョンのサイドギター?)。 これ、1チャンネルの音でまとまってたら分離できないでしょう。

 3. ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ

 モノラルバージョンでダブルトラッキングだったジョンのヴォーカルがステレオで初めて強調された。 このほうが浮遊感が出ていい。
 冒頭のハープシコードのような音が音階によって違う位置から聞こえてくるのがこれまでになかった。 これって単なるフェーダーの操作なのかな。
 ブリッジ部分につながる 「♪kaleidoscope eyes」 のところでエコーが強くなるのは従来通りだが、さらにヴォーカルが空に絵の具をぶちまけたようにぱあっと広がるような感じになる演出もよい。
 リフレインを告げるリンゴのドラム3発も、従来では左から聞こえていたのが中央に、そしてその音質がずっしり重い。 キーボードとエフェクターがかかったギターの音色が印象的な曲だったが、ひとつひとつの楽器がせめぎ合っているのが分かる。

 この3曲まで聴いて感じるのは、ポールのベースがかなり主役の座を奪われている、ということだ。 しかしそれにも関わらず、曲自体のドライヴ感が増している。
 それは従来のミックスでポールのベースが、いちばん最後に録音され続けてきたからではないだろうか。 だから音質のいいポールのベースが曲自体の印象を決め、そのトリッキーさ、縦横無尽さが前面に出ていた。 しかしこうしてほかの楽器の音もよくなったことで、バンドとしての一体感が飛躍的に増しているように思えるのだ。

 4. ゲッティング・ベター

 従来のステレオミックスではかなり成功している例だと思うのだが、今回それを凌駕させるためにジャイルズは中央に位置していたベースを右に配置した(つーか、ここまでベースすがずっと定位置なのだが?…笑)。 トリッキーなようだがこうすることでヴォーカルが立ち、ベースはギターと一体化し、孤立化を防いでいるように聞こえる。
 この曲の生命と言えるのはおそらくこのギターのカッティングだ。 バンドの音が強調されて、この曲はさらにパワーアップした。
 昔から感じていたことだが、この曲は構成が結構複雑だ。 1番2番と、3番は微妙に違ったりする。 カッティングをヤケに強調した発想というのは、それまでのビートルズには見られなかったように思える。 これも 「自分たちとは別のバンド」、という意識が働いていたからこそできた発想なのではないかと思う。 

 5. フィクシング・ア・ホール

 従来のこの曲のステレオミックスは、ハープシコードが左、ギターが右、といった極端で音像の狭い聞こえかたをしていたのだが、それが両方から聞こえてくることで、視野が一気に広がったように思える。
 従来の聞こえかただと、途中で右のギターが登場するまで右は無音。 また無音になって…という繰り返しで、最終的に右チャンネルにはコーラスも入ることになるが、かなりバランスの悪い配分だった。
 それが今回は、両方からハープシコード、ドラム、ギターが聞こえるのだ。 ほかの楽器はともかく、ドラムスはスネアやタム、バスドラなどが別々に録音されていたとは考えにくいのだが、右からはスネアっぽい音が聞こえる。 もしかするとタンバリンなのかもしれない。 いずれにしてもかなり聴きやすくなった。
 ただしこの曲においてもベースは右から(オリジナルは左から聞こえる)。 なんかこの位置で定着してないか? これも従来に比べてかなり引っ込んでしまった印象を受ける。

 この、「ベースが引っ込んで聞こえる」、というのは近年の傾向とは逆であることは書いておかねばならない。 近年のビートルズリイシュー盤の傾向として、ドラムとベースのリズム隊が強調されてきたことはたびたび指摘される。 それはまだ生きているポールとリンゴに対する配慮なのだ、とまことしやかに囁かれ続けてきたものだが、ビートが強調されてきた近年のミュージックシーンに寄り添っている可能性もある。 いずれにせよそれは 「気がする」 世界なので、なんとも断定のしようがない。

 6. シーズ・リーヴィング・ホーム

 1970年代後半の 「旗オビ世代」 である私は、ビートルズのレコードをステレオで聴き続けて育ってきたわけだが、2009年のリマスター盤発売のときに同時に出されたモノ・マスターズで初めてモノラルの 「サージェント」 を聴き、いちばん不思議に思ったのがこの曲だ。
 ステレオ盤ではこの曲、もともと録音されたテープスピードのままなのだが、モノラル盤では若干スピードが速いのだ。
 先ほど解説したように、アナログのテープスピードの変化は、そのまま音階の変化を意味する。 つまりこの曲のモノラルは、ステレオに比べて半音高く、ポールの声もそれだけ若く(子供っぽく?)なっているのだが、どう考えても元のスピードのほうがいいように思えるのだ。
 この曲は小編成のオーケストラをフィーチャーしたアレンジなのだが、テープスピードが早められたことで、なんとなく重厚感がなくなり、おもちゃっぽい音になってしまった。 そしてビートルズは、本命であるモノラル盤に、この安っぽい音を選んだのだ。 どうしてなのだろう。

 これも私の推測の域を出ない話だが、もしかするとポールはこのアルバムを作るうえでいちばんのモチベーションとなったビーチ・ボーイズのアルバム 「ペット・サウンズ」 のなかの1曲、「ドント・トーク」 の弦の音に近づけたかったのではないだろうか。 なんとなくスピードが上がったバージョンのほうが、「ドント・トーク」 の弦の音を彷彿とさせる気がするのだ。

 従来のバージョンではこの小編成のオーケストラが小ぢんまりと左右に振り分けられているような印象を受ける。 そして左チャンネルからはヴィオラやチェロなどの低音部、右からはヴァイオリンやハープなどの高音部がよく聞こえるのだが、今回のリミックスでは中央の周辺も使ってまんべんなく楽器が配されているように思われる。 音の広がりとしてはやはりリミックスのほうに軍配が上がる。 蛇足のようだが、もちろん今回のリミックスは、テープスピードが上がったモノラル仕様を踏襲している。

 7. ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト

 今回のリミックスで特に白眉だと思われるのがこの曲。 従来右から聞こえていたジョンのヴォーカルが中央。 というより、ダブルトラッキングされた声が中央の少し右と少し左から聞こえるような感覚。 おかげでオルガンなど移動式遊園地を思わせる楽器が縦横に配置されることになり、深いエコーがかかることによってそのきらびやかさが飛躍的に増した。 特にその効果はヘッドホンよりもスピーカーから大音量で聞いたほうが実感できる。
 さらに指摘したいのは、オリジナルのモノラル盤では、この曲はとても唐突にブツッと切れる感じで曲が終わるのだが、ジャイルズの行なった今回のリミックスはどちらかというと自然なエコーで終わるステレオ盤の終わりかたに近いほうを採用していることだ。
 要するに、「モノラル盤の単なるステレオ化」、という狭義な目的でこのリミックスは作られていない、ということになる。 極めて柔軟な判断のもとで、ジャイルズはいちばんいい方法を模索しているのだ。

 8. ウィズイン・ユー、ウィズアウト・ユー

 アナログレコードのB面1曲目。 このアルバムでは唯一のジョージの曲だが、ジョージのキャリアの中では最も完成されたインド音楽影響下にある曲で、故に抹香臭くこのアルバムの中ではもっとも異端で敬遠されるタイプの曲だ。
 しかしこの曲の優れたところは単にインド楽器だけで演奏されているだけでなく、これにインド音楽の音階とうねりを強く意識したオーケストラが絡んでくるところなのだ。
 その絡み合いのスリリングさがもっとも味わえるのが、5拍子で展開する間奏部分なのであるが、今回のリミックスではその楽器のひとつひとつの音が粒立ってとてもエキサイティングに生まれ変わっている。 特にインドの打楽器であるタブラのドゥウーンといううねった重低音が、従来では左チャンネルから極めて狭いレンジで聞こえていたのが左から中央あたりまで広がって聞こえるから、ビートが強調されているように感じられるのだ。
 エンディングで聞かれる、インド楽器演奏者たちのものと思われる笑い声もモノラル盤に準拠しているが、妙に引き笑いが露骨な感じだったものが軽減されている気はする。

 ともあれ、この曲が旧B面1曲目に、そしてこのアルバムのなかの1曲として採用されたことに、私たちはもっと注意を払わねばならないように私などは思う。 それは当時のイギリスとインドの関係を見れば理解のできる程度の必然性を伴っていることは確かだが、メンバーの中でいちばん年下だったジョージの目はサマー・オブ・ラヴのノーテンキで無責任な処世術からとっくに目をそむけ、人間は何を律し何をなすべきなのかという内面的な世界に没入していたのだ。

 9. ホエン・アイム・シックスティー・フォー

 このアルバムのセッションでいちばん最初に着手された曲。 厳密には先行シングルのはずだった 「ストロベリー・フィールズ」「ペニー・レイン」 より後だが、前のアルバム 「リボルバー」 のいちばん最初のセッションがあの前衛的な 「トゥモロウ・ネヴァー・ノウズ」 だったことを考えるとかなり大人しい感じがする。 つまりこの曲自体が、アルバム全体を先に言及した 「ジム・マックス楽団」 の路線でいくことの宣言のようになっているように思えるのだ。 ビートルズはビートルズであることを、ここではっきり拒絶した。 だからいつもにない発想の 「ゲッティング・ベター」 や 「ミスター・カイト」 が生まれたのだろう。 ジョンがポールのこの企画に乗ったのも、キリスト発言やツアーの無期限終了宣言で 「ビートルズであること」 に根本的な疑いを生じていたからなのだろう。

 この曲における大きな変更は、左から聞こえていたポールのヴォーカルが中央に配置された、ということくらいで特に目立った印象の違いはないように思える。 この曲の従来のステレオバージョンは、もともとかなり各楽器の分離がいい部類に入るからだ。
 ただしコーラスはきちんと広がってリミックスされており、ここにジョンやジョージの存在を確実に感じることができるのも事実だ。

 10. ラヴリー・リタ

 リズム隊が中央に配置され、コーラスが縦横に広がるというのはこれまでと一緒だが、この曲で常に鳴っていた印象のあるピアノがかなり引っ込んだために、イントロではこれまで以上にギター(エレアコ?)の絡み合いがはっきりと分かる。 傾向が同じだから説明するのに飽きてきたな(笑)。 ただこのアルバムの中では、いちばん 「ペパー楽団」 ぽくない、ビートルズっぽい曲のような気は昔からしている。

 11. グッド・モーニング・グッド・モーニング

 「ミスター・カイト」 と並んで、私がこのリミックスのなかでもっとも白眉だと思う曲。

 特にイントロ、ニワトリの鳴き声に続いて飛び出す重低音が凄すぎる。 なんだろうこの、バスドラ以上に響いてくるこの爆発音は。 各楽器の聞こえるレンジを広げる、という今回のリミックス最大の特徴がこの曲では最大限に発揮され、かなりハードロックな1曲として主張し出した。
 凄い。
 凄い。
 ただひたすら、凄い。
 かつて 「イエロー・サブマリン・ソングトラック」 でリミックスされた 「ヘイ・ブルドッグ」 が曲に新たな生命を吹き込まれたように、いやそれ以上に 「ジョンが自らクサすようなただの曲」 が生まれ変わったのだ。 その瞬間に立ち会えたことに感謝する。 ご託は要らん、まず大音量でこの曲をスピーカーで聴くべきだ。
 こういう蘇生の仕方が出来るのならば、全部のアルバムをリミックスしまくってもらいたい。 そしてそれこそが、21世紀に聴き継がれていくビートルズの、新しい 「ステレオスタンダード」 になっていくことだろう。 2009年のステレオリマスターが、霞んでくる日が来ようとは思わなかった。 これはビートルズフォロワーとしては、大事件の部類に入る衝撃だ。

 12. サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(リプライズ)

 この曲はいちばん変更が少ない曲ということになろうか。 ただし原曲がかなりストレートなロックナンバーなので、別に大した問題ではないし、いじるほうが悪い部類には入るだろう。 ただし観客の歓声には広がりが生まれ、ジョージのリード・ギターも心持ち左寄りに配置された。 元のステレオミックスでは楽器が中央の狭いレンジでなっていたのでここは改善点か。

 13. ア・デイ・イン・ザ・ライフ

 このアルバムのなかで最も問題曲であるが、旧ステレオバージョンでは右から中央に移動してくるジョンのヴォーカルが、中央に固定。 代わりに中央で鳴っていたリンゴのベスト・プレイとも思えるドラムが中央よりやや右に配置された。 そのせいかもしれないが、リンゴのドラムのレンジがヤケに広い気がする(耳の錯覚だろう)。 徐々に盛り上がるオーケストラの背後では、従来のモノラル盤でもよく聞こえていた、ローディのマル・エヴァンスのカウントする声が、さらによく聞こえる。

 ミドル部分のポールのヴォーカルも、従来の右から中央に変更。 ポールの歌が終わると入れ替わりで入ってくる 「アーアアアー、アアアー、アアアー」。
 余談であるがラジオ日本の番組 「ビートルズ10」 ではこの 「アアアー」 を歌っているのが誰なのか、ちょっとした論争になっている(笑)。 私も最初は 「ジョンだろ、バカバカしい」 と思っていたのだが(爆)、なんかポールの声にも聞こえるし、挙げ句にジョージの声にも聞こえてくる始末で(笑)。 今回このデラックスエディションのCD2を聴くと、なんかジョンのヴォーカルだけが入っている段階のテイクで、ジョンが 「アアアー」 と歌ってない(さらに、ポールのヴォーカルが入っているテイクでも 「アアアー」 が入ってない)。 キイが高いからあとから入れた、と考えられるが、いったい誰なのか謎が却って深まった気がする(笑)。 MCのカンケサンはポール説を主張して、「ジョンにはあの高いキイは出ない」 と言っていたが、ジョン、かなり高いキイ出せますよ。 まあ時代は違うけど、ソロ時代の 「心の壁愛の橋」 のなかの1曲、「ホワット・ユー・ガット」 なんか、かなり高いキイですってば(笑)。

 それはそうと、この 「アアアー」 がまたはっきり聞こえるんだな、今回のリミックス。 表現するのが難しいけれどあえて書くと、「アーアアアー、アアアーアアアー」 のあとに、「アーアーアー」 と歌ってるのが、今まで聞こえなかったんだけどこれが聞こえる。 そしてそのバックで鳴るオーケストラの低音が、これまた今回よく響いているんだな。

 そして 「アアアー」 の旅から戻ってきてジョンが再び歌い出す3番、従来では左チャンネルからなのも中央に固定。 そしてエンディングに向けてこの曲はひたすら盛り上がり続けるのだが、最後の5台のピアノによる(4台だったっけな)「ガーン」(この効果音に関しても 「ビー10」 では諸説あり…笑)。 これが今回はかなり強調された。 まさに 「ガーン」 である。

 そして 「ガァーーン…」 が消えるその直前、異音が少しするのだが(笑)これはピアノの椅子の軋みであると言われている(笑)。 ビートルズフォロワーはこういう、「どーでもいい音」 にまでこだわってしまうがために、レコード会社(だから最近じゃなんていうのこういう会社のこと)の 「重箱つつきたい」 マイナーチェンジにまんまと引っ掛かってしまうのだ(笑)。 しかしヴォリュームを最大にしても、今回のリミックスでこの 「椅子の軋み」 が聞こえなかった(気がする…笑)。 こういうところで 「雑音」 というのは、ビートルズの場合あり得ませんからジャイルズさん(笑)。


おわりに


 とりあえず現在のところはこんなところだ。 私はまだスペシャルパッケージをとことんまで味わっていない。 解説もポールとジャイルズのところしか読んでないし、写真満載のブックレットなどパラパラめくった程度。
 CD2以降のアウトテイク集は、1回聴いたがこれまでにその商魂たくましいところでリリースされ続けてきた先行盤でオイシイところをほぼ出しちゃってたために、ショボいテイクしかなかった気がする。 同じ内容のDVDとブルーレイの両方が入っていることで、「同じものなんか要らん」 という意見もあるようだが、私の場合クルマのなかで聴くにはブルーレイが使用できないので却ってDVDの存在が有り難かったりする(これで 「ビートルズ1+」 のブルーレイが車内で聞けない、という憂き目に遭った前例から)。

 それと、CD1のオリジナルアルバムジャケットよりも、CD2、3のボツジャケットのほうが画質がいいというのはちょっと複雑な気分になる。 オリジナルのジャケットの元となるネガは、もう存在しないのだろうか? 「ストロベリー・フィールズ」 などのプロモーション映像まで4K画質で綺麗にした技術で、オリジナルジャケットも綺麗に生まれ変わらせてほしかった気がするのだ。 もともと極彩色のアルバムジャケットなのだ。 旗オビ時代に買った(いや、正確に言うと母方の伯父さんに買ってもらった)私のLPレコードでは、ちょうど右端の 「ウェルカム・ローリング・ストーンズ」 の人形の部分で写真が切れちゃっているのだけれど、今回きちんとアナログ盤で端まで写っているのを購入しただけに、画質が旧盤と同じ、というのはちょっとな、とは思う。

 それから最後に、このスペシャルパッケージの価格についてだが、アマゾンレビューなどでは 「高過ぎる」 という意見が散見される。 確かに原価で19,000円くらいするのはあまりと言えばあまりなのだが、どうも近年、ポール・マッカートニーのアーカイヴシリーズにおけるスペシャルパッケージの値段のあまりの暴騰ぶりで免疫がついてしまっていたせいか、今回あまり高く感じなかった(ハハ…ハハ…)(なにしろ最新のやつで28,000円なんですよアータ)。 いずれにしてもこういう 「いたいけな」 ビートルズフォロワーのおかげで暴利をむさぼっているレコード会社には、そのうち天罰が下るであろう(ハハ)。

2017年4月29日 (土)

「ザ・ビートルズ史 誕生(上)」 ビートルズ研究第一人者による、容赦のない徹底的な歴史本

 ビートルズ研究においては世界中を見回してもトップであろうと思われるマーク・ルイソン。 かつて彼はアビイ・ロードに保管されたビートルズのレコーディングテープのすべてを聴くことを許され、「ビートルズ・レコーディング・セッション」 という究極の記録集を世に出した。
 この本が日本で出版されたのは1990年のことだが、私が肌ではっきりと感じるのは、ビートルズ関係の書籍において明らかに 「レコーディング・セッション前」 と 「レコーディングセッション後」 では内容が一変した、ということだ。 「レコーディング・セッション」 の内容を基に彼らの音源を聴くと、さらに細かい分析が可能になったのである。

 それまでのビートルズ研究というのは初期のマネージャー的役割を果たしたアラン・ウィリアムスの 「ビートルズ派手にやれ」 とか、ビートルズ解散直後に出されたジョン・レノンへのインタビュー本、「ビートルズ革命(現在は 「回想するジョン・レノン」 と改題)」、さらにレノンが射殺される直前に行なった数々のインタビュー本に多くが依存しており、それらの向こうにはビートルズ活動中に唯一彼らの公式認定伝記として書かれたハンター・デイヴィスの 「ビートルズ-その誕生から現在まで」 が鎮座ましましていた。 これは彼らやその関係者に対する徹底的なインタビューで構成されたものであり、その点で作者の余計な主観の入り込む余地のない優れた伝記だった。

 ハンター・デイヴィスのそれはしかし、サージェントペパーズ(1967年)の頃に書かれたものであり、彼らの活動半ばまでしか記述がない(その後あとがきによっていくらか補完はされたが)。 したがって本編中に当然ながらオノ・ヨーコは出てこない。
 さらに都合の悪いところを次々と削除させられたせいで彼ら自身から 「きれいごと」 と揶揄される始末で(その要請が彼らから出たものもあったにもかかわらず)、資料としては当時最強でありながら、内容的には極めて不満足なものだったと言える。

 当時は圧倒的に情報がなかったからこそ、それらの本に書かれた事実を探りながら、ビートルズ論というのは必然的にその社会現象であるとか絶大な影響であるとか、精神論に傾いていたような印象がある。 時代背景から考えても、ビートルズというのは同時代に生きた若者たちに対して、思想的な変革という部分でより重要だったから、これは当然の結果なのだろう。
 音楽そのものに対する研究というのはその資料の乏しさからさらに絶望的で、1979年にCBSソニー出版から発売された 「ザ・ビートルズ・サウンド」 という本(当ブログビートルズの項ではたびたび言及しているが)が精一杯、といったところだった。

 それが、ルイソンの著した 「レコーディング・セッション」 では、レコーディングテープをすべて聴いた上に当事者たちへの聞き込みによって、彼らのレコーディングにおける活動がはじめて立体的に目の前に出現したのである。 私にとってもこの本は衝撃的だった。 現在ではネットを広げればウィキペディアをはじめとして、ビートルズの情報というのはあまりに膨大で飽和状態である、とも言えるが、そのようなカルト的な研究の端緒を切り拓いた、という点でこの 「レコーディング・セッション」 は重要な本なのである。

 そしてルイソン氏はもうひとつ、「ビートルズ全記録」、という詳細な記録集を世に出した。 今回の 「ザ・ビートルズ史」 というのはこの本の発展形である、といえよう。 「全記録」 は、赤盤青盤で立川直樹氏がまとめたビートルズ年表のかなり詳細バージョン、といったコンセプトだった。

 今回 「全記録」 と決定的に違うのは、ダイアリー形式でなく読みものになっている、という点もそうだが、これまで世に出た(おそらく)ほとんどすべての文献、証言についてルイソンがその真偽を徹底的に調査し考察を加えている、という点にある。 そのすべてが現在考えうる限り、「容赦なきまでに徹底している」。
 まず関係者へのインタビューの敢行。 ビートルズのロード・マネージャーだったニール・アスピノルや先ほども話に出たアラン・ウィリアムズは近年次々と亡くなっているから、ルイソンの行なったインタビューはリミットぎりぎりだった感がある。 ビートルズの当事者たちの記憶は、すでに歴史の彼岸へと埋もれつつあるのだ。
 ビートルズに深く関わった人たちだけではない。 ジョンの家に居候していた学生であるとか、取るに足らないように思えそうなレベルの同級生の証言、当時のファンの女の子男の子のひとりひとりにまで取材を重ねている。 ちょっとでも彼らを見知っている人ならそのすべての人に会っている、ということが、この本を読んでいると見えてくるのだ。 そしてその証言ひとつひとつに対して真偽を考察している。 この徹底ぶりは他の追随を許さない。 「誰がこれをやって、誰があれをやってって、その場にいたわけじゃないのにどうしてわかるんだ?」 とポール・マッカートニーは(目下のところ)最新アルバムのなかの一曲(「アーリー・デイズ」)で歌ったが、この本はその問いかけに最大限回答しようとしている。 しかも多数の証言を付き合わせて考察を行なっているのだから、当のポールの記憶よりも正確だ、という可能性すらあるのだ。

 さらに本書の容赦なき徹底的な部分は、公的文書はもとより、当時世に出回った全国紙地方紙(特に彼らの出身地リバプールを中心としたもの)を隅から隅まで読み倒してビートルズに少しでも関連のあるものをピックアップしている点だ。 この作業を考えると本当に気が遠くなる。 このことによって、彼らがどのように世に出ていくかの時代的背景、および必然性が浮かび上がってくる。

 と同時に、それがまったく必然性を伴ったものでなかったことも浮かび上がるように私には感じられた。 つまり、「彼らのやる気」 についての移ろいである。

 彼らは下積み時代、自分たちが意気消沈した時に 「俺たちはどこを目指しているんだい?」「そりゃ、ポップ界のトップ(トッパーモスト・オブ・ポッパーモスト)さ!」 と自らを鼓舞しモチベーションを保ち続けたという有名なエピソードがあるが(この掛け合いの元ネタとなった話までこの本では発掘されている)、実は彼らのやる気にはかなりムラがあり、一直線にポップ界のトップを狙うような姿勢には至っていなかったことが見えてくるのだ。

 この本の上巻で彼らの学生時代を縛りつける重要な試練として、イギリス特有の教育制度であるGCE試験(全国統一試験)、というものがたびたび言及される。 それに従って彼らは自らの将来をどのように決定していくかの岐路に立たされるわけだが、特にジョンやジョージについては、明確な将来のヴィジョンを持っていたとはあまり思われない。 ポールだけは 「常識人」 である父親の影響下で何らかの策を講じていたことが想像されるが(下巻においてポールはほんの一時期マジメに働いていたことが判明する)、ジョンとジョージは 「まああわよくば音楽で有名になって、とは思うけどそんなに世の中甘くないだろうしね」 程度の認識でバンド活動を続けている 「根なし草」 状態だったことが分かる。 ただし根拠のない 「有名になる確信」 だけはあったが。

 彼らが世界一のバンドとして世に君臨するのはほんの些細な偶然の集積によってであり、そこには 「運命」 というものが大きく横たわっていた。 この本を読んで初めて知ったのだが、彼らはイギリスの徴兵制度から解放された最初の世代だった。 彼らが徴兵されていたら、一体どんなことになっていたのだろう。 これも、「運命」 のなせる技だったのかもしれない。

 ハンター・デイヴィスの伝記やその後決定版と言われたクロニクル 「アンソロジー」 本は、ユニットとして集まってくる以前の記述は個別に行なわれていた。 だが本書はかなり遅れて合流してくるリンゴも含めて、同時期のことは4人ともまとめて書いてある(本書上巻ではリンゴはまだビートルズには加わるところまで行かない)。
 そこから初めて浮かび上がってきたのは、ほかの3人とリンゴとの人生の質の違いだ。 リンゴは幼い頃とても病弱で、ずっと病院暮らしをしていた。 同じ時期にほかの3人は、多少の貧富の差があったとはいえ比較的幸せな少年時代を送っていて、いちばん年上のリンゴが 「ひとり負け」 状態だった。
 それが、退院して働き始めてからのリンゴは逆に仕事に恵まれ、「ひとり勝ち」 状態になっていく。 これは個別に書かれていたのではなかなか気付かない興味深い比較だ。 リンゴはバンド活動にも恵まれて、時系列的にビートルズのメンバーの中では真っ先に車を買うほどの勝ち組となるのだが、実は無免許だったことも(笑)この本で初めて知った。

 法的に問題がある、という部分こそはデイヴィスの伝記で削除された部分であったが、本書にはその手かせ足かせがない。 だからジョンがあらゆる店で万引きをしていたことも包み隠さず語られるし、カレッジスクールの備品にあったアンプを 「拝借」 してしまったことも書かれてしまう(もともとそのアンプ自体をジョンのゴリ押しで学生自治体が購入した経緯まで書かれている)(そしてそのアンプの末路まで)。 ここに書けないようなことも容赦なく書かれている。
 その最たるものが、のちに彼らのマネージャーとなるブライアン・エプスタインが若き頃に逮捕された、という事件である。
 ここでルイソンの行なった新聞読み倒しが大きく生きてくる。
 新聞にこの事件の経緯が書かれていたせいで、この事件は客観的にここに暴露されることとなった。

 新聞の読み倒しの効力は、ジョンの実母であるジュリアの交通事故死についても大いに発揮されることとなった。 その事故の数週間前にジュリアの名目上の夫がしでかした事件がジュリアの死に関わってくることになるのだ。 ジョンの自宅に住んでいた学生への取材も、ここで生きてくることとなる。 ジュリアの死に関するくだりは、本書上巻のひとつのメインである、と言えるだろう。

 しかし同時に、ジュリアの死からジョンの気持ちの動向があまり読めなくなってくる。

 これは周知のようにジョンが早くに死んでしまったことによるものだが、膨大なインタビューを生前にジョンが受けているにもかかわらず、ジュリアの死がもたらしたジョンの精神への影響は、あまりにも本人から語られていないのだ。 それは後世から類推するしかないが、ジョンの精神状態が分からない、ということはすなわち、ジョンはその哀しみを自らの心の底に沈めてしまったことを意味する。 この事故から数週間のち、ジョンの行動は目に見えて以前よりさらに悪くなり、攻撃的かつ辛辣になっていくのが本書を読んでいると分かる。

 本書が 「容赦がない」、というのはジョンのことばかりではなく、ポールの性格についても同じことが言える。 ルイソンはポールがメンバーの中では最もふつうの良識を持った人物であることをあぶり出しているが、同時にポールの慎重さ、出しゃばり方、嫉妬、仕切り癖、攻撃性なども白日のもとにさらけ出した。
 これはのちに展開する彼らの解散への経緯を考えると、すでに少年時代からその芽が育っていたことを想像させるものだ。
 本書ではジョンの即決性、過去にあったことに拘らない切り替えの速さなどにも言及しているが、オノ・ヨーコが現れたときのジョンの行動が説明出来るし、ここにポールの性格をぶつけさせたときにポールがどのように対処するのか、という回答も出ているように思われるのだ。

 本書の弱点、というのもまさにこの点にあるように思われる。 容赦なさ過ぎて、情報の多さにときどきついていけなくなるのだ。

 この本の上巻は、正直なところかなり読みにくい。

 私のように、ビートルズに関して強い興味のある者、またはビートルズについてかなり知っていると自負している上級者(自分で言うか)同志でないと通じない表現がそこかしこに見られる。
 それでも、この取材力のあまりの膨大さから登場する人物も想像を絶する多さで、誰がどうして誰がこうして、ということを追うのがとても大変なのだ。 私などは途中から 「これは人物関係図でも作らなければ」 と思ったのだが、途中から諦めた(笑)。
 その人物でも、例えばリー・イーストマンという名前が突然出てきたりするが(これは下巻になるが)、ビートルズファンならばこの名前にはピンと来るはずだ。 のちにポールの妻となるリンダの父親の名前だからだ。 しかしそれが無造作に挿入されていたりする。 ビートルズファンは 「リンダの父親がこの頃から既に…」 などと思うことだろうが、「ビートルズの歌が好き」 くらいのファンでは素通りする部分だろう。

 また、「バスの2階に座ってタバコを吸い…」 の部分は傑作 「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」 を容易に想起させるものだが、これもマニアックな表現部分だ。 実はこんな表現ひとつひとつに、私みたいなどうしようもないファンは立ち止まってしまうのだ(笑)。 ビートルズを知り尽くしているルイソンだから出来るこのような遊び。 正直迷惑である(笑)。

 そしてやはり、ヴィジュアル的な部分でこの本は弱い。
 上下巻で1600ページ以上となる膨大な情報量がメインであるから仕方のないことだが、先に述べた 「アンソロジー」 本などを傍らに読めば、イメージが湧きやすくなるのではないか、という気もする(このようなマニアックな本を購入する人は、「アンソロジー」 もすでに買っているはずだから…笑)。

 1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。
 本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである。

2016年3月17日 (木)

「5人目のビートルズ」 サー・ジョージ・マーティン死去

 2016年はその初頭から洋楽における重要なヒーローたちの死が続いて、洋楽ファンにとってはまるで厄年のような年だ。 そして3月8日、我々ビートルズファンにとっては 「近い将来必ず来るであろう」 と危惧されていた、ひとりの名プロデューサーの死を聞かされることになった。
 サー・ジョージ・マーティン、享年90歳。
 死因は今のところ明らかにされていないが、比較的早死にが多いビートルズ関係者の中では、大往生の域に入る。

 その死を伝えるニュースで目立った彼に対する形容に、「5人目のビートルズ」 というものがある。 これはまことに的確な表現ではあるが、ビートルズファンの私に言わせれば、その形容に値するもうひとりの人物は、マネージャーのブライアン・エプスタイン(1967年死去)だ、ということになる。
 要するに、このふたりがいなければ、ビートルズはミュージック・シーンに出てくることはなかったし、またあれほどの伝説的なスーパーバンドとして、世界に君臨することはなかったであろう、という意味でだ。

 ブライアン・エプスタインは彼らをイギリスの片田舎で見いだし、彼らのマネージャーを申し出、彼らをレコード会社に売り込もうと腐心し続けた。
 しかし1961年当時、世の趨勢はロックンロールなどもう時代遅れ、メロウなミュージックが主流を占めていた。
 そんな時に彼らを言わば 「拾った」 のが、EMIのジョージ・マーティンだった、というわけだ。

 もともとマーティンにとってビートルズというグループは、「別に売れようが売れまいがどうでもいい、当たればそれはそれでラッキー」 というレベルだったのだろうが、まあ大手レコード会社デッカのオーディションに落ちるくらい 「落ち続け」 のバンドだったから、それくらいの誇張はレジェンドにとって不可欠な要素だろう。
 しかし採用するんだから、彼らに商品的価値を見い出さなかった、というわけではけっしてない、と思うのだ。

 その 「落ちこぼれ」 バンド採用に際して私が注目するのは、ジョージ・マーティンがもともと、スパイク・ミリガンとかピーター・セラーズ(ピンク・パンサーのクルーゾー警部で有名ですね)とか、コメディ・レコードのプロデューサーを務めていた、という点だ。
 その彼が、ビートルズとの最初の打ち合わせ終了時に、ジョージ・ハリスンに言われたことが彼のユーモアセンスと合致したことが大きいのではないか。 有名な話なので割愛するが…いやマニアの間でだけ有名なので(笑)とりあえず紹介すると、「なにか問題はないか?」 とビートルズに尋ねたら、「あんたのネクタイが気に食わない」 と言われた、というエピソードである。

 その話ひとつだけでは到底弱い気もするけれど、元来ビートルズのメンバーというのは皮肉やウィットに富んでいたから、会話の端々にマーティンが彼らのユーモアセンスを感じ取った、としても不思議ではないだろう。
 また、彼がEMIに就職するまでの道のりは、かなり紆余曲折を経ている。 要するに、仕事に 「面白さ」 がなければやりがいを感じない、というタイプの人間だったことは言えるのではないだろうか。 その彼がビートルズに、「面白さ」 を見い出した瞬間、歴史の歯車は大きく動いたのだ。

 もうちょっと突っ込むと、このエピソードで引き合いに出されているのが、ジョージ・ハリスンの言葉だった、ということも興味深いものがある。

 なぜなら、ビートルズのメンバーはジョン・レノンもポール・マッカートニーも英国人特有のユーモアセンスを持ち合わせているとは言うものの、初対面に近いマーティンに向かって 「アンタのネクタイが…」 などとはあまり言わなそうな気がするからだ。 ジョンなどはどちらかと言えば内向的な性格が表に出てしまうような気がするし、ポールに至ってはそのコマーシャル的な性格であまりひと様を皮肉るという発想が 「その時点では」 出てこない気がする。
 その点ジョージ・ハリスンはメンバーの中でいちばん若く、テディ・ボーイの精神をいちばんその時点で引きずっていたように思える。 若いからムチャするんだよな(笑)。 しかもユーモアに対するリスペクト度は人生を通じて高いし(笑)。

 ジョージ・マーティンのビートルズにおける仕事を俯瞰してみると、彼が彼らの音についてOK GOサインを出す基準は、「より荒々しく勢いのある音」 であったように私は感じる。

 多少のミスなどは気にしない。
 その姿勢はいちばん初期に当たる 「プリーズ・プリーズ・ミー」(デビュー第2弾シングル曲)ですでに顕著だ。

 今日ではこの曲はデビュー曲の黒っぽい 「ラヴ・ミー・ドゥ」 とはまったく違った路線のように思える。
 しかしもともとは、ロイ・オービソンのようなイメージの、スローなナンバーだった。 この曲をスローなイメージで頭のなかで再構築してみるがいい。 実際は 「ラヴ・ミー・ドゥ」 路線の黒っぽさを継続していたのではないか、という気にさせるだろう。
 しかしマーティンは、この曲のテンポを上げるという提案を、ビートルズに対してしてきた。
 彼らはそれに同調した。
 この時点でビートルズとマーティンのあいだには、すでに波長の合致が見られる。
 それは、デビュー曲にまつわるせめぎ合いが関係しているように、私には思える。

 彼らのデビュー曲に、マーティンは他人の書いた曲(「ハゥ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」)を用意してきたのだが、彼らは頑として自分たちのオリジナルでデビューすることにこだわったのだ。
 「ハゥ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」 は現在 「アンソロジー1」 で聞くことが出来るが、「結構ヌルい」(笑)。 おそらくヒット性はあった。 当たり障りのないいい曲、という印象なのである。 そして彼らも、これもいちおう仕事、と割り切って、きちんと演奏している。 そこらへんはプロの意識が既にある。

 しかしビートルズは、より玄人受けするような 「ラヴ・ミー・ドゥ」 を使いたい、と主張したのだ。 マーティンはそのとき、なにを感じたのだろう。

 「ま、当たってナンボだからい~か」(?…笑)。 そこにいい加減さがなかった、とは言えまい(笑)。 しかし彼は如実に、このグループの 「こだわり」 というものも肌身で感じたに違いないのだ。

 それに対してマーティンも、自分なりの 「プロのこだわり」 で応じているように思える。
 すなわち、ドラムのダメ出し、である。

 まずこの 「ラヴ・ミー・ドゥ」 のレコーディングの最初は、ドラマーがピート・ベストのときに行なわれている(その時点ですでにこの曲をデビュー曲にしよう、というせめぎ合いがあったかは不明だが)。 しかしマーティンは 「ドラムがまずい」 と一蹴。
 ピート・ベスト・バージョンも 「アンソロジー1」 で聞けるが、なるほどテンポは一定してないしいかにもシロートっぽい。

 しかし、また話が脱線してしまうが(笑)「ラヴ・ミー・ドゥ」 という曲、間奏部分で彼らは、テンポを意図的に変えているように、私には聞こえるのだ。
 それと同じ発想の曲が彼らにはある。 「アイ・コール・ユア・ネーム」 だ。 この曲、間奏部分でいきなりリズムが変わって、スカ・スカになる。 「アンソロジー1」 のピート・ベスト・バージョンの 「ラヴ・ミー・ドゥ」 ってそれに似てないか。 テンポを間奏で意図的に変えるって、かなり難しいように思えるんだが(笑)。

 マーティンのドラムダメ出しに対して、ビートルズはピート・ベストをあっさり解雇。 まあおそらく、当時メンバーの中ではいちばんいい男で人気のあったピートをどーにかしよう、という気もあったのだろうが(笑)、ここで担ぎ出されたのが、リンゴ・スターだった、というわけである。

 ロリー・ストーム・アンド・ザ・ハリケーンズというリバプールきってのバンドのドラマー、リンゴを引っ張ってきてレコーディングは再開されたが、マーティンの判断はまたもや 「NO」。 結局アンディ・ホワイトというセッションドラマーを連れてきて 「ラヴ・ミー・ドゥ」 は完成された。

 これって、かなりゴタゴタの末の完成だ、と私は思うのだが。

 ただそれによって、マーティンが当時していた仕事のなかでビートルズの占める意識の割合、というのは、しょっぱなからかなり大きくなった、と言えるのではないか。
 「プリーズ・プリーズ・ミー」 をテンポアップさせる、という発想は、だから彼らの 「勢い」 をレコードに刻みたい、という思いから生まれたものであるように、私には感じられるのだ。
 現にこの曲の中で、ジョンとポールのコーラスで歌詞がバラバラな部分があったりする。 そのミスをそのままレコードにした、ジョージ・マーティンの意図に、思いを致さざるを得ない。 そして同曲で、彼らはブレイクした。

 彼がクラシックの素養を持ち合わせていたことも、ビートルズにとっては大きなステップの要素となった。
 初期の頃からピアノで彼らのレコーディングに参加することの多かったマーティンだが、そのクラシック的才能のもっとも早い披露は、ポール稀代の名曲 「イエスタデイ」 に最大の貢献を見せる。

 この曲の弦楽四重奏のスコアは今聞いてもまったくすごい、としか言いようがない。
 それをダブルにして八重奏にし、ロック的要素を加味したのが 「エリナー・リグビー」。 この曲の弦の響きはあくまでスタンダードな 「イエスタデイ」 と比べてアタック音がかなりダイレクトだ。 マーティンはそれをなんとかの影響、と言っていた気がするのだが、今ちょっと思い出せない(笑)。 いずれにしても、マーティンのクラシック的素養がビートルズのアレンジメントに影響を与えていく様は非常にエキサイティングだった。

 そのストリングスアレンジの最も昇華したものが、「アイ・アム・ザ・ウォルラス」 だったことは納得いただけるのではないだろうか。 グリッサンドの応酬みたいなあの気味の悪いストリングスは、ジョン・レノンの現代音楽に対する大きな扉を開いているように、私には思える。
 テープ・スピードの調整による別アレンジの結合、といった離れ業もやってのけている。
 「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」 である。
 今ではMPEGだかなんだか、機械が簡単に 「音程を変えずにテンポを変える」 とかやってくれるご時世なのだが、当時はスゲーアナログな方法でそれを実現した。
 もともとジョンが 「こっちのアレンジもいいけどこっちのもいい、ふたつつなげてくんない?」 というムボーな要求をしたために(笑)マーティンはそれをしなくてはならなくなったのだが、重要なのは、マーティンがそれを 「面白がって」 実行した、ということだ。

 特にジョン・レノンのムボーな要求、というのは彼のモチベーションを高めたはずで、それがビートルズの音作りに多大の貢献をしたことは、あらためて言うまでもない。
 「ストロベリー・フィールズ」「ウォルラス」 などは、現代のアーチスト表記法で言えば 「ジョージ・マーティンfeat.(フィーチュアリング)ビートルズ」、となってもおかしくないほどの貢献度なのである。

 最近発表されたリミックスバージョンの 「ザ・ビートルズ1」 では、息子のジャイルズ・マーティンがステレオ・バージョンの音配置を大幅に現代用に直したが、この発想もすでにCD出始めの時代に彼によって始められていた。
 すなわち、1960年代のステレオミックスというのはステレオ効果を大々的に強調するために、演奏左ヴォーカル右、みたいな極端なことがなされていたのだが、それをLP 「ヘルプ!」 と 「ラバー・ソウル」 で彼は自然な聞こえ方に直したのだ。
 結局その作業はこの2枚のアルバムで終わってしまったわけだが、今回の 「ビートルズ1」 は未来に向けてジャイルズがその父親の作業を引き継いだ、ひとつの過程なのだ、と私は位置付けている。

 ジョージ・マーティンが生前、ビートルズの仕事でいちばん最後に行なったのは、マッシュアップアルバム 「ラヴ」 において、「もうひとりのジョージ」、ハリスンの遺した 「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」 のギター1本で歌われる美しいデモ・バージョンにつけた、ストリングススコアだった。 それはかつて彼がアレンジメントで駆使したスリリングさに欠けてはいる、とは言うものの、その旋律は故人に寄り添うように、限りなく美しい。

 かつて 「アンタのネクタイが気に食わない」、と憎まれ口を叩いたジョージ・ハリスンと、今ごろマーティンは天国でどのような会話を交わしているのだろうか。

 レスト・イン・ピース。 サー・ジョージ・マーティン。

2015年1月19日 (月)

桑っちょの不敬事件について

 サザンオールスターズの桑田サンが、年越しライヴで行なった一連の行動に批判が集まり、本人が謝罪する騒動に至りました。
 そのこと自体については、「まあやり過ぎちゃったかな」 という程度のことしか申せませんが、桑田サンがそのような行動に至った背景は、私なりになんとなく解説できるかな、という気はしています。 まあ的外れかもしれませんけどね。

 特に今回の行動のなかで、勲章に対する不敬、という点においては、桑田サンが多大なる影響を受けているビートルズ(とりわけジョン・レノン)と、吉田拓郎サンが原点にある気がする。

 ビートルズは1965年にM.B.E.勲章というものを本国でもらったのですが、それをジョン・レノンはビアフラ紛争にイギリスが介入したことに抗議して、1969年だったかに返還しています。 ビートルズのなかで勲章を突っ返したのは、ジョン・レノンのみ。

 M.B.E.勲章自体はイギリスでは最も初歩的な勲章じゃなかったかな。 もともとの授与理由というのはビートルズが世界的に有名になって外貨を英国にもたらした、ということだったらしいけれど、当時はロックバンドみたいなチャラチャラしたのが受章したのが初めてだったので、軍人であるとか過去の受章者からかなり突き上げがあったらしいです。

 ジョン・レノンがその勲章を返還したことについて、よしだたくろう(当時ひらがなでした)サンは1973年に 「ビートルズが教えてくれた」 という曲の中で取り上げています。 まあ、この曲の作詞者は岡本おさみサンだったんですけどね。 よしだたくろうがこの内容の曲を歌うことに意味があるのだ。

 歌詞を一部無断借用してみましょう。

 「勲章を与えてくれるなら 女王陛下からもらってしまおう
 女王陛下はいい女だから つきあってみたいと思う
 それも自由だとビートルズは 教えてくれた
 くれるものはもらってしまえ ほしいものはモノにしたい
 その代わり捨てるのも勝手さ もらうも捨てるも勝手さ」

 こういう一連の 「勲章に対するイメージ」、というものが、ビートルズとよしだたくろうに心酔した者にどのような影響を与えるかは、推して知るべきでしょう。
 まあ、今回の勲章に関する不敬に関して、「そりゃ桑田とジョン・レノンとは次元が違うだろう」 ということになるのかもしれません。
 けれど、ジョン・レノンにしたって勲章を返還するときの理由として、ビアフラ紛争とベトナム戦争のことを引き合いに出すいっぽうで、同時に当時の自らのソロ・シングル 「コールド・ターキー」 がチャートを落ちてきたからそれにも抗議する、とか(笑)いうのもあって。
 これって英国流ユーモアかもしれないけれど、そこにはジョン・レノン自身の 「別に国から褒めてもらう必要なんかねーよ」「勲章もらってありがたがっている連中と俺は違うんだ」 という気持ちみたいなものも、垣間見える気がするんですよ。

 ジョンにとって勲章返還の理由は、なんでもよかった。
 ただ当時彼が本腰を入れていた 「戦争に抗議する、平和を訴える」、という手段のひとつとして勲章返還を利用しただけであって。

 そこには立派な理由も存在するかもしれないけれど、国から褒められたまんまでいると好きなことも国に対して言えないんじゃないか、という彼の危惧も読み取れるし、それをごたいそうな理由で返還しようということに対して、彼独特の恥じらいもあったような気もする。

 ビートルズが壊してきたのは、こうした既成の慣習であるとかしがらみであるとか、エラぶってる大人たちの大事にしているものだったように思う。

 勲章というのは、いわば自分のしてきたことを国から褒められる、ということでしょう。
 それは確かに、今までの自分の頑張りに対してのご褒美である、栄誉あることなのだろう、と思う。
 しかし裏を返せば、そういう人たちって国に税金たんまり納めたんじゃないのかな? まあそれだけじゃダメだろうけど、そこに国にとって何らかの意義が認められれば、国はその人に対して勲章をあげよう、となるわけであろうと思われ。
 そうなると、どこかで政治的なにおいもつきまとってくる。 今回の桑っちょの受章だって、安倍サンが自分の人気取りのために決定したのかもしれないし。
 もともと桑田サンの、サザンやソロのアルバムまでちゃんと聴いている人なら分かるが、桑っちょ、かなり政治に関してはラジカルな意見の持ち主ですよ。 「紅白」 の項で書いたけれども。 「汚れたキッチン」(アルバム 「ヤング・ラヴ」 のなかの1曲) の歌詞をちゃんと読んでみましょう。 「音楽寅さん」 でも、ビートルズの 「アビイ・ロード」 を全曲もじった 「アベー・ロード」(当時第1次の安倍政権だった)で、右派から左派から大政党から小政党に至るまで、政治家全部を揶揄してるし。 桑田サンは、政治全体に対して不信感を持っている気がするんですよ。 それは我が国の圧倒的多数派を占める無党派層のスタンスそのものでもある。

 だからって軽率な行動を擁護できるわけでもないんですが(ハハ)。 桑っちょ、やるなら 「アベノミクスに反対して」 勲章返還せんかい、つーか(笑)。

 でもそういう精神の遍歴というものが、おそらく桑田サンに作用してるんじゃないか、ということだけは、ここで解説できるような気がしたわけです。 繰り返しますが、的外れな解説かもしれませんけどね。

2014年12月28日 (日)

ビートルズは今年(2014年)、ポールを含めて完全に金ヅル状態

 今年(2014年)も、ビートルズに関する話題は尽きることがなかった。
 これはとりもなおさず、彼らが未だに世界一のスーパーバンドであることの証左なのだが、その話題のほとんどは、長年のビートルズファンにとって苦々しいものばかりであった。

 まず日本にとってのいちばんの話題は、やはり5月のポール来日公演の中止であろう。 この公演初日に行った私も、モロにこの影響を受けた。
 しかしあとになってみると、「中止になったまさにその場に居合わせた」 ということ自体が、なにかとても貴重な体験をした、と考えている。
 結局のところ、ポールの病気は腸捻転だったらしい。 これについては最近、ポールから来年(2015年)再来日の約束がされたことの報道があったので、こちらはもう、当然行く心構え満々である。 仕事を休んででも行く(笑)。

 再来日のスケジュールとしては、また東京ドームとかお決まりの会場が報道されているが、私としてはなんとしても、次は野外でポールを見たいと熱望している。
 そもそも中止になった国立競技場が、ポールの来日公演にとって初の野外となる予定だった。
 野外ともなれば、「007死ぬのは奴らだ」 でのお決まりである、火薬を使った演出も派手さを増し、花火が上がり放題のものすごいものになるであろう。

 しかし同時に再来日の会場として取り沙汰されているのが、日本武道館の公演である。
 これについては今年(2014年)、その料金の高さがかなりの話題に上った。
 これは武道館のキャパが1万人しかないことに興行的なネックがあることが問題なのだが、最高で10万円、というその値段はおそらく、金持ちしか相手にしていない商売と言われても仕方なかろう。
 これはその歴史的価値から言っても、それくらいボッてもいい気もするのだが、そもそも高い料金で自分たちを見せる、ということについては、ビートルズの精神とおよそ大きくかけ離れている、と言わざるを得ない。

 かつてジョン・レノンは、「安い席の人は拍手を、高い席の人は宝石をジャラジャラ鳴らして下さい」 と言い放った。 お高くとまっている客の多かったロイヤルコンサートでの強烈な皮肉だ。
 つまり、武道館公演を10万円もの値段を出してポールを見る人に対しては、「宝石をジャラジャラ鳴らして応援してください」、ということが、ビートルズの精神として叶っていることなのだ。

 しかし、ここまでビートルズが伝説化し、ポールの年齢なども考えると、客席の料金が高騰することは、むしろやむを得ないこととも言える。
 それに、長年ビーファンをやっていれば、それなりにお金のやりくりもできるというものだ。 自分へのご褒美に、という考え方自体が私は嫌いだが(笑)、自分の努力の対価として高い料金を出してポールの武道館公演を見ようという人を、私はけっして非難するものではない。 ジョンが皮肉ったのは、札束にモノを言って本当に自分たちを観たい人たちを蹴散らす金持ちたちの傲慢に対してだったからだ。

 問題なのは、そういった事情もみんな計算し、高い料金を吹っ掛けてくる、プロモーターとか、ポールやビートルズを取り巻く連中である。

 実は、私が苦々しく感じているもっとも核心の問題がこれだ。

 今年(2014年)、ビートルズはアメリカ上陸、および日本に紹介されて爆発的な人気を獲得してから、50年という佳節にあたった。
 それに便乗するかのごとく、EMIから販売権を譲り受けたユニバーサルミュージックは 「USボックス」「JAPANボックス」 といったボックスものを乱発。
 私が最も苦々しく感じているのは、このユニバーサルのアコギな商売なのである。

 かつてEMIでVol.2まで出ていた企画モノ、「キャピトルボックス」 は今回の 「USボックス」 とまるきり意趣を同じくするものだが、当時アメリカで発売されたラウドミックスやエコーかかりまくりバージョンをそのまま再現し、さらにステレオヴァージョンとモノヴァージョンを2イン1にした、今にして考えるとかなり良心的なボックスセットだった。 さらにジャケットの作りもいい加減で(笑)、「これぞアメリカ流」 という皮肉を図らずも演出していた気がする(極めつけはボックスセット自体の作りで、気をつけないとCDを出すときにかなりヤバかった…笑)。

 しかし今年出された 「USボックス」 は、その音源を2009年リマスターのものと統一させた(「JAPANボックス」 も同様の措置が採られた)。
 これはこのボックスの価値自体を大幅に下げる所業である。
 ユニバーサルは、これをかなり意図的にやっているフシがある。
 こうすれば、のちにかつてのEMIバージョンに準拠したボックスが、もう一度作れる、そんな意図を感じるのだ。

 ポールのCDの売り方も同様である。

 ポールについてはEMI時代にも前科があるのだが、去年出されたレーテストCDである 「NEW」 を、ヴァージョンを変えながら3種も売り出した。 しかも完全な後出しジャンケン方式。 これは紛れもなく、ファンを裏切る行為でしかない。 完全なものがあとから発売されるのであれば、それだけを買うに越したことがないではないか(しかも一番最後の完全版と目されるものも、実質的には完全版ではなく、結局全部網羅するには3種買わねばならない)(厳密には2種、最初のだけ買わなきゃいいのか)(いや、ジャケットの体裁が違う…やっぱり3種だ…笑)(AKB方式が業界を浸透して、同じものを買わせるということに罪悪感がなくなっているのではないか?)。

 オリジナルに少々違うものをいちいちつけて、同じものを3度も買わせる。
 いくらなんでも薄汚すぎる。
 これが、ユニバーサルの商売なのだ。

 こうなってくるとポールのアーカイヴ・シリーズというのも 「同じものを買わせる」 一環に見えてきてしまうのだが、今年の11月に発売された 「ヴィーナス・アンド・マーズ」 では、なんと音飛びの不良品まで売りつける暴挙に出た。 しかも現在のところそのフォローは一切ない。 あのなぁ。 いい加減にしろよユニバーサル。 0コンマ何秒かなんて問題ないとでも思っているのか? さんざん発売延期させて、しかも値段までつり上げたあげくにこれだ。
 回収して正規のヤツを賠償するなんて発想自体がないんだろう。 あとからコソコソ正規のヤツを発売して、もう一回それを買わせる魂胆なんだろう。 我慢ならない。

 このユニバーサルのダーティ・ビジネスは年末も滞りなく行なわれた。
 すなわち、ビートルズのCDの高音質盤(SHM-CD)リリースである。
 さらにはジョン・レノンのSACDもリリースされた。

 同じものを手を変え品を変え売り続ける。
 マニアはこれを買い続けるしかない、という因業につけこんでいるのだ。 良心のかけらさえ見当たらない。

 私はもうとっくに見限ったのであるが、確かにもう増え続けることのないミュージシャンの音源を買わせるのは、この方法しかなかろう。
 しかし本当のファンが望んでいるのは、もっと本丸があることを、ユニバーサルは知る由すらないのではないか。 いや、知っててじらしとるのだろう。 フザケンナ、と言いたい。

 今年行われるはずだった武道館公演に関しても、20歳以下の人は1500円とか、いかにもよさそうなことをブチ上げていたが、これは実は、こうしたアコギな商売に乗せられ彼らの音源を買いまくるマニアを増やそう、という魂胆が根底にあることは間違いない。 こういう発想は、ユニバーサルだけでなく彼らの取り巻き全体からあふれ出ているのだ。

 いい加減にしろよ、どいつもこいつも。

 来年(2015年)のポールの公演が、いったいどのくらいの目ん玉飛び出る値段になるかは分からないが、せめて客席くらい選べたらいい…のだが、そんなことは無理無理無理無理………(ハハ)。
 2013年の東京ドームでS席だったにも関わらず、いちばんうしろの壁のほうが近い席に座らされ、一緒に歌ってたら 「うるさいよ!」 とまで言われた最悪の東京公演の、リベンジをさせていただきたいものだ。

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BOOKS

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ記事より抜粋)。 この上巻ではビートルズの祖先から遡ってリバプールで人気に火が付き始めたところまでが書いてあります。

  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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