テレビ

2018年11月12日 (月)

「西郷どん」 11月11日放送分まで見て

 明治編になってからいくぶん出来がよくなったと感じていた 「西郷どん」。 しかし11日放送の42回 「両雄激突」 ではまた元の木阿弥だ。

 そもそも 「いくぶん出来がよくなった」 とは言うものの、大河ドラマとしてはおよそ及第点にはほど遠い。 明治新政府はたった数人で動いていく 「スーパー小さな政府」。 相変わらずナレーションでみんな説明させる作り。 それでも西郷の心の動き、その長子である菊次郎の描写など、ドラマとしてはきちんとしてきたように感じていた。

 枚挙にいとまがない今年の大河もどきの欠点として今回指摘したいのは、登場人物たちの 「視野の狭さ」 だ。 歴史的出来事を極限まで単純化した結果、人物たちの思惑も単純化せざるを得なくなる。 そこにどうしても割愛できない重要な出来事をポツリポツリと採り上げると、まあ当然だが人物たちの行動の一貫性のなさが浮き彫りにされていく。 前はこう考えていたはずだけど?というパターンが次々と出てくるわけだ。 その登場人物たちの変節を、単純化された構造の中で説明しようとするから、まるでちっぽけな個人的感情で登場人物たちが動いているように見えて仕方なくなる。

 幕末編でその傾向が最も出たのが主人公である西郷だった。 それまで平和主義だった男がいきなりの過激因子に。 あれほど心酔した斉彬が肩入れしていた慶喜をどうしても殺さねばならないと思い込み。
 この変節の理由がドラマの中でじゅうぶん説明された、とは考えにくい。 脚本家の思惑としては、そんな理由より、その過激化によって多大な犠牲者を出したことに心を痛める西郷を、描きたかったようだ。

 42回 「両雄激突」 でその欠点をもろにかぶったのは大久保だ。 彼は使節団として当初1年の予定で外国を回っていた。 その目的は不平等条約の解消交渉が大きなところであろう。 例によって不平等条約がどのようなものなのかの説明はほぼなし。 脚本家としては、そりゃ学校で勉強したから分かるでしょ、くらいの意識でしかない。 だいたいそんなことをやってるヒマなんかないのだ。

 そしてその交渉はことごとく不調に終わり、却って諸外国の発展を目の当たりにして、日本もどうにかせにゃいかんという意識革命の末に帰ってきた大久保。 しかし1年のうちは何もするなという約束が破られて、土佐や肥後の連中にあからさまに仲間はずれにされる。

 大久保の変節が、ここを契機に始まっている。

 だがその変節の仕方には幕末編の西郷のようにじゅうぶんな理由付けが果たされていない。
 だいたい1年のあいだ政府は何もするな、という話にしても、何もしないわけにもいかんでしょう。 そこにまず話としての無理がある。 しかも1年どころか大幅に遅れての帰国でしょ。
 それに排除された山県や井上は、排除されるだけの理由がちゃんとある。 さらにドラマの中でも西郷が話していたが、政府でやったことについては大久保たちに逐一報告させている、ということだった。 大久保が 「聞いてないよ!」 と拗ねる理由なんかない。

 となると、大久保がいきなり変節したのは、「みんなからあからさまに仲間はずれにされたから」、ということになる。 日本を外国並みにしようという意気込みがあるならば、まず仲間に入らねばならない。 話はそこからでしょう。
 それをしようとしないから、すこぶる個人的な感情で恨みを募らせている、としか見えてこないのだ。

 42回の終わりでみんなの前に出てきた大久保の目は、もう完全にイっちゃってる。 イっちゃってるのって、おかしいでしょ。

 さらに問題が発生。 降ってわいたような朝鮮問題だ。 これについては指摘する気力もないくらいのおざなりな説明で、こちらに伝わってくるのは 「西郷さんは朝鮮問題でも悪くない」、という脚本家のつまんない意図のみ。 征韓論なんか、今年の大河もどきには無理なんだから最初からやらなきゃいいのに。

 まあ、やりたきゃやれば(当ブログ始まって以来の暴言、まことに失礼いたします)。

2018年11月 4日 (日)

秋ドラマ感想③「大恋愛~僕を忘れる君と」

 TBS金曜22時。 若年性アルツハイマーに罹った女医の戸田恵梨香と、元小説家のアート引越センター従業員ムロツヨシとの恋愛ドラマ。

 この恋愛ドラマのキモは、これまでふざけたような役ばかりだったムロが、恋愛の真面目な当事者になったことだろう。
 恋愛ドラマではたまに、こうした 「ちょっと外した」 キャスティングで視聴者の興味を惹かせるパターン、というものがあるように思う。 古くは 「おくさまは18才」 での石立鉄男とか、「101回目のプロポーズ」 での武田鉄矢、というケースだ。 彼らは一様にイケメンではない男の哀愁を背負っており、どこか滑稽にならざるを得ない悲劇を纏っている。

 ムロはこのドラマで元小説家、というだけあって、少々ニヒルでナイーヴな陰のある男を演じている。 けれどもこれはおそらく脚本家の大石静氏のアテ書きによるせいだと思うのだが、相手のリアクションに軽いボケとかツッコミが思わず出てしまうところが、いかにも、という感じだ。
 それはことのほか、この深刻なドラマにおける一種のガス抜きになっている。 そしてそこに、そこはかとないリアルが生じている。 その匙加減がいい。

 この恋愛ドラマを深刻にしているのは、先に書いたように主役の戸田恵梨香が罹った若年性アルツハイマーのせいだが、ここで大石静氏は視聴者の共感度を極限まで上げる、ある方法をとっている。

 それはこの進行性の病気の悲劇度を高めることではない。
 ムロと向き合っているときの戸田を、無邪気な子供のように描く、という方法によってだ。

 彼女は母親の草刈民代と一緒の女医になり、同じレディスクリニックで働いている。
 そのせいか普段はかなり冷静な判断能力の持ち主で、草刈がドラマ第1回目で持ちこんだ、精神科医の松岡昌宏との縁談に際しても、お互いに過干渉なく事務的役割分担的な、無味乾燥とした結婚生活を望んでいた。 戸田は、人生に対してとても醒めたような性格設定のように思えた。

 それが、である。

 自分がかつて夢中になって読んでいた小説、「砂にまみれたアンジェリカ」 の作者が引っ越し業者のムロだったことが分かると、戸田は途端にそれまで全開にしていたATフィールド(まあ自分と他人との壁みたいなもんか)を解除するのだ。

 このドラマのもっとも魅力的なところは、その完全武装解除した戸田恵梨香の、無邪気さ、かわいさにあると言っていい。
 戸田はもともとクールな役が多い気がする。 そんな戸田が、デレデレになるんですよ、そんなにイケメンとは思えない、頭モジャモジャのちょっと小太りの男に。 鳥みたいなキスをするんですよ、なんだこの明るいかわいさは!
 この現実離れ感というか浮遊感。 自分だけに見せる別の顔、とかいうのに、弱いんですよ世の男は。

 女性の視聴者側からしても、ムロの持つフツーさというのには安心感が生じるだろうし、リアクションの楽しさにも好感を持つだろう。
 つまり、現実にはなかなかあり得ないだろうけれど、そんななかにちょっとだけあるリアルに、視聴者が惹かれる要素が詰まっている。
 そこに、毎回タイトルバックにあるように、記憶の象徴である砂がこぼれていく悲劇が潜んでいる。 その切なさに、見る側は胸を痛めるのだ。

 「好きになったらしょーがない」。 戸田は確かこんな風なセリフを言っていたと思うが、いや、このセリフには共感する。 好きになるのに、美男美女であるとかカンケーないですから。

 物語は、戸田が恋に落ちたのとアルツハイマーを発症したのがほぼ同時だったため、かねてからの松岡昌宏との縁談がなんの後腐れもなく解消した。 そこで大きな問題とならなかったのはドラマ的には面白くなかったがまあめでたしめでたし、しかも松岡は若年性アルツハイマーの権威だし、渡りに船だ、言うことないじゃん彼に治療してもらえば、

 …となるはずだった。 が、ドラマはそう単純に物事を運ばせない。

 お互いに事務的な結婚関係なんて醒めたことを考えていた松岡だったのだが、その後に親が用意した縁談とか戸田の検査だケアだのをやってるうちに、なんか戸田のことが本格的に好きになっちゃったみたいなのだ。

 しかしここで、大石静氏は松岡をあまり得体の知れないパラノイア的人物に描こうとしない。 松岡は普通に悩み、普通に自分の恋を戸田に打ち明ける。 ここにも好感が持てる。 ここで松岡が冬彦さんみたいになってしまっては、ドラマのリアルが吹き飛ぶからだ。 もちろん吹き飛ばさせる、という方法もあるが、このドラマはあくまで常識的に進行していくのだ。

 ところが第4回の終わり際、ムロは突然戸田に別れを切り出す。 たぶんムロは、戸田が松岡と付き合ったほうが治療のためにはいい、と思ったのだろう。 そこらへんのムロの心の動きが少し雑に描かれていたのは残念だが(つまりトートツに見えた)、来週以降どう回収されるのかが逆に気になってきた。 前回もそうだったが、終了間際にガツンとショックを与えさせて視聴者の興味をつなぐ、というのはうまいもんだ、と思う。

 大石氏の 「受けるドラマはこうやって作るのよ」 という方法論が分かって、脚本家を目指す人には大いに参考になるドラマなのであろう(笑)。

2018年11月 2日 (金)

秋ドラマ感想②「獣になれない私たち」

 夏ドラマ見てないけど、私が今のところ今年(2018年)いちばんのドラマだと思っている、「アンナチュラル」 の脚本家である野木亜紀子氏のオリジナル新作。 さらに 「逃げ恥」 でのコンビだった新垣結衣と再タッグ、ということもあって期待度は大きかった。
 だが 「アンナチュラル」 で見られたスピード感は一切なく、「逃げ恥」 で見られたガッキーの可愛らしさも一切見られず、その点では見る側の期待を完全にはぐらかされたドラマ構造になっている。

 まず登場人物、状況設定。 かなり極端なケースだろコレ、と思わざるを得ない。
 確かにリアルではあるのだが、リアルを突き詰めすぎて、シュールになってしまっている、そう感じる。

 このドラマの理論でいけば、「獣になれない」 筆頭というのはガッキーだ。
 彼女は職場ではスーパーパワハラの上司にいいようにこき使われ、部下たちは揃いも揃ってスーパークズばかり(「ひよっこ」「いつまでも白い羽根」 でいい役をしていた伊藤沙莉になんつー役をやらせるのだ)。
 特に上野とかいう若手男子社員はおよそ形容しがたいくらいのクズで、まず仕事自体にやる気がなく、かなり低いハードルでもそれから逃げまくり、果ては新垣を好きになればやる気のきっかけができるだろうと勝手に思い込んで彼女に頼り切る。 出てくるだけで虫唾が走るキモ系の無駄なイケメンだ。 よくクビにならないものだ。 いや、こんな人間はそもそもどこの会社でもまず採用しないであろう。

 そんな状況下で、「獣になれない」、つまり逆ギレできないガッキーは、その驚異的すぎるほどの外ヅラの良さを無理矢理保とうと孤軍奮闘するのだが、徐々に精神は疲弊していく。 疲弊しすぎて、ふらふらっと電車に飛び込んでしまいそうにまでなる。 まあ状況が極端だから、疲れ果てるのは当たり前だろう。

 かように彼女が通う会社における周囲の状況が最悪であることが、まず見る側に大きなストレスとなるのだが、会社以外の周囲の状況も彼女にとって最悪だ。

 彼女の彼氏は田中圭で、この彼氏が自分のマンションに元カノの黒木華を4年も住まわせている。 だからガッキーは田中圭と同棲できない。
 その黒木華はアバンギャルドなほどのスーパー引きこもりと化している。 何しろネトゲに夢中なのは序の口として、マンションに届いた田中の(そして新垣宛ての)荷物をネットオークションに勝手に出品し、それで得た利益で大安売りしていたウサギを買ってしまう、という…。
 常人には理解不能レベルのクソぶり、パラサイトぶりだ。

 黒木華はここでもその卓越した演技力を見せつけてダメ女ぶりを発散させているが、あまりにクソ過ぎて見る側はまたもやかなりのストレスを感じることになる。 演技力があり過ぎるのも善し悪しだ。
 田中圭はもちろん黒木華をマンションから出したいのだが、黒木華は駄々をこねてこれに応じない。 「出てけバカヤロー」、と言えない時点で田中圭も 「獣になれない」 一員であるように思うのだが、その前にクズだろこの男。 クズはクズなりに悩んでるからまあ許すけど(オマエに許してもらってなんになる)。

 で、そのクズは行きつけのクラフトビールバーで知り合った菊地凛子と寝てしまうんだなこれが。 まあ状況が状況だから…って、見る側が許せればいいんだけど。

 その菊地凛子、アパレルメーカーのデザイナーで、彼女がこのドラマにおける 「獣」 の象徴だろう。 私は最初、この人ってガッキーが二役で演じているのかと思った。 ウイッグつけて思いっきりメイクを派手にしたガッキーかと思ったのだ。
 おそらくそれは作り手の意図であると思われる。 おそらく菊地凛子は、ガッキーがそうなりたいと望んでいる、もうひとりの自分なのだ。 ガッキーは彼女のデザインした派手な靴や服を購入し、外見だけでも戦闘的であろうとする。 獣になろうとするのだ。

 しかしそれはほぼ無駄な努力であり。

 さらにこのドラマを見る側をイライラさせるのは(まだあんのかよ)ビールバーの常連で菊地凛子とかつて付き合っていた松田龍平。 公認会計士でどうもいろいろと問題があるらしいが、少なくとも私には興味がない。
 そいつがガッキーたちと絡んでくるドラマ展開なのだが、こいつのしゃべってることがどうにも回りくどくて要領を得なくてイライラする。 松田はこのつかみどころのない、いや脚本がわざとそうさせている難しい役をその演技力で表現しようとしている。 果たしてそれは成功している。 だが個人的に言わせてもらえば、こういうヤツとは別に知り合いたくもない。

 そのつかみどころのないヤツと、ガッキーは寝ちゃうんだな。 寝ただけだけど。 田中が菊池と寝たのを知ってその腹いせだったわけだが。

 そのほかにも、松田の近所のラーメン屋のあんちゃんとか、田中のマイナスポイントを常に指摘してくる会社の同僚とか、まあとにかく出てくるだけで嫌悪感を催す人物ばかりのドラマだ。 主要人物たちも共感しにくい行動ばかりとるし。 視聴率が毎回下がってくるのもとても納得できる(笑)。

 こんな 「見てて不快」 ドラマを、なぜ見ちゃうのか。

 端的に言えば、この先ドラマがどういうカタルシスを伴ってくるのかにあまり興味がない。
 すなわち、新垣の勤め先のパワハラ社長が改心しようとも、スーパークズな伊藤と上野がいつの間にか頼もしい戦力に成長しようと、黒木華がやる気を出して田中のマンションから出て行こうと、松田が粉飾決算で逮捕されようと、別に興味がない。
 さらに言えば田中の家族が介護問題で揺れようと、どうでもいい。

 すごくキモいことを言えば、こういう最悪の状況のつるべ打ちのなかで、困った顔をしているガッキーを見るのがなんとなくアレなのだ(アレって?…笑)。

 変な例えかもしれないが、このドラマって、なんとなく 「ドリフ大爆笑」 の 「もしも」 コーナーに似ている気がする。

 「もしもこんなサイテーの職場があったら」「もしもこんなサイテーの彼氏がいたら」。

 コーナーの最中散々な目に遭うドリフのリーダー、いかりや長介はコーナーの最後に決まってこうつぶやいた。
 「ダメだコリャ」。
 そのときいかりやは、別にこのサイテーな状況を改善しようとも復讐しようとも説教しようともしない。 ただつぶやくだけだ。 つぶやくことで、ただこの狂った状況に呆れ、自らの普通さを優位に感じる。 ただそれだけだ。 そうすることで、自分を納得させたいのだ。

 私はこのドラマでガッキーに、この先どんな展開が待ち受けていようとも、最後には自分を納得させてもらいたい、と願っている。
 彼女は今、ドラマの中で、怒りを静かに潜行させ、風船爆弾を膨らませてる状態だ。
 でも、彼女を取り巻くストレッサーを、「それがなんだというのだ」「かわいそうな人たちだ」、という目で達観し、乗り越え、自分を納得させてもらいたいのだ。
 だって人生って、ドラマみたいに劇的に改善しないものだから。 自分で納得するしか道はないのだ。 そのためには 「ダメだコリャ」 と、面と向かって言う 「小さな獣」 も必要だ。

 新垣結衣がそのような境地まで達する演技を見せてくれることを、私は密かに願っている。

2018年10月28日 (日)

秋ドラマ感想①「僕らは奇跡でできている」

 デジタルの音痴で旧世代の私が、新しいPCを買ったことが契機となりTVer、という民放テレビ番組見逃し配信サービスをようやく使えるようになったので、録画機が壊れてこのところ止めていたテレビドラマの感想を書くことができる。 録画機が壊れたのなら直すか新しいのを買えばいい話じゃないか、ということなのだがまあ経済的な事情で優先順位がありましてですね。

 TVerを使い始めて気付いたのは、このサービスには字幕がなく高速見というのもできないこと。 録画機ではいつもこれをしていたのだが、いざ始めてみると役者たちのセリフがかなり聞き取りにくいことが分かって。 でPCの音質操作をしなければならない羽目になった。 それでも1割程度は聞き取れない。
 もともと耳の聞こえが極端に悪い私であるが、これってどうなのだろう。 どうにも損した気分になる。

 「僕らは奇跡でできている」、フジテレビ(関西テレビ)火曜21時。 高橋一生がちょっと個性的すぎる大学講師を演じる。
 個性的すぎる、とは書いたが精神の発達障害が少し入っている感覚だ。
 つまりひとつのものに夢中になりすぎるとほかのものが目に入らなくなる。 その彼が虫歯で通うことになった歯科の先生が榮倉奈々。 榮倉はふたつの歯科医院を掛け持ちしているせいか、羽振りはいいみたいだ。

 このふたりのキャスティングは実にハマっている気がする。 高橋は知的なイメージがあるが、それをレインマン的な役に振り分けることで、この主人公の語る知識に大きな説得力を与えることとなった。 いっぽう榮倉はクールなイメージだが、自分は常識人で自分の考えていることは正しい、と信じて疑わないようなこの女性歯科医に、よく当てはまっている気がする。

 高橋の両親は亡くなっていて、おじいちゃんの田中泯に幼い頃は育てられていたが、今は独立して家政婦の戸田恵子と暮らしている、という設定。
 この田中と戸田の存在が、高橋の演じる主人公にとってはゆりかごのような安心感に通じている。 田中は陶芸家であるせいか、人にとって大切なものはなにかをわきまえているようで、発達障害でみんなに合わせることができない主人公の大きな味方となってきたし、お節介焼きの戸田は主人公の意に沿わないことを時々やらかしたりするが、それでも最終的には主人公のことを認めている、主人公にとってはスパイスのような役割を担ってきた。 このふたりがいることで、ドラマは見る側にとってとても癒やされる空間として受け入れられる。 人とは少々違っててもいいんだよ、まあ世間のみんなは普通こう考えるんだけど、というふた通りの許し、自己肯定の道を与えてくれるからだ。

 その、主人公を取り巻く 「家族」 とは違う価値観で動いていくのが、私たちの住んでいるこの世界だ。 つまり、「こうでなければならない」、という常識に縛られてしまう世界だ。
 それを体現しているのが榮倉が演じる歯科医、ということになる。
 歯科医はかなり細かい予約時間によって仕事をしている、と同時に、急な患者にも対応しなければならない。 そこでは主人公のような、時間に対してとてもルーズになるしかない障害のある患者というのはとてもやりにくいところがある。 榮倉は高橋のそういう特殊な性格をたぶん把握しているはずだが、それでもその自由奔放さに苛立ちを隠すことができない。

 その榮倉は、高橋の行動に苛つきながらもその生き方に触れていくことで、自分を取り巻いている常識もしくは自分を縛っている思い込みに対して、徐々に疑問を抱いていく。 これがこのドラマの興味深い部分だ。
 榮倉は恋人と高橋のふたりから、自分の優位を見せつけている、と指摘され悩む。 まあ高橋の場合榮倉のことではなく 「ウサギとカメ」 のウサギについてしゃべってただけなのだが。
 確かに榮倉は自分のおごりでいつも恋人に連れて行ってもらっている居酒屋ではなく高級な店で5万とか6万とか(値段忘れた)のメニューを注文し、「久々においしいものを食べた」「自分へのご褒美」 とかナニゲにしゃべってた。 それってまあ当てつけだと思われても仕方ないが、羽振りはいいけどそれなりに頑張ってるわけだし。
 ということは、榮倉が付き合ってる男が榮倉と不釣り合いだ、ということになる。 けれども榮倉は 「自分はどこかで間違えてしまっている」、という方向に考えてしまう。 ここがいいのだ。

 そう榮倉に考えさせるのは、たぶん高橋の、物事にとらわれない考え方に影響されている。 このドラマで最も面白いのは、動物行動学を教えている高橋の、いろんな動物に関するさまざまな知識だ。 高橋のいる大学には同じような変わり者がドラマのなかでは約2名いるが、研究者のオタク的な傾向と高橋のこだわってしまう性格というのはどこかで共通しているのだろう。 ここで発達障害の線引きが曖昧になってしまう、という面白さが醸し出されている。

 ドラマは高橋の特殊な性格から見える世界から、私たちが普通だと考えている世界の常識のおかしさをあぶり出している。 動物行動学から言えば、実はヒトの行動こそがいちばん不自然で興味深いのかもしれない。 だが高橋にとっては、ヒトの社会こそが自分と相容れない世界なのだ。

 このドラマは、「世間の常識とか普通の考え方から一度脱却してみよう」、という機運にあふれている。 ドラマチックな出来事は起こらないが、それでもじゅうぶんドラマは成立する。 そんなことを教えてくれる。

2018年10月 7日 (日)

「西郷どん」 10月7日放送は、BS地上波ともに 「無血開城」…見たよ!感想だよ!

 台風24号の猛威によって吹き飛ばされた、先週のNHK地上波 「西郷どん」 無血開城。
 今週は先週分と合わせて2回やるのかな、とげんなり思っていたが、どうも本日10月7日放送のうちBSも地上波も 「無血開城」 を放送することになったらしい。 要するにBSのほうは先週の再放送、ということになる。

 こんなことはどーでもいいのだが(笑)、この記事を書いたのは、先月に書いた前の記事から1ヶ月が過ぎて、コメントにパスワード認証が必要となったからだけの話で(笑)。 あのパスワード、ホントに面倒ですからね。

 と、いうわけで。

 と書いたはいいもののコメントが来なくてマヌケなので(笑)、とりあえず書きましょうか、「無血開城」 の感想を。

 「民のため」 だとか事あるごとに口にし、人ひとり殺してガクガクブルブルだった男が、突然の豹変。 誰の言うことも聞かず、「自分は薩摩の殿様や国父さんよりエライ」 と全権を任されたかのごとく無茶な 「突撃ー!」 を繰り返し兵をバタバタ死なせ、あげくに江戸城を総攻撃、そして江戸を火の海にしようとする。
 その大目的と言えば、「徳川慶喜の首を取る、だけじゃ徳川は息を吹き返すから徳川そのものを完膚なきまでに消滅させる」。

 元はといえばこの西郷の豹変は、どっかからの 「慶喜が日本を外国に割譲しようとしている」 という信憑性が確定せぬ情報に、慶喜の側室だか情婦だかその身分が見ててもよく分かんないふき、という元キャバクラ嬢から仕入れた、「慶喜様が外国のかたとサツマサツマとしゃべっている」、というこれまた事実がはっきりしない情報とを付き合わせて、「慶喜は薩摩を売る気だ」、と大いなる確信をしたことが発端になっている。
 このドラマでは。

 ドラマとしての流れを俯瞰すると、その 「大いなる確信」 というのは 「大いなる思い違い」 にしか見えない。
 「どうしてその程度の情報で徳川壊滅にまで西郷の思考が発展してしまうのか」 ということに、ほとんど説得力が伴っていないことに気付くだろう。
 この、中盤から終盤にかけたドラマの展開は、「なぜそこまでする」、という西郷の動機を見る側が考えあぐねながらの視聴になっている。 作る側はそれに対して、きちんとした 「西郷の本心」 を用意しておかねばならない、と思うのだ。

 しかし、それは無駄な期待だったことが 「無血開城」 の回で明らかになった。
 西郷は勝との会談で、自分がこれまで事あるごとに 「民のため」 と主張してきたことを勝との会話の中から思い出し、それまで見ている側が理解不能だった豹変ぶりをあっさり撤回してしまうのだ。 見ている側からすれば、「西郷はいつも民のためとぬかしておったろう、今更そんな当たり前すぎることを思い出すのか?」、ということになる。
 つまり、「ハシゴを外された気分になる展開」、ということだ。

 西郷が自らの言動を回想するこの下りはさすがに、…

 …。

 こんな薄っぺらーい話でよければいくらでもこのドシロートが創作してNHKにくれてやるぞ、というか。

 はぁ~。 ヘソが笑うのもためらってしまう。 すげーな。 逆に。

 西郷の翻意を得て泣き出しちゃうしな、勝も。 泣くな男だろ(はぁ~…)。 ラヴイズオーヴァー。

 慶喜と西郷の会談では、慶喜が逃げたのはフランスが助太刀してやる、その代わり薩摩をよこせ、と言われたからだった、ということが判明。
 なるほどそうか!
 って、見る側としてはここで納得しなきゃいけないのだろうけれど。
 それってちょっと。
 子供だましなような気が。
 そしてその、私に言わせれば 「下手な言い訳」 がまかり通ってしまう不自然。
 西郷は感激して、「日本を守ってくれたんですね」 と。
 うーん、こんなおバカでいいのかな。 史実もおバカなのかな。 だいたい西郷と慶喜って無血開城のとき話ができたのかな。 こちらも頭がバカになっていく感覚が…。

 トートツ、と言えば江戸城のアーカイヴに二宮尊徳の著書が出てくるという点でもそう。 「これで農民が喜ぶ」 だとかなんとか。 どうしてこう、いつも 「取って付けたみたい」 なのか。 ヘソが笑うぞ。 毎度だが。 そのあと尊徳の本を顔にかぶせて寝てるし。 それを見て取り巻きが 「兄さあが死んどる」「兄さあはいちばん働いたんだから寝かしておけ」 だって。 笑えるなー(棒読み)。

 あと、「花神」 の主人公、大村彦次郎(違ったっけな)が林家正蔵というのにもヘソが笑った。 ここまでくると冒涜でしょ。 いきなり現れた大村を見て(まぁ~脈絡もなくいきなりなんだわこれが)、西郷が放った一言にも笑った。 「あなたが『あの』大村さんですか」(ハハ…ハハ…)。 いつから知ってたの西郷(ハハ…ハハ…)。 その正蔵、「あんたたちは戦い方を知らん」 だって。 エラソーなのにすごく頼りない(爆)。

 スゲーなホント。

 挙げ句の果てに、「新しい国を龍馬も喜ぶでしょう」 チャンチャン。 なんだこの、「取って付けた」 権化のよーなオチ。

 ホントにスゴイ。 凄すぎるぞこのドラマ(ヤケ)。 真面目に感想を書くのが馬鹿らしくなってくる。

2018年9月 7日 (金)

「西郷どん」 9月2日放送分まで見て

 前回(4/1)のレビューで、「幕末の複雑化した話を単純化し分かりやすい感情の物語に構築し直している」、という 「まあこれはこれでありか」、というような評価を下したこのドラマ。
 この手法は西郷が島流しされた奄美編までは功を奏していた。 特に島での妻、愛加那の存在感は出色で、このドラマの最大の収穫がここで実った気もした。

 しかしながら、西郷が島から復帰したあとは、ますます混迷の度を増した幕末の状勢が作り手の手腕では咀嚼しきれていない、と率直に感じる。
 この大河ドラマの肝を形成している最後の砦は正直なところ家族の情愛、恋愛パートだけだ。 ところが、幕末の不穏な情勢が単純化されている影響なのか、この恋愛パートの 「お話としてのキレ」、がまことに弱い。 どこかで既に見たようなドラマのレベルを完全に踏襲している形だ。 以前にどこかで聞いたようなセリフ、しかも陳腐なセリフが散見され、見る側の気持ちを昂ぶらせるまでに至らない。

 このドラマは西郷をめぐる女性たちの 「心情」 に深く神経を使っている、いわゆる 「女性目線」 のドラマであることは明白だが、幕末の状勢を単純化させたあとに残る西郷吉之助、というひとりの男の複雑な胸の内が表現しきれない、というスパイラルの結果、恋愛パートの説得力に決定的な悪影響を与えている。

 逆に考えると、西郷の三番目の妻である糸の心情から言えば、西郷がなにをやったのか、なぜここまで周囲から持ち上げられるのかはどうでもよく、坂本龍馬などというよく分からない脱藩浪士とヒソヒソ密談を重ねる夫の姿に不安を覚え、それでも実はいちばん気になっているのは自分と違って子供をポンポン産んだ二番目の妻について。

 このドラマにおいてもっとも史実と違う改変が行なわれたのは、この糸という女性の設定である。 つまり作り手は、西郷と糸の年齢をギュッと縮めさせ、糸を西郷の幼馴染にしてしまった。
 この改変に含まれる意図は明白だ。 糸と西郷の絆を強固なものにしたかったがためだ。

 しかしその意図は作り手の 「歴史勉強不足」 によって完全に説得力を失ってしまった。
 物事を単純化出来るのは、ものごとをよく知悉し理解できる者だけだ。
 その単純な構図を見誤ったことに、今年の大河の最大の失敗の原因がある。

 このドラマの時代考証の一員である磯田道史氏。 私は彼の働きに一縷の望みを託していた。
 だがここまで見た限りの印象を申し上げれば、磯田氏の働きというのは、断片的で瑣末な史実について、彼流の見解が見られる程度のことで、彼自身はこの物語のあまりのフィクション性について、大筋で関わることを意識的に避けているように見える。
 それほどこの 「西郷どん」 の物語の骨格というのは途方もなく、一面的かつ、脆弱性過多なのだ。

 あとはこの、「途方もない」 展開を示すこのドラマがどのように収束していくか。 私の興味はそこだけにある。 「このペースで果たしてちゃんと終われるのか」、という危惧が奄美編の段階からネットで指摘されているこのドラマ。 最終回まで私のヘソを笑わせてくれそうだ。

2018年5月 5日 (土)

「ブラックペアン」 身長の低い二宮が今回目指したもの

 TBS日曜劇場枠の医療ドラマ。 主演に嵐の二宮和也、そこに竹内涼真や葵わかながついて、後方には内野聖陽・市川猿之助という 「風林火山」 のコンビがまします。

 第2回まで見る限り、演出が極端すぎる気がしている。 これは 「半沢直樹」 や 「陸王」 など、「いつもの日曜劇場クオリティ」 のオーゲサさなのだが、こと医療の場合にはそぐわない。 医者どうしの醜い見栄やらプライドやらを極端に表現し始めたら、まず置いていかれるのは患者の命、ということになるからだ。 このドラマを見ていて不快になる、まず最大の要因はそこにある。

 その胸糞の悪さをもっとも背負っているのは、主役の二宮和也であろう。 彼はその最悪のキャラ設定もさることながら、ジャニーズ事務所のタレント、として世間に認知されている、というマイナス要因も背負わされている。 この役は彼にとって、リスクだらけなのだ。

 二宮はその大学病院内で最高の技術を有している内野聖陽をしのぐ腕を持っている天才外科医でありながら、そのことをハナにかけ、まわりじゅうを馬鹿にし、金で患者の命を救うことを請け負う。 しかし出世欲はまったくない。
 まるで 「根性の悪いブラックジャック」、といった風情だが、第2回までを見る限り彼は患者には金を請求していないようだ(分かんないけど)。 1000万とか1億とか、彼が金をせびるのは医者とか研修医とかだけのような気がする(確信は持てない)。

 金と同時に彼が欲しがるのは、自分が助けようとする医者の辞表であるようだ。 つまりまあ、退職金目当て、ということになるのかもしれないが、このことから推察するに、彼が欲しがっている(いや、剥ぎ取り踏みつけようとしている)のは、その医者が持っている 「下らないプライド」 なのであろう。
 それゆえに、彼は手術における最悪の局面のときを狡猾に待ち伏せしているようなところがある。 彼には、「スキルのない医者」 を駆逐しようという明確な意思があるようだ。

 そのことを、彼は思いあがりまくった傲慢な態度という仮面で、蔽い隠そうとしている。
 二宮は今回、それを強調するために、彼に与えられた 「渡海」 という男の役を 「精神的にガキのままの人間」「悪ガキのようにふざけた人間」 として演じようとしているように、私には見える。

 このドラマで医局の人間たちに取り囲まれる二宮は、正直なところ 「大人と子ども」 レベルの身長差を隠すことが出来ない。 新人の竹内涼真にさえ大きく水をあけられているのだが、そんな大男のなかで彼は、徹底して嫌味な男を演じることで、「ナマイキなガキ」 というドラマ上の立ち位置を得ようとしているように思えるのだ。 しかもその 「クソナマイキなガキ」 は、ゴッドハンドを持つ至高の天才だ。

 その試みは、少し間違うとヘタクソな演技に見えてしまったり、妖怪の 「子泣き爺」 みたいな道化になってしまう危険性を孕んでいる。 しかし二宮のその試みは、自らの身長の低さを利用した 「憎らしさの表現」 なのだと私は思う。

 しかしその 「クソナマイキなガキ」 の真の目的というものは、今後このドラマに大きなうねりを呼んでいくことだろう。 正直言って第2話までは、主役は研修医の竹内涼真であり、竹内の未熟さが 「いつもの日曜劇場」 チックに展開し、オーゲサに泣いたり喚いたりするものだから、少々呆れてきたのは事実だ。
 竹内の演じる研修医は第2話で早くも異動届けを出すかどうかで迷うのだが、本番であそこまで力が発揮できないようでは医者そのものをやめた方がいい、という渡海の忠告は当然だ。 第3話ではこれまでさんざん引っ張ってきたスナイプという医療器具を再び使うようだし。 二宮が主役なのであれば、とっとと本題に入ってもらいたい気分だ。

 まあ、渡海のような完全無欠の腕の持ち主でかつサイテー男がそばにいたら、みんな普通の精神状態じゃなくなって出来るものも出来なくなってしまうだろうが…。

2018年5月 4日 (金)

冬ドラマいろいろの話の続き(「FINAL CUT」「海月姫」「BG」)

 ほとんど過去の話になりつつあるが、いったん出した以上最後まで書かねばなるまい。 ただしかなり時間がたっているので、だいぶん筋を忘れている。 所詮テレビドラマとはそういうものなのだろうか。

 「FINAL CUT」。

 関西テレビ発の復讐ドラマといって直ちに比較されねばならない宿命なのは、草彅剛の一連の 「戦争」 ドラマであろう。 このドラマの放送中も、草彅と亀梨和也の演技力の差がネットでは取り沙汰されていた。
 しかし私は思うのだが、草彅と亀梨は土台となるキャラにおいて大きな違いがあるのであって、比較することはそもそも難しい。

 草彅剛というキャラクターは、彼が以前引き起こした事件を未だに重く引きずっているようなところがある(蛇足だが、TOKIOの山口達也が起こした事件に比べれば他愛のないものだ)。
 すなわち、外ヅラはいいけれども内面に大きな不満を抱えている、という側面。 SMAPからの脱退でそのパワーの不均衡意識、差別的意識はいくらか和らいだ気もするが、ドラマに出てくる彼の魅力を支えているのは、未だにその二面性なのだと私は考えている。
 そしてそのイメージは復讐劇において冷徹さを演出する最大の武器になるのだ。

 しかしながら、亀梨和也の一般的なイメージというのは、まずもって彼が 「ストイック」「一直線にマジメ」、というものだと思う。 それは彼の前作 「ボク、運命の人です。」 にも大いに生かされていて、神と名乗る山Pに自らの運命を知らされた亀梨は、あくまで愚直に 「運命の女性」 木村文乃にアタックしていった。 もちろん愚直であるがゆえに愚痴や文句もストレートで、そのおかしさがドラマを支えていた、といっていい。
 その彼が復讐に手を染めるとどうなるのか。

 自分の母親が幼女殺害事件の容疑者となってマスコミに追いまくられ自殺。 この恨みを晴らそうと、彼はまず母親を犯人扱いした最も影響力のあるニュースワイド番組に狙いを定め、犯人と思われる男のアリバイを偽証したと思われるその男のふたりの妹に近づき、さらに恣意的に母親を犯人に仕立てていった警察の人間にターゲットを移行していく。
 その計画はまことに用意周到で、隠しカメラを仕込みまくって相手の弱みを収集し、それをネタに相手を脅迫する。

 私は当初、最初にターゲットになっていたニュースワイドショー番組に対するドラマの姿勢を見ていて、「こんな身内批判がよくやれるな」、と感心して見ていた。 これはもしかするとがけっぷちのフジテレビ(厳密には関西テレビだが)が自暴自棄になって(笑)「ドラマ部が報道部を批判」 というタブーを破っているのかと。
 ただしその報道局に対する批判的姿勢はドラマ後半になって大きく様変わりし、「あとでこうするから許してね」、ということだったかと妙に納得(笑)。

 それはそうと、亀梨が復讐をするならこのように愚直にやる、という見本のような感じで、このドラマは草彅の復讐ではない、亀梨の復讐劇なのだ、との感を強くした。
 その愚直さがいちばん仇となったのは、「ヘンなキメゼリフを作ってしまった」 ということに尽きるだろう。
 相手をさんざん追い詰めて、証拠となるウェブページのアドレスを相手にちらつかせながら、亀梨はこう言うのだ。

 「これがあなたの、ファイナルカットです」。

 さんざん相手を罵倒し、「オマエが○○」「オマエがあーしたんだろ、こーしたんだろ!」 と汚い言葉を使ったあとだから、その違和感たるや。

 「キメゼリフ」 というものが必要なドラマとそうでないドラマについて、このドラマはとてもよく考えさせる機会になってくれた(笑)。 しかも 「ファイナルカット」 とかいきなり言われても、意味がすぐには呑み込めないし。 まあドラマのタイトルだから言わなきゃ仕方なかったんだろうけど。

 亀梨の愚直さはさらに、犯人の上の方の妹(栗山千明)に恋愛感情を持ってしまうという展開に発展する。 このせいで彼はさまざまなヘマをやらかし、緻密な計画に破綻を呼び込んでしまうのだ。

 しかし物語は、彼の持つ愚直さのおかげで草彅の復讐劇にあるような荒涼とした風景みたいな広がりを見せない。 彼が勤める警察の上司である佐々木蔵之介は彼の味方となり(いや最初から味方の側だったけど)彼が脅したワイドショー番組は彼の復讐のための詰問の場を設ける(まあ視聴率獲得のためでもあったけど)。

 そこで歪んでいったのが、彼に恋をしてしまった下の方の妹、橋本環奈である。 これも、亀梨が姉のほうに恋をしてしまったことを隠しきれなかったことから出たものであり、ここにも亀梨の愚直さがストーリーに影響を及ぼしていたことが分かるだろう。

 ただ、真犯人である山崎育三郎が出てきてからのストーリーの盛り上げ方には、ところどころ無理があったような気もする(もう昔の話過ぎてどれがどれだ、という指摘が出来ないのが残念だ)。

 ドラマである以上、ストーリーの山場というのは最終回に向けてボルテージを上げる必要性が絶えず生じているわけだが、クライマックスに至るすべての材料には、やはり 「強い必然性」 が不可欠なのであろう。 その必然性がとても堅固だったのが 「アンナチュラル」 であった。 「アンナチュラル」 と同じクールであったがために、その強引さが目立ってしまったのが、「FINAL CUT」 と 「海月姫」 だった気がする。

 「海月姫」 についてはもうほとんど感想の断片が残っていないのだが(笑)、もともと主人公と同じ引きこもり気味のオタク女子たち(尼~ず)が瀬戸康史に触発されてファッションブランドを立ち上げる、という話自体に現実味が不足していた。
 ただこの物語の強みは、尼~ずたちのキャラが強烈過ぎて、多少の誤謬も踏みつけて進行させてしまう強引さにあった、といっていい。
 だが物語終盤に来て、主人公月海(芳根京子)の才能を高く買うアパレル会社の社長(だったかな)の賀来賢人が登場してからその強引さが空中分解レベルになってしまったように感じる。
 話が最終コーナーを曲がった時点で混乱の頂点に達してしまったせいか、今この物語が結局どうなったのか、その記憶がほとんど残っていない。 残っているのは登場人物のキャラがみんなケッサクだった、ということだけだ。 三国志オタクや鉄道オタクは言うまでもなく、途中から出てきた安達祐実(リカちゃん人形みたいのに着せる極小ドレスを作らせると滅法スゲー 「虫けら」 が口癖のオタク)、インド人みたいな江口のり子、すべてが原作マンガそのもののキャラを楽しんで演じていた、というのがとても伝わった。 だからこのドラマはいいドラマだった。 そういう短絡的な結論が許せるドラマだった。
 そして芳根京子。 彼女のポテンシャルの奥深さが、さらに再認識させられたドラマでもあった。

 「BG」 はどうか。

 このドラマは木村拓哉がこれから突入するであろう壮年期に向けた、準備的な意味合いを持っているドラマだったのではないか、という気がしている。 続編についてどうなるのかは未知数であるが。

 彼の出演するドラマというのはここ数年、豪華な共演陣によって補佐されている。 それをテレビ朝日のように、何シーズンも継続していく息の長いドラマのサークルの中に自分を押し込めてしまおう、という意図が感じられるドラマだった、ということだ。
 このドラマにとって特にカンフル剤となったのが、以前共演した山口智子との化学反応だ。 このふたりの息はピッタリで、途中から山口がまたほぼ出なくなってしまったのはちょっと惜しい気がした。 ドラマの中でふたりはすでに離婚していたのだが、相手を貶しながらもどこかで信頼し合っている、まるでさんまと大竹しのぶでも見るような関係というのは、視聴する側からするととても魅力のある取り合わせだ。

 面白いキャラ設定だなと思ったのは、そのふたりの間の中学生くらいの息子。 彼は離婚調停後母親の山口の元で暮らしていたのだが、家出して木村のところに転がり込んだ。
 そいつがまた、ムチャクチャナマイキな設定なのだ。
 最初のうちは見ていてムカついていたのだが、そのうちに、「これって木村の若い頃のイメージとわざとダブらせているのでは?」 という気がしてきた。 そう考えると、木村が世間に台頭してきた頃が懐かしく思い出されて、ちょっと愛着が湧いて来たのだ。 やんちゃなイメージだった若かりし頃の木村拓哉。 木村はそのとっぽいイメージを大事に懐に抱き続けて、「いつまでたっても同じ演技」 などと嘲笑されながらも、頑なに自らのアイデンティティであるかのごとくそれを変えない。
 その彼が、かつての自分そっくりな生意気さを見せる、ドラマの中での息子を見るまなざしというのは、こちらにも妙な感慨を運んでくれるのだ。

 とりあえず続編については、期待したい。

2018年4月15日 (日)

冬ドラマいろいろの話の続き(「アンナチュラル」「FINAL CUT」「海月姫」「BG」)

 「続きはまた」 などと書いてからだいぶたった。 「タイトル詐欺」 などと思われては心外だから続きを書こうと思うが、別に大したことを書きたいわけでもない(ずいぶんふてぶてしいぞ)。

 で、「アンナチュラル」 である。 当ブログの前回記事では、さわりにファナティックの話をしたまま中断していた。

 今日びあちらこちらで大量殺人というのは起こるものだが、その犯行動機というのはいつも実に単純だ。 「アンナチュラル」 で尾上寛之が演じた犯人のように、法廷であまりにファナティックに自己顕示欲とか幼少時のトラウマとかと本人が言い出すと、精神鑑定に持ち込んで罪を逃れよう、という狡猾さえ透けて見えてくる。 リアルという面で 「スニッファー」 の松尾スズキには及ばなかったが、尾上の法廷での態度を思い返すと、社会に対する犯人の歪んだ断絶意識が澱のように沈澱していたことを実感する。

 「アンナチュラル」 がどうして面白かったのか、というと、作者である野木亜紀子の 「社会問題に対する意識」 が広範だったことと、野木が 「次世代型の道徳意識、正義感」 というものを強く持っていたことに起因していた気がする。

 このドラマで顕著だったのは、「現行法が認める犯罪すれすれのライン」 を行ったり来たりする行為だ。 特にその一線を軽視しまくって超えてばかりいたのはUDIラボのなかでも井浦新だったが、彼の正義感というのは自らが被害者の恋人だった、という私的怨恨から発生していた。 それを淵源とした彼の怒りは社会全体の 「クソな」 旧態依然としたルールに向けられ、文書偽造や報復の幇助などを行なったりする。 しまいには恋人を殺した尾上を殺そうとまでするが、彼の怒りというのは 「人を殺していながらその重大性を認識すらできないクソな」 犯人に対して、「だったら死ぬとはどういうものか教えてやる」、という論理の上に成立している。

 それに対して自らが親子心中事件の生き残りであったミコト(石原さとみ)は、社会に対する怒りを心の底に沈めたまま、「明らかにされないまま葬り去られていく真実」 の救済を追及していく。 石原は法廷で尾上に対して 「かわいそうな人間だ」 と憐れむが、犯人に対する怒りを社会全体が克服しなければ、被害者にとっても加害者にとっても真の意味での事件解決にはなり得ない、という野木の結論をそこに見た気がする。

 そのうえで、野木の広範な問題意識は、事実を隠蔽する巨大組織や、部数を伸ばす(最近では縮小する市場で生き残りを懸ける、というように変質しているが)ために 「真実の追求」「報道の自由」 を掲げるマスコミジャーナリズム、「白を黒といい含めてしまう」 検察、社員従業員を隷属させ搾取し続けるブラック企業、大学サークルの集団強姦、陰湿ないじめとネット動画サイトの暴走、ゴミ屋敷に雑居ビル火災、果ては仮想通貨にまで及んでいた。

 これは野木が徹底的な社会問題のリサーチを事前に行なったせいであろう。 それをひとつのテーマに括りつけるようにして物語を複雑化していった野木の手腕にはただただ恐れ入る。
 こんなのを見てしまったら、「正義のセ」 なんかとても見てらんないというのが正直なところだ(トホホ)。 いや、「正義のセ」 どころではない。 このドラマが伍するステージは、アメリカとか海外ドラマが相手なのだ。

 もう力尽きた。

 続きはまた(またかよ!)。

「半分、青い。」 第2週 残されていく独特な余韻

 第2週の終わりまで子役で繋いだこのドラマ。 主人公の片耳が聞こえなくなる。
 「片耳が聞こえなくなるくらいなんだっていうんだ? もう片方は聞こえるんだし大したことじゃないじゃないか」 と思いたくなるところであるが、診断を下した医師によってそれは予想以上に大変なことであることが両親に明かされる。 ただそのことが分からない子供時代の主人公、楡野鈴愛には、その重大性がピンとこない。

 私も重度の難聴であるが、正直なところ耳鳴りは両方で起きたときから寝るときまでずーっと鳴っている。 もし誰かが 「君の名は。」 みたいに私の体と入れ替わってしまったら、そのうるささに死にたくなってしまうだろうと思うほどだ。
 しかし当の本人ははたち前からずっとこの状態で、年々ひどくなっているのだろうが徐々になので慣れっこになってしまっている部分がある。 その重大性に気付かないのは本人だけなのだ。 だから健康診断で 「耳鼻科に行くように」 と言われても、いっこうに行こうという気にならない。 いや、正直に告白すると、何十万もする補聴器を買いたくないだけだ。

 一時それがかなりひどくなった時があって、片耳がほぼ聞こえなくなったときは、さすがに医者に行った。 そしたら原因は分からんがメニエル病の疑いとか。
 それが今回の朝ドラの主人公と同じような状態だったから、片耳のリスクには共感できる部分が多い。
 なにしろ、めまいがする。
 平衡感覚がなくなる。
 幸いその状態は改善されたのだが、重度の難聴という状態は変わらないので、仕事をしていても不便を感じることは多い。 はじめに 「耳が聞こえにくいので」 と断らなければならない面倒があるし、それでもわざとなのかぼそぼそしゃべってくる人間には、適当に合わせている場合もある。 相手によっては、「橋本はこちらの言うことに適当に答えるいい加減なヤツだ」 と不快に思われている向きもあるのではないだろうか。

 個人的な話が長くなってしまったが、「片耳聞こえないくらい別に大したことないじゃん」 ではないことは、ご理解いただけたかと思う。 特に音の立体感が失われるのは危険を伴ったりする。 この子は人生において結構なリスクを負うことになったのだ。

 母親の松雪泰子は医者からその大変さを詳細に聞いたときから、かなり悲観的になる。 ドラマのなかではいちばん絶望し、「そこまで悲しまなくても」 と思うほどなのだが、この松雪の哀しみには、この週の前半できちんと理由づけがなされている。
 いわく、「自分の娘は鈴愛(スズメ)という独特な名前のせいでいじめられていたのに、その名前を付けた自分を思いやって黙っていた」、というくだりだ。

 そしてこのドラマの優れたところは、そんな松雪の絶望に対して、周囲の人間があれこれと強引な修正を松雪に求めてこないところだ。
 悲しい時は、泣けばいい。
 松雪の夫である滝藤賢一はそうやって松雪を慰める。

 鈴愛は鈴愛で、別に自分の片耳が聞こえなくなった、と聞いても悲しくなかったし涙も出なかったが、それを母親を始め家族が悲しんでいることが悲しくて、律の前で大泣きしてしまう。 それは鈴愛の、母親や家族に対する優しさなのだ。

 悲しい時は、泣けばいい。

 その、「自然に受け入れていけばいいよ」、というドラマ全体の優しさによって、見る側の涙腺は緩むのである。

 そして、ドラマがいたずらに暗い方向にならないのは、子供時代の鈴愛と律がしゃべる、一種奇妙な昔言葉である。 「承知した」 など武将言葉なのはこの物語の舞台が戦国時代の中心だった岐阜だからか、とも思われるが、特に鈴愛は男言葉を使うことが多い。 これは助けたり助けられたり、という出来事のなかで、特に鈴愛と律のあいだだけはその立場がときどき逆転することの象徴なのかもしれない。 一方的な関係ではないのである。 互助関係なのである。

 その奇妙な言葉のやり取りはこちらの心を和ませ、そして奇妙な読後感をこちらに与えてくれる。 不思議なドラマだ。

 気が強くお転婆で人の心を思いやることのできる鈴愛であるが、第1週に続いて今週も、また恐ろしい夢を見たようだ。 先週は 「3本足のムーミンパパ」、今週は 「3つの月」 だ。
 ここで共通しているのは 「3」 という数字だが、「あり得ない、いつもと違う」 ということに対する恐怖が、鈴愛のなかに存在している可能性がある。 これも奇妙な引っかかりを見る側に残していく要因のひとつだ。

 次週から本格的に出演することになる永野芽郁。
 どのように成長した鈴愛を見せてくれるのだろう。

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BOOKS

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ記事より抜粋)。 この上巻ではビートルズの祖先から遡ってリバプールで人気に火が付き始めたところまでが書いてあります。

  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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