テレビ

2017年9月17日 (日)

「やすらぎの郷」 世俗と分別の境界線

 「名匠」 倉本聰が老人たちをテーマにした月-金、週5回で2クール、つまり半年のドラマを作る。
 そのことを聞いて最初に私が考えたのは、「老境を生きている自らの遺言をこの世に残そうとしている」、ということだった。 「北の国から」 の最終回で黒板五郎は遺言を書いたが、今度はテレビ界で生きてきた倉本聰、という一脚本家として、ひとりの老人として、未来の世代やテレビ界に対して一言物申そうとしている。 傾向としては数年前単発で放送された 「歸國」 で、太平洋戦争の英霊たちに現在の日本を嘆かせたのと同類だろうか。

 もともとこの企画は倉本氏個人によってフジテレビに持ち込まれたものだったらしい。 先に挙げた代表作 「北の国から」 をはじめ、「6羽のかもめ」「ライスカレー」「昨日、悲別で」「優しい時間」「風のガーデン」 など、印象的な作品を提供してきたフジテレビへの信頼、という部分もあったであろう。
 だが会社始まって以来の迷走のさなかで柔軟性に著しく欠いているフジテレビが、この企画を受け入れるはずもない。 結局この企画は 「相棒」「ドクターX」 など近年ドラマ部門が好調なテレビ朝日の度量によって実現された。

 ただ、今年4月から現実にスタートしたそのドラマを一瞥したとき、「フジテレビがなぜこのドラマを蹴ったのか」、というのは少し理解できる気がした。
 まず、キャスティングがべらぼうに予算を食いそうな点。 私より上の年代から見た場合、その顔触れを聞いただけで卒倒しそうなオールスターぶりなのだ。 しかも倉本氏はアテ書き(この役にはこの人、というイメージで脚本が書かれている、ということ)によってこの物語を構成しているから、ギャラが安そうなふつうの役者ではおそらく務まらない。

 主役に石坂浩二。
 八千草薫、有馬稲子、野際陽子、浅丘ルリ子、加賀まりこ…。

 ふつうのドラマなら、クレジットのオーラスにひとり出てくればじゅうぶんな大物ばかりである。

 そして肝心の内容であるが、これが 「やすらぎ」 とは対極にあるような、物欲、性欲、名声欲など、ありとあらゆる欲にまみれた俗物老人の描写が延々と続くのだ。 冒険を怖がっているようなテレビマンは絶対に手を出さない 「危険物ドラマ」。

 そもそも主人公をはじめ登場人物たちは、実によくタバコを吸う。 これはヘビースモーカーである倉本氏の主張であることは明白だが、まずこれが 「タバコ嫌い」 の昨今の傾向に対する大いなる挑発だ。

 そして主人公をはじめ、老いた登場人物のほとんどが 「身勝手」 というワードで括られる。
 このドラマの舞台は 「かつて一世を風靡しテレビ界に多大なる貢献をした老人たちを住まわせるホーム」 というものであるから、彼らは一様に 「地位も名誉もカネもある」 老人たちだ(一部除くが)。 そういう立場で自分たちの価値観が動いているから、どうしても自分の悪いところは棚に置いてものごとの良し悪しを論じることになる。
 特に 「主人公が間違っている」、というのは毎日放送されるドラマにとって致命的といっていい点であろう。 主人公というのはドラマの中で、視聴者が否が応でも毎日顔を突き合わせる人物だ。 その主人公が自分だけの身勝手な論理で物語の誘導役になる。 それを倉本氏があえてやっているということで、倉本氏が驕り昂ぶっている、もしくは筆が衰えたと容易に誤解されがちだ。

 さらにこのドラマが誤解されやすいもうひとつの点は、このドラマが基本的に 「コメディ」 を言語として使用している点にある。 コメディはそのドラマの作り手が言いたいことを煙に巻いて誤魔化し、真面目に受け取られることを拒絶する。 そういう誤魔化しを、視聴者たちは本能的に毛嫌いする傾向にある。 「コメディはコメディとして」。 これが視聴者の思いだ。 笑えない部分で笑わそうとすると嫌がられるのだ。

 しかしここに挙げたいくつかの点は、実はつい最近、限定すればネット社会の普及によって啓発され形成された社会的コンセンサスであることに、我々はもっと気付かなければならない。

 まず我々は、つい最近まで 「タバコ社会」 のなかで生きてきた。 タバコを吸う人たちはかつて多数派だったのだが、それに迷惑を感じている人は実は多かったのだ。 そしてタバコは健康に悪い。 これも早くから言われてきたことだ。 社会によるタバコの駆逐化は、じわじわと浸透していた。
 それがネット社会の誕生により、その科学的実証が広く浸透し同時に社会的なコンセンサスが一気に膨らんだ、と私は考えている。 副流煙とか妊婦への影響、公共の場所における完全禁煙、といった類のことだ。 これはアメリカやヨーロッパなど全世界的な潮流でもある。
 そしてここからが問題なのだが、そのコンセンサスは表現におけるタバコの存在も駆逐し始めた。 例えばひと昔前の日本を舞台にしたドラマでもアニメでも、タバコを吸う人間が出てくるとヒステリックなほど批判が噴出する、という具合に。 「子供に悪い影響を与える」、というのだ。

 倉本氏の主張というのは、もっと自己中心的なものだと私は考えている。 ドラマの中で倉本氏がモデルと思われる主人公、菊村栄はやすらぎの郷で個人個人にあてがわれたヴィラのなかでスパスパタバコを吸い続けるのだが、それは菊村自身が死んだあとヤニだらけのヴィラの壁洗浄とかこの部屋をリニューアルする人たちの苦労がまったく自分の頭のなかにない、ということと同義だ。 そしてそれは、自分はカネがあるからそういうリニューアルもそのカネの中から出せばいいでしょ、という 「カネ持ち」 としての意識が、そういう思考回路を菊村の中から消去しているのだ。

 おそらく倉本氏としては、そういう壁にこびりついたヤニさえも、「その人が生きた証と捉え、その人を思い出すよすがに出来ないのか」、という気持ちが無意識でもどこかにあるのだろう。 具体的にそこまで考えているかどうかは分からないが。

 このことひとつとっても、それが受け入れられるかどうかは、「人に迷惑をかけることの良し悪し」 を私たちがどう判断するか、ということにかかっている、と私は思う。

 今の世の中は、「人に迷惑をかける」 ということを絶対悪として捉えがちだ。 そしてその裏では、「人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」、という逆の心理も形成されている。

 しかし、ヤニを取るために苦労をするのが絶対悪であるというようには、私にはどこか思えない部分がある。 その人が生きた場所。 その名残というものは、自らが望もうが望むまいがその場所に居座り続けるのだ。 それに思いを馳せられる人間でいたい、と私は思う。

 ただ、私自身はタバコをずいぶん前にやめているのでそういう痕跡は壁にはつかないだろう(笑)。
 それでもかつて吸っていたから思うのだが、タバコというのはひとつの文化でもあろう、と。 それをやみくもに否定する気にはなれない。 マナーの問題であろう、と。

 まあ、このドラマから垣間見える倉本氏の主張には、ことタバコに関しては 「好きなように吸わせろ」 という強引さが目につくような気もする(笑)。

 「人に迷惑をかける」、という点についてもう少し突っ込もう。 このドラマは、「大迷惑な人」 がたびたび登場する。

 そのひとりが、富士眞奈美が演じた犬山小春だ。 彼女は津川雅彦演じる元テレビ局プロデューサーと一緒にやすらぎの郷を訪れ、有馬稲子演じる及川しのぶに多大なる迷惑をかけるのだが、彼女の存在はやすらぎの郷でも招かれざる客という立ち位置であったにもかかわらず、その最期まで針で突き刺すようなちくちくとした悲愴な痛みを見る側に植え付けた。
 そしてその迷惑をかけられた及川しのぶであるが、もともと認知症気味だったのがその事件によって加速し、これもやすらぎの郷に多大なる迷惑をかけながら施設を後にする。 それで済むかと思ったらその後入れられた那須の認知症施設から抜け出しまたひと騒動起こすのだが、彼女の存在も人生の滑稽さと哀しみ、という悲喜劇が同居している。

 このように 「大迷惑な人」 というのは、現在の思慮深い人々にとっては受け入れがたい人種だ。 しかし倉本氏は、そういう人たちに対して現在のドラマの作り手よりもはるかに同情的で慈愛に満ちた見方をしている。
 「北の国から」 でも林美智子が演じた正吉の母親がいた。 彼女は主人公の黒板五郎に自分の息子を押しつけ失踪する。
 彼女たちは一様に哀れで、「思うようにいかない人生」 の体現者である。

 今のテレビドラマというのは、ちょっと出しゃばったりとかうざったいキャラというのは出てくるが、ここまで 「人生そのものが失敗だった」、という人はなかなか出てこない。 ドラマにとって反作用的な働きをするのはたいていがワルモノであるが、そのワルモノにしたって自分の信念に従って行動していたりする。 倉本氏のドラマに出てくる反作用的な人たちというのは、「自分の悪い部分に翻弄されて人生をダメにし、それを自覚しながら周囲を巻き込みさらにダメになる」、という悪循環のなかにいる。 どちらがリアルかと言えば、紛れもなく後者であろう。 もっと突っ込んで言えば、ワルモノというのはどんなに自己正当化しても、所詮ガキっぽい、ということだ。 本当に悲劇なのは、人生そのものを踏み誤った 「信念のない、業による」 ネガティヴシンキングなのだ。

 しかしだからこそ、倉本氏はそうした 「業による失敗者」 を冷たい目で見ようとしない。 犬山小春は確かに悲劇的な最期を遂げた。 及川しのぶの人生も哀れを極めている。 しかしドラマは、どこかに少しの救いを与えている。
 「大迷惑な人」 にも少しも臆することなく目を向けられる。 ドラマがそのことをしなかったら、いったい人生の何を描くんだ、という倉本氏の主張を、そこに見る気がする。

 「主人公が間違っている」、ということは、いくつかの事例を挙げることが出来る。

 つい最近の事例だが、菊村の20歳になる孫娘が52歳(私と同い年だ)の中年IT実業家を連れて来て、「この人と結婚する。 つきましてはこの人の現在の奥さんとの離婚調停でお金があと1500万足りないから、おじいちゃん出して」、と頼みに来たとき、菊村はそのあまりの出来事に血圧200越えの衝撃を受けながら(笑)「この金はおじいちゃんだけが稼いだんじゃない。 おばあちゃんと一緒に稼いだ金なんだ」、と涙ながらに拒絶する。
 しかし菊村は、ここで自分が不倫していただのなんだのという自らの過ちを棚に上げている。
 いや、完全に頭にない。

 ここで見る側が注意しなければならないのは、「孫娘も菊村も、勝手なこと言ってらあ」 ということではないのだ。
 途方もないお願い事をするのに順序立てて相手を納得してもらえるような話し方なんかなかなかできないし、それを受けて逆上してしまったら、なかなか自分の悪いところなんか考慮して話なんかできない、ということなのだ。 そして菊村は、かつて自分が不倫した相手を完全に自らの思考から閉め出して、不実をした自らの妻、律子(風吹ジュン)の苦しみを自分の苦しみに(あざとくも)一体化させて自らを正当化させ、自らを感極まらせている。 限りなくそれは自己中心的で、視聴者からすれば 「それは違うだろ」 ということなのであるが、作り手の言いたいことは菊村の正当性じゃない。 人と人との関係なんてものは、こうした 「ちょっとした間違い、大きな間違い」 に絡められながらそれに気付かず、またはそれに気付いて反省し、進行していくものなのだ、ということだ。

 菊村は、自分じゃいっぱしの常識人ぶっているが、実はマロ(ミッキー・カーチス)とかお嬢(浅丘)、マヤ(加賀)などと同じ、うわさ好きの俗物である。 しかも自分の死んだ妻の水着写真を密かに飾ったり(笑)若い女の子が自分を慕ってくれれば恋愛感情が頭をもたげ、そしてタバコはスパスパ吸う(笑)。 でもそれが、人間臭さというものだ。

 現代人は、こうした人間臭さというものを、「分別」 という鎧によって無菌化しどんどん脱ぎ去っているのではないか。 そしてその先にあるのは、「分別のある未来人たち」、という 「成熟した社会」 なのではないか。 このドラマがある種の人々にとって受け入れ難いものであるのは、そこに原因があるように私には感じられる。

 例えば極端な例であるが、「源氏物語」 というのは現代からみれば男女の関係がハチャメチャもいいところなのであるが、それを私たちは 「平安時代の価値観によってつくられているから」、というフィルターで見ている。
 倉本氏が描いているこのドラマの価値観というのは、実はもうそれと同じで、「やすらぎの郷」、という異空間、閉ざされた場所でしか成立し得ないものになりつつある。

 そのなかでただひとりだけ、この世界とつながっている人物がいた。
 それが八千草薫演じる、九条摂子だった。

 彼女は世俗的な欲望とは無縁で、「自分の気に入らない人を茄子に見立てて揚げる」、みたいなこともやっていたが、(その実効性は置いといて)それもあくまでおままごとの世界。 彼女もアッツ島玉砕で死んだ映画監督との不倫をしていたわけだが、それもあくまで純愛。 彼女はその処女性を死ぬまで維持し続けたわけだ。

 その彼女が亡くなったとき、どこから集まったのか 「やすらぎの郷」 の入り口付近には現地の人々が集まって彼女の乗った霊柩車に手を合わせ、赤坂の葬儀場には一般の人々が押し掛けた。
 彼女の存在は世俗にまみれたやすらぎの郷の中では特異な 「聖なる存在」 であり、現代人の感覚からいっても 「カワイイ」 のカテゴリに入る存在だった。 だからこそ彼女の死には大勢の人が追悼の意を表したのだ。

 彼女があと先長くないのに断捨離を勧めた、としてみんなの非難を浴びたマヤ。 そんなマヤにしても自らの正当性を主張しながら、結局 「いい葬儀だった」 と九条摂子の葬儀の模様を菊村に報告しに来る。
 しかしそれは、マヤが自分の過ちをうやむやにしよう、とする行為でこそあれ、それを見る側がどうこう言うのはおかしいことであることに、見る側は気付かなければならない。
 人の行為のなかには、いつも自分を正当化させる何ものかが潜んでいる。
 ドラマというのはそこを表現するものであり、けっして 「一番正しいものとはこれだ」、と主張するものではない、ということだ。

 このドラマが 「老人たちを侮るな」、という側面をいつも持っていることに、異論を差し挟むつもりはない。 おそらく 「強い老人たちもいるんだ」「強い、ということはその人を守る覚悟があるか、ということだ」、ということを言いたいがために 「やすらぎの郷」 でバーテンダーをするハッピー(松岡茉優)もレイプされたのであろう。 ここのくだりはさすがに私も 「昔のドラマみたいだな」 と感じたものだが、「人生というのはけっして順風満帆でいくものではない。 ごくたまに、こうした出会いがしらの不幸な事件が待ち構えている。 特に少女たちにとっては」、ということに思いを致すべきだろう。 あれからハッピーは表情にどことなく愁いを帯びるようになった。 ハッピーは、人生に待ち受けている 「打ち消したい過去の傷」 を持つに至ったのだ。

 さらにこのドラマの特徴として、「年の差婚」、というのがある。 いくつかの事例が見られるが、ここでも 「世間的常識と自分の感情との折り合い」、ということを考えてみたくなる。
 特に興味深かったのは、「自分と同い年の女が自分のおじいちゃんと結婚することにはどうしても我慢がならない」、というマロの孫娘の話だった。 一歳でも年上、年下でも構わないが、同い年というのが受け入れられない、というのだ。 菊村はその理屈を 「分かった」 と言いながら 「(分からなかった)」 と心の中で反駁するのだが(笑った)、これもいろいろとあとから考えると面白い話だ。

 つまり、自分と同い年の人というのは、自分とまったく同じ時代を生きてきた人、という点で同じ価値観の変遷の中で生きてきた同志なのだ。 それが一年でも違えば、少しずつずれが出るために、自分と同類と思わなくなる。 自分と同類でなければまあ、ある程度の常識外れのことも受け入れられる。
 こういう心理状態なのではないか。

 しかしこれも振り返れば身勝手な論理で、少し滑稽ですらある。 自分と同い年でも、違う価値観の人は大勢いるからだ。
 このように、自分の感情のなかで自分の分別が決定される、私たちはそんな心の動きの中で、自らの人生を生きているのではないか。 このドラマは 「分別」 という名目でがんじがらめになりつつある、自分の気持ちに余裕とか遊びを思い起こさせてくれる。

 このドラマの大きなテーマとしての 「老い」。 それについて壮大なメッセージがあるようには、今のところ私には感じられない。 あるのは、九条摂子が死んだときにこの施設の理事長である名倉(名高達雄)が話した、「覚悟と納得」、ということに尽きようか。

 このドラマの当初の見ものと言えば、主演の石坂浩二と主な脇役ふたりの過去の関係が取り沙汰されたことだろう。
 しかし当初危惧されたように、高齢の出演者ばかりのなかで野際陽子サンが放送途中で亡くなった。
 彼女の病状に従って、出演シーンは前倒しで収録されたらしいのだが、その彼女、結構いつまでも出てくるんだよなあ。 私はそのことが気になって仕方ない。 いったいいつまで出てくるのか。
 そしてこのドラマが、どのような終わり方をしていくのか。 まったく予測がつかないのも面白い。 私はこの物語の設定自体が途方もないので、「もしかしたら菊村の夢オチ、ならぬボケオチなのではないか」、と考えたこともある。

 ただ、NHKの朝ドラも見ている関係上、毎日続く連ドラというのは少し勘弁してもらいたい部分もある。 次回作が黒柳徹子サンの話で大石静氏の脚本だ、というから、このしんどいのは当分続きそうだ。

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2017年9月 3日 (日)

「植木等とのぼせもん」 第1回 植木等を、昭和を語ることのむずかしさ

 なんとかいう俳優が問題を起こしたために丸々1本ダメになったNHKの土曜ドラマ。 BSでやっていた 「ブシメシ!」 を再編集してこの夏はなんとか切り抜けたが、BSでやってたとき見てたけどこれってかなりヌルい作品で(笑)。 「真田丸」 であの当たり役をかました草刈正雄サンが出るような作品じゃない、と思ってたけど。
 まあそれはいいとして、その 「ヌルさ」 が最近のNHK土曜ドラマのひとつのキーワードであるようにも思える。 それが 「ブシメシ!」 と妙に合ってたのかもしれないが、「ハゲタカ」「外事警察」 などの土曜ドラマに慣れ親しんだ者としては、この30分枠、というのがどうにも歯がゆい。

 今回の 「植木等とのぼせもん」 も、第1回を見る限り、いかんせんその 「ヌルい」 域を出ない。
 これは去年やった 「トットひとり」 と同じにカテゴライズされる。 つまり、「テレビ黄金時代の再現」、である。
 しかし周到に用意された 「トットひとり」 に対して、全体的にかなり 「モノマネ大会」 という印象を受けた。 だいいち、アナログでゴーストたっぷりで放送されていたシャボン玉ホリデーのような番組が、ハイビジョン画像で流れるのだ。 その違和感と言ったら。 まだ 「ひよっこ」 でみね子が番組内コマーシャルに出ていたテレビ番組のほうがしっくりきてたような気がする。

 「トットひとり」 では、満島ひかりの神業的な黒柳徹子ぶりに舌を巻いたものだが、今回の山本耕史もかなり植木等のしゃべり方、しぐさなどを研究したように見受けられる。 ホントに植木等のしゃべり方ってこんなだったよなあ、と思わせるにじゅうぶんなのだ。

 だが、なんか違う(笑)。

 なにが違うんだろう。 満島ひかりのときは気にならなかったものが、山本耕史にはある。

 それは、山本耕史が植木等を作り過ぎているのではないか、という点だ。 山本耕史は本来、こういうしゃべり方ではない。 満島が黒柳徹子を演じていたときは、黒柳徹子を感じながら同時にそこに満島がいる、という感じがしたのだが、今回の山本耕史にはそれがない。

 簡単に言わせていただくと、「単なるモノマネの域を出ていない」、ということになろうか。 植木等という強力なキャラクターは、残念ながら植木等本人にしかできない。 だからこそ山本は、「山本耕史」 という演技者を自分の中から追い出さねば、植木等になりきれないのだ。

 この危険度は、実は山本だからこの程度で収まっている、と考えたほうがいいかもしれない。 番宣でちらっと見たが、園まりとか伊東ゆかりとか、もうなんというか 「冒涜」 の域なのだ。 もちっと人選を考えたほうがいい。 まあ別にいいけど。

 そうした点でちょっと安心するのは、ナベプロの社長を演じている高橋和也がいかにも当時の業界人を 「ぽく」 こなしている点だ。 あとは伊東四朗サンが植木の父親役としてドラマをしっかりと後支えしている。

 そしてこのドラマでもっとも私が注目しているのは、「昔の芸能人が持っていた矜持、プライドというものをどこまで見せてくれるのか」、ということだ。 世間に対するイメージとはあまりにもかけ離れた植木等の生真面目さ。 「仕事というものはこうでなければならないんだよ」、というある種のストイックさは、現代ではとうに失われたもののような気がしてならない。

 そのせめぎ合いを見せてくれるきっかけが、若き日の小松政夫ということになろうが、若き日の小松を演じる志尊淳は第1回を見る限りかなり浮いた演技(かれは 「表参道高校合唱部」 で病弱な男の子を演じていたのが印象的だったが)。 2回目以降どう変化していくのかは見ものだ。

 それにしてもだ。

 クレイジーキャッツの話をしようとすれば、かなり一家言持っている人が多いのが現実だろう。 彼らをよく知っている人たちであれば、このドラマは噴飯ものであろうことは想像がつく。 私はドリフ世代なのでクレイジーのことはよく知らないほうだが(この歳にしちゃ知ってるほうか)、もしドリフがこのようなドラマになったら、やはりどんなによく出来ていてもかなり辛めに批評するだろう。 人気マンガの実写化と同じような感じ、とでもいうのか。 「よく出来てる」 を超越しないと、なかなか受け入れられない 「難しいタイプのドラマ」 なのではないだろうか。

 まあ、そんな堅苦しいことを考えないで見るのがいちばんだとは思うのだが。

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2017年9月 2日 (土)

「おんな城主 直虎」 第33回 の話の続き…(31回から34回まで…)

 小野但馬政次の死には周到に用意された発端というべきものがあった。
 すなわち寿桂尼と直虎の最後の会見であるが、ここでこの先長くない寿桂尼は 「今川をよろしゅう」 と涙ながらにしおらしく直虎に訴えて直虎の同情を喚起しながらも、直虎の 「城主ともなるといろいろ大変で」 みたいな反応を見て 「こいつはブー(信用ならないので氏真、あとで殺してね)」 という遺言をデス・ノートに遺したことだ。 直虎も寿桂尼に従うふりを見せて裏では徳川と通じていたのだが。

 まずこの、寿桂尼と直虎双方の「表の顔と裏の顔」、という心理戦が面白かった。
 直虎はおとわ時代、もっとストレートに寿桂尼に対して井伊の安堵を要求していたものなのだが、時を経てその主従関係が変質していたことに、物語の妙を感じるのだ。

 そして寿桂尼の恐るべき裏の顔。
 「武田信玄」 で今は亡き岸田今日子が演じた寿桂尼はただただ今川氏真の無能ぶりを嘆き家臣の裏切りに錯乱をする、怨恨うずまく激情の女であったのだが、浅丘ルリ子が演じた寿桂尼は 「人は裏切るもの」、という人生訓を身に付け、井伊にとっては底の知れない巨大な存在のまま、その生を全うした女として描かれた。 浅丘の演技は氏真による井伊の所領没収という極端な行動を、最後まで蹂躙する印象深いものだった。 記憶に残る名演である。

 そして寿桂尼は 「小野但馬は今川に従うふりをして実は直虎とつながっている」、ということを最後に見抜いた。 これが小野但馬を最期まで窮地に追い込んでいく。
 「領民への借金棒引き」 である徳政令を自分の頭越しに今川に行なわれたことで、但馬は寿桂尼に自分が信用されていなかったことを理解した。 但馬は徳川による今川侵攻という 「将来の予定」 になんとか望みを託して、「ワルモノ」 としての自分のレベルアップを図ったのだ。 但馬は 「表面上」、井伊を井伊谷から追い出した。

 ここで感心したのは、井伊谷から追い出された井伊家の人々の向かった先に、ストーリー上途中まったく忘れ去られてしまっていたかに見えた、「井伊の隠し里」 がにわかに浮上したことだ。

 この隠し里を虎松に見せる機会をここで設けたことで、虎松が井伊の先祖代々に渡る 「この地を守る戦い」 を学ぶ、という話が作り上げられた。 ここで用意された住まいがまったく使われていないのに対して田畑は黄金の実りを迎えているとか(要するに、これだけの田畑を耕すのに、常に人員がこの地に入っていないのは不自然だ、ということ)、ちょっと細かいディティールが疎かになっていたことはこの際見逃そう。
 肝心なのは、虎松がこの地を守る、ひいては一族を守る、という意識をここで育んだ、ということだ。 これはいわば、「なにも資料がないところから作られた話」、のひとつである。 この作者の創造性は素晴らしいと素直に感じる。

 徳政令の時点より、政次と直虎の意思疎通がしばらく途絶える。 これもストーリーにとってかなり重要なポイントであった。 政次が 「フェイクレベル」 のアップを図ったことで直虎側に 「信じているけど何を考えているのじゃ」 と疑心暗鬼の水位を上げていく演出。
 ここに 「虎松の首を差し出せ」、という氏真のさらなる要求が絡んだことで、物語の緊張感は極度に上がっていく。
 ここで作り手は、「別の子供を殺して虎松の首と偽る」、という、このところの大河ではあまり見かけたことのない 「警戒水域」 に踏み込む。 政次の手を子供の血に染めることで、「地獄へは俺が行く」、という政次の死出の旅路はさらに暗示されていく、という設計図だ。

 第31回 「虎松の首」 はこの、首検分の場で大きなクライマックスに達した。 虎松 「とされる」 首を見た直虎。 その瞬間に、それまで天井知らずだった政次への疑心暗鬼が一気に氷解し、「そのために何が犠牲になったのか」、を直虎は理解するのだ。
 この、犠牲となった男の子の首は画面には出てこない。 だが慌てる関口方の言い分によれば 「こんな厚い化粧をしていては誰だかわからないではないか」。 つまり政次が斬ったのは、疱瘡で余命いくばくもない子供の首だったのだ。
 そのことを一瞬で理解した直虎は、その首を抱きしめ読経を始める。 これは関口への芝居、という側面も兼ねているが、尼小僧である直虎の紛れもない自発的行動だ、というところが作り手の優れている点だ。

 作り手はさらに、関口の謀反への足掛かりもここで同時につけていた。 こうした複数の小さな川の流れが合流していくから、「大河ドラマ」 という物語は成立していくのである。

 第32回 「復活の火」 では、関口が今川から徳川に寝返り、ようやく直接的会見がなった直虎と政次の間で、「徳川が井伊谷に来れば無条件で城を明け渡す」、という段取りが組まれる。
 しかしここで合流していく支流に異端子が存在した。 今川から目付三人衆のひとりとして井伊の目付をしていた近藤氏である。
 近藤氏はもともと自領の木材を井伊(正確には龍雲丸一味)に盗まれ、その後仏像事件などで遺恨を募らせていた。 だから小野政次の死の発端というのは寿桂尼の判断からでなく、材木盗難事件からさらに作り手によって周到に仕組まれていた、と見てもよい。

 結局城明け渡しの際に近藤が仕掛けた見せかけの徳川への攻撃の際に、直虎はその不穏な空気をいち早く察して政次に 「これは罠じゃ、逃げよ!」 と叫ぶ。
 政次も瞬時にそれを悟りその場を撤収するのだが、近藤が徳川に対して 「小野は信用がならぬ」 と言い出すのも、直虎と政次がとっさにそのような行動を取ったのも、これまで相手を調略し欺いてきた経験則がモノを言っていることに注目すべきだろう。 そこを 「リアルではない」、と考える人たちは、「状況の混乱」 という場に出くわしたことがないのだ。

 今の世の中は、なんでも 「ああすればよかった、こうすべきだった」 という 「結果を見てモノを言う」、ということがまかり通っている。
 しかし咄嗟のときに最良の方法をとれるケースなど、どれほどあるのだろうか。 咄嗟でないにしても、事務的な申し送りでもない限り、「この人とはこういう話で自分の思う方向に持っていこう」、と臨んで始めた会話で、その通りになることがいかに難しいか(そして分かっていても間違っていることをしてしまう、という、自ら持っている人としての業by植木等、みたいな?)。
 

 そして第33回、「嫌われ政次の一生」。

 ここでも 「こうすればもっとよかった」、という 「判断の分かれ道」 は多数存在する。
 そのもっとも主だった点と言えば、之の字、すなわち中野直之が徳川入城の際に弓を射かけた近藤の手の者を捕まえながら、自害を許してしまったところであろうか。 例え亡骸であろうとも、中野がその者を近藤の前につき出せばまだ、遅れて入城してきた家康にも申し開きが出来る余地というものが残されていたのではないか、ということだ。

 だが、そもそも家康も近藤を少し疑ってかかっている。 それなのに、政次の逃亡を促したことで牢に入れられた直虎に対して、家康は土下座をし、ザザムシのようにそのまま後ずさりして退場していく(笑)。

 これはどういうことだったのだろう。

 これはあまりに早い武田方の今川攻略でいちいち井伊谷の揉め事にかかずらわっている時間がなくなった、ということなのだろうと思うが、ここで気になるのは徳川の家臣で江戸時代には老中の重職を代々務めることになる酒井氏のふるまいである。
 先のコメント欄にも書いたのだが、私がここ数回気になっているのは、虎松、のちの井伊直政が徳川の家来になる、というのに、このドラマの中での徳川、そして徳川の家臣のイメージがとても悪い、ということだ。 作り手は政次が死んだあと、どのような筋書きで井伊を気持ちよく徳川の配下にしていくのだろうか。 第34回の 「隠し砦の龍雲丸」 ではさらに、気賀があまり上品とは言い難い形で徳川に下っていく。

 この徳川を束ねる家康も、発展途上の段階であるとはいえ、あまりにも頼りない描かれ方で、直虎が昵懇の瀬名姫をつてとして頼っているのは分かるのだが、「今川を裏切って徳川に寝返る」、という価値のある男なのか甚だ疑問だ。 これほど頼りなく家来たちの心証が悪いのであれば、その時点であれば武田方についたほうが得策なのではないか、と思う時がある。
 しかしこのドラマにおける武田信玄の描かれ方は、中井貴一主演だった大河 「武田信玄」 とはまるで逆。 いや、トータルなパブリックイメージでいけば中井の 「信玄」 のほうが真逆だったのだと思う。 信玄と言えば調略謀略。 今回の松平健のようにゲハゲハ笑いながら謀りごとを楽しんでいた、そうだとすれば直虎にとって武田につく、という選択肢にはなり得なかったのだろう。 もともとの発端は武田信玄が正室の息子を死に至らしめてその息子の嫁だった今川の娘を返したことから武田・今川・北条の三国同盟を一方的にないがしろにしてきたことなのだ。
 それが、のちに 「赤備」 という共通項で井伊と武田は語られるのだから興味深い。

 この武田のあまりに早い 「侵掠」 が小野但馬政次の判断を 「狭めた」、ということもこの第33回では見てとれる気がする。
 城明け渡しの場から逃亡した政次は隠し里に文字通り身を隠すが、「そこから申し開きの手段を模索するということはできなかったのか」、という疑問もふと浮かぶ。
 けれども申し開きをしようにも、徳川は武田の援軍に駆り出され、井伊谷城を任されているのは近藤氏。 政次が出した結論は、「近藤は井伊のことよりもこれまでの遺恨により小野を潰すことを狙っている。 だったらここで近藤の思い通りにすれば、徳川による井伊の疑いは晴れ、さらにことの真相を知る(いや張本人である)近藤は今後井伊に負い目を作ることになり、けっして手出しが出来なくなるに違いない」。 つまり、「俺ひとりが犠牲になれば、もっとも血が流れなくて済む」(龍雲丸に語った本人の証言)。

 そして政次は、近藤の寝所を急襲し、わざと捕まるのだ。

 ここから物語は一気に大河の急流に差し掛かるわけだが、これらのくだりはここまで今年の大河ドラマを引っ張ってきた小野政次、彼を演じた高橋一生に対する作り手の敬意に包まれている。

 政次はこうした危機的状況になる前から、義理の妹であるなつと夫婦になる約束を交わしていた。 これは、自らの直虎(おとわ)に対する思いがあまりにも激しすぎることに戸惑ったせいなのかもしれない。 「今川がなくなれば次郎様(直虎)と一緒になれない理由がなくなる」、と考えていたなつに、政次は膝枕をせがんでいた。 その姿はまるで子供のように無邪気で、政次が望んでいたのは 「休息が出来る膝」 だったのではないか、と想像させるに難くない。 それを直虎に望むのは上下関係から無理であり、また直虎の性格を考えれば、それは直虎にとって酷であろう。
 政次にとって直虎は、「同じ苦難を一緒に戦ってきた戦友」 になり過ぎてしまった。
 直虎に対する幼い頃からのその思いを振り切ったからこそ、政次はこれから起きる人生最大の試練に立ち向かうことが出来たのであろう。

 近藤の寝所を襲った政次はボコボコにされて直虎と入れ替わりに牢に入れられるが、その際に直虎と言葉を交わした際、「私のことを信じていたとはおめでたい」 などと不遜な口を聞きながら、政次は直虎のことをじっと見つめ続ける。

 この、「目で何かを訴えかける」、というのが政次がとった最後のコンタクトの方法であった。

 前回述べたように、政次から託された白い碁石に、直虎は 「我をうまく使え。我も、そなたをうまく使う」 というかつて政次に言った自らの言葉を反芻させていく。 そして至った、ある残酷な結論。

 辞世の句を書き終え、牢から出される政次。 右足を引きずり、極度に猫背なその姿は、近藤方に相当痛めつけられた証であるが、まるで小男のようであり、惨めさが全身から漲っている、高橋の迫真の演技だ。
 刑場へと連れて来られた政次は、直虎と目が合う。 惨めななりをしているのに、その目だけは一直線に、直虎を貫くかのようだ。
 直虎も熟考の末至った残酷な結論を、目だけで政次に知らせようとしている。 結末を知ってしまっているからこのような書きかたが出来るが、じっさいのところこの時点で直虎の結論など見ている側には分からない。 それでもこの視線のまっすぐな交差が、見ている側に与える重々しさは尋常ではない。

 磔にされ、ふたりの執行人が政次を槍で突こうとしたその瞬間。

 直虎がそばにいた者の槍を奪い、政次に向かって突進していく。

 驚く南渓和尚、傑山、そして近藤。 政次を見据え、構える直虎。

 鈍い音が響き、うなだれる政次。 政次をひと突きにしたのは、直虎だったのだ。

 「地獄へ落ちろ…小野但馬…!

 …地獄へ…!

 ようも…ようもここまで我を欺いてくれたな…!

 遠江一、日の本一の卑怯者と、未来永劫語り伝えてやるわ…!」

 憎しみに歪んだ直虎の表情。 だが政次は、「そうだ、それでいいんだ」、というようににっこり笑い、血へどを吐く。 そしてこの人生すべてを懸けた大芝居の大団円を、自ら演出するのだ。

 「…笑止…。

 未来など…

 もとより、女子(おなご)頼りの井伊に…未来などあると思うのか…!

 生き抜けるなどと思うておるのか…!

 家老ごときにたやすく謀(たばか)られるような愚かな井伊が…。

 やれるものならやってみよ…!

 地獄の底から…!

 見届け…

 …

 …」

 息絶える政次。

 政次の最期、それまで憎しみをたたえていた直虎の目から、急速に光が失われていく。 そしてあるがままを映すだけの静かな目になっていく。 高橋の渾身の演技にこたえるように、柴咲コウの目だけの演技も、ここに最高潮に達した。

 近藤に向かって一礼をし、その場を去る直虎。 長い間大河ドラマというものを見てきたが、このシーンは確実に、永く伝えられていくシーンであると断言する。 話によればこのシーンは、すでに出されているノベルティ本にもなかったラストシーンであったようだ。 ノベルティ本で先読みしていた人たちにも、さぞショッキングなシーンであったことだろう。

 近頃ではドラマの中で人気のある人が死んだりすると○○ロス、というのが流行っているようだが、いちばん政次ロスになったのは直虎であった。 次の第34回で直虎は記憶の退行症状をきたし、自分が政次を槍でひと突きして殺した、という事実を忘れてしまっていた。
 だがその間にも気賀が徳川方の酒井の手によって無残に蹂躙され、盗賊の連中もあまりに簡単に、無造作に殺されていく。 そして龍雲丸も…?これは直虎の夢と交錯して事実なのかどうかまだ分からない。 だが直虎にとって茨の道は、当分続きそうな気配ではある。

 あ~ここまで書くのに2週間近くかかったぁ~。
 もうダメだなこのブログ。 気力が続かない。 年も年だし。 とりあえず皆様にこの駄文をお届けいたします。

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2017年8月22日 (火)

「おんな城主 直虎」 第33回 小野但馬のコペルニクス的転回(以下続く…?)

 あまり知られていない人物を大河ドラマの主役に据える場合、そのいちばんの弱点である 「資料の少なさ」 をどう克服すべきか。 この大きな課題に対してこれまでの大河の前例を思い返すと、けっして成功してきたとは言えないことが分かるだろう。
 「おんな城主 直虎」 の場合、この主人公がそもそも男であったか女であったかの証明さえままならない。 しかし 「おんな」、と決めた以上、直虎=次郎法師=女である、という命題に従って物語は構築されねばならない。

 ここで脚本家の森下氏が打ち出した最初の設定が、のちに徳川家康の主要な家臣となる井伊直政の父親・直親(亀)と、井伊家の家臣だった小野家の嫡男・政次(鶴)を、主人公の直虎(おとわ)と幼馴染にさせる、というものであった。
 そしておきゃんな娘であるおとわに対して、そのふたりの男の子は、それぞれに秘めた恋を抱く。 直虎が女でなければ成立しない設定である。

 ここで物語的に大きなねじれを生じる原因となったのが、その小野の嫡男・但馬守政次が、父親に引き続いて史実的に完全なワルモノであった、ということだった。
 史実がワルモノであるのだから、小野政次もワルモノでなければならない。
 しかし設定上、政次は直虎に心を寄せている。
 このねじれを利用して、森下氏は 「表面上は井伊家を裏切り翻弄しながらも、実は陰で井伊家を今川の理不尽な支配から守る盾となっている」、というストーリーを作り上げた。

 これは発想的には、「樅の木は残った」 の原田甲斐をほうふつとさせる。 1970年の大河ドラマでもあった 「樅の木は残った」 は、それまで歴史的に不忠の者という評価であった原田甲斐を一転して忠義の者に変換させる、という役割を果たしたのだが、今回小野但馬守政次は、その大役に浴したのだ。

 しかしここで、ストーリー上の 「脆さ」 も同時に抱えてしまったように私には思える。
 つまり、但馬の真意が分かってしまうと、物語を引っ張っていく求心力も失われてしまう、という点だ。 具体的に言えば、要するに話がつまらなくなり、視聴者が離れて行ってしまう、ということだ。
 脚本の森下氏はここに盗賊や金の亡者を登場させるなど、一時はかなり苦心しているように私には感じられた。 城主となった直虎を支える配下の者たちもかなり頼りなく描かれていたために、物語が小野但馬の存在に極端に依存しなければならない構造になったことも大きい。

 そして物語のダイナミズムという点からとらえれば、「今川からの圧力→その危機を乗り越える井伊家」 という話の繰り返し、というスパイラルに巻き込まれてしまったような印象も受けた。

 だが、今回の小野政次の死はそもそもにしてそのスパイラルのクライマックス。
 ここは小野をワルモノからヒーローにコペルニクス的転回を企てた森下氏の、一世一代の 「ストーリーテラーとしての見せ場」 だった。 そのために泥をかぶったのは井伊の後見人のひとりであった近藤氏なのだが、史実がどうだとか後見人三人衆の力関係がどうだとかいう議論の前に、まず 「主人公は男なのか女なのか」 という、最初に述べたこの物語の成立時点から、この物語の根幹は霧に包まれているのだ。

 このクライマックスに向け、森下氏のそれまで苦心してきたさまざまな登場人物が、その存在を含めきちんとした理由を与えられた。
 なかでも盗賊の頭である龍雲丸は、武田信玄の今川攻めに際して情報が錯綜するなかで、井伊にとって草(忍びの者)のような役割を演じ、幽閉された直虎、政次の脱獄に際しておおいに盗賊としてのスキルを発揮し、しかも直虎と一時疑似恋愛的な関係であったがために、政次の本当の思いを察知し、今回政次が 「井伊のお家のためではなく、直虎のために行動しているのだ」、ということを喝破した。

 これは政次が直虎の分身とも思える白い碁石を懐に忍ばせていたことと相まって、平たく言えばスイーツ的な展開の最たるものなのだが(そしてそれを本能的に嫌う大河ドラマファンは多いのだが)、私は 「お家のためより個人的感情」、という理屈は現代において個人的には納得のいく理由づけだと感じる。 そうしなければドラマに没入できない弱みというものは確実に見る側には存在しているのだが、そもそもお涙頂戴というのは芝居のもっとも基本的な感情移入の方法なのである。
 たしかに、「お家のためだけ」 という理由は、やはり無味乾燥としている。 「家」 の重要度が当時どれだけの蓋然性を持っていたかは知る由もないが、いずれにしてもその 「家」 の 「構成員」 を守る、ということは人々の意識の根幹にあっただろうからだ。

 しかし今回その感情移入をもっとも残酷な形で終結させようとした森下氏の手法は、おおいに評価しなければならない。
 少しネタバレになるが、直虎と政次の最後の壮絶なやりとりは、少し前に虎松の護衛に向かわせた直虎の側近、奥山六佐の姿を直虎が 「武蔵坊弁慶は、あのような姿であったかのう」 とつぶやくところ(すぐさま中野直之に 「弁慶に失礼でしょう」 とたしなめられたが)と呼応している気がしてならない。 つまり武蔵坊弁慶も、関所を通り抜けるために白紙の巻物にモノが書いてあるかのごとく滔々とウソを並べ立て、挙げ句に主君の義経を関所の役人の前でブン殴りまくる、という苦渋の行動に出ていた。 今回このドラマにおいて井伊が政次も含めて今川氏に対して行なってきたことは、まさしくこの弁慶と義経の関所抜けの話が底流にある気がしてならないのだ。

 今日は力尽きたのでまずここまでアップします。 細部に関して書くかどうかは未定(笑)。 よくまあ昔は毎日記事をアップしていたものだ(笑)。 これじゃ夜勤なのに眠れんぞ(笑)。

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2017年8月 6日 (日)

「第49回 思い出のメロディー」 押し出され、遠くなるばかりの 「昭和」

 去年は萩本欽ちゃんと 「とと姉ちゃん」 の高畑充希サンの司会が印象的だった 「思い出のメロディー」。 今回は冒頭から、今年40になるという氷川きよしクンの宣誓みたいな司会で始まった。 ラスト曲前の締めくくりも氷川きよしクンのコメントでもう一度今年40ということが繰り返されたので、振り返ってみると全体的に 「氷川きよしの新たなる出発。司会もやったし」 みたいな番組になっちゃったような気もする(ちなみにもうひとりの司会は有働アナ)。

 確かに氷川きよしクンの新しい歌(「NHKラジオ深夜便」 の 「深夜便の歌」 で現在、毎日流れている 「蒼し」 という歌)は作曲者がGreeeeeN(こんな感じ?…表示は不正確です)。
 ここでのきよしクンの歌い方はビブラートはカマすけれどコブシを一切排除した感じ。 「いや、GreeeeNが歌ってます」 と言われてもまったく不思議に思わないような新境地の歌だ。
 この人は常に股旅ものとかズンドコ節とか 「あ、そういうのやるんだ」 みたいな、歌謡曲のスキマ産業みたいな、意外性を狙ったような曲で存在感をアピールすることが多かった(正道もまた変化球、みたいな)。 今回も 「氷川きよしがJ-Pop」 みたいな 「意外性」 という点ではよかったけれど、でも今の若い人たちふうに氷川クンが歌い始めちゃったら、結局誰だか分かんねえよなみたいな、なんかヘンな残念感がある。
 しかし今回の番組は 「思い出のメロディー」 だから、そのGreeeeeeNの曲を歌うワケはない(eの数が分からん…笑)。

 今年の放送は去年と違って生放送だったようだ(「生放送」 と始終画面の右上に出てたので本当だとは思うがたまに 「ホントかな?」 と思う時があるので)。 字幕も遅れ気味だったし。 最後も結構バタバタして尻切れトンボ的に終わってしまったし。

 生放送、ということで私が心配だったのは、「小林旭サンとビリー・バンバンのお兄ちゃんが暴走しやしないか?」 ということだった(笑)。 あと将棋のひふみんも(笑)。 このお三かたはコメントが短く済まないので生放送にとっては天敵であるのだ(笑)。 結果からいうと危なかっかしくもギリギリセーフだった(笑)。 ただまあ、最後がバタバタしたのは多少影響があったかもしれない(笑)。

 前述の通り氷川きよしクンの印象がとても強かった今回だけれど、おしなべて考えればじっくり歌を聞かせる、とても落ち着いた構成だったようにも思う。
 ただまあ、毎回見ている視聴者としては、「なんかまたかよ」 みたいなこともあった。 「お座敷小唄」 とか 「月がとっても青いから」 はつい数年前の同番組で見たし。 石原裕次郎サンと美空ひばりサン、という昭和の2大スターを採り上げる姿勢もここ毎年見ている気がする(まあ、あの手この手ではあるが)。
 それと、先ごろ亡くなった平尾昌晃サンについて、おそらく入り込ませる時間がなかったのだろうと思うがまったく言及すらなかった。 これだけ昭和の名曲が流れると、大概1曲くらいは平尾サンの曲が入っているはずだが残念なことにその偶然すらなかったようだ(ちなみに、平尾サンはつい最近の 「思い出のメロディー」 に出てた)。

 今回、あまりサプライズというのはなかった。 いちばんは 「あみん」 が出たことくらいだろうか。 浅丘ルリ子サンが出たのもサプライズのうちに入るだろう。 ただ、後半で石原裕次郎サンと水森かおりサンが疑似デュエットみたいなことをするくらいだったら、浅丘サンと裕次郎サンの 「夕陽の丘」 で見たかったと思う。 「夕陽の丘」 をおふたりで歌うアーカイヴがないのかな。 そう言えばそんな映像見たことない。 疑似デュエットするにもおふたり同時で歌う部分があるから無理と言えば無理か。
 浅丘サンは、個人的には今年テレビでよく見る。 「おんな城主 直虎」 にも出てたし 「やすらぎの里」 でも重要な役どころだ。 今回ビリー・バンバンの歌が 「さよならをするために」 だったこともあり石坂浩二サンがV出演したことで、ニアミス的な共演がここでも実現した。
 浅丘サンの歌ったのは、「愛の化石」。 緊張しているのがテレビ桟敷でもわかるほどだったが、一緒に出た小林旭サンからは絶賛されてご本人はホッとしていたようだ。

 小林旭サンで思い出したが、今回小林サンが歌ったのは5曲ほどだったか。 小林サンは破格の扱いだったが森進一サンも2曲歌ったし、これって出演する人がてんこ盛りでなくなってきたことの証左なのかもしれない。 「月がとっても青いから」 を歌った菅原都々子サンも今年御歳90歳(「明日(8月6日)誕生日だと言ってた)。 確か2、3年前同じ歌を歌ったときには 「ずいぶんお声が出ていらっしゃる」 と感心したものだが、氷川きよしクンのエスコートを受けたまま歌った今回は、高いキイがやはりつらくなっていたようだ。 もともと菅原サンの歌というのは高いキイでコロコロ声を転がすような歌が多いので、喉が衰えるとかなりハードルが高くなることは確か。

 そして目玉的にはスパーク3人娘だっただろうか。 中尾ミエサン、伊東ゆかりサン、園まりサン、MCで 「(伊東サン以外)ヒット曲がそんなにないのに生き残ってきた」 というのは結構笑えない冗談だったような(笑)。 ただしそんな数少ないヒット曲のなか(笑)中尾サンに関しては 「片思い」 は聞きたかったような。 でも、今回のテーマが 「和製ポップス」 だったから仕方ない。 このコーナーでロカビリーのVが出てきたので平尾昌晃サンの姿を期待したが、やはりスルー。
 「スパーク3人娘としてはテレビ最後の出演」 と謳っていたが、中尾サンが早々にばらしてしまったように 「依頼がありゃまた出ます」 みたいな感じで(笑)。 とりあえず誰が鬼籍に入るか分からないのでそう言ってみました、みたいな感じ(笑)。

 平尾サンが滑り込ませられなかった原因のひとつが、今回のもうひとつの目玉であった 「没後10年の阿久悠特集」 だったのかもしれない。 名曲が続くなか、お身体が心配される西田敏行サンも 「もしもピアノが弾けたなら」 で参戦。 途中から司会陣に加わったが、さすがにこなれている。 今回は氷川クン、有働サン、西田サンと、司会がとても盤石だったと思う。

 それでは出演順に。

 全員で歌う村田英雄サンの 「皆の衆」(昭和39年)に続きトップバッターは山本リンダサンで 「狙いうち」(昭和48年)。 「北斗の拳」 に出てきそうな屈強の男たちにまたがって相変わらずのパワフルぶりであった。 1曲目から阿久悠サンの作詞である。

 続いて辺見マリサンの 「経験」(昭和45年)。 ドレスにティアラで 「夏の紅白」 を実感させる気の入りようである。 山本リンダサンもそうだが、このおふたりは未だ現役の声量だ。

 次に登場したのは三山ひろしサンと福田こうへいサン。 なんでふたりかはすぐ分かった。 歌うのが三橋美智也サンの 「達者でナ」 だったから(笑)。 この曲は途中どうしてもふたりでないと歌えない部分があるのだ。 要するにレコーディングの際、三橋サンはご自分の声を重ねたわけだが、ダブルレコーディングというのはこの曲がリリースされた昭和35年、1960年にはかなりインパクトのある技術ではなかったろうか、と推察する。

 次は森進一サンの 「襟裳岬」(昭和49年)。 いまは 「えりも岬」(笑)。 なんでもひらがなにしないと済まないアホな国。
 気付いたのだが、「♪襟裳の春は」 の部分で 「り」 の部分を原曲より高めに歌ったり、「♪あたたまってゆきなよ」 の 「ゆきなよ」 を無理に伸ばしたり、森サンはこういう歌い方をずっとしてきたのだが、今回それがまったくなく、とても好感が持てた。

 次は小林旭サンと浅丘ルリ子サンが登場し、おふたりが共演した 「絶唱」 で小林サンがなかなか泣けなかったエピソードを披露。 「歌わなきゃダメでしょ?」 とオドオドしながら歌ったのが、先ほども書いた 「愛の化石」(昭和44年)。 「セリフが多かったからヒットしたと思うの」 と謙遜していたが、それにしても歌番組でこの人が歌うのは、私は初めて見た気がする。

 そして小林サン。 歌手生活60周年だから歌う曲が多かったのか。 「ギターを持った渡り鳥」(昭和34年)「自動車ショー歌」(昭和39年)「ダイナマイトが百五十屯」(昭和33年)。 MCが入って 「昔の名前で出ています」(昭和50年)。 あとでもう1曲歌うことになる。
 それにしてもメーカー名商品名だらけの 「自動車ショー歌」 をNHKで歌うとは(笑)。

 続いて 「お座敷ソング特集」。 春風亭昇太サンがガイド役。 昇太サンは 「笑点」 の司会もさることながら、「春風亭昇太のレコード道楽」 というコーナーをNHKラジオで持っていて、そのつながりもあろう。
 五月みどりサンはここで 「おひまなら来てね」(昭和36年)。
 そして市丸サンの 「三味線ブギウギ」(昭和24年) を丘みどりサンと市川由紀乃サンで。 花柳社中が大挙登場してラインダンスもどきをしたりと豪華だったが、やはり気になるのはその歌い方であり(笑)。 コメント欄でも言及したのだが、「昔の芸者歌手の歌というのは、おちょぼ口で歌うのが常識」 だったのだ。 「口を大きく開けて歌う」 のは西洋の声楽の基礎なんである。 まあいいけど。
 そして余興のあと(笑)「お座敷小唄」(昭和39年)。 マヒナスターズと五月サン、丘サン市川サンとの共演。

 「戦後の日本を盛り上げたスター」 と称して並木路子サン、バタやん、渡辺はま子サンなどがVで登場し、登場したのが菅原都々子サンだった。 「月がとっても青いから」(昭和30年)。 それにしてもエスコートした氷川クンが、この曲をきちんと知っててハミングしていたのは感心した。

 そしてひふみんが登場、「ラヴ・ストーリーは突然に」 を歌うVなどが出てきたもんだから 「ひょっとしてひふみんが歌っちゃうのかよ」 と不安になったが(笑)「故郷」(大正3年)をリクエストしたにとどまった。 歌ったのは島津亜矢サンと山田姉妹。 それにしても75?6? この御歳でメディアに引っ張りだこになるとは、人生分かんないものである。
 しかしまあ、「私、ウサギを追ったことはありませんが小鮒は釣ったことがある」 とか、予測不能のコメントぶりで(笑)「生放送で使うには危険だ」 とはならないのかなみたいな(笑)。 まあその予測不能ぶりが予定調和だらけのテレビ界にはちょうどいいスパイスとなるのであろう。

 そして 「洋楽をカバーしたスターたち」 というコーナー。 坂本九サンの 「素敵なタイミング」 とかザ・ピーナッツの 「情熱の花」 のVとか見ていると、もうみんな亡くなってしまった、という無常感が襲ってくる。 昭和がどんどん、彼方に遠ざかっていく錯覚を覚える。 その流れでスパーク3人娘、「バケーション」(昭和37年)。

 MCで 「ヒット曲が少ない」 とか園まりサンを 「20年引きこもってた」 とか危険なディスりがあったあと(笑)伊東ゆかりサンの 「小指の思い出」(昭和42年)、園まりサンの 「逢いたくて逢いたくて」(昭和41年)、中尾ミエサンの 「可愛いベイビー」(昭和37年)。 3人一緒に 「ボーイ・ハント」(昭和46年)。 ん?昭和46年って、そんなだったっけな~。

 そして倍賞千恵子サン。 去年に引き続いて、VTR出演。 去年は森繁サンつながりだったが、今年は 「男はつらいよ」 つながり。 歌ったのは隠れた名曲、「さくらのバラード」(昭和46年)。 この曲が今年の 「思い出のメロディー」 でいちばん泣けた。 突然いなくなった兄(寅さんのことですね)を、どこかで見かけませんでしたか?と訊ねる曲で、実際の 「男はつらいよ」 の世界でも 「寅次郎はどこかに消えたまま旅先で亡くなってしまい、ずっと帰ってこない」 ということになったのではないか、と思わせるにじゅうぶんな曲だ。 それが私の涙腺を大いに刺激した。
 ピアノの伴奏は夫の小六禮次郎サン。 ピアノを柴又帝釈天に持ち込んでのロケだった。 帝釈天の建物はあの頃とまったく変わらず、ひょっこり御前様を演じた笠智衆サンや佐藤蛾次郎サンが出てきそうな気がしてくる。

 そして氷川きよしクンの 「一本の鉛筆」(昭和49年)。 放送の翌日が広島原爆の日だったからだろうが、元の曲は美空ひばりサンの歌。 「さくらのバラード」 に続いて感動的だった。

 ニュースを挟んで後半は阿久悠サンの特集。 ピンク・レディーは復活しなかったけど、Vが大量に流れた。 続いて登場は西田敏行サンで、「もしもピアノが弾けたなら」(昭和56年)。 西田サン、歌うまくなってないか?みたいな。

 次は伊藤咲子サンで 「ひまわり娘」(昭和49年)。 「スター誕生!」 でデビュー時、客席から歌っていたのを思い出す。 今回はそのイメージが演出家にあったかどうかは分からないが、同じく客席での歌唱となった。 観客たちはひまわりを振って応援。 ここでもひふみんが笑わせる。

 続いて石野真子サンの 「狼なんか怖くない」(昭和53年)。 いわゆる 「美魔女」 ってやつだよね石野サン。 「そりゃキツネだろ」 と揶揄された 「ウルフサイン」 も健在。

 石川さゆりサンは阿久悠サンと言えばお馴染みの 「津軽海峡・冬景色」(昭和52年)。 阿久サンの原稿がそのまま字幕に。

 そして高橋真梨子サン。 横浜ベイブリッジが見える場所でのV出演。 「ジョニイへの伝言」(昭和48年) と 「五番街のマリーへ」(同年) という名曲を続けて。 1曲だけというのはたびたび見たが、こういう豪華な組み合わせは初めてだった気がするし、ふたつの曲が密接な関係にあることがとてもよく分かる組み合わせだった。 これも感動したなあ。
 ただ面白かったのは、同じ番組で伊藤咲子サンの 「ひまわり娘」 を聞いたことかなァ。 「♪5番街に行ったならばそれがヒマワリの花~」 とよく歌ったもんだ(笑)。

 続いて再登場の小林旭サン、「熱き心に」(昭和60年)。 大瀧サンも亡くなって久しい。

 そしてビリー・バンバン。 ご存知のようにお兄さんのほうが脳こうそくで倒れ、最近ようやく復帰しだしたのだが、ラジオで出演されていたときに聞いたけど弟さんは大変そうだな、と。 なにしろ弟さんのいうことを聞かない(笑)。 怒りっぽくなった、というのかな。 もともと押しの強い人だったから、リハビリに頑張ることでさらに前向きに頑張ろうとしているのだろうけれど。 2番の途中で弟さんは、感極まったのかお兄さんが歌うのを聞かせたかったのか、歌が途切れた。 「さよならをするために」(昭和47年)は名曲である。

 次はあみん。 「待つわ」(昭和57年)。 肘を上げ気味に構える歌いかたを有働サンは懐かしがってた。 この曲は昭和57年にいちばん売れた曲だった。

 そして没後30年の石原裕次郎サン。 浅丘ルリ子サンが 「男の人のほうにすごく好かれていた」 という思い出を語る。 先ほど書いたように疑似デュエットで 「二人の世界」(昭和40年)。 美空ひばりサンの曲はお馴染み天童よしみサンで 「人生一路」(昭和45年)。 天童サンがひばりサンの歌を歌うのでいちばんいいのはこの曲だな。

 最後は森進一サンで 「北の蛍」(昭和59年)。 今回いちばん最近の曲だったのは 「熱き心に」 とこの曲だった。 それでも今から32年前。 見事に平成の曲は1曲も登場しなかった。

 平成に入ってからの我が国のヒット曲事情というのは、主にJ-Popという流れで括られてしまうが、今回昭和の歌に完全限定されたことで(「ふるさと」 は大正だが)「ずいぶんとあの時代は遠くになったものだ」 との感慨を強くした。 平成生まれの人がもう30歳になろうか、という時代なのである。
 かまやつサンも亡くなり、平尾サンも亡くなり、「太陽がくれた季節」 や 「ふれあい」、「聖母たちのララバイ」 を作詞した山川啓介サンも亡くなった。 去年この番組で元気なところを見せていたペギー葉山サンも、今年はもういない。
 こういった 「懐メロ番組」 というもの自体がもう、その役割を終える時期が近付いている気がしてならない。 「広い世代みんなが知ってる歌、みんなが歌った歌」、というのが絶滅に瀕している今、その思いが年々強くなっているのである。

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2017年4月23日 (日)

2017年春ドラマ②(「小さな巨人」「貴族探偵」「あなたのことはそれほど」)

 TBS日曜21時 「小さな巨人」。

 巷で言われるようにテイストが 「半沢直樹」 警察版なのだが、このドラマで半沢のキャラ概念を受け継いでいる主人公、長谷川博己が第1回目ではいったん権力側におもねりそうになるなど、「揺らぎ」 を感じさせるところが面白かった。 ただこれに懲りて、長谷川はもう第2回以降は揺らがないことだろう。 揺らいだら面白いのだが。
 ただまあ揺らがんでも、演出が大袈裟なことで、このような対決構図のドラマは格段に面白くなる。 昔からある時代劇の勧善懲悪の遺伝子を現代に受け継いでいる、ということになるが、ときにはその現代的な解釈も必要だ。 つまり 「度を越し過ぎて滑稽になる」、という側面とか。

 こうしたドラマにおいて敵役が重要なのは言うまでもない。

 NHKの今年の大河ドラマ 「おんな城主 政虎」 において高橋一生が演じる但馬などは 「実は政虎の盾になろうとしているのでは」、という可能性を残すことで敵役としてのリアルを試そうとしている。 だがこの 「小さな巨人」 に関しては、敵役の香川照之はリアルを最初から排除しようとしている点で但馬とは根本的に違う。 香川は 「半沢」 での役をそのまま移植したようでワンパターンの誹りも受けかねない役に徹しているが、それは香川、いや市川中車にとって 「歌舞伎的な様式美」 なのだ。 ここで 「度を越した滑稽」 というレベルまで見せてくれることを期待する。
 長谷川は理知的な役が多い気がするが、ここではかなり熱い男を演じている。 饒舌という点では 「デート」 を思い出させるが、饒舌なことによりコミカルを表現していた高等遊民とはまったく別で、推理力・判断力の鋭さを見る側に強烈に印象づけさせる。 長谷川はやはりタダ者ではない。

 いっぽう私がこのドラマでいちばんいいなと思えたのが、所轄の足の裏臭い刑事を演じた安田顕だ。

 この人、演技力は確かなのだが何か出てくると構えてしまうところがあって、どうも苦手だなと思ってきた。 なんか油断ならないヤバい感じ、とでも言ったらいいのか。
 だが今回のこのドラマでは足の裏は臭いが情にもろく頑固で熱血なところを演じており、裏と表があり過ぎる出演者陣のなかでいちばん信用が置けそうな人物なのだ。 こういうポジションは得だ。 その直情的な部分で主人公の長谷川を引っ張っていってほしい気がする。

 いずれにせよここまで見た中では、この春ドラマではもっとも面白いドラマ、といえよう。 「小さな巨人」 とは誰のことなのかは気になる。 長谷川サン大きいし(笑)。

 フジテレビ月9、「貴族探偵」。

 フジテレビの月9が30周年で総力をかけて作った触れ込みだったが、現在凋落傾向のフジテレビの悪いところが顕著に出てしまった感がある。
 まずキャスティングがまずい(前回の記事でも同じことを書いたが)。
 キャスティングがまずいということは、制作サイドがひとつにまとまっていない、ということの表れなのではないか。
 少し極端な物言いをするが、私は昔からフジテレビは、どこか視聴者を見くびったような空気が社内にあるのではないか、と感じてきた。 自分たちが上で視聴者が下みたいな。
 それはフジテレビが 「楽しくなければテレビじゃない」 を合言葉に隆盛を誇ったときから感じてきたことだが(「みなさまのフジテレビ」 の時代にはそうしたことはまったくなかった)、あまりに楽しさを追求するあまりに会社全体がお祭りムードとなり、ものごとの本質を考えようとする芽を踏みつぶしてきた結果なのではないか、と考えている。

 今回のドラマでは、「主役の探偵が推理をしない」、という大きな特徴がある。 その主役は貴族で、肝心の推理はそのお付きの者たちが行なう、といった構図だ。 要するに相関図におけるドーナツ現象を起こしているわけだが、ここで主役にはそれなりの人を配置させないと、文字通りまったくドーナツ現象になってしまって主役が埋没する危険性がかなり増す。

 なのにフジテレビは、その主役に嵐の相葉クンを選んだ。 これは制作サイドがいま述べた危険性をまったく意識できずにいるか、それを逆手に取ろうと考えているのか、もしくは相葉クン以外になり手がいなかったのかのどれかだろう。 お付きの者たちに松重豊、滝藤賢一、中山美穂と豪華な面々が次々登場し、最後に相葉クンが登場したときのなんともいえないガッカリ感(笑)。 逆に考えるとすごいな、と思ったが(笑)。 狙ってるのかな(笑)。
 別に相葉クンをけなすわけじゃないが、フジテレビがネットにおける相葉ディスり自体を期待しているような気さえする。 ディスりも話題のひとつだみたいな。 ジャニーズだしみたいな。 このゴーマン見下し発想がフジテレビなんだな。 相葉クンには相葉クンを生かす場というものがある。 それをフジテレビは踏み違えているにすぎないのだ。

 また、生瀬サンが滑りまくりのオッサンギャグを武器とした刑事役で出てくるが、これももうギリギリで許せる範囲、という感覚で見ていてとても危険だと感じる(笑)。 生瀬サンでなければ許せなかっただろう(笑)。 いや、私は許せたが許せない人は多いはずだ(笑)。

 こういう面白がり方をしている時点でフジテレビの術中にかかっている気もするが(笑)、こういう面白がり方をされてフジテレビは満足なのだろうか? 月9の30周年の墓標にでもしたいのか?

 いずれにしても相葉クンは、たぶんいい人なのだろう。 その彼が最後に探偵の武井咲チャンに車の中から投げかけたシリアス顔に、ちょっとドキッとした、気もしたが、そのドキッに期待して次回も見ることにしよう。
 言い忘れたが、武井咲チャンは彼女なりに演技が向上していると思う。 もうけっして大根ではないぞ。

 TBS火曜22時 「あなたのことはそれほど」。

 うーん、どうなのか。 なんの前情報もなく見た感じだったが、「3ヶ月後」「半年後」 と時間が目まぐるしく過ぎるのと同様に、「えっ? 『あなたをずっと好きだった』 タイプのドラマ?」「えっ、不倫しちゃうの?」 とその展開に戸惑った。
 要するに不倫をしちゃうタイプの女の子って、もともと王子様願望が強くて、ぼーっとそれなりに決断をして生きてきて、っていうことが言いたかったのかな、とか。
 主人公の波瑠は初恋の男の子をかなり引きずっていて、結婚してしまったあとで街で偶然その男の子と再会してしまうのだが、再会したその日にラブホテルに入ってしまうんだな。
 その時点で共感を得られない主人公であることは明白だが、初恋の男の子への思い入れが強過ぎた、ということがこの共感を得にくい行動の裏にあるのは見て取れたし、それにそれまでの主人公の生き方自体が、ただなんとなく流されていた、ということもきちんと描かれていたように思う。
 占いに頼るタイプというのも大きい気がする。 つまり不倫という大それたことをするには、それなりに普通の人の感覚と少しずつずれた 「その人自体の性格、人格形成の原因」、というものがあるのだ。 波瑠がフツーの顔をしている主人公だと思ったら大間違い、というか。 でも本人にはその自覚はない。

 波瑠の夫役の東出昌大クンはなんか先に述べた 「ずっとあなたが好きだった」 の冬彦さんタイプに成長しそうな感覚で、この先の修羅場は必至。 ドロドロなのは好きじゃないから展開次第ではリタイアするけれど、冬彦さんみたいに滑稽レベルに達すると視聴可能かもしれない(笑)。

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2017年4月16日 (日)

2017年春ドラマ①(「CRISIS」「人は見た目が100パーセント」「ボク、運命の人です。」)

 まずふたつの週帯ドラマであるが、NHK朝ドラ 「ひょっこ」 に関してはまだ第1週目と2週目の途中までの視聴なのでトータルな批評が出来ない状態。 第1週目まで見た感想では、ノスタルジアを重視した作りで特段の野心が見当たらないと感じたが、第2週ではこの盤石な家庭円満の状態から父親が失踪するという予告でそれがちょっと気になっている。 テレ朝の 「やすらぎの郷」 もまだ第1週目までの視聴。 独立した記事で書きたい気もするが、今のところ感じているのは、老脚本家が考えた寓話のなかで、テレビに対して言いたいことをぶちまけている印象。 倉本サンの過去の作品には、メディアに対する痛烈な批判が込められたドラマ(「ガラスの知恵の輪」 という題だったと思う)や 「歸國」 という、この国に対する未来を憂えたものがあったが、その精神が生きていると感じている。 ただ全体としてはコメディタッチ。 気楽に見ることのできる作風だと思える。

 とりあえず個人的好みで食指の動くすべてのドラマを予約録画していたが、今のところきちんと第1回の最後まで見たのは表題の3作のみ。 「孤独のグルメ」 は別格で第2回まで見ているが安定した作りで特に感想がない(笑)。 「特に」 感想がないというのがこのドラマの優れた部分でしょう。 ものを食べるときに感じることを最大限に引き延ばし面白く見せることで、見る者を惹きつけ続ける特殊なタイプのドラマだ。

 まずフジテレビのふたつのドラマ。 ふたつのドラマに共通した感想は、「なんか、全体的な熱意が今イチヌルい」。 フジテレビに関しては 「凋落している」、という印象をこのところ抱いているせいか、さまざまな部分でどこかやっつけみたいな質感がついてまわっている。
 「CRISIS公安機動捜査隊特捜班」。 題名がクド過ぎる(笑)。 題名の通り、結局何をやる部署なのかすごく漠然としていて、「はみだし者たちを寄せ集めて、危険な案件の処理には適しているが、なにかあったらすぐ切れるトカゲのしっぽみたいな部署」、という感覚だ。
 新幹線を河川の高架橋で止めてそこから犯人と一緒に川にダイブとか、マンションの4、5階あたりから飛び降りたりとか、第1回目に見合うだけの派手なアクションも用意された。 メインである有力政治家のバカ息子に向けたテロ攻撃とかその背後に動く巨大そうな組織犯罪とか、その後の展開に必要なフロシキも広げまくっていた。
 しかし、なにか見終わった後 「どうも次を見たくてワクワクしてこない」。 そして、「感じたことを書きたい気になってこない」。
 キャスティングもそれなりに豪華で、西島秀俊や小栗旬、田中哲司や長塚京三と実力派が揃っているのだが、なにかケミストリを感じないのだ。 俳優たちもやるべきことはやっている。 100パーセントの力を出していると思う。 しかしその融合から生まれるプラスアルファが感じられない。 なにか予測不能な火花が期待できない。
 こうなると作品の良し悪しがこのドラマを存続させるカギとなる気がするのだが、どうも巨悪、という時点で既視感がつきまとう。

 「人は見た目が100パーセント」。 レディスコミック原作のドラマというのはこのところトレンドという気もするが、「逃げ恥」(TBS)「タラレバ娘」(日テレ) と比較してしまうと、フジテレビの料理の方法がとてもまずい印象を受ける。
 まずキャスティングがまずい。 そしてコミック原作のいわゆる 「マンガ的」 な部分をなかば、「こんなもんでしょ」 的に見下して演出している点がまずい。 「タラレバ」 においてはCGで登場する 「タラ」 と 「レバ」 がその手の落とし穴に落ちそうな部分だったのだが、このふたつのCGキャラに対して 「こいつらは主人公たちにダメ出ししている 『実は味方』 なのか、それとも主人公たちの晩婚傾向を助長する 『実は敵』 なのか」、見ながらそれを考えさせるブラックボックス的な楽しみがあった。 なかでも最初主人公の吉高にしか見えなかったのが、そのうちに榮倉や大島にも見えるようになったという展開が秀逸だった気がする。
 ほかにも主人公たちに大ダライが落ちてきたりとかコミック的な展開も頻繁にインサートされていたのに、それが不自然ではなかった。
 なのにこの 「人は見た目」 は、同じような演出をしているのにそれがとても不自然なのだ。
 たとえば主人公の桐谷美玲が飲んでいたものをブーッと吹き出すシーン。 このドラマでは主人公の女の子が極度に暗く内向的な性格なため、「そんな子がこんなことはしないだろう」 というように見えてしまうのだ。 つまりコミカルが成立しない。
 そもそも桐谷美玲チャン、どんなに地味にしてもカワイイじゃん。 そんな子がいまさら化粧で自分をきれいに見せようったって、「する必要なし」。 だったら最初はもっとブスメイクをすべきだ(笑)。
 だいたい 「見た目をきれいにする」 という時点で、このドラマの目的自体がとても陳腐なものに見えて仕方ない。 結論は 「人は内面が最後にはモノを言う」 みたいになるのかもしれないが、今のところはドラマのスポンサーである女性ファッション誌とコラボしたドラマにしか見えない。
 それと、ブルゾンちえみという人を私はこのドラマで初めて見たのだが(噂では知ってたが)、話題の人をドラマに出すという時点でフジテレビの浅さがまた垣間見えてしまう。 演技はまあまあだけどこういう人が見た目を変えようと努力するのは説得力がある。 ただこの人が目的で来週も見ようという気にはならない。 「ダーティ・ワーク」 にならなければよいが。
 いずれにしてもどうも最近のフジテレビのドラマは、見ていてヘンな違和感を抱くことが多い。 「シェフ三つ星の給食」 くらいだったな、素直に面白かったのは。

 日テレ 「ボク、運命の人です。」。
 最初の数分で 「あ~こういうノリのドラマって苦痛だ」 と思っていたのだが、神様と自らを名乗る山Pが出てきてからドラマが渦を巻き始める。
 「お前とお前の妻となる女との間に生まれた子供が、30年後に地球に衝突する惑星の軌道を変える発明をする運命にあるから、お前は絶対その女と結ばれなきゃならない」 ということから、主人公の亀梨和也は木村文乃に不器用なアプローチを始めるのだが、そこから見る側はいろんなことを感じ始める作りになっている、と言える。
 亀梨はその不器用から木村文乃に却って怪しまれ拒絶されていくのだが、その結果神に対して 「別の方法考えたらいいでしょ」 とか 「地球なんか滅んだら滅んだで仕方ないでしょ」 とかいろんな不満をぶちまける。 それがリアルで彼の一生懸命が伝わってくる作りになっているのだ。

 ただ私の出した結論としては、「山Pは木村文乃のほうにも姿を見せて事情を明かすべきだ」 ということに落ち着くのだが(笑)、このオチャラケた神はどうしてそのことをしないのか。
 そうすると、ふたりとも自分の意志とは関係なく、運命という空っぽな動機でしか結びつかなくなる。 それはふたりにとって不幸なことだ、と神は考えているのではないか。 そして気になるのが、ライバルとして登場する男のことだ。 木村には、そっちを振り切って亀梨と生きる、という決意というものが必要だ、と神は考えているのかもしれない。

 こういうことを見る側に考えさせる度量というものがドラマにあるかどうか。 それってとても重要な気がする。
 それにしても皮肉だなーと思ったのは、コマーシャルでTOKIOがスズキのクルマのやってたけど、アレ最初カトゥーンがやってたんだよな~(ハハ)。 亀梨クンガンバレ。

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2017年4月 2日 (日)

2017年春ドラマ、とりあえず何見るか

 今年の春に私などの世代がいちばん注目するのは、「北の国から」 の倉本聰サンが月-金の連続ドラマを書いた、ということだろう。 「やすらぎの郷」、テレビ朝日のお昼12時30分から20分。 なかでも昔ご夫婦だった石坂浩二サンと浅丘ルリ子サンが共演、というのにはそそられる。 ほかにも八千草薫サン、有馬稲子サン、加賀まりこサンなど、なんじゃソリャというくらいの大物俳優たちが目白押し。 倉本聰サンの作る話だから結構世の中にはキツイ警鐘も混じるだろうが、そのことも含めて注目せざるを得ない。 明日(4月3日)から。

 同じ日に始まるNHKの朝ドラもチェック。 「ひよっこ」、「ちゅらさん」「おひさま」 と朝ドラを複数手掛けてきた岡田惠和氏の脚本。 有村架純が 「あまちゃん」 での脇役から主役、というのも注目だが、内容が今のところインパクトに欠けるような。 このところ実在のモデルとかが存在していたものが多かったから、そう感じるのだろう。 それに岡田サンの話って結構当たり外れがあるから。 まあ 「ぺっぴんさん」 よりはマシなんじゃないか。 ビートルズファンからしてみたらレリビーとかヤメチクリ~という感じだった(笑)。

 あとは地方局ではやるかやらないか、という感じだが、「孤独のグルメ」 の最新シリーズもチェック。 これは毎回見てるので。 4月7日24時12分から。 同じテレ東では 「釣りバカ日誌」 のシーズン2も要チェックですな。 こちらは4月21日金曜夜8時から。

 それからフジテレビの月9、この枠のドラマ30周年ということで気合が入ってるみたいだ。 「貴族探偵」、4月17日スタート。 主演は相葉雅紀クン、ん~まあ、…いいけど(笑)。 脇役が生瀬サンとか滝藤サンとか松重サンとか、それと中山美穂ってのがすごいな。 30周年の気合いを見させてもらいたい感じ。

 TBS日曜劇場は 「小さな巨人」。 あまり食指が動かない警察モノだけどいいでしょう。 長谷川博巳サンが出るので。

 そのほかはまあ、とりあえず全部チェックはしたいんだけど、たぶんこれは見ないだろうな~というのは、日テレ水曜22時 「母になる」(笑)。 役者が見たいと思わせない(笑)。

 この春ドラマ、ドラマの題名を見てるだけで 「なんか面白そうだな」、というのが多い気がします。 「恋がヘタでも生きてます」 とか、「人は見た目が100パーセント」 とか(笑えるな)、「あなたのことはそれほど」 とか。 なんかマンガのタイトルっぽいけどそうなんだろう。 でも肝心なのは中身ですから。

 気合いに期待、とか言いながら、気合の入ってない記事でスミマセン(笑)。

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2017年冬ドラマ、「続」 私の見た範囲で、最終回まで見て

 前々号で、「以下次号」 などと銘打っておきながら結局 「今クール最終回まで見た総括」 みたいになってしまったことをまずお詫びします。 出来ないことは予告するもんじゃない。 反省。

 まず前回の記事で言及していた 「A LIFE」 について。

 結局のところこのドラマの本質は木村クンと浅野サンの友情だったように感じた。 だから竹内結子サンとの三角関係は主眼ではなく、木村クンがスーパードクターであることはただの前提だった。
 他人との付き合いの中で、「自分のことを誰も分かってくれない」、という子供じみたこだわりを、人はどうやって克服していくのだろう。 それはただ相手のことを一生懸命考えて前を見据え、進んでいくことでしか解決しない。 このドラマのテーマはそこに存在していたように思える。
 なかでも物語を引っ張っていったのは、結果的に見て浅野サンだったのではなかろうか。 「100点以外は意味がない」 と父親に言われたことで生じた心の傷が、彼が医師として成功し権力を身につけていくに従って孤独、嫉妬、恨みとして肥大化し、しまいにはおかしな破壊衝動という方向へとつながっていく。

 ところが彼が嫉妬を抱いていた木村クンのほうも、寿司職人である親父からいつまでも半人前扱いされていた。 つまり木村クンも浅野サンも、父親という壁を乗り越える試練を抱えていた、と言える。 その舞台となった檀上総合病院が、柄本明サンの父親と竹内結子サンの娘という 「父と子」 関係だったことも注目に値する。 このドラマの主役3人に、明確な母親設定というものは存在しなかった。 このドラマはあくまで、「父親を乗り越えること」 がベースとなり、木村クンと浅野サンの友情問題として展開していたのだ。

 父親という壁が存在していたからこそ、木村クンはその当のオヤジの手術でスーパードクターにあるまじきミスをする。 それは致命的なものではなかったが、そこから木村クンは精神的に落ち込み、自分の思い上がりを学んでいく。 父親は、自らを見つめ直す鏡でもあったのだ。 丁々発止を演じる彼とオヤジサンとのやり取りを思い返してみよう。 まるでそれは、同じ人格のふたりが互いにダメ出しをしている鏡のようなものであったことに気付くはずだ。

 このドラマは木村クンと浅野サンのふたりがどちらも優秀な外科医であったことで、巨大病院という枠組みの中で周囲をひたすら巻き込んだ怪獣映画さながらの様相を呈した。 平たく言えば 「よくもまあエラソーに自分たちの都合で自分たちの立場をいいことに好き勝手出来るよな」、という構図なのだが、そんな葛藤を巨大化出来るからこそドラマの意味というものはあるのだ。

 このドラマの唯一の救いは、木村クンと浅野サンが幼なじみで気心の知れた仲だった、ということに尽きる。 だから物語が一方的に救いようがなくなるくらい破壊されない。 そしてそこに解決の糸口がぶら下がっていただけなのだ。

 このドラマはメインである竹内結子サンの脳腫瘍摘出手術と並行して、ほぼ毎回いろんな症例の患者を登場させたのだが、それに対するスーパードクター木村クンのあり方というのはドラマをつまらなくさせると同時に、別に心配しないで見てられる、という両方の効果を伴っていたように思う。
 そのいちばんの例が、13才くらいの少女に対して木村クンが乳がんの検査もした方がいい、と主張した回。 「木村クンが言うからいくら婦人科エキスパートの財前サンがあり得ないとつっぱねても乳がんなんだろう」 と思っちゃう構図だった。 こういうのは木村クンをあまりに万能にし過ぎてドラマをつまらなくする、という批判を招くパターンのひとつであるのだが、逆に言うと安心して見てられるんだな。
 却ってそのプロット(乳がん)が、「竹内サンの腫瘍摘出手術の方法を考え続ける木村クン」、という図式を冗漫にさせたような気もする。 「いつまで考えてんの」 みたいな。

 その、途中の冗漫さも最終回、二大怪獣であった木村クンと浅野サンの激突から協力へ、という形で竹内サンの脳腫瘍摘出手術というさらなる巨大な怪獣の退治、というカタルシスまで至ったことは見事だった気がする。
 そう、このドラマって、なんか構造が 「ウルトラ兄弟銀河決戦」 みたいな劇場版ウルトラマン映画みたいな感じなんだよな(笑)。
 竹内サンの2回目の手術では、檀上病院乗っ取りの責めで副院長の座を追われた浅野サンが、木村クンの叱咤のすえ参戦した感動的なシチュエーションだったが、以前政界の大物の難しい手術をしたときより一層、浅野サンの演技にリアルを感じた。 このリアルさ、木村クンもかなり専門用語を完璧にこなしていたけどそれ以上の貫録を感じた。
 前回触れたのだが、「こういう木村アゲのドラマにどうして浅野が出演する気になったのだろう」 という答えが、ここにあった気がする。
 そしてこれも父親との確執でもがいていた松山ケンイチクンの 「このふたり、最強じゃん」 みたいなセリフ(正確なところは忘れた…笑)で、場面を決定的に盛り上げるのである。 このドラマに松山クンが出てる意味というのは、この一言に集約されていたようにも思う。

 結局木村クンは浅野サンと竹内サンの夫婦の絆をかたく踏みしめ盤石にさせるための駒だったのかよ、という構造なのだが、だからこそいいんじゃないか、と思う。 そうした視点で見れば、このドラマはけっして安易な 「木村アゲ」 のドラマではなかった、といえよう。

 そしてこの 「A LIFE」 のウラで放送していたのがフジ 「大貧乏」

 このドラマはシングルマザーの小雪サンが会社倒産の憂き目に遭ってチョー貧乏になってしまうという話だったのであるが、正直言ってこのタイトルは 「看板に偽りあり」 の典型だった。
 貧乏だからおかずがないとか服がツンツルテンとか 「貧乏あるある話」 というのがかなり貧弱で 「この家族、どこが貧乏なんだよ?」 と思うことが多かったのだ。
 要するに、小雪という女優は顔がゴージャス過ぎてビンボー話とかなり相性が悪いのだ(笑)。 それに思慮深そうに見えるし知的そうに見えるので、貧乏にへこむとかいう側面がまったくなく、小雪をメインで見ているとまったくつまらんドラマと言えたんじゃなかろうか。
 視聴率的にも 「大貧乏」 ならぬ 「大惨敗」 で、このドラマを見ていた人はかなり限られる、と思われるがレビューしたい。

 「大貧乏」 という看板でありながらしかし、このドラマの本当のツボはこの知的そうで貧乏が全然こたえてないように見えるナマイキな小雪(笑)に、高校時代から惚れまくっていたというチビノリダー(伊藤淳史クン)だった(笑)。
 このカップル、想像していただくと分かるがかなり身長差がキツイ(小雪は大女だし伊藤クンは背があまりないほうだし)。 だからまったく釣り合わない。
 しかし伊藤クンには 「超一流の企業弁護士」 という肩書きがつく。 このオールマイティな肩書がドラマにとって大きな強みとなったのだ。

 このドラマが描こうとしたのは、先にも述べたように 「大貧乏」 ではまったくなく、小雪が首になった人材派遣会社の底知れぬ闇を暴いていく、ということに主眼が置かれていた。 だから企業弁護士という肩書が強大な力を発揮するのだ。
 伊藤クンはなんとかこの強大な肩書にモノ言わそうと小雪サンに稚拙なアプローチを続けるのであるが、ドラマが終了するまで知的でナマイキな小雪はほぼなびかない(可能性は、ないわけじゃない程度な…笑)。 その構図が、見ていて楽しかった。

 そしてこのドラマを面白くしたもうひとつの原因が、「強力な悪役の存在」 だった。
 小雪が勤めていた人材派遣会社の社長である奥田瑛二。
 そして会社の金を横領していた滝藤賢一。
 このふたりの悪役が、「タイトル変えたほうがい~よ」 的な 「迷走フジテレビ」 を象徴するようなドラマをピシッと締めた。
 滝藤サンはワケの分からないヌエ的な不気味さ。 そして奥田サン。 いや~、憎々しくて怖くて。 なんかもう後半に行けばいくほど自由にやらせてもらってる感覚で、強烈な印象を残す悪役だった。 「シャイニング」 のジャック・ニコルソンばり。

 このふたりの悪役が大人の世界を象徴しているのに対して、伊藤クンは 「一流」 という形容詞がつくものの、実は少年の頃の純粋さを象徴している存在でもある。 この3人がいたことで、このドラマは最後まで見応えのあるせめぎ合いのドラマになったと言っていい。 「主役はあくまでツマ」、という立ち位置からすると、「A LIFE」 と妙な共通点があったように感じる。

 そして日テレ土曜の 「スーパーサラリーマン佐江内氏」

 出来のいい回と悪い回があったような気もするが、最後まで脱力感満載で気楽に見ることができた。
 ただ最終回はそれなりに作り手の主張、と言えば聞こえはいいが 「そんなに主張!みたいなオーゲサなもんじゃないけど」「そーゆーの拒絶してるんだけど」 的な問題提起みたいなものは垣間見られたような気がする。
 これは演出の福田雄一氏の前回作、「勇者ヨシヒコ」 の最終回でも感じたのだが、基本フマジメながら、ちょっとシリアスなメッセージをしのばせる、というか。

 「勇者ヨシヒコ」 の最終回では、「ゲームに限らずいろんな物語に 『終わらせ方』 というものが存在して、作り手はそれを四苦八苦して考え出すけど、それってもういい加減に飽和状態に近付いているんじゃないだろうか」、というメッセージを感じた。 だいたいみんな最終回、どんなふうに終わったかなんていつまでも覚えてね~し、みたいな。

 「佐江内氏」 の最終回、佐江内氏はスーパースーツを完全にオジサンにきっぱりと返還してしまうのだが、そこで 「会社からも家庭からも自由になりたい」 などと言ったもんだから次の日から完全にそうなっちゃったみたいな展開で、結局はまたスーパーサラリーマンに戻っていく。
 ここから感じたのは、「結局社会に対する責任って、自分が自分であるための外せない要素なのでは」、というものだった。
 責任というものを放棄した瞬間、人というのは 「恐ろしいほど」 自分という存在を消せるものだ。 まったく何者でもなくなってしまう。 自分がいなくなったことで、一時的に困る人間は出てくる。 でもすぐさま、自分の代わりなど見つかってしまうのだ。
 結局、自分は自分であるために、日々愚痴りながらでも小さな努力を積み重ねていくしかない。 そんなメッセージが、説教臭くなく受け入れられた気がした。 この絶妙な後味は、芸達者な堤真一だからこそ実現できたのではないか。

 そしてTBS金曜22時の 「下剋上受験」

 阿部サダヲと深田恭子、そして父親の小林薫と、身内が3人とも中卒、という特殊な家系の中で娘を有名私立中学に入れようと奮闘する実話に基づいたドラマだったが、このドラマでいちばん作り手の視線が注がれたのは 「有名私立中学への入り方」 指南ではなく、主役の阿部サダヲ演じる父親、さらにその父親の小林薫の生きざまに対してだったように思う。 だから娘の佳織の偏差値が40から60に上がる、という、物語としてはいちばん肝と思われる部分がバッサリと切られ、佳織はスランプ状態からかなりのジャンプアップを果たしたのだが、まあそれは原作本を読んでください、という戦略だったのかもしれない。

 ただドラマ化に当たって、主人公の中卒仲間の居酒屋とか、主人公が物語途中まで勤めていた会社の 「学歴のいい」 後輩とか、同級生だったガリ勉で娘同士も同級生の会社社長とか、まわりをにぎやかにしてしまったおかげで途中から阿部サダヲのキャラが埋没してしまったような印象も受けた。
 やはり阿部サダヲはそのキャラが立つかどうかで、ドラマ自体の出来も左右する先鋭的なタイプの役者なのだ。

 阿部サダヲのキャラを丸くしてしまったもうひとつの原因は、深田恭子だ。 ただし悪い意味ではない。
 このドラマを見ていてかなり興味深かったのがこの深キョンで、去年の 「ダメな私に恋してください」 の前面に出てくるキャラ(そりゃ主役だったし)からかなり後ろに引っ込んだキャラに変わっていて、こういう立ち位置の場合この女優はどのような演技をするのか、というのが面白かった。
 立ち位置に変化はあれ、「おバカ」 ということにかわりはなかったのだが(笑)この中卒の奥さん、妻として母親として実によく出来ていて頭脳明晰。 さらにどんなにハチャメチャなシチュエーションになってもけっして悲観したり絶望したりせず、いつもおっとり構えて痛みを緩衝してしまうスポンジのような役割も果たす。 こんなに人畜無害なのにきちんと存在感を示せていたのは驚異的だった。
 しかしいっぽうで、こういう出来た嫁だから阿部サダヲのエッジが削られてしまうんだな。 嫁がフツーに阿部サダヲみたいな無茶をする人間に呆れたりキツクたしなめたりすれば、阿部サダヲのエキセントリックさは鋭さを増すのだ。

 さらにこのドラマ、娘の佳織の学校で交友関係においてほとんどネガティヴな展開にならなかったところが、ドラマを平凡に人情味のある方向へと傾かせる一因ともなった。
 佳織もかなりいい子で、親の方針にほぼ逆らわない。 よく出来た嫁のDNAを引き継いでいたとも言えるが、もともとこの子は親に対して絶大な信頼を置いているのだ。 この親子の距離感の近さが、このドラマを見ていて感じる心地よさにつながっていた。 それが見ようによっては退屈ともとれたかもしれないが。 こういう素直な娘、というのはいいじゃないですか。

 そして最後に論じるのは、日テレ水曜22時 「東京タラレバ娘」

 結論を言ってしまうと、私が見たこの冬ドラマの中では、まあ全体的に低調な印象ではあったが、結局これがいちばん出来が良かった気がする。

 主演の吉高由里子は朝ドラ 「花子とアン」 以来久々の連ドラ主演だったと思うが、「朝ドラ女優」 が出演を決断するにはじゅうぶんな 「格」 が備わっていた、と思う。
 その 「格」 を決定づけたのは、主人公を含む3人の女友達の 「アラサーを迎えて結婚に焦る女たちの本音」 が、これまでの同種のドラマと比較してかなりリアルだったことによる。
 このドラマでは 「あるある話」 の羅列にとどまらず、そこに彼女たちの自虐、反省とそれに伴う人生そのものに対する深い思索が読み取れた。 そこがこれまでの同系列のドラマと違うところだった。

 ただし物語の内容そのものを考えると 「都合のいい展開」 が多かった。 特に最終的に吉高が落ち着くKEYが、かなり頻繁に吉高の前に姿を現すのだ(笑)。 それはもうストーカーかみたいなレベルで(笑)。
 それと、吉高の飲み仲間である榮倉奈々、大島優子の相手の男がクソ過ぎた(失礼)。
 榮倉の相手はバンドマンで榮倉は二番手の女。 「どっちも好きだ」 とかかなり無神経にのたまうアホで(笑)そういう 「少年のような」 アホと離れられない榮倉は、自分のアホさ加減にじゅうぶん気付きながら関係を続けている。
 大島の相手は不倫男の田中圭。 コイツも女房が妊娠中なのにほかの女にうつつを抜かすというかなりのバカチンで、こちらも大島は不倫のもたらす代償に傷つきながら関係を続ける。

 吉高は吉高で、冷静に見てりゃ仕事のパートナーである西郷どん、じゃない早坂がいちばん適当なのにグダグダ考えて結局KEYになびいてしまう。
 この3人の女どもは愚かな結論だとじゅうぶん自覚しながら、自分が幸せだと感じりゃそれでいーのだ、幸せはいつも自分の心が決めるとか、相田みつをみたいな結論でドラマは終わるのだが(笑)、「肥大化した自分の人生に他人が入りこむ隙がない」、という現実と、「誰か好きな相手がいないとさびしい」 という生理的な問題をいっしょくたに処理して解決しようという彼女たちの姿勢自体に無理がある、と私などは思ってしまう。

 つまり結婚なんてものは相手のどこが気に食わぬとかここが合わないとかと考え出したらけっして出来るものではない、ということだ。 肝心なのは、ここが違う、あそこも合わない、だけどそれも受け入れられる、という心の余裕なのではないか。

 しかしこのドラマが秀逸だと思われるのは、愚かなことをきちんとあぶり出していたところだ。
 私(たち)はドラマの中の登場人物に 「そうじゃないだろ」「なんでそうするのかねイミフ」 とかダメ出しをしながら、実は自分の人生さえも、そんな間違った決断だらけなのだ、ということに気付く。 私(たち)は自分のやっている間違いに気付きながら、それでもやめることができない。 もしくは行動に移せない。 彼女たちのモノローグが正鵠を射ているからこそ、見ている側はそこに気付かされるのだ。

 だが、私(たち)は、「間違った決断」 がけっして自分の人生にとって 「悪かったこと」 とは考えないようにしようとする。
 それも自分の人生なのだ。
 いちばんいい方法なんてけっして選べないかもしれない、けれども一歩踏み出したらそれが正しいと信じて歩き続けるしかないのだ。 どうしても我慢ならないのであれば仕方ない。 それも自分の人生なのだ。

 と、このドラマを見てそこまで考えるのはアレかと思うが(笑)、彼女たちの思索が深かったからそこまで考えさせられた、と言ってもいい。 その意味で冬ドラマの中ではいちばんよかったかな、と思えるのだ。

 以上、私の見た範囲での冬ドラマの感想でした。

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2017年2月 5日 (日)

2017年冬ドラマ、私の見た範囲で(「カルテット」「A LIFE」)…以下次号

 ほんとうは前の記事 「スーパーサラリーマン…」 もこの記事に入れようとしたのですが予想以上に長くなってしまったので別記事にしました。
 忙しいのでなかなか最新の回まで見たドラマが少ないのですが、とりあえず自分の見た範囲内で感想を書きたいと思います。

 まずはリタイア組。 TBS火曜22時 「カルテット」。 「Mother」「それでも、生きていく」 の坂元裕二氏脚本、ということだったけれど、この人のドラマでいいと思った最後は 「最高の離婚」 だったろうか。
 「最高の離婚」 の主役はヘンなこだわりだらけでかなりウザい男だったが、それが逆に哀しくて可笑しく、コメディドラマとしての根幹をつかさどっていたからこそ成立出来ていた。 しかしそれ以降の坂元氏の作るドラマというのは、個人的にそうした 「ヘンなこだわり」 が鼻につくようになる。
 それまで坂元氏のドラマで秀逸だったのは、「例え話」 の 「あるある感」 だった。 その例えにキレ味があったからこそドラマの中の登場人物に共感できたし感情移入もできた。 でもなんか、ずれてる気がするんだよな、ここ数年。
 それと、ドラマ設定のムリヤリ感がここ数作多いような気がする。 そうした齟齬が生じたまま、坂元氏はどんどん自分の世界の中に入ってしまい、登場人物がみんな坂元氏の心の代弁者みたいになってきて、性格は違えど同一人物みたいに思えてきてしまう(そもそも自分の中にもいろんな性格が入り混じっているのだから当然ではあるが)。 言葉(セリフ)にこだわるあまり、その言葉(セリフ)に呑み込まれていくような印象。
 これって、山田太一氏の全盛時を過ぎたドラマを見ていたときの心境と、どこか重なるところがある。 設定のムリヤリ感と話し言葉のヘンな違和感。 それがその脚本家の作るドラマの世界なんだよ、と言われれば話はそこまでだが。 満島ひかりの言ったセリフじゃないが、なんか見ていてミゾミゾするんだよな(意味不明)。

 リタイアしたのってこれくらいか。 フジ火曜21時の草彅クンの 「嘘の戦争」 や月9の 「突然ですが、明日結婚します」 は開始10分でやめたからリタイアにも当たらないというか。 あとは刑事モノとか事件モノとかそもそも別に見る気もなしというドラマばかりなので語りようがない。

 ただ、草彅クンのドラマを10分リタイアしたくせに、木村クンの 「A LIFE~愛しき人~」(TBS日曜21時) は見ている(2回目まで)。 なぜかなというのは考えたくなる。

 正直なところ、木村クンのドラマは内容的にさほど大したことはないように思える。 草彅クンのドラマのほうが見る人が見れば面白いのだろうけれど、私はどうも 「何を考えてるか分からない」 草彅クン独特の表情にミゾミゾするものを感じてしまうのだ(ミゾミゾが流行ってるぞ自分の中で)。
 それに比べて、木村クンのほうは 「顔で気持ちを表現してしまう」 みたいな部分があるように思える。 だからドラマで何か展開するたびに、彼の表情を追ってしまうのだ。

 重ねて書くが、ドラマは内容的に特段優れているとは言い難い。 そもそも心臓外科医が脳外科もやんのか?とか、父親が心臓の重い病気でそれを治したと思ったら今度は娘が脳腫瘍かよ、とか、ちょっと素人目にも 「あり得ないでしょ」 の連続だからだ。
 しかし木村クンが出てくると、それらがみんなスッ飛んで木村クンの動向に注目してしまう。
 これって巷間言われていることを無視しても、すごいことなんじゃないかな、と思う。 こういうのが、スターとしての素質、というヤツなんじゃないのかな、と思う。

 翻って、ことに自分の場合、草彅クンに関しては彼の心の奥底が読めない、という気持ちがある。 バラエティなんかの草彅クンも、最近は見ないが昔はよく見た。 だから彼の素を知っている気になっているのだけれど、実はなんか、彼はまだどこかで仮面をかぶっている、という気持ちが抜けないのだ。 これは彼がかつて起こした逮捕事件の不可解さから続いている。 彼の中には、どこかに底知れぬ闇があるのではないか、という。

 彼の出るドラマには、そんな闇をまるで増幅したかのような役が多い気がする。 つまりそこにあるのは、彼のキャラクターから来るリアルな怖さなのだ。 草彅クンがそんなものを表現できる役者であることがまず驚異的だが、私はどうも敬遠してしまう。 彼の中にある闇を見るのが怖いからだ。

 話は 「A LIFE」 に戻るが、そんな出来がいいと思われないドラマの中に、また力量のあるふたりの役者が放り込まれている。 浅野忠信と松山ケンイチだ。
 これを無駄遣い、と言えるのかどうか。 私の目下の興味の中心は、どうもそこにあるらしい。
 つまり、浅野はスーパー外科医マンである木村クンにただただ嫉妬する役なのだが、自分の妻の竹内結子が木村クンと仲良かったからとかそういう単純な動機なんだな。 それで一度は木村クンを病院から追い出したのだが、帰ってきて手柄を立てる木村クンを見てまた嫉妬し、壁をぶっ壊したりする。 その、自分が開けた壁の穴を、わきに飾ってあった絵画の額を移動して隠そうとしたり、ちょっと油断して見てるとただ笑えるだけのシーンなのだが、浅野はここに自らの狂気を表現しようとしていたようにも思えたのだ。

 私が見ている範囲(第2回まで)では、話の荒唐無稽さは相変わらずだが、浅野がこの単純な嫉妬の構造の中でどのように自らの役に狂気を含ませていくかに腐心しているような気がしてならない。 いわばこれは、木村クンアゲが目的で自分のために作られていないドラマの中で、自分をどれだけ木村クンのスターのオーラに対抗させようか、という戦いなのではないか、という。

 そして松山ケンイチ。 私が見た第2回までの時点では彼は完全に、「ほかのドラマじゃ絶対どうでもいい若手役者がやるような役」 というスタンスに甘んじている。 しかし彼がこんな、「自分のために作られていないどーでもいいドラマ」 に出るわけがないように思える。
 たぶん第2回の蹉跌をばねとして、木村クンにとって今後大きな脅威(もしくは強力な味方)となってくるのではないか、と私は予想しているのだが。 味方じゃつまんねえな。 あの平清盛だよ。 ど根性ガエルのひろしでもあるが。

 このひろしが出てるドラマより今回は裏番組の 「大貧乏」 のほうが面白い気がするのだが、ちょっと今日は力尽きたのでまた別の機会に書くとします。 書く予定としてはあと、「東京タラレバ娘」 と 「下剋上受験」。 気が向いたら 「幕末グルメ ブシメシ!」。 たぶん書かないだろうというのは 「雲霧仁左衛門3」。 これがこの冬ドラマで私が見ているものすべてであります。 「タラレバ」 はひょっとするとリタイアする可能性も…。

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