テレビ

2019年2月11日 (月)

「いだてん~東京オリムピック噺」 第3-6回 このドラマの楽しみ方(って解説…無粋だ…)

 今年の大河ドラマ 「いだてん」 が、テレビドラマフォロワーやクドカンファン以外の視聴者に、あまり好意的に受け入れられていない点について語ろう、と思う。

 まず第一の難点は前回記事で書いたとおり、ビートたけしの起用であろう。
 セリフがじゅうぶんに聞き取れない、ということは、ドラマを見る上においてとても見る気を削がれる一因であることは確かだ。 私などは耳の聞こえが致命的に悪いので、永年字幕付きでドラマを録画し視聴してきた。
 だが耳の聞こえが悪いことを差し引いても、イヤホンで大音量で聴いていても、セリフが聞き取りにくい役者というのはしばしばいる、と私は感じる。 テレビの副調整室でモニターがどう聞いているのかは知らないが、きちんと視聴者が聴けるような状態で放送するのは、作り手の義務でもあろう。

 ただし。

 「セリフを一から十まで聞き取り理解できることが、果たして絶対的に正しいのだろうか」、という疑問も、同時に私は感じている。

 古い話で恐縮だが、その昔、左卜全(ひだりぼくぜん)、という大変個性的な役者がいた。 彼は黒澤明の映画によく出ていたが、彼が出てくると私などは、ちょっと身構えたものだ。
 何しろ、しゃべってることが半分くらい分からない(笑)。
 それでなくとも黒澤の映画は、録音が古いせいなのかセリフが聞き取れないことが多かった。 それでもじゅうぶんに感動できたものだ。

 ビートたけしが演じている古今亭志ん生本人も、当時の録音状態の善し悪しにかかわらず、酔っぱらいがブツブツ言っているような感じで、ちゃんと聞き取れない部分があることは確かだ。
 それでも当時の観客は笑い、拍手を送った。
 それはどこかで、「志ん生の落語は面白い」、という先入観によって、その場の雰囲気で笑ってしまっていたこともあろう。
 しかし大半は、聞いても分からない部分は 「やり過ごして」、「その分からないところも味わいとして捉えて」、志ん生の落語を楽しんでいたのだろう。

 「その場の雰囲気で」、「その場の流れで」。

 テレビドラマや舞台や興行にかかわらず、すべての 「見世物」 を見ようとするとき、多少の不便はつきものなのではなかろうか。 私たちは昨今の、緻密に作られ伏線が張り巡らされ布石が打たれまくりのドラマに触れすぎて、セリフのひとつひとつ、演出のひとつひとつ、小道具のひとつひとつにまで神経を尖らせなければならない、と思い込んで、その 「ある種の不便」 を、やり過ごせなくなってきているのではないか。

 分からない部分は、分かんなくていい。 どうせしゃっちょこばった本当の話じゃない。 気楽に楽しもうや。
 それがこのドラマのスタンスなのではないか。
 このドラマのリアルというものは、もともと重要視されていない。 「事実を基にしたフィクション」、というのは、そのために但し書きされた謳い文句だが、そのエクスキューズをドラマはその構造で弁明している。
 「志ん生の落語」、という形でだ。
 だからこのドラマのタイトルは、「噺」 なのだ。
 ドラマはどんどん落語のネタを基に展開していく。 そのたびに画面には、元ネタの噺の内容が出る。
 でもそんなもの、読まなくたってたいした支障なんかないのだ。
 やり過ごす。 そして楽しむ。
 これがこのドラマの楽しみ方のひとつなのだろう。 そう私は思う。

 この、「落語を基にした展開」、というものに、私は少々脆弱性を感じている。 というのは、落語のサゲ(オチ)って、別にどこが面白いんだ、というのが多い気がするからだ。
 しかしこの私の危惧を、第6回(2月10日放送)でしっかりと五りん(神木隆之介)が師匠に突っ込んでくれた(笑)。 …いま入力して分かったけど、五りんって五輪のことか(笑)。
 だがこのサゲというのは、その噺が終わりましたよ、という観客に対する合図でもあり、「決めゼリフ」 でもある。 そこに噺家と観客の呼吸の一致、合致が要求されるわけだ。
 それができない受け手は 「野暮」、というものだ(五りんは野暮、ということになる)。 テレビ桟敷に陣取っている我々も、作り手との呼吸を読み取れる、大人になる必要があるのではないか。

 第二の難点は、「時代が行ったり来たりしすぎる」、という部分であろう。
 宮藤官九郎の脚本はもともとトリッキーで分かりにくく、ついてこれない視聴者を置き去りにする傾向があることは確かだ(笑)。
 ただ、時系列を二元化する、という傾向は 「あまちゃん」 や前作の 「監獄のお姫さま」 などで見られた手法だが、そのときあったタイムラグが2、30年程度だったから、50年ある今回は比較的分かりやすいほうだとは思う。 なにしろ俥屋が出てくりゃ明治、自動車が出てくりゃ昭和だと分かるだろう(笑)。 いや、今のところはこのふたつの時代、登場人物が全くかぶらないのだから(志ん生以外)、それだけでどっちの時代をやってるか、分かりそうなものなんだが。

 また、同じ時代でも、いったんやった場面を巻き戻して、その出来事の裏でなにが起こっていたのかを種明かししていく、という 「木更津キャッツアイ」 のような手法もとられている。
 こうしてみると、この 「いだてん」 という大河ドラマは、宮藤官九郎がこれまで用いてきたテクニックを総動員して、作り上げていることに気づくだろう。
 第1回から第5回までは、その 「木更津キャッツアイ」 の手法で、一回の表裏が終わったワンセット、というところだろうか。

 この手法を宮藤がとり続けるかどうかは分からないが、第6回では昭和30年代編においてのもうひとりの主要人物、田畑政治(阿部サダヲ)が登場した。 第1回でちらっとだけは出ていたのだが、志ん生を仲介人として、明確に明治と昭和の前後編が分けられるのかと考えていた私にとっては、ちょっと意外な登場の仕方だった。 要するに、宮藤としてはハードルをちょっと上げた、という形になるのだろうが、こうなると、話が分からない人はさらに分からなくなっていくような気がする。
 いや、分かりそうなもんなんだが。
 もしかすると、すでに昭和(半ば)というのは、明治と区別ができないくらい、若い人の意識のなかでは同一化しているイメージなのだろうか?
 いや、「このドラマが分からない」、と言っている人の年齢層自体が分からないので、考察のしようがない。

 話が行ったり来たりするなかで、「分からない人」 を混乱させているひとつは、第1回でビートたけしの志ん生がタクシーのなかから目撃し、第6回で田畑政治がこれまたタクシーのなかから目撃した、「足袋を履いて銀座や日本橋を駆け抜けていくランナー」 であろう。
 これはいまのところ、明治編の主人公である金栗四三の 「幻」、といった風情を醸している。
 実際に並行して語られる金栗は、ストックホルムオリンピックを目指してこのコースを走ることを決めた。 決めたと同時に、昭和30年代の街なかを、四三と見まごう人物が走るのだから、混乱する向きもあるかもしれない。
 それは果たして、幻なのか。
 それとも年老いた、四三自身なのか。
 その正体が分からずとも、私たちは画面のどこかに息づいている、在りし日の人々の残留思念を(「幻魔大戦」…)、感じていく。

 それがテレビドラマ、というものなのではないか?

 時代がぶつ切りにされて移動するたびに 「分からない人」 を混乱させていく今年の大河だが、そこで浮かび上がってくるのは 「志ん生自身の成長過程」 だ。
 「誰が主人公か」、という意識は、ここですっぱり捨て去ったほうがいい。 過去と現在(と言っても60年近く前だが)との橋渡し役のように見える志ん生だが、当の若き志ん生はひどい遊び人から脱却して、師匠と仰ぐ人物に遭遇し、その師匠の俥屋をしながら噺を覚えていく。 要するに、金栗四三以外にも、もうひとり美濃部孝造(志ん生)という主人公がいるわけだ。

 これは、金栗四三が、物語の主人公としてはあまりに実直で生真面目すぎ、面白みに欠けるところからフォローされたのだと思われるが、いっぽうで四三の真面目さを、宮藤がネタにしないわけがない。
 私は当初、金栗四三という人はキャラ造形的にあまり存在感がない、と考えていたのだが、彼の実直さが醸し出す可笑しみと、勤勉さが後押ししていくポテンシャルが、結局四三という人物の厚みを増していく過程に、ひたすら感心している。
 彼の真面目を押し上げているのは、「負けん気」 だ。 最初のレースで二位に終わり、四三はその敗因を徹底的に自分なりに分析する。 「自分なり」、であるから、そこには専門的知識とかは全くない。 でも、「自分なり」、であるから、自分の正直な気持ちに添って分析は進んでいくのだ。
 彼の勤勉さは、トレーニング法を貪欲に取り入れることでも発揮される。 「油なし、水抜き」、という間違った知識は、実践のうえ、淘汰されていく。
 「水を飲んじゃイカン」、というのは私が中学生の頃(40年くらい前)はまだ言われ続けていたことだ。 いまはそれが間違いだったことが証明されている。 トレーニング法の試行錯誤、という側面がここであぶり出されているのはすごい。 宮藤の問題意識が手広くなければ、こうした側面は、見逃されがちだ。

 オリンピック予選会で四三が世界記録より20分も早い記録を出してしまったことへの、疑念や葛藤がきちんと描かれていることも、好感が持てる。 「こうなれば、どうなるのか」、という、原因と結果に対する作り手のシビアな視点、というものがなければ、物語のなかでこんな議論は噴出しないからだ。
 そしてその葛藤が、嘉納治五郎を苛つかせる遠因になっていることにも注目する。 第6回のメインテーマはそこにあったのだが、オリンピックに選手を送り出すために必要なカネを嘉納が工面できない、という状況を、宮藤は重層的な理由を積み重ねて、説明していく。
 そこで飛び出た原因のひとつが、嘉納が中国人留学生たちの面倒を見てしまったから、というものであったが、これも以前に羽田の運動場を作ったときに、辮髪の彼らをとても印象的に登場させておいたから、トートツ感がかなり軽減された(「トートツ感」 でなにを言いたいのかは、分かるね?)。
 遠征費用の額も、嘉納の下で働く可児(古舘寛治)の給料の何ヶ月、という説明の仕方で、だいたいではあるがどれだけのものか、受け手にすっと入ってくる。
 こういう細かい部分での一言一言が、物語を立体化させるうえで、すべて有効なのだ。

 嘉納治五郎はままならない状況にただひたすら憤慨し血圧を上げまくっていくのだが、どこも拠出してくれるところがないと、すぐに自分の財産でけりをつけようとする、その思いに見る側は知らぬ間に、感情移入していく。 そして資金源の問題や、スポーツに対する理解も知識もまったくない当時の状況に、さまざまな感想を抱いていく。

 これがテレビドラマ、というものなのではないか?

 いずれにしても、今回のこのドラマに対する、受け手のさまざまな考え方を読むたびに、「私たちは 『受け取ったものを自分で考え、鷹揚に咀嚼する』 という能力を、喪失しつつあるのではないか」、という思いにとらわれる。

 必要な情報はスマホで簡単に手に入るが、自分の興味のあることだけにしか関心がなく、そこで偏った知識ばかりに精通して、偏った見識が培養される。

 いっぽうで理解できないことを理解しようとせず、自分が 「分かんない」、というのが大問題であるかのように感じてしまう。 賢くなると同時に、理解力が低下し、ほかの考えを受け入れる柔軟性が、失われているのだ。 飛躍した考えかもしれないが、これは世界的な傾向のようにも思える。 自国第一主義、排他主義、といった傾向だ。

 かつて 「テレビを見てるとバカになる」、と言われた時代があった。
 いまはスマホが、それに代わっているのかもしれない。

2019年1月14日 (月)

「いだてん~東京オリムピック噺」 第1-2回 ビートたけしへの世間の忖度、と反発

 橋田壽賀子作の 「いのち」 以来33年ぶりとなる、近現代史を舞台とした大河ドラマ。 朝ドラ 「あまちゃん」 を脚本した宮藤官九郎が、「このドラマは事実をもとにしたフィクション」、と大河ドラマでは初めて公式に但し書きされた、舞台を描いていく。

 「このドラマは事実をもとにしたフィクション」、というのは、ここ数年の大河ドラマでは、すでに常道になっている皮肉な事実だ。 「龍馬伝」 では坂本龍馬とどれだけ親交があったか分からない岩崎弥之助をモーツァルトとサリエリの関係になぞらえ、「おんな城主 直虎」 では史実上男だったか女だったか分からない資料の乏しい人物を中心に、ほぼ脚本家の創作で一年を貫き通した。
 そのほかにも本能寺が大爆発を起こしたり主人公が有名な歴史上の現場に遭遇しまくったり、とりあえずリアルではないこともあることはあったが、酷かったのは去年の 「西郷どん」 にとどめを刺す。 あれこそは 「事実をもとにしたフィクション」 の最たるものだった、と断言する。
 蛇足であるが、当初この 「西郷どん」 でナレーションを担当するはずだった市原悦子さんが、亡くなった(13日)。 ご冥福をお祈りします。

 「いだてん」 は1910年代と1960年代の、半世紀を挟むふたつの時代を舞台としている。 1910年代では日本人が初めてオリンピックに出場した時代の空気を描き、1960年代では、そのオリンピックを東京で開催することを描いていく。
 このふたつの時代を時間軸通り淡々と描いていくならば、物語は滔々と分かりやすく進んでいったことだろう。
 だが、トリックスター的な精神的爆弾を抱えたままの宮藤官九郎という脚本家は、そういう分かりやすさをハナから拒絶した。 宮藤は第1回から、このふたつの時間軸を行ったり来たりする、複雑な物語展開を選んだ。

 もともとこのドラマのいちばん高いところに存在している目的というのは、来年行なわれる史上2回目の東京オリンピックに向けて、「オリンピックが日本人にどのような意識の変革をもたらしたのか」、ということを解明していく作業だと思われる。 それを物語として明確に浮かび上がらせるには、やはりこのふたつの時間軸は、行ったり来たりする必要がある、と私には思える。

 宮藤のドラマクリエイターとして冴えているところは、このふたつの時間軸を、古今亭志ん生という希代の落語家を通じて結びつけたことだ。 このことによって、ドラマで起こるさまざまな事象を落語の噺になぞらえる、通好みの粋な落としどころが表現可能となるのだ。
 そして半世紀、50年という時間の 「重み」、というものもドラマに投影できるようになる。 ただ単に生きているだけでは、誰それが歳をとったとか偉くなったとか没落したとかそんな感慨しか生まれないものだが、50年という歳月のなかで、何が変化していったのか、何が日本人の心の中からなくなったのか、昔はどう考えていたのか、それを考えることができるようになるのだ。 すなわちそれが、「時の重み」、であると言えよう。

 例を挙げよう。

 古今亭志ん生(ビートたけし)は物語の古い時間軸のなかでは若く(森山未來)、ハチャメチャな生き方をしていたが、新しいほうの時間軸では弟子入り志願の若者(神木隆之介)のハチャメチャさについて行けてない。 そこから志ん生の来し方を想像することは楽しい。
 若い志ん生は第2回で橘屋円喬(松尾スズキ)の落語に触れ、そこで感銘を受けたことで落語家となっていくのだが、第1回で壮年の志ん生のもとに弟子入り志願してきた神木は彼女(川栄李奈)と二人連れ。 「あなたの落語が面白かったら弟子入りさせて下さい」、という新人類ぶりだ。 それが創作であってもフィクションであっても、時代の変化を感じさせるエピソードではないか。
 今のところ例に出せるのはこれくらいであるが、おそらくこの先、1960年代編には1910年代編の主人公である金栗四三(中村勘九郎)が、当時存命中だったから出てくるはずだ。 そこから導き出せる物語の奥深さを考えると、今からわくわくして仕方ない。

 このところの大河にとても希薄だったのは、この 「時の重み」 感なのではなかろうか。 主人公たちはいつの間にか歳を取り、さして老けメイクをすることもなく、テロップで出てくる年号に 「えっ、もうそんなに経ったの」。 これではいくら史実を追いかけたところで、そこに説得力はほとんど発生しないし、ましてや一貫性のない、都合のいい個人的感情だけを並べ立てても、単純で上っ面なお涙頂戴ドラマにしかならない。

 「西郷どん」 のことを言っているのだが。

 このドラマの1910年代編で第1回目に展開したのは、「初めてオリンピック、というものに触れた世の中の反応」、というテーマだった。
 ここで対立軸として描かれたのが 「体育」。 「体」 を 「育」 てることが目的な従来の体育協会の考え方は、体を動かすことの楽しさやそれを競い合うことの楽しさを目指す 「スポーツ」 という概念と相容れない。 これを説いた嘉納治五郎(役所広司)の考え方の柔軟性をここで提示すると同時に、「勝つことにこだわり命がけになってしまう」(杉本哲太) ことの悲劇を同時に提示する。 私はこの役所と杉本の対峙を見ていて、1964年東京オリンピックのマラソンで銅メダルをとった我が故郷の英雄、円谷幸吉が自殺に追い込まれたことを想起していたのだが、スポーツがもたらす功罪について一瞬のうちに説明し尽くしてしまう、宮藤のこの手腕には、恐れ入った。

 それにしても、ネットでは志ん生を演じているビートたけしへの不満が爆発しているようだ。

 いちばんあげつらわれるのが、たけしの滑舌の悪さだ。
 セリフが聞き取りにくい上に、世界の北野とか持ち上げられてるわりには、演技力が拙い。
 これは憶測だが、若い世代に顕著な不満のような気がする。
 かつてたけしがバイク事故で生死の間をさまよい、復帰するのにだいぶ長い時間を要した、という出来事(1994年)を知っているか知っていないかで、たけしに対する目というものは、かなり違ってくるのではないか、と私は考えている。
 このバイク事故で、たけしは顔半分の自由が、基本的に利かなくなった。 滑舌が悪いのは、顔半分の筋肉が思うように動かない後遺症のせいであろう。 それでもまだ今より若い頃はリハビリの効果もあっただろうが、やはり歳を重ねてくると、顔だって筋肉が緩んでくるものなのだ。
 私自身、帯状疱疹でたけしと同じく顔半分の踏ん張りが利かないので、たぶんたけしも同じなんじゃないか、と思っている。
 たけしは人気者だったから、事故当時はみんなたけしの無事を祈ったし、復帰してきたときの状態にショックを受けたし、それでも頑張るたけしを応援した。
 そういう経過を知っている世代ならば、おいそれとたけしに対して不満は感じないはずだ。 みんなその点では、たけしに忖度している、と言える。

 演技力に関しては、「拙いのがビートたけしの演技の味なのだ」、と言うほかはない。 「戦場のメリークリスマス」(1983年) から、たけしの演技力ってそれほど変化していない気がするが、たけしの演技というのは、その素人っぽさが醸し出すリアルである、と定義づけることができる。
 また、彼が監督した映画についても、私はよく分からない。 おそらくそれが海外で過大評価されていることへの不満が、今回のたけしに対する不満の土壌にある気もする。

 いずれにしろ私たちは、ある年代より上の世代から、ビートたけしという人物について、頭脳の回転が速く切り口が鋭いことに対する尊敬とともに、どこか鷹揚な気持ちで付き合っている部分があるように思う。 今回たけしに対して不満を表明しているネットの住人たちは、そうしたある種の忖度をできない人々なのだ。 彼らの目は鋭く、理解不能なほど偉そうだったり、過大評価される人物に対して、とても厳しい目を向ける傾向がある。

 ひょっとすると、1960年代からさらに50年を経た 「時間の重み」、というのは、こうした、いびつに見える評価、作られた虚像に対する嫌悪感を隠さない人々が、台頭してきたことにあるのではないだろうか。

 物語に話を戻せば、第2回ではようやく本編に入り、「西郷どん」 の記憶も新しい、西南戦争の現場近くだった主人公・金栗四三の生まれ故郷を描き、西南戦争の記憶も掘り起こされる。 ここでの金栗家も西郷家と同じ貧困のなかにいるのだが、大所帯の混乱をそのまま描いているのが却ってリアルに感じる。 面倒だからあとは省略!という居直りも潔い。
 なぜ 「西郷どん」 とシチュエーションが同じなのにここまでリアルなのか。 それは、四三の幼少期を演じた子役のせいだ。
 ネットの情報によると、彼はズブの素人らしい。 最近のこまっしゃくれた(失礼)演技力バリバリの子役みたいな、変な野心がないのがリアルなのだ。 どっかから連れてこられて、ただ言われたことをやってるだけ、という存在のなさげなところが、とても新鮮に見えた。

 その彼が、長兄の中村獅童に怒られて泣くのだが、ホントに怖くて泣いてるようなのだ。 何なんだ、この作ってない感じ。

 そして第2回で描かれたのは、病弱の父親(田口トモロヲ)に連れられて嘉納治五郎の授業を見に行き、「四三が嘉納先生に抱っこしてもらった」、と家族にウソをつく父親にショックを受け、打ち明けようかと悩む幼い四三の姿だった。
 父親が亡くなったその席で打ち明けようとする四三に、兄の中村獅童が 「何も言うな!」 と口止めする。 兄は本当はどうだったかを知っている。 それは、「父親の気持ちを考えろ」、ということだ。 さらに言えば、それを本当のことと信じようとする家族の気持ちも考えろ、ということだ。

 つまり、「忖度せよ」、ということなのだ。

 この話が理解できる人であるならば、ビートたけしのことも忖度せねばなるまい(暴論)。

 最後になるが、この第2回では綾瀬はるかが 「八重の桜」 以来6年ぶりに大河ドラマに復帰した。

 その颯爽とした、清々しさはなんだ!

 そして我が同郷のヒロインを演じた綾瀬が、熊本県人を演じる、この一抹の寂しさよ!

2018年12月30日 (日)

2018年 私が選ぶ 「ベター」 テレビドラマ

おことわり 総括を追記しました。

 今年2018年、7月に録画機が故障したのを経済的理由でほっぽってしまったため、夏ドラマの視聴を完全に諦めた私。 話題になってた 「義母娘」 くらいは見たかった気が。
 9月に買った新PCでTVerの視聴が出来るようになったため秋ドラマはいちおう見たが、有料サイトのNHKを敬遠したためNHKのドラマはスルー。  「西郷どん」 のみガラケーで就業中(会社にはナイショ)見てカバー。

 そんな、かなり変則的なテレビ視聴になったため、今年のランキングは 「ベスト」 とは到底言えぬ。 「ベター」 テレビドラマということになるがご了承ください。

 時系列的に列挙していくが、まず1月、NHKの大河ドラマ 「西郷どん」。
 コメント欄をご覧のかたは先刻ご承知の通り、「クソアホバカクズ大河もどき」 とまで罵倒した。 だから今更 「最終回まで見て」 を書くつもりもない。 とりあえず、役者と画面組立(構図とかライティングとか)だけは素晴らしかったです(おまけみたいに褒めて…)。

 関西テレビ 「FINAL CUT」。 亀梨和也が復讐鬼になってメディア関係者とか警察とかに天誅を加えるドラマだったが、最終的に亀梨の生真面目さが目立つ印象に落ち着いた。 ニュースのワイドショーを俎上に上げることでテレビの自己批判を展開する勇気のある内容かと思ったが、テレビがテレビの批判をするのはそうたやすいことではない。 政界との癒着を持ち出したことでその矛先は微妙にずれ、「面白おかしく伝える」、というテレビ自らの姿勢に切り込む鋭さを失ってしまった、とも言える。

 日テレ 「anone」。 坂元裕二脚本のドラマだったが、ラストを覚えていない、と思ったら、たしか最後まで見てない。 壊れた録画機に残ったままだ。 これじゃ分からん。 偽札作りはどうなったのだろう(笑)。 でもまあ別にいーや、と思ってしまう、その程度のドラマだったのかもしれない。
 つらつら思い返すに、主演の広瀬すずが自分の置かれた環境に不満を抱いているのか、どうでもいいやと諦めているのか、そこらへんの立ち位置がぼやけていた印象がある。 小林聡美や阿部サダヲもドラマのなかではその態度が常に揺らいでおり、ドラマ全体の妙な浮遊感に寄与していた。
 こうした、登場人物たちの心がつかみにくいドラマというのは支持を得にくい。 おそらく彼らの心の底辺には世の中や政治・行政に対する不満がなんとなく鬱積していたのだろうが、特にそのファジーな感覚がなだれ込んでいくのが偽札作りであったため、ますます共感を得にくくなったとも言える。 これが映画なら、そのインモラルな設定もいくらか受け入れられただろう。

 TBS 「アンナチュラル」。 私がこれまで見た野木亜紀子脚本のドラマのなかでは、もっとも論点が整理され巧妙に点と点が結び合った、用意周到さが光るドラマだった。 このドラマで石原さとみは、その特異で得がたい才能の発揮場所をようやく見つけた、と言っていい。 夏ドラマでは 「高嶺の花」 という野島伸司脚本のドラマに出たみたいだが(未見)、あまりいい反応をネットでは見かけなかった。 このスペックの高い女優を使いこなすのは、難しい。

 フジテレビ 「海月姫」。 芳根京子は若手女優のなかでもかなりの実力を持った演技者であるが、クソみたいな朝ドラだった 「べっぴんさん」 のヒロインに選ばれてしまうとか、不運な面があるように思う。 マンガ原作のこのドラマでも、そのキャラは荒唐無稽。 それでも、そんな現実味の乏しい役をはじけて演じきった。
 サブキャラだった松井玲奈が、全くこの人誰?みたいな役に徹していたのもすごかったと思う。 安達祐実のノムさんも傑作。 江口のり子も面白かったなぁ。

 テレ朝 「BG~身辺警護人~」。 木村拓哉がSMAP解散後の自らの今後における、ひとつのテストケースとして選んだようなドラマだったように思う。 つまり何シーズンも継続していくような、息の長い 「相棒」 タイプのドラマだ。
 そんなドラマを作るためには周りを固めるキャラが堅固でなくてはならない。 その点で上司の上川隆也が途中死んでしまう展開にはもったいなさを感じた。 まあ、このシリーズで終わりなのかな(笑)。 「ロンバケ」 山口智子との再共演も話題にのぼった。 木村と山口は、演技者どうしとして結構息の合ったパートナーではないかと感じる。

 3月。

 NHK 「スニッファーSP」。 阿部寛と香川照之の刑事ドラマだが、スペシャル版では波瑠が新顔として登場。 かなりいい感じだった。 犯人役の松尾スズキがまたよかった。 もっとやってくれないかなぁ。 新シリーズ見たい。 阿部はこういう 「偉そうでとぼけた役」 がいちばん似合う。

 4月。

 NHK 「半分、青い。」。 録画機故障のためマンガ家編の途中までしか見ることが出来なかったが、結構挑戦的な内容だった気がする。 特に主人公が自己チューだと視聴者からコテンパンにされることが多いがこのドラマはそれを怖がっていなかった。

 テレ東 「孤独のグルメシーズン7」。 シーズン7最大のトピックと言えば、主人公の五郎さんが韓国に行ったことだろう。 このところ関係最悪の日韓であるが、庶民レベルではどうなのか。
 ここでの五郎さんは 「アンニョンハセヨ」 と 「カムサハムニダ」 しか発しなかった。 つまり韓国語が全く分からぬレベル。 国民感情が微妙ななか、よくまあ単独で見知らぬ店に入るよな。
 そんな五郎さんを見て韓国人が何やらしゃべっていたが、その様子は微笑ましく見守っているようでもあり、小馬鹿にしているようでもあった。 どちらにでもとれるこのドラマの作り方が却ってコワイ(笑)。
 いや、世の中、そんなもんなのだ。 同じ日本人だって、顔は笑っていて心では馬鹿にしているかもしれない。 どっちか分からんけど、いいほうに捉えなければ生きていけない。

 フジテレビ(東海テレビ)「いつまでも白い羽」。 新川優愛主演の看護師学校ものだったが、私が見てたのは、新川の友人役だった伊藤紗莉(いい役だった)の父親役が柳沢慎吾で、彼が中華料理屋の主人をやっていたことが大きかった気がする(笑)。 何しろこの中華料理屋、「ふぞろいの林檎たち」 で柳沢が結局あとを継いでたんだっけか、その中華料理屋(ラーメン屋だったかなぁ?)に雰囲気がそっくりだったのだ。 中島唱子がお母ちゃんだったわけではないが、お母ちゃんは死んだかした設定だった。

 フジテレビ 「コンフィデンスマンJP」。 のちに映画化まで発表されたが、公開は来年(2019年)とはいうものの、映画化までするほどのもんかなぁ、というのが正直な感想だ。 面白いことは面白かったけれど、なんかもうひとつ、見ていて驚いた、というのがなかった気がする。 こういうのは、驚かせてナンボのもんだから、ちょっとやそっとじゃ満足できないのだ。
 というより、主役級の3人(長澤まさみ、東出昌大、小日向文世)が、いくら詐欺師の設定とは言え見ていて信用なさ過ぎだったのが 「オドロキ展開に驚かなかった」 原因である気がする。

 関テレ 「シグナル 未解決事件捜査班」。 韓国ドラマのリメイクになるが、「時空を超えて繋がる無線機」 を通じて未解決事件に挑むという毛色の変わった内容だった。 ただし尾崎将也の脚本はとてもリアルを伴っていたため、その荒唐無稽な設定に最初すごく違和感を持った。
 過去に繋がっている先にいる刑事は北村一輝。 そのドラマの現在、という時間軸ではすでに死亡していたため、ドラマ最終盤、その北村の恋人役だった吉瀬美智子との会話が実現したときは、かなり切ない気持ちになった。 主人公の坂口健太郎がなかなか吉瀬に無線機を預けないのがもどかしくて(笑)。
 時間が行ったり来たりして分かりにくいのがこの手のドラマのウィークポイントではあるが、コツをつかむとなかなか面白いドラマだと分かる。 北村が若い役作りをしていたので、後半どこかでホントは生きていた、という設定なのかと思ったが結局出てこなかった(つまり予定通り死んでしまった)。 ということは続編を見据えての若作りだったのかもしれない。 なにしろ無線機でのコミュニケーション方法によって未来が大きく変わるのがこのドラマの最大の魅力なのだ。 面白いから続編作ってほしい。

 日テレ 「正義のセ」。 阿川佐和子の原作がそうだったのかは知らないが、結構内容に深みが伴わなかった印象がある。 もうちょっとひねりがほしかった。 吉高由里子にとっては専門用語が多くてセリフ覚えが大変だったわりにゴクローサマ、だったかもしれない。
 吉高の父親役には当初、大杉漣さんが予定されていた、と聞く。 ご承知の通り大杉さんが急逝したため、生瀬勝久が父親役を務めた。 スゲー個人的な話なのだが、人生で会ったサイコーにヤなヤツが生瀬に似ているため、生瀬が出てくるのを見ると最近気分が悪くなる(玉山鉄二も同様…本人たちはいい迷惑だ…)。

 日テレ 「崖っぷちホテル!」。 EXILEの岩田剛典がさすらいの、実は凄腕ホテルマン、経営が崖っぷちのホテル支配人に戸田恵梨香。 たしか舞台がほぼそのホテル内だった。 三谷幸喜が作りそうなドラマ。 ただしストーリーにあまり目新しいところはなかった気がする。 ストーリーにひねりがないわりに、人物設定、状況設定、歴史設定など設定がとても練られていたような印象がある。 日曜遅い時間帯のドラマだったから、そんなに深刻でややこしいドラマにあえてしなかったのかもしれない。

 NHK 「やけに弁の立つ弁護士が学校でほえる」。 NHKの土曜ドラマは現在30分枠になっているが、「ハゲタカ」「外事警察」 など傑作を見てきている私などにとっては、実に物足りない時間の短さだ。 神木隆之介主演のこのドラマも毎回 「えっもう終わりなの」 レベルの短さだった。 1時間は長いとしても、せめて45分枠にしなさい。
 このドラマは学校を取り巻く諸問題に弁護士を雇って対処する、という話だったが、結局どうなったのかよく覚えてなかったりする(笑)。 神木がその弁護士役だったが、こういう屈折したメンドクサイ人物を演じさせると、神木は実にうまい。

 TBS 「ブラックペアン」。 「半沢直樹」 からだったか、TBSの一連の 「顔芸ドラマ」「オーゲサドラマ」 が始まったのは。 とりあえず飽きられ始めているような気もする。 善と悪の構図が極端すぎてシラけてくるのだ。 日曜のこのような時間帯に、よくこういう 「見ていて疲れる」 ドラマをぶつけようと思うものだ。 まあその意外性が受けたのかもしれない。
 このドラマでは二宮和也と内野聖陽のふたりのスーパードクター以外はなにかっつーと手術を失敗する、ヘタレ揃いだった気がする(笑)。 最新式の機械も全く信用なさ過ぎ(笑)。 二宮のサイテーなヤツ演技が、見ていて意外と気持ちよかった。 まあ周りが魑魅魍魎過ぎでヘタレばかりだったからかもしれないが。

 そして7月-9月の夏ドラマは前述の通り全く視聴せず。

 10月。

 関テレ 「僕らは奇跡でできている」。 このドラマの高橋一生の役は、自分が見たなかではいちばん好き。 戸田恵子の家政婦(実は…)もいい味出してた。 ラストシーンで高橋が月に行って戸田らがそれを下界から見上げ談笑していたが、この現実味が乏しいラストも、ドラマの持つユートピア感覚の延長で、見る側を 「それが現実であってもなくても大して問題ではない」、という気分にさせたのではないか、と思う。

 日テレ 「獣になれない私たち」。 ドラマがどこへ向かっているのか、登場人物がどうしてそうしてしまうのかが分かりにくいドラマは、やはりライトな視聴者層に受け入れられないものだ、ということが分かったドラマだった。 これまでアイドル的な好感度に支えられてきた新垣だからこそ、こういう冒険的な作風が受け入れられなかった、とも言える。 綾瀬はるかがカズオ・イシグロの 「私を離さないで」 をやったのと同様だ(あれもカズオ・イシグロがノーベル賞を取ったあとだったらもっと注目されていただろうが、本放送時は視聴率が芳しくなかった)。
 綾瀬や新垣、先ほど出た石原さとみがほぼ同年代、つまりアラサーだという共通点には注目する。 彼女たちはこの先、どのような年齢の重ねかたをしていくのだろう。

 TBS 「大恋愛~僕を忘れる君と」。 戸田恵梨香もアラサーだったか。

 NHK 「フェイクニュース」。 「アンナチュラル」「獣なれ」 の野木亜紀子が前後編2回のドラマを担当。 系統的には 「アンナチュラル」 の社会的問題意識を推し進めた格好だったが、「アンナチュラル」 ほど整頓された印象がなく、後半は少しとっ散らかってリアルではない展開になってしまった気がする。 このドラマの副題 「あるいはどこか遠くの戦争の話」 というのも、たぶんそのあり得なさを作者が自虐して、後付けされたものなのではないだろうか。
 ただこの脚本家の社会派的な視点が優れていることは分かった。 野木はこの先、「外事警察」 クラスの傑作社会派ドラマを生み出しそうな予感がする。

 以上が今年私が見たドラマである。

 ベスト10をつけるには何かと不便がつきまくりなので、ベター5ということで勘弁してもらいたい。

 第5位 スニッファーSP
 第4位 やけに弁の立つ弁護士が学校でほえる
 第3位 僕らは奇跡でできている
 第2位 シグナル 未解決事件捜査班
 第1位 アンナチュラル

 あと、見たかったドラマベスト3(笑)。

 第3位 義母と娘のブルース(TBS)
 第2位 雲霧仁左衛門4(NHKBSプレミアム)
 第1位 昭和元禄落語心中(NHK)

 次点 アイアングランマ2(NHKBSプレミアム) これ、単なる見落とし。

 あーあ、録画機が壊れてなきゃなあ。 あと、PC買い換えたのも大きかったけど、ビートルズ関係で出費がかさみすぎだ!(爆)

追記および総括

 全体的に見たとき、特に日テレのドラマに質の低下が見られるような気がしている。 万人向けのドラマ(「正義のセ」「崖っぷちホテル!」)には話に今少しのひねりがなく、ドラマ愛好家向きのドラマ(「anone」「獣になれない私たち」)では、演出家の作品に対する理解力が不足してきているような。 私は未見だが、ことし日テレドラマで唯一評判だった 「今日から俺は!」 は、フリーの演出家である福田雄一氏の手腕によるところが大きいのではないか。
 逆に注目なのは、これまで凋落が著しかったフジテレビのドラマだ。 関テレ、東海テレビなど地方局の頑張りも目につくが、これまで何かと自縄自縛に陥っていたような月9で挑戦的な姿勢が目立つ。 視聴率になかなか結びつかないのは、フジテレビ離れの加速のせいであろうが、ドラマ好きとしては目が離せなくなってきた。
 TBSはこれまで支持を得てきた 「半沢直樹」 方式のドラマが、視聴者受け的にそろそろ曲がり角に来ている印象を受ける。 「下町ロケット」 の低迷がそれを物語っているのだろう。 だがこの局はこれまで幾度となくドラマ制作の危機的状況を乗り越えてきた歴史がある。 その柔軟な姿勢が変わらない限り、心配は無用というところだろうか。
 テレ朝はあんまり見ないんでどーでもいいとして(笑)。
 NHKはBSを含めてドラマを作りすぎてる感じがする。 それが粗製濫造、とも言えないのがもどかしいところだが、「そんなにドラマばっかり見てらんないでしょう」、と言いたいですね。 その能力を、もっと看板の朝ドラ、大河ドラマに集約してほしい。 何しろ今年の大河ドラマは、大河ドラマファンにとってはゴーモンクラスの酷さだった。 企画の段階から致命的な大失敗だったと断言したい。 西郷隆盛や幕末、明治の偉人たちに失礼でしょう、こんな端折りまくりのドラマ作ったら。

 それにしても、今年話題となった 「おっさんずラブ」 とか 「今日から俺は!」 とか、ことごとく外しまくってる自分は、ホントにドラマウォッチャーなのか? 最初からほとんどノーチェックつーか。 いや、男同士の恋愛なんて、ハナから見る気なかったし。
 いや、録画機が壊れてたから、そもそも物理的に視聴不可能だったけど。

2018年12月24日 (月)

「大恋愛~僕を忘れる君と」 記憶とは、いったい何なのか

 若年性アルツハイマーに罹った主人公・戸田恵梨香とムロツヨシのストレートな恋愛ドラマだった、「大恋愛」。 このドラマの冒頭に毎週登場するタイトルバックは、白い服を着たふたりが海辺で砂遊びをする光景だった。

 戸田が両手に救った砂がこぼれ落ちるのを、ムロが下で受け止める。
 戸田は無邪気に笑い、ムロはそれを優しい笑顔で見守る。 戸田はすでに病状がかなり進行している様子。
 こぼれる砂は戸田の記憶の象徴であり、白い服も同時に、無地に戻っていく幼年退行の象徴のように見えた。
 これほどこのドラマそのものを表現し尽くした見事なタイトルバックも、近年なかなかなかった気がする(「西郷どん」 の明治編でのタイトルバックは、その点では見事だった)。

 普通この手のドラマといえば、病状を克明に追っていって、その悲劇性を煽り視聴者を泣かせる、というパターンを踏むことが多い気がするのだが、このドラマは違った。
 最初の差別化は、ムロツヨシという役者の起用。 もともと実力がよく分からないコメディアンタイプのムロを主人公の相手に据えることで、このドラマに奇妙な含み笑いをもたらすことに、成功した。

 次に、同じ若年性アルツハイマーを患いながら、暗黒面に陥ってしまう青年・小池徹平の存在。 小池は戸田とムロの幸せぶりに横恋慕し、戸田を自分のものにしてしまおうと画策する。 その演技があまりにリアルだったために、このドラマでそこはかとない含み笑いに満ちた純愛を堪能しようとしていた向きには、かなり邪魔者扱いされた。
 最終回ではそんな憎々しげだった彼が、記憶をなくして無邪気な子供に戻ってしまった姿が映し出される。 もちろん戸田とムロに犯した罪も、忘れていた。 それが見る側に、特別な感慨をもたらすことになる。

 「そもそも記憶とは、いったい何なのか」、という感慨だ。

 忘れることは普通、悲しいことのように思われがちだ。
 それは、大事な人との思い出、大事な場所の思い出、生きてる間に起きた世の中の出来事の思い出、そして生きている間に得た知識の数々が、徐々に失われていくからだ。
 それはこの世と自分と他人を結びつける、かけがえのない糸のようなもの。 自分自身がこの世に存在している意味、とも考えられる。
 それが失われていくことは、自分がこの世に生きている意味さえも失われることと、同義に捉えられる。 そのことが、悲しいのだ。

 けれども同時に、忘れるということは、嫌な記憶も自分の犯した罪さえも忘れる、ということだ。
 小池が演じた青年は、みんな忘れてしまう、という絶望から、どうせ全部忘れてしまうなら、自分の思った通りに生きてやれ、欲望のままに生きてやれ、という方向に舵を切ってしまった。
 彼は戸田やムロを苦しませることで、自らの絶望を共有してもらいたかったのかもしれない。 それが彼にとってこの世と自分をつなげる悲しい糸になっていたのかもしれない。

 私は時々考えるのだが、もし生まれ変わりというものがほんとうにあるとすれば、私たちは前世の大事な人、場所、出来事というものをみんな忘れてしまっている(たまに忘れてない人もいるらしいが)。 それってもしかすると、記憶というものは実は、人にとってそんなに重要なものではない、ということを意味しているのかもしれない。

 しかし同時に考えるのは、もしその記憶がその人にとってとても重要なのであれば、おそらく人はその重要な人のもとに生まれたい、と願うし、その重要な場所に生まれたい、と願うし、それが叶わなければ、現世でその人や場所に出会ったときに、強烈な郷愁や、懐かしさを覚えるはずだ、ということである。

 話を戻そう。 このドラマがほかの難病ものと一線を画していたもうひとつは、戸田の主治医であった松岡昌宏が、戸田の母親であった草刈民代と結ばれてしまう、というトンデモ展開だった(笑)。
 この展開がこのドラマにとって必要だったのかどうかは分からない(笑)が、あえて挙げるとすれば、この展開は今年なにかと大変だったTOKIOの松岡に対する救済だったのではないか、と(ハハ)。
 何しろこのドラマの松岡は、当初結婚予定だった戸田にあっさりフラれ、それでも真摯に患者として戸田に向き合い、こうしたドラマにありがちなエキセントリックな方向に向かうことなく、その生真面目さを貫き通した。 男である。 それがなんとも、今年起きた不祥事に対する松岡の毅然とした態度と相通じるものがあった。

 まあこれはさして重要ではないことだったが、このドラマがほかの難病ものと違った最後の一点は、戸田の病状の進行を、特に終盤かなり駆け足で省略しまくった、という点だ。

 それは確かに、松岡と草刈の話とか小池の話に時間を割いたせい、ともいえるが、このドラマは従来の難病ものにありがちだったセオリーをあえて避けた、とも考えられる。
 それを象徴していたように思えるのは、小説家であるムロが書いた 「彼女はいつも生き急いでいた」、という一節だ。
 戸田の今回の役は、とても冷静で鉄面皮のように見えるのに、実は心を許してしまうととても無邪気でコロコロとよく笑う、という性格設定だった。
 そんな表情豊かな彼女が、終盤2回くらいで急激に表情を失い、ぼーっとしている場面が増える。
 それが逆に、記憶を失うことの切迫感を見る側に訴えかけていた。

 最終回、失踪した戸田は、ムロに残した4Kのビデオカメラに、消えかけているムロ(役名がシンジだった)の記憶にすがるように、大きく動揺しながら叫ぶ。

 「シンジ、好きだよ…!」

 私はここしばらく、ドラマを見て泣くなんてことはすっかりなくなっていたのだが、この場面には泣けた。 おそらく展開がもっとゆっくりしていたら、この切迫感にここまで心を動かされることは、なかったはずだ。

 戸田は、来年10月からのNHK朝ドラのヒロインに抜擢されたらしい。 この演技力をもってすれば、その内容には大いに期待できるところだ。

2018年12月23日 (日)

「獣になれない私たち」「僕らは奇跡でできている」 のふたつのドラマ、生き方に対する姿勢の比較で考える

 「逃げ恥」「アンナチュラル」 の脚本家である野木亜紀子氏。 僕シリーズ、「不毛地帯(唐沢寿明版)」 の橋部敦子氏。 野木氏は1974年生まれで橋部氏は1966年生まれ、ひと回りの年の差があるが、この秋クールに展開した実力脚本家のふたつのオリジナルドラマは、おふたりの 「生きかた」 に対する違いを垣間見ることができて、興味深かった。

 視聴率的にはふたつのドラマとも惨敗の域に入る。 しかしこの手のドラマが積極的に見られない、ということは、日本の国力の低下の表われのような気もする(オーゲサ)。 人々は自分の理解できない登場人物を無理して理解しようとしないし、見た目退屈そうなドラマをわざわざ自分のスマホにかける時間を削ってまで、見ようとしない。 簡単で分かりやすく感動でき泣けるものばかりにアクセスするという傾向は、精神の老化を意味するものなのではないか。

 いや、日本人の高齢化現象は、すでに 「好奇心」 という精神の部分においても、だいぶ進行している、と私には思えてならない。

 「獣(けも)なれ」 と 「ぼく奇跡(キセ)」 は、極端に言えば 「人生ってこんなもん」、という諦めみたいな態度と、「人生をもっと豊かに生きるにはどうすればいいのか」、という幸せ探しみたいな態度の、真逆のベクトルで構成されていた気がする。

 だが両者に共通するのは、「自分の人生にどうやって向き合ったらいいのか」、という目的地だ。

 「獣なれ」 の主人公、新垣結衣はパワハラ社長と無能な部下に恵まれた(笑)劣悪な環境下で働いていた。 恋人の田中圭は元カノの黒木華と別れられず自分のマンションを彼女にやってしまう究極の 「優しい男(アホ男とも言う)」。
 視聴者に受け入れられなかったのは、この登場人物たちが嫌悪されたためだ。 ある一面ではリアルを突き詰めすぎた結果ともいえるが、この極端な状況設定が見る側に鬱々とした自分の人生を投影させる悪循環をもたらした、ということだろう。
 さらにこのドラマでは欠くことのできなかった物語展開の劇場であった、クラフトビールバー 「5tap」 のいかにもセレブチックな設定が、給料も上がらずじわじわとした物価上昇に汲々としている庶民感覚には、そぐわなかった。 そんなところで毎日のように千円とか2千円、5タップまでいけばおそらく4千円くらいは取られるであろうビール代を平気で払う、金銭的余裕のある登場人物たちが何を悩んだってどうということがあるものか(なんか個人的な感想になってきた…笑)。

 だがそんなセレブなバーでなければ、新垣は自分の人生に当たり前の決断を促してくれる人物たちに出会わなかった。 それがドラマ、というものだ。 多くの人たちはおそらく今の時代、どこへも行かず誰とも会わず、ネットの世界をさまよいながら、自らの行く道を決めていく。 でもそれでは、ちっともドラマにはならないのだ。

 新垣にもたらされた当たり前の決断。 それは会社を辞め、恋人とも別れるというものだ。
 こんな当たり前の決断を彼女がするのに、彼女はバーで出会った松田龍平とキスはするわ寝るわしなきゃいけなかった。 そこまでする必要があったのか。

 いや、人が大事な決断をするときは、そこまで自分の生きかたを掻き回さなきゃリセットできないものなのだ。

 では、女優・新垣結衣にとってこういう掻き回し展開は必要だったのか。

 必要だった。 今年30を迎えた新垣にとってこのドラマはいかにも小さな一歩だったかもしれないが、みずからの演技に深みを加えるために必要なドラマだった。
 ドラマの序盤だったか、あまりに理不尽な状況が続きすぎたために、新垣の精神状態は危険ゾーンに突入する。 どんなつらい目に遭っても、「幸せなら手をたたこう」、と呆けたようにつぶやき歌い続けるのだ。 こういう凄みを感じることができるのは、やはりドラマの醍醐味だろうと思うし、おそらく脚本の野木氏も新垣も、こういう 「限界を超えたとき、人はどうなるのか」、という世界を表現したかったのではなかったか。

 ドラマではもうひとり、自らの限界と向き合っている女性が設定されていた。 田中圭の母親である田中美佐子だ。 彼女はほかの家族の無理解のもと、植物状態同然の自分の夫を介護し続けている。 新垣が彼女の味方をしたとき、それまで表面上朗らかだった田中美佐子は自分の感情を露わにする。
 さらにもうひとり、マンションをもらった黒木華も、実は自分の生きる道を見失った限界状態のなかにいた。 黒木はその悲しさ情けなさ、苛立ちを、他人を不快にすることで解決しようとしていたのかもしれない。 しかしそれは回り回って自分を傷つけるだけだった。

 このドラマは、そんな 「テンパっている人がどう行動してしまうのか」、というパターンを表現しようとしていたのではないだろうか。 そこから見える脚本の野木氏の考えには、あまり 「人生に対する処方箋をドラマを通じて表現しよう」、という気概は感じられない。

 あくまで、あるがままに。

 どう生きていこうと、人生は人生。 そこから見える風景が、自分の人生の風景なのだ。
 ラストシーン。
 松田と新垣は定時に鐘の鳴る、という教会にやってくる。 松田も新垣も、自分のなかにいた小さな獣を発動させて、新しい局面に立ったばかりだ。
 ふたりで見守る教会の鐘。 鳴るのか鳴らないのかは、実はドラマにとって、そしてドラマを見ている観客にとって、さほど重要ではないのだ。
 その教会は、ただあるがままに、そこに存在し、それを見守るふたりの人生の、風景の1シーンとして、刻まれていく。

 それに対して、「僕キセ」 は、「人生、こう生きたらもっと楽しめるのではないか」、という提示にあふれていた。
 まず主役の高橋一生が発達障害気味の人物を演じたところから、このドラマは 「普通の人が陥りやすい常識」 に一石を投じようとしていることが分かる。
 ここでの高橋は自分の夢中になることにしか神経がいかないタイプの人間だ。 そして彼の周りの環境は、彼に対して常に優しい。 彼が受ける外的ショックに対して、常にアブソーバー的な役割をしてくれる点においてだ。 それはドラマを見る側にとっては、とても羨ましい、オアシスのような場所だった。 まずこの環境が、脚本の橋部氏の理想を物語っているように思えた。

 彼が通うことになった歯医者の榮倉奈々は見た目完璧な完全主義的なところがあり、それゆえに自己嫌悪に悩まされていたが、高橋の 「あなたのいいところを100個、僕は言うことができる」 という言葉でその苦しみから解放される。
 高橋が挙げていった榮倉のいいところは、実は普通の人からすればなんてことはない、できて当たり前だと思えるようなことばかりだった。
 しかし、それをできることがそもそもすごいのだ、という考えまでに、人はなかなか至らない。
 無感動で冷静な生きかたをしていると、当たり前のことを当たり前だと考えて何が悪いのだ、という、身も蓋もない考えに陥ってしまうことが少なくない。
 けれど、できて当たり前のことができることはすごい、と考える癖というのは、別に身につけといても損はないんじゃないか。

 なぜなら、できて当たり前のことは、年を重ねることにできなくなってしまうものだからだ。

 年々減っていく 「できて当たり前のこと」。 それでも、いくつかはまだできることは残っている。
 そのときに威力を発揮するのが、できて当たり前のことをすごい、「と思う癖」、なのだと思う。

 このドラマの主眼は、「もっと自分のことを好きになろう」、という啓発であったような気もする。 そこには楽観主義が介在することになるが、別にそういう考えができなくとも自分を責める必要もないし、そうしなくてはいけない、という無理強いもドラマは否定していた。 コンニャク農家のあとを継ぐかどうかで悩んでいた高橋の教え子も、彼がどうすべきかをドラマは根本的問題としていない。

 このドラマは、あくまで 「こう生きることができたらもっと幸せなのではないか」、というひとつの提案でしかないのだ。
 そこには、脚本の橋部氏自身の、生きかたに対する模索の姿勢が見て取れる。

 そういう点で、「獣なれ」 と 「僕キセ」 は、全く違うベクトルでできているドラマだった、といえるのだ。

 普通の人が陥りやすいドラマの見方として、「この人とこの人はくっつくのか」、という素朴な興味がある。
 「僕キセ」 では高橋と榮倉の恋の行方、といったところだったが、このドラマはそうした俗物的な興味にも、さらりとした答えを用意していた。

 いわく、「僕はあなたを、面白い、と思う」。

 なんと素敵なセリフか。 好きだの嫌いだの惚れただの腫れただの、そんなドロドロとは全く無縁の世界。
 実は高橋の精神的範疇においては、そこから先のドロドロとした領域に踏み込むことに対する恐怖が存在しているのかもしれない。
 それでも、そんなドロドロとは無縁の部分で、存在できる恋愛があってもいい。
 いや、それは、人生のパートナー、という考え方なのかもしれない。

 今回私は、初めてTVerによる視聴を敢行したのだが、セリフの聞き取りにくさにおいてかなり不便を感じた。
 だが、聞き取れないけどそれはそれでいいか、と考えてみることにした。 セリフが字幕で読める、というのはそれで100パーセントそのドラマを理解できることにつながるが、それが本当に重要なことなのか、と自分に問えば、そうでもない気がしてきたからだ。

 考えが柔軟になったのか面倒くさがりになったのか、それは自分でも分からない。

2018年11月12日 (月)

「西郷どん」 11月11日放送分まで見て

 明治編になってからいくぶん出来がよくなったと感じていた 「西郷どん」。 しかし11日放送の42回 「両雄激突」 ではまた元の木阿弥だ。

 そもそも 「いくぶん出来がよくなった」 とは言うものの、大河ドラマとしてはおよそ及第点にはほど遠い。 明治新政府はたった数人で動いていく 「スーパー小さな政府」。 相変わらずナレーションでみんな説明させる作り。 それでも西郷の心の動き、その長子である菊次郎の描写など、ドラマとしてはきちんとしてきたように感じていた。

 枚挙にいとまがない今年の大河もどきの欠点として今回指摘したいのは、登場人物たちの 「視野の狭さ」 だ。 歴史的出来事を極限まで単純化した結果、人物たちの思惑も単純化せざるを得なくなる。 そこにどうしても割愛できない重要な出来事をポツリポツリと採り上げると、まあ当然だが人物たちの行動の一貫性のなさが浮き彫りにされていく。 前はこう考えていたはずだけど?というパターンが次々と出てくるわけだ。 その登場人物たちの変節を、単純化された構造の中で説明しようとするから、まるでちっぽけな個人的感情で登場人物たちが動いているように見えて仕方なくなる。

 幕末編でその傾向が最も出たのが主人公である西郷だった。 それまで平和主義だった男がいきなりの過激因子に。 あれほど心酔した斉彬が肩入れしていた慶喜をどうしても殺さねばならないと思い込み。
 この変節の理由がドラマの中でじゅうぶん説明された、とは考えにくい。 脚本家の思惑としては、そんな理由より、その過激化によって多大な犠牲者を出したことに心を痛める西郷を、描きたかったようだ。

 42回 「両雄激突」 でその欠点をもろにかぶったのは大久保だ。 彼は使節団として当初1年の予定で外国を回っていた。 その目的は不平等条約の解消交渉が大きなところであろう。 例によって不平等条約がどのようなものなのかの説明はほぼなし。 脚本家としては、そりゃ学校で勉強したから分かるでしょ、くらいの意識でしかない。 だいたいそんなことをやってるヒマなんかないのだ。

 そしてその交渉はことごとく不調に終わり、却って諸外国の発展を目の当たりにして、日本もどうにかせにゃいかんという意識革命の末に帰ってきた大久保。 しかし1年のうちは何もするなという約束が破られて、土佐や肥後の連中にあからさまに仲間はずれにされる。

 大久保の変節が、ここを契機に始まっている。

 だがその変節の仕方には幕末編の西郷のようにじゅうぶんな理由付けが果たされていない。
 だいたい1年のあいだ政府は何もするな、という話にしても、何もしないわけにもいかんでしょう。 そこにまず話としての無理がある。 しかも1年どころか大幅に遅れての帰国でしょ。
 それに排除された山県や井上は、排除されるだけの理由がちゃんとある。 さらにドラマの中でも西郷が話していたが、政府でやったことについては大久保たちに逐一報告させている、ということだった。 大久保が 「聞いてないよ!」 と拗ねる理由なんかない。

 となると、大久保がいきなり変節したのは、「みんなからあからさまに仲間はずれにされたから」、ということになる。 日本を外国並みにしようという意気込みがあるならば、まず仲間に入らねばならない。 話はそこからでしょう。
 それをしようとしないから、すこぶる個人的な感情で恨みを募らせている、としか見えてこないのだ。

 42回の終わりでみんなの前に出てきた大久保の目は、もう完全にイっちゃってる。 イっちゃってるのって、おかしいでしょ。

 さらに問題が発生。 降ってわいたような朝鮮問題だ。 これについては指摘する気力もないくらいのおざなりな説明で、こちらに伝わってくるのは 「西郷さんは朝鮮問題でも悪くない」、という脚本家のつまんない意図のみ。 征韓論なんか、今年の大河もどきには無理なんだから最初からやらなきゃいいのに。

 まあ、やりたきゃやれば(当ブログ始まって以来の暴言、まことに失礼いたします)。

2018年11月 4日 (日)

秋ドラマ感想③「大恋愛~僕を忘れる君と」

 TBS金曜22時。 若年性アルツハイマーに罹った女医の戸田恵梨香と、元小説家のアート引越センター従業員ムロツヨシとの恋愛ドラマ。

 この恋愛ドラマのキモは、これまでふざけたような役ばかりだったムロが、恋愛の真面目な当事者になったことだろう。
 恋愛ドラマではたまに、こうした 「ちょっと外した」 キャスティングで視聴者の興味を惹かせるパターン、というものがあるように思う。 古くは 「おくさまは18才」 での石立鉄男とか、「101回目のプロポーズ」 での武田鉄矢、というケースだ。 彼らは一様にイケメンではない男の哀愁を背負っており、どこか滑稽にならざるを得ない悲劇を纏っている。

 ムロはこのドラマで元小説家、というだけあって、少々ニヒルでナイーヴな陰のある男を演じている。 けれどもこれはおそらく脚本家の大石静氏のアテ書きによるせいだと思うのだが、相手のリアクションに軽いボケとかツッコミが思わず出てしまうところが、いかにも、という感じだ。
 それはことのほか、この深刻なドラマにおける一種のガス抜きになっている。 そしてそこに、そこはかとないリアルが生じている。 その匙加減がいい。

 この恋愛ドラマを深刻にしているのは、先に書いたように主役の戸田恵梨香が罹った若年性アルツハイマーのせいだが、ここで大石静氏は視聴者の共感度を極限まで上げる、ある方法をとっている。

 それはこの進行性の病気の悲劇度を高めることではない。
 ムロと向き合っているときの戸田を、無邪気な子供のように描く、という方法によってだ。

 彼女は母親の草刈民代と一緒の女医になり、同じレディスクリニックで働いている。
 そのせいか普段はかなり冷静な判断能力の持ち主で、草刈がドラマ第1回目で持ちこんだ、精神科医の松岡昌宏との縁談に際しても、お互いに過干渉なく事務的役割分担的な、無味乾燥とした結婚生活を望んでいた。 戸田は、人生に対してとても醒めたような性格設定のように思えた。

 それが、である。

 自分がかつて夢中になって読んでいた小説、「砂にまみれたアンジェリカ」 の作者が引っ越し業者のムロだったことが分かると、戸田は途端にそれまで全開にしていたATフィールド(まあ自分と他人との壁みたいなもんか)を解除するのだ。

 このドラマのもっとも魅力的なところは、その完全武装解除した戸田恵梨香の、無邪気さ、かわいさにあると言っていい。
 戸田はもともとクールな役が多い気がする。 そんな戸田が、デレデレになるんですよ、そんなにイケメンとは思えない、頭モジャモジャのちょっと小太りの男に。 鳥みたいなキスをするんですよ、なんだこの明るいかわいさは!
 この現実離れ感というか浮遊感。 自分だけに見せる別の顔、とかいうのに、弱いんですよ世の男は。

 女性の視聴者側からしても、ムロの持つフツーさというのには安心感が生じるだろうし、リアクションの楽しさにも好感を持つだろう。
 つまり、現実にはなかなかあり得ないだろうけれど、そんななかにちょっとだけあるリアルに、視聴者が惹かれる要素が詰まっている。
 そこに、毎回タイトルバックにあるように、記憶の象徴である砂がこぼれていく悲劇が潜んでいる。 その切なさに、見る側は胸を痛めるのだ。

 「好きになったらしょーがない」。 戸田は確かこんな風なセリフを言っていたと思うが、いや、このセリフには共感する。 好きになるのに、美男美女であるとかカンケーないですから。

 物語は、戸田が恋に落ちたのとアルツハイマーを発症したのがほぼ同時だったため、かねてからの松岡昌宏との縁談がなんの後腐れもなく解消した。 そこで大きな問題とならなかったのはドラマ的には面白くなかったがまあめでたしめでたし、しかも松岡は若年性アルツハイマーの権威だし、渡りに船だ、言うことないじゃん彼に治療してもらえば、

 …となるはずだった。 が、ドラマはそう単純に物事を運ばせない。

 お互いに事務的な結婚関係なんて醒めたことを考えていた松岡だったのだが、その後に親が用意した縁談とか戸田の検査だケアだのをやってるうちに、なんか戸田のことが本格的に好きになっちゃったみたいなのだ。

 しかしここで、大石静氏は松岡をあまり得体の知れないパラノイア的人物に描こうとしない。 松岡は普通に悩み、普通に自分の恋を戸田に打ち明ける。 ここにも好感が持てる。 ここで松岡が冬彦さんみたいになってしまっては、ドラマのリアルが吹き飛ぶからだ。 もちろん吹き飛ばさせる、という方法もあるが、このドラマはあくまで常識的に進行していくのだ。

 ところが第4回の終わり際、ムロは突然戸田に別れを切り出す。 たぶんムロは、戸田が松岡と付き合ったほうが治療のためにはいい、と思ったのだろう。 そこらへんのムロの心の動きが少し雑に描かれていたのは残念だが(つまりトートツに見えた)、来週以降どう回収されるのかが逆に気になってきた。 前回もそうだったが、終了間際にガツンとショックを与えさせて視聴者の興味をつなぐ、というのはうまいもんだ、と思う。

 大石氏の 「受けるドラマはこうやって作るのよ」 という方法論が分かって、脚本家を目指す人には大いに参考になるドラマなのであろう(笑)。

2018年11月 2日 (金)

秋ドラマ感想②「獣になれない私たち」

 夏ドラマ見てないけど、私が今のところ今年(2018年)いちばんのドラマだと思っている、「アンナチュラル」 の脚本家である野木亜紀子氏のオリジナル新作。 さらに 「逃げ恥」 でのコンビだった新垣結衣と再タッグ、ということもあって期待度は大きかった。
 だが 「アンナチュラル」 で見られたスピード感は一切なく、「逃げ恥」 で見られたガッキーの可愛らしさも一切見られず、その点では見る側の期待を完全にはぐらかされたドラマ構造になっている。

 まず登場人物、状況設定。 かなり極端なケースだろコレ、と思わざるを得ない。
 確かにリアルではあるのだが、リアルを突き詰めすぎて、シュールになってしまっている、そう感じる。

 このドラマの理論でいけば、「獣になれない」 筆頭というのはガッキーだ。
 彼女は職場ではスーパーパワハラの上司にいいようにこき使われ、部下たちは揃いも揃ってスーパークズばかり(「ひよっこ」「いつまでも白い羽根」 でいい役をしていた伊藤沙莉になんつー役をやらせるのだ)。
 特に上野とかいう若手男子社員はおよそ形容しがたいくらいのクズで、まず仕事自体にやる気がなく、かなり低いハードルでもそれから逃げまくり、果ては新垣を好きになればやる気のきっかけができるだろうと勝手に思い込んで彼女に頼り切る。 出てくるだけで虫唾が走るキモ系の無駄なイケメンだ。 よくクビにならないものだ。 いや、こんな人間はそもそもどこの会社でもまず採用しないであろう。

 そんな状況下で、「獣になれない」、つまり逆ギレできないガッキーは、その驚異的すぎるほどの外ヅラの良さを無理矢理保とうと孤軍奮闘するのだが、徐々に精神は疲弊していく。 疲弊しすぎて、ふらふらっと電車に飛び込んでしまいそうにまでなる。 まあ状況が極端だから、疲れ果てるのは当たり前だろう。

 かように彼女が通う会社における周囲の状況が最悪であることが、まず見る側に大きなストレスとなるのだが、会社以外の周囲の状況も彼女にとって最悪だ。

 彼女の彼氏は田中圭で、この彼氏が自分のマンションに元カノの黒木華を4年も住まわせている。 だからガッキーは田中圭と同棲できない。
 その黒木華はアバンギャルドなほどのスーパー引きこもりと化している。 何しろネトゲに夢中なのは序の口として、マンションに届いた田中の(そして新垣宛ての)荷物をネットオークションに勝手に出品し、それで得た利益で大安売りしていたウサギを買ってしまう、という…。
 常人には理解不能レベルのクソぶり、パラサイトぶりだ。

 黒木華はここでもその卓越した演技力を見せつけてダメ女ぶりを発散させているが、あまりにクソ過ぎて見る側はまたもやかなりのストレスを感じることになる。 演技力があり過ぎるのも善し悪しだ。
 田中圭はもちろん黒木華をマンションから出したいのだが、黒木華は駄々をこねてこれに応じない。 「出てけバカヤロー」、と言えない時点で田中圭も 「獣になれない」 一員であるように思うのだが、その前にクズだろこの男。 クズはクズなりに悩んでるからまあ許すけど(オマエに許してもらってなんになる)。

 で、そのクズは行きつけのクラフトビールバーで知り合った菊地凛子と寝てしまうんだなこれが。 まあ状況が状況だから…って、見る側が許せればいいんだけど。

 その菊地凛子、アパレルメーカーのデザイナーで、彼女がこのドラマにおける 「獣」 の象徴だろう。 私は最初、この人ってガッキーが二役で演じているのかと思った。 ウイッグつけて思いっきりメイクを派手にしたガッキーかと思ったのだ。
 おそらくそれは作り手の意図であると思われる。 おそらく菊地凛子は、ガッキーがそうなりたいと望んでいる、もうひとりの自分なのだ。 ガッキーは彼女のデザインした派手な靴や服を購入し、外見だけでも戦闘的であろうとする。 獣になろうとするのだ。

 しかしそれはほぼ無駄な努力であり。

 さらにこのドラマを見る側をイライラさせるのは(まだあんのかよ)ビールバーの常連で菊地凛子とかつて付き合っていた松田龍平。 公認会計士でどうもいろいろと問題があるらしいが、少なくとも私には興味がない。
 そいつがガッキーたちと絡んでくるドラマ展開なのだが、こいつのしゃべってることがどうにも回りくどくて要領を得なくてイライラする。 松田はこのつかみどころのない、いや脚本がわざとそうさせている難しい役をその演技力で表現しようとしている。 果たしてそれは成功している。 だが個人的に言わせてもらえば、こういうヤツとは別に知り合いたくもない。

 そのつかみどころのないヤツと、ガッキーは寝ちゃうんだな。 寝ただけだけど。 田中が菊池と寝たのを知ってその腹いせだったわけだが。

 そのほかにも、松田の近所のラーメン屋のあんちゃんとか、田中のマイナスポイントを常に指摘してくる会社の同僚とか、まあとにかく出てくるだけで嫌悪感を催す人物ばかりのドラマだ。 主要人物たちも共感しにくい行動ばかりとるし。 視聴率が毎回下がってくるのもとても納得できる(笑)。

 こんな 「見てて不快」 ドラマを、なぜ見ちゃうのか。

 端的に言えば、この先ドラマがどういうカタルシスを伴ってくるのかにあまり興味がない。
 すなわち、新垣の勤め先のパワハラ社長が改心しようとも、スーパークズな伊藤と上野がいつの間にか頼もしい戦力に成長しようと、黒木華がやる気を出して田中のマンションから出て行こうと、松田が粉飾決算で逮捕されようと、別に興味がない。
 さらに言えば田中の家族が介護問題で揺れようと、どうでもいい。

 すごくキモいことを言えば、こういう最悪の状況のつるべ打ちのなかで、困った顔をしているガッキーを見るのがなんとなくアレなのだ(アレって?…笑)。

 変な例えかもしれないが、このドラマって、なんとなく 「ドリフ大爆笑」 の 「もしも」 コーナーに似ている気がする。

 「もしもこんなサイテーの職場があったら」「もしもこんなサイテーの彼氏がいたら」。

 コーナーの最中散々な目に遭うドリフのリーダー、いかりや長介はコーナーの最後に決まってこうつぶやいた。
 「ダメだコリャ」。
 そのときいかりやは、別にこのサイテーな状況を改善しようとも復讐しようとも説教しようともしない。 ただつぶやくだけだ。 つぶやくことで、ただこの狂った状況に呆れ、自らの普通さを優位に感じる。 ただそれだけだ。 そうすることで、自分を納得させたいのだ。

 私はこのドラマでガッキーに、この先どんな展開が待ち受けていようとも、最後には自分を納得させてもらいたい、と願っている。
 彼女は今、ドラマの中で、怒りを静かに潜行させ、風船爆弾を膨らませてる状態だ。
 でも、彼女を取り巻くストレッサーを、「それがなんだというのだ」「かわいそうな人たちだ」、という目で達観し、乗り越え、自分を納得させてもらいたいのだ。
 だって人生って、ドラマみたいに劇的に改善しないものだから。 自分で納得するしか道はないのだ。 そのためには 「ダメだコリャ」 と、面と向かって言う 「小さな獣」 も必要だ。

 新垣結衣がそのような境地まで達する演技を見せてくれることを、私は密かに願っている。

2018年10月28日 (日)

秋ドラマ感想①「僕らは奇跡でできている」

 デジタルの音痴で旧世代の私が、新しいPCを買ったことが契機となりTVer、という民放テレビ番組見逃し配信サービスをようやく使えるようになったので、録画機が壊れてこのところ止めていたテレビドラマの感想を書くことができる。 録画機が壊れたのなら直すか新しいのを買えばいい話じゃないか、ということなのだがまあ経済的な事情で優先順位がありましてですね。

 TVerを使い始めて気付いたのは、このサービスには字幕がなく高速見というのもできないこと。 録画機ではいつもこれをしていたのだが、いざ始めてみると役者たちのセリフがかなり聞き取りにくいことが分かって。 でPCの音質操作をしなければならない羽目になった。 それでも1割程度は聞き取れない。
 もともと耳の聞こえが極端に悪い私であるが、これってどうなのだろう。 どうにも損した気分になる。

 「僕らは奇跡でできている」、フジテレビ(関西テレビ)火曜21時。 高橋一生がちょっと個性的すぎる大学講師を演じる。
 個性的すぎる、とは書いたが精神の発達障害が少し入っている感覚だ。
 つまりひとつのものに夢中になりすぎるとほかのものが目に入らなくなる。 その彼が虫歯で通うことになった歯科の先生が榮倉奈々。 榮倉はふたつの歯科医院を掛け持ちしているせいか、羽振りはいいみたいだ。

 このふたりのキャスティングは実にハマっている気がする。 高橋は知的なイメージがあるが、それをレインマン的な役に振り分けることで、この主人公の語る知識に大きな説得力を与えることとなった。 いっぽう榮倉はクールなイメージだが、自分は常識人で自分の考えていることは正しい、と信じて疑わないようなこの女性歯科医に、よく当てはまっている気がする。

 高橋の両親は亡くなっていて、おじいちゃんの田中泯に幼い頃は育てられていたが、今は独立して家政婦の戸田恵子と暮らしている、という設定。
 この田中と戸田の存在が、高橋の演じる主人公にとってはゆりかごのような安心感に通じている。 田中は陶芸家であるせいか、人にとって大切なものはなにかをわきまえているようで、発達障害でみんなに合わせることができない主人公の大きな味方となってきたし、お節介焼きの戸田は主人公の意に沿わないことを時々やらかしたりするが、それでも最終的には主人公のことを認めている、主人公にとってはスパイスのような役割を担ってきた。 このふたりがいることで、ドラマは見る側にとってとても癒やされる空間として受け入れられる。 人とは少々違っててもいいんだよ、まあ世間のみんなは普通こう考えるんだけど、というふた通りの許し、自己肯定の道を与えてくれるからだ。

 その、主人公を取り巻く 「家族」 とは違う価値観で動いていくのが、私たちの住んでいるこの世界だ。 つまり、「こうでなければならない」、という常識に縛られてしまう世界だ。
 それを体現しているのが榮倉が演じる歯科医、ということになる。
 歯科医はかなり細かい予約時間によって仕事をしている、と同時に、急な患者にも対応しなければならない。 そこでは主人公のような、時間に対してとてもルーズになるしかない障害のある患者というのはとてもやりにくいところがある。 榮倉は高橋のそういう特殊な性格をたぶん把握しているはずだが、それでもその自由奔放さに苛立ちを隠すことができない。

 その榮倉は、高橋の行動に苛つきながらもその生き方に触れていくことで、自分を取り巻いている常識もしくは自分を縛っている思い込みに対して、徐々に疑問を抱いていく。 これがこのドラマの興味深い部分だ。
 榮倉は恋人と高橋のふたりから、自分の優位を見せつけている、と指摘され悩む。 まあ高橋の場合榮倉のことではなく 「ウサギとカメ」 のウサギについてしゃべってただけなのだが。
 確かに榮倉は自分のおごりでいつも恋人に連れて行ってもらっている居酒屋ではなく高級な店で5万とか6万とか(値段忘れた)のメニューを注文し、「久々においしいものを食べた」「自分へのご褒美」 とかナニゲにしゃべってた。 それってまあ当てつけだと思われても仕方ないが、羽振りはいいけどそれなりに頑張ってるわけだし。
 ということは、榮倉が付き合ってる男が榮倉と不釣り合いだ、ということになる。 けれども榮倉は 「自分はどこかで間違えてしまっている」、という方向に考えてしまう。 ここがいいのだ。

 そう榮倉に考えさせるのは、たぶん高橋の、物事にとらわれない考え方に影響されている。 このドラマで最も面白いのは、動物行動学を教えている高橋の、いろんな動物に関するさまざまな知識だ。 高橋のいる大学には同じような変わり者がドラマのなかでは約2名いるが、研究者のオタク的な傾向と高橋のこだわってしまう性格というのはどこかで共通しているのだろう。 ここで発達障害の線引きが曖昧になってしまう、という面白さが醸し出されている。

 ドラマは高橋の特殊な性格から見える世界から、私たちが普通だと考えている世界の常識のおかしさをあぶり出している。 動物行動学から言えば、実はヒトの行動こそがいちばん不自然で興味深いのかもしれない。 だが高橋にとっては、ヒトの社会こそが自分と相容れない世界なのだ。

 このドラマは、「世間の常識とか普通の考え方から一度脱却してみよう」、という機運にあふれている。 ドラマチックな出来事は起こらないが、それでもじゅうぶんドラマは成立する。 そんなことを教えてくれる。

2018年10月 7日 (日)

「西郷どん」 10月7日放送は、BS地上波ともに 「無血開城」…見たよ!感想だよ!

 台風24号の猛威によって吹き飛ばされた、先週のNHK地上波 「西郷どん」 無血開城。
 今週は先週分と合わせて2回やるのかな、とげんなり思っていたが、どうも本日10月7日放送のうちBSも地上波も 「無血開城」 を放送することになったらしい。 要するにBSのほうは先週の再放送、ということになる。

 こんなことはどーでもいいのだが(笑)、この記事を書いたのは、先月に書いた前の記事から1ヶ月が過ぎて、コメントにパスワード認証が必要となったからだけの話で(笑)。 あのパスワード、ホントに面倒ですからね。

 と、いうわけで。

 と書いたはいいもののコメントが来なくてマヌケなので(笑)、とりあえず書きましょうか、「無血開城」 の感想を。

 「民のため」 だとか事あるごとに口にし、人ひとり殺してガクガクブルブルだった男が、突然の豹変。 誰の言うことも聞かず、「自分は薩摩の殿様や国父さんよりエライ」 と全権を任されたかのごとく無茶な 「突撃ー!」 を繰り返し兵をバタバタ死なせ、あげくに江戸城を総攻撃、そして江戸を火の海にしようとする。
 その大目的と言えば、「徳川慶喜の首を取る、だけじゃ徳川は息を吹き返すから徳川そのものを完膚なきまでに消滅させる」。

 元はといえばこの西郷の豹変は、どっかからの 「慶喜が日本を外国に割譲しようとしている」 という信憑性が確定せぬ情報に、慶喜の側室だか情婦だかその身分が見ててもよく分かんないふき、という元キャバクラ嬢から仕入れた、「慶喜様が外国のかたとサツマサツマとしゃべっている」、というこれまた事実がはっきりしない情報とを付き合わせて、「慶喜は薩摩を売る気だ」、と大いなる確信をしたことが発端になっている。
 このドラマでは。

 ドラマとしての流れを俯瞰すると、その 「大いなる確信」 というのは 「大いなる思い違い」 にしか見えない。
 「どうしてその程度の情報で徳川壊滅にまで西郷の思考が発展してしまうのか」 ということに、ほとんど説得力が伴っていないことに気付くだろう。
 この、中盤から終盤にかけたドラマの展開は、「なぜそこまでする」、という西郷の動機を見る側が考えあぐねながらの視聴になっている。 作る側はそれに対して、きちんとした 「西郷の本心」 を用意しておかねばならない、と思うのだ。

 しかし、それは無駄な期待だったことが 「無血開城」 の回で明らかになった。
 西郷は勝との会談で、自分がこれまで事あるごとに 「民のため」 と主張してきたことを勝との会話の中から思い出し、それまで見ている側が理解不能だった豹変ぶりをあっさり撤回してしまうのだ。 見ている側からすれば、「西郷はいつも民のためとぬかしておったろう、今更そんな当たり前すぎることを思い出すのか?」、ということになる。
 つまり、「ハシゴを外された気分になる展開」、ということだ。

 西郷が自らの言動を回想するこの下りはさすがに、…

 …。

 こんな薄っぺらーい話でよければいくらでもこのドシロートが創作してNHKにくれてやるぞ、というか。

 はぁ~。 ヘソが笑うのもためらってしまう。 すげーな。 逆に。

 西郷の翻意を得て泣き出しちゃうしな、勝も。 泣くな男だろ(はぁ~…)。 ラヴイズオーヴァー。

 慶喜と西郷の会談では、慶喜が逃げたのはフランスが助太刀してやる、その代わり薩摩をよこせ、と言われたからだった、ということが判明。
 なるほどそうか!
 って、見る側としてはここで納得しなきゃいけないのだろうけれど。
 それってちょっと。
 子供だましなような気が。
 そしてその、私に言わせれば 「下手な言い訳」 がまかり通ってしまう不自然。
 西郷は感激して、「日本を守ってくれたんですね」 と。
 うーん、こんなおバカでいいのかな。 史実もおバカなのかな。 だいたい西郷と慶喜って無血開城のとき話ができたのかな。 こちらも頭がバカになっていく感覚が…。

 トートツ、と言えば江戸城のアーカイヴに二宮尊徳の著書が出てくるという点でもそう。 「これで農民が喜ぶ」 だとかなんとか。 どうしてこう、いつも 「取って付けたみたい」 なのか。 ヘソが笑うぞ。 毎度だが。 そのあと尊徳の本を顔にかぶせて寝てるし。 それを見て取り巻きが 「兄さあが死んどる」「兄さあはいちばん働いたんだから寝かしておけ」 だって。 笑えるなー(棒読み)。

 あと、「花神」 の主人公、大村彦次郎(違ったっけな)が林家正蔵というのにもヘソが笑った。 ここまでくると冒涜でしょ。 いきなり現れた大村を見て(まぁ~脈絡もなくいきなりなんだわこれが)、西郷が放った一言にも笑った。 「あなたが『あの』大村さんですか」(ハハ…ハハ…)。 いつから知ってたの西郷(ハハ…ハハ…)。 その正蔵、「あんたたちは戦い方を知らん」 だって。 エラソーなのにすごく頼りない(爆)。

 スゲーなホント。

 挙げ句の果てに、「新しい国を龍馬も喜ぶでしょう」 チャンチャン。 なんだこの、「取って付けた」 権化のよーなオチ。

 ホントにスゴイ。 凄すぎるぞこのドラマ(ヤケ)。 真面目に感想を書くのが馬鹿らしくなってくる。

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BOOKS

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ記事より抜粋)。 この上巻ではビートルズの祖先から遡ってリバプールで人気に火が付き始めたところまでが書いてあります。

  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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