テレビ

2018年5月 5日 (土)

「ブラックペアン」 身長の低い二宮が今回目指したもの

 TBS日曜劇場枠の医療ドラマ。 主演に嵐の二宮和也、そこに竹内涼真や葵わかながついて、後方には内野聖陽・市川猿之助という 「風林火山」 のコンビがまします。

 第2回まで見る限り、演出が極端すぎる気がしている。 これは 「半沢直樹」 や 「陸王」 など、「いつもの日曜劇場クオリティ」 のオーゲサさなのだが、こと医療の場合にはそぐわない。 医者どうしの醜い見栄やらプライドやらを極端に表現し始めたら、まず置いていかれるのは患者の命、ということになるからだ。 このドラマを見ていて不快になる、まず最大の要因はそこにある。

 その胸糞の悪さをもっとも背負っているのは、主役の二宮和也であろう。 彼はその最悪のキャラ設定もさることながら、ジャニーズ事務所のタレント、として世間に認知されている、というマイナス要因も背負わされている。 この役は彼にとって、リスクだらけなのだ。

 二宮はその大学病院内で最高の技術を有している内野聖陽をしのぐ腕を持っている天才外科医でありながら、そのことをハナにかけ、まわりじゅうを馬鹿にし、金で患者の命を救うことを請け負う。 しかし出世欲はまったくない。
 まるで 「根性の悪いブラックジャック」、といった風情だが、第2回までを見る限り彼は患者には金を請求していないようだ(分かんないけど)。 1000万とか1億とか、彼が金をせびるのは医者とか研修医とかだけのような気がする(確信は持てない)。

 金と同時に彼が欲しがるのは、自分が助けようとする医者の辞表であるようだ。 つまりまあ、退職金目当て、ということになるのかもしれないが、このことから推察するに、彼が欲しがっている(いや、剥ぎ取り踏みつけようとしている)のは、その医者が持っている 「下らないプライド」 なのであろう。
 それゆえに、彼は手術における最悪の局面のときを狡猾に待ち伏せしているようなところがある。 彼には、「スキルのない医者」 を駆逐しようという明確な意思があるようだ。

 そのことを、彼は思いあがりまくった傲慢な態度という仮面で、蔽い隠そうとしている。
 二宮は今回、それを強調するために、彼に与えられた 「渡海」 という男の役を 「精神的にガキのままの人間」「悪ガキのようにふざけた人間」 として演じようとしているように、私には見える。

 このドラマで医局の人間たちに取り囲まれる二宮は、正直なところ 「大人と子ども」 レベルの身長差を隠すことが出来ない。 新人の竹内涼真にさえ大きく水をあけられているのだが、そんな大男のなかで彼は、徹底して嫌味な男を演じることで、「ナマイキなガキ」 というドラマ上の立ち位置を得ようとしているように思えるのだ。 しかもその 「クソナマイキなガキ」 は、ゴッドハンドを持つ至高の天才だ。

 その試みは、少し間違うとヘタクソな演技に見えてしまったり、妖怪の 「子泣き爺」 みたいな道化になってしまう危険性を孕んでいる。 しかし二宮のその試みは、自らの身長の低さを利用した 「憎らしさの表現」 なのだと私は思う。

 しかしその 「クソナマイキなガキ」 の真の目的というものは、今後このドラマに大きなうねりを呼んでいくことだろう。 正直言って第2話までは、主役は研修医の竹内涼真であり、竹内の未熟さが 「いつもの日曜劇場」 チックに展開し、オーゲサに泣いたり喚いたりするものだから、少々呆れてきたのは事実だ。
 竹内の演じる研修医は第2話で早くも異動届けを出すかどうかで迷うのだが、本番であそこまで力が発揮できないようでは医者そのものをやめた方がいい、という渡海の忠告は当然だ。 第3話ではこれまでさんざん引っ張ってきたスナイプという医療器具を再び使うようだし。 二宮が主役なのであれば、とっとと本題に入ってもらいたい気分だ。

 まあ、渡海のような完全無欠の腕の持ち主でかつサイテー男がそばにいたら、みんな普通の精神状態じゃなくなって出来るものも出来なくなってしまうだろうが…。

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2018年5月 4日 (金)

冬ドラマいろいろの話の続き(「FINAL CUT」「海月姫」「BG」)

 ほとんど過去の話になりつつあるが、いったん出した以上最後まで書かねばなるまい。 ただしかなり時間がたっているので、だいぶん筋を忘れている。 所詮テレビドラマとはそういうものなのだろうか。

 「FINAL CUT」。

 関西テレビ発の復讐ドラマといって直ちに比較されねばならない宿命なのは、草彅剛の一連の 「戦争」 ドラマであろう。 このドラマの放送中も、草彅と亀梨和也の演技力の差がネットでは取り沙汰されていた。
 しかし私は思うのだが、草彅と亀梨は土台となるキャラにおいて大きな違いがあるのであって、比較することはそもそも難しい。

 草彅剛というキャラクターは、彼が以前引き起こした事件を未だに重く引きずっているようなところがある(蛇足だが、TOKIOの山口達也が起こした事件に比べれば他愛のないものだ)。
 すなわち、外ヅラはいいけれども内面に大きな不満を抱えている、という側面。 SMAPからの脱退でそのパワーの不均衡意識、差別的意識はいくらか和らいだ気もするが、ドラマに出てくる彼の魅力を支えているのは、未だにその二面性なのだと私は考えている。
 そしてそのイメージは復讐劇において冷徹さを演出する最大の武器になるのだ。

 しかしながら、亀梨和也の一般的なイメージというのは、まずもって彼が 「ストイック」「一直線にマジメ」、というものだと思う。 それは彼の前作 「ボク、運命の人です。」 にも大いに生かされていて、神と名乗る山Pに自らの運命を知らされた亀梨は、あくまで愚直に 「運命の女性」 木村文乃にアタックしていった。 もちろん愚直であるがゆえに愚痴や文句もストレートで、そのおかしさがドラマを支えていた、といっていい。
 その彼が復讐に手を染めるとどうなるのか。

 自分の母親が幼女殺害事件の容疑者となってマスコミに追いまくられ自殺。 この恨みを晴らそうと、彼はまず母親を犯人扱いした最も影響力のあるニュースワイド番組に狙いを定め、犯人と思われる男のアリバイを偽証したと思われるその男のふたりの妹に近づき、さらに恣意的に母親を犯人に仕立てていった警察の人間にターゲットを移行していく。
 その計画はまことに用意周到で、隠しカメラを仕込みまくって相手の弱みを収集し、それをネタに相手を脅迫する。

 私は当初、最初にターゲットになっていたニュースワイドショー番組に対するドラマの姿勢を見ていて、「こんな身内批判がよくやれるな」、と感心して見ていた。 これはもしかするとがけっぷちのフジテレビ(厳密には関西テレビだが)が自暴自棄になって(笑)「ドラマ部が報道部を批判」 というタブーを破っているのかと。
 ただしその報道局に対する批判的姿勢はドラマ後半になって大きく様変わりし、「あとでこうするから許してね」、ということだったかと妙に納得(笑)。

 それはそうと、亀梨が復讐をするならこのように愚直にやる、という見本のような感じで、このドラマは草彅の復讐ではない、亀梨の復讐劇なのだ、との感を強くした。
 その愚直さがいちばん仇となったのは、「ヘンなキメゼリフを作ってしまった」 ということに尽きるだろう。
 相手をさんざん追い詰めて、証拠となるウェブページのアドレスを相手にちらつかせながら、亀梨はこう言うのだ。

 「これがあなたの、ファイナルカットです」。

 さんざん相手を罵倒し、「オマエが○○」「オマエがあーしたんだろ、こーしたんだろ!」 と汚い言葉を使ったあとだから、その違和感たるや。

 「キメゼリフ」 というものが必要なドラマとそうでないドラマについて、このドラマはとてもよく考えさせる機会になってくれた(笑)。 しかも 「ファイナルカット」 とかいきなり言われても、意味がすぐには呑み込めないし。 まあドラマのタイトルだから言わなきゃ仕方なかったんだろうけど。

 亀梨の愚直さはさらに、犯人の上の方の妹(栗山千明)に恋愛感情を持ってしまうという展開に発展する。 このせいで彼はさまざまなヘマをやらかし、緻密な計画に破綻を呼び込んでしまうのだ。

 しかし物語は、彼の持つ愚直さのおかげで草彅の復讐劇にあるような荒涼とした風景みたいな広がりを見せない。 彼が勤める警察の上司である佐々木蔵之介は彼の味方となり(いや最初から味方の側だったけど)彼が脅したワイドショー番組は彼の復讐のための詰問の場を設ける(まあ視聴率獲得のためでもあったけど)。

 そこで歪んでいったのが、彼に恋をしてしまった下の方の妹、橋本環奈である。 これも、亀梨が姉のほうに恋をしてしまったことを隠しきれなかったことから出たものであり、ここにも亀梨の愚直さがストーリーに影響を及ぼしていたことが分かるだろう。

 ただ、真犯人である山崎育三郎が出てきてからのストーリーの盛り上げ方には、ところどころ無理があったような気もする(もう昔の話過ぎてどれがどれだ、という指摘が出来ないのが残念だ)。

 ドラマである以上、ストーリーの山場というのは最終回に向けてボルテージを上げる必要性が絶えず生じているわけだが、クライマックスに至るすべての材料には、やはり 「強い必然性」 が不可欠なのであろう。 その必然性がとても堅固だったのが 「アンナチュラル」 であった。 「アンナチュラル」 と同じクールであったがために、その強引さが目立ってしまったのが、「FINAL CUT」 と 「海月姫」 だった気がする。

 「海月姫」 についてはもうほとんど感想の断片が残っていないのだが(笑)、もともと主人公と同じ引きこもり気味のオタク女子たち(尼~ず)が瀬戸康史に触発されてファッションブランドを立ち上げる、という話自体に現実味が不足していた。
 ただこの物語の強みは、尼~ずたちのキャラが強烈過ぎて、多少の誤謬も踏みつけて進行させてしまう強引さにあった、といっていい。
 だが物語終盤に来て、主人公月海(芳根京子)の才能を高く買うアパレル会社の社長(だったかな)の賀来賢人が登場してからその強引さが空中分解レベルになってしまったように感じる。
 話が最終コーナーを曲がった時点で混乱の頂点に達してしまったせいか、今この物語が結局どうなったのか、その記憶がほとんど残っていない。 残っているのは登場人物のキャラがみんなケッサクだった、ということだけだ。 三国志オタクや鉄道オタクは言うまでもなく、途中から出てきた安達祐実(リカちゃん人形みたいのに着せる極小ドレスを作らせると滅法スゲー 「虫けら」 が口癖のオタク)、インド人みたいな江口のり子、すべてが原作マンガそのもののキャラを楽しんで演じていた、というのがとても伝わった。 だからこのドラマはいいドラマだった。 そういう短絡的な結論が許せるドラマだった。
 そして芳根京子。 彼女のポテンシャルの奥深さが、さらに再認識させられたドラマでもあった。

 「BG」 はどうか。

 このドラマは木村拓哉がこれから突入するであろう壮年期に向けた、準備的な意味合いを持っているドラマだったのではないか、という気がしている。 続編についてどうなるのかは未知数であるが。

 彼の出演するドラマというのはここ数年、豪華な共演陣によって補佐されている。 それをテレビ朝日のように、何シーズンも継続していく息の長いドラマのサークルの中に自分を押し込めてしまおう、という意図が感じられるドラマだった、ということだ。
 このドラマにとって特にカンフル剤となったのが、以前共演した山口智子との化学反応だ。 このふたりの息はピッタリで、途中から山口がまたほぼ出なくなってしまったのはちょっと惜しい気がした。 ドラマの中でふたりはすでに離婚していたのだが、相手を貶しながらもどこかで信頼し合っている、まるでさんまと大竹しのぶでも見るような関係というのは、視聴する側からするととても魅力のある取り合わせだ。

 面白いキャラ設定だなと思ったのは、そのふたりの間の中学生くらいの息子。 彼は離婚調停後母親の山口の元で暮らしていたのだが、家出して木村のところに転がり込んだ。
 そいつがまた、ムチャクチャナマイキな設定なのだ。
 最初のうちは見ていてムカついていたのだが、そのうちに、「これって木村の若い頃のイメージとわざとダブらせているのでは?」 という気がしてきた。 そう考えると、木村が世間に台頭してきた頃が懐かしく思い出されて、ちょっと愛着が湧いて来たのだ。 やんちゃなイメージだった若かりし頃の木村拓哉。 木村はそのとっぽいイメージを大事に懐に抱き続けて、「いつまでたっても同じ演技」 などと嘲笑されながらも、頑なに自らのアイデンティティであるかのごとくそれを変えない。
 その彼が、かつての自分そっくりな生意気さを見せる、ドラマの中での息子を見るまなざしというのは、こちらにも妙な感慨を運んでくれるのだ。

 とりあえず続編については、期待したい。

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2018年4月15日 (日)

冬ドラマいろいろの話の続き(「アンナチュラル」「FINAL CUT」「海月姫」「BG」)

 「続きはまた」 などと書いてからだいぶたった。 「タイトル詐欺」 などと思われては心外だから続きを書こうと思うが、別に大したことを書きたいわけでもない(ずいぶんふてぶてしいぞ)。

 で、「アンナチュラル」 である。 当ブログの前回記事では、さわりにファナティックの話をしたまま中断していた。

 今日びあちらこちらで大量殺人というのは起こるものだが、その犯行動機というのはいつも実に単純だ。 「アンナチュラル」 で尾上寛之が演じた犯人のように、法廷であまりにファナティックに自己顕示欲とか幼少時のトラウマとかと本人が言い出すと、精神鑑定に持ち込んで罪を逃れよう、という狡猾さえ透けて見えてくる。 リアルという面で 「スニッファー」 の松尾スズキには及ばなかったが、尾上の法廷での態度を思い返すと、社会に対する犯人の歪んだ断絶意識が澱のように沈澱していたことを実感する。

 「アンナチュラル」 がどうして面白かったのか、というと、作者である野木亜紀子の 「社会問題に対する意識」 が広範だったことと、野木が 「次世代型の道徳意識、正義感」 というものを強く持っていたことに起因していた気がする。

 このドラマで顕著だったのは、「現行法が認める犯罪すれすれのライン」 を行ったり来たりする行為だ。 特にその一線を軽視しまくって超えてばかりいたのはUDIラボのなかでも井浦新だったが、彼の正義感というのは自らが被害者の恋人だった、という私的怨恨から発生していた。 それを淵源とした彼の怒りは社会全体の 「クソな」 旧態依然としたルールに向けられ、文書偽造や報復の幇助などを行なったりする。 しまいには恋人を殺した尾上を殺そうとまでするが、彼の怒りというのは 「人を殺していながらその重大性を認識すらできないクソな」 犯人に対して、「だったら死ぬとはどういうものか教えてやる」、という論理の上に成立している。

 それに対して自らが親子心中事件の生き残りであったミコト(石原さとみ)は、社会に対する怒りを心の底に沈めたまま、「明らかにされないまま葬り去られていく真実」 の救済を追及していく。 石原は法廷で尾上に対して 「かわいそうな人間だ」 と憐れむが、犯人に対する怒りを社会全体が克服しなければ、被害者にとっても加害者にとっても真の意味での事件解決にはなり得ない、という野木の結論をそこに見た気がする。

 そのうえで、野木の広範な問題意識は、事実を隠蔽する巨大組織や、部数を伸ばす(最近では縮小する市場で生き残りを懸ける、というように変質しているが)ために 「真実の追求」「報道の自由」 を掲げるマスコミジャーナリズム、「白を黒といい含めてしまう」 検察、社員従業員を隷属させ搾取し続けるブラック企業、大学サークルの集団強姦、陰湿ないじめとネット動画サイトの暴走、ゴミ屋敷に雑居ビル火災、果ては仮想通貨にまで及んでいた。

 これは野木が徹底的な社会問題のリサーチを事前に行なったせいであろう。 それをひとつのテーマに括りつけるようにして物語を複雑化していった野木の手腕にはただただ恐れ入る。
 こんなのを見てしまったら、「正義のセ」 なんかとても見てらんないというのが正直なところだ(トホホ)。 いや、「正義のセ」 どころではない。 このドラマが伍するステージは、アメリカとか海外ドラマが相手なのだ。

 もう力尽きた。

 続きはまた(またかよ!)。

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「半分、青い。」 第2週 残されていく独特な余韻

 第2週の終わりまで子役で繋いだこのドラマ。 主人公の片耳が聞こえなくなる。
 「片耳が聞こえなくなるくらいなんだっていうんだ? もう片方は聞こえるんだし大したことじゃないじゃないか」 と思いたくなるところであるが、診断を下した医師によってそれは予想以上に大変なことであることが両親に明かされる。 ただそのことが分からない子供時代の主人公、楡野鈴愛には、その重大性がピンとこない。

 私も重度の難聴であるが、正直なところ耳鳴りは両方で起きたときから寝るときまでずーっと鳴っている。 もし誰かが 「君の名は。」 みたいに私の体と入れ替わってしまったら、そのうるささに死にたくなってしまうだろうと思うほどだ。
 しかし当の本人ははたち前からずっとこの状態で、年々ひどくなっているのだろうが徐々になので慣れっこになってしまっている部分がある。 その重大性に気付かないのは本人だけなのだ。 だから健康診断で 「耳鼻科に行くように」 と言われても、いっこうに行こうという気にならない。 いや、正直に告白すると、何十万もする補聴器を買いたくないだけだ。

 一時それがかなりひどくなった時があって、片耳がほぼ聞こえなくなったときは、さすがに医者に行った。 そしたら原因は分からんがメニエル病の疑いとか。
 それが今回の朝ドラの主人公と同じような状態だったから、片耳のリスクには共感できる部分が多い。
 なにしろ、めまいがする。
 平衡感覚がなくなる。
 幸いその状態は改善されたのだが、重度の難聴という状態は変わらないので、仕事をしていても不便を感じることは多い。 はじめに 「耳が聞こえにくいので」 と断らなければならない面倒があるし、それでもわざとなのかぼそぼそしゃべってくる人間には、適当に合わせている場合もある。 相手によっては、「橋本はこちらの言うことに適当に答えるいい加減なヤツだ」 と不快に思われている向きもあるのではないだろうか。

 個人的な話が長くなってしまったが、「片耳聞こえないくらい別に大したことないじゃん」 ではないことは、ご理解いただけたかと思う。 特に音の立体感が失われるのは危険を伴ったりする。 この子は人生において結構なリスクを負うことになったのだ。

 母親の松雪泰子は医者からその大変さを詳細に聞いたときから、かなり悲観的になる。 ドラマのなかではいちばん絶望し、「そこまで悲しまなくても」 と思うほどなのだが、この松雪の哀しみには、この週の前半できちんと理由づけがなされている。
 いわく、「自分の娘は鈴愛(スズメ)という独特な名前のせいでいじめられていたのに、その名前を付けた自分を思いやって黙っていた」、というくだりだ。

 そしてこのドラマの優れたところは、そんな松雪の絶望に対して、周囲の人間があれこれと強引な修正を松雪に求めてこないところだ。
 悲しい時は、泣けばいい。
 松雪の夫である滝藤賢一はそうやって松雪を慰める。

 鈴愛は鈴愛で、別に自分の片耳が聞こえなくなった、と聞いても悲しくなかったし涙も出なかったが、それを母親を始め家族が悲しんでいることが悲しくて、律の前で大泣きしてしまう。 それは鈴愛の、母親や家族に対する優しさなのだ。

 悲しい時は、泣けばいい。

 その、「自然に受け入れていけばいいよ」、というドラマ全体の優しさによって、見る側の涙腺は緩むのである。

 そして、ドラマがいたずらに暗い方向にならないのは、子供時代の鈴愛と律がしゃべる、一種奇妙な昔言葉である。 「承知した」 など武将言葉なのはこの物語の舞台が戦国時代の中心だった岐阜だからか、とも思われるが、特に鈴愛は男言葉を使うことが多い。 これは助けたり助けられたり、という出来事のなかで、特に鈴愛と律のあいだだけはその立場がときどき逆転することの象徴なのかもしれない。 一方的な関係ではないのである。 互助関係なのである。

 その奇妙な言葉のやり取りはこちらの心を和ませ、そして奇妙な読後感をこちらに与えてくれる。 不思議なドラマだ。

 気が強くお転婆で人の心を思いやることのできる鈴愛であるが、第1週に続いて今週も、また恐ろしい夢を見たようだ。 先週は 「3本足のムーミンパパ」、今週は 「3つの月」 だ。
 ここで共通しているのは 「3」 という数字だが、「あり得ない、いつもと違う」 ということに対する恐怖が、鈴愛のなかに存在している可能性がある。 これも奇妙な引っかかりを見る側に残していく要因のひとつだ。

 次週から本格的に出演することになる永野芽郁。
 どのように成長した鈴愛を見せてくれるのだろう。

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2018年4月14日 (土)

「正義のセ」 悪趣味だが、元凶探し

 検事が主役のドラマというと、「HERO」 が思い出されるが、今回のこのドラマはベクトルとしてはそれと同じ方向を向いている。 いわく、真実をつきとめるためにフツーやらないような型破りな調査をする検事、という方向においてだ。
 だが 「HERO」 における久利生(木村拓哉)と今回の吉高由里子の決定的な差は、検事としての総合的な洞察力・判断力・能力があるかないかという点。 久利生はないようなふりをしてすごくある。 新人検事の吉高にはほぼない。 感情だけで動く。

 能力がほぼない場合、物語は必然的に当人の 「やる気」 だけを武器に案件に立ち向かっていかなければならない。
 すると、ドラマとしてはかなり初歩的なレベルで推移していかなければならなくなる。
 このドラマの最大で唯一の弱点はそこだ。
 第1話の話を思い返す限り、話はかなり単純で被疑者の口裏合わせという点でも久利生ならば取調室の時点で突き崩せるレベルのものだった気がする。 そこには吉高の 「書類の読み取り能力の欠如」 が原因として存在しているからだ。 そのために吉高はさまざまな 「やんなくてもいいこと」 をやり続ける羽目に陥る。 タクシーのドライブレコーダーを探しまくるなんて、ドラマ的な見栄えはいいが、警察が調べるレベルだろうし決定的な証拠にもなり得ないものだった。

 ドラマとして見せなければならないのは、そうした吉高の 「徒労」 を明確に出演者によって語らせることだ。 それを吉高が 「やり遂げた」 という美談に持って行ってしまうところに、このドラマの脱力ポイントがある。 新人というのは、いろんなところに余計に力が入ってしまうものだ。 そこをメインに語らせなければ、「お仕事ドラマ」 としての役割は果たせないのではないか。

 この、物語としての弱点を一気に引き受けてしまうのは、主役の吉高であろう。 彼女のキャラは、どちらかというとタリラリラ~ン系だ。 要するにどこか無責任さがついてまとっている感覚。 「東京タラレバ娘」 のときは、その無責任さ加減が 「結婚できない女」 の言い訳にピタッとハマっていた。 今回、吉高は久利生と張り合う必要性はまったくないが、見ている側からすれば容易に俎上に乗せられてしまう大変さはついてまわる。 そこで問題にされるのが、彼女のタリラリラ~ンさ加減なのだ。

 でももっと案件を面白くしてくれないと、リタイアするだろうな~。

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「シグナル 長期未解決事件捜査班」 分からないところがある…説明あった?

 フジテレビ火9、坂口健太郎主演の事件解決もの。 主人公が幼い頃に防げなかった同じ学校の女の子の殺人事件を解決していく、というのが第1回のストーリーだった。
 韓国ドラマが原作らしいが、「結婚できない男」「梅ちゃん先生」 の作者である尾崎将也による脚本はそれなりに苦心の跡があり、話にある程度の重厚感を持たせることには成功した…が、時系列を行ったり来たりさせることで話が見えにくくなった。

 特に北村一輝が演じる刑事が今どうなっているのか、そしてその北村と坂口がどうして電池の入っていない廃棄処分の無線機で話すことになったのか、私の注意力が散漫だったせいかもしれないが、それらが理解できないまま、真犯人が逮捕されるクライマックスまで見てしまった。
 どうもよく分からなかったので録画を見返したのだが、やはり分からない。 まあざっと見返しただけだから見落としたのかもしれないが。

 分からないのでネットで調べたら、どうもその無線機というのは過去と現在を結ぶ通信機らしい。 ドラマのなかで坂口も言っていたが、「わけ分かんねえ」。 いや、こっちもワケ分かんねえって(笑)。
 そもそもこの無線機に出会うまでのプロセスが分からない。 坂口は警察署の階段を行ったり来たりし、屋外に出てきたら何かにつまずいて 「どいつもこいつも俺の邪魔をしやがって」 みたいなことを言う。 いや、こっちはアンタが何やってるか分かんないって(笑)。 そしたら後ろの扉が開いたトラックに置かれたゴミ袋から音がしてくるのだ。 「廃棄」 というシールが書かれたそのゴミ袋には無線機が入っていて、そこから聞こえる北村の声は、前田とかいったか、なんとか警部補の言うとおり来てみたら首つり死体を見つけた、という内容。

 坂口がその現場に行ってみると、北村が探していたときと違って現場はやけに年月がたっている模様。 北村はそこにいなくて、坂口はそこで白骨化した首つり死体を見つける。 それは坂口が幼い頃に助けられなかった少女を殺した、とされる犯人(橋本って言ってたぞ…)のものだった。

 いやいや、何? 話が分かんないって。 橋本が犯人じゃない、っていうのはずっとドラマで説明されてたから分かるけど。

 番組HPでは大々的に 「過去と現在をつなぐ無線機」 などと喧伝してるからHP見た人なら分かるけど、事前情報ほぼゼロの状態で見た自分はなにがなんやら。 だいたいなんで無線機なんだよ、みたいな。 どうして電池が入ってないのに会話できるんだよ、みたいな。 それまで重厚な話の進行をしていたせいで、いきなりのSF設定が馴染まないのだ。 飛躍させるなあ。 私はそれを理解できないまま、犯人が坂口を陥れようとわざとそこに無線機を置いたのかみたいに考えてましたけどね。 電池がなくても1分くらいはしゃべれるのかな?みたいな(笑)。

 いや、その前のシーンで北村が若い頃の吉瀬美智子としゃべってたのは分かってた。 ただ、これも吉瀬の顔をちゃんと認識できないとこのシーンの意味もよく分からないみたいな。
 それまで北村が出てくるシーンはみんな過去の時系列のものばかりで、そこでの北村の演技って、なんか若作りしてる、っていう感覚だった。 だから北村は現在も出てくるもんだとばかり…。

 さらに混乱に拍車をかけるのは、坂口が 「警官だ」 という割にいつも私服なこと。 前に同じ時間帯でやってた 「FINAL CUT」 の亀梨もそうだったが、「コイツいつ仕事してるんだ?」 という疑問が湧いてくるのだ。
 付け加えれば、坂口は事件発生当時、「犯人は橋本ではない」 ということを何度も訴えたらしいが、ドラマを見る限り警察署にメモを残したくらいできちんと訴えたとはとても言えない。 警察のほうが小学生の坂口を相手にしなかった手落ちは確かにあるが。

 このドラマでの坂口は情報分析(プロファイリングっていうらしいが)に長けていて、彼は 「SHERLOCK」 のカンバーバッチ並みの分析能力を縦横無尽に展開する。 いわばこのドラマのもっとも面白い心臓部は、ここにあるといっていいだろう。 というか私はそう見た(第1回の推理はどれもものは考えよう、みたいでそんなに鋭くなかった気もするが)。 ただドラマの本来のキモは、過去と現在の刑事が協力して事件を解決する、というSFチックな方向にあるらしい。

 しかしドラマは、肝心な部分をきちんと説明しないと、見る側を混乱させたまま終点へと乗客を運んでしまうだろう。 どうも第1話を見る限り、1話完結ではないようなのだが、ドラマのタイトルは 「長期未解決事件捜査班」 だから、この先、主人公の坂口の人生に大きな影響を残した第1話の事件以外にも数種類の事件が起こるのだろうと思われる。

 とりあえず、しばらく見てみることにする。

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「コンフィデンスマンJP」 「演技する演技」 と 「演技しない演技」 の差

 「リーガルハイ」「デート」 などの脚本家、古沢良太による月9。 長澤まさみ、東出昌大、小日向文世が詐欺師を演じるドラマだ。
 ただし詐欺のスケールはかなり大きく、助っ人は大人数。 騙す金額もかかる費用も大きい(第1話だけかどうかは知らん)。 性格的に義賊、という一面があることから、そこで非道徳性は軽減されている。

 組織の構成人数が多いと情報漏えいの危険性が増すような気がするが、サポートメンバーはあくまで 「お遊び感覚」 のようだ。 情報が漏れないのは、ちょっと演技すれば大量の報酬が得られる、といううまみに自らの正義感が勝つことが出来ないせいだろう(この先どうなるかは知らん)。
 これは 「楽して儲ける」 システムが社会にはびこっている風潮もあるだろうし、「フェイク」、が流行語みたいになってしまい、ハードルが低くなっているせいでもあろう。 「貧困層の増大」 という問題もそこに潜んでいる気はする。 不平等感が、サポートメンバーたちをリークに走らせない抑止力になっているのだろう。

 しかしドラマはそうした小難しいこととは一切無縁だ。 ドラマのカギは、「どうやってターゲットを騙すか」、という小気味よさに委ねられている。
 そのカギは主要メンバー3人の演技力にかかっていることは自明だ。 ところが私の見立てでは絶えず演技力に不安がつきまとう東出が、メンバーの一人にいる。 第1回を見たところ果たしてその不安は的中したのだが、作り手たちが東出の演技力のなさを、却って 「これはフェイクなのか本気なのか」、という見る側の 「揺らぎ」 の道具にしようとしているような感じがしたのも、事実だ。 これは長澤にも多少当てはまる部分がある。

 役者がドラマのなかで 「演技をしてないように演じる」、というのは当たり前のことだ。 それが出来ない役者は 「大根」 と呼ばれる。 しかし今回の詐欺師のように、「演技をしている演技をする」、というのは、演出の意図を中核で把握していないとなかなか出来ない難しい種類のように思える。 ここでは東出とちょっとだけ長澤がその域に達することが出来ない役者なわけだ。
 でもそのことで、見ている側は多少混乱するのだ。 「ここもウソなのではないか」、と。
 演出の意図も、そこにある気がする。

 だが言いはじめれば 「全部ウソなのではないか」、ということにもなってしまうのだが(笑)。 第1回でも、小日向がターゲットにズタボロにやられ入院したときの長澤の演技に 「そもそもこれフェイクなんじゃ?」 と思ったが結局はそうだったわけであり。

 そこで威力を発揮したのが、第1回ゲストの江口洋介だった。 このターゲット、財団の会長でゴッドファーザーとも呼ばれている。 その演技力と言ったら。
 この、「他人を信用しない」 という男に試され助けられた東出は、小日向をズタボロにさせられた恨みも忘れて 「ありがとうございます~~っ!」 と江口にすがって泣く。
 このときの東出の演技は、かなり 「演技してない演技」 として合格点以上のものがある。 だから東出もまったく大根、というわけでもないのだが(言いたい放題言うねオレも)そこで東出の 「フェイクとリアル」 の境界線が分からなくなってしまうからくりにもなっている。

 いずれにしても騙されたと分かったときの江口の鳥取砂丘での演技は圧巻だった。 ただ、20億くらい江口の演じる会長にとってははした金のよーな気もしたが(笑)。

 これまで同じ古沢脚本のドラマでは、「リーガルハイ」 で堺雅人、「デート」 では東出の女房の杏(皮肉…)と長谷川博巳、と彼らの演技力でドラマがさらに昇華されたものだったが、今回はその要因が脆弱だ。 どうなるのか、しばらく様子を見ることにしよう。

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2018年4月 8日 (日)

「半分、青い。」 第1週 どれだけ多くのことを考えさせてくれるドラマになるんだろう

 この新年度、今年のNHKは結構移動が多い。
 朝ドラ直後に感想を述べ合う 「朝ドラ受け」 をする、テッパンだった 「あさイチ」 のメンバーも刷新され、ストレートに感動を表に出す有働アナウンサーや優しいイノッチ、ミもフタもない感想を述べる柳澤解説員もいなくなった。

 私は朝ドラを予約録画する際、この 「朝ドラ受け」 が見たくて、ここ数年、予約録画の時刻設定を毎回1分余計に8時16分までしていたものだ。 喜ばしいことに新メンバーの博多大丸・華吉と近江友里恵アナウンサーでも 「朝ドラ受け」 は存続するようなのだが、第1週を見る限り、まともに 「朝ドラ受け」 をするのは真ん中の人だけのようだ(小生、どっちが大丸なのか華吉なのか分からない)。

 ただしそれはとてもお笑い芸人によくあるそつないツカミのことが多くて、どうもしっかりとドラマを受け止めているような感覚がない。
 まあ、第1週から完璧を望んでも仕方のないことであるが、有働サンや柳澤サンの、ある意味 「忖度」 を排した(つまんないときは結構温度が低かった)朝ドラの感想は、朝ドラの完成度をある意味で補完していた気がするのだ。

 しかしそれがなくなって、肝心の朝ドラ自体の完成度まで影響をしている、としたら、どうなのだろう。 いや、そんなことはあり得ないのだが。

 つまり、今回の朝ドラ、第1週の前半(1-3回)、私は見ていて、あまり大した感想を持つことが出来ず、正直かなり退屈だった。
 物語スタートの舞台は昭和46年(1971年)の岐阜。 商店街の食堂だ。 主人公の母親(松雪泰子)が難産の末、今回のヒロインを産むまでに3回かかった。 私が見る限り、ヒロインが胎児の状態(CG)で出演したのは初めてで、そこだけは斬新だなと思った。 でもそれくらいの感想で、全体的に家族のコンビネーションもどうもしっくりきてないし、なんか見ていて落ち着かない、というか、フワフワした印象を持った。
 私の好きな 「あしたのジョー」 を主人公の父親(滝藤賢一)が愛読していたり、結構好きな役者である中村雅俊が祖父役(祖父…祖父かァ…)で出てたり、それなりに見どころはあったのだが。
 これって有働サンなんかの朝ドラ受けがなくなったせい?などとぼんやり考えてしまったのだ。

 で、主人公がようやく生まれて少女時代に突入した第1週後半から、その退屈さがなくなる。

 まずその主人公の祖母(風吹ジュン)が死んでナレーション役になったのが物語のメリハリに寄与している。 物語の目線が空の上に俯瞰されることで、話の奥行きが広がったのだ。
 そして、相変わらずではあるのだが、少女時代の主人公が朝ドラ印のスタンダードである、「おてんばだ」、ということも大きい。

 第1週後半、主人公の楡野鈴愛(にれのすずめ、少女期矢崎由紗)は天国のおばあちゃんと話をしようと、100メートル以上はあろうかという長い糸電話の実験を、友人たちを巻き込んで行なう。 これは細部には疑問が残る(いくら糸、とは言えナイロン糸で100メートル以上ともなればかなりの重さになる、ということとか)ものの、その壮大な話には心動かされる。 子供時代のエピソードとしてはインパクトがじゅうぶんだ。

 また、パートナーを亡くして意気消沈する中村や、母親(松雪泰子)のふとんに 「怖い夢を見た」 といって潜り込んでくる主人公の無邪気なところなど、目が離せず心を動かされる部分が出てきた(3本足のムーミンパパがパイプを持って追っかけてきた、には笑った)。

 もともと松雪泰子という女優は、「客観性キャラ」 の役者である、というのが私の考えだ。 つまりいつも冷静で、人間性のある感情を表に出すことが少ない。 だからコメディがあまり得意でない一面もある。 今週前半、物語がしっくりいっていない印象を持ったのは、それが原因だろう。
 そんな彼女が、布団にもぐりこんでくる自分の娘のかわいさに感動して泣いてしまう。 受け手はそういうところに共感を抱くのだ。

 第1週前半の印象が悪かったのは、余貴美子の演じる産科医のつかみどころのなさにも一因があったような気がする。 この産科医、なんかのんびりしていて、小生見ながらちょっとイライラしていた(笑)。 余貴美子は、スパッと切れ味のいい役のほうがいい。

 第1週後半で無邪気でおてんばなところを見せるヒロインであるが、第1回で早くも告白されたように、早晩おたふく風邪のウィルスで左耳の聴力を失うことになる。
 どんな出来事であれ、自分に起きてしまったことをいいほうに捉えるか悪い方に捉えるか。 今回のヒロインは自分の意志で、前者を選んでいる。 タイトルの 「半分青い」 というのは、いくら雨が降っていても雨音は右耳から聞こえない、つまり片方はいつも晴れている、という比喩から来ているようだが、おそらく主人公がその青さ(フレッシュさ)をいつまでも失わないでおこう、という決意も同時にあらわしている気がする。

 脚本は北川悦吏子。 私にとっては 「愛していると言ってくれ」 の印象が強いのだが、もう23年も前の作品になってしまう(1995年)。 豊川悦司が聴力をなくした画家の役だったが、今回の朝ドラでは売れっ子の少女マンガ家としてヒロインの前にやがて登場するようだ(東京編の舞台)。 その変人ぶりがクローズアップされそうだが、そうなると作品のカラー的に 「重版出来!」 に似てきてしまわないか、という危惧は今のところある。

 いずれにせよ、作品としての情報量が多いことを期待する。

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2018年4月 1日 (日)

「西郷どん」 とか、冬ドラマいろいろ(「スニッファー」「アンナチュラル」「FINAL CUT」「海月姫」「BG」)

 冬ドラマの総括をしたいのだが最近まともにテレビを見ることが出来ない。 その癖 「グラビティ・ゼロ」 だの 「ゴースト~ニューヨークの幻」 だの、BSでやってる映画などを見てしまうものだから、ますます時間が足りなくなる(番組表のチェックだけはしているということだが)。

 こないだなんぞ、新春にやってた 「英雄の選択・幕末薩摩藩スペシャル」 を見てしまって、司会の磯田道史氏がこの番組で披露した知識が、彼の監修する今年の大河ドラマ 「西郷どん」 にもっと反映されれば、と臍を噛む思いになったものだった。

 ただしその 「西郷どん」 であるが。

 「幕末」 という複雑な素材を一旦咀嚼し、分かりやすい 「感情の物語」 に構築し直している、という気はする。

 ここで脚本家の中園たちにとってもっとも厄介に思えるのが、かつての大河での同じモチーフであり同時に傑作と謳われる(私は見てない)「翔ぶが如く」 である。 司馬遼太郎による原作が反映されて、かなり難解な作品だったらしい。 中園たちはまず、この作品の支持者を裏切る必要性に迫られ、女性目線の方向性で西郷を見つめ直している。

 要するに尊王だの攘夷だのという、難解かつ幕末を語るうえで欠かせない知識を必要最小限にとどめよう、という試みだ。 そのためには西郷の思想に大きな影響を与えた、という人物も平気で省略するらしい。 藤田東湖を西郷どん紀行でナレ死させたのがいい例だ(あんまし知らんかったから別にいーけど)。

 しかしこれは、私とは違う歴史に詳しい大河ドラマファンの神経を大いに逆なでする行為に等しい。

 難解なテーマを持つ大河ドラマの試みは、実は近年 「平清盛」 で試されている。 が、往年の大河ファンには受けが良かったが視聴率的には惨敗だった。 ここから大河ドラマは 「分かりやすい方向」 に舵を切ったように思う。

 同時に感じるのは、「もともと勝者の論理で構成されている場合が多く 『史実』 というものが当てにならなくなっている現在、わざわざその 『史実』 どおりに歴史を描く必要がなく、独自の解釈を創作してもいいのではないか」、という作り手の意向が見え隠れすることだ。

 ただ先日放送された 「NHKラジオ深夜便」 での 「西郷どん」 アゲ番組で、時代考証を担当している人が、西郷の3番目の妻である糸をかなり早く登場させてしまったことを、中園に押し切られて目をつぶったと弁解していたが、これは創作ではなく歴史改竄の一種であろう。
 中園にとっては視聴者に感情移入をさせることが第一義であり、ドラマとしての体裁を整えることがなにより重要なのだ。
 そのためには西郷と糸との関係を運命的に強固なものにすりかえる必要がどうしてもあった。
 さらには西郷と篤姫を、一種疑似恋愛的な関係にすることも厭わない。
 安政の大地震で血まみれになって篤姫を守った西郷に、篤姫は 「私を連れてどこか遠くに逃げて欲しい」 と懇願する。 果たしてその気持ちは一瞬のもので、実はそこから篤姫の悲壮な覚悟を最大限に演出しよう、という、中園のストーリーテラーとしての腕の見せ所へと変貌したのだ。

 私は当初、こうした作り手の 「人物萌え的な作品至上主義」 に辟易していたのだが、難解な幕末の、入り乱れた思想の海のなかに身を投じるよりも、半径何メートルかの感情のなかで生きている西郷、という目線で見ることも、作品のあり方としてはありなのかもしれない、と思うようになってきた。 話は確かに幕末でなくとも西郷でなくとも成立する話に堕したが、その話自体は、よくできた 「人間の感情」 のドラマとして別の方向で昇華されている気はするのだ。

 しかしそんな単純化された構造のなかで、この先どうやって磯田道史氏の指摘する 「薩摩藩のリアリズム」 を表現していくというのだろう。 4月1日の放送では話をいったん中断し、「西郷どんスペシャル」 を放送するらしい。 前代未聞だ。 回数が削減されても、これなら年末までの帳尻が合うだろう。 この先2回くらいはこういうのがありそうだ。 今年の大河は、あくまで分かりやすく、視聴者に開かれている。

 そんな 「みなさまのNHK」 であるが、スペシャルドラマでいいのをやったりする。
 そのひとつに、阿部寛がイヌ並みに鼻の利く(いや、それ以上の設定か?)特殊能力を持った捜査官を演じる 「スニッファー」 があった。 これは去年だか一昨年だかにやった連続ドラマの続編で、どうもコメント欄以外にこのブログで話題にした記憶がないが、結構楽しんで見ていた。
 今回のスペシャル版はそれまでのレギュラーに加えて波瑠が刑事の役で出てきたのだが、これによって連続ドラマを見ていなかった人にも分かりやすい人物関係の整頓が行なわれていた。

 阿部はこうした 「変人」 の役をやらせるとまず右に出るものはいない。
 それは阿部が持っている 「妙に落ち着き払った態度と声質」 が実は仮面であり見栄であり虚飾なのだ、ということを、当の阿部自身がコミカルな演技の武器にしているからだ。
 カッコつけたヤツが予測不能な出来事に対応できず、思わず自分の素が出てしまう、ということの面白さを、阿部は熟知している。 そしてそれを熟知したドラマの作り手だけが、阿部のその面白さを引き出すことができる。
 自分の鼻が利き過ぎていつもは 「鼻栓」 をしている阿部が独特の器具でそれを取り出す仕草の妙に可笑しなことと言ったら。 そして鼻栓が抜けたときから、阿部はスーパーマンに変身する。 そのカタルシスと言ったら。

 ただし普段、口ばかりで呼吸していると雑菌が体内に入る可能性は高まる(笑)。

 そんな阿部の特殊能力に、事あるごとにすがってくる刑事の香川照之はスペシャル版の早々からその任を解かれるのだが(代わりにやってきたのが波瑠だったわけだ)、レギュラーシーズン以上に崖っぷち度が上がって彼の演じる役のなかではキンチョールのCMを初めて凌駕する(笑)コミカル度の高い印象的な役となった。
 なにしろ香川といえば歌舞伎のそれをそのまま応用したような過剰な演技が特徴なのだが、それは時にお腹いっぱいになってしまうことがある。
 しかし今回の崖っぷち設定は、その香川の過剰さが却ってコメディの王道にすっぽり合致してしまった。 今回の香川は、かなり笑えた。

 そしてその香川のコミカルな部分をある意味で際立たせたのは、今回の犯人役である(あっネタバレしちゃうぞ)松尾スズキだ。
 この人、私が見てきた俳優のなかではもっとも、「どこにでもいそうな人」 だ。 どこにでもいそうだから、最初まったく目立たない。 しかもドラマがある程度進行しても、見る側の犯人予想リストにまったく入ってこない。 こういうどこにでもいそうな人というのは、自分が犯人だとばれると途端に今までの普通さが仮面だったとばかりにファナティックになったりするものだが、彼は自らの犯罪がバレて追い込まれても、あくまで普通のどこにでもいるオッサンが、弁解するでもなくただの普段の愚痴の延長上みたいなヘタな言い訳をする点が、却って新鮮に映った。
 しかし彼の持っている武器は、何十万人も殺せる、という新種の炭疽菌なのだ。 自分のやっていることの重大性と、本人の感情のあまりのフツーさとのギャップが大きい、というのは、作り手が掘り当てた新たな 「リアルな恐怖」 なのかもしれない(いや、私がほかに知らんだけかもしれないが)。

 自分が犯人だとばれた途端ファナティックになったのが、「アンナチュラル」 の連続殺人犯だった。

 ああもう時間がない。

 続きはまた。

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2018年2月 3日 (土)

「BG~身辺警護人~」 木村拓哉、カッコいいのか悪いのか

 長い間、イケメンの第一人者として名を馳せてきた木村拓哉。 彼の評価が曲がり角を迎えたのは工藤静香と結婚してからだと思うのだが、彼に対する批判というのにはいつも、「手のひらを返す世間」 というものを感じている。

 「なにを演じてもキムタク」、という批判はよく聞かれることだが、そんな俳優など世の中にはたくさんいる。 事務所の力で主役を張る俳優、というのも芸能界では普通のことだ。 それが彼の場合、そうした俳優のなかでもとりわけ強い世間からの逆風となっているように感じる。 それは彼が芸能界で君臨していた影響力の強さと期間の長さが、もろに反作用となって現れているように思うのだ。 これは木村が所属していたSMAPの解散劇を経て、ますます悪化している。

 私などはその潮目が変化するあまりの極端さに興味を惹かれ、特に逆風が彼に吹き始めた頃から彼のドラマを見るようになったのだが(ウィキの出演作リストを見ていて、2005年の 「エンジン」 以降は9割がた見ていることに我ながら驚いた)(それ以前は1作たりとも見ていない)、人気絶頂の頃に遠目から見ていた 「ある種のハスッパ、ある種の頑固」を彼が貫き通していることには感心している。

 そして同時に感じるのは、彼の周囲に渦巻く 「ある種の忖度」 である(キムタクへのソンタクってか)。 木村をカッコよく見せるために、ある種の不自然な力がいつも働いている、という感覚。
 それでも、やはりここまで彼への評価が逆転してしまってからは、「どうにかして彼をカッコ悪く見せよう」、という逆の思惑も働いているように思うのだ。 「あまりに彼ばかりカッコよく描いては世間の批判をかわしきれないし、なにかと不都合だし」、みたいな。 まあこれも、逆の意味での忖度とも言える。

 今回のドラマでは、そうした作り手のなかのせめぎ合いみたいな空気を、とても強く感じる。 とても近いイメージで言うと、数年前の 「安堂ロイド」(TBS) みたいな感覚だ。 木村はそのドラマでアンドロイドを演じたのだが、だからと言って超万能、というわけではなく、「旧式モデル」 という 「カッコ悪さ」 を身にまとっていた。 それは木村の 「加齢」 という問題も孕んでいたのだが、今回も 「ボディガードをやるのは何年かぶりで、体力的におっついてない」、というハンデを身にまとっている。 第1回目からたいして体力のありそうもない犯人の新聞記者と格闘して結局ボコボコにされてるし、第2回目は近年ウルトラマンをやってた人(石黒英雄)といい勝負だったけど、やっぱりそのあとは足を引きずってた。

 それだのに、第3回では瞬発力と体力やたらいりそうな 「高架橋での宙吊り」 みたいなことを、やらんでもいいのにやったりしてるし。 いくら犯人をおびき出すためとはいえ、「高所恐怖症なんだよ~!」 と笑かしにかかるんならやらんほうがいいだろう(笑)。
 これは、脚本家が木村のカッコいいところと悪いところを同時に見せて世間の風当たりを緩衝しようとしている結果だと思うのだが、それをやらせるために、いかにドラマ全体のリアリティが失われていることか。

 まあ別に、ドラマだからいいんだけど、多少の想像力の暴走は。

 しかしそれを可能にするためには、物語がある程度のリアリティの鎧をまとっていなくてはならない。 第3回ではこれまでの回になくそのボロが目立ったのだが、例えば偽装誘拐にしても、誘拐犯人がその仲間とダブルで計画失敗のボタンを押してしまったりしている(要するにかなりおバカ)。
 第2回でも、元ウルトラマンは被害者家族なのにもかかわらず自らその恨みを裁判官に対して募らせる、という短絡的思考だったのが気になった。 しかもまわりくどいことにその裁判官の妻にちょっかい、ですよ。
 第1回から登場している、失言ばかりしていた、かの元女性防衛大臣がモデルと思われる石田ゆり子も、アホなのかまともなのかのキャラがどうもおぼつかない。 あの石田ゆり子にしては、迷いながら演技している印象を強く受ける。

 つまり、物語全体の詰めが甘いのだ。

 これは、私がかねてから感じている、「テレ朝発ドラマの詰めの甘さ」 という問題と同根の問題ならば話は楽なのだが、どうもそれとは違う気もする。

 このドラマを見ていて思うのは、「テレ朝は、そして木村は、このドラマをシリーズ化したいと考えているのか」、という点だ。 テレ朝ってそういうのばかりでしょう。 だからヤなんだけど。
 しかしこのキャストの豪華過ぎる点とか、これをシリーズ化したらかなり大変だろう、というのも感じる。 江口洋介、上川隆也、そして斎藤工ですよ。 みんな主役級じゃないですか。 毎回ゲストも豪華だし。

 ただこのドラマのいいところというのは、ドラマ全体の詰めが甘いから、あまり深く考えないで楽しめる、という点にある。 ゲスト出演者たちの 「人情」 に立ち入った話が中核にあるから、人間模様ととらえれば、それはいつものテレ朝モードのドラマだ。
 深く考えないで見始めると、木村拓哉の存在についても、彼が主演だったこれまでのドラマと比べると深く考えないで済むようになる。
 いくらイケメンでも、年を取れば劣化はする。 そんな当たり前のことを、世間では取り沙汰し過ぎる。
 問題は、なにかを失った後にも、世間から注目されるものをどれだけ発信し続けることができるかどうか、なのだ。

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