テレビ

2017年11月19日 (日)

「民衆の敵~世の中、おかしくないですか!?~」 多数決の先にある民主主義

 衆議院選挙が突然決まってしまったためにフジテレビの 「忖度」 によって開始が遅れてしまった、といういわくつきの 「月9政治ドラマ」。 篠原涼子が普通(以下?)の主婦から市議会議員になる、という話だ。

 このドラマ、「脚本家が変わってこれまでのシリーズ中サイテーの出来」 と酷評されながらも高視聴率を保った前クールの 「コード・ブルー」 の後番組だが、視聴率的にここ数年じり貧気味だった 「いつもの月9パターン」 に逆戻りしている。

 その原因は題材をはじめ、さまざまな点が考えられるが、私が考えるのは 「主人公が市議会議員になるまで」 を描いた第1回の出来だ。 安直でご都合主義に思えたからだが、その憤りもあって実は、このドラマに関する批判的なレビューを書きかけた。
 しかし途中から内容が難解になり過ぎ、自分でも何を書いてるのか分かんなくなったので完成を放り投げた(笑)。

 まあその、第1回の批判について要約すれば、「もともとカネ目当てで市議会議員になろうとしている癖に、変に都合よくマタハラを受けているブレーンを獲得し 『幸福』、というかなり漠然とした主張によって、結局当選議員の急病で繰り上げ当選してしまうって、ナメてんじゃないの?」 ということだった。

 少しその、ボツになったレビューから抜粋しよう。

――自分たちの息子に卵焼きをステーキだと思い込ませる。 そうすることで夫の田中圭は 「子供にあらかじめ諦め癖をつけておけば幸せになれる」、というスタンスを取っていた。 しかし、篠原は 「自分が幸せかどうかは自分が決めたいんだ!私はニセモノではない本物の幸せが欲しいんだ!」 と本音をさらけ出した。

――だが、ドラマのロジックとしては、この軸の部分が危ういのではないか、と私は思う。

――「個人の幸せ」、ということを考え始めると、政治で何とかしようとするには、あまりにもターゲットが漠然としてしまうからだ。 ドラマは篠原に、「普通の主婦」 という目線を与えたがっているようだが、「個人の幸せ」 という普遍的なものを目的にしてしまった時点で、篠原の市議会議員としての活動において、かなり公私の境目が曖昧になってしまう気がするのだ。

――そのせいかもしれないが、第1回を通して見た印象は、なんかヤケにあっさりとしていた。 これは、物語のテンポが良すぎる、という点に主な原因があるが、篠原のキャラ設定が 「熱血ではない」 ということにも問題がある気がする。 まあお金がそもそものスタートだから、別にダメならダメでい~や、くらいの軽い気持ち、とでもいうのだろうか。 たとえいったん落選したあとの繰り上げ当選、という形であったとはいえ、そんなんで当選できてしまうほど政治っていうのは軽いのか。――

 どうも論理が堂々めぐりしているだろう(笑)。 ちょっと(かなり)書きなおした(笑)。

 だが数回見ていくうちに、月9のスタンスとしては、これくらいの軽さがちょうどいいのではないか、と思うようになってきた。
 これに続く第2回では 「そんなの警察の仕事でしょ」 という問題に首を突っ込み、第3回以降は 「議員でなくてもできねえか?」 という問題に血道をあげている篠原。 しかしその 「シロートっぽさ」、「小さなことからコツコツと」 という姿勢が、「多数決」 という数の論理で動く従来の政治にちょっとした旋風を巻き起こしている、という小気味よさにつながっているのだ。

 民主主義の基本である多数決、という決め方。 これって一億総中流みたいな時代には合っていたのかもしれないが、勝ち組と負け組だけで中間層が極端に減ってしまった現代では、そぐわなくなっているのではないか。 篠原が演じる主人公の行動というのは、一面では世間知らず的な部分もあるのだが、実は貧富の差が激しい時代に適合した政治のあり方を体現しているのかもしれない。 そんな小気味よさだ。

 そしてその小さな旋風が、もしかすると巨大台風に発展する可能性もあれば、コップの中の嵐で終わる可能性もある。 ここで物語を面白くしそうなのが、篠原が当選後すぐに 「市議会のドン」 の派閥に便宜上所属してしまった、という設定だ。 これも主人公の発想だと 「大きい派閥のほうがなにかと動きやすそうだし~」 みたいな軽~い動機でしかないのだが、彼女を今のところ動きやすくしているこの設定が、これから彼女を呪縛していくであろうという怖さに、単純にワクワクする。

 ここに、今のところ単なる客寄せの役割しか与えられていない感のある高橋一生(同じくドンの派閥所属)がどう絡んでいくのか。 物語では高橋にヘンなスキャンダルを絡ませたがっているようだが、それでは話がとっちらかってしまうような予感がして個人的にはあまりそういう話を期待していない。

 まあ、期待しないで見ている程度がちょうどいいのかもしれない(笑)。
 政治なんて、そもそもその程度のことだから。 夢物語は、ドラマの中の嵐だけだ、という諦めだ。 ドラマは相変わらず、「個人の幸せ」 という曖昧なものを目指している気がするが。
 願わくば篠原が、今のドシロート感覚からただの政治屋になってしまわぬことを。

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2017年11月 5日 (日)

「赤ひげ」(2017年のドラマ)どうしても黒澤作品と比較してしまうが

 NHKBS時代劇の新作。 全8回。

 NHKの番組HPでは完全に無視を決めかかっているが、この物語は山本周五郎の原作、というより、私にとっては黒澤明監督の映画、という位置付けで今日まで来た。 確かテレビドラマとしても、何回かリメイクされたはずである、が、ネット検索してもどうもその情報が出てこない。 私の記憶違いかもしれぬ。

 しかしよしんばリメイクされていたとしても、おそらくそのどれもが黒澤作品には敵わなかっただろう。 それほどの名作であるし、なにしろ主人公 「赤ひげ」 の三船敏郎の存在感を凌駕する者など、未来永劫現れないだろうからだ。 最近じゃ胡麻麦茶のCMにまで出ている(笑)。

 ただしこの作品を私が見たのは、もう40年近く前、私が中学生の頃だったろうか。 かなり記憶が茫漠としていたが、今回ドラマを見たことで、だいぶん記憶がよみがえった。
 まず黒澤映画において三船は確かに存在感の権化みたいな感じだったが、物語的には加山雄三が中心で動いていたような気がするのだ。 それをまず思い出した。
 そして診療所内の隔離所に幽閉されていたある狂女(あえてそう書かせていただく)の、ゾッとするような恐怖。 京マチ子かなと思っていたけれど、あれは 「羅生門」 だったか。 ネットで調べたら香川京子だった。

 話の筋が後回しとなった。 この物語は、江戸時代に小石川にあった無料の医療施設が舞台。 幕府の肝いりで設置された。 無料だから民間の貧乏人ばかりが患者だ。
 そこに長崎で蘭学医療を学んだ新人の医師、保本が赴任してくるのだが、これがまったく本意ではない。 本意ではないから、かなり不貞腐れる。 映画ではそれが加山雄三だ。 52年前、私が生まれた年(1965年)の映画だったから、加山雄三もまだまだひよっこの頃だ。

 今回のドラマではそれを中村蒼が演じている。 遠い昔の記憶と比較するという無理をさせてもらえば、中村は加山よりもかなり自我が発達していそうな感じに見えた(笑)。 要するに、加山はホントにボンボンみたいな感じだったのだ(ホントに二世タレントでボンボンだったのだが)。 映画は加山のひよっこぶりをたぶん強調していたものと思われる(遠い記憶なのによく言うよ)。

 その診療所の主が、赤ひげこと新出去定(にいできょじょう)だ。 三船が演ったその恐れ多い役を、たぶん本人としては悲壮な覚悟で、船越栄一郎が演じることとなった。

 なにかをしゃべれば雷みたいな三船の重厚さには追い付くべくもない。 船越の演技も無理してダミ声をあげたりして、三船をじゅうぶん意識しまくったものに見えた。
 しかしだ。
 船越は赤ひげを演じるだけの人生の積み重ねを、すでに備えているように私には思えた。 まあ離婚騒動中の奥さんの影響が大きい(ハハ)。
 だいたい赤ひげという人物は、ダミ声をあげないと影響力を行使できないのだと思う(笑)。 幕府の予算削減に対抗するための強面であらねばならないし、そもそも保本の蘭学ノートをひったくって読み漁るくらいの知識量だから(笑)。

 じゃあそれだけの人間か、というとそうではない。
 赤ひげの存在意義は、医療に対する問題意識の高さに依拠している。 だから蘭学の最新知識が必要なのであって、下らない自我に拘泥されているひよっこの医師など、問題意識に目覚めなければどうでもいい、と思っているのだ。

 だから赤ひげは、保本がどんなに不貞腐れようがほっぽっている。 ただこのような、悲惨な診療所の実態をあるがままに見せている。 それでなにも感じなければ、それまでのことだ。

 第1回においてその本質は、見事に描写されていた。 脚本は 「アットホーム・ダッド」 や 「梅ちゃん先生」 の尾崎将也。 HPによれば、彼はこの原作を若い頃からかなり読みこんでいたらしい。 その思い入れによって書かれた今回のドラマは、通り一遍の安っぽさなどとは無縁だ。 それがうれしい。

 ただひとつ不満があったとすれば、狂女の凄味が黒澤映画に比べれば見劣りしたことくらいか。 遠い記憶で美化がされている可能性もあるが、黒澤映画において香川京子のそれは、ホラー映画も真っ青な怖さだった。

 ともあれこのドラマが、BSだけで放送されるのはもったいない。 総合テレビで 「アシガール」 のあとにでもやったらいいのに。

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2017年10月28日 (土)

「刑事ゆがみ」 やりゃできるのに、どうしてちゃんとやらないんだ、フジテレビは

 この秋ドラマで私がいちばん推したいのは、フジテレビ木曜夜10時のこのドラマだ。 浅野忠信と神木隆之介がバディを組んでいる刑事ドラマ。

 常日頃 「刑事ドラマがキライ」 と公言している私だが、これまで 「人が殺されるドラマというのは嫌だ」 という理由づけをしてきたが、実はある意味テレ朝のドラマを避けるための口実に過ぎなかった。 つーより、いったんドラマが始まるとシリーズ化するテレ朝の長縄跳びのなかに、ただ単に入れないだけの話なのだが。 「相棒」 なんて、いつまでやってんだよ。 水谷豊が 「熱中時代刑事編」 と同じ役だったらよかったのに(古すぎて若い人にはなんのことやら、だ)。

 このドラマの原作はビッグコミックオリジナル連載のマンガだ。 ドラマはこのマンガの世界観を半ば忠実に再現しながら、実写ならではの妙な空気感を作ることに成功している。
 その空気の醸成に最大寄与しているのは浅野と神木であることははっきりしている。 浅野は基本的に映画俳優、というのが一般的な認識だが、神木ももう長いこと、テレビドラマにも出ながら映画でも主役が張れる役者として歩んできた気がする。

 「映画俳優」 の強みというものはなんだろう。
 それは、2時間程度の話の中で、自分のキャラを一瞬で観客に理解させることが出来る能力、奥深さを備えている、という点だ。

 でも一瞬で理解できないキャラ、というのも確かに映画の中には出てくる。 だがしかし映画俳優は、そのキャラがいくら一瞬で理解しがたいキャラでも、「理解しがたい」 行動をワンシーンでたたみかけることによって、その人物の複雑さ、不条理性を見る側に理解させてしまうのだ。

 このドラマにおける浅野の役、「弓神適当(ゆがみゆきまさ)」 はまさにその名の通りテキトーで、捜査のためなら不法侵入なども平気で行ない、その結果始末書を書かされてばかりいる刑事だ。 しかもその捜査方法は、「真実に肉薄する」、という蛇のような執念さを伴っており、しかも 「うやむやにしておいていい真実もある」、という、杓子定規な執行人をも拒絶する、絶妙なバランス感覚の上に成り立っている人間性を兼ね備えている。 だが基本は、テキトーだ。 だから見ていて笑えるし、目が離せない。

 そして神木は若手のバディとして弓神についているが弓神の捜査の違法性についていけない。 神木はかつてないほど気が強い役を演じている気がするが、それはかつて同性の支持者たちに受け入れられていたような心の隙を、見る側に与えてはくれない。 その半人前的な強気を弄ぶことが出来るのは、弓神のような人生に精通した手練れしか、もはやいないのだ。

 そういう複雑な関係を、このドラマでは最初の数分で一瞬にして見る側に理解させてしまった。
 凋落著しいフジテレビのドラマが、なぜここまで高度な技を繰り出せることが出来たのだろう。
 役者の力と同時に考えうるのは、演出と脚本だ。 フジテレビの演出家なんかあまり気にも留めていなかったが、西谷弘という人は 「ガリレオ」 や 「任侠ヘルパー」 の演出もしていた人らしい。 道理で、という感じだ。 脚本は複数だが、そのなかのひとり倉光泰子という人は、実力がありながら去年は月9 「ラヴソング」 で苦汁をなめた、という印象がある。 「ちゃんとやれる」 スタッフが、揃っているようなのだ。

 さらに付け加えれば、このドラマはゲストの実力がすごい。

 第1話では杉咲花が真面目であるが故に気持ちが歪んでいく駅員の複雑な精神状態を見事に演じ切った。 この子は味の素のCMでぐっさんと一緒にホイコーローを大口開けて食いまくっていた頃から注目していたが(ウソ)、ひと昔前の蒼井優を凌駕するほどの若手に育ってきた気がする。

 第2話では水野美紀が 「男を知らないまま大人になった高校教師」、という、これまた複雑な精神表現が要求される役をそつなくこなし、ここから 「超オクテ社会の成熟」 という、「新手の」 社会問題まで見せつけた。

 第3話はまだ見てないが、これらのことから分かるのは、弓神が扱う事件の裏には、奥深い人間模様がきちんと描かれている、ということだ。 これはまあ、ビッグコミックオリジナルの原作、というだけのことはある。

 それにしても第2話で出てきた几帳面な下着ドロボー野郎(笑)斉藤工には笑った。 取り調べ中神木に向かって 「バーカ」「バーカ」 と連発するのだ(笑)。 斉藤は色男の役をするよりこういう過激なほうがずっと面白いと思うのだが。 こういう 「意外にハマっている驚き」 を演出できるのも、制作の腕、といえよう。

 フジテレビはこういうことをやろうとすりゃちゃんと出来るのに、遅れて始まった月9を見て 「なんでちゃんとやらないんだ」、という歯がゆさを感じることとなった。 レビューを書きかけているが、アップできるかどうかは未定。

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2017年10月21日 (土)

「監獄のお姫さま」 エンジンがかからない、暖まらない、しかし…

 宮藤官九郎脚本のプリズンものドラマ。 今や 「あまちゃん」 で大脚本家の仲間入りをし、再来年には大河ドラマで 「いのち」 以来となる現代モノしかもフィクションモノを手掛けようとする人の脚本であるがゆえに、いやがうえにも期待は高まる。
 しかも主演は小泉今日子。 そして朝ドラ連続出演していた菅野美穂、固定ファンの多い満島ひかり。 誘拐される大企業の社長に伊勢谷友介。 これが集まったらどうなるの?くらいの注目度だった。

 だった(笑)。

 第1回を見た印象を率直に申せば、ドラマの中で 「なかなかエンジンがかからないバン」 というのが出てきたが、あんな感じだった(笑)。 笑わそうとしている場面で、なんか滑った感じになるのだ。 いや、笑えることは笑える。 ただ 「あまちゃん」 の記憶でクドカンドラマを見ているために、しぜんとこちらのハードルが、高くなっているのだろう。

 いつものことなのだが宮藤サンが、「さぁ~、おもちゃ箱をひっくり返してやるぞ」 と気合を入れまくると、妙にギャグが空回りするような気がしてならない。 「うぬぼれ刑事」 や 「11人もいる!」 がそんな感じだった。 今回ものっけから 「サンジャポ」 の同じシーンを繰り返し流すのだが、爆笑問題の演技の下手さが目について(といちおう書くが、「それなりにきちんと演技してはいるものの、いつもと違うのがどうしても目についてしまう」 というのが正確なところだ)「サンジャポ」 というある程度の知名度を味方につけたゴージャス感の演出が伴わない結果となっている。 TブーSのブタ君の活かし方も滑っている感じ。 いや、どうせなら 「オールスター大感謝祭」 の現場を活用したりしたら、もっとゴージャスな滑り出しになったかもしれない(無理か)。

 この第1回の目的を考えた場合、「本格的な打ち明け話はとりあえずあとにして、この女性たちが(オバチャンたち、と言わないのがこのブログの良心だ…あ言っちゃった)社長を誘拐するまでのドタバタを描く」 ということだろうと思う。

 そう、この女たちは、綿密な計画を立てているクセに、かなり間抜けている。 それはこの女たちの 「悪に徹しきれない」 良心なのだ。

 ただ、これは 「ひよっこ」 最終回の項でも指摘したことだが、このギャグの滑り具合というのは、「女性どうしの会話というものに対する、男性脚本家の苦手度」 に関係しているのではないだろうか。
 宮藤サンは、「女たちを自分と同じメンタルで捉える」 ことでその不自然さを解消しようとしているように思える。 つまり、「女性たちのしゃべり言葉を必要以上にオトコレベルに口汚く」 しているように見える。 これは正直なところ、「口の悪い女子高生の会話」 の領域から出ていない気がする。 しかしジェンダーの壁が限りなく低くなっている現代では、かなり有効な手法であろう。

 ギャグが滑りがちなのはまだエンジンが暖まっていないことでいいとして、第1回目でいちばん感情移入できたのは、キョンキョンが自分の息子に会うシーンだった。

 そもそも伊勢谷社長誘拐のために組まれた女たちのチームは、要するに刑務所で知り合った4人の女囚(小泉、菅野、坂井真紀、森下愛子)と1人の看守(満島)という構成だ。 その彼女らが出所後ある冤罪を晴らすために伊勢谷社長を誘拐したのだが(そのためにまず伊勢谷社長の息子を誘拐する、という余計なことまでする間抜けぶりだが)、今回この誘拐をすることで、彼女たちはまた収監される可能性がとても高いのだ。
 しかも再犯だから、罪はもっと重くなるはずだ。

 おそらく小泉の息子は、小泉の初犯が原因でどこかに預けられている。 小泉は伊勢谷のエドミルク社が作るクリスマスケーキを持って(そのケーキを買ったのは、「ケーキを買えばイケメン人気社長の伊勢谷とハグできる」、という特典を利用して、伊勢谷社長にモノ申そうとしたためだが)その息子に会いに行く。
 小泉の息子は迷惑がりながらも、もういろんな事情は分かっているから、という成長ぶりだ。 小泉は、今度の社長誘拐で自分がまた収監されることを見越して、「今度は前よりももっと長く、会えなくなるかもしれないの」 と、こらえていた涙を流してしまう。
 踵を返す小泉。 振り返ると、自分があげたホールケーキを丸ごとほおばる息子がいる。 息子は母親からの土産を、家に持って帰るわけにいかないのだ。 男がホールケーキを食べるのは、かなりしんどい作業だ(笑)。 ここで息子の健気さが伝わる仕組みになっている。

 このシーンがあまりにもぐっときたので、「もしかすると宮藤サンは今回、ギャグで笑わすよりも真面目なシーンで人を泣かそうとしているのではないか」、と思ったほどだ。

 ひょっとするとその 「マジメ路線」 の矛先には、再来年の大河ドラマの重みがのしかかっているのではなかろうか、とまで考えた。 考えすぎか。

 来たる大河ドラマでオチャラケ通しなわけにもいかないから、宮藤サンはきっと重いテーマを追求しているはずだ。 その余波が、今回のキョンキョンと息子のシーンに波及しているのかもしれない。

 ふとそんなことを思ったのだった。

 「ギャグが滑っている」 とは書いたが、ドラマ自体が破綻しているわけではないことは明言しておかねばならない。 小泉は天性のカンでこの 「女どうし」 の難しいドラマの舵取りをしている気がするし、満島はやはり出てくれば演技に見入ってしまう。 さらに伊勢谷は自分の息子に対する情を前面に出しながらも、その隠されたワルモノぶりをどのように曝け出していくのか、興味が尽きないドラマであることは確かだ。 次回から始まる、「どうして彼女たちが今回の誘拐に至ったのか」、という 「長い打ち明け話」 も然りだ。

 そこでオマケに笑わせてくれる、その程度なら、ギャグの滑りも気にならない、ということであろうか。

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2017年10月15日 (日)

「コウノドリ 第2シーズン」 NHK朝ドラ出身者と、これから生きてゆく赤ん坊たち

 綾野剛がピアニストでもある産婦人科医を演じるドラマの第2シーズン。 2年ぶりの登場だ。
 第1シーズン(2015年)から共同脚本であったが、原作漫画が優れていたのが幸いしたのか内容の破綻がなく、命の尊さ、赤ん坊と向き合う親の姿勢などを丁寧に描いて、その数年前に同じ産婦人科を扱っていたドラマ 「ギネ」(2009年、藤原紀香主演、大石静脚本)よりも数段まさっていた記憶がある。 ただ 「ギネ」 の場合、主役の性格及び家庭とかにも多少の問題があって、院長にも愛人とか、救急車のたらいまわし問題とか、なにしろ手広くやり過ぎてどれもこれも中途半端に終わってしまった感じだった。 それに比べれば 「コウノドリ」 は、「主役の産婦人科医がジャズバーでピアノも弾いてるのかよ、そんなにヒマなの」 みたいなツッコミどころくらいで、きちんと医師と患者の関係性に焦点が絞られていたのがよかった。

 今回は冒頭からいきなり鴻鳥(こうのとり)サクラ(綾野)が離島でピアノを弾くところから始まり、離島であるがゆえの限られた条件下の出産に立ち会うことになる。 「あれ、ペルソナ辞めてコトー先生になっちゃったの?」 とこちらに軽くショックを与えるようなスタートの仕方だ。

 ここに絡んでくるのがドクターヘリなのであるが、当然かもしれないが前クールのドラマ 「コード・ブルー」 に出てきたのと同型機が登場する。 ドラマ好きをニヤリとさせる仕掛けだ。 さらにその離島でひとり頑張っている医師が、佐々木蔵之介。 オイ蔵之介、こないだまで洋食作ってたろと突っ込みたくなる(あ、念のために書くけど 「ひよっこ」 での話ね…笑)。

 コウノトリ先生がコトー先生になってしまったのか、という杞憂は 「1週間程度の休暇」 というオチだったが、ペルソナ総合医療センターに帰ってきた彼を待ち受けているのは、研修医を卒業した松岡茉優。 今回のシリーズではかなり主役に近い立ち位置に陣取っている印象だ。
 それに比べて第1シーズンでは比較的出番が多かった吉田羊の印象が、今回第1回目を見た限りでは薄かった。 院長の浅野和之なんか最後にチラ、ですよ、チラ(笑)。
 冷たい氷のような四宮先生を演じる星野源は、氷のうえに辛辣さが増している印象。 妊婦の夫を平気で脅しにかかる(笑)。

 ともあれ。

 ともに聴覚障害の夫婦(志田未来、泉澤祐希)の、「生まれてきた子供が健常者だったら、どうやって接していったらいいのか分からない」、という不安。 出産休暇を取ったことで仕事上の軋轢に心を乱される妊婦(高橋メアリージュン)。 どんな特殊なケースにおいても、その出産の場面というのは、限りなく感動的だ。 私たちは皆、母親の必死の激痛をくぐり抜けて、この世に飛び出してきたのだ。

 しかしそこに、コウノトリ先生の 「出産は奇跡だ。 だがそのあと、家族は現実と向き合い続けなければならない」 という言葉が、呪文のように繰り返される。 赤ちゃんを産んだはいいけど、どうやって経済的なことを乗り越えるのか、自分の仕事はどうなるのか、保育所には無事入れるのか、自分の時間は、自由はどうなってしまうのか。 いろんなことが肥大化しすぎて、育児に適した環境というのは必然的に狭い場所に押し込められ続けている。 それが少子化問題の最大の原因だが、このドラマは政治家の責任部分には一切言及しようとしない。 政治にはハナから期待してない、という態度の表れなのかもしれないが、期待されていない政治ってなんなのだ。

 それにしても。

 このドラマは第1シーズンの頃から、「やたらと朝ドラで知名度が上がった俳優が出てくるな」、という印象があった。 ざっと振り返ってみても、さきほどの松岡茉優(「あまちゃん」)、医療スタッフでも 「マッサン」 にキツイ事務員の役で出ていた江口のり子、個人的には星野源なども、「ゲゲゲの女房」 で知ったクチだった。
 さらに今回、聴覚障害の夫だった泉澤祐希も、「ひよっこ」 では三男を演じていた。 コウノドリ先生が手紙を見て物思いにふける 「芽見」 という差出人の姿もラストでちらっと見て、「はてどっかで見た顔だよなあ」、と調べてみたら、「ひよっこ」 のナバタメ(青天目)チャンを演じた松本穂香だった。 アラレちゃんメガネかけてないから分かりにくいが、なんか覚えていたオレって異常だ(ハハ…)。

 そのなかには以前から俳優をされていた人も多いのだ、と思うのだが、正直なところNHKの朝ドラで知名度が上がる、というのは、俳優としてのステップアップのパスポートをもらったようなものだ、と私には思える。
 そこから飛び立っていく、いわばひな鳥のようなものだ。
 それはこのドラマの中で、「生まれたあと現実と向き合っていく」 赤ん坊たちと、奇妙に符合する気がする。
 そのチャンスの前髪をいちばん上手にたぐり寄せていったのが、松岡茉優ということになろうか。 三男もナバタメチャンも、頑張るのだ。 応援してるぞ。 ヨネ子は出てこないかな~(笑)。

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2017年10月14日 (土)

「アシガール」 細かな設定とオーザッパな恋心(笑)

 ここ最近、NHK土曜午後6時からやっているドラマシリーズ。 時代劇が多いが、たまに 「悦ちゃん」 のような昭和レトロモノがあったりする。 感覚的には、NHKBSの時代劇スタッフ企画会議で次点になったような感じのものが多い。
 今回は戦国タイムスリップもの。
 こうなるとオッサンとしては、1970年代の平日同じ時間帯でやってた 「少年ドラマシリーズ」 を思い出す。 そのシリーズは、SFジュブナイルの映像化がとみに多かった。 もっとも早い 「時をかける少女」 の映像化も、このシリーズ。 NHKとタイムスリップものは、かなり歴史のある長い関係と言える。

 今回の設定としては、足が早いだけが取り柄の女子高生・速川唯(黒島結菜)が、天才肌引きこもりの弟の作ったタイムマシンを誤って起動させてしまい、戦国時代にタイムスリップしてしまう、というもの。
 第1回ではこの女子高生がかなり瞬時に事態を呑み込み、足軽の鎧を着たり昔風のしゃべり方をしたり、超人的な適応能力を発揮する。 まずオッサンにはこのことが驚きで、そーか、創作物でタイムスリップものにあふれた2017年という現在の女子高生は、こういうことは 「起こり得ないこと」 という認識はしないのだ、と思い知らされた。

 そして現代っ子のタイムスリップに関する知識が豊富すぎるせいか、唯はほとんど 「私はもう元の時代に戻れない」 という悲観的観測をしない。 しかしその考えに唯が至らないのは、「天才の弟が何とかしてくれる」 という単純な思い込み。 彼女がアホで筋肉脳であるという設定のほうに原因があるようだ(笑)。
 その楽観的観測は果たして当たり、満月の夜に唯は現代へと戻ってくる。 期間は満月から満月なのでほぼひと月に満たないのだが、現代に戻ってくるときは、タイムスリップしてから正味3分後らしい。 また戻ってこれるかどうかわからないのに、唯は再び戦国時代へと赴く(弟のことを心底信じているらしい)。

 唯が迷い込んだ戦国時代は永禄2年(1559年)。 ただしここに出てくる戦国大名たちはすべて架空だ。
 だが架空だからとて、意外なことに設定はそんなにいい加減ではない。 まあ詳細は忘れたけど(笑)羽木氏を高山氏が攻めてくる、そして史実的には攻め滅ぼしてしまう、という成り行きらしい。
 いったん現代に戻った唯は、羽木氏が滅亡する、ということを知って、愕然となる。 なぜなら1回目のタイムスリップで、唯は羽木氏の嫡男で後継である羽木忠清に、一目惚れしてしまったからだ。

 この忠清を演じる健太郎。 途中まで大東俊介だと思い込んで見ていた(だって似てるんだもん)。 しかし大東俊介にしては、なんか若いんだけどみたいな。

 それはどーでもいいとして、彼女はなんとかしてその忠清を助けようとするのだが、そのことを知った唯の弟は 「そんなことをしたら歴史が変わってしまう」 と大反対。
 これに対する唯の言い分がすごい。 「あんたは引きこもりだから××(セリフ忘れた…笑)」。
 フツー言うか? 引きこもりに(笑)。 引きこもりというのは、デリケートな精神の持ち主なのだ(笑)。
 しかしそれは、唯がバカである、ということで許してもらって(笑)、重要なのはこの唯の、忠清に対する恋心が、とてつもなくバカであること、あ、いや、猪突猛進タイプの剛球一直線であることだ。

 ドラマの中核を占める 「唯の恋心」 が、こういうかなり単純構造なのに対して、唯のまわりの設定がかなり細かい、という印象を強く受ける、このドラマ。
 なかでも唯が自らの身分を詐称した足軽 「唯之助」 の母親である、ともさかりえ演じる吉乃の存在がとても謎に満ちているのが、ドラマの大きなスパイスになっている。
 彼女は唯を見て自分の息子でないことにすぐに気付きながら、まわりへの体面上、そしてばれたら唯の身が危ないことを一瞬で判断して、唯を自分の子として連れ帰る。
 さらに、いったん現代に戻った唯が 「戦国時代の母親のため、弟たちのため」 と持ってきた白米を、「これで村のみんなとは秘密保持の一蓮托生になるから」 と、村のみんなに分け与えたりするのだ。 タダ者ではない。

 それにしても体を洗って小ざっぱりとして戦国時代に戻ってきた唯に、弟たちが 「ミカンの匂いがする」「あ、柑橘系のシャンプー使ったから」 というやりとりには笑った。

 主役の黒川結菜は沖縄県出身で、その顔の浅黒さの質感は若き日の薬師丸ひろ子を彷彿とさせる(顔は似てないが)。 オッサンとしては、懐かしい感じのする質感だ。
 冒頭に話が出た 「時をかける少女」 のクロニクルのなかでもっとも直近に(なおちかじゃないよ)挙げられるのが、彼女の主演版(私はリタイアしたけど)。 今回は若さバクハツの一途なほどの筋肉脳演技、一見に値する。

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2017年10月13日 (金)

「奥様は、取り扱い注意」 綾瀬はるかは、どこに向かっているのか

 NHK大河 「八重の桜」(2013年)で 「会津のジャンヌ・ダルク」 を演じて以来、綾瀬はるかのドラマには 「アクション」 がつきまとっている気がする。 ただ 「精霊の守り人」 の印象が強いだけの話であるが、個人的に彼女は 「きょうは会社休みます。」(2014年)のような、おっとりとした役が似合っているように思う。

 そんな彼女がヘンな角度から最近注目されたのは、ノーベル文学賞をもらったカズオ・イシグロ氏の原作によるドラマ、「わたしを離さないで」 の主役を去年(2016年)TBSで演じていたことが原因だった。 ほかのテレビ局がカズオ・イシグロ氏のことなんかほとんど覚えていなさそうな日本人の関係者にトンチンカンなインタビューをしていたのに対して、TBSだけが自局の先見性を誇らしくアピールしてたっけ。

 大河ドラマ出演以降、彼女は(事務所の意向かもしれないが)かなり出演する作品を選んでいるように思う(大河以前の彼女のドラマは 「白夜行」 も 「ホタルノヒカリ」 も 「セカチュー」 も見てない私が言うのもなんだが)。
 「わたしを離さないで」 も彼女の愛読書であった、と聞く。
 この作品は閉鎖された環境の中で人間がどのような行動を取るか、という、かなり分かりにくいテーマを秘めた問題作だった。
 ふつうこの手の、いわば現実離れした設定で視聴者に深い思索を求めてくる 「難解なドラマ」 というのは敬遠されがちだ。 よって視聴率もあまりパッとしなかった(いや、惨敗の域か)。

 私はこのドラマを最後まで見ていたのだが、主人公の綾瀬はるかに意地悪をし、同時に強く依存していた相手役の水川あさみのほうが、この 「不条理ドラマ」 のなかで生き生きと泳いでいたような印象がある。 かえって役柄上でもなにを考えているのか今イチ分かりにくかった主人公の綾瀬はるかを見ながら、彼女はこれから自分がどういう女優でありたいのかを手探りしているのかな、という余計なことを考えていた。
 彼女はアイドル然としていた20代の自分から脱皮して、もっと文学的な、高い精神性を目的としたドラマの女優になろうとしているのではないか。

 ところが同時に、綾瀬はるかは 「LIFE!人生に捧げるコント」 でドジョウすくいみたいなあられもない恰好をしながら、彼女の持ち味である 「ボケ」 全開のコントをしたりする。 これはおよそ文芸作品に出ようとするような女優の所業ではない。 いったい彼女のやりたいこととは何なのだ?!(笑)

 いや、先にも示したように、綾瀬はるかの進むべき道というのは、「きょうは会社休みます。」 のような、「おっとりしつつもかなり状況分析、自己分析に優れたモノローグによって展開し、視聴者の共感を得ていくドラマ」 なのではないか、と私は感じる。
 けれども彼女が考えるのは、「精霊の守り人」 のような 「アクションもできる幅の広いレンジの女優」 らしい。 その方向性が、今回の 「奥様は、取り扱い注意」 にも色濃く反映されている。 同時に 「内容を深いものにしたい」、という方向性もこのドラマからは強く感じる。 それが、このドラマのベクトルが二分化されているような印象につながっている。

 このドラマの設定は、秘密工作員であった主人公が 「普通の結婚生活を送りたい!」 と願ってIT企業の経営者である西島秀俊と結婚するが、普通の主婦という仮の姿を演じながら、ご近所で起こるDVとか恐喝などの被害を受けている女性たちを助ける、というもの。 綾瀬と西島と言えば 「八重の桜」 で兄妹どうしだったが、なんかやっぱりこのふたりが夫婦というのは…(笑)。 アブナイ匂いが…(笑)。

 それはそうと、ご近所問題解決ドラマということなら、水戸黄門的な、スカッと解決単純明快勧善懲悪ものを期待したいところだが、どうもこのドラマ、展開が少々まどろっこしい。 お仲間の主婦ふたり、広末涼子と本田翼が(特にヒロスエ)話に深遠さを与えようとするのだ、時々。 それが話のスピード感を相殺している。 この三人の掛け合いがもっと鋭いと、話に勢いが生まれる気がする。

 そしてこのドラマがワルモノ退治で今イチスカッと解決に至らないように見えるのは、それは 「昨今のネットによるバッシングのほうがよほど過激だから」、という点に原因がある気がしている。

 これは直近の例であるが(なおちかじゃないよ)、この6月に起きた東名高速で追い越し車線に車を強制的に停めさせて後続のトラック追突で夫婦ふたりを死に至らしめたバカッタレに対する、世間の厳しい目だ。

 この事件が犯人に対する憎悪を煽っているのは、その状況的なことは当然として、それを警察が 「過失運転なんとかかんとか」 という 「なんか軽そうな罪状」 でしか取り扱っていないことにあったりする。 またバカッタレの同乗者の女性に対する非も問題視されていないことにあったりする。

 こういう理不尽が罷り通ると、ネットではどうなるか。

 「死刑は当然」 と言い出すのはほんの序の口で、自らの義憤を吐き出そうと過激な意見を掲示板に書き込む人が続出するのだ。
 ひとりひとりの意見は、それは小さいものだ。
 だがそれが何万と集まると、それは巨大なうねりとなる。

 それについての是々非々はここでは論じないが、私などはこういうネットの過激すぎる鬱憤晴らしに少々慣れ過ぎてしまったのではないか、と感じるのだ。 だから綾瀬はるかがいくらスカッとワルモノ退治しても、「なんか物足りない」、などと思ってしまったりするのではないか(なんだ、これって自分の問題ではないか)。

 第2話では、昔AVに出ていた主婦が 「ばらされたくなければ1000万出せ」 と嫌がらせを受けるのだが、それに対して町内会が開かれ、大勢が 「人に言えない仕事を昔やってたアンタがこの町を出てけば」 という雰囲気になる。
 しかしネットによる 「義憤の連鎖」 が常態化している今日では、こうした身勝手な考え方というのは、却って排除されるのではないか。
 つまり、「町内会の論調おかしいでしょ、AV女優って、別に悪いことをやってたわけじゃないじゃん、職業差別でしょ」 というコンセンサスが容易に構築されるはずだ。 その点でこの展開は、あまりリアルではない。

 リアルではない設定のドラマの中で、何をリアルに見せていくか、というのは問題だ。 綾瀬はるかも作り手も、そんななかであえいでいるような気がしている。

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2017年10月 8日 (日)

「わろてんか」 と 「トットちゃん!」 開始1週間を見て

 今年4月から始まった、NHKとテレビ朝日の 「連ドラ対決」。 1週間分をまとめて見ると両方とも1時間を超えるため、ドラマウォッチャーとしてはかなりしんどい、と以前に書いた。
 で、この10月から始まった第2ラウンド。 1週間で判断するのはかなり時期尚早とも思えるが、もしかすると片方は脱落するかもしれない。 そうなると楽なのだが(笑)。

 まずNHKの朝ドラ 「わろてんか」。 大阪放送局のドラマだが、大阪制作の朝ドラを(ほぼ)ここ数年見てきた私が思うのは、「東京制作の朝ドラに比べて気合が入ってる、野心作が多い、生真面目な作りが多い」。
 大阪制作のものに比べると東京制作の朝ドラは 「日本の朝に元気と安心を提供する」 みたいな、肩の凝らないものが多い気がする。 大阪制作のものは、ともすれば芸術祭に出品するような意気込みを感じることがよくある。

 だからかもしれないが、大阪制作の朝ドラで笑いがドッカンドッカン、というのはあまり記憶にない。 笑いの本場である関西圏のドラマとしては意外な感じだ。

 だが、今回のヒロインのモデルは、かの吉本興業の創業者。 朝ドラでは過去、「心はいつもラムネ色」(1984年)で同じ吉本の文芸部長がモデルになったときもあったが、今回は創業者。 ついに奥の手が出てきたか、という感じ。 そして物語のスタートは、明治の後期。 100年以上前のドラマゆうたら衣装もセットも予算使いまくり必至で、さらに気合入りまくりの大阪局の青筋が見えるというものだ。
 さらに注目に値するのはキャスティングで、開始1週間だけだが主人公てんの少女時代を演じたのは、「おんな城主 直虎」 で直虎の少女時代を演じた新井美羽。 てんの父に遠藤憲一、母に鈴木保奈美、祖母が竹下景子でそのほか、松坂桃李や濱田岳、さらに近作 「おんな城主 直虎」 での壮絶な最期も記憶に新しい高橋一生が控えている。 個人的であるが見たい役者が揃っている。 ちなみに主人公のてんを演じる葵わかなは、前回大阪制作の 「べっぴんさん」(あまり思い出したくない…笑)のヒロイン芳根京子とは、「表参道高校合唱部!」 つながりだ(転校前の高校で親友同士、という役柄)。

 しかし。

 ヒロインの本丸がほぼ出てこない開始1週間を見て早すぎる感想を申し上げれば、「ドラマの体裁としてちょっと」。

 ちょっととは何なのか。

 まず主人公のてんは 「ゲラてん」 と呼ばれるほどの笑い上戸、らしいのだが、そもそもそんなにゲラゲラ笑ってないんじゃないの、というか。
 第1回目でそのゲラが祟ってドイツ人のゲストを激怒させてしまうのだが、そこに至る演出の仕方もまた見る側を納得させるに足る説得力に欠けている。 このシーンのどこが面白いのか、というと、ドイツ人の頭にチョウチョが2匹、リボンのように止まってしまうのをてんが笑いをこらえられなくなって粗相をしてしまう、という部分。 チョウチョがCGだということに見る側の注意が行ってしまうのは仕方ない。 しかし、そこに至るてんの 「笑いをこらえる」 という見せ方や、粗相でどうしてドイツ人の持ってきた薬の瓶が倒れちゃうのかとか、かなり演出が雑なのだ。
 その結果、見る側には 「あ~あ、この娘、笑ってしまってこうなるんだろうな~」 という予測がついてしまい、笑えなくなる。 ここの演出には、「笑いをこらえる」 という見せ方に工夫をする必要が、どうしてもあるのだ。

 そのほか、演出のせいであるのか脚本のせいであるのか判然としないが(たぶん両方だろう)、笑わそうとしている場面でこのドラマ、笑えないことがとても多い。 「わろてんか」 と題名で煽ってるのだから、笑わせてくれないと困る(笑)。 いや、第1週目のサブタイトルは 「わろてんか」 なのに 「笑ろたらアカン」。 「笑ろたらアカン」 で 「笑えない」 ていうんじゃ、なんかホントに笑えないぞ。

 さてその粗相のせいでてんは父親から 「笑ろたらアカン」 という罰を与えられるのであるが(まあこれが、第1週サブタイトルのゆえんだ)、この罰の適用範囲が極めて曖昧なのも見ていてモヤモヤする一因だ。
 いつダメなのか、常にダメなのか。
 父親の前でだけダメなのか、それとも誰の前でもダメなのか。
 それが分からないから、第1週のラストで父親から 「笑ってよし」、という制裁解除(どこぞの国みたいだな)を受けても、あまり問題解決の爽快感に至らない。 罰の適用範囲が曖昧なことで物語の展開に必然性がなくなり、メリハリがつかないのだ。

 さらに気になったのは、てんがまだ幼女段階なのに相手役の松坂が、この週から登板していること(松坂大輔ではない、って当たり前か)。

 この週の脚本での松坂の役どころを考えた場合、彼はまだ少年時代でいなければならないと強く感じる。 しかしNHKは松坂を第1週から出演させた。
 これは邪推の域に入るが、NHKは最近特に、視聴率を気にしたようなキャスティングが目立つ。 それは 「イケメン枠」 と呼ばれる枠に顕著で、「イケメンが常時出てないと視聴率が悪くなる」、という呪縛にかかっているかのようだ。 そのイケメンを、やたらとハダカにさせたがるし。

 松坂の役どころは旅役者一座のいちばん下っ端らしく、てんの前で文字通り見得を切って 「自分は日本一の旅役者」 と見栄を張るのだが、それがウソだと早々にバレてしまう。
 そのバレるきっかけである 「自分の出番を間違えた」、というくだりであるが、見たところ赤穂浪士の義士についてのコントをやっててその 「義士」 を 「猪(シシ)」 と間違えた、別の舞台でのイノシシ役である松坂が出番を間違え、舞台に 「ブキキキキーッ」 と飛び出してしまう、というからくり。 それを見た観客が、「何やってんだすっ込めバカヤロー」、と怒り出してしまう、という展開なのだが、この展開の仕方にも大きな疑問符がつく。

 つまり観客はこういうハプニングを、本来なら笑ってしまうのではないか、という点においてだ。 観客は笑いたくてこの場に集っているのだろう。
 私は見てて笑ってしまったのだが、怒り出す観客を見て、「どうして怒るの?」 と思ってしまった。

 これは脚本の見立ての悪さに起因している。 もし観客が怒り出すのだ、とすれば、その必然性をドラマは描かなければならない。 ハプニングを笑う、というのは私の勝手な考察だと 「オレたちひょうきん族」 あたりから派生した比較的新しい部類の笑いに入る。 でもコント55号でも欽ちゃんのエキセントリックなツッコミに二郎サンがアタフタするのもいわばハプニング的な笑いの走りだったし、「ハプニングを笑う」、という気風が大衆に昔からなかったわけではない、と私は思うのだ。

 そしてその失敗で落ち込んでしまう松坂。 松坂の歳でこういう初歩的なミスを犯すって、旅芸人として生きていくには既に遅すぎる、と私は思う。 少年時代の子役を、面倒でもひとりあてがうべきだった、と感じる。
 しかも相手のてんは、まだ子役なのだ。 「あさが来た」 の玉木宏もそうだったが、主人公の女の子がまだ子役なのに相手役が大人で出てきてしまうと、どうしてもアンバランスを感じてしまう。

 そのほか、てんの父親が酒に依存してしまいそうになっていたのを解消するために家じゅうの酒を全部ドボドボ捨ててしまうところとか、「どうしてそうなってしまうんだ」、という話の展開がとても多かった。 こうなるともう、明治時代のセット力とかキャスティングの魅力などはすっかり消え失せて、ただただ残念なドラマになってしまう危険性がとても高い今回の作品だ、ということは強く感じる。 だからてんが子役だったこの1週間で、時期尚早な結論が早くも見え始めた気がするのだ。
 だが物語の本番はこれからであり、てんがどのように吉本興業を立ち上げていくのか、ということに興味は尽きない。 ドラマ自体が体裁悪くとも、見てしまう危険性(笑)はある。

 それに比べて、テレ朝の 「トットちゃん!」。

 脚本はNHK朝ドラでも何作か手掛けたことのある大石静。 やはりドラマの組み立て方がうまい、と感じる。 ちょっと現実離れした話でも、必然性を必ず用意して、見る側を納得させてしまうのだ。

 こちらのドラマも前作 「やすらぎの郷」 に続いてキャスティングにお金をかけている印象が強い。 さらに第1週ではオーケストラやコーラスなど、エキストラもかなりの数。 セットだって昭和初期だからそれなりにお金をかけているだろう。 ただし全景的なセットはミニチュアでコストカットしているようだが、作りがいいので気にならない。

 ここで原案者黒柳徹子サンの父親を演じるのは山本耕史。 山本は現在NHKで植木等を演じているが、黒柳サンの父親のほうがよほどしっくりしている。 彼の凄いところは、いくらNHKのキャスティングミスで植木等を演じることになろうとも、きちっと植木等になりきろうという努力が垣間見えるところだ。
 ただ今回の役どころのような、少々常軌を逸したような生真面目で厳しい男を演じると、その魅力は最大限にまで膨らむ。 土方歳三がいい例だった。

 さらに黒柳サンの母親、朝(ちょう、チョッちゃん)を演じる松下奈緒。
 彼女は 「ゲゲゲの女房」 のときもそうだったが、極めて連ドラに向いている女優なのではないだろうか。 彼女は週イチのドラマに出てるとあまり魅力を感じないのだが(失礼)、毎日レベルで顔を突き合わせた場合、心理的な葛藤であるとか頑張りであるとか、セリフがなくともその大きな眼で訴える情報量が非常に多いことに気付く。
 そのうえに彼女は、自分を前面に出そうとする現代の女性より、活動的でもどこかにつつましさを有している昔の女性のほうが魅力を引き出せる、という強みがある。
 今回脚本の大石静は、そこに彼女の特徴である、「やたらデカイ」 ということも必須事項として脚本に盛り込んでいる、そんな気がする。 実際のチョッちゃんが大きかったという情報は私にはないが、背が大きいことを脚本に盛り込めば、松下が 「コンプレックスのある人間」 として視聴者の共感を得やすくなることを、大石は本能で知っているのだ。

 大石はのちに芸能界に出てゆくことになる黒柳徹子というパーソナリティの原点に、「厳格」 を絵にかいたような朝の北海道の実家を描くことで、物語のダイナミクスを浮かび上がらせることに成功した。 蛇足だが、朝の北海道の実家で黒柳サンの祖父である佐藤B作の妻に、NHK朝ドラでその昔、「チョッちゃん」 を演じた古村比呂を起用する、というリスペクトもテレ朝は忘れない。
 自分の娘を取り戻しに来た佐藤B作に対し、ふたりの愛の巣である乃木坂倶楽部の住人である高岡早紀は、芸術家たちの住む 「こちらの世界」 と、佐藤のような昔堅気の古い価値観に凝り固まった 「そちらの世界」 に住む住人たちとの区別を声高らかに宣言する。
 このドラマの思想的な原点をここに設定した大石の力量には、脱帽する。

 「こちらの世界」 と 「そちらの世界」 の境界線をしっかりと引いたからこそ、山本が佐藤の横暴な行為にもちっとも取り合わない、という反応の仕方をするのも理解が出来るし、山本が松下を軟禁状態にしてしまう、ということも松下がベランダを乗り越えようとしてしまうのも、普通ではあり得ないことが見る側に受け入れられていく。

 これが 「わろてんか」 と 「トットちゃん!」 の差であろう。 脚本家の力量が、違いすぎるのだ。

 かなりキツイことを書いたので、関係者各位にはここであらかじめ謝ります。 「わろてんか」 の今後には、期待します(と言いつつリタイアをどこかで期待している自分であった)。

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2017年10月 1日 (日)

「ひよっこ」 最終回まで見て

 向島電機の倒産から、赤坂のすずふり亭で働くようになった有村架純演じる谷田部みね子。 状況的にはこれが最終回まで続くのだが、そこで展開していった物語というのはここしばらくの朝ドラではあまり見られなかった 「女性の社会進出を後押しするような、壮大な夢を持つわけでもなく、大きな事業を手掛けることもない、普通の女の子の物語」 だったように思う。
 もちろんドラマであるから、突飛な出来事は発生はしたのだが。

 みね子が東京で暮らすことになったアパートの住人達は、同じ岡田惠和氏脚本の朝ドラ 「ちゅらさん」 のとき以上に個性的だったし、個々の住人との垣根というのはやはり 「ちゅらさん」 のとき以上に低かった。 アパートものとしては、高橋留美子氏の 「めぞん一刻」 並みに低い感覚。
 「めぞん一刻」 は時代的には 「ちゅらさん」 に近い1980年代のマンガであるが、主人公のビンボー学生の経済状態から住む場所がボロアパートに限定されたわけだ。 経済状態と個人の垣根の高低は比例する。 じっさい 「ひよっこ」 と同じ1960年代後半をアパートみたいなところで過ごした私の感覚でも、かなり隣人同士の垣根が低かったように記憶している。 洗面所やトイレなど、生活空間が重なり合うと、否が応でも垣根は低くなるものだ。

 そのなかでみね子は 「ひよっこ」 のまま仕事を覚え、知り合いを増やし、恋愛をし、失恋をしていく普通の人生を歩んでいく。 
 だが、そこでただ一点彼女が背負っている 「特殊な状況」 が、「父親の失踪」、ということになる。 ドラマはこの父親の失踪に、「売れっ子女優」 という 「あり得ない話」 を絡めてきた。 記憶をなくした父親を匿ったのが、すずふり亭に食事をしに来たこともある有名女優だった、というのだ。 これまで堅実に推移してきた物語にとっては、突飛な展開だ。

 ただ岡田氏を擁護すれば、「あり得ない」 とはいえ、「有名人が普通の市井の人々の話に割り込んでくる」、というケースというのは、昔々のドラマではよく見かけたパターンだったような気がする。

 昔見たそれらのドラマでは、そうしたエピソードというのはもちろんメインではなく挿話的にシリーズ中1回くらいはあった気がするが、そこではたいがい 「そのドラマの主人公たちは、自分の知り合った有名人の大変さを目の当たりにして自らの普通であることに安堵し、有名人たちは普通の生活というものにあこがれながら元の世界に戻っていく」、という話が盛り込まれていた。 要するに 「キラキラしているように見える芸能界よりも、自分たちの塗炭にまみれた普通の人生のほうがよほど価値あるものだ」、ということが言いたいがためにこのようなエピソードが挿入されていたと思うのだが、「私たちの普通の生活の中に、突如として有名人が仲間入りし、有名人と知り合いになる」、という 「夢」 を見させてくれる回だったようにも思う。

 「ひよっこ」 はその 「昔々のドラマ」 の 「ユルさ」 というものを大っぴらに仕掛けてきた。 しかもその 「有名人」 というのが、「ひよっこ」 の直前までやってた 「べっぴんさん」 に出演して、おまけにナレーションまで担当していた菅野美穂。 「朝ドラに2回連続して出演、しかも両方ともチョイ役でなし」 というのは、私も朝ドラに精通しているわけではないけれど、非常に稀なケースと言えたのではなかろうか。

 こういう 「あり得へん」 設定というのがある種の視聴者たちの気に障る部分であった可能性はある。 なにしろこのドラマ、前述したようにみね子が最初の恋愛をして失恋していくまではとても丁寧な作りであったのに、菅野美穂演じる川本世津子が出てきたときから急速に現実離れした話に突入していった感があるのだ。 岡田氏はそこのところのトリッキーさを、わざわざ今回ナレーションの増田明美サンとかに事前予告させたり、すずふり亭を某テレビ局に程近い赤坂という場所に設定したりと、いろいろ不自然さをなくそうと努力していたように思うのだが、「記憶喪失になったみね子の父を匿っていた」、という状況設定の突飛さが、それまでの丁寧なストーリーに大きな動揺をもたらした感があることは否めない。

 さらに作り手は、川本世津子に金銭トラブルを発生させ、それを案じたみね子をして、マスコミ記者ひしめく川本世津子の自宅から彼女を脱出させる、という突飛な行動に駆り立てた。 ここらへんの描写は、岡田脚本によくある 「人の良さ」 が前面に出た感じだったが、朝ドラヒロインがこういう 「あり得ないお節介」 を焼くととても憤慨する人たちが、朝ドラ視聴者のなかには確実に存在する。

 実は今回、岡田氏はそういう 「朝ドラの舅小姑みたいなうるさがた」 に、あえて挑発をするようなことをドラマ上でよくしていたように思える部分がある。
 例えば 「盗み聞き」 をしていた登場人物に対してナレーションの増田さんに 「出た、朝ドラによくある盗み聞き」 と言わせたり、主人公の話よりも脇役の話にばかり時間が割かれると、みね子と同じアパートの住人で、みね子のことをマンガにしているマンガ家に 「なんか最近話題がなくてパッとしない」 と言わしめたり。 これは某ヤフー感想欄で朝ドラ批判によく使われる内容なのだ。
 さらに物語終盤になって、セリフだけで身の上話だの相談事だのを済ませてしまう 「井戸端会議」 を頻発。 これも挑発のひとつではないか、と疑われる。

 私はラジオで岡田氏が 「女の子ばかりの会話」 を苦手にしている、と聞いていたからかもしれないが、「女だけの会議」 が開かれると、いつもなんかどことなくやりにくそうな岡田氏の顔が目に浮かんで仕方なかった。 これは向島電機の乙女寮の会話でも感じていたのだが。

 さらに菅野美穂の参戦で思わぬ共演となった乙女寮の舎監、永井愛子を演じる和久井映見。
 どうもこのふたり、女優としての守備範囲が似通っている気がするのだ。 民放ではそういうパターンは頻繁に見かけるしライバル意識を高めてわざと火花を散らせるみたいな演出家の意図も感じるのだが、NHK朝ドラで同じカラーの女優がふたり同時にヒロインと同じような距離感で位置してるのってあまり見た覚えがない。 なんか見ていてヘンな緊張感を強いられたような気がする(考えすぎなのは百も承知だが)。

 さて、川本世津子救出劇にしてもそうだが、後半に入ってみね子の 「ありえないお節介」 というのは格段に増えていく。 某感想欄で 「後半に入って失速」 という批判が向ける矛先というのも、この部分が多いように感じる。
 これは私なりに考えたことであるが、そもそもこの物語というのは 「女性の変化の黎明期」 をテーマにしていたのではなかろうか、ということだ。
 つまり、物語中盤でビートルズの来日に絡む女の子たちの 「行動の変化」 をまず取り上げ、ついでミニスカートの女王ツイッギーに関するエピソードを絡めて女性たちのファッション、つまり 「外見の変化」 を取り上げた。 みね子の親友助川時子はツイッギーコンテストで 「女の子たち、私についてきて!」 といみじくも叫ぶのだが、実はみね子の 「積極性」 というのは、ドラマ中盤のこの時期に生まれていった意識である、と考えられる。 「世のなかの女性たちが変わっていくのだから、私も変わらなければ」、というわけだ。 川本世津子の救出は、彼女なりに考えた 「自らの殻を破る行為」 であったことは自明だ。
 変わろうとする第一歩であるから、稚拙であったり無謀であったりすることは、仕方のないことだ。 そう考えられないだろうか。

 ちなみにビートルズ来日の部分であるが、チケットを手に入れるためにライオンの歯磨き粉を何個も買ったり来日当日は前日まで台風だったり、羽田空港でファンは中まで入れなかったり、自称ビーフェチの私からしてもかなり正確な描写だった。 称賛に値する。
 唯一ライオンの歯磨きチューブが金属製(要するに現在の油絵や水彩のチューブと同じ)ではなかった(みたいだった)のがリアルではなかった、というか(笑)。 歯磨きチューブが現在の材質になったのは、私の記憶が確かならばこれは昭和48、9年あたり、ホワイト&ホワイトが最初。 ラミネートチューブと言っていた。

 そしてこのドラマの底辺にいつも流れていたのは、「戦後20年に未だくすぶっていた残滓」 である。
 みね子の叔父はあの歳でビートルズ好きで非常にオチャラケたお調子者だったのが、眠ると戦場で死にそうになった夢にうなされる。 目の前でイギリス兵と鉢合わせしたからこそ感じた、「こいつらも同じ、血の通った人間なんだ」、という感覚。 それが彼を、ビートルズへと向かわせる。 笑って生きてゆこう、という 「不幸の否定」 へと走らせる。
 永井愛子の恋人も、銃後の妻覚悟の求婚を頑迷に拒絶し、愛子が幸せならば自分は満足、と寂しい表情を作りながら戦場へと旅立ち、死んでゆく(これはセリフだけの説明だったが、最終週での和久井のこの演技には泣かされた)。 愛子はそれをずっと引きずっていたから、すずふり亭のシェフに憧れだけを持っていた。 向島電機の倒産でもそうだったが、常に不幸に見舞われ不器用な生き方しかできなかった愛子であったが、いつも明るかった。 明るく生きることは死んだ恋人の願いでもあったのだ。

 その 「戦争の残滓」 というものは、今はほとんど消えかけている。 「あの痛みを忘れてしまう」、ということがどういうことなのか。 それは未来のこの国のあり方だけが、教えてくれることだ。 そしてその未来の原因となるのが、つねに今、なのだ。

 このドラマが実の失踪をほぼ起点としていたからこそ、実の回復についてはもっとじっくり描写してもよかったような気もする。 けれどもその思いは、実が記憶を回復しないまま、「同じプロポーズの言葉を妻の美代子に言う」、という解決の仕方で、個人的にはほぼ収まった(泣けた)。 だから最終話の 「すずふり亭に預けていた谷田部家の重箱のことを実が思い出す」、というエピソードは、感動とは言えないまでも、半年間見てきた私の心に、温かいものをほのかに残してくれたような気がしている。

 そしてこのドラマの主人公を演じた有村架純。 なんとなくおっとりした彼女だったからこそ、ドラマが全体的にまったりと気持ちよく進行していたように感じる。 タヌキ顔のなせるわざか(笑)。
 最終週の元ネタ 「家族そろって歌合戦」。
 スタジオ録りだったりてんやわんやサン司会ではなかったり(そりゃそうだが)かなり雰囲気は違ったが、タヌキさんチームとか見ながら、対抗するふたつのチームの札が同時に上がって行って、片方が落っこちる、という場面を久々に思い出した。 BGMも。 思えば審査員の高木東六サンとか、笠置シヅ子サンとか、この番組で知ったようなものだった。

 この物語の題名が 「ひよっこ」 である以上、「みね子が仕事を覚えちゃった時点でもはやひよっこではないのでは」、と感じたときもあった。
 けれども人生、新たな局面に出会うごとに、人は皆ひよっこなのだ。

 ただある意味においては、最終週でみね子がヒデからの求婚を受け入れた時点で親から完全に巣立ち、「ひよっこ」 としての資格を失った、とも言えないだろうか。 同じ時期に実から 「もう実家に仕送りしなくていい」、と言われたことも関係しているような気がする。 別の所帯として独立して生きていくことが、「ひよっこ」 からの卒業。
 同時に先に述べたように、「人生いつまでもひよっこ」、と考えるとき、このドラマの続編の可能性もにわかに浮かび上がってくる、そんな気がする。

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「ひよっこ」 愚痴や恨みのない世界(開始1ヶ月の感想)再構成のうえ再掲

おことわり この記事は最初、去る5月4日にアップしたものですが、諸事情によって一時期引っ込めました。 今回、「ひよっこ」 の新たな記事を書くにあたって、問題となった部分を削除し、新たにアップしてこのドラマの開始1カ月後に自分がこのドラマについてどう考えていたかをお知らせしたいと思います。 なお、頂いたコメントもそのときのままです。 どうぞご了承ください。




 「ひよっこ」 は朝ドラの脚本家としては過去に2作品、「ちゅらさん」 と 「おひさま」 を手掛けている岡田惠一氏の作品だ。
 朝ドラは1週間換算で正味1時間20分程度のヴォリュームのドラマを少なくとも半年続ける、という、脚本家にとっては大河ドラマ以上のスタミナと饒舌と構成力が試されるドラマである。 これを2本以上やってる脚本家というのはあまりいない。 橋田壽賀子サンが該当するが、1年単位でやってるしあまりにも格が違いすぎる(笑)。 あの人怪物だから(笑)。

 「おひさま」 は脱落したから評価のしようがないが、岡田氏の作品に共通するものと言えば、「根っからの悪人が出てこない」 こと。 それが 「物足りなさ」 につながってしまうとこがある。 私にとって 「おひさま」 がそうだった。
 今回、朝ドラにとっては久しぶりに 「モデルがいない」 オリジナル脚本になったのだが、最初のうちはなんとなくこのドラマの方向性というものが分からなくて、「おひさま」 のケースを踏襲してしまうのではないか、という危惧が私にはあった。

 しかしそれは杞憂だったようである。

 このドラマの作りは、極めて丁寧だ。
 「ひよっこ」 の丁寧さには、その時代の空気に寄り添った取材力がまずモノを言っている。

 このドラマはまず1964年の東京オリンピック、という空気の中で始まるのだが、奥茨城編のメインの出来事はこの村独自(主人公ほか友人2人主導)で企画した聖火リレーだった。 そこに主人公の父親(沢村一樹)が東京の出稼ぎ先から失踪する、という話が螺旋のように絡み合い、細部のエピソードによってきちんと時代の空気を再現している。
 そしてそのエピソードのなかで、登場人物たちの性格描写が着実に行なわれていく。 これは、きちんとキャラ設定していないと出来ないことでもあるが、脚本家自身の人に対する観察力がしっかりしていないと、会話それ自体の想像力も喚起されない類のものなのだ。
 「ひよっこ」 の丁寧さの原点には、脚本家の、人に対する温かい目、という心のありようが深く関わっているように、私には思える。

 その脚本家の心情の中心にあるものは、「人を信じようとする心」 にあるのではなかろうか。

 このドラマ、失踪した父親に対して、誰も愚痴も文句も恨み事も言わないのだ。

 普通だったらダンナが蒸発なんかしたら 「まったぐなんで無責任なの! 家計が厳しいごとを自分から娘のみね子にしゃべってたほどなのに!」 でしょう。 今の若い奥さんだったら 「ザッケんじゃねーよ! なに考えてんの? マジ? 信じらんないんですけど」 といったところか(笑)。

 娘のみね子にしたって、「おどうさんどうしたんですか?」 なんてモノローグしている場合ではないでしょう(笑)。 「はァ?」 てなもんで(笑)。 「どーすんだよクソオヤジ!」 でしょう(笑)。

 それが、母親(木村佳乃)も娘も、一切そういう下品なことは言わない、どころか考えもしない。
 となると、ここでおじいちゃん(古谷一行)が、蒸発した自らの息子をディスらなければいたたまれんではないですか。
 しかしこのおじいちゃんも、それをしない。 「なにか訳があるんだべ」 みたいな感じで。

 ここで誰も、父親を責めないというのは、これはこの時代、こうした片田舎、そういう条件が揃っていたからなのだろうか。
 いや、いくら無垢な人々だからといって、父親の責任感を疑うこともしないのは、あまりにも清純な世界すぎる気がする。

 私は考えるのだが、これはもしかすると今の 「なにかありゃ全部人のせいまわりのせい」 みたいな風潮に対する強烈なアンチテーゼなのではないか、と。
 岡田サンは 「無垢」 ということについて、かつて傑作 「泣くな、はらちゃん」 で持論を展開していた記憶がある。 マンガの世界のはらちゃんは、「無垢」 を体現して現代社会を批判するツールとしてこの世に産み落とされた。

 主人公みね子と母親はここで、同時に自らの心の中に 「叫びたい子供」 を宿したように私には思える。 ことあるごとにそれは息堰切って涙となって流れていくのだが、それは日々の暮らしのなかでどこか自らの心に無理をさせている、こちらの琴線を大きく揺らすきっかけとなるのだ。
 小難しいこと言ってるけど、茨城編の後半はなんか、毎回見るたびに泣いてたのだった(笑)。
 それに加えてみね子の同級生の男の子の母親、柴田理恵サンが息子につらく当たるのはいつかここを出て行ぐ人間だからだったと号泣するのを見てももらい泣き。 バスの車掌の思いを聞いてももらい泣き。 もちろん聖火リレーでももらい泣き。 こんなに毎日泣かせた朝ドラは、ついぞ記憶にない。 「おしん」 以来かと思うほど(ずいぶん昔だぞ)。

 東京編に入って3日ばかりたったが、環境の激変、ということがこの週のひとつのテーマになっている。
 それを際立たせるために、茨城編では主人公の友人を2人しか登場させなかったのだろう、と感じる。 東京に来てからの同世代の女の子の、なんと多いことよ。
 ここでも主人公のモノローグは、失踪したままの父親に対して向かい続ける。 みね子の心の支えは、父親にもう一度会えることひとつに絞られているのだ。

 描写の丁寧さは相変わらずだ。 会社の寮での時間割を事細かに視聴者に提示し、トランジスタラジオ基板組み立て作業の内容もきちんと説明して、アイルランドの動向まで話に盛り込む。 これはきちんとした調査取材があって初めて可能になる、視聴者を話に引き込ませる種類の 「丁寧」 なのだ。

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