テレビ

2017年4月23日 (日)

2017年春ドラマ②(「小さな巨人」「貴族探偵」「あなたのことはそれほど」)

 TBS日曜21時 「小さな巨人」。

 巷で言われるようにテイストが 「半沢直樹」 警察版なのだが、このドラマで半沢のキャラ概念を受け継いでいる主人公、長谷川博己が第1回目ではいったん権力側におもねりそうになるなど、「揺らぎ」 を感じさせるところが面白かった。 ただこれに懲りて、長谷川はもう第2回以降は揺らがないことだろう。 揺らいだら面白いのだが。
 ただまあ揺らがんでも、演出が大袈裟なことで、このような対決構図のドラマは格段に面白くなる。 昔からある時代劇の勧善懲悪の遺伝子を現代に受け継いでいる、ということになるが、ときにはその現代的な解釈も必要だ。 つまり 「度を越し過ぎて滑稽になる」、という側面とか。

 こうしたドラマにおいて敵役が重要なのは言うまでもない。

 NHKの今年の大河ドラマ 「おんな城主 政虎」 において高橋一生が演じる但馬などは 「実は政虎の盾になろうとしているのでは」、という可能性を残すことで敵役としてのリアルを試そうとしている。 だがこの 「小さな巨人」 に関しては、敵役の香川照之はリアルを最初から排除しようとしている点で但馬とは根本的に違う。 香川は 「半沢」 での役をそのまま移植したようでワンパターンの誹りも受けかねない役に徹しているが、それは香川、いや市川中車にとって 「歌舞伎的な様式美」 なのだ。 ここで 「度を越した滑稽」 というレベルまで見せてくれることを期待する。
 長谷川は理知的な役が多い気がするが、ここではかなり熱い男を演じている。 饒舌という点では 「デート」 を思い出させるが、饒舌なことによりコミカルを表現していた高等遊民とはまったく別で、推理力・判断力の鋭さを見る側に強烈に印象づけさせる。 長谷川はやはりタダ者ではない。

 いっぽう私がこのドラマでいちばんいいなと思えたのが、所轄の足の裏臭い刑事を演じた安田顕だ。

 この人、演技力は確かなのだが何か出てくると構えてしまうところがあって、どうも苦手だなと思ってきた。 なんか油断ならないヤバい感じ、とでも言ったらいいのか。
 だが今回のこのドラマでは足の裏は臭いが情にもろく頑固で熱血なところを演じており、裏と表があり過ぎる出演者陣のなかでいちばん信用が置けそうな人物なのだ。 こういうポジションは得だ。 その直情的な部分で主人公の長谷川を引っ張っていってほしい気がする。

 いずれにせよここまで見た中では、この春ドラマではもっとも面白いドラマ、といえよう。 「小さな巨人」 とは誰のことなのかは気になる。 長谷川サン大きいし(笑)。

 フジテレビ月9、「貴族探偵」。

 フジテレビの月9が30周年で総力をかけて作った触れ込みだったが、現在凋落傾向のフジテレビの悪いところが顕著に出てしまった感がある。
 まずキャスティングがまずい(前回の記事でも同じことを書いたが)。
 キャスティングがまずいということは、制作サイドがひとつにまとまっていない、ということの表れなのではないか。
 少し極端な物言いをするが、私は昔からフジテレビは、どこか視聴者を見くびったような空気が社内にあるのではないか、と感じてきた。 自分たちが上で視聴者が下みたいな。
 それはフジテレビが 「楽しくなければテレビじゃない」 を合言葉に隆盛を誇ったときから感じてきたことだが(「みなさまのフジテレビ」 の時代にはそうしたことはまったくなかった)、あまりに楽しさを追求するあまりに会社全体がお祭りムードとなり、ものごとの本質を考えようとする芽を踏みつぶしてきた結果なのではないか、と考えている。

 今回のドラマでは、「主役の探偵が推理をしない」、という大きな特徴がある。 その主役は貴族で、肝心の推理はそのお付きの者たちが行なう、といった構図だ。 要するに相関図におけるドーナツ現象を起こしているわけだが、ここで主役にはそれなりの人を配置させないと、文字通りまったくドーナツ現象になってしまって主役が埋没する危険性がかなり増す。

 なのにフジテレビは、その主役に嵐の相葉クンを選んだ。 これは制作サイドがいま述べた危険性をまったく意識できずにいるか、それを逆手に取ろうと考えているのか、もしくは相葉クン以外になり手がいなかったのかのどれかだろう。 お付きの者たちに松重豊、滝藤賢一、中山美穂と豪華な面々が次々登場し、最後に相葉クンが登場したときのなんともいえないガッカリ感(笑)。 逆に考えるとすごいな、と思ったが(笑)。 狙ってるのかな(笑)。
 別に相葉クンをけなすわけじゃないが、フジテレビがネットにおける相葉ディスり自体を期待しているような気さえする。 ディスりも話題のひとつだみたいな。 ジャニーズだしみたいな。 このゴーマン見下し発想がフジテレビなんだな。 相葉クンには相葉クンを生かす場というものがある。 それをフジテレビは踏み違えているにすぎないのだ。

 また、生瀬サンが滑りまくりのオッサンギャグを武器とした刑事役で出てくるが、これももうギリギリで許せる範囲、という感覚で見ていてとても危険だと感じる(笑)。 生瀬サンでなければ許せなかっただろう(笑)。 いや、私は許せたが許せない人は多いはずだ(笑)。

 こういう面白がり方をしている時点でフジテレビの術中にかかっている気もするが(笑)、こういう面白がり方をされてフジテレビは満足なのだろうか? 月9の30周年の墓標にでもしたいのか?

 いずれにしても相葉クンは、たぶんいい人なのだろう。 その彼が最後に探偵の武井咲チャンに車の中から投げかけたシリアス顔に、ちょっとドキッとした、気もしたが、そのドキッに期待して次回も見ることにしよう。
 言い忘れたが、武井咲チャンは彼女なりに演技が向上していると思う。 もうけっして大根ではないぞ。

 TBS火曜22時 「あなたのことはそれほど」。

 うーん、どうなのか。 なんの前情報もなく見た感じだったが、「3ヶ月後」「半年後」 と時間が目まぐるしく過ぎるのと同様に、「えっ? 『あなたをずっと好きだった』 タイプのドラマ?」「えっ、不倫しちゃうの?」 とその展開に戸惑った。
 要するに不倫をしちゃうタイプの女の子って、もともと王子様願望が強くて、ぼーっとそれなりに決断をして生きてきて、っていうことが言いたかったのかな、とか。
 主人公の波瑠は初恋の男の子をかなり引きずっていて、結婚してしまったあとで街で偶然その男の子と再会してしまうのだが、再会したその日にラブホテルに入ってしまうんだな。
 その時点で共感を得られない主人公であることは明白だが、初恋の男の子への思い入れが強過ぎた、ということがこの共感を得にくい行動の裏にあるのは見て取れたし、それにそれまでの主人公の生き方自体が、ただなんとなく流されていた、ということもきちんと描かれていたように思う。
 占いに頼るタイプというのも大きい気がする。 つまり不倫という大それたことをするには、それなりに普通の人の感覚と少しずつずれた 「その人自体の性格、人格形成の原因」、というものがあるのだ。 波瑠がフツーの顔をしている主人公だと思ったら大間違い、というか。 でも本人にはその自覚はない。

 波瑠の夫役の東出昌大クンはなんか先に述べた 「ずっとあなたが好きだった」 の冬彦さんタイプに成長しそうな感覚で、この先の修羅場は必至。 ドロドロなのは好きじゃないから展開次第ではリタイアするけれど、冬彦さんみたいに滑稽レベルに達すると視聴可能かもしれない(笑)。

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2017年4月16日 (日)

2017年春ドラマ①(「CRISIS」「人は見た目が100パーセント」「ボク、運命の人です。」)

 まずふたつの週帯ドラマであるが、NHK朝ドラ 「ひょっこ」 に関してはまだ第1週目と2週目の途中までの視聴なのでトータルな批評が出来ない状態。 第1週目まで見た感想では、ノスタルジアを重視した作りで特段の野心が見当たらないと感じたが、第2週ではこの盤石な家庭円満の状態から父親が失踪するという予告でそれがちょっと気になっている。 テレ朝の 「やすらぎの郷」 もまだ第1週目までの視聴。 独立した記事で書きたい気もするが、今のところ感じているのは、老脚本家が考えた寓話のなかで、テレビに対して言いたいことをぶちまけている印象。 倉本サンの過去の作品には、メディアに対する痛烈な批判が込められたドラマ(「ガラスの知恵の輪」 という題だったと思う)や 「歸國」 という、この国に対する未来を憂えたものがあったが、その精神が生きていると感じている。 ただ全体としてはコメディタッチ。 気楽に見ることのできる作風だと思える。

 とりあえず個人的好みで食指の動くすべてのドラマを予約録画していたが、今のところきちんと第1回の最後まで見たのは表題の3作のみ。 「孤独のグルメ」 は別格で第2回まで見ているが安定した作りで特に感想がない(笑)。 「特に」 感想がないというのがこのドラマの優れた部分でしょう。 ものを食べるときに感じることを最大限に引き延ばし面白く見せることで、見る者を惹きつけ続ける特殊なタイプのドラマだ。

 まずフジテレビのふたつのドラマ。 ふたつのドラマに共通した感想は、「なんか、全体的な熱意が今イチヌルい」。 フジテレビに関しては 「凋落している」、という印象をこのところ抱いているせいか、さまざまな部分でどこかやっつけみたいな質感がついてまわっている。
 「CRISIS公安機動捜査隊特捜班」。 題名がクド過ぎる(笑)。 題名の通り、結局何をやる部署なのかすごく漠然としていて、「はみだし者たちを寄せ集めて、危険な案件の処理には適しているが、なにかあったらすぐ切れるトカゲのしっぽみたいな部署」、という感覚だ。
 新幹線を河川の高架橋で止めてそこから犯人と一緒に川にダイブとか、マンションの4、5階あたりから飛び降りたりとか、第1回目に見合うだけの派手なアクションも用意された。 メインである有力政治家のバカ息子に向けたテロ攻撃とかその背後に動く巨大そうな組織犯罪とか、その後の展開に必要なフロシキも広げまくっていた。
 しかし、なにか見終わった後 「どうも次を見たくてワクワクしてこない」。 そして、「感じたことを書きたい気になってこない」。
 キャスティングもそれなりに豪華で、西島秀俊や小栗旬、田中哲司や長塚京三と実力派が揃っているのだが、なにかケミストリを感じないのだ。 俳優たちもやるべきことはやっている。 100パーセントの力を出していると思う。 しかしその融合から生まれるプラスアルファが感じられない。 なにか予測不能な火花が期待できない。
 こうなると作品の良し悪しがこのドラマを存続させるカギとなる気がするのだが、どうも巨悪、という時点で既視感がつきまとう。

 「人は見た目が100パーセント」。 レディスコミック原作のドラマというのはこのところトレンドという気もするが、「逃げ恥」(TBS)「タラレバ娘」(日テレ) と比較してしまうと、フジテレビの料理の方法がとてもまずい印象を受ける。
 まずキャスティングがまずい。 そしてコミック原作のいわゆる 「マンガ的」 な部分をなかば、「こんなもんでしょ」 的に見下して演出している点がまずい。 「タラレバ」 においてはCGで登場する 「タラ」 と 「レバ」 がその手の落とし穴に落ちそうな部分だったのだが、このふたつのCGキャラに対して 「こいつらは主人公たちにダメ出ししている 『実は味方』 なのか、それとも主人公たちの晩婚傾向を助長する 『実は敵』 なのか」、見ながらそれを考えさせるブラックボックス的な楽しみがあった。 なかでも最初主人公の吉高にしか見えなかったのが、そのうちに榮倉や大島にも見えるようになったという展開が秀逸だった気がする。
 ほかにも主人公たちに大ダライが落ちてきたりとかコミック的な展開も頻繁にインサートされていたのに、それが不自然ではなかった。
 なのにこの 「人は見た目」 は、同じような演出をしているのにそれがとても不自然なのだ。
 たとえば主人公の桐谷美玲が飲んでいたものをブーッと吹き出すシーン。 このドラマでは主人公の女の子が極度に暗く内向的な性格なため、「そんな子がこんなことはしないだろう」 というように見えてしまうのだ。 つまりコミカルが成立しない。
 そもそも桐谷美玲チャン、どんなに地味にしてもカワイイじゃん。 そんな子がいまさら化粧で自分をきれいに見せようったって、「する必要なし」。 だったら最初はもっとブスメイクをすべきだ(笑)。
 だいたい 「見た目をきれいにする」 という時点で、このドラマの目的自体がとても陳腐なものに見えて仕方ない。 結論は 「人は内面が最後にはモノを言う」 みたいになるのかもしれないが、今のところはドラマのスポンサーである女性ファッション誌とコラボしたドラマにしか見えない。
 それと、ブルゾンちえみという人を私はこのドラマで初めて見たのだが(噂では知ってたが)、話題の人をドラマに出すという時点でフジテレビの浅さがまた垣間見えてしまう。 演技はまあまあだけどこういう人が見た目を変えようと努力するのは説得力がある。 ただこの人が目的で来週も見ようという気にはならない。 「ダーティ・ワーク」 にならなければよいが。
 いずれにしてもどうも最近のフジテレビのドラマは、見ていてヘンな違和感を抱くことが多い。 「シェフ三つ星の給食」 くらいだったな、素直に面白かったのは。

 日テレ 「ボク、運命の人です。」。
 最初の数分で 「あ~こういうノリのドラマって苦痛だ」 と思っていたのだが、神様と自らを名乗る山Pが出てきてからドラマが渦を巻き始める。
 「お前とお前の妻となる女との間に生まれた子供が、30年後に地球に衝突する惑星の軌道を変える発明をする運命にあるから、お前は絶対その女と結ばれなきゃならない」 ということから、主人公の亀梨和也は木村文乃に不器用なアプローチを始めるのだが、そこから見る側はいろんなことを感じ始める作りになっている、と言える。
 亀梨はその不器用から木村文乃に却って怪しまれ拒絶されていくのだが、その結果神に対して 「別の方法考えたらいいでしょ」 とか 「地球なんか滅んだら滅んだで仕方ないでしょ」 とかいろんな不満をぶちまける。 それがリアルで彼の一生懸命が伝わってくる作りになっているのだ。

 ただ私の出した結論としては、「山Pは木村文乃のほうにも姿を見せて事情を明かすべきだ」 ということに落ち着くのだが(笑)、このオチャラケた神はどうしてそのことをしないのか。
 そうすると、ふたりとも自分の意志とは関係なく、運命という空っぽな動機でしか結びつかなくなる。 それはふたりにとって不幸なことだ、と神は考えているのではないか。 そして気になるのが、ライバルとして登場する男のことだ。 木村には、そっちを振り切って亀梨と生きる、という決意というものが必要だ、と神は考えているのかもしれない。

 こういうことを見る側に考えさせる度量というものがドラマにあるかどうか。 それってとても重要な気がする。
 それにしても皮肉だなーと思ったのは、コマーシャルでTOKIOがスズキのクルマのやってたけど、アレ最初カトゥーンがやってたんだよな~(ハハ)。 亀梨クンガンバレ。

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2017年4月 2日 (日)

2017年春ドラマ、とりあえず何見るか

 今年の春に私などの世代がいちばん注目するのは、「北の国から」 の倉本聰サンが月-金の連続ドラマを書いた、ということだろう。 「やすらぎの郷」、テレビ朝日のお昼12時30分から20分。 なかでも昔ご夫婦だった石坂浩二サンと浅丘ルリ子サンが共演、というのにはそそられる。 ほかにも八千草薫サン、有馬稲子サン、加賀まりこサンなど、なんじゃソリャというくらいの大物俳優たちが目白押し。 倉本聰サンの作る話だから結構世の中にはキツイ警鐘も混じるだろうが、そのことも含めて注目せざるを得ない。 明日(4月3日)から。

 同じ日に始まるNHKの朝ドラもチェック。 「ひよっこ」、「ちゅらさん」「おひさま」 と朝ドラを複数手掛けてきた岡田惠和氏の脚本。 有村架純が 「あまちゃん」 での脇役から主役、というのも注目だが、内容が今のところインパクトに欠けるような。 このところ実在のモデルとかが存在していたものが多かったから、そう感じるのだろう。 それに岡田サンの話って結構当たり外れがあるから。 まあ 「ぺっぴんさん」 よりはマシなんじゃないか。 ビートルズファンからしてみたらレリビーとかヤメチクリ~という感じだった(笑)。

 あとは地方局ではやるかやらないか、という感じだが、「孤独のグルメ」 の最新シリーズもチェック。 これは毎回見てるので。 4月7日24時12分から。 同じテレ東では 「釣りバカ日誌」 のシーズン2も要チェックですな。 こちらは4月21日金曜夜8時から。

 それからフジテレビの月9、この枠のドラマ30周年ということで気合が入ってるみたいだ。 「貴族探偵」、4月17日スタート。 主演は相葉雅紀クン、ん~まあ、…いいけど(笑)。 脇役が生瀬サンとか滝藤サンとか松重サンとか、それと中山美穂ってのがすごいな。 30周年の気合いを見させてもらいたい感じ。

 TBS日曜劇場は 「小さな巨人」。 あまり食指が動かない警察モノだけどいいでしょう。 長谷川博巳サンが出るので。

 そのほかはまあ、とりあえず全部チェックはしたいんだけど、たぶんこれは見ないだろうな~というのは、日テレ水曜22時 「母になる」(笑)。 役者が見たいと思わせない(笑)。

 この春ドラマ、ドラマの題名を見てるだけで 「なんか面白そうだな」、というのが多い気がします。 「恋がヘタでも生きてます」 とか、「人は見た目が100パーセント」 とか(笑えるな)、「あなたのことはそれほど」 とか。 なんかマンガのタイトルっぽいけどそうなんだろう。 でも肝心なのは中身ですから。

 気合いに期待、とか言いながら、気合の入ってない記事でスミマセン(笑)。

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2017年冬ドラマ、「続」 私の見た範囲で、最終回まで見て

 前々号で、「以下次号」 などと銘打っておきながら結局 「今クール最終回まで見た総括」 みたいになってしまったことをまずお詫びします。 出来ないことは予告するもんじゃない。 反省。

 まず前回の記事で言及していた 「A LIFE」 について。

 結局のところこのドラマの本質は木村クンと浅野サンの友情だったように感じた。 だから竹内結子サンとの三角関係は主眼ではなく、木村クンがスーパードクターであることはただの前提だった。
 他人との付き合いの中で、「自分のことを誰も分かってくれない」、という子供じみたこだわりを、人はどうやって克服していくのだろう。 それはただ相手のことを一生懸命考えて前を見据え、進んでいくことでしか解決しない。 このドラマのテーマはそこに存在していたように思える。
 なかでも物語を引っ張っていったのは、結果的に見て浅野サンだったのではなかろうか。 「100点以外は意味がない」 と父親に言われたことで生じた心の傷が、彼が医師として成功し権力を身につけていくに従って孤独、嫉妬、恨みとして肥大化し、しまいにはおかしな破壊衝動という方向へとつながっていく。

 ところが彼が嫉妬を抱いていた木村クンのほうも、寿司職人である親父からいつまでも半人前扱いされていた。 つまり木村クンも浅野サンも、父親という壁を乗り越える試練を抱えていた、と言える。 その舞台となった檀上総合病院が、柄本明サンの父親と竹内結子サンの娘という 「父と子」 関係だったことも注目に値する。 このドラマの主役3人に、明確な母親設定というものは存在しなかった。 このドラマはあくまで、「父親を乗り越えること」 がベースとなり、木村クンと浅野サンの友情問題として展開していたのだ。

 父親という壁が存在していたからこそ、木村クンはその当のオヤジの手術でスーパードクターにあるまじきミスをする。 それは致命的なものではなかったが、そこから木村クンは精神的に落ち込み、自分の思い上がりを学んでいく。 父親は、自らを見つめ直す鏡でもあったのだ。 丁々発止を演じる彼とオヤジサンとのやり取りを思い返してみよう。 まるでそれは、同じ人格のふたりが互いにダメ出しをしている鏡のようなものであったことに気付くはずだ。

 このドラマは木村クンと浅野サンのふたりがどちらも優秀な外科医であったことで、巨大病院という枠組みの中で周囲をひたすら巻き込んだ怪獣映画さながらの様相を呈した。 平たく言えば 「よくもまあエラソーに自分たちの都合で自分たちの立場をいいことに好き勝手出来るよな」、という構図なのだが、そんな葛藤を巨大化出来るからこそドラマの意味というものはあるのだ。

 このドラマの唯一の救いは、木村クンと浅野サンが幼なじみで気心の知れた仲だった、ということに尽きる。 だから物語が一方的に救いようがなくなるくらい破壊されない。 そしてそこに解決の糸口がぶら下がっていただけなのだ。

 このドラマはメインである竹内結子サンの脳腫瘍摘出手術と並行して、ほぼ毎回いろんな症例の患者を登場させたのだが、それに対するスーパードクター木村クンのあり方というのはドラマをつまらなくさせると同時に、別に心配しないで見てられる、という両方の効果を伴っていたように思う。
 そのいちばんの例が、13才くらいの少女に対して木村クンが乳がんの検査もした方がいい、と主張した回。 「木村クンが言うからいくら婦人科エキスパートの財前サンがあり得ないとつっぱねても乳がんなんだろう」 と思っちゃう構図だった。 こういうのは木村クンをあまりに万能にし過ぎてドラマをつまらなくする、という批判を招くパターンのひとつであるのだが、逆に言うと安心して見てられるんだな。
 却ってそのプロット(乳がん)が、「竹内サンの腫瘍摘出手術の方法を考え続ける木村クン」、という図式を冗漫にさせたような気もする。 「いつまで考えてんの」 みたいな。

 その、途中の冗漫さも最終回、二大怪獣であった木村クンと浅野サンの激突から協力へ、という形で竹内サンの脳腫瘍摘出手術というさらなる巨大な怪獣の退治、というカタルシスまで至ったことは見事だった気がする。
 そう、このドラマって、なんか構造が 「ウルトラ兄弟銀河決戦」 みたいな劇場版ウルトラマン映画みたいな感じなんだよな(笑)。
 竹内サンの2回目の手術では、檀上病院乗っ取りの責めで副院長の座を追われた浅野サンが、木村クンの叱咤のすえ参戦した感動的なシチュエーションだったが、以前政界の大物の難しい手術をしたときより一層、浅野サンの演技にリアルを感じた。 このリアルさ、木村クンもかなり専門用語を完璧にこなしていたけどそれ以上の貫録を感じた。
 前回触れたのだが、「こういう木村アゲのドラマにどうして浅野が出演する気になったのだろう」 という答えが、ここにあった気がする。
 そしてこれも父親との確執でもがいていた松山ケンイチクンの 「このふたり、最強じゃん」 みたいなセリフ(正確なところは忘れた…笑)で、場面を決定的に盛り上げるのである。 このドラマに松山クンが出てる意味というのは、この一言に集約されていたようにも思う。

 結局木村クンは浅野サンと竹内サンの夫婦の絆をかたく踏みしめ盤石にさせるための駒だったのかよ、という構造なのだが、だからこそいいんじゃないか、と思う。 そうした視点で見れば、このドラマはけっして安易な 「木村アゲ」 のドラマではなかった、といえよう。

 そしてこの 「A LIFE」 のウラで放送していたのがフジ 「大貧乏」

 このドラマはシングルマザーの小雪サンが会社倒産の憂き目に遭ってチョー貧乏になってしまうという話だったのであるが、正直言ってこのタイトルは 「看板に偽りあり」 の典型だった。
 貧乏だからおかずがないとか服がツンツルテンとか 「貧乏あるある話」 というのがかなり貧弱で 「この家族、どこが貧乏なんだよ?」 と思うことが多かったのだ。
 要するに、小雪という女優は顔がゴージャス過ぎてビンボー話とかなり相性が悪いのだ(笑)。 それに思慮深そうに見えるし知的そうに見えるので、貧乏にへこむとかいう側面がまったくなく、小雪をメインで見ているとまったくつまらんドラマと言えたんじゃなかろうか。
 視聴率的にも 「大貧乏」 ならぬ 「大惨敗」 で、このドラマを見ていた人はかなり限られる、と思われるがレビューしたい。

 「大貧乏」 という看板でありながらしかし、このドラマの本当のツボはこの知的そうで貧乏が全然こたえてないように見えるナマイキな小雪(笑)に、高校時代から惚れまくっていたというチビノリダー(伊藤淳史クン)だった(笑)。
 このカップル、想像していただくと分かるがかなり身長差がキツイ(小雪は大女だし伊藤クンは背があまりないほうだし)。 だからまったく釣り合わない。
 しかし伊藤クンには 「超一流の企業弁護士」 という肩書きがつく。 このオールマイティな肩書がドラマにとって大きな強みとなったのだ。

 このドラマが描こうとしたのは、先にも述べたように 「大貧乏」 ではまったくなく、小雪が首になった人材派遣会社の底知れぬ闇を暴いていく、ということに主眼が置かれていた。 だから企業弁護士という肩書が強大な力を発揮するのだ。
 伊藤クンはなんとかこの強大な肩書にモノ言わそうと小雪サンに稚拙なアプローチを続けるのであるが、ドラマが終了するまで知的でナマイキな小雪はほぼなびかない(可能性は、ないわけじゃない程度な…笑)。 その構図が、見ていて楽しかった。

 そしてこのドラマを面白くしたもうひとつの原因が、「強力な悪役の存在」 だった。
 小雪が勤めていた人材派遣会社の社長である奥田瑛二。
 そして会社の金を横領していた滝藤賢一。
 このふたりの悪役が、「タイトル変えたほうがい~よ」 的な 「迷走フジテレビ」 を象徴するようなドラマをピシッと締めた。
 滝藤サンはワケの分からないヌエ的な不気味さ。 そして奥田サン。 いや~、憎々しくて怖くて。 なんかもう後半に行けばいくほど自由にやらせてもらってる感覚で、強烈な印象を残す悪役だった。 「シャイニング」 のジャック・ニコルソンばり。

 このふたりの悪役が大人の世界を象徴しているのに対して、伊藤クンは 「一流」 という形容詞がつくものの、実は少年の頃の純粋さを象徴している存在でもある。 この3人がいたことで、このドラマは最後まで見応えのあるせめぎ合いのドラマになったと言っていい。 「主役はあくまでツマ」、という立ち位置からすると、「A LIFE」 と妙な共通点があったように感じる。

 そして日テレ土曜の 「スーパーサラリーマン佐江内氏」

 出来のいい回と悪い回があったような気もするが、最後まで脱力感満載で気楽に見ることができた。
 ただ最終回はそれなりに作り手の主張、と言えば聞こえはいいが 「そんなに主張!みたいなオーゲサなもんじゃないけど」「そーゆーの拒絶してるんだけど」 的な問題提起みたいなものは垣間見られたような気がする。
 これは演出の福田雄一氏の前回作、「勇者ヨシヒコ」 の最終回でも感じたのだが、基本フマジメながら、ちょっとシリアスなメッセージをしのばせる、というか。

 「勇者ヨシヒコ」 の最終回では、「ゲームに限らずいろんな物語に 『終わらせ方』 というものが存在して、作り手はそれを四苦八苦して考え出すけど、それってもういい加減に飽和状態に近付いているんじゃないだろうか」、というメッセージを感じた。 だいたいみんな最終回、どんなふうに終わったかなんていつまでも覚えてね~し、みたいな。

 「佐江内氏」 の最終回、佐江内氏はスーパースーツを完全にオジサンにきっぱりと返還してしまうのだが、そこで 「会社からも家庭からも自由になりたい」 などと言ったもんだから次の日から完全にそうなっちゃったみたいな展開で、結局はまたスーパーサラリーマンに戻っていく。
 ここから感じたのは、「結局社会に対する責任って、自分が自分であるための外せない要素なのでは」、というものだった。
 責任というものを放棄した瞬間、人というのは 「恐ろしいほど」 自分という存在を消せるものだ。 まったく何者でもなくなってしまう。 自分がいなくなったことで、一時的に困る人間は出てくる。 でもすぐさま、自分の代わりなど見つかってしまうのだ。
 結局、自分は自分であるために、日々愚痴りながらでも小さな努力を積み重ねていくしかない。 そんなメッセージが、説教臭くなく受け入れられた気がした。 この絶妙な後味は、芸達者な堤真一だからこそ実現できたのではないか。

 そしてTBS金曜22時の 「下剋上受験」

 阿部サダヲと深田恭子、そして父親の小林薫と、身内が3人とも中卒、という特殊な家系の中で娘を有名私立中学に入れようと奮闘する実話に基づいたドラマだったが、このドラマでいちばん作り手の視線が注がれたのは 「有名私立中学への入り方」 指南ではなく、主役の阿部サダヲ演じる父親、さらにその父親の小林薫の生きざまに対してだったように思う。 だから娘の佳織の偏差値が40から60に上がる、という、物語としてはいちばん肝と思われる部分がバッサリと切られ、佳織はスランプ状態からかなりのジャンプアップを果たしたのだが、まあそれは原作本を読んでください、という戦略だったのかもしれない。

 ただドラマ化に当たって、主人公の中卒仲間の居酒屋とか、主人公が物語途中まで勤めていた会社の 「学歴のいい」 後輩とか、同級生だったガリ勉で娘同士も同級生の会社社長とか、まわりをにぎやかにしてしまったおかげで途中から阿部サダヲのキャラが埋没してしまったような印象も受けた。
 やはり阿部サダヲはそのキャラが立つかどうかで、ドラマ自体の出来も左右する先鋭的なタイプの役者なのだ。

 阿部サダヲのキャラを丸くしてしまったもうひとつの原因は、深田恭子だ。 ただし悪い意味ではない。
 このドラマを見ていてかなり興味深かったのがこの深キョンで、去年の 「ダメな私に恋してください」 の前面に出てくるキャラ(そりゃ主役だったし)からかなり後ろに引っ込んだキャラに変わっていて、こういう立ち位置の場合この女優はどのような演技をするのか、というのが面白かった。
 立ち位置に変化はあれ、「おバカ」 ということにかわりはなかったのだが(笑)この中卒の奥さん、妻として母親として実によく出来ていて頭脳明晰。 さらにどんなにハチャメチャなシチュエーションになってもけっして悲観したり絶望したりせず、いつもおっとり構えて痛みを緩衝してしまうスポンジのような役割も果たす。 こんなに人畜無害なのにきちんと存在感を示せていたのは驚異的だった。
 しかしいっぽうで、こういう出来た嫁だから阿部サダヲのエッジが削られてしまうんだな。 嫁がフツーに阿部サダヲみたいな無茶をする人間に呆れたりキツクたしなめたりすれば、阿部サダヲのエキセントリックさは鋭さを増すのだ。

 さらにこのドラマ、娘の佳織の学校で交友関係においてほとんどネガティヴな展開にならなかったところが、ドラマを平凡に人情味のある方向へと傾かせる一因ともなった。
 佳織もかなりいい子で、親の方針にほぼ逆らわない。 よく出来た嫁のDNAを引き継いでいたとも言えるが、もともとこの子は親に対して絶大な信頼を置いているのだ。 この親子の距離感の近さが、このドラマを見ていて感じる心地よさにつながっていた。 それが見ようによっては退屈ともとれたかもしれないが。 こういう素直な娘、というのはいいじゃないですか。

 そして最後に論じるのは、日テレ水曜22時 「東京タラレバ娘」

 結論を言ってしまうと、私が見たこの冬ドラマの中では、まあ全体的に低調な印象ではあったが、結局これがいちばん出来が良かった気がする。

 主演の吉高由里子は朝ドラ 「花子とアン」 以来久々の連ドラ主演だったと思うが、「朝ドラ女優」 が出演を決断するにはじゅうぶんな 「格」 が備わっていた、と思う。
 その 「格」 を決定づけたのは、主人公を含む3人の女友達の 「アラサーを迎えて結婚に焦る女たちの本音」 が、これまでの同種のドラマと比較してかなりリアルだったことによる。
 このドラマでは 「あるある話」 の羅列にとどまらず、そこに彼女たちの自虐、反省とそれに伴う人生そのものに対する深い思索が読み取れた。 そこがこれまでの同系列のドラマと違うところだった。

 ただし物語の内容そのものを考えると 「都合のいい展開」 が多かった。 特に最終的に吉高が落ち着くKEYが、かなり頻繁に吉高の前に姿を現すのだ(笑)。 それはもうストーカーかみたいなレベルで(笑)。
 それと、吉高の飲み仲間である榮倉奈々、大島優子の相手の男がクソ過ぎた(失礼)。
 榮倉の相手はバンドマンで榮倉は二番手の女。 「どっちも好きだ」 とかかなり無神経にのたまうアホで(笑)そういう 「少年のような」 アホと離れられない榮倉は、自分のアホさ加減にじゅうぶん気付きながら関係を続けている。
 大島の相手は不倫男の田中圭。 コイツも女房が妊娠中なのにほかの女にうつつを抜かすというかなりのバカチンで、こちらも大島は不倫のもたらす代償に傷つきながら関係を続ける。

 吉高は吉高で、冷静に見てりゃ仕事のパートナーである西郷どん、じゃない早坂がいちばん適当なのにグダグダ考えて結局KEYになびいてしまう。
 この3人の女どもは愚かな結論だとじゅうぶん自覚しながら、自分が幸せだと感じりゃそれでいーのだ、幸せはいつも自分の心が決めるとか、相田みつをみたいな結論でドラマは終わるのだが(笑)、「肥大化した自分の人生に他人が入りこむ隙がない」、という現実と、「誰か好きな相手がいないとさびしい」 という生理的な問題をいっしょくたに処理して解決しようという彼女たちの姿勢自体に無理がある、と私などは思ってしまう。

 つまり結婚なんてものは相手のどこが気に食わぬとかここが合わないとかと考え出したらけっして出来るものではない、ということだ。 肝心なのは、ここが違う、あそこも合わない、だけどそれも受け入れられる、という心の余裕なのではないか。

 しかしこのドラマが秀逸だと思われるのは、愚かなことをきちんとあぶり出していたところだ。
 私(たち)はドラマの中の登場人物に 「そうじゃないだろ」「なんでそうするのかねイミフ」 とかダメ出しをしながら、実は自分の人生さえも、そんな間違った決断だらけなのだ、ということに気付く。 私(たち)は自分のやっている間違いに気付きながら、それでもやめることができない。 もしくは行動に移せない。 彼女たちのモノローグが正鵠を射ているからこそ、見ている側はそこに気付かされるのだ。

 だが、私(たち)は、「間違った決断」 がけっして自分の人生にとって 「悪かったこと」 とは考えないようにしようとする。
 それも自分の人生なのだ。
 いちばんいい方法なんてけっして選べないかもしれない、けれども一歩踏み出したらそれが正しいと信じて歩き続けるしかないのだ。 どうしても我慢ならないのであれば仕方ない。 それも自分の人生なのだ。

 と、このドラマを見てそこまで考えるのはアレかと思うが(笑)、彼女たちの思索が深かったからそこまで考えさせられた、と言ってもいい。 その意味で冬ドラマの中ではいちばんよかったかな、と思えるのだ。

 以上、私の見た範囲での冬ドラマの感想でした。

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2017年2月 5日 (日)

2017年冬ドラマ、私の見た範囲で(「カルテット」「A LIFE」)…以下次号

 ほんとうは前の記事 「スーパーサラリーマン…」 もこの記事に入れようとしたのですが予想以上に長くなってしまったので別記事にしました。
 忙しいのでなかなか最新の回まで見たドラマが少ないのですが、とりあえず自分の見た範囲内で感想を書きたいと思います。

 まずはリタイア組。 TBS火曜22時 「カルテット」。 「Mother」「それでも、生きていく」 の坂元裕二氏脚本、ということだったけれど、この人のドラマでいいと思った最後は 「最高の離婚」 だったろうか。
 「最高の離婚」 の主役はヘンなこだわりだらけでかなりウザい男だったが、それが逆に哀しくて可笑しく、コメディドラマとしての根幹をつかさどっていたからこそ成立出来ていた。 しかしそれ以降の坂元氏の作るドラマというのは、個人的にそうした 「ヘンなこだわり」 が鼻につくようになる。
 それまで坂元氏のドラマで秀逸だったのは、「例え話」 の 「あるある感」 だった。 その例えにキレ味があったからこそドラマの中の登場人物に共感できたし感情移入もできた。 でもなんか、ずれてる気がするんだよな、ここ数年。
 それと、ドラマ設定のムリヤリ感がここ数作多いような気がする。 そうした齟齬が生じたまま、坂元氏はどんどん自分の世界の中に入ってしまい、登場人物がみんな坂元氏の心の代弁者みたいになってきて、性格は違えど同一人物みたいに思えてきてしまう(そもそも自分の中にもいろんな性格が入り混じっているのだから当然ではあるが)。 言葉(セリフ)にこだわるあまり、その言葉(セリフ)に呑み込まれていくような印象。
 これって、山田太一氏の全盛時を過ぎたドラマを見ていたときの心境と、どこか重なるところがある。 設定のムリヤリ感と話し言葉のヘンな違和感。 それがその脚本家の作るドラマの世界なんだよ、と言われれば話はそこまでだが。 満島ひかりの言ったセリフじゃないが、なんか見ていてミゾミゾするんだよな(意味不明)。

 リタイアしたのってこれくらいか。 フジ火曜21時の草彅クンの 「嘘の戦争」 や月9の 「突然ですが、明日結婚します」 は開始10分でやめたからリタイアにも当たらないというか。 あとは刑事モノとか事件モノとかそもそも別に見る気もなしというドラマばかりなので語りようがない。

 ただ、草彅クンのドラマを10分リタイアしたくせに、木村クンの 「A LIFE~愛しき人~」(TBS日曜21時) は見ている(2回目まで)。 なぜかなというのは考えたくなる。

 正直なところ、木村クンのドラマは内容的にさほど大したことはないように思える。 草彅クンのドラマのほうが見る人が見れば面白いのだろうけれど、私はどうも 「何を考えてるか分からない」 草彅クン独特の表情にミゾミゾするものを感じてしまうのだ(ミゾミゾが流行ってるぞ自分の中で)。
 それに比べて、木村クンのほうは 「顔で気持ちを表現してしまう」 みたいな部分があるように思える。 だからドラマで何か展開するたびに、彼の表情を追ってしまうのだ。

 重ねて書くが、ドラマは内容的に特段優れているとは言い難い。 そもそも心臓外科医が脳外科もやんのか?とか、父親が心臓の重い病気でそれを治したと思ったら今度は娘が脳腫瘍かよ、とか、ちょっと素人目にも 「あり得ないでしょ」 の連続だからだ。
 しかし木村クンが出てくると、それらがみんなスッ飛んで木村クンの動向に注目してしまう。
 これって巷間言われていることを無視しても、すごいことなんじゃないかな、と思う。 こういうのが、スターとしての素質、というヤツなんじゃないのかな、と思う。

 翻って、ことに自分の場合、草彅クンに関しては彼の心の奥底が読めない、という気持ちがある。 バラエティなんかの草彅クンも、最近は見ないが昔はよく見た。 だから彼の素を知っている気になっているのだけれど、実はなんか、彼はまだどこかで仮面をかぶっている、という気持ちが抜けないのだ。 これは彼がかつて起こした逮捕事件の不可解さから続いている。 彼の中には、どこかに底知れぬ闇があるのではないか、という。

 彼の出るドラマには、そんな闇をまるで増幅したかのような役が多い気がする。 つまりそこにあるのは、彼のキャラクターから来るリアルな怖さなのだ。 草彅クンがそんなものを表現できる役者であることがまず驚異的だが、私はどうも敬遠してしまう。 彼の中にある闇を見るのが怖いからだ。

 話は 「A LIFE」 に戻るが、そんな出来がいいと思われないドラマの中に、また力量のあるふたりの役者が放り込まれている。 浅野忠信と松山ケンイチだ。
 これを無駄遣い、と言えるのかどうか。 私の目下の興味の中心は、どうもそこにあるらしい。
 つまり、浅野はスーパー外科医マンである木村クンにただただ嫉妬する役なのだが、自分の妻の竹内結子が木村クンと仲良かったからとかそういう単純な動機なんだな。 それで一度は木村クンを病院から追い出したのだが、帰ってきて手柄を立てる木村クンを見てまた嫉妬し、壁をぶっ壊したりする。 その、自分が開けた壁の穴を、わきに飾ってあった絵画の額を移動して隠そうとしたり、ちょっと油断して見てるとただ笑えるだけのシーンなのだが、浅野はここに自らの狂気を表現しようとしていたようにも思えたのだ。

 私が見ている範囲(第2回まで)では、話の荒唐無稽さは相変わらずだが、浅野がこの単純な嫉妬の構造の中でどのように自らの役に狂気を含ませていくかに腐心しているような気がしてならない。 いわばこれは、木村クンアゲが目的で自分のために作られていないドラマの中で、自分をどれだけ木村クンのスターのオーラに対抗させようか、という戦いなのではないか、という。

 そして松山ケンイチ。 私が見た第2回までの時点では彼は完全に、「ほかのドラマじゃ絶対どうでもいい若手役者がやるような役」 というスタンスに甘んじている。 しかし彼がこんな、「自分のために作られていないどーでもいいドラマ」 に出るわけがないように思える。
 たぶん第2回の蹉跌をばねとして、木村クンにとって今後大きな脅威(もしくは強力な味方)となってくるのではないか、と私は予想しているのだが。 味方じゃつまんねえな。 あの平清盛だよ。 ど根性ガエルのひろしでもあるが。

 このひろしが出てるドラマより今回は裏番組の 「大貧乏」 のほうが面白い気がするのだが、ちょっと今日は力尽きたのでまた別の機会に書くとします。 書く予定としてはあと、「東京タラレバ娘」 と 「下剋上受験」。 気が向いたら 「幕末グルメ ブシメシ!」。 たぶん書かないだろうというのは 「雲霧仁左衛門3」。 これがこの冬ドラマで私が見ているものすべてであります。 「タラレバ」 はひょっとするとリタイアする可能性も…。

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2017年2月 4日 (土)

「スーパーサラリーマン佐江内氏」 藤子Fマンガとマニアックギャグとの相性

 この1月から始まったドラマでいちばん面白いと思えるドラマ。

 原作が藤子・F・不二雄氏の大人向けマンガなのだが、過去にも藤子F氏の子供向けではないそうしたマンガは幾度かドラマ化されてきたはずだ。 私が見てきたそれらのドラマは、私の見た範囲かつ記憶の限りで申せば 「失敗作」 が多かったように思う。
 つまりいくら大人向けのマンガだと言っても、藤子F氏のマンガというのはあまり人生の深刻な問題にまで踏み込まないのだ。
 「こうなったらいいのにな」、という 「ドラえもん」 的な発想が、氏のマンガには横溢している。 氏の作り出すマンガの中に出てくる大人は、たしかに悪いこともずるいことも考えたりするのだが、それはあくまで子供も考えることの延長線上にあったりする。 「楽したい」 とか 「人によく思われたい」 とか、発想がのび太的である大人。 藤子F氏のマンガに出てくる大人は、会社や他人の金を横領したり人を騙したり殺人を犯したり、そういう 「業の深い」 悪事を働くことがない(私の知る限りでは)。
 それがそんな大人ばかりが横行するテレビドラマにはなかなかそぐわない。 藤子F氏の描くコドモロジックの大人とテレビドラマの相性は、あまりよいとは言えないのではあるまいか。

 その相性の悪さを完全に逆手に取ったのが、今回脚本と演出を手掛けた福田雄一氏である。
 「勇者ヨシヒコ」 など深夜ドラマを多く手掛けている福田氏は、その深夜ドラマ的なマニアックギャグでもって、毒にもならない藤子F氏の描く大人とテレビドラマの、まったりとした緩い関係を破壊した。 その 「ルール無用」 的なばかばかしさが何とも心地よいのだ。
 福田氏は数年前、「コドモ警察」 というやはり深夜ドラマで 「西部警察」 みたいなことを全員子供がやったらどうなるのか?みたいな視点でドラマを作っていた。 大人と子供の境界線についてある程度疑問を持ち、その境界線が曖昧さをだんだん増していると自覚している福田氏だからこそ、藤子マンガの持つコドモ性をどういう手段でもって視聴者に忘れさせるか、ということが思いつくのだろう。

 ただしこれらのギャグは慣れてないとツライ、ちょっと(かなり)視聴者を選ぶ性質のものであることもまた事実だ。 「勇者ヨシヒコ」 を見倒している私でさえ、時々 「もうお腹いっぱい」 と思う時があるから。 コメディ、を通り越してギャグドラマ、というものの宿命でもあろう。 お笑いというのは、「この次はもっともっと笑わせなければ」 というインフレーションに簡単に陥ってしまうものだからだ。

 特に 「勇者ヨシヒコ」 のレギュラーでもあるムロツヨシや佐藤二朗のマニアックなアクの強さは 「慣れる」 しかないだろう。 しかし 「ウザい」 ことで成立している世界がある、ということを我々は、寛容していかねばならない。 アメリカのトランプ新大統領を見てみるがいい(そこか?…笑)。

 藤子F氏のマンガとテレビドラマの相性の悪さと極度なマニアック性。 その弱点を完全に補っているのは主役の佐江内氏を演じる堤真一だ。 彼は直情的な役をやることが多いのだが、今回は完全にコンニャク的な 「のらりくらり型」 である。 かなり沸点が低い。 何か問題があっても謝れば済むと思っている。 責任なんか取りたくない。

 そんな彼がいきなり現れたジーサン(笹野高史)からスーパーマンのスーツを押し付けられ、嫌々ながらいろんな問題を解決していくところは、実に藤子F氏的だ。 ついでに言えばこのジーサンもかなり藤子F氏的で、要するにユル~いキャラ設定(かと言ってユルキャラではない)。 悪人になどなり得ないタイプである。
 このジーサン、「設定が厳しい」 フツーのテレビドラマだったら最初の1回と最終回の都合2回しか出てこなさそうな 「泉よりわき出でたる女神」 的な重要人物なのであるが、これがチャリとか乗ってまた頻繁に登場するんだな(笑)。
 こういう 「ユル設定」 も実に藤子F氏的である、と思える。

 そして 「ユル設定」 がいちばん威力を発揮しているのが、「忘却光線」。 このスーパースーツ、その場からいなくなればそれを目撃した人たち全員が彼の存在を忘れてしまう、という、まさに 「ドラえもんグッズ」(笑)。
 これはドラマ的にもかなり有用な役割を果たしていて、「忘」 の光線が登場するとそこでみんなずっこけたみたいになり笑いが取れ、忘れちゃうからトンチンカンなことを言い出したりできてまた笑いを取れる、という二重の効果が期待できてしまうのだ。

 この、「忘れ去られちゃう」 というのは同時に、佐江内氏にとって最強の 「許可証」 でもある。
 きょう日、人の行動というのはSNSだのなんだのと、全部ネットに披露したものが残ってしまう。 殺された被害者の撮ったスマホの写真が堂々と公開されるし、犯罪を犯した者がいつまでたっても忘れ去られないので裁判まで起こす始末だ。

 何でもかんでも残っちゃうのって、どういうもんなんだろう?

 福田氏にそこまで視聴者に考えさせようとする意図があるとは思えない(たぶんない…笑)。 しかし将来、「ネットにおける不要情報の廃棄」 という事態…が発生するのかどうか。 分からんけれど、私が加入しているこのココログというブログだって、私がまったく画像を載せずに文章だけで勝負しているために、まだ使用できる全体の容量の2パーセントくらいしか使っていないのだから、たぶん 「橋本リウというブロガーが忘れ去られる日」 というのは遠い未来のことだろう。 ココログの母体である富士通がやめちゃわない限り。

 そしたらいったいいつになったら、私は完全に忘れ去られるのか? でも、それ(自分という存在を残せること)がもともとの目的ではなかったか?

 いずれにしてもネット情報の墓場、ということに思い至ったとき、私はアニメ 「電脳コイル」 のバグを思い出さずにはおれない。

 このドラマで書き忘れてはならないもうひとりが小泉今日子だ。
 彼女はドラマに出てくるとき大概エラソーなキャラで出てくることが多い気がするのだが、これって 「どんな役をやってもキムタク」 ならぬ 「どんな役をやっても小泉今日子」、ということと同義なのかな。
 そのイメージを極限にまでふくらましたのが今回の役で、彼女は佐江内氏の妻を演じているがそのキャラは完全にジャイアン。 いや、女だからジャイ子か? でも太ってはいない。 太らせたほうがかなり藤子F氏のマンガ的なのだが、「そうか、キョンキョンってその性格を極端化させるとジャイアンなんだ」 という発見があって興味深いのだ。

 そしてこれもマニアック的ギャグなのが、エンディングのダンスシーン。
 「これって 『逃げ恥』の恋ダンスのパクリじゃん」 とシラケてしまう向きを見越した、「ええ、二番煎じですがなにか?」 的な福田氏の開き直りだ。 これを笑うことができなければ、このドラマを素直に楽しむことはできないように感じる。

 福田氏のギャグ構造には、既存のコンテンツを題材としたパロディを基本とするようなところがあるが、それは見る者のテレビ(または映画)への依存度を量る性格上、見る者の知識満足度に優越感を与える作業である側面を持っている。
 しかし福田氏は、その優越感に対して逆の攻め方をして 「あんまりいろいろ知ってても、エラソーにシラケてないで自分の知識を自虐して笑えるようじゃなきゃダメだよ」 というレベルで見る者を笑わそうとしている(ように見える)。

 要するにこのドラマは、悪ふざけとかギャグが寒いとか、そうした 「ネット世代のあまりにも正しい冷静な観察者」 に対する 「寛容の勧め」 のドラマ、という側面も持ち合わせているのではないか。

 昔のことを言い出すとキリがないが、昔はもっとこうした、ハチャメチャでアナーキーでワイルドなドラマがいっぱいあった。 このドラマで 「バカヤローっ!」 と叫び続ける佐藤二朗はどこか卑屈で視聴者のネガティヴな反応を気にしている。 クレームを恐れている。 それは現代のドラマの、そしてテレビの、どこか腰が引けている態度と性格を一にするものなのではないか、と私は感じている。

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2017年1月15日 (日)

「逃げるは恥だが役に立つ」 ―「ふたり」 を阻む、肥大した 「ひとり」 の壁

 2016年10-12月期のドラマは豊作だった。 なかでも火曜日のTBS 「逃げるは恥だが役に立つ」 の新垣結衣、水曜日の日テレ 「地味にスゴイ!校閲ガール・河野悦子」 の石原さとみ、木曜日のフジ 「chef~三つ星の給食~」 の天海祐希は、三者三様の 「女優のうまい使い方」 の見本を見せられているようで、ドラマ好きには至福の3日間だったように思う。

 内容的に見ると石原さとみと天海祐希の役柄は 「元気印の女」 という、これまでのドラマでは使い古されたポジション。 しかしながらポジティヴの 「権化度」 が従来に比べハンパではなく、かなり楽しめた。
 このふたつのドラマは、キャラクターがこれまでの踏襲である以上、毎回の展開も定型的にならざるを得ない弱みがあった(特にフジの 「chef」)が、主人公の生き方はそれをなぎ倒すほどに前向き。 それに引きずられる形で多少の誤謬をものともせず、強引にドラマ自体が展開し、その痛快さは見ていて飽きることがなかった。

 特に石原さとみ。 彼女の押しの強い演技は私の個人的な印象で言えばこれまで、ドラマのなかでどうも 「浮いて」 しまっていたように思う。 この人は抑えた演技のほうが味が出ていいと思っていたのだが、今回の 「地味にスゴイ!」 ではこの、彼女のダメパターンを逆に突き詰めて徹底的にウザくさせ、問題を浄化してしまった気がする。 この 「元気の使い方」 を見抜いた作り手は 「スゴイ!」。
 いっぽう天海祐希の 「元気印」 はすでに安定の域に達していて、鉄壁の感すらある。 それは彼女の原点である、タカラヅカ男役特有の安定感であることは言うまでもない。
 

 それに比べると 「逃げ恥」 の新垣結衣演じる 「みくり」 は自分のことを 「小賢しい」 と思い込んでいる点で前者ふたりとは対象的だ。
 彼女は派遣社員をクビになるたびに自信がなくなっていく状態にさいなまれている。
 いきおいドラマの空気も前者とは決定的に違って、登場人物の 「自分にダメ出し」 モノローグが中心を占めるのだが、それをこのドラマはみくりが 「情熱大陸」 や 「NEWS23」 の登場人物になるという妄想を使い 「既存番組のパロディ」 をすることで、暗くなりかける空気の入れ替えを図った。

 この、主人公みくりの自虐的な思考の行ったり来たりが、新垣結衣の新たな魅力を引き出すことに成功した。
 新垣結衣という人は、徹底的な 「カワイイ」 イメージで生き残ってきた人だと思う。 出てきたときからもう10年くらいになる気がするけれど、そのイメージが持続していることは驚異的だ。 彼女の透明で清純なイメージは、地であるという印象がとてもある。 これがほんとうなのか戦略なのかは女性を見る目がない私には見当がつかないのだが、芸能界の浮ついた雰囲気についていけない不器用さ、というものは見ていて思う。

 みくりの不器用さというのは、そのガッキーの不器用なイメージと絶妙にリンクしている。

 彼女の印象的な役、というと、近年では 「リーガル・ハイ」 が思い出されるのだが、こちらの彼女はおよそ現実とはかけ離れたところにある不器用さを兼ね備えていた。
 ところが 「逃げ恥」 の不器用な彼女は、あくまで現代女性の等身大を体現している。 よりリアルなのだ。

 その現実的なキャラクターがテレビドラマというおとぎの国の世界に放り込まれたとき、彼女はよりリアルになった自分の妄想を楽しみながら、「契約結婚」 という非現実的な選択を選んでしまう。 もうじきアラサーの声を聞くことになる 「カワイイ」 ガッキーはそこに、自らの新しい可能性を見い出した。

 ただしドラマの展開に、少しも不満ではなかったわけでもない。
 まずみくりが契約結婚を提案する相手 「平匡(ひらまさ)」 に、みくりがかなり早い段階から好意を抱いてしまっている点。
 星野源演じるこの平匡は、いわゆる 「絶食系男子」 というもので、30有余年異性との関係がなかった人畜無害の男。 しかも星野源だし(なんだソレ)。

 星野源という人を私が初めて見たのは、「ゲゲゲの女房」(2010年) で主人公の松下奈緒の弟役をやったとき。 と思ったのだがウィキを見たらずいぶん前から無意識的に見ていたみたいだ。
 とりあえずその 「ゲゲゲの女房」 では早くに亡くなってしまう役で、その後すぐに病気を発症したのもあって、私のなかでは儚げな印象がずっとあった。 「ゲゲゲ」 のとき多少興味を持って彼が歌を歌うこともそのとき知ったのだが、昔は自省的ないい曲歌ってた。 最近よく曲が売れるようになって聞く機会も増えたのだが、ずいぶん派手な印象になりましたね。 「逃げ恥」 のエンディング曲 「恋」 もその路線。

 それはいいとして、近作の 「コウノドリ」(TBS)での冷たい医師の印象も強い星野源が絶食系男子なのだから、間違っても間違わない、というか。 みくりにとって平匡というのは事務的な契約関係に最適な、手なずけやすいかなりの安全ゾーン男なのである。

 しかしそのみくりが、「カワイすぎて腹が立つ」 レベルで平匡に恋していく、というのは、これはルール違反だろ、というか(正直モテない男の僻みだ)。 平匡が 「俺物語!!」 みたいのだったら話が成立するのか?みたいな。

 ところがドラマ的な求心力からいくと、こうしたシンデレラストーリーを兼ね備えた少女マンガ的展開はいったんハマると徹底的にハマる。 実際このドラマは同クールのドラマの中ではいちばん社会現象化した。

 少女マンガに出てくる男というのは、ブ男では成立しない(ただしフツーであれば可)。 さらに清潔感がないと受け入れられない。 「ハグで~す!」 と言ってふたりがハグしても、一緒のベッドで眠れなくなっても、そこにはまったくギラギラとしたものが存在しないのだ。
 あまりにギラギラしなさ過ぎてみくりのほうが却ってイライラする始末なのだが、女性たちにとってこうした淡白な男のほうがいいのは、実は楽だからなのではないか、と思う時がある。

 それはそれとしてドラマ的展開でいくと、みくりが平匡に早い段階で恋してしまうことで、「契約結婚」 というドラマの社会的な構成要素が隠されてしまったような気もする。
 そこで定型的になりそうなドラマを救ったのがみくりの叔母である石田ゆり子なのだが、こちらも少女マンガ的な願望の上に成立しているキャラであると言える。 彼女はアラフィフの設定であるのだが、「いや違うだろみくりの姉だろ」 という設定でもいいくらいアラフィフに見えない。 だから石田ゆり子がこのドラマのなかで恋してしまう設定も、「アラフィフ女の臆病」というリアルを扱いながら、少女マンガ的な空想のカテゴリのなかに収まってしまうのだ。 これがそれなりに老けてるアラフィフだったら話が成立しない。

 しかし、契約結婚という枠のなかで互いに行ったり来たりすれ違いをする胸キュンの話が進行する中で、驚いたのは最終コーナーを回ったオーラス2回の話の展開だった。 ここで 「契約結婚」 の社会的要素が一気に噴出した。

 つまり、平匡がリストラされたのを契機にみくりに対して従来の普通の結婚形態にしようと提案を申し出たのに対して、「それは 『好きの搾取』 です」 とみくりが異を唱えたのだ。
 ここで私は、ドラマから 「従来の結婚」 について考える契機を突きつけられた気がした。

 みくりは町内の活性化に向けてアドバイザーを請け負ったのだが、ここで労働対価の搾取を主張したことが前フリだった。
 ここでみくりはその仕事の内容と対価が合わないことにいら立ち始めたのだが、こういう齟齬は、仕事をしている人間なら大なり小なり感じていることだ。 その齟齬が大きくなれば人は転職を考えたり実行に移すわけだが、たいていの人はある程度の妥協を胸に抱えながら、仕事を続けるはずだ。

 平匡からの提案をみくりが拒絶するに至って、実は結婚も、そうした妥協のもとに成立する関係なのではないか、という問題提起がドラマから投げかけられた。
 ふたりの関係は途端にぎくしゃくしだす。 食事も掃除も洗濯も、線引きが曖昧になればお互いがそれを補っていかなければならなくなり、心理的な負担が増大していくのである。

 それは 「愛とは無償のものだから」 というキレイゴトが廃された、相対的関係としての結婚の現実だ。
 みくりと平匡は互いの義務の範囲を話し合いで探っていくのだが、星野源も出演していた 「真田丸」 のパロディを導入して暗くなる方向性を緩和したものの、みくりは自分のわがままさと小賢しさにどんどん打ちのめされ、しまいには風呂場に引きこもってしまう。

 ドラマは周囲の状況に合わせてなんとなくハッピーエンドの方向に収束していくのだが、よくよく考えるとなんか、みくりと平匡に関してはきちんと解決していない。 問題は孕まれたまま、結局 「大好き!」 という感情的な結論で押し切ってしまうのだ。

 しかしそれが却ってリアルに感じる。 絵に描いたようなハッピーエンディングなんて、結婚には存在しない。 お互いが 「ふたりであること」 を学んでいく場が結婚なのだ、という結論が、そこに導き出されている。

 逆に言えば、現代の人々が結婚できない理由というのが、どこまでも肥大化していく 「自分」 というものに自分自身が対処できなくなっているからなのではないか、ということも見えてくる気がする。

 つまり、「校閲ガール」 や 「chef」 のように、自分の夢を追おうとすると他人が入ってくる隙間がそこに無くなってしまう。 結局石原さとみが演じた河野悦子もカレシとの真剣な交際を先送りしてしまうし、天海祐希が演じた星野光子も夫と子供を捨てることでしか自分の夢を追えなくなっていた。

 ネットの発達などで世の中には、「別に知らなくても生きていける」 情報があふれかえっている(自分もその発信者か…)。 通勤の行き帰りにスマホを歩きながらでも見ない限りそれにおっつけない。 24時間じゃ対処しきれない。 一生かかってもコンテンツを見倒せない。

 そんな現状のなかで、パートナーがいて子供を育てて、なんていうヒマなんかあるのか。
 お互いの距離が分からなくて切ないストーリーが展開される 「逃げ恥」 は、そのなかの現象のひとつであるかもしれないのだ。

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2017年1月 8日 (日)

「おんな城主 直虎」 第1回 戦国空想絵巻の危険性孕む幕開け

 大河ドラマが2年連続で戦国時代、というのはここ最近例がないが皆無、というわけではない。 直近では2006年の 「功名が辻」 と2007年の 「風林火山」 は2作とも戦国時代だった。 ただし世代的には1世代ほど 「功名が辻」 のほうがあとの話となろうか。

 今回の 「おんな城主 直虎」 も前回の 「真田丸」 より40年ほど前の話となり、主人公の井伊直虎は1582年に亡くなっているので、おそらく関が原までは話が至らないであろう(井伊直政の描かれかたによるが)。
 ただ両者のあいだには興味深い関係が成り立っている。 それは現在NHKBSで再放送中の 「武田信玄」(1988年) との絡みにおいてである。

 そもそも井伊氏も真田も赤備え、という鎧の種類が同じ。 この両者の赤備え、元をたどれば武田軍の赤備えに行きつくという。 赤い鎧によって、この3つの大河は奇妙な関係を保っているのだ。

 「武田信玄」 においては、去年の大河で草刈正雄が印象深い役を演じた真田昌幸の父親、幸隆が、信玄の重臣として、橋爪功によって演じられていた。 端役と思いきや、結構重要な役回りであり、出番も多かった。

 そして今年の大河で井伊家を翻弄することになる今川家も、「武田信玄」 において重要な位置を任されていた。 今回春風亭昇太が演じる今川義元は、故中村勘三郎(当時勘九郎)が演じていたが、勘九郎は異様とも思えるお歯黒を自らに課し、隙だらけののんびりとした義元を演じながら、実は抜け目なく怒ると水面下でえげつないことをする、という 「よく分かりにくい」 ゆえに 「演じることが難しい」 二面性ある義元を見事に表現していた。 私のなかの今川義元は以来、中村勘三郎によって記憶に残った、といってよい。

 第1回を見た限りで言えば、今回の春風亭昇太の義元はかなりブキミでコワイ。 たぶん大河で初めての端役でない役なので気合が入っているのであろう。
 義元の母親である寿桂尼は、「武田信玄」 ではいまは亡き岸田今日子。 これも、「ムーミン」 とか 「赤い運命」「探偵物語」 くらいしか知らなかった自分にとっては大変なインパクトで、この人の演技力というものを強烈に認識させられたドラマでもあった。 今回この役が浅丘ルリ子によって演じられるのを見るのは非常な楽しみだ。

 今回の大河の脚本が、あの傑作 「JIN」 を書いた森下佳子氏であることも、私の期待値を上げている。 「JIN」 以外にも、「とんび」(TBSのほう)や 「天皇の料理番」(マチャアキじゃないほう) において実力を発揮してきた脚本家だ。

 しかし、実は期待しているのはここまで。

 実際のところ、「本当に大丈夫なのか?」 という危惧ばかりが先だって仕方ないのだ。

 まず主役の柴咲コウ。 この人の時代劇はフジテレビの 「信長協奏曲」 での信長の妻、帰蝶役でしか見たことがないのだが、このドラマ自体がタイムスリップもののトンデモ時代劇だったせいか、演技もツンデレが入った現代風で 「こういう人が重厚感を必要とする大河ドラマで存在感を示せるのか?」 という不安が拭いきれない。 第1回では子役が中心で本人は 「いざ!」 というセリフだけだったが、どうにも線の細さが気になる。 髪の毛パッツンで金太郎だし。

 そして不安の中心のあるのは、「そもそもこの主人公が男だったのか女だったのかも分からないのに、話が成立するのか?」 というものだ。

 去年(2016年)の暮れになって、「井伊直虎は男だった」 という説がにわかにニュースによってもたらされたのだ。 もうすぐドラマが始まろうかという時期に、タイミングとしては最悪だ。

 そもそも、そういう説が飛び出るということは、資料的にも非常に乏しい人物を、大河ドラマという 「1年という長期を通じて行なわれるドラマ」 で採用していることになる。
 こうした 「資料が弱い人物を主役にする」 ケースでもっとも記憶に新しいのは、一昨年の 「花燃ゆ」 が挙げられる。 吉田松陰の妹、という例だ。
 脚本家は当時、「資料が少ないからいろんな想像を膨らませて話に出来る」 というポジティヴシンキングを行なっていたが、結局惨憺たる結果になったことは明らかだ。 この轍を踏まないことを切に願っている。

 第1回の全体的な印象であるが、平均的な大河ドラマとしての合格点には達していると思われる一方で、あらためて去年の 「真田丸」 における三谷幸喜氏の手腕に思い至った。
 つまり、去年は人物関係がとても分かりやすかったのだ。

 今回、第1回において主人公のおとわ(直虎の少女時代)と男の子二人、鶴丸と亀之丞の関係性を中心とした部分に絞っていたことは評価できるが、井伊家の構造自体が頭に入ってこない。 いきおいデータ放送の主要人物紹介頼みになってしまった。

 亀のほうは井伊と言っていたがそれでおとわのところに婿入りとか? なんじゃソリャみたいな。 要するにおとわと亀はいとこってことか?みたいな。 おとわの父が杉本哲太でこれが井伊家当主で、亀之丞の父が宇梶剛士で杉本哲太の叔父で?キャラ的な立ち位置が似ている役者だから多少混乱した(いや、つーことはおとわと亀はいとこじゃないのか?)。

 さらに鶴丸の父親、吹越満が井伊家とどういう関係なのか頭に入ってこず、どうして今川と通じているのかがパッと分からないから、宇梶剛士がどこに密書を出すのかもそれをどうして吹越が阻止するのかもすぐには分からなかった。

 分かったのはまあ、おとわがやんちゃで亀之丞との政略結婚みたいなものにも素直に従って愛情もあったということくらい。

 まあ、ここらへんの相関図が急に頭に入らないのは毎年のことなのだが、「真田丸」 にはそういうのが一切なかったなあ、といまさらながらにして思うのだ。
 しかしこのままでは、「幕末男子の育て方」 みたいな 「花燃ゆ」 の悪しき傾向に染まって 「イケメンいいなずけの育て方」 みたいな空想話になってしまうのではないか。 しかも主人公は史実的に、男なのか女なのかも判然としないのである。 危険性をじゅうぶん孕んだままの幕開けだったように思えた。

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2017年1月 4日 (水)

「べっぴんさん」 前半まで見て

 子供服・ベビー用品を扱う仕事を立ち上げていくヒロインの姿を描いた、今回のNHK朝ドラ。
 前半までを見た全体的な印象をひと言で申し上げると、「地味」。
 「あまちゃん」 以降の朝ドラに顕著だったように思える、いろんな仕掛けが盛りだくさんで、見ていてウキウキするような派手さがまったくない。

 だいいち、今回の朝ドラは 「見る側を笑わせようとしていない」。 このスタンスの朝ドラを見るのは、私にとってはずいぶん久しぶりのような気がする。
 地味な上に笑わせようとしていないから、見る側は簡単に 「つまらない」、とそっぽを向いてしまいがちだ。 悪いことに 「笑える部分」 の作り方がまたかなりヘタクソで、笑わせようとしている部分では思いっきり白けてしまうこともしばしば。
 じっさいに視聴率はあまり芳しくないし(それでもそれまでの朝ドラに比べれば、という話だが)、「紅白歌合戦」 でも私の見る限り完全に黙殺されていた。 大阪制作の朝ドラが紅白で冷遇されるのは今までにも何度か見てきたが、ここまで完全無視というのはなかった気がする。

 これは、ヒロインの芳根京子を以前から朝ドラヒロインに推し続けてきた私にとっては非常に残念な事態だ。 彼女を推したのは 「表参道高校合唱部」 での天真爛漫で元気な演技を見たからであるが、「べっぴんさん」 のヒロインというのは、これまでの朝ドラヒロインにはあまり見たことのない、いわば真逆の性格によって彩られているのだ。

 いわく、消極的。
 いわく、暗い。

 ここに 「自分の言いたいことをズケズケ言わない」、という項目も付けたいのであるが、「なんか…なんかな…」 と逡巡する決まり文句のあと、結局ヒロインは言いたいことをしゃべっているので除外する(笑)。 ただここ数作にわたる、流行語を生み出したいというNHKのスケベ心がここでも継続しているような気がして、この 「決まり文句」 はいただけない、という気はする。

 また、物語の性格に目をやると、「お嬢さまがたのままごとみたいなビジネス」、という内容が浮かび上がってくる。 ドラマに出てくる男性陣がしばしば呆れかえるのだが、ヒロインを加えたメインスタッフ4人は出たとこ任せでいつも結果オーライによって救われている。 逆境に対する必死さがまったく見えず、常になんかいつの間にか解決していたりする。

 引き合いに出すのは酷だが、同じ関西圏で同じような服飾ビジネスを展開していた朝ドラ 「カーネーション」 においては、主人公は自らが生きていくために死に物狂いだった。 どうにもならんもんを強引にこじ開け、とんでもない受注をしたときは自らに鞭打ち、塗炭にまみれながらもなにがなんでも仕上げた。

 「べっぴんさん」 にはそうした 「苦労話」 が一切ない。 弁当箱を急に500個作らなければならなくなってもフンフンみたいな感じで病気がちだった子が仕上げてしまうし、どこからともなく助っ人の女性たちが集まって足りない商品を作ってしまう。 ちょっと気に食わないことがあると仕事を休み、忙しくなった途端に 「過労」 で倒れたりする。 見ていて、ホントにお嬢さまだな、と思う。
 経理は相当なドンブリなので、どこまできちんと報酬が支払われているのかも謎だ。 原価との兼ね合いもたぶん雑なのであろう(ヒロインの夫が経理をやることになったので、今後このような杞憂は一掃されるが)。

 それなのに話はとんとん拍子に進み、彼女たちの店 「キアリス」 は有名百貨店に支店を出してしまう。 「カーネーション」 のオハラ洋裁店とは何が違うのだろうか。

 おそらくキアリスは、戦後のベビーブームという時代のニーズにかなりマッチした、というのが私の結論であるが、作り手の描きたい部分もそこにあるのではないか、という気がしている。

 なぜ、このような甘っちょろいお嬢さまビジネスが成功していくのか。

 実は、私がこのドラマの視聴をリタイア出来ない理由もそこにある。

 まず彼女たちのビジネスというのは、「主婦目線」、ということが挙げられる。 自分たちに興味のあることだから、発想もけっしてビジネス的に外さない。
 さらに、メンバーひとりひとりのポテンシャルが思った以上に大きい。 特にデザインを考える君ちゃんだったか?(よー覚えとらん…笑)、の能力が売り上げに多大な貢献をしているように思える。 看護婦やってた人(これも名前がパッと出てこない…笑)はこのメンバーのなかで唯一お嬢さまではないが、彼女の育児知識はキアリスの立ち上げ時に集客力に弾みをつけることにとても貢献した、と思える。
 そして、前半最終週の話の展開から分かったのだが、この4人が 「友達感覚」 で風通しを良くしている、というのも大きかった。 開店と閉店の時間は毎日決められていたのだろうが、ドラマを見ていると結構その縛りも緩いような気がする。 フレックスタイムとまでは言わないが、この緩い関連性がキアリスを円滑に動かすカギなのだ。

 この4人はけっしてガツガツと利益を上げようとしていない。 ただ言えるのは、彼女たちが取扱商品を増やしていくのは、利益誘導のためでなくて、先ほども指摘した 「自分たち主婦がそうしたほうがいいと思うから」 という目線からでしかないのだ。

 このような地味な話をきちんと視聴に値するレベルまで持っていけているのは、やはりヒロインの芳根京子の力が大きい。 このコは、元気な役でも地味な役でもこなせるオールラウンダーだったのだ。 地味な役だとそれが分かりにくいのが少々忸怩たる思いだ。

 また、男の視聴者、という立場からいうと、ヒロインの夫である紀夫の 「不器用さ」 にも注目してしまう。 彼は自分のしたいこととするべきことのズレに悩み、自分の居場所を求め続けている。

 いずれにしても、生真面目に話を展開しているという点では評価できるが、話にはところどころ矛盾点もあるし、変に笑わせようとするところに多少の揺らぎを感じなくもない。 それでもたぶん最後まで見てしまうのだろう。

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2017年1月 1日 (日)

「紅白歌合戦2016」 タモリとマツコのスタンス

 北島サブちゃんが去り、和田アッコもいなくなり。
 「紅白」 が 「紅白」 である必然性というのは、ここ数年ですっかり無くなったように思える。
 我が国において、誰もが知っている曲なんてものはなにもないというのがスタンダードなものとなってずいぶんたつが、紅白は昔のように午後9時からやるというスタイルに戻そうとしない。 午後9時からやってた時代のほうが、紅白の人選に漏れた誰もが知ってる曲にあふれていたというのは強烈な皮肉だ。

 こと去年(2016年)の水準からいって、私の心に残った歌というのは正直なところおよそ1曲しかない。 宇多田ヒカルの 「花束を君に」 だ。 あえて言えばカップリングの 「真夏の通り雨」 のほうが強烈な印象だったのだが、ここまで言葉を削ぎ落として自らの言いたいことを歌に出来るというのは恐るべき才能だ、と感服している。

 ラップなるものが外国からやってきて日本人もサルまねしはじめてずいぶんたつけれど、過剰な言葉があふれればあふれるほど、私の耳は発信者のメッセージを聴きとることを拒絶してしまう。 百万の言葉が1曲のなかにあふれているのに、私の心まで届く言葉はほとんどない。
 それなのに、宇多田ヒカルはいま日本に存在している 「アーチスト」 なるものの紡ぎ出す言葉すべてを駆逐した。

 その宇多田ヒカルの曲が去年(2016年)の紅白に入っていたのは、せめてもの救いだったように思う。 同じ紅白の場で歌われた曲のなかで、この牙城に迫る歌詞の世界を持つものは、絢香の 「三日月」 だったのではないだろうか。
 だが、「三日月」 は去年の曲ではなかった。

 司会の相葉クンと架純チャンが場慣れせず地味な印象であるせいか、去年(2016年)の紅白はとても淡白な印象に終始した気がする。
 それを補うためか、番組は去年(2016年)流行ったコンテンツを導入した。 「シン・ゴジラ」 である。 「ゴジラがNHKのある渋谷にやってくる」 という設定。

 しかしその映画を見ていない私にとって、この演出はあまりピンとこないものだった。 しかも演出の仕方がまるで切迫感を伴っていない。

 「歌の力でゴジラを倒せる」 とか。 は? なんだそりゃ?

 作り手がゴジラにおんぶにだっこでハナからマジメにやろうとしていないから設定にリアリティがなく、これが 「リアリティ重視」 というのが謳い文句だった 「シン・ゴジラ」 の性格と大きな齟齬を伴ってかなり白けた。

 「紅白」 と別の世界を 「紅白」 において展開する、というミクスチャーは数年前の 「あまちゃん」 をお手本にすればよい、と私などは思う。 これは発想と意気込みのありようでいくらでも効果的な演出が期待できる種類のものなのだ。
 例えば映画のなかの出演者たちをNHKホールになだれ込ませるとか、手段はあったはずだ。

 5時間近く注視していたわけではないので見落としたのかもしれないが、現在放送されている朝ドラ 「べっぴんさん」 が黙殺されていたのも気になった。 主題歌のミスチルがそもそも出場しなかったのもあるが、「とと姉ちゃん」 の高畑充希が随所で出ていたのとは対照的だった。
 出場歌手で言えばNHKが去年のリオ五輪でテーマ曲を起用していた安室奈美恵が出なかったのも首をかしげたくなる。 紅白の人選や歌う曲には疑問がつくのはいつものことだが、この2組については出るのがガチでしょう。

 また、新垣結衣が審査員、というのを事前に聞いて私が密かに期待していた星野源 「恋」 での 「恋ダンス」。 他局のドラマのせいもあろうが、ガッキーの積極的な参加が見られなかったのは残念だった。 ただまあ、ガッキーのリアクションはそれはそれでカワイかった(笑)。 考えようによっては絶妙な消極さ加減だった、と言っていい気もする。

 しかし。

 去年の紅白で私にとっていちばんのサプライズは、なんと言ってもポール・マッカートニーのメッセージが届いたことだった(!)。  「来年(2017年)日本に行くよ!」。

 ただ驚き嬉しかったと同時に感じたのが、「今度の公演はチケット代2万越えか?(あ~あ、どうすんの…笑)」。

 なにしろ最新のアーカイヴ・コレクションである 「フラワーズ・イン・ザ・ダート」 の日本盤スーパースペシャルバージョンが値引きなしで2万6千円とかいうアホみたいな値段なのだ(アマゾンでは2万2千円くらい)。 どんどん高くなるんですけど。 ビンボー人はスーパースペシャル買うなってか。
 それを考えると、公演のチケット代もどんどんインフレーションするのは目に見えている(後記…同時に正式に発表され、チケット代も発表されたが、前回の公演と同じようだ…どっちにしろ高けぇ~けど)。 それに、ポール来日を仕切る興行の仕方は最悪なのだ。 それについて書き出すとキリがなくなるのでここでは書かないが、とにかく最悪すぎる。 リンゴ・スターを見習え、とだけ言っておく。 集客力の問題ではない。

 いきなり私情で論調が変わってしまったが、このように、過渡期であるのか空洞化が進んでいるのか、よく分からないが、このような物足りない紅白は、自分の用事をやりながらただ横目で流れているのをチラチラ一瞥するスタンスがいちばん適当なのではないか。

 今回の紅白では、タモリとマツコ・デラックスが特別ゲストとしてほとんど会場のNHKホールにたどり着けないまま終わってしまったのだが(それが 「蛍の光」 のあとまで続く、というこれまで見たことのないパターンであった)、タモリとマツコはおそらく、自らの意志としても会場にたどり着くことをよしとしなかったのだ。
 この、タモリとマツコのとった、「紅白」 に対する白々しい思いこそ、視聴する側の 「紅白」 に対する正しい姿勢なのではないか、という気がする。

 最後になったが、「最後に紅組が勝ってしまった?」 というこの妙な尻切れトンボ感についても書いておく。
 これは視聴者投票による結果も会場の判断による結果も、ともにボール2個分の価値しかないわけで、審査員ひとりにつきボール1個、という重みとは比べ物にならないことに起因している。
 これって私みたいなテレビウォッチャーには半ば常識みたいな感じだったけれど(でも半ば忘れてた)、結果発表のときなんかあまり説明がなかったような。

 勝ち負けなんかほとんど意味がないのは最近の 「紅白」 なんだけれど、相葉クンが涙まで流していたからちょっとそれはかわいそうだったかな、みたいな。 別にいーけど。

 後記 ポールのサプライズに胸躍った私であったが、放送直後これを書くにあたってネットニュースを見ていたところ、元東芝EMIビートルズ担当だった石坂敬一氏が亡くなったことを知った。 禍福はあざなえる縄のごとし。 ご冥福を心よりお祈りしたい。

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