テレビ

2019年5月15日 (水)

「わたし、定時で帰ります。」 「働き方改革」 政策のアホな部分には触れないが

 ウェブ制作会社で 「残業しない」 ことをモットーとしている社員を、吉高由里子が演じる。
 吉高は私の勝手なイメージとして、「あまりやる気のない」 キャラである。 「花子とアン」 の時だけは頑張ったが、それ以外は総じて、女優という仕事に対してフニャフニャしている印象だ(笑)。 要するにマイペースだ、ということだが、そんな彼女が 「定時出勤・定時終了」 を謳うドラマの主役をやるというのだから、最初は 「合ってんじゃない?w」 くらいの軽い気持ちで見始めた。

 だがこのドラマにおける彼女の立ち位置というのは、実はかなりの実力によって成立している、とすぐに認識を改めた。
 なぜなら、定時で帰る、というのは、定時で仕事を 「終えられる」 から帰れる、ということ。 残業などしなくても、彼女は自分の仕事を定時間内に全部片付けているのである。
 さらに自分の仕事をこなしながら、第1回でシシド・カフカをフォローし、第2回で内田有紀を立ち直らせ、第3回で泉澤祐希のやる気を復活させ。 これってかなりのスーパー社員である。

 見始めてから数回は、そんな吉高自身の本来のイメージと、その彼女が嫌々ながら社内の問題を片付けていく様とのギャップが面白くて、視聴していた。 主人公が仕事に対して現実的なスタンスなのは、以前の主演作である 「東京タラレバ娘」 とさして変わらないが、「タラレバ」 では仕事に対して仲良しグループで愚痴り合い、ネガティヴな捉え方をしていた。 「わた定」 では 「やるだけのことはやる。 文句ある?」 という、かなり鮮やかな割り切り方をしている。 流されない、カッコイイ生きかたを目指しているかのようだ。
 それでいて、ほかの社員に対して必要以上に厳しいこともない。 これは自分が常に定時で帰ることへの後ろめたさと潜在意識下で繋がっていると思われる。 だが彼女の表層的な意識では、「人それぞれに働きかたは違ってしかるべき」、と考えようとしているようだ。

 そんな彼女のスーパーぶりを支える仕事の方法が披露されたのは第4回だ。 「デスクの上は常にきれいに、書類の整理整頓、やるべきことの優先順位を分かりやすく分類化、視覚化」「タイムトライアルでひとつひとつの仕事を自分の設定時間内に片付ける」。 これらは仕事をやる上ではとても基本的なことで目新しいことは何もないが、そのほかにも彼女のキャリアを支えているのは、特にポストイットをPCに貼らなくとも、突発的な出来事に対して上司やクライアントに真っ先にどうすべきかをわきまえている、ビジネスのバランス感覚に優れていることではないか、と思われる。 ホウレンソウ、「報告・連絡・相談」 においてミスが少ないのである。

 このドラマは毎回毎回、あまりにも都合よく吉高の周りの人間たちが体質改善されていくので、「やっぱりドラマにありがちなあり得なさぶり」、と思われがちなのだが、「ドラマの都合よさ」 を差し引いても彼女の仕事ぶりは参考になる。

 問題なのは。

 そんな彼女の 「定時で帰ってしまう」 というやり方が問題視されてしまう、という 「社内の空気」 にある。 さすがに会社内では目に見えてほかの社員たちが反発するような流れはないが、これをいちばん問題視しているのは部長のユースケ・サンタマリアだ。
 彼は以前、別のウェブ会社を経営していたがそれを売却し、吉高の会社に転職してきた。
 吉高が頼りにしている引きこもりのブレーンとも呼べる若い男がいるのだが、その彼によれば、ユースケはちょっとヤバいらしい。
 何がヤバいのか。 このドラマを縦線で引っ張っているのは、そのことへの興味だ。

 私の見立てで言えば、ユースケ部長はパワハラ得意の旧体質の人間だからヤバい、ということなのだと思う。 旧体質な仕事との付き合い方で、若い世代が多いと思われるウェブ制作の世界には馴染まなかったために前の会社をダメにした、と思うのだが。
 ということは、どうしてまた同系統の会社に転職できたのか。 ここらへんも謎だ。
 ドラマでは吉高の元恋人役で、ユースケと一緒に吉高の会社に引き抜かれた向井理がいるが、ユースケの転職には向井との関連もあるのだろうか。

 その向井であるが、私個人としては久々に彼をドラマで見た気がする。 どうも彼の出演するドラマとの私の好みとの相性が悪いみたいなのだが、今回の彼の役柄はとてもプレーンで、見ていて妙に、存在の安心感がある。 向井理はこういう、ちょっとフロントから引いたくらいの役のほうがよく似合う、と感じる。
 彼は吉高とは違って、残業もバリバリの 「従来のイメージによるスーパー仕事人間」 だ。 かなり出来る。 向井と別れた吉高はライバル会社の中丸雄一と婚約にまで至っているのだが、どう見ても向井のほうがお似合いだ(笑)。 仕事に対するスタンスが違う、という点で吉高と向井は結ばれない運命にあるが、ジャニーズ感丸出しの中丸のほうがはるかに頼りなさげだ(笑)。

 別に吉高と中丸の婚約がこの先破談になろうとどーでもいいが(なりそーな予感がする)、それよりも問題にしたいのは、「残業しなければならない社員」 側の理屈である。
 吉高は今の会社に対して、「モチベーションはお給料」、と言えるだけのマッチングがされているからいいが、「残業しないととても生活できない」、というミスマッチのなかで仕事をしている人間は、どうなるのか。

 つまりこれは、基本給の話になっていくが、今の 「働きかた改革」 で軽視されているのが、この 「基本給の安さ」 にあるとは言えないだろうか。
 定時で帰れて、その給料も充分満足できるのであれば何の支障もない。 もちろん家計の支出傾向が自分に見合ったものであるかどうかの考察は必要であるが、残業ゼロ時でも給料がいい大企業ならともかく、残業しなければ生活費が工面できない働き手は、プレミアムフライデーだの10連休だのすればまた残業代が減り、国の 「上しか見ていない」「庶民のことなど見ていない」 政策に振り回されっぱなしになってしまうのではないか。

 ドラマにおいて吉高は、「自分は仕事とプライベートのバランスがとてもよくとれている」、と話していたが、実際本当にその通りなのかどうかも、ちょっと気にかかる点だ。
 彼女は本当に、定時で帰って中華料理屋で半額のビールを飲み、小籠包を食べているだけで満足しているのか。 その先にストーリーの展開は待っていないのか。 これが気になる。

 最後まで興味の尽きないドラマになってくれそうだ。

2019年5月12日 (日)

「なつぞら」 自分のために生きる、他人のために生きる

 子役から広瀬すずに交代してからの 「なつぞら」。 数週間が経ったが、見ていてどうも喉元をすんなり落ちていかない遺漏感、のようなものがつきまとっていた。
 その正体とはなにかをぼんやり考えていたが(別に気にならないくらいの周到な物語であるので)、まず感じていたのは 「周到である」 がゆえの理屈っぽさである。 このドラマにおける登場人物たちの行動には、そうするだけの理由が常につきまとう。 それは特にNHK朝ドラに顕著な、テレビ桟敷の舅小姑たち、を黙らせるに充分足る理由だ。
 しかしそれが、どうも頭の中で考えた理屈の域を出ず、感情の部分にまで到達していない。 だから登場人物たちの行動にいちいち納得はさせられるのだが、なんかうまく丸め込まれたようなもどかしさ、モヤモヤとした後味を残していくことが多いのだ。

 その最も端的な例は、主人公なつの 「本当にやりたいこと」 について。 オープニングアニメーションで毎日しつこく 「ヒロインの将来の仕事はアニメーター」 と喧伝されているのだが、その動機についてとても丁寧にドラマのなかで描写されるのに、この子はそれがホントに好きだ、というのが実感されてこないのだ。

 そもそも、なつのアニメーターへの第一歩は小学校時代にパラパラマンガをノートに書いていたこと。 それは天陽くんという、なつがちょっと憧れていた男の子の影響もある。
 しかしよく分からないのが、なつがパラパラマンガを描いていた題材だ。 たしか誰かが(草刈正雄だったかな)怒っているところだったと思うが(もう記憶がない)そんなのはせいぜい2枚のペラペラで事足りるはずだ(笑)。 その昔ペラペラマンガをよく描いていた自分の偏見に満ちた感想だが、それってノートのページを何枚も費やして描くような題材ではない。 自分の好きなことを動かす、という醍醐味が、ペラペラマンガの大きな動機だ、と私には思える。

 また、小学校時代に学校の映写会でポパイを見たことも大きな要因のひとつだが、なつはポパイやオリーブをその後ノートや教科書やそこらじゅうに描くとか、そういったファナティックなのめり込み方をしない。 ごくほんのたまに(笑)話のついでに出てきて、ずいぶんとポパイに感動した、みたいなことを言う。 それって本気で思ってるのかな、と思えてしまうのだ。
 そして天陽くんの兄貴にもらった油絵セットで、宮崎駿監督の 「風立ちぬ」 のヒロインよろしく風景画を描いたりするのだが、油絵というのは、絵を描くことが好きな人間にとって、結構カルチャーショックな出来事だ。 間違えてもいくらでも修正可能。 絵具をカンバスに盛り付ければ果てしなく立体的になっていく。 そんなことなど、このドラマではどうでもいいのだ、とばかり、その過程は省略されている。
 そしてその絵を誰に褒められるでもなく、なんだかその絵に対してなつ自身の思い入れが語られることもなく。 「褒められる」 という、絵描きにとってかなり重要なファクターが欠落している。

 「褒められる」、と言えば、東京に実の兄を探しに行ったときに、すごくあり得ない確率の偶然(笑)によって実現した、アニメ下請け会社の見学に際しても、なつはいくら褒められても、ほとんど全くアニメーターになろうとは考えない。 そこのチーフだった井浦新になんだかんだとまた理屈っぽいことを言われて、ちょっと心動かされた程度にしか見えない。

 アニメーターの夢がほぼ決定的になったのは、北海道生活での兄的存在である照男からもらったチケットで観た、ディズニーアニメの傑作 「ファンタジア」。 ディズニーにしてはよくここまで映像を使わせてくれたもんだと思ったが、なつの心を鷲掴みにするほどの部分は使わせてもらえなかったためか、どうも見ている側になつの衝撃が実感されてこない。
 「ファンタジア」 というアニメは、クラシック音楽のPVみたいな感覚の、物語に重点がない作品なので、「白雪姫」 みたいなものを期待しているとちょっと肩すかしに遭う。 なつと一緒にそれを観た天陽くんの反応がイマイチだったのもそのせいかもしれないが、なつがどのようにこれに感動したかにはあまり触れることなく、その上映後に流された東映動画(ドラマでは東洋動画)の宣伝部分のほうになつが心動かされているような格好だ。

 最初のうちは、牛の出産で逆子の仔牛を取り出したり、バターの話が出たり、マンガ 「銀の匙」 みたいな話だな、と思ったが、そこからどうやってアニメーターの話になるのかがちょっと不安だった。 ただ、酪農に本気の興味をなつに持たせると思いきや、いきなり演劇のほうに話が方向転換。 しかしなつには、演劇に対しても、最後まで傍観者的な態度しか窺えなかった。
 だが総じてみれば、なつは普通に、この引き取られた北海道での土地で酪農をやっていくのが本筋のように思える。 もしなつが東京に行く日が来るとすれば、それは兄の咲太郎に呼ばれるかそれなりの意志をなつに持たせるかのどちらかだ。 要するになつにとってそれは、「他人(家族)のために生きるのか、自分の夢のために生きるのか」、という重大な二者選択の道なのだ。

 この朝ドラと並行して再放送されている 「おしん」。 そこでは有無を言わさず 「家族のために生きる」、という道しかおしんには残されていない。 誰かのために犠牲になっている、というのが人の人生にとって当然のあり方であったのだ。 「なつぞら」 にはそこんところのせめぎ合い、というものがあまり感じられない。 あるとすればそれは、草刈正雄が演じている泰樹の生きかたにおいてであろう。 開拓民として泰樹は、自分の望まない状況でも甘んじて受け入れ、それと闘ってきたに違いない。
 泰樹はなつを柴田牧場でずっと暮らさせようと、孫の照男の嫁にと画策するが、なつはそれに対して 「それは私を本当の家族だと思っていないからだ」、と泣いて訴える。

 なつの反駁は、理論的にはかなり正論である。

 だが、それはその場にいた照男にたしなめられるように(ここがこのドラマの周到な部分だ)、じいじの気持ちを理解してやらねばならない類いの結婚話なのだ。 時代的には昭和20年代後半の話であろうが、なつの精神はすでに現代のそれである。 なつの反駁が視聴者に受け入れられるのは、なつの反駁がたぶんにして現代的であるからだ。

 このドラマが周到な部分は、泰樹自身にこの結婚話が勇み足であったことを気付かせ、さらに娘の松嶋菜々子にフォローの場を持たせ、お汁粉でもってその後味の悪さを完全に解消しにかかっているところでも分かる。

 いずれにしても周到であることはマイナス要因ではない。 周到であることは、トリッキーな部分を回避していることに他ならないが、朝ドラ100作目としては賢明な道なのだろう。

2019年4月21日 (日)

「パーフェクトワールド」 山本美月のチャームとは何なのか

 最近TVerでドラマを見ている私にとって、フジテレビのドラマは敬遠すべき状況にあった。 今年に入ってから 「アドビをインストールして下さい」 さもなくば見れません、というアテンションが入るようになり、面倒くさがりの私はこの冬クールのフジテレビのドラマをすべて視聴キャンセルしていたのだ。
 ところがさきほど試しに見てみたら何の支障もなく見られたので、つまんなそうな月9は飛ばして(笑)関テレの 「パーフェクト・ワールド」 を見てみることにした。 山本美月のファンなので。

 このドラマは 「Kiss」 に連載中のマンガが原作である。 「Kiss」 という雑誌はテレビドラマの原作を量産している印象がある。 この原作は、半年前には映画化もされたらしい。
 内容は、高校時代の憧れの男の子と10年ぶりに仕事で再会したら、彼は下半身麻痺の重度障害者になっていた、というもの。 車椅子の日常を強いられているのが松坂桃李であるが、これまで見てきた彼の役柄のなかでも、最も自然なキャラのように思われる。 だが車椅子なわけで、それを乗りこなすのは至難の業と思われるが、松坂は乗ったままウィリーをするなど運動神経の良さをアピールする。
 車椅子の日常がどうなっているのかがさりげなく描写されていくなかで、彼が乗っている車。 足が動かせないでどうやって運転するのかとか、興味深い描写だ。

 役柄の上で彼は、高校時代のバスケ部のアイドル的な位置から、事故によってどん底に突き落とされながらも、一級建築士という夢を叶えている。 努力の人なのだ。
 その彼と再会したのが山本美月。 このところ 「いだてん」 でボブカットの新聞記者役が印象的だが、おそらくあっちがウイッグでこちらが地毛だろう。
 冒頭でのその再会シーンはかなりシンプルだ。 何の前置きもない、と言っていい。 ずいぶん乱暴な始まり方だな、と感じたが、作り手の意識は松坂の障害を印象づけるほうにあったようだ。 山本は松坂の障害を知らずに 「バスケはまだやってるの?」 と質問してしまう。 周囲にいた松坂の仕事仲間たちの空気は、一瞬にして凍り付く。

 ドラマが進行していくほど印象が強くなっていくのは、松坂の穏やかな態度だ。 どんなにイヤな状況になっても、彼はその穏やかさを崩さない。 それと対照的に、山本の松坂に対するネガティヴな接し方は、最初の心ない質問にとらわれていたにしろ、「そこまで気にしなくても」 と思われる神経質さだ。

 だが、それがいい。

 山本美月という女優は、実に可愛いと私は思うのだが、雑誌でグラビアを見たりすると、不思議と普通の美人になってしまう。 写真写りが悪い、というわけでもないのだが、動いているときの彼女のほうが数倍魅力的に見える。
 彼女にまとわりついているのは、その儚げな美しさなのだ。 彼女は時のうつろいを味方につけているのだろう。
 その儚さがつれてくる哀しさが、今回の彼女の役を引き立たせている。 彼女の表情を見ているだけで、饒舌なト書きに勝る心理状態を、受け手は感じていく。

 松坂の穏やかな感情は、高校時代からの恋人であった美姫(水沢エレナ)のことに触れると途端に尋常ではなくなっていく。 どんなつらい目に遭っても耐えてきた松坂ではあったが、意識的にいろんな感情を自分の奥に押し込めてきたのだろう。
 特に排泄に関する悩みは、彼のプライドの根幹を揺るがすほどの重大事であったことは間違いない。 最初冗談めかして山本にしゃべっていたことだが、同窓会で美姫と言い争い会場をあとにした松坂を追いかけた山本が見たのは、松坂の失禁する姿だった。 松坂は激しく感情を露わにする。

 このドラマのいちばん興味深いのは、こうした心理的な葛藤のやりとりだ。 山本のほうにも高校時代に絵に関わる仕事がしたかった、という夢を諦めている心の傷がある。 合併症による病(だったっけな)に倒れた松坂が仕上げなければならなかった外観デザインの着色を手伝うことで、山本は自分の諦めていた夢をもう一度叶えよう、と決心する。

 なかなか繊細なラブストーリーである。 でも視聴率悪いな。 ラブストーリーに飢えている人はみんな見たほうがいい(笑)。

2019年4月14日 (日)

「白衣の戦士!」 スゲードラマだな…(笑)

 まともな神経で見てると開始10分ももたないドラマ、というのはいつのクールにもあるものだ。

 このドラマは紛れもなくそのカテゴリに入るだろう(笑)。
 新米ナースと指導係の先輩ナースのこのコメディドラマ。 主人公の新米ナースを演じる中条あやみ、という女優を私が見るのは初めてであり、そこに一抹の不安をまず感じる。
 このナース、元ヤン設定らしく、正義感は強いが態度の悪さがなにかというと表に出てしまう。
 それに対応するのがW主演先輩ナース、水川あさみ。 彼女は中条の勤務姿勢をなにかと叱るのだが、このふたりのやりとりがコメディとしてだけでなく、結構既視感にあふれている。 ネットではこのドラマ、往年のヒットドラマ 「ナースのお仕事」 の丸パクリだとか言われているが(私は見たことないけど)、そのドラマでなくとも 「どっかで見たような」 やりとりが続く。

 それだけでも見る気がかなり削がれるのだが。

 中条が元ヤン仲間と居酒屋で水川への不満をタラタラと話してたら同じ居酒屋に水川がいた、とか、話自体もスゲーありがちで。 桜を見て季節を感じさせてあげよう、と年配の婦人患者を外に連れ出して水川から小言を受けたり、若い患者で言うこと聞かないヤツの母親のところに会いに行ったり、なんかホントに、緊張感がない上に手垢がついた話のオンパレードで。

 さらに命令を受けた中条がいったんナースステーションを飛び出し、すごすご戻ってきて 「それってどこでしたっけ?」。 んでナースステーションにいる全員が、お約束のようにズッこける。 まるで大昔のドリフだ。
 たいていの視聴者はこの時点で 「もう無理」、とリタイアしてしまうであろう。

 だがここまでベタな内容が続くと、却って感心してしまう自分がいる、というか(笑)。
 ドリフのコントのようなことも、呆れるよりも、それが回り回って一巡して、却って新鮮に思えるときが来たのかな、なんて。 フツーまともな神経ならやんないけど、ああこのドラマはやるスタンスなんだな、みたいな(笑)。

 それよりも、話がグダグダ過ぎるとツッコむ気も失せる、というか(笑)。
 これは、最近のドラマ視聴者によくある 「細かいことを気にしすぎ」、という警戒癖を解く鍵にもなっているのではないか、という(笑)。

 で、話は、言うこと聞かない若い患者が勝手に外出して食べちゃいけないもの食べて、母親の働くところにやってきて反省したはいいものの具合が悪くなって、そこに居合わせた中条がパニック起こしながらもなんとか応急処置をとって、みんなから見直され患者からは感謝され、水川は自分が看護師を続けていた理由をそこで再確認、という、

 まぁ~~~~、

 ドラマとしちゃよくある話で(爆)。 第1回だぞ(笑)。 もっとひねってくれよ(笑)。

 ツッコミどころは、多すぎて何を指摘していいか分からない(爆)。

 しかし不思議なのは、こんなダメダメドラマに、沢村一樹とか安田顕とか、ずいぶんと潜在視聴率を持っている俳優が出てることだ。 私がこのドラマの第1回を最後まで見てしまったのは、そこが謎だったから。 で、最後まで見て出た結論はこうだ。

 つまりこのドラマは、こういうヌルい作りと堅実な俳優の後ろ盾で、視聴者の心の警戒感、緊張感を解きほぐすことがまず最初の目的だったのではないか、という。
 そして 「煩雑な現実から離れ、コメディに弛緩し、あり得ない話をひととき愉しんでもらおう」、ということを意識しているのかもしれない、とか。

 下らないことに難しい解説をしてしまったが、要するにこのドラマは、「昔のスピードで、昔のユルさで」 作られている。 それに 「看護師がそんなことをしているヒマなんかあるか」、とかイチャモンをつけてしまうのは、無粋なのだ。 「くだらねえなあ」、と内心で思いながら、ユルい人情話に、普段ささくれ立った自分の気持ちがちょっと慰められるのを感じる。 沢村や安田がこういうドラマに出てしまうのは、そんな効用のあるドラマに意味を感じているから、なのかもしれない。 感覚的には、沢村が出ていた 「ひよっこ」 とか、安田が出ていた 「正義のセ」 あたりと共通するユルさがある気がする。

 そんなユルいドラマを最終回まで見る気力が自分にあるかどうかは分からないが(笑)、見ちゃうよーな気もする。 中条あやみというひよっ子が、どう成長していくのかを見たい気もするからだ。

「きのう何食べた?」 30分ドラマでこの濃密さ

 テレ東金曜深夜の30分ドラマ。 弁護士役の西島秀俊と美容師役の内野聖陽がカップルの、いわゆるBL設定である。 ゲイ同士の性別分担なんてあるのかどうか知らないが、見た感じから言えば硬派な西島が男役で、ナヨナヨしているように見える内野が女役に見える。 が、料理を作るのは西島のほうだ。

 「きのう何食べた?」 という題名から、「クッキングパパ」 みたいな感じなのかな、と思ったが、ドラマは料理に比重をかけている割には、話の中核はゲイ同士の微妙な心の絡み合いにある。 去年流行った 「おっさんずラブ」(私は未視聴)の流れをくむものなのかもしれない。

 原作はコミックで、特に内野のキャラ再現率は愛読者によればかなりのものだそうだ。 内野はナヨナヨとしたゲイを、一見それとは分からないレベルにまで薄めて演技しているが、それがリアルを助長している。 内野の演技の幅をまたここで実感する。
 対する西島は、男役であるからなのか、キャラ的に神経質であるからなのか、ゲイであるとは全く分からないレベルだ。 モノローグは西島が中心であるが、その事細かい神経質さによってドラマはコメディに傾いたり、心理ゲームに傾いたりする。 このドラマの心臓は、そこにある。

 これは西島のストイックゆえ几帳面ゆえなのか、ドラマのコメディ的な側面はなかなか視聴者を笑いへと導かない。 ただし西島に、コメディアン的な素質がないわけではないのだろう。 西島が持っているコメディアン的素質は、ナレーションによる心理的な見せ方より、アクション的な見せ方にある、と私は思っている。

 西島のキャラが神経質、という部分は、コメディにドラマを導かないばかりか、西島の役がとても冷たいように思えてくる。
 しかしドラマを注意深く見ていると、西島は傷つきやすい内野の、内面のフォローをそれこそ神経質なまでに行なっていることが見えてくる。 それがドラマに一定の深みを与えているのだ。

 西島の極度な節約志向は将来の経済的不安を見据えたもので、それが基本的に自宅でしか食事を作らない生活習慣に投影されている。 第1話において低脂肪乳を一ケタの円単位で惜しがる描写とか、第2話においてもらい物のイチゴをジャムにする描写とか、スイカを見知らぬ夫人(田中美佐子)とシェアしてしまう描写とかが、ビンボー人である私にも響くものがあったりする(笑)。 さらに第1話で、ハーゲンダッツのアイスクリームをコンビニで買ってしまう内野の無神経さを怒る、西島の気持ちにも共感してしまう自分ときたら(笑)。 「コンビニでなんかものを買うな、タバコと雑誌以外全部高いのに」、というのが私の持論だ(ローソン100は例外…笑)。

 だが節約しても、おいしいものは充分作れる、という方法論をこのドラマでは示しながら、いっぽうで 「いや、たまにはいい肉とかご褒美にあってもいいんじゃないか」、という気もしてくる。 この先おそらくそんな描写も出てくることだろう、と思うが、あまり安物買いばかりに長けてくると、本当に美味しい高いものの目利きが下手になってくるのも事実だ。 「こんなに高かったのに、なんか牛肉の味がしないな」、とか。
 もしかするとそんなことなどやらないのかもしれないが。

 いずれにしても30分ドラマでこの濃密さには舌を巻く。 こんなドラマもあれば、あんなドラマもあるのだが…(後述)。

2019年4月 6日 (土)

「なつぞら」 第1週 「健気」 の裏にあるもの

 朝ドラ100作目の 「なつぞら」 には、その記念として歴代の朝ドラヒロインがキャスティングされるそうだ。
 私は熱心な朝ドラフォロワーではないので、あまりその有難味を実感できないと思うが、NHKのその企画は長い朝ドラの歴史を俯瞰するいい試みだと思う。 あまりに長すぎて芸能界から離れたヒロインもたくさんいるが、ぜひ復帰出演してほしいものだ。
 さっそく第1週では松嶋菜々子(「ひまわり」)、北林早苗(「娘と私」、朝ドラ第1作目だそうだ)、岩崎ひろみ(「ふたりっ子」)の3人が登場した。 特に北林早苗は1961年(昭和36年)から57年ぶりの朝ドラ復帰(確か当時は1年で1作だったと記憶している。 だから58年ではなく57年)。 今作の主人公・奥原なつ(少女時代・粟野咲莉)に同情してサツマイモを手渡す、老婆の役だった。
 それはなんてことはないチョイ役という印象を免れないが、主人公なつのあまりの 「健気さ」 が 「本当はこの子の、したたかな処世術なのではないか」、と思い始めた視聴者に対する、重要な役どころを担っていた気がする。

 その老婆とのエピソードは、なつが北海道に連れてこられ世話になる柴田家の娘から 「ずるい」、と言われたことから回想されたシーンだ。
 東京の大空襲で両親を亡くした自分と幼い妹の命を永らえるために、なつは 「今にも死にそうな」 芝居を打ち、その老婆からサツマイモを恵んでもらっていたのだ。
 ただそれは、「ずるさ」、と言うよりも、「生きるための強さ、したたかさ」、であるとも言えた。

 なつが北海道に連れてこられた理由は、柴田家の婿養子である剛男(藤木直人)が、戦友との約束によってなつの面倒を見ることになったからだ。
 両親が死亡したとはいえ、なつには兄と妹がいたが、どういうわけかなつひとりだけが北海道に引き取られることになっている。 妹は親戚に預けられた、となつは語っていた。 ところが兄は、孤児院に引き取られたまだ。 兄がなつと一緒に北海道に来なかった理由とは何なのか。 それは第1週では明らかにされることはなかったが、おそらく自分ひとりで生きられると見做されたのだろう。 兄はタップダンスが出来るなどの芸事を武器として、仕入れた食糧をマージン込みで売り捌いていた(第2週で、下の妹を待つためだ、という理由が判明した)。

 さて、なつが柴田家の娘・夕見子(少女時代・荒川梨杏)から、「ずるい」 と言われた理由とは何なのか。

 柴田家の営む牧場に連れられてきた当初から、この朝ドラヒロインは見る側にかなりの好印象を与える健気さを発揮する。
 「ありがとうございます」「すみません」「ごめんなさい」。 なにかと言えばこの言葉が率先して口をつき、剛男やその妻の富士子(松嶋)からは 「そんなに謝らなくていい」 と諭されるほどだ。
 さらに当時が舞台であるこの手のドラマにありがちな、意地悪いキャラである柴田家の祖父、泰樹(草刈正雄)の不興を買うまいと、自分のほうから 「ここで働かせて下さい、なんでもします」、と言い出す。

 なつは柴田家に連れてこられた翌日、朝4時という早くから 「きちんと」 起床し、酪農の仕事を覚えようと必死になる。 何も出来ないなりに放牧に出かける牛たちに 「行ってらっしゃーい! たくさんフンをしてねー!」 と声かけをする奮闘ぶり。 その健気さにほだされて、泰樹は孫の照男(少年時代・岡島遼太郎)にも教えたことのない搾乳の仕方を、早々になつに伝授する。 当然、照男は面白くない。

 夕見子が 「ずるい」、と指摘したのも、なつのその過剰な健気さがあまりに優等生過ぎて鼻についたからだ。
 しかしなつは、見る側からすれば、そんなに処世術に長けたずるい性格には思われてこない。 いちおう東京大空襲の心の傷を引きずっているし、なにかと言えばきょうだいのことを思い出して悲しい思いをしているからだ。
 このなつ、という主人公のキャラ造形というのは、まさしく朝ドラヒロインの 「困難に負けない」、という基本線を踏襲している。 だからこそそれが見る側に安心感を与えるわけだが、そのあまりの王道ぶりが周囲に振りまく不快感も同時に表現している部分が、すごい。
 剛男に諭されて、なつに対して素直に接しようとする夕見子だったが、やはりなつの 「いい子ちゃんぶり」 にイライラしてしまう。 学校に通わせてもらえるようになったなつが、いきなりクラスの男子どもからバイキン扱いされるのに、ケラケラ笑ってしまうからだ。 「そんなことないなら、言い返せ」、というわけだ。

 しかしこれらの 「健気さ」 には、やはり 「無理を押して」 という裏があった。 その精神的な抑圧は、兄・咲太郎(少年時代・渡邉蒼)へ手紙を書く、という行動を通じて、なつの心に顕在化し、急速に膨れ上がっていく。 そしてなつは、柴田の牧場を出る決意をするのだ。 ここまでが第1週。

 第1週の物語の流れを見ていて、このドラマはきちんと 「こうなったから、こうなる」、という 「筋としての説得力」 にかなりの神経を注いでいるドラマだ、と感じた。
 このところの朝ドラを私はけっして真面目に見ているわけではないが(特に前作の 「まんぷく」 はただの1回たりとも見なかった)、その物語のロジックは 「こうなったけど、こうなっちゃう。 だってそれが人の気持ちだから。 人の気持ちって、不可解なものだから。 正直に生きようとすると、こういう不可解なことになっちゃう」、みたいなものが多かったような気がしている(かなり独断と偏見が入っているのはご容赦)(「半分、青い。」 のことを言ってるのか?…笑)。

 朝ドラの王道的な愉しみかたから言えば、第1週の白眉はなんと言っても草刈正雄であったろう。 一見意地悪そうな、厳しい壮年の開拓者、といった風情の草刈が、なつの一生懸命をきちんと観察し、街に出たときに 「これまでの当然の報酬だ」、として一緒にアイスクリームを食べながら、なつに語るのだ。

 「ちゃんと働けば必ず報われる。 もしそうならなかったら自分の働き方が悪いのか、相手が悪いんだからさっさとそんなところはやめればいい」

 大意そんなことを話したと思うが、この言葉は、これからアニメーターという劣悪環境(たぶん)の中に身を投じていくこのドラマのヒロインにとっては、含蓄のある言葉に変貌する気がしている。 まあありていに言えば、伏線、である。

 ドラマはそんな重苦しいものばかりでなく、大森寿美男の脚本にしては笑える部分もちゃんとある。 特に久しぶりに妻の富士子と一緒の寝床についた藤木直人が松嶋菜々子に向かって 「ふーじこちゃ~ん」 と甘い声を出したのには笑った。 藤木直人って、そういうキャラだったっけ?
 草刈となつが街に出かけたときの菓子屋のおかみ、高畑淳子との丁々発止の絡みも面白かったし。 「真田丸」 での夫婦だったけど。 下世話な話だな。
 オープニングタイトルが全編アニメーション、というのも変わった趣向だ。 舘野仁美さんが監修をしているだけあってジブリの匂いがプンプンするが、仕上がり具合は全くのCG仕様で、セル画の面影は微塵もない。 その昔、神社のお祭りでセル画が売られていたことを思い出す(何のアニメだったかな)。 もうあんな商売は成立しないだろう。

 それにしてもアニメーションとかアニメーターとか、あの時代にそんな言い方ってあったかな。 マンガ映画とか動画とかただのマンガ、で一括りとか、そんな感覚だった気がするが。 アニメって言い方はあったけど、1974年の 「宇宙戦艦ヤマト」 の前にはそんな言い方してなかった気がする。 このドラマの舞台となる東映動画がやる映画の何本立てでも、「東映まんが祭り」 だったし。

2019年3月29日 (金)

「ひよっこ2」 現実に追い越されていく、ドラマという仮想空間

 2年前の朝ドラ 「ひよっこ」 の続編が放送された。 3月25日から28日の4日間、ニュース7が終わったあとの30分枠でだ。 30分×4日だから単純に考えて2時間ドラマということになる。

 スピンオフを除いた場合の朝ドラの続編というのは大変珍しいが、遠い記憶では 「ちゅらさん」 が4までやった。 これも今回と同じく岡田惠和作だ。 本編こそが自分の言いたいことであり、続編など蛇足に過ぎない、と考えるクリエイターが多いなか、岡田氏はそうした拘りがあまりないタイプの脚本家なのだろう。
 じっさい岡田氏の作るドラマというのは、普通の人々が普通に悩み普通に笑い普通に生きていく、という 「まったりとした」 タイプの作品が多い。 たいして悪人も出てこず、巨悪が蠢く気配すらない。 時にはそのユルさ、人のあまりの良さ加減に、白々しい気分になったりどっかムズムズしてきたりするが、それこそが岡田氏の考える 「ドラマ」 なのだろう。

 人は自らの手の届きそうな範囲を目指しながら、必死にそこに手を届かせようと空を切らせている。 届けばまたさらに上を目指し、届かなければ落胆する。 人生はその繰り返しだ。

 じっさいの人生では、そこにとんでもない邪魔者が割り込んできたりする。 足の引っ張り合いも絶えず発生する。 岡田氏のドラマを見て癒やされるのは、コミュニティ(関係性)の理想郷をそこに見るからだ。
 今回も、すずふり亭の女将である鈴子さん(宮本信子)や時子(佐久間由衣)などが、落ち込んだりトラブルを起こしたりするが、そんなときにこのドラマの登場人物たちは、なんとかして当人たちを慰め、立ち直らせようと気を揉む。
 「そんな世界などあるものか」 と、ドラマを見ながら冷笑したくなる自分もいる。
 しかし同時に、「世界はこうあってほしい」、と憧憬している自分も、間違いなくいるのだ。

 そんな、コミュニティの理想郷がドラマのなかで実現しているがために、そのようなドラマは後日談を必要とする。 今回のドラマは正直なところ、「近況報告」 の域を出ない。 しかしそれこそが、この 「ひょっこ」 という生き物自体が渇仰する生理的欲求なのだろう。

 それは 「ちゅらさん」 においても同様だった。 主人公えりぃ(国仲涼子)たちの人生は最初の本編で終わったわけではなく、ずっとずっと続いていくものだからだ。
 ただその理想郷というのは、年月を経るごとにおそらくだんだんと、現実から乖離していった。
 まず 「ちゅらさん」 の続編では、重要人物のひとりだったえりぃの弟、山田孝之がその出番を極端に減らした。 おそらく仕事が忙しくなりすぎたのだろうが、私に言わせれば、「自分を育ててくれた自分の故郷とも呼べるドラマには、無理を押してでも出るべきだろう」、と思ったものだ。 まあ、事情も知らないで勝手に言ってますが。

 そのほかにも、「ちゅらさん」 の続編が続いていくに従って、えりぃを演じる国仲涼子の女優としての役どころのキャリアが、だんだん天真爛漫なえりぃと乖離していくちぐはぐさも感じるようになった。 私が視聴している範囲に限った話だが、国仲涼子は 「ちゅらさん」 以来、えりぃのような役をやってるところを見たことがない。 いつもどこかに暗さを抱えているような役ばかりだ。 どんなにつらいことがあっても、「なんくるないさぁ」 とはねのける精神的な強さが、国仲の演じる役にはあまり感じられない。 まあ、それを出来るのは主役だけなのかもしれないが。

 今回の 「ひよっこ2」 も、主役の有村架純は生徒とのドロドロの恋をしてきたばかりだったし(笑)、母親の木村佳乃はギラギラの悪女だったし(笑)、父親の沢村一樹くらいだったか、同じ記憶喪失の役だったのは(爆)。
 乙女寮の少女たちも、いちばんさえなかった松本穂香がドラマの主役になったり、有村が演じたみね子の恋人だった竹内涼真が役者として大きく伸びたり、すずふり亭の小太りウェイトレスだった佐藤仁美が結果にコミットしたり(笑)、たった2年前に同じドラマの中、という舞台で一緒に咲いていた人たちがそれぞれに走り、立ち止まり、しているのは当然のことなのだ。 下手をすればこの世にいない、というケースすら出てくる。

 そんななか、出演者のたぶんほぼ全員が、今回の続編で近況を表現することができたのは、この理想郷ドラマにとって大いなる幸いであったと言えよう。
 同窓会、私は人生に躓いているためになかなか出ようという気にならないのが本音であるが、この続編はそんなタイプのドラマだ。
 ドラマは現実とは違う。 だが、どんなに勝ち組負け組、というカテゴリに押し込められようとも気兼ねなくこうして会える、という仮想空間があることに、私は限りない安堵の気持ちを抱くのだ。

2019年3月25日 (月)

「いだてん~東京オリムピック噺~」 第7-12回 幻想的に展開する10里の行程

 全体的なペース配分から行くと、ほぼ4分の1という速さで物語の大きな柱と思われるストックホルム大会に突入した、「いだてん」。 このオリンピックに初参加したふたりの選手のレース中には、それまでの回想シーンが走馬灯のように画面を駆け巡る。
 それは物語のメインではない短距離ランナー・三島の場合には功を奏した。 が、主人公である金栗の場合、作り手が意図するほどの効果が得られたとは、考えにくい。
 それは冒頭で指摘したとおり、ここに至るまでの話が、かなりの速さで推移していることに起因している。 つまり、回想シーンを見る側が咀嚼し、懐かしがるくらいのヒマが、ドラマにないのだ。
 これが朝ドラみたいな15分・月-土ペースで展開すれば、まだ金栗の回想シーンには見る側をねじ伏せる説得力が生まれたことだろう。

 さらに一部の視聴者を混乱させ不快にさせるのは、金栗のマラソンと、志ん生(三遊亭朝太)の初高座に向けての一風変わった稽古をリンクさせた点だ。 「俥を引きながらなら噺を覚えやすい」、という理屈で、朝太は火事場を駆け回る 「富久」 の噺に合わせ、火事のイメージの中を、ストックホルムの酷暑に耐える金栗と一緒に、駆けていくのだ。
 はっきり言えば、このリンクには何の意味もない。
 だが確実に言えるのは、このふたり(金栗と朝太)は、「未知の行く先に向かって不安に押しつぶされそうになりながらそれでもその時代を駆け抜けていく」 共通項を持つ、「同志」 だ、ということだ。
 そしてふたりの間にあるもの、それは 「暑さ」 だ。 ここに作り手の、相乗効果を演出する狙いが含まれているのだが、それを理解できる受け手が、いったいどれだけいるというのだろう。 そこから 「分かりにくい」「理解できない」、という、このドラマによくある感想が導き出されてしまうことは、極めて残念だ。 この演出が理解できるとき、志ん生のパートが、この 「噺」 にとって必要不可欠なことが分かってくるだろう。

 それまでの過去がめくるめくように脳裏に展開し、それに 「富久」 の幻覚がフラッシュバックする、金栗のまるで夢遊病者のようなマラソンが展開した今回。

 それは、私が中学校時代、区大会の長距離で棄権したときの苦い記憶と、不思議なくらい被さっていた。

 自分の限度を超える運動量が続くと、苦しさと一緒に、これまでのことがひとかたまりになって頭の中を渦巻き始める。 頼りたい人が脳裏をかすめる。 いろんな感情が一緒くたになり、やがてホワイトアウトしていく。

 そして金栗が気付いたとき、そこは宿舎のベッドの上。

 いったい何が起きたのか。

 「日射病だ」、と周りは言う。 けれどもその記憶自体がない。

 「すいまっせん…すいまっせん!」 謝り続ける金栗。 ドラマはそこで無感情にぶつ切れる。

 見る側はドラマを見終わってしばらく、金栗の 「どうしてこうなった?」 という感情と完全に同化し、ほっぽり出されたままの宙ぶらりんな感覚に陥る。
 今回の作る側の意図は、見る側をそのような中途半端な気分にさせることにある、と言ってよい。 幻想的な10里の行程も、そのために用意されていた。
 これに不満を表明することは、実に無粋な行為だ。 どうせ種明かしは、次週以降に行なわれる。 ドラマの見かた、というものを、我々はひとつ、ここで学ばなければならないだろう。

 「レース中に行方不明になった」、という事実をドラマにしようとしたとき、宮藤の頭の中にはおそらく夢遊病的な幻覚的シーンの羅列がイメージされたことだろう。 これと並行して描写された金栗の故郷である熊本での一連のシーンも、どこか現実離れしていた。
 これらはみな、「そこに映し出されているものすべてが現実とは限らない」、という作り手からのギミックなのだろう。 そして、「金栗はなんと3位!というのはウソで」、というビートたけしの茶々が入るところも、張り詰めた緊張を解きほぐすガス抜き(言い換えれば、作り手の照れ)なのだ、ということを知るべきだ(たけしに不満を持つ視聴者はこのへんけっして寛容にはなれないだろう)。

 「考えるのはよそう」。 「いや、考えまくろう」。

 不安とプレッシャーのなか、アスリートはそうやって、いろんな余計なことを考える。 しかしそれは競技中、自らの中途半端を思い知らされるファクターでしかないことを、思い知らされる。
 要は、真っ白な意識でも体が勝手に動くくらいの練習と稽古が必要なのだ。 渦巻く思念にやられるくらいでは、まだまだ修行が足りない。

 このドラマがそこまで周到に作り上げられていることに、ただただ感服する。

2019年2月11日 (月)

「いだてん~東京オリムピック噺」 第3-6回 このドラマの楽しみ方(って解説…無粋だ…)

 今年の大河ドラマ 「いだてん」 が、テレビドラマフォロワーやクドカンファン以外の視聴者に、あまり好意的に受け入れられていない点について語ろう、と思う。

 まず第一の難点は前回記事で書いたとおり、ビートたけしの起用であろう。
 セリフがじゅうぶんに聞き取れない、ということは、ドラマを見る上においてとても見る気を削がれる一因であることは確かだ。 私などは耳の聞こえが致命的に悪いので、永年字幕付きでドラマを録画し視聴してきた。
 だが耳の聞こえが悪いことを差し引いても、イヤホンで大音量で聴いていても、セリフが聞き取りにくい役者というのはしばしばいる、と私は感じる。 テレビの副調整室でモニターがどう聞いているのかは知らないが、きちんと視聴者が聴けるような状態で放送するのは、作り手の義務でもあろう。

 ただし。

 「セリフを一から十まで聞き取り理解できることが、果たして絶対的に正しいのだろうか」、という疑問も、同時に私は感じている。

 古い話で恐縮だが、その昔、左卜全(ひだりぼくぜん)、という大変個性的な役者がいた。 彼は黒澤明の映画によく出ていたが、彼が出てくると私などは、ちょっと身構えたものだ。
 何しろ、しゃべってることが半分くらい分からない(笑)。
 それでなくとも黒澤の映画は、録音が古いせいなのかセリフが聞き取れないことが多かった。 それでもじゅうぶんに感動できたものだ。

 ビートたけしが演じている古今亭志ん生本人も、当時の録音状態の善し悪しにかかわらず、酔っぱらいがブツブツ言っているような感じで、ちゃんと聞き取れない部分があることは確かだ。
 それでも当時の観客は笑い、拍手を送った。
 それはどこかで、「志ん生の落語は面白い」、という先入観によって、その場の雰囲気で笑ってしまっていたこともあろう。
 しかし大半は、聞いても分からない部分は 「やり過ごして」、「その分からないところも味わいとして捉えて」、志ん生の落語を楽しんでいたのだろう。

 「その場の雰囲気で」、「その場の流れで」。

 テレビドラマや舞台や興行にかかわらず、すべての 「見世物」 を見ようとするとき、多少の不便はつきものなのではなかろうか。 私たちは昨今の、緻密に作られ伏線が張り巡らされ布石が打たれまくりのドラマに触れすぎて、セリフのひとつひとつ、演出のひとつひとつ、小道具のひとつひとつにまで神経を尖らせなければならない、と思い込んで、その 「ある種の不便」 を、やり過ごせなくなってきているのではないか。

 分からない部分は、分かんなくていい。 どうせしゃっちょこばった本当の話じゃない。 気楽に楽しもうや。
 それがこのドラマのスタンスなのではないか。
 このドラマのリアルというものは、もともと重要視されていない。 「事実を基にしたフィクション」、というのは、そのために但し書きされた謳い文句だが、そのエクスキューズをドラマはその構造で弁明している。
 「志ん生の落語」、という形でだ。
 だからこのドラマのタイトルは、「噺」 なのだ。
 ドラマはどんどん落語のネタを基に展開していく。 そのたびに画面には、元ネタの噺の内容が出る。
 でもそんなもの、読まなくたってたいした支障なんかないのだ。
 やり過ごす。 そして楽しむ。
 これがこのドラマの楽しみ方のひとつなのだろう。 そう私は思う。

 この、「落語を基にした展開」、というものに、私は少々脆弱性を感じている。 というのは、落語のサゲ(オチ)って、別にどこが面白いんだ、というのが多い気がするからだ。
 しかしこの私の危惧を、第6回(2月10日放送)でしっかりと五りん(神木隆之介)が師匠に突っ込んでくれた(笑)。 …いま入力して分かったけど、五りんって五輪のことか(笑)。
 だがこのサゲというのは、その噺が終わりましたよ、という観客に対する合図でもあり、「決めゼリフ」 でもある。 そこに噺家と観客の呼吸の一致、合致が要求されるわけだ。
 それができない受け手は 「野暮」、というものだ(五りんは野暮、ということになる)。 テレビ桟敷に陣取っている我々も、作り手との呼吸を読み取れる、大人になる必要があるのではないか。

 第二の難点は、「時代が行ったり来たりしすぎる」、という部分であろう。
 宮藤官九郎の脚本はもともとトリッキーで分かりにくく、ついてこれない視聴者を置き去りにする傾向があることは確かだ(笑)。
 ただ、時系列を二元化する、という傾向は 「あまちゃん」 や前作の 「監獄のお姫さま」 などで見られた手法だが、そのときあったタイムラグが2、30年程度だったから、50年ある今回は比較的分かりやすいほうだとは思う。 なにしろ俥屋が出てくりゃ明治、自動車が出てくりゃ昭和だと分かるだろう(笑)。 いや、今のところはこのふたつの時代、登場人物が全くかぶらないのだから(志ん生以外)、それだけでどっちの時代をやってるか、分かりそうなものなんだが。

 また、同じ時代でも、いったんやった場面を巻き戻して、その出来事の裏でなにが起こっていたのかを種明かししていく、という 「木更津キャッツアイ」 のような手法もとられている。
 こうしてみると、この 「いだてん」 という大河ドラマは、宮藤官九郎がこれまで用いてきたテクニックを総動員して、作り上げていることに気づくだろう。
 第1回から第5回までは、その 「木更津キャッツアイ」 の手法で、一回の表裏が終わったワンセット、というところだろうか。

 この手法を宮藤がとり続けるかどうかは分からないが、第6回では昭和30年代編においてのもうひとりの主要人物、田畑政治(阿部サダヲ)が登場した。 第1回でちらっとだけは出ていたのだが、志ん生を仲介人として、明確に明治と昭和の前後編が分けられるのかと考えていた私にとっては、ちょっと意外な登場の仕方だった。 要するに、宮藤としてはハードルをちょっと上げた、という形になるのだろうが、こうなると、話が分からない人はさらに分からなくなっていくような気がする。
 いや、分かりそうなもんなんだが。
 もしかすると、すでに昭和(半ば)というのは、明治と区別ができないくらい、若い人の意識のなかでは同一化しているイメージなのだろうか?
 いや、「このドラマが分からない」、と言っている人の年齢層自体が分からないので、考察のしようがない。

 話が行ったり来たりするなかで、「分からない人」 を混乱させているひとつは、第1回でビートたけしの志ん生がタクシーのなかから目撃し、第6回で田畑政治がこれまたタクシーのなかから目撃した、「足袋を履いて銀座や日本橋を駆け抜けていくランナー」 であろう。
 これはいまのところ、明治編の主人公である金栗四三の 「幻」、といった風情を醸している。
 実際に並行して語られる金栗は、ストックホルムオリンピックを目指してこのコースを走ることを決めた。 決めたと同時に、昭和30年代の街なかを、四三と見まごう人物が走るのだから、混乱する向きもあるかもしれない。
 それは果たして、幻なのか。
 それとも年老いた、四三自身なのか。
 その正体が分からずとも、私たちは画面のどこかに息づいている、在りし日の人々の残留思念を(「幻魔大戦」…)、感じていく。

 それがテレビドラマ、というものなのではないか?

 時代がぶつ切りにされて移動するたびに 「分からない人」 を混乱させていく今年の大河だが、そこで浮かび上がってくるのは 「志ん生自身の成長過程」 だ。
 「誰が主人公か」、という意識は、ここですっぱり捨て去ったほうがいい。 過去と現在(と言っても60年近く前だが)との橋渡し役のように見える志ん生だが、当の若き志ん生はひどい遊び人から脱却して、師匠と仰ぐ人物に遭遇し、その師匠の俥屋をしながら噺を覚えていく。 要するに、金栗四三以外にも、もうひとり美濃部孝造(志ん生)という主人公がいるわけだ。

 これは、金栗四三が、物語の主人公としてはあまりに実直で生真面目すぎ、面白みに欠けるところからフォローされたのだと思われるが、いっぽうで四三の真面目さを、宮藤がネタにしないわけがない。
 私は当初、金栗四三という人はキャラ造形的にあまり存在感がない、と考えていたのだが、彼の実直さが醸し出す可笑しみと、勤勉さが後押ししていくポテンシャルが、結局四三という人物の厚みを増していく過程に、ひたすら感心している。
 彼の真面目を押し上げているのは、「負けん気」 だ。 最初のレースで二位に終わり、四三はその敗因を徹底的に自分なりに分析する。 「自分なり」、であるから、そこには専門的知識とかは全くない。 でも、「自分なり」、であるから、自分の正直な気持ちに添って分析は進んでいくのだ。
 彼の勤勉さは、トレーニング法を貪欲に取り入れることでも発揮される。 「油なし、水抜き」、という間違った知識は、実践のうえ、淘汰されていく。
 「水を飲んじゃイカン」、というのは私が中学生の頃(40年くらい前)はまだ言われ続けていたことだ。 いまはそれが間違いだったことが証明されている。 トレーニング法の試行錯誤、という側面がここであぶり出されているのはすごい。 宮藤の問題意識が手広くなければ、こうした側面は、見逃されがちだ。

 オリンピック予選会で四三が世界記録より20分も早い記録を出してしまったことへの、疑念や葛藤がきちんと描かれていることも、好感が持てる。 「こうなれば、どうなるのか」、という、原因と結果に対する作り手のシビアな視点、というものがなければ、物語のなかでこんな議論は噴出しないからだ。
 そしてその葛藤が、嘉納治五郎を苛つかせる遠因になっていることにも注目する。 第6回のメインテーマはそこにあったのだが、オリンピックに選手を送り出すために必要なカネを嘉納が工面できない、という状況を、宮藤は重層的な理由を積み重ねて、説明していく。
 そこで飛び出た原因のひとつが、嘉納が中国人留学生たちの面倒を見てしまったから、というものであったが、これも以前に羽田の運動場を作ったときに、辮髪の彼らをとても印象的に登場させておいたから、トートツ感がかなり軽減された(「トートツ感」 でなにを言いたいのかは、分かるね?)。
 遠征費用の額も、嘉納の下で働く可児(古舘寛治)の給料の何ヶ月、という説明の仕方で、だいたいではあるがどれだけのものか、受け手にすっと入ってくる。
 こういう細かい部分での一言一言が、物語を立体化させるうえで、すべて有効なのだ。

 嘉納治五郎はままならない状況にただひたすら憤慨し血圧を上げまくっていくのだが、どこも拠出してくれるところがないと、すぐに自分の財産でけりをつけようとする、その思いに見る側は知らぬ間に、感情移入していく。 そして資金源の問題や、スポーツに対する理解も知識もまったくない当時の状況に、さまざまな感想を抱いていく。

 これがテレビドラマ、というものなのではないか?

 いずれにしても、今回のこのドラマに対する、受け手のさまざまな考え方を読むたびに、「私たちは 『受け取ったものを自分で考え、鷹揚に咀嚼する』 という能力を、喪失しつつあるのではないか」、という思いにとらわれる。

 必要な情報はスマホで簡単に手に入るが、自分の興味のあることだけにしか関心がなく、そこで偏った知識ばかりに精通して、偏った見識が培養される。

 いっぽうで理解できないことを理解しようとせず、自分が 「分かんない」、というのが大問題であるかのように感じてしまう。 賢くなると同時に、理解力が低下し、ほかの考えを受け入れる柔軟性が、失われているのだ。 飛躍した考えかもしれないが、これは世界的な傾向のようにも思える。 自国第一主義、排他主義、といった傾向だ。

 かつて 「テレビを見てるとバカになる」、と言われた時代があった。
 いまはスマホが、それに代わっているのかもしれない。

2019年1月14日 (月)

「いだてん~東京オリムピック噺」 第1-2回 ビートたけしへの世間の忖度、と反発

 橋田壽賀子作の 「いのち」 以来33年ぶりとなる、近現代史を舞台とした大河ドラマ。 朝ドラ 「あまちゃん」 を脚本した宮藤官九郎が、「このドラマは事実をもとにしたフィクション」、と大河ドラマでは初めて公式に但し書きされた、舞台を描いていく。

 「このドラマは事実をもとにしたフィクション」、というのは、ここ数年の大河ドラマでは、すでに常道になっている皮肉な事実だ。 「龍馬伝」 では坂本龍馬とどれだけ親交があったか分からない岩崎弥之助をモーツァルトとサリエリの関係になぞらえ、「おんな城主 直虎」 では史実上男だったか女だったか分からない資料の乏しい人物を中心に、ほぼ脚本家の創作で一年を貫き通した。
 そのほかにも本能寺が大爆発を起こしたり主人公が有名な歴史上の現場に遭遇しまくったり、とりあえずリアルではないこともあることはあったが、酷かったのは去年の 「西郷どん」 にとどめを刺す。 あれこそは 「事実をもとにしたフィクション」 の最たるものだった、と断言する。
 蛇足であるが、当初この 「西郷どん」 でナレーションを担当するはずだった市原悦子さんが、亡くなった(13日)。 ご冥福をお祈りします。

 「いだてん」 は1910年代と1960年代の、半世紀を挟むふたつの時代を舞台としている。 1910年代では日本人が初めてオリンピックに出場した時代の空気を描き、1960年代では、そのオリンピックを東京で開催することを描いていく。
 このふたつの時代を時間軸通り淡々と描いていくならば、物語は滔々と分かりやすく進んでいったことだろう。
 だが、トリックスター的な精神的爆弾を抱えたままの宮藤官九郎という脚本家は、そういう分かりやすさをハナから拒絶した。 宮藤は第1回から、このふたつの時間軸を行ったり来たりする、複雑な物語展開を選んだ。

 もともとこのドラマのいちばん高いところに存在している目的というのは、来年行なわれる史上2回目の東京オリンピックに向けて、「オリンピックが日本人にどのような意識の変革をもたらしたのか」、ということを解明していく作業だと思われる。 それを物語として明確に浮かび上がらせるには、やはりこのふたつの時間軸は、行ったり来たりする必要がある、と私には思える。

 宮藤のドラマクリエイターとして冴えているところは、このふたつの時間軸を、古今亭志ん生という希代の落語家を通じて結びつけたことだ。 このことによって、ドラマで起こるさまざまな事象を落語の噺になぞらえる、通好みの粋な落としどころが表現可能となるのだ。
 そして半世紀、50年という時間の 「重み」、というものもドラマに投影できるようになる。 ただ単に生きているだけでは、誰それが歳をとったとか偉くなったとか没落したとかそんな感慨しか生まれないものだが、50年という歳月のなかで、何が変化していったのか、何が日本人の心の中からなくなったのか、昔はどう考えていたのか、それを考えることができるようになるのだ。 すなわちそれが、「時の重み」、であると言えよう。

 例を挙げよう。

 古今亭志ん生(ビートたけし)は物語の古い時間軸のなかでは若く(森山未來)、ハチャメチャな生き方をしていたが、新しいほうの時間軸では弟子入り志願の若者(神木隆之介)のハチャメチャさについて行けてない。 そこから志ん生の来し方を想像することは楽しい。
 若い志ん生は第2回で橘屋円喬(松尾スズキ)の落語に触れ、そこで感銘を受けたことで落語家となっていくのだが、第1回で壮年の志ん生のもとに弟子入り志願してきた神木は彼女(川栄李奈)と二人連れ。 「あなたの落語が面白かったら弟子入りさせて下さい」、という新人類ぶりだ。 それが創作であってもフィクションであっても、時代の変化を感じさせるエピソードではないか。
 今のところ例に出せるのはこれくらいであるが、おそらくこの先、1960年代編には1910年代編の主人公である金栗四三(中村勘九郎)が、当時存命中だったから出てくるはずだ。 そこから導き出せる物語の奥深さを考えると、今からわくわくして仕方ない。

 このところの大河にとても希薄だったのは、この 「時の重み」 感なのではなかろうか。 主人公たちはいつの間にか歳を取り、さして老けメイクをすることもなく、テロップで出てくる年号に 「えっ、もうそんなに経ったの」。 これではいくら史実を追いかけたところで、そこに説得力はほとんど発生しないし、ましてや一貫性のない、都合のいい個人的感情だけを並べ立てても、単純で上っ面なお涙頂戴ドラマにしかならない。

 「西郷どん」 のことを言っているのだが。

 このドラマの1910年代編で第1回目に展開したのは、「初めてオリンピック、というものに触れた世の中の反応」、というテーマだった。
 ここで対立軸として描かれたのが 「体育」。 「体」 を 「育」 てることが目的な従来の体育協会の考え方は、体を動かすことの楽しさやそれを競い合うことの楽しさを目指す 「スポーツ」 という概念と相容れない。 これを説いた嘉納治五郎(役所広司)の考え方の柔軟性をここで提示すると同時に、「勝つことにこだわり命がけになってしまう」(杉本哲太) ことの悲劇を同時に提示する。 私はこの役所と杉本の対峙を見ていて、1964年東京オリンピックのマラソンで銅メダルをとった我が故郷の英雄、円谷幸吉が自殺に追い込まれたことを想起していたのだが、スポーツがもたらす功罪について一瞬のうちに説明し尽くしてしまう、宮藤のこの手腕には、恐れ入った。

 それにしても、ネットでは志ん生を演じているビートたけしへの不満が爆発しているようだ。

 いちばんあげつらわれるのが、たけしの滑舌の悪さだ。
 セリフが聞き取りにくい上に、世界の北野とか持ち上げられてるわりには、演技力が拙い。
 これは憶測だが、若い世代に顕著な不満のような気がする。
 かつてたけしがバイク事故で生死の間をさまよい、復帰するのにだいぶ長い時間を要した、という出来事(1994年)を知っているか知っていないかで、たけしに対する目というものは、かなり違ってくるのではないか、と私は考えている。
 このバイク事故で、たけしは顔半分の自由が、基本的に利かなくなった。 滑舌が悪いのは、顔半分の筋肉が思うように動かない後遺症のせいであろう。 それでもまだ今より若い頃はリハビリの効果もあっただろうが、やはり歳を重ねてくると、顔だって筋肉が緩んでくるものなのだ。
 私自身、帯状疱疹でたけしと同じく顔半分の踏ん張りが利かないので、たぶんたけしも同じなんじゃないか、と思っている。
 たけしは人気者だったから、事故当時はみんなたけしの無事を祈ったし、復帰してきたときの状態にショックを受けたし、それでも頑張るたけしを応援した。
 そういう経過を知っている世代ならば、おいそれとたけしに対して不満は感じないはずだ。 みんなその点では、たけしに忖度している、と言える。

 演技力に関しては、「拙いのがビートたけしの演技の味なのだ」、と言うほかはない。 「戦場のメリークリスマス」(1983年) から、たけしの演技力ってそれほど変化していない気がするが、たけしの演技というのは、その素人っぽさが醸し出すリアルである、と定義づけることができる。
 また、彼が監督した映画についても、私はよく分からない。 おそらくそれが海外で過大評価されていることへの不満が、今回のたけしに対する不満の土壌にある気もする。

 いずれにしろ私たちは、ある年代より上の世代から、ビートたけしという人物について、頭脳の回転が速く切り口が鋭いことに対する尊敬とともに、どこか鷹揚な気持ちで付き合っている部分があるように思う。 今回たけしに対して不満を表明しているネットの住人たちは、そうしたある種の忖度をできない人々なのだ。 彼らの目は鋭く、理解不能なほど偉そうだったり、過大評価される人物に対して、とても厳しい目を向ける傾向がある。

 ひょっとすると、1960年代からさらに50年を経た 「時間の重み」、というのは、こうした、いびつに見える評価、作られた虚像に対する嫌悪感を隠さない人々が、台頭してきたことにあるのではないだろうか。

 物語に話を戻せば、第2回ではようやく本編に入り、「西郷どん」 の記憶も新しい、西南戦争の現場近くだった主人公・金栗四三の生まれ故郷を描き、西南戦争の記憶も掘り起こされる。 ここでの金栗家も西郷家と同じ貧困のなかにいるのだが、大所帯の混乱をそのまま描いているのが却ってリアルに感じる。 面倒だからあとは省略!という居直りも潔い。
 なぜ 「西郷どん」 とシチュエーションが同じなのにここまでリアルなのか。 それは、四三の幼少期を演じた子役のせいだ。
 ネットの情報によると、彼はズブの素人らしい。 最近のこまっしゃくれた(失礼)演技力バリバリの子役みたいな、変な野心がないのがリアルなのだ。 どっかから連れてこられて、ただ言われたことをやってるだけ、という存在のなさげなところが、とても新鮮に見えた。

 その彼が、長兄の中村獅童に怒られて泣くのだが、ホントに怖くて泣いてるようなのだ。 何なんだ、この作ってない感じ。

 そして第2回で描かれたのは、病弱の父親(田口トモロヲ)に連れられて嘉納治五郎の授業を見に行き、「四三が嘉納先生に抱っこしてもらった」、と家族にウソをつく父親にショックを受け、打ち明けようかと悩む幼い四三の姿だった。
 父親が亡くなったその席で打ち明けようとする四三に、兄の中村獅童が 「何も言うな!」 と口止めする。 兄は本当はどうだったかを知っている。 それは、「父親の気持ちを考えろ」、ということだ。 さらに言えば、それを本当のことと信じようとする家族の気持ちも考えろ、ということだ。

 つまり、「忖度せよ」、ということなのだ。

 この話が理解できる人であるならば、ビートたけしのことも忖度せねばなるまい(暴論)。

 最後になるが、この第2回では綾瀬はるかが 「八重の桜」 以来6年ぶりに大河ドラマに復帰した。

 その颯爽とした、清々しさはなんだ!

 そして我が同郷のヒロインを演じた綾瀬が、熊本県人を演じる、この一抹の寂しさよ!

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BOOKS

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 下
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ紹介記事より抜粋)。 本書下巻では、1962年のレコードデビューまでが書かれています。

  • マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上

    マーク・ルイソン: ザ・ビートルズ史 上
     1600ページも費やして、この上下巻はまだ彼らのデビューまでしか書かれていない。 3部作計6巻のうち2巻に過ぎないのだ。 なんと気の遠くなるような作業なのだろう。  本書はビートルズを語るうえで孤高の一作となるはずだ。 虚飾をすっかり剥ぎ取った、20世紀最大の奇跡に潜む真実が、これを読めば理解されるはずである(当ブログ記事より抜粋)。 この上巻ではビートルズの祖先から遡ってリバプールで人気に火が付き始めたところまでが書いてあります。

  • ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白

    ポール・デュ・ノイヤー: ポール・マッカートニー 告白
    まず驚かされるのが、表紙のポールの写真です。 よくこんなのが採用されたな、というくらい、刻まれた年輪が顕著に分かる 「年老いたポール」。 飾り気のないその写真に、「素のポール」 をあぶり出そう、という心意気が見える。 そして実際、著者のその目論見は、成功しているように思えます。 何より大きいのは、「NME」「Q」「MOJO」 など音楽メディアで長年記者を務めてきた著者がポールと同じリバプールの出身者である、ということ。 さらにポールと同じファースト・ネームであること。 だからポールはまるで自分の分身に話しかけるかのように、時折同郷人にしか分からない言葉で気さくに著者に話しかける。 この本を読む者は、まずその 「不思議なリラックス感」 に包まれるはずです。  本の構成は大きく二つに分かれます。 前半ではビートルズからウィングス、ソロに至るポールのたどってきた長い長い歴史、後半ではポールの人格に迫る試みがなされていく。 そのインタビューは、一気に行なわれたものではありません。 著者がNMEの記者だった1979年のものから、明示はされていないがおそらく2013年、「NEW」 の発売前後が最新のものではないか、と思われます。 実際読んだ感覚では 「キス・オン・ザ・ボトム」 あたりが最新のような気もする。 その30年以上にわたる膨大なポールへのインタビューを、項目によって構成し直しているようです。 ですから、今年(2016年)亡くなったジョージ・マーティンについてのポールの見解であるとか、最新の情報が提示されているわけではない。 ポールの情報というのはこの歳になってもなお日々更新型ですから、その点については物足りなさが確実にあります。 さらに、30年以上というとポールのものの考え方にも変化変遷があってしかるべきだと思うのですが、30年以上をリミックスにかけているからその変化というものがつかめてこないもどかしさがある。 表紙を飾ったポールの 「老い」 という問題にも、この本はきちんと答えてくれているわけではない。 さらに言えば、ジョン・レノンの死について多くが割かれているのとは対照的に、2001年に亡くなったジョージ・ハリソンの死についての記述はない。 正直なところ、このような本を読み漁ってきた身としては、衝撃に値するような情報が書かれているわけではありません。 しかし前述したような、リラックスしたムードのなかでポールと語らっているような疑似体験を共有できる強みが、この本にはある。 この本全体に貫かれているのが、この心地よさなのだ、と思うのです。 その心地よさが乱れるパートがあります。 自身の失敗作、どうでもいい作品について語るときのポールは多分に感情的になりがちであり、イライラした様子を隠しません。 特に 「シークレット・フレンド」 を語るポールのくだりはポールファンなら一読に値する部分でしょう。 しかしそのイライラも、ポールの人間性が垣間見える瞬間としてこの本にとっては必要なパートなのです。 3000円以上と、この本は決して安くはない部類の本です。 ただその値段に見合うパフォーマンスは兼ね備えています。 この本と付き合った1か月足らずの間、心地よい体験をすることができました(アマゾンの自身のカスタマーレビューより)。

  • : レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]

    レコード・コレクターズ 2011年 07月号 [雑誌]
    全200ページ程度のボリュームのなかで、キャンディーズに関する特集記事は50ページ。 ただし、これが濃い。 全シングル曲、ほぼほとんどのアルバムの解説は当然として、彼女たちの芸能界における歴史から見た考察、コメディエンヌとしての彼女たち、DVD解説など多岐にわたり、キャンディーズが分析されています。 特に圧巻は、レア音源に関する記述。 ここまで調べている読み物には、個人的にはお目にかかったことはありません。 700円。

MUSIC

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)
    ロック界、いや、すべてのポップミュージックにおけるアルバムの中で史上最高と称され、すでに世界文化遺産の域にまで達しているこのアルバム。 そのアルバムの発売50周年を記念して、スペシャルエディションがリリースされます。 なかでもブッ飛ぶのがこのスーパースペシャルボックスセット。 CD4枚組であらたなリミックスのステレオ盤1枚、モノ盤1枚、初期テイク集が2枚、さらにブルーレイ1枚とDVD1枚で5.1サラウンド、ハイレゾ音源、ドキュメント映像 「メイキングオブサージェントペパーズ」 のデジタルリマスター等々、卒倒するようなラインナップです。 18、000円プラス税と値は張りますが、史上最高の名盤だからこそこれは買い。 5月26日の発売までに予約をしておけば、アマゾンならば値下がりした時に値段がそのあと高騰しても最安値で購入できます。 ビーファンならずとも、これは注目ですぞ!

  • 山口 百恵 -

    山口 百恵: ゴールデン☆アイドル 山口百恵(完全生産限定盤)
    全シングルA・B面プラスボーナストラック(「あなたへの子守歌」)を、山口百恵名義としては初のブルースペックCDとしてリリース。 音はいわゆるドンシャリ系ではなく、アナログ盤に準拠した原音に忠実な印象です。 パッケージングはアナログシングル盤サイズで中袋、CDを納めるケースが完全にドーナツ盤をイメージしています(よく言えば斬新…笑、悪く言えばチャッチイ…笑)。 しかしその発想は買える(笑)。 ほぼ原寸大のシングルジャケットと裏の歌詞カードの複製ブックレット。 ただスキャニングは欲を言えばもう一歩。 当時シングル盤を中心に聴いていたかたなら、この編集盤はかなりの 「買い」 です。 しかしこのジャケット表紙の写真、スッピン風で個人的にはすごく好き。

  • デイヴ・グルーシン&リー・リトナー -

    デイヴ・グルーシン&リー・リトナー: Two Worlds / Grusin & Ritenour
    NHK朝ドラ 「花子とアン」 で美人のスコット先生が夜な夜な歌い、チビはなチャンがすっかり覚えてしまったイギリス民謡、「ザ・ウォーター・イズ・ワイド(流れは広く)」。 このアルバムでルネ・フレミングが歌っていたのを思い出しました。 ルネのソプラノはけっして大袈裟でなく上品で、私のとてもお気に入りのソプラノ歌手ですね。 このアルバム自体は全体的にクラシックにギターのリー・リトナーが絡むフュージョンぽいものなのですが、故・黒田恭一サン評するところの、「大人が聴く音楽」。 胸を締め付けるような哀しみと、すべてを包み込むようないたわりに満ちていて、私の人生のなかでも最上位に位置する愛聴盤です。

  • 桜田淳子 -

    桜田淳子: ゴールデン☆ベスト 桜田淳子~シングル・コレクション
    彼女の活動期に発売されたシングルをすべて網羅したベスト盤。 確かに後年のものほど馴染みがありませんが、選曲漏れがないので、彼女の存在とは何だったのか自体に思いが至るベスト盤です。 音も楽器の音像がよくてなかなかいいマスタリングをしている気がします。 2600円程度で推移しています。

  • ザ・ビートルズ -

    ザ・ビートルズ: ザ・ビートルズBOX(限定生産品)(USBメモリ)
    パソコンにUSB端子があり(たいていついてると思います)、パソコンで音楽が聴ける環境をお持ちの人ならば、聴くことができます。 現在のテクノロジーで最もいい音質で聴ける、ビートルズの音楽です。 ただし国内版にもかかわらず、訳詞とか一切なし。 ジャケットもブックレットもパソコンデータ。 純粋に音楽だけ楽しみたい人向けです。 また、曲間にコンマ何秒かのブランクが入ります。 「アビイ・ロード」 のメドレーも同様です。 しかし、音はさすがに、すごい。 大きな音量であればある程、目の前にビートルズが迫ってくる勢いです。 ツヤが違います。

  • The Beatles -

    The Beatles: The Beatles [USB]
    こちら上記の海外版。 内容的には国内版とほぼ一緒なので、値段が安いこちらのほうがいいでしょう。

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