映画

2018年10月27日 (土)

21年目に考える 「もののけ姫」

 宮崎駿による1997年の作品。 2018年現在、実質的に活動が終了しているスタジオジブリの、在りし日の凄まじい活動ぶりをまざまざと思い起こさせる、桁外れのパワーを感じる作品だ。 スタジオジブリはこの作品や 「ハウルの動く城」「千と千尋の神隠し」 あたりがもっとも社会的な、またはクリエイティヴな組織として爛熟していた時代だったのではなかろうか。 つわものどもの夢のあと。 そんなことを強く感じさせる。

 ジブリが存続できなくなった最大の理由は、やはり宮崎駿の存在、才能が巨大すぎたせいであろう。 後継者と目される数人は育ったが、宮崎駿が実質的な引退を発表したあと、誰もジブリを継げなかった。
 「もののけ姫」 は当時、宮崎が 「最初の」 引退作品と位置づけて公開されただけあって、宮崎の知識が総動員され、未来への思いの丈も目一杯注ぎ込まれている。 その世界観は21年経った今でも見る者を異質な世界へと強引に連れて行ってくれる。 その発想の展開は狂気の沙汰としか言いようがなく、宮崎自身の破壊衝動と修復願望を同時に、自分勝手に、満たしていく。

 「千と千尋」 でも、ごちそうを食い過ぎて文字通りブタになってしまう両親とか、「崖の上のポニョ」 の台風による大波とか、同じような狂気の展開があるが、「もののけ」 のレベルには敵わない。 こんなものをそばで作られたら、いくら後継者として少々力があっても萎縮してしまうだろう。

 先に書いたように、この作品が公開されてから既に21年が経ったわけだが、声の出演をした人たちも多くこの世を去った。 イノシシの大親分、乙事主を演じた森繁久彌。 ヒイ様役の森光子。 名古屋章。 佐藤充。 時の流れを感じさせるが、それも世の常だ。
 このなかでは森光子だけがキャラにそぐわない若い声を出している気がするが、この声優陣に今も存命中の美輪明宏、小林薫などを加えた壮年たちの、声の存在感というのは、凄まじいものがある。

 それに比べると、主人公のアシタカを演じた松田洋治、もののけ姫・サンを演じた石田ゆり子などは、いかにも線が細く力不足、といった感が拭えない。 物語の重厚さについて行けてない印象があるのだ。 とくにこの物語のタイトルにもなっている 「もののけ姫」 自身が、とても幼い感覚で推移するので、話に安定感が伴わないきらいがある。

 しかし21年を経てこの作品を見直すと、その幼さ、頼りなさが物語に不可欠だった、ということに思いが至る。

 この物語において、サンとアシタカというのは、未来の世代の代表という立ち位置ではあるのだが、当時に 「未熟なる者」「稚拙であるが故に思いを遂げられぬ若かりし頃の夢を抱く者」、という象徴でもあるのだ。
 ふたりの未熟さは物語を混乱の方向にただひたすら導き、見る者を惑わせる。 しかしふたりを取り巻く人々や妖獣、もののけたちはその未熟さを、ときにはなじりながら、それでも結局は優しく包容し、その未熟さに自分たちの未来を託そうとする。

 「もののけ姫」 に関しては、当ブログでは9年前に既に書いた。 その一部をあらためて抜粋したい(以下拙文)。

 これが公開された当時、その反応には面白い傾向があったように思う。
 まず、「わけが分からない」 というもの。
 じっさいこの物語の主人公アシタカは、タタリ神に右腕を呪われて、呪いを解くために旅を始めるのだが、途中から何が目的なのか、だんだん見ている側に伝わりにくくなってくる。 あっちについたりこっちについたり、行ったり来たりしてるけど、結局何もしてないじゃんかアシタカ、何がしたいの?、というように見えるのだ。
 主人公が何を考えているのか分かりづらい、という物語は、あまりアニメーションの観客には、歓迎されない傾向にある。
 ただ付け加えておけば、アシタカの目的は、やはり最初から最後まで、腕の呪いを解くことにある。 そして彼は、自分が正しいと思うことに、徹頭徹尾忠実であろうとしているだけなのだ。 人には、間違っているところもあれば正しいところもある。 アシタカの行動に一貫性が見られないように思えるのは、それはアシタカの周りの人々にいいところも悪いところもあるからなのだ。

(中略)

 私におこがましく言わせてもらえば、この物語は簡単に言えば、「森に住んでいた神々に対する、人間たちの勝利の物語」 である。
 だが、それが実はハッピーエンドではないところに、この作品の難しさが隠されている。
 人間たちの勝利が、同時に人間たちの破滅への第一歩なのだ、というパラドックスが、そこにあるのだ。

 そしてこの分かりにくい作品は、分かりにくくすることで、答えを観客たちに、若い世代に託している。 今度は、君たちの番なんだ、と(以上)。

 9年前のこのレビュー記事は、この分かりにくい物語に援護射撃をするために書いたようなものだった。
 その9年後にこれを見た私の感想は、「誰も悪い者はいない」。
 誤解を容易に受けそうな感想だが、この物語の中でいちばん悪しき目的のために動いているのはジコ坊である。 そしてジコ坊の背後に見え隠れする権力者が最も悪い、と言って良さそうだ。

 だがこの物語の中で蠢く人々は、すべて自らが見聞きした知識や情報の中で最も正しいあり方を模索し、自分なりの判断で行動し、生きているだけなのだ。 それに善悪の判断をつけることは難しい。

 つまり、この物語の中で生きる人々は、すべて生きるために必死なのだ。
 宮崎駿はこの作品に、複雑化し混沌としていく善悪のはざまで、人は今日のため、未来のために必死に生きることこそが大事なのだ、という骨太のメッセージを託している。
 この物語は、理解できるできないを超越した地平に存在している。 その巨大なデイダラボッチは、たとえ姿を消し、木々に恵みを与えるだけの存在になったとしても、いつまでも日本のアニメーション界に、異端児として横たわり続けているのだ。

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2014年9月13日 (土)

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」 あれから14年も経ったのにオマエってやつは…

 金曜ロードショーでエヴァ新劇場版の3作目、「Q」 をやってたんで見ました(遅まきながら)。 2014年現在、今んところこれが最新作、ということになりますかね。

 で、比較的分かりやすくてエンターテイメント性が前面に出ていた前作の 「破」 と比べると、これがワケ分かんなさ全開。
 とにかく観る者すべてを振り落としまくりのロデオぶりで、逆に 「エヴァ=分かりにくい」 という 「らしさ」 は如実に出ていた、とは思いました(笑)。

 今回の 「Q」 を見てつくづく感じたのですが、この作品はコアなファンほど絶望に叩き込みたくて仕方ないらしい(笑)。
 特にオタクレベルのアニメファンに対して、特定の主義主張が向かっているように思えるんですよ。 「なにが『萌え』だよ、お前らいつまでアニメとかキャラに依存し続けるんだ?」 と叱咤しているような。

 と同時に、この作品は未だにエヴァから卒業できない庵野監督自身の、「開き直り」 とも言えるスタンスを有しているように見える。

 かつて庵野監督は自分が作ったエヴァを、「オナニーショウ」 と自虐しました。 旧劇場版のころです。
 つまり自らの深層心理にある恥ずかしい部分を惜しげもなく晒して、自らの中に潜む幼児性とか、モラトリアムの強迫観念を 「作品」 として昇華しようとしていた。 そしてそれは巡り巡って、エヴァに依存する、「大人になりきれないオタク」 に対する攻撃へと転化した。 近親憎悪みたいな感覚でしょうか(あくまで個人的な感想ですが)。

 庵野監督がどうして新劇場版を作ろうとしたのかを考えると、おそらく 「エヴァは儲かる」 という経済的な理由もあったでしょう。 新しいコンテンツを考えても、それが受け入れられる可能性には常にリスクがついてまわる。 特にアニメ制作というのはいろいろ大変ですから。 だったら観客の見込めるエヴァを使い回ししよう、と。

 それと、これは 「モノの作り手」 としてのとても便利な理屈なんだけれども、「この作品にきちんとケリをつけよう」「この作品を21世紀にも視聴に耐えうるものにしよう」、と。
 旧劇場版までのエヴァというのは、庵野監督みずからの幼児性に対する、自らのひとつの答えであった、と思うんですよ。 それは同時に、「大人になりきれない」 観客たちへのひとつの答えでもあった。
 しかし自分がいざ大人になってみると、この答えというのは、極めて狭義的で自己完結の域を出ない。
 いろいろと人とのあいだに壁を作ったりウジウジと悩みまくったりしても、結局それは他人から見れば 「気持悪い…」 んだと(「気持悪い…」 というのは、旧劇場版でアスカがシンジにつぶやいた、最後のセリフです)。

 で、再出発したエヴァですが、いざ始まってみると、旧劇場版のときと同じような反応がまるで判を押したように立ち上がる。
 謎に対する膨大な考察、膨大な感想、膨大な批判。
 却って現代では、旧劇場版のときと違ってネットが発達してますから、そういう観客たちの感想のうねりというのは、もうあっという間に拡散するんですよね。

 新劇場版というのは、その情報伝達の早さにも対峙していく必要性が生じている。
 庵野監督は、「序」 で 「この映画は単なるリメイク」 という静かな立ち上がりをしておいて、 「破」 で娯楽性に徹して観客を弛緩させたものの、「Q」 においては急転直下してそれまでの状況を完全にスポイルし、謎をどんどん増やしていって不可解な単語を羅列し、「見たくない人は見なくていい」「ついてこれる人だけどーぞ」 という過激な方向転換を展開している。

 これはある意味、「自虐的な傲慢さ」 を撒き散らしている、と言ってもいい気がします。
 どうせなにをやっても先まわりされて考察されまくる、ならもっともっと謎を増やして分かんなくしてやれ(笑)。 どーせ回収不能なんだから(言い過ぎか…笑)。 作品中で解説なんかするから考察されるんであって、だったら映画の中で説明すんのもやめよう(笑)。 きちんとケリをつけようと思って新劇場版も立ち上げたけど、よく考えたら完結なんかしないほーがいーじゃん(笑)。 いろいろリニューアルすればフィギュアも売れるし(笑)。

 まあ私も調子に乗って憶測しまくりしてますが(爆)。

 「Q」 においてそのいちばんの被害をこうむったのが、主人公の碇シンジ君であります(笑)。 彼は急転直下に至ったその経緯について、ほとんど何も知らされないまま、物語は鬱な方向に大きく傾いていく。

 この 「Q」 の最大の特徴は、前作から14年がスッ飛んでいる、ということです。 けれども、エヴァのパイロットたちは、「エヴァの呪縛」 という作用によって、14歳のままなんですよ。
 だからアスカもマリも14歳なんだけれど、精神的には28歳になっている、という感覚(ただマリに関しては、よく分からん…笑)。
 だけど、碇シンジ君はその14年のあいだ初号機に取り込まれて云々で(よー分からんが、コールドスリープみたいな感じ?…笑)まるきり体も精神も14歳のまま。

 私は思うのですが、今回 「Q」 の碇シンジ君というのは、自虐の末に少年のまま置き去りにされた、モラトリアムの残骸、なんですよ。
 確かにいつまでたってもアニメから卒業できない、少年の心を持ち続けたい、という願望のようなものは自らのなかに残されている。
 でももはや時代そのものが、高齢化と逆行するように、精神年齢だけが取り残されてガキっぽい社会を成熟させつつある。 「大人になれない碇シンジ」 というのは、実は分別もつけることが出来ない、大人になれない我々のなかで、「若さを失わない自分」 の自虐でもある。

 今回の 「Q」 を見ていて強く感じたのは、庵野監督の、キャラに対する距離が、とても遠くなっている、ということでした。

 アスカ(綾波レイはどうなのかな、彼女は再生を繰り返しているから)が14歳の体のまま28歳になっているというのも、逆説的な心と体の乖離を裏付けている設定なのだけれども、彼女たちに対する庵野監督自身の視点というのも、とても冷たい気がする。 以前はアスカもレイも、監督自身の分身、という感覚だったんですが、いまは物語を進行させるための、単なる人形、という、そんな 「遠さ」 を感じるんですよ。
 しかしそれ以上に、14歳のままで 「あのとき」 に取り残されている碇シンジ君に対して、庵野監督は徹底して冷たい。 監督は碇シンジを、苦々しく思っているのではないか。

 この、庵野監督が碇シンジに対して抱いている 「苦々しさ」 の象徴が、「Q」 で私がいちばん印象的に思った言葉、「エヴァの呪縛」 なんじゃないかな、と感じます。

 どちらもエヴァから離れられない。

 いつまでたっても、ガキみたいな煩悶に囚われて、物語を紡がなければならない。

 それには、ある種の 「開き直り」 という姿勢がなければ、完遂することが難しい作業なような気がする。

 私たちはだけど、いつまでたっても終わらないこの物語に、いつまでたっても成長しない碇シンジに、すでに愛想を尽かしています。 「もう今更どーでもよくなってきた、どーせいつまでたっても終わんないし」、と。 「ちゃんと終わらせるのが制作者たちの義務ではないのか?」 とまで考えがちだ。

 でも、心にどんな残骸を抱えていようとも、一歩一歩前に進まなければならない。

 どんな物語であろうと、「死」 によって解決する魂などあってはならない。

 それは 「死」 を万能視する考えからすれば、「単なる願望でしかないよ」 ということになるのかもしれないけれど、私たちはもう、すでにあまたの 「死」 によって生かされ続けていることに、気付いてもいいのではないだろうか。

 この 「Q」 という作品は、東日本大震災で制作が延期された、という経緯を持っているらしいけれども、その大震災だけでなく、戦争で死んでいった人たちによっても生かされ続けているし、なにしろ生き残った人々(先祖)によって、私たちの 「生」 が存在している、ということは確かだと思う。

 「Q」 のラストでとぼとぼとお互いを支えながら歩いていくこの物語の登場人物たち。
 そのキャラに対する庵野監督の目は、もうすでに登場人物たちと同じ目線には立っていないのかもしれないけれど、「それが人の世の生業なのだ」、という諦観を、私などは感じ取ったりするわけです。

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2013年4月28日 (日)

「テルマエ・ロマエ」 地上波初登場、見ましたよ

 はじめにお断りいたします。
 わたくし連休に入って(とはいうものの、明日からまた3日間仕事ですけど)かなり酔っ払った状態でこれを書いております。 「酔っ払ってブログを書くとは何事か」 とお怒りになるかたは読まんで結構(じぇじぇ、スゲーこと書いてるぞ!…爆)。

 1週間前にテレビでやってた、「テルマエ・ロマエ」。
 録画したやつをようやく見ました。

 かなり評判だった映画で、古代ローマ人が現代日本にタイムスリップして、日本の風呂文化に感嘆しまくるという内容は知っておりましたが、前半はかなりその内容通りのコメディで面白かった。
 しかし後半に入ると、前半のテンポの良さはだいぶなくなって、ちょっとアクビの出る展開。
 これを見たあとネットでの評判を調べましたが、ほぼ私と同意見のかたが多くて。
 ちょっとこのからくりについて書きたくなった次第であります。

 ただ全体的な評価で言いますと、まあ大ヒットする映画というものは、えてしてこういうもので…という感想しかございません。
 この映画の生命線は、発想の奇抜さによるところが大きい。
 古代ローマと現代日本の風呂における比較文化論、という切り口が極めて斬新なんですよ。
 それをコメディとして見せる、というエンターテイメントによって、この映画は人々の評判となるところとなった。
 その評判は評判を呼び、いつしかその映画の出来以上の動員数を得てしまう。
 フツー以上にヒットをしてしまう映画というのは、だいたいこんなものなのであります。
 結果的に、「これってそんなに評判になるような映画か?」 という感想を、ブームが去ったあとに見る私などの受け手は、感じてしまうのであります。

 ただまあ、つらつら考えるに、作り手は、この斬新な発想の話を映画にするにあたって、もっと 「意義のあること」 を肉付けしようとしたのではないか。

 それは、この主人公であるルシウスの人間的な葛藤と、日本民族の自己犠牲的な精神との融合です。

 これを肉付けすることによって、作り手は単なる比較文化論としてのこの物語を、なんとかひとかどのロジックを伴ういっぱしの映画として、成立させようとしたのではないでしょうか。

 これはいわば、諸刃の剣なわけでして、あまりに説教臭い人生訓などをコメディ映画に融合させてしまおうとすると、映画としての深遠さは増すけれども、テンポも面白さも失われてしまうことを覚悟せねばならない。
 映画人は、どうにか観客の興味を持続させたままで、自分が人生を生きているうえで言いたいこと、それを観客に諭さなければならない、そんな必要性に迫られるわけです。

 この映画は、後半に入ってそのことに挑戦しようとし、失敗している。

 で、作り手がどんな高尚なことを言いたかったのか、と申しますと、先に解説したように、「ルシウスの人間的な葛藤と大和民族の自己犠牲との融合」 だ、と私は考えるのですが。
 それをもう少し解説いたしますと。

 まず、この物語におけるルシウスという男は、古代ローマの浴場の設計技師なわけで、自分の才能の限界を思い知らされています。
 それがタイムスリップによって得た知識を古代ローマに持ち帰って皇帝の信頼まで得ていくのですが、ルシウスのなかでは、「これは自分の実力ではない、盗んだ知識で得ている評価だ」 という気持ちが消えないわけです。
 このルシウスの葛藤が、この映画の中盤から、物語を重苦しくさせていく主因になっている。

 それを救うための鍵として、映画の作り手が用意したのが、原作マンガには出てこない、上戸彩チャンだと考えることができる。

 この人、ルシウスがタイムスリップした場所に決まって居合わせる、という、まあコメディ的な手法から考えれば、「こーゆーのは深く考えないでください」 という立場の人なんですが(笑)、彼女はルシウスとコミュニケーションを取るために、映画の中盤でものすごいラテン語の勉強をするわけです。
 今回地上波初登場ということでカットされたシーンが付け足されたのですが、実はそのシーンが、上戸彩チャンがラテン語を習得していく過程。
 おそらく作り手は、ここで多少の迷いを生じたからこそ、このシーンを本編ではカットしたと考えられます。
 だからこのシーンがないことで、オリジナルの映画では、上戸彩チャンがラテン語を急に話せるようになって、急に物語が違う方向に動き始めた印象になる。

 ルシウスは先に抱いていた、剽窃による偽りの名誉、という意識以外に、女房に逃げられたとか、紛争を挟んだ皇帝との関係とかで、かなり落ち込むのですが、上戸彩チャンの励ましとか、どさくさで一緒に過去にタイムスリップしてしまった老人たちの力とかによって、「オールフォアワン、ワンフォーオール」 の精神を学び、立ち直っていくわけです。

 ここまでくると、この物語は原作をかなり離れた代物、ということになってしまうような気がしてくる。
 最近、このマンガの原作者のかたが、この映画で自分がもらった報酬がわずかなものだったと暴露して話題になっていましたけど、確かにこの話の発想の斬新さを考えればそれは少なすぎる、とは言えるけれども、映画の作り手のほうから言うと、「そりゃ最初のプロットはいただいたけれども、出来上がったのはこっちのオリジナリティによる結論の映画だ」 ということになりはしないかな、なんて考えたりしました。

 いや、でもそれは映画制作者のほうがゴーマンだろうな(笑)。
 もっと気前良く払いなさい(笑)。
 少なくとも閑古鳥が鳴いてたんじゃないんだから、成功報酬の上乗せくらいしてやんなさい(笑)。

 なんの話だ(笑)。 酔っ払ってワケ分かんなくなっとる(笑)。

 いや、だから、言いたいことを説教臭く言おうとするのは、難しいってことですよ(笑)。 特にこんな、コメディ映画ではね。

 どうも言いたいことが半分も書けなかった気がしますが、酔っ払っているので勘弁してください(ハハ…)。 見てすぐ録画消しちゃったし、もう細かいところ覚えてないし(イーワケしとる)。

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2012年1月25日 (水)

「かもめ食堂」 なぜなのか、は要らない

 「カーネーション」 の脚本家、渡辺あやサンの過去作である 「天然コケッコー」 がNHKBSプレミアムでやるので(本日1月25日夜9時より)、それを録画予約しようと思ったら、2日前(1月23日)に同じ枠でやっていたので 「どういうもんか、まあ見ても見なくてもいーや」 と思って予約を入れておいた映画。
 2006年の日本映画です。

 とは言うものの、舞台はフィンランド。
 なぜフィンランド?と思うことは、この映画に限っては禁物です。
 この映画、それだけでなくて、「どうしてなのか」 と理由を知りたがることを、まったく拒絶している映画だ、と言えるのです。

 で、「平清盛」 の第3回分を見ようと思ったのになぜかこっちに触手が伸びてしまい(これについても、なぜ?は禁句です…笑)、ちょっとのつもりで見出したら、なんか1時間40分、あれよあれよという間にすぎてしまって。

 結局全部見てしまいました(笑)。

 フィンランドで 「かもめ食堂」 という食堂を開いた日本人女性のお話。
 主人は小林聡美サン。
 開店から1カ月たつというのに、客はゼロ。 手持ち無沙汰にコップを磨いています。
 そこにいかにも日本アニメオタクみたいなフィンランド人の青年が入ってきます。
 Tシャツにはニャロメのプリント(笑)。
 そーか、「かもめ」 と 「ニャロメ」 の語呂合わせか…って違うって!(爆)
 その青年が 「ダレダ、ダレダ、ダレダ~」 と歌い出します。
 まあこれって若い人はどうか知りませんけど、「ガッチャマン」 の歌ですよね。 我々の世代には常識の権化であります。

 これをアニメオタクっぽい青年が、「この先を教えてくれ」 と言うのですが、小林サンもその先が分からない。
 まずこの時点で、はぁ?なんですよ(笑)。
 アニメオタクがこの歌を完全に知らない、というのも、小林サンの年代の人が知らないっていうのも、私にしてみりゃ 「あり得ねぇ~」。
 まあよほどガリ勉で(死語)テレビも見ないような人だったら分かるけど。
 女子だって知ってましたよ、「パンダちゃんの歌」 とか(元曲の替え歌です)。

 ただ小林サン、やはりその超常識が分からなかったことがとても気になったらしく、その後しばらく 「ダレダ、ダレダ、ダレダ~」 が頭の中を反芻し続けます(笑)。

 そんな小林サンの前に現れたのが、観光でフィンランドに来ていた日本人、片桐はいりサン。
 彼女に思わず 「ガッチャマンの歌」 の歌詞を訊いてしまう小林サン。
 それが縁で片桐サンは、小林サンの店を手伝うようになるのです。

 この映画、一事が万事この調子で進んでいくんですよ。
 深い事情とかの描写がまったくない。

 たとえば小林サンは、どうして1カ月もまるきり客のいない食堂を続けてこられたのか(食材を貯め込んでいるだけでも相当な出費になるはずなのですが)。
 もしかして経済的にとても余裕があるのか。
 宝くじでも当たったのか(笑)。

 片桐サンは、観光ビザで来ているならそんなに永久にこの店で働くことなんかできないのではないか。
 そもそもどうしてフィンランドまで来てるのか。

 この後ここにもたいまさこサンが加わってくるのですが、彼女をめぐる話はまたさらに不思議に包まれている。
 なぜなのかを考え出すと、特にもたいサンの場合は混乱を極めることでしょう。

 つまり事情を意図的に避けることで、普段自分がかかずらわっている社会とのつながりを、ふっと忘れさせてくれる絶大なる効果を生んでいるんですよ、この映画。
 この映画をふわ~っと1時間40分も一気に見させてしまったのは、そんな現実逃避っぽい、居心地のいい空間を作り出していることに、映画自体が成功しているからなのです。

 それは小林サンが作る、この店のメインメニューであるおにぎりを筆頭とした、フードコーディネイトが成功していることも大きい。
 ほんわかしてしまうんですよね。

 そんな現実離れした映画のなかで、「コーヒーは人に入れてもらうからおいしい」 とか、「人は変わるもんでしょ」 とか、ちょっとした話が自然と心の中に染みていく。

 忙しさにかまけていたからこそ、こういう映画が心に染みる時があるんですよね。

 それにしても、「平清盛」 のレビューが、また遅れそうだ…。

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2010年8月 8日 (日)

リーマンショック以降につくられた 「ハゲタカ」

 中国資本による日本企業買収、という新たなテーゼを提供しようとした、映画版の 「ハゲタカ」。
 ところが制作中にリーマン・ショックが経済の動向を大きく変えてしまい、大幅なシナリオの書き直しを余儀なくされた、という話であります。
 それも、(あっ、ネタバレです)そのリーマンショックの仕掛け人を鷲津(大森南朋サン)にしてしまう、という、大胆なお話に(笑)。
 その結果、今回の鷲津サンは 「腐ったアメリカを買い叩け!」 となるのですが(笑)、テレビシリーズで逆のことを見せつけられ続けてきた側としては、ちょっと胸のすく思い、というか。

 いずれにせよ、中国が共産主義から当の昔に脱却しているのに、相変わらず共産党が政治的主導権を握っている、という 「完全管理型資本主義」 みたいな不自然さというものは、この続編からもぷんぷん匂ってくるのです。

 ブルーウォールという中国政府が裏で管轄している投資ファンド会社が、日本のアカマ自動車という一流メーカーを買収しにかかるのですが、テレビシリーズと違っているのは、アカマ自動車は経営不振に陥ってはいるというものの、いかにも分かりやすい原因、というものがない。 テレビシリーズでは企業の私物化とか別分野に手を出して失敗とか、実に分かりやすい原因というものがあったのですが。

 このアカマ自動車の社長が、遠藤憲一サン。
 どうもいかんですなあ。
 なんか遠藤サンって、この手の社会派ドラマに数多くご出演され過ぎているおかげで、「アレ?『ハゲタカ』 でもどこかのエライ人じゃなかったっけなー、アカマにヘッドハンティングされたのかなぁ?」 などと一瞬混乱(笑)。 あ、あれは 「外事警察」 だった(笑)。

 そのアカマの役員として迎えられているのが、柴田恭兵サン。
 ブルーウォールの尖兵を務める劉一華(玉山鉄二サン)と戦うために、南の島でのんびりしている鷲津にホワイトナイトの要請をするのです。
 って南の島って、あ、あれは 「チェイス」 のARATAサンだったか(笑)。

 今回の映画のほとんど主役、とも思えるのが、この玉山鉄二サン。
 柴田サンは大幅に出番をなくし、大森サンも玉山サンの添え物みたいな感じだったよーな気が…。
 ところがこの玉山サン、素性がいっこうによく分からないのです。 私の頭が足りないせいでもあるんですけどね。
 映画ではその素性がきちんと説明されてはいたんですが、やっぱりその彼がどんないきさつであーなっちゃったのか、というのがきちんと見えてこない。 テレビシリーズで5回くらいでやったら、そこらへんの説明もついたんだろうなー、とは思いました。

 映画化された 「ハゲタカ」 でも一貫していたのは、日本企業や資本主義にとってもっとも大事なこととは何なのか、という視点でした。
 柴田サンが遠藤サンに力説していたのは、「企業は夢や希望を担う」、という視点です。
 鷲津の行動から見えてくるものはもっと屈折しているのですが、やはり資本主義にとって最も大事なものは何なのか、という点に、行動が集約されている。 鷲津のやりかたは常に逆療治、ショック療法なのです。

 そして玉山サンが企業買収で使った手口には、さらに屈折した形で、資本主義の問題点をえぐり出している気がする。
 玉山サンはアカマの派遣社員をやっていた守山(高良健吾サン)をスケープゴートにして、アカマの経営陣を揺さぶりにかかるのですが、この期間労働工という雇用のありかたには、かつての共産主義による資本主義攻撃のスローガン、「搾取」 という問題が象徴化されている気がするのです。
 玉山サンはそれを、「生ぬるい地獄」 と表現するのですが、これは実に言い得て妙です。
 労働者階級は、いくら時代が変わろうとも、経営者にいいようにこき使われ、懇親会とか飲み会とかの名目で、生ぬるく飼いならされている。
 いったい労働者にとって、労働価値の等価交換という課題は克服されているのでしょうか?
 映画のなかでは劉一華にあおられた守山がデモ組織を誘導していくのですが、たいていの会社に対する不満は、飲み屋での愚痴とか、仕事自体の改善要求、という部分で矛が収まってしまう。
 経営コンサルタントが法外な報酬を得ていることと、末端の労働者が働く対価と、天地ほどの隔たりがある、ということを、この映画では玉山サンがあぶり出しているのです。
 その問題を克服しようとした共産主義がさらに屈折した資本主義を生み出そうとしている。
 エライ皮肉な気がします。
 中国社会も、そのひずみが徐々に顕在化しつつある段階に突入しているのではないでしょうか。 劉一華がひとり、口封じのように消されてしまっても、その歪みは隠し通せるものではなくなってきている。

 いずれにせよ、投資家たちが目先の利益に固執して、ギャンブルみたいな投資に汲々としているようでは、健全な資本主義など育っていかない、そんな思いを強くした、今回の2009年版 「ハゲタカ」 なのでありました。

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2010年4月27日 (火)

「おくりびと」 親不孝してる身には、ちょっと堪えました

 TBSで放送した、映画 「おくりびと」。 「おくりびと」 のロゴが画面の右上に陣取ってうるさかったり、エンドマークも出なくて 「え、終わったの?」 って感じで終わっちゃうし、放送の仕方はサイテーでしたけど、映画のほうは、さすがに賞を100個も獲ったというだけあって、珠玉の出来でした。

 楽団員でチェロを弾いていた本木雅弘クンが楽団の解散に遭ってから里帰りし、納棺師という葬儀屋の一種ですか、そこに半ば騙されたようにして、なし崩しに入ってしまい、納棺の解説DVDに無理矢理遺体役で出たり、というところまでは、ちょっとマンガっぽくて、ずいぶん前に同じ本木クンが出ていた映画 「シコふんじゃった。」 みたいなのかなーと思ったんですが。

 ただ、そこから本木クンが社長の山崎努サンについて納棺師の仕事を覚えていくあたりは、とても興味深い出来事の連続で。
 腐食が進んでいる遺体の処理をした後、銭湯で何度も体を洗い、女房役の広末涼子チャンに取りすがって、「生」 の感触を確かめる、というシーンは、とてつもなくリアルでした。 おかげで、ヒロスエが本木クンに犯されるという、結構ショッキングな映像が、さほど気にならなかった(笑)。
 そしてそのヒロスエ、本木クンがひたすら隠していた夫の職業を知り、「触らないで!けがらわしい!」 と拒絶する場面では、普通だったらそういう反応をしてしまうのかな、なんて考えたりもしました。

 広末チャンから本木クンに突き出された問いは、「その仕事を一生に仕事にするだけの覚悟が、あなたにはできているの?」 というもの。 ただその仕事に興味を持ち始めていただけの本木クンにとっては、そんな重大な覚悟など、その時点ではあるはずもなく。

 それでも本木クンには、自分のしている仕事に別にけがらわしさも感じることがなく、人間の 「死」 というものの尊厳さに触れ続けてきた、この納棺師という仕事に対する誇りだけは、生まれつつあるのです。 だから山崎サンに仕事をやめると言いに行った時も、結局は言い出せずに終わってしまう。

 その時山崎サンは、フグの白子を食べながら、「これもご遺体だ」、だけど困ったことに、これがおいしいんだと、いたずらっぽい笑みを浮かべる。 なんとも説得力のある、変化球ではないですか。

 山崎努サン、と言えば、伊丹十三監督の 「お葬式」 にもお出になってましたね。 あのときは喪主で、今度は納棺師ですが、主題が葬式である映画、という点では、共通しています。

 話はそれますが、それと見ていて気になったのは、この映画にお出になっていた山田辰夫サンや、峰岸徹サンが、すでにお亡くなりになっていること。 たまたまなんでしょうが、ちょっと感慨深いものがありました。 山田辰夫サンは、チンピラ役とか、「傷だらけの天使」 の水谷豊サンみたいな役が、とりわけ多かった気がします。 なんだか心に引っかかる、印象的な脇役をなさっておられました。 峰岸サンは、ホントにしょっちゅうテレビで見ていたような気がします。 結構コミカルなこともこなす人でしたよね。 おふたりとも、この映画では、とても印象的な役をおやりになっていました。

 印象的な役、と言うならば、この映画の大きな特徴は、出演された役者サン全員が、印象的な役をされている。 おそらくそのほとんどの人が、死とかかわった役どころであるがゆえに、印象的にならざるを得ないのです。

 そのなかでも特に涙なしでは見ることができなかったのは、吉行和子サンの息子役だった、杉本哲太サンの演技。
 吉行サンがひとりで切り盛りしている銭湯を建て替えようとしていた杉本サンは、火葬場で母親の焼かれるところを、火葬場の職員で銭湯の常連だった笹野高史サンに頼んで見せてもらうのですが、笹野サンが点火のスイッチを入れた瞬間、「母ちゃん、ゴメン…」 と何度も詫びながら、泣き崩れるんですよ。

 私も、親不孝しているので、このシーンはただひたすら、号泣しました。

 それからは、なんか知らないけど、別に悲しくもないシーンでも、ずっと泣いてましたよ。

 で、本木クンが自分を捨てた父親(峰岸徹サン)の死を知り、最初は拒絶しながらも、結局父親のもとへ向かう。
 そこで本木クンは、自分の父親のおくりびとを買って出るのですが、父親が、何かしっかりと握っている。 それは幼いころに自分が父親にあげた、石文(いしぶみ、自分の思いを込めて渡す石)だったのです。 その時、すっかり忘れたと思っていた父親の顔が、鮮明に記憶の底から浮かび上がってくる。 そして本木クンは、その石を、自分の子供を宿した広末チャンのおなかに、そっとあてるんですよ。

 なんだか、ずーっと、泣きっ放しだったです、私。

 生きている人、死んでゆく人。
 それぞれにみんな、いろんな思いを抱えています。
 そしてとりわけ家族は、お互いに対して、「思い」 どうしで、つながっている。
 「死」 による別れというものは、その家族の 「思い」 を、改めて身をもって感じる、ひとつの契機なのではないでしょうか。

 いい映画でしたー。

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2009年11月 9日 (月)

「ダイ・ハード」 を久しぶりに見て感想

 金曜ロードショーで、「ダイ・ハード」 をやっていたので、ずいぶん久しぶりに見ました。

 吹き替えは、野沢那智サン。
 ブルース・ウィリスと言ったらこの人ですかね。
 村野武範サンがやっているものも見たことがありますが、野沢サンのほうがあってるかなー。 いや、失礼ながら、どちらとも、ブルース・ウィリスって感じじゃないんですが。 でも、「なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだよ~」 というのが笑えるのは、野沢サンに軍配が上がります。

 それにしてもこの吹き替えは、テレビで初めて放送した時のものでしょう。 確か淀川長治サンが解説してたやつが、ビデオで残ってると思うけど。 そう言えば、野沢サンが一時期ラジオの 「いう気リンリン 那智チャコワイド」 で、ご自分の吹き替えした作品を探しています、なんて言っていたことを思い出します。

 この吹き替え、野沢サンの部分はいいのですが、全体的な演出が、ずいぶん稚拙なもののように感じました。 というか、昔チックというか。
 なんとも大げさで、しかも半分ふざけているような感じ。
 あれー、もしかすると、大昔の淀川長治サンのやってたやつって、赤塚不二夫サンなんかが演出していたものがあったからなー。 もしかするとそのノリなのかなー。

 特に途中からでしゃばってくる警察署の上司やFBI、リムジンの運転手やコンピューターの電子制御を解除する犯人のひとり。 なんだかとても、おバカに見える。 まあもともとがそういう映画だったのかもしれませんが、そのおバカさをさらに強調しているような吹き替えで、以前は感じなかったのですが、それが今回はとても鼻につきました。 もしかして、赤塚サン、ゴメンナサイ。

 ただ、この一種ノーテンキな吹き替え版演出から今回感じたのは、犯人のハンス・グルーバーがジョン・マクレーンに 「カウボーイ君」 と呼びかけていたように、この映画はカウボーイ映画だったのではないか、ということです。 それならば登場人物たちの滑稽さも、納得がいく気がする。

 この映画は、脚本がとても緻密で、いろんな伏線が交差しています。 当時単なるアクション映画だと思って見ていた私にとって、衝撃的な一作でした。 この映画がなければ、「24」 などは存在していなかったでしょう。 それほど 「ダイ・ハード」 以前と以降では、アクション映画の質が変わったように、私には思えます。 何回見たかなー。 5、6回じゃききません。

 公開当時、永六輔サンが自分のラジオ番組(「だれかとどこかで」 だったと思います)で、滅多にこの手の映画を褒めない人が褒めちぎっていたことを思い出します。 そんなに面白いのか、じゃ見に行こう、ってな感じで。

 それにしても今回の金曜ロードショー、マシンガンをぶっ放すシーンとか、画像処理が行われていたような感じがします。 光の点滅を見せないようにしているような。
 確か2、3年前だかちらっと見た 「エイリアン」 のクライマックスシーンでも、そんな画像処理が行なわれていました。

 ポケモンのあの事件から、光の点滅をテレビで見せないようになったのは分かるのですが、「ダイ・ハード」 とか、この程度でも処理がされているのかーと感じました。
 個人的にはなんだかなーと思っています。
 だって昔は普通に見てましたよ、「エイリアン」 なんかでも。 確かはじめにテレビで見たのが、中学生の時だったと思いますが、あの光の点滅には、ムチャクチャ緊張を強いられたことは覚えていますが、それを見て気分が悪くなったりは、しませんでしたよ?

 気分が悪くなったのは、「プロジェクト・ミネルヴァ」 ってゲームやった時が最初でした(笑)。

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2009年7月 8日 (水)

映画 「レット・イット・ビー」 私情レビュー

 全オリジナルアルバムのリマスター版の話題ですっかり忘れ去られた格好になっているが、画質を向上させたDVDが待ち遠しい 「レット・イット・ビー」 の映画版。

 だが、おそらく発売までに、いろんな障害が横たわっているのだろう。
 それほどこのプロジェクトには、遺恨が渦巻いているのだ。
 数年前に、ほとんどポールの遺恨を解消する目的で作られたかのようなCD 「レット・イット・ビー…ネイキッド」 で、映画版の発売にようやくこぎつけたように思えたのだが。

 ここは正規のDVDを我慢する意味も含めて、私の手元にある画質の悪い保存版(VHS標準)(四半世紀前くらいにTBS深夜に放送されたノーカット版)で、私情を大いにはさんだレビューを書いてみようと思う。

 まずユナイテッド・アーチスツのマーク。
 映画 「レット・イット・ビー」 は、リンゴのバスドラの、「THE BEATLES」 のロゴの大写しから始まる。
 それを運び、回転いすを取り付けるのは、ローディのマル・エヴァンス。 クレジットに、プロデューサー、ニール・アスピナルの名前。 ビートルズを陰で支えてきた、同志のそろい踏みには、二人とも亡くなってしまった今、妙に感慨深いものがある。
 ポールの物悲しいピアノを傍らで見つめるリンゴ。 そこにジョージがやってきて、リンゴと一緒にカメラの前でニッコリ。 ポールのピアノの哀しい旋律と、ジョージたちの笑顔が見ていてちぐはぐで、グループがバラバラだという象徴のように、個人的には思える。

 画面はジョンが歌う 「ドント・レット・ミー・ダウン」 に切り替わる。
 ジョンの左わきには、ヨーコの姿。 ポールとジョージも合わせて、この4人は結構な至近距離で、車座になって向かい合っている。 特にポールは、ヨーコとのあまりの距離の近さに、ずいぶんストレスを感じていたであろう、と察することのできるシーンだ。
 完成バージョンでは聴くことのできないワウワウペダルを多用したギターの音色が、何となくメンバーの苛立ちを助長するかのようにも聴こえる。

 続いて、「マクスウェルズ・シルヴァー・ハンマー」。 「G,B,Em…」 と歌うポール。 途中からポールがピアノに変わっているので違うテイクということが分かる。 歌詞つきになるが、それでもまだ半分出来上がっていない状態。 マルがリズム感の悪いハンマーを叩く。 間奏は口笛。 リンゴのハイハット以外、全体的に、ダラダラした演奏。

 そのあと、ジョージがマイクをつかむと、感電するというシーン。 トゥイッケナム・スタジオの機材状態の悪さがうかがわれるシーンだ。 スタッフがしっかりつかんでもなんともなかったため、ジョージがもう一回つかんだ瞬間、ハウリングとともに、またビリッ。 どうも、ジョージがそのとき手にしていたエレキ・ギターとの関連性が疑われる。 なにしろ、ジョージのテンションは、これでまた下がったことだろう。

 続く 「トゥ・オブ・アス」 は、ひとつのマイクにジョンとポールが顔をつき合わせて歌う。 このビートルズ初期のようなスタイルには、ちょっと演出気味なところもあるが、素直に感動してしまう。 アレンジは、最終的なものよりずいぶん激しく、ブギウギ調。

 そして 「アイヴ・ガッタ・フィーリング」。 最初からジョンとポールのダブル・コーラスで始まる。 演奏後、途中のリンクでのジョンのギターについて、そのチョーキングの仕方をポールが何度もジョンに説明する。 ポールは、手のひらで 「こんな感じ」、と言いながら、ジョンに教えるのだが、なかなかうまくいかない。 それでも、ジョンは何とかポールのイメージを形にしようと、何度もチョーキングを繰り返すところが、印象的だ。 レコードではその結果を聴くことができるが、この映画のシーンを思い起こすと、完璧としか言いようがないチョーキングだと思う。 アレは、やろうとしても、なかなかできない難しいチョーキングだ。

 「オー!ダーリン」 のさわりの部分だけピアノで歌って、「ワン・アフター・909」 についてのインタビューを受けるポール。 「昨日の夜聴いたけど、あの曲はよかったよ」 というスタッフに、「なんでそう思うの?初期の曲だよ」 と、結構きつく反発している。
 ポール 「あの歌は、歌詞がおかしかった。 『彼女は9時9分の次の列車で旅に出る/どいてくれよハニー、オレもそれに乗るんだ/ちょっとどいてくれ/もうちょっとどいてくれ/頼むよベイベー、氷みたいに冷たくしないで』」
 ここでちょっと笑って、まるで作曲者のジョンをバカにしているような感じ。
 間髪をいれずにおなじこの曲が流れるので、なんだかジョンが気の毒になるような編集の流れだ。

 続いてポールのピアノのところにリンゴが「ご機嫌いかが」 とやってきて、ブギー調のピアノ連弾を繰り広げる。 個人的には、中学校のピアノなんかで、よくマネをして弾いたものだ。

 「トゥ・オブ・アス」 の演奏をさえぎって、ここで、例の、ポールとジョージの口論である。 (追記・コメントを寄せてもらった匿名様の助言により、ちょっとネットで調べた結果、だいたいこんなことを言っていたことが明らかになりました。 匿名様、誠にありがとうございます!)
ポール 「もう1時間も何のアイデアもないまま、ただダラダラやってる。 リフはさあ…」
ジョージ 「リフもクソも…きみの言うとおりがんばってますよ」
ポール 「ちょっと待てよジョージ! "You and I have memories"のとこさ、」
ジョージ 「"memories longer than the road…"」
ポール 「待って、そうじゃなくて…しっくりこないから演奏もまとまらないんだ、このままじゃ…」
ジョージ 「じゃあまた続けるかい?」
ポール 「じゃあやめようか? 『もう無理だ!』って言ってさ」
ジョージ 「きみの納得がいくまでやるさ…ここにテープレコーダーがあればなあ…まずは録音して、それを聴けばアイデアも出るんだけど」
ポール 「それもいいけどさあ…」
? 「オレも賛成だな」
ポール 「なんて言うかさ…ちょっとアレンジが複雑になり過ぎたかもね…だからさ、1回全部バラして、基本から肉付けしていきたいんだ、そしたらいいアレンジも浮かんでくるよ。 ちょっと複雑になり過ぎてるからね」
ジョージ 「複雑なんじゃないさ。 きみがいちいちウルサイのが原因だよ。 なんならずっとコードだけ弾いててやるよ、それがお望みならね」
ポール 「なあおいジョージ、すぐにひねくれるのはやめてくれよ! オレは助言しているだけなんだ。 これでもきみを傷つけないように気を遣ってしゃべってるつもりだぜ」
ジョージ 「オレが何を言っても気分が悪いんだろ?」
ポール 「別にそんなことないよ! オレが言いたいのはさ…」
? 「ノイズが気になるなあ…」
ポール 「そんなことじゃないんだよ。 そういうつもりで言ってるんじゃないんだ。 きみはいつもオレの言葉を悪い意味で取るよな。 こないだもそれで揉めたよな。 だけどきみを傷つけるつもりなんてないんだよ。 オレが言いたいのはさ、『なあみんな!バンド全体のことを考えようぜ、力を合わせていいものを作っていこうぜ』 ってことだけなんだよ」
ジョージ 「笑わせるなよ、オレは自分のギターがどう使われようが知ったこっちゃないんだ」
ポール 「言いたいことは分かるよ、たとえばこういう議論だろ? 『ヘイ・ジュード』 の全編にギターを入れるべきか?いやそうは思わないな、みたいなさ」
ジョージ 「あのさあ、そんなの、もうどうでもいいんだよ。 きみの言われた通りにやればいいんだろ? いっそギターなんか弾かなくてもいいんだぜ、もしオレがジャマだって言うんならね。 きみのご機嫌を取れるならオレは何だって言う事を聞いてやるよ」

 ここでジョンがようやく割って入り、「テープの音を聴けばいいよ。 そうすればギターの音が合ってるかどうかも分かる」 ととりなす。 ポールの服装が違っていることから、これは違う場面を編集している、という意見もあるようだ。
 ただしいずれにせよ、ポールはジョンがしゃべっているあいだ、ずっとベースでアドリブを弾きっぱなし。 とてもまじめにジョンの話を聞いているようには見えない。 雰囲気サイアク。

 ジョンは構わず、「『ぼくの世界は変えられない』(「アクロス・ザ・ユニヴァース」)をやろう」 と言って、歌い出すのだが、演奏はダラダラ。
 後年ジョンが、「オレの曲をやり始めると、みんなサボタージュ状態になった」 と話していた、象徴的な該当シーンだ。
 また編集なのか、シーンはいきなり 「ディグ・ア・ポニー」。
 ただしポールは演奏にも加わらず、あくびをしては、かみ殺している状態。 途中からベースを弾きだしても、口をポカーンと開けたまま、まるでやる気が見られないのだ。 ここらへん、ジョンのファンにとっては、見ちゃいられない。 ジョンもそのあまりのテンションのない演奏を途中で打ち切り、ロックンロールのオールディーズでメンバーの士気を上げようとする。
 「スージー・パーカー」 ラストの「ダダダダダダ」 のコーラスは、なかばヤケ気味なポール。

 ジョージがリンゴに 「へヴィー・ワルツだよ」 と言って聴かせるのは、「アイ・ミー・マイン」。 リンゴは手拍子でうながすけど、これもなんか投げやりが入ったようなアクションで。 途中からテイクが変わって、ジョンとヨーコが踊るのだが、ジョンってこの曲のレコーディングに、最後までちゃんと加わってなかったように見える。

 トゥイッケナムの 「使えねえ~」 スタジオから、現場はアップル社のスタジオへ移動。
 「フォー・ユー・ブルー」 をバックに、建物の正面入口に歩いて入っていくポール、車から降りてイタズラっぽく、かくれんぼのしぐさをするリンゴ、ロールスロイスから降りて、地下に入っていくジョンとヨーコ、自分で車を運転してきたジョージ、それぞれの登場の仕方がいい。
 アルバムの最初にジョンが叫ぶ 「アイ・ディグ・ピグミー」 の部分の映像も流れるが、なんかその映像、実際にしゃべっているように見えない。 たぶんあとからかぶせたんだろう。
 ポールがジョンに、「マハリシのところでは、君は芝居がかっていたよ、『先生、教えてください』 みたいでさ」 などと話して、ジョンを笑わせる。 「ベサメ・ムーチョ」。 まるでバリトン歌手みたいな歌い方で、またまたジョンを笑わせるポール。 トゥイッケナム・スタジオの寒々しさからは、ちょっと解放されたような感じだ。

 続いて、リンゴのピアノにジョージがアコギで合わせる、「オクトパス・ガーデン」。 サビの前の部分のメロディに、ピアノでコードを弾きながらアドバイスをするジョージ、この映画で初めて見る、心温まるシーンだ。 これを見ていると、ジョージが自分の頭のなかにあるコード進行のイメージを、キーボードで表現することができた、ということが分かる。 ただ、この曲のオリジナル・キーはEだが、この映画のなかでは、Cで演奏されているので、ジョージもイメージを具体化しやすかったのだろうが。
 リンゴがピアノ、ジョージがアコギで合わせているところで、ジョンとヨーコがスタジオに到着、ジョンはリンゴのドラムセットを叩きはじめる。
 ところが、ポールが娘のヘザーを連れてスタジオ入りすると、演奏は唐突に終わってしまうのだ。 なんとも気まずい。
 皮肉なところを、映画スタッフは撮ってしまったものだ。
 ただ、ポールが連れてきたヘザーは、とてもかわいい。 ドラムをいきなり叩いて、リンゴをびっくりさせたり、場を和ませるのに、一役買っている。 たぶんポールがヘザーを連れてきたのは、そういう目的があったのだろう。

 曲は、「ユー・リアリー・ガッタ・ホールド・オン・ミー」。 メンバーにとって、特別の思いのある曲だ。 出だしでまたダラダラ気味なのだが、ジョンが何とか盛り上げる。 ジョージもフルでコーラス参加するが、2番の歌詞はちょっとあやふやで、首を傾げたりするところ、なんかカワイイ。 ビリー・プレストンが参加しているのが、途中から分かる。

 そして、「ザ・ロング・アンド・ワイディング・ロード」。 ジャズ風なおふざけをポールがたしなめて、ちゃんと演奏が始まったかと思ったら、途中でそのポールがふざけ出して、中断。 ちゃんと歌うには、ちょっとコッパズカシイ部分があるのかな、と思ったりする。

 その恥ずかしさを振り払うように、曲は 「シェイク・ラトル・アンド・ロール」「カンザス・シティ」。 「カンザス・シティ」 は、「フォー・セール」 のヴァージョンではない。 ぐるぐる回り続けるヘザー。 足だけ見えるのは、たぶんリンダだろう。 ヨーコが出ずっぱりなのに、リンダはあくまで顔を見せないのが、ちょっと感心する。 メドレーで、「ミス・アン」。
 続いて、「ディグ・イット」。 完全ヴァージョン。 みんなノリノリなのに、リンゴだけテンション低かったり。
 「ディグ・イット」 が終わると、ポールがジョンに、おそらくルーフトップライヴの説得をしている。 「ハンブルグでも最初はナーバスだったけど、最後は上手くいったんだから、きっと今回もできるよ、でなきゃ永久にライヴはやりません、ってことになる」

 そしてちゃんとした形で 「トゥ・オブ・アス」「レット・イット・ビー」「ザ・ロング・アンド・ワイディング・ロード」。 リンゴの物悲しい表情が、なぜか心に残る。

 そして、この映画のハイライト、ルーフトップライヴの全貌。

 時期はロンドンの一番寒い1月終わり、街の人々の反応を見るのは実に面白いのだが、当時の人々にとって、「レット・イット・ビー」 の頃のビートルズの音楽は、どう響いていたのだろうか、ということを、私はいつも考えながら、この映画を見てきた。

 要するに、「ホワイト・アルバム」 で一種先祖がえりみたいな傾向は示していたとはいえ、この頃のビートルズは、サイケ時代の完璧さからは完全に脱皮してしまっている。 ましてや、このころのビートルズの掲げていたテーマは、「原点に帰れ」 である。 20代後半を迎えていたビートルズが、また大衆のものに戻りつつある、という感覚だったのだろうか。

 いずれにせよ、今の感覚でルーフトップの曲を聞くと、楽曲的にとても優れていることに、いまさらながら気づく。 私もガキだった頃は、グループの分裂状態や、やる気のなさに気を取られていたが、「アイヴ・ガッタ・フィーリング」 などはとてもキャッチーな曲だし、「ワン・アフター・909」 は、初期には結構かったるい曲だったのを、とてもタイトな曲に変身させている。

 さてこのルーフトップライヴ、途中から撮影班は警察の動きを追っていくが、それがいかにもわざとらしい。 ジョンか誰かが話していたが、もっと過激に、メンバー全員逮捕とか、もっと過激な方向に行ったら面白かろうな、とは思うが、「これでオーディションには受かったかな」 というジョンのラストの一発は、そんなわざとらしさを一掃させるユーモアにあふれていた。 やはり、ジョンは、神がかっている。

 この映画を見ていて思うのは、映画自体が、ひとつの楽曲のような気がするところだ。 1曲1曲のつなぎの部分も一種の音楽みたいに聞こえる。 この録画されたものの以前に、かまやつひろしサンがナレーションを務めていたテレビのヴァージョンがあって、それをカセットテープに吹き込んで何十回となく聴いたせいだろう。

 ただ、こんな聴き取れる部分だけの意訳しまくりの字幕より、ちゃんと細かいところまで聴き取った字幕付きのものを世に出すことで、メンバーの確執についてもっとちゃんとした考察がなされるべきなのではないかと、思ったりもする(追記・匿名様の助言により、相当細かく聴きとりのできているDVDが発売されていることが分かりました。 ひょっとすると、将来発売される正規のDVDよりすごいかも。 ただ、画質は悪いようです)。
 いずれにしろ、この 「レット・イット・ビー」 は、きちんと画質も音質もデジタル・リマスターおよびサラウンド化をほどこして、一刻も早く出すべきだ。 でないとみんな死んじゃうぞ(笑)。

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2009年6月19日 (金)

「ルパン三世 ルパンVS複製人間」 ルパン自体が複製だった

 1978年に公開された、「ルパン三世」 の劇場公開映画第1作目、「ルパンVS複製人間」。 第1作目だったからというのもあるが、当時は単純に、「ルパン三世」 という題名だった。

 この作品を初めて見たのは、当時故水野晴郎氏が解説をつとめていた、日テレの 「金曜ロードショー」 だった。 あれ? 「水曜」 だったっけな?

 水野晴郎氏は、そのとき確か、ルパンが最後にマモーと対決するのに、次元の制止を振り切って言ったセリフについて言及していたと記憶している。 それは、ルパンの存在意義にもかかわる重要なセリフだった。 子供心に、水野サンという人は、この映画のキモとなる部分を的確にとらえている、と感心したものだ。

 ところで、この映画におけるルパンの顔は、いまさらながら考えてみると、ほかのどのシリーズにも出てこないような、特殊な顔をしている。
 だがだからと言って、これはルパンじゃない、という声を、公開当時から、私はあまり聞いた記憶がない。

 これって、結構不思議だ。

 もともと、この映画が公開されるときに、ことさら強調されていたように記憶しているのは、「これは大人向けのルパンです」 みたいな宣伝文句だった。 だから、当時子供だった私たちにも、「じゃ顔も違って当たり前か」 みたいな暗黙の了解みたいなものができていたように思える。

 当時中学生のガキだった私を魅了したのは、その大人っぽい作りもさることながら、全体に流れる、動画としての表現方法の、ある種の過激さだった。

 冒頭から、いきなりタテ線が何本も現れる。 なんだろうとおもっていると、それが死刑台への13階段だということが分かる。 また、スポットライトを浴びた部分だけが着色されず、線だけの映像になる。
 ルパンや次元のタバコを吸うところをはじめとする、登場人物のしぐさの、あまりの決まりよう。 セリフひとつも、洗練されていて、そんなに何回も見たわけでもないのに、実に印象的で覚えているセリフの、多いこと多いこと。
 ガードレールを伝って走るカーチェイスなどは、「カリオストロの城」 のカーチェイスよりも勝っている、と個人的には思う。
 さらには、マモーの城における、シュールレアリズム絵画の転用。
 マモーが火に包まれて死ぬ瞬間は、これこそアニメでしか表現できないシーンだ、と言っても過言ではない。

 それに、話自体が、やたらとスケールがでかい。

 当時確か、クローン技術というのは、ようやく現実的になり始めたばかりのころだったと思う。 だから、マモーのクローン技術には、ちょっと荒唐無稽なところも、今から考えると確かにあるのだが、マモーの意識が1万年も続いている、神の領域である、という話のスケール感は、当時の中学生には、あまりにもショックだった。 マモーが最後、巨大な脳ミソになっている、という展開の仕方も、当時にしてみれば、ハリウッド映画も凌駕する発想だった、と思えてならない。

 とどめに、三波春夫氏の破壊的なパワーも、子供心には相当加味されていた。
 当時、音頭というのは、実に前近代的に私たちの世代はとらえていたが、それをまさに逆手に取った、この映画のエンディング曲、「ルパン音頭」 は、こんなのもありか、という衝撃を、私たちの世代に与えた。 たぶんこのインパクトが、「20世紀少年」 などにも受け継がれている気がする。

 今にして思うと、Aプロダクション、という、高畑勲氏や宮崎駿氏の作りだした、または、当時テレビで頻繁に放送されていた第2シリーズの赤ルパンの、変にヌルいルパンに、当時の私はすっかり洗脳されていた、と言っていいだろう。

 今、第2シリーズのルパンをたまに見たりすると、かったるくて最後までとても付き合っていられない。 だが、当時はそれが、まるで金科玉条のように、「ルパン三世」 の王道に見えていたのだ。

 この 「ルパンVS複製人間」 は、その当時の私の認識を根底から覆すほどの、エネルギーに満ちていた。

 だから、ルパンの顔が違うとかいうこだわりなど、どこかにふっ飛んでしまった、と言っていい。

 要するに、「ルパン三世」 というのは、山田康雄サンなどの、声優陣がそのまま出ていれば、キャラクターデザインなどどうでもいいのだ、という認識を、当時の中学生は、強く持ったのだった。

 事実、このあとも、さまざまなキャラクターデザインのルパン三世が登場した。 モンキー・パンチ氏のルパンにいちばん近いのは、なんといってもピンクのスーツのテレビシリーズだと思うが、だけど、見ている側からすれば、そんなこたどうだっていいのである。

 ルパンは、無限に複製されている。
 そう考えると、この劇場公開映画第1作目のルパンというのは、マモーではなく、ルパンの今後を暗示していたようにも思えてくる。

 ただ、この映画のインパクトがあまりに強すぎたせいで、宮崎駿氏が手掛けた次作、「カリオストロの城」 は、単なるお姫様救出の話みたいで、いかにもヌルいルパンの代名詞みたいな印象を持たざるを得なかった。
 公開当時、ちっとも支持されなかったゆえんである。

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2008年12月20日 (土)

「Mr.インクレディブル」 から三浦友和サンの思い出

 日テレ金曜ロードショー 「Mr.インクレディブル」、見ました。
 主役の男女ふたりの吹き替えが結構ハマってて、声優にしてはあまり聞いたことのない声だったので、誰かと思って、見ている途中で調べたら、三浦友和サンと黒木瞳サンでした。
 ああ、調べるんじゃなかった(笑)。
 分かった途端、ふたりの顔がちらついて、映画に没頭できなくなってしまいました。 声優が誰か分かってしまうって、どうなんスかね。 って調べた自分が悪いんですけど(笑)。

 三浦友和サンは、実はずっと昔、私ファンでした。
 それは私が、山口百恵チャンのスッゲエエエーファンだったことがそもそものきっかけであります。
 だから今も、ほんとうは陰ながら、友和サンを応援していたりして。

 友和サンが歌も歌っていたことを知っている若い世代は、あまりいないんじゃないでしょうか。 ネットで調べりゃすぐ分かりますけど。
 1976年ごろ、ラジオの文化放送で、日曜朝10時から(だったっけな?)「三浦友和と仲間たち」 っていう番組をやっていて、「今月の歌」 というのを、自分のバンドを率いて歌っていました。 番組名と同じタイトルのアルバムも出していた、と記憶しています。
 確かその 「今月の歌」 というのは、リスナーから歌詞を募集して、それに友和サン、かバンドの誰かが曲を作る、という企画でした。 結構エア・チェック(死語? ラジオ番組を録音することです)をして何回も聴き込んだものです。 だから今でもそのうち何曲かは、ソラで歌うことができます。
 いい歌あったよなー。 「エニシダの木陰」とか。 「水たまりのステップ」 とか。 もおおー、誰も知らんかー(笑)。 誰か、知りませんかー(笑)。 思い出共有、しませんかー(笑)。

 その番組に、百恵チャンがゲストで来たことがありました。 確か 「赤い疑惑」 の最終回から間もなくのころ。
 ふたりでその最終回の大島幸子が死ぬシーンを聴きながら、「よく録れてたねー」 とか感想を言いあったり、ドラマ主題歌 「ありがとうあなた」 を流しながら、百恵チャンが、幸子と同じ白血病で入院している女性から、番組に寄せられた手紙を読んだりしていました。
 その手紙のひと、今どうしているんだろう? もう亡くなってしまったのだろうか、とたまに考えたりします。 それとも 「作り」 だったのかも?とか。

 「エニシダの木陰」 という歌も、6年前に死んだ姉のことを書いたリスナーのお便りをもとに、作られた歌でした。 当時はやけに、陰気で深刻な内容の投書が多かった気がするのですが、それが本当なのかどうか、未だに判然としないところがあります。

 さて、友和サンの歌い方は、性格そのままの、クセのない、悪く言えばなんの毒もないような歌い方。
 聴く人の心をわしづかみにするようなインパクトには、正直言って欠けていました。
 だから当時も、一般にはあまり知られることもなく終わった気がします。
 その後友和サンがアガペ・ハウスというバンドを結成した時にも感じたのですが、ロック的なものを目指しているようで、どうもちぐはぐ、という感じでした。
 それもこれも、友和サンのクセのなさすぎる歌い方に原因があった気がします。

 俳優としての友和サンも、そのクセのないさわやかさが逆にアダになって、面白みのない時期がありました。 百恵チャンとの共演をしていた時期でも、あえてそれを打ち破るためだったのでしょう、「泥だらけの純情」 ではヤクザの役をやったりしたこともありました。

 友和サンはそのさわやかなイメージと同時に、百恵チャンの夫、という、男としてはあまりありがたくない肩書と、闘っているようなところがあった気がします。

 それが、相米慎二監督の 「台風クラブ」 で一皮むけて、それからはちゃんとしたひとりの俳優として、認識されるようになったのではないでしょうか。

 「Mr.インクレディブル」 の吹き替えは、最初彼がやっていると分からなかった私の先入観なしの耳に、はからずもその実力の証拠を、改めて見せつけたのでした。

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